ミックス・ブラッド   作:夜草

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咎神の騎士Ⅱ

神縄湖

 

 

「おにぃ、おにぃ!」

 

「ほれ、今度はこれだグレンダ」

 

「なに……これ?」

 

「これは魔女のお菓子なのだ。ねればねるほどおいしくなるぞ。こうやって……ねるねる、っと、ほい、食べてみろ」

 

「おいしー!」

 

「そっか。じゃあ、今度は自分で練ってみるのだ」

 

「ねるー! ねるー!」

 

「そうだぞー、この調子で練るのだグレンダ」

 

「だー!」

 

 

 唯里の前で様々な化学反応を試せる知育菓子を、これでもかと満喫する少年と少女。

 童心に帰って……というか、童心そのものだろう。

 鋼髪の少女は口元を汚すも、それを銅髪の少年がハンカチで拭く。まるで兄妹のようだ。彼女の謎の言動には唯里も首を傾げるところだが、少年は普通に意思疎通が取れているようで、精神年齢が近いからかすっかりと意気投合している。

 

 今、唯里は大きなかまくらの中にいる。

 訊けば、彼がこのかまくらを超能力(スキル)でお手軽に造ったそうだ。はたしてこの“敷かれているふかふかの天然羽毛”はどこから持ってきたのだろうかと疑問は尽きないところであるも、まず気になるのはその鋼色の髪をした少女の事だ。その着せている唯一の服装である法被は元々彼のものであることから、きっと唯里が意識を失っているときに保護したのだろう。

 

「ん、お前もお腹減ってるのか?」

 

 似合わぬ古傷が刻まれたその童顔を、ぼーっと注視してるとこちらの視線に勘付いた彼がこちらを向く。

 弟と同じ年下の少年であるというのに、女子校生活の弊害からか彼と目を合わせると妙に慌ててしまうというか、別にこのかまくらが彼の部屋だというわけでもないのだけど、こう彼から薫ってくる匂いになんか緊張(ドギマギ)してしまう。

 

「え、あ……」

 

「じゃあ、これを食べるのだ。疲れたときは糖分摂取が重要だって、この前テレビで言ってたのだ」

 

 そういって、バックパックをごそごそと漁り、板状のそれを唯里へ抛る。

 

「おやつは500円までだからアスタルテあんまり入れてくれてないけど……チョコがあったぞ」

 

 間違ってもこれは遠足などではないし、わりと事態も切迫していたような気がする――“今も魔獣の群に囲まれている状況に変わりがない”――のだが、彼の落ち付きっぷりをみてるとそれほど大したことないんじゃないかなー、と思えてくるのがあら不思議。

 

 こうして改めて対峙して、強い、と認識し、息を呑まされる。

 きっとここまで心を落ち着けていられるのも、その纏う気圏が大地にしっかりと根を張った大樹のような安定感があるからだ。言動は無垢であるも、仕草や物腰はそれに反して心強さを覚えるものだ。

 

 そして渡されたチョコを一口齧り、段々と血の巡りが調子を取り戻してきたところで、唯里は状況を整理できるだけの余裕を持てた。

 

「えー、っと、南宮クロウ君、だっけ?」

 

「う。そうだぞ。お前はなんていうんだ?」

 

「あ、そうだね。私は、羽波唯里……それで、あなたがもしかして、あの<黒妖犬(ヘルハウンド)>?」

 

「ん。そんな風に呼ばれてるな」

 

 躊躇いがちに訊けばあっさり頷く少年。その正体は、現代の殺神兵器と言われる混血の獣王。しかし、実物を見ると禁呪で制限を課さねばならぬほど大層な怪獣(もの)には見えない。同じ人間。それも、何も言わず寒風が入らぬよう出口前を背で蓋をするように座っている、さりげない気遣いの出来る好青年である。

 

「その、謝って済む話じゃないけど……さっきは話も聞かずに斬りかかっちゃって、それも凪沙さんを助けてくれた恩人なのに、すみませんでした――!」

 

「ん、いいぞ。勘違いは誰にでもある。それに、姫柊は殴って、煌坂は蹴って、師家様は扉をぶっ飛ばしてきてきたけど、獅子王機関は一回喧嘩をしたらいい奴だってわかるのだ」

 

「その河原で喧嘩交流(ドラマチック)方式みたいで納得されてるのは気になりますけど、何か重ねてすみませんでした――!」

 

 がばっと頭を下げる唯里を、物珍しいものでも見たように二回ほど瞬きしてから、こくん、と頷く。そして、目線の高さまで低くなった唯里の頭にペタペタと触れる少女。

 

「だ? だー?」

 

「わっ!? なに!?」

 

 じゃれつかれた唯里はそのまま少女に押し倒されるように身を天然羽毛に埋める。

 埋もれながら、少女と目が合い、あどけない眸で見つめ返され―――瞬間、唯里は奇妙な幻視に襲われた。

 霊媒の感性が勝手にそれを読み取る。息が詰まってしまいそうな、強烈な悲嘆と悔恨を。

 

「……かはっ……!」

 

「羽波っ!」

 

 雪崩れ込んでくる生々しい感情に押し潰されかけたそのとき、ひょいっとクロウがコートの襟元をひっつかみ少女を唯里から離す。

 幻視から覚めた唯里は、時計の長針が一周半ほど回るくらいの時間をかけて、息を整える。呼吸が落ち着きを取り戻しても、凄まじい寒気と息苦しさは残り、まだしばらく全身を震わせる。

 

 世界そのものが大きく振り子となったように揺れる視界、異国の雑踏にひとり取り残されたように耳に入っても解せない雑音が脳を叩いてきて―――異様に鮮明な映像が脳裏にフラッシュバックする。

 

 地の世に赤い海に取り残された、小さな都市。

 カーボンファイバーと樹脂と金属と、見知らぬ異界の技術によって生み出された人工の島。

 この世界のものではない叡智により異常なまでに突出して発展した街並みは、この世界のすべてを敵に回した騒乱によって破壊され、荒れ果てた残骸が散らばる廃墟と化している。

 無残に崩壊した瓦礫の上に、ひとりの少年が立ち尽くす。

 彼は真紅に染まった空を見上げ、声も出ない慟哭を叫ぶ。

 胸を抉る傷口から、ドス黒い血を流しながら。

 折れた槍を握り締めたまま―――

 

「あんまり見入るな」

 

 パンッ―――! と眼前での拍手に、ハッと幻視()光景(もの)にめり込んでいた意識は現実に引き戻される。

 

「オレの目を見て、落ち着くのだ」

 

 唯里は猫騙しをかけた相手の円らな瞳に、未だ揺れる自身の瞳孔(ピント)を合わせた。

 邪念の濁りが一滴も視えない、曇りなき金眼。そこに鏡映しされる唯里の顔が段々と元の調子を取り戻していく。

 

 今の景色……この子の記憶……?

 

 混乱から立ち直り、そしてたったひとつだけ理解したこと。

 それは、唯里に見せた幻は、目の前の少女のもの。彼女に染みついた記憶の残滓を、霊媒としての力が拾い上げてしまったのだろう。

 

「ん。落ち着いたみたいだな」

 

「あ、うん……」

 

 そこから引き揚げてくれた少年の眼差しから、ついっと気恥ずかしげに逸らし、放心していた唯里を不安げに覗き込んでいる少女に合せる。少しだけ無理をした笑みを口元に浮かべ、

 

「あなたの、お名前は?」

 

「ぐれんだ」

 

 唯里が眠ってる間に行われたからか、二度目の自己紹介はスムーズに応えられる。

 

「グレンダ? それがあなたの名前?」

 

「だー、ぐれんだ」

 

 刻々と何度も頷く少女、グレンダ。

 名前を呼ばれるだけでもうれしいのか、目を細めて笑うグレンダ。その尻尾を振ってその嬉しさを表現する子犬を連想させてくるような純粋な喜びように、今度こそ自然に朗らかな笑みを浮かべられた。

 

「グレンダ、羽波はまだ病み上がりだから無理させちゃダメだぞ」

 

「だー、おにぃ……」

 

「おにぃ……この子は、あなたの妹さん?」

 

「ん、違うぞ。オレに弟妹(したのきょうだい)はいない。グレンダがそう呼んでくるのだ」

 

 言いながらも、先からのやり取りは、無知な妹を世話する兄という関係性に唯里に見える。

 精神的に幼げな彼らを見てると和む。好意を覚えるが、それよりも愛着が湧いてくるというか、母性のようなものを刺激される感覚だ。

 と気の緩んだところで、ぶるっと寒気が襲う。

 

「くしゅん」

 

 調子は復帰したけど、掌はしっとりと汗ばんでいて、まだ唇は青褪めているだろう。これは精神的によるものではなく、肉体的に感じる寒さのせいでもある。

 かまくらの中は、極寒の中心地点(グラウンド・ゼロ)の『神縄湖』でありながらも快適だが、衣類が濡れたままで、肌寒い。温かいからこそ、その冷たさは際立つようで。

 けど、その自分よりも薄着で身を風除け(ドア壁)にして寒波に曝されている人物がいるのだから、このくらい我慢しなくちゃ贅沢だろう。

 

「寒いのか?」

 

「え、ううん! ぜんぜん、大丈夫!」

 

「うん。寒いなら寒いと言えばいい。オレは慣れてるから平気だけど、羽波は大変だろ」

 

 唯里の強張った辛抱に呆れたように嘆息して、クロウは彼女の肩に手を置く。

 ジュワッ、と蒸気が噴く。なんと、制服コートの湿り気が乾燥したのだ。

 

「!? なにこれ!?」

 

「オレは<過適応者(ハイパーアダプター)>でもあるのだ。『嗅覚過適応(リーディング)』の発香側応用(アクティブ)で、服に染み込んでた水分に『匂付け(マーキング)』して、飛ばしたのだ」

 

「よくわからないけど、すごい……」

 

 自然物に干渉する高位精霊術と同等以上の現象を起こせるその超能力を器用にも操った。大したことのないように語るも、それは全然大したことではないだろうか。

 いや、そんなことよりも……

 

「これも飲むのだ羽波。オレの後輩(アスタルテ)が淹れてくれたお茶だ。身体の中からぽっかぽっかするぞ」

 

 とまたバックパックを探って取り出した魔法瓶の水筒。コポコポと一緒に取り出した紙コップに茶を注ぎ、はい、と渡される。両手で受け取った唯里は、まだ湯気立つ液体を口に含み、爽涼感が吹き抜ける葉の薫と共に嚥下。身体の内側から温められたように、ホッと一息つく。

 

「ほれ、グレンダも飲むといいぞ。ぽっかぽっかだ」

 

「ぽっかぽか! おにぃ!」

 

「ちょっと熱いから、ちびちびっと飲むんだぞ」

 

「だー!」

 

 一服しながら、唯里は思う。

 ……本当になんだろうか、ジェントルマン。

 なにこのすごい紳士っぷりは!? 年下なんだけどさっきから包容力がありすぎではないか!?

 この行動に他意の『た』の字もあるはずがない。そう、男性のそういう邪念の入った視線に敏感な女子校通いの巫女としてそういう察知ができない。間違いなくこれを素でやってるのだ。唯里よりも過敏なルームメイトも触れられて気づかないというのにすごく納得。

 それに彼が間近になると香る体臭は、不思議と心地良い。森の中にいるように爽やか。そして、唯里には比喩的にキラキラと煌めいているようで、まるで少女漫画に出てくるような―――

 

「ぁ……ハッ!? ぅぅ、だめだめ。なんでこんな時に何を考えてるの私!?」

 

「あう? いきなりなんだ、どうした羽波?」

 

 急に顔面を紅潮させたり、蒼白にさせたり、起きてから表情を二転三転とさせる剣巫の絵面に、“朴念仁”と称されている少年は首を傾げさせながら心配するのであった。

 

 

 

「よし!」

 

 パンパンッ、と頬を叩いて任務に余計な念を払う唯里。

 獅子王機関の剣巫として、気合を入れ直した唯里は、質問する。

 

「それで、先ほどの“影”はどうなったんですか?」

 

 気を失う直前に見た、巨大な影絵。

 神緒田神社の巫司・暁緋紗乃が曰く、この地には災厄が眠る。

 それが真ならば、“あれ”――おそらくは『龍族(ドラゴン)』がそうなのだろうか。

 本物の『龍族』は、攻魔師である唯里にもほとんど未知の存在だ。南米『混沌界域』や暗黒大陸(アフリカ)の奥地に少数だけ生き残っているとも、すでに絶滅したとも言われているが、その実態は不明。時として人類以上の知性を持つ彼らは、魔獣と魔族の境界線上に位置する種族であり、その戦闘力は『旧き世代』の吸血鬼をも凌ぐと言われている。“災厄”というには相応しいものだろう。

 もしその『龍族』が神緒田地区に出現したとなれば、獅子王機関や『特殊攻魔連隊』による包囲網だけで防ぎ切れるとは思えない。

 国防の一員として、それは看過できず、事実であれば早急な対応をしなければならない。

 

「南宮君。私たちを襲おうとしたのは、『龍族』でしたか?」

 

「? オレたちを襲おうとはしてないぞ。余所者から“護ろう”としてたのだ」

 

「え?」

 

 首を捻りながら、唯里の記憶が正しいと語り、けどそれは間違いと指摘される。

 

「『龍族』は、護るものだろ」

 

「護る……もの……?」

 

 衒いもなく一言で簡潔に説くクロウの言葉に、唯里は困惑する。

 

「ん。お宝を奪おうとするやつからお宝を護るのが『龍族』だとオレは教えられた。だから、余計な手出しをしなければ大人しくなる。退治する必要はないと思うぞ」

 

「でも、<黒殻>の中に封印されている『聖殲』の遺産があると言われています。殺神兵器(大きな力)を獅子王機関は放置することはできません」

 

「ここに在るのは殺神兵器じゃないのだ」

 

 剣巫としての解答に、足元の凍られた湖面に視線を落としながら黒妖犬はまた誤りを正す。

 

「センパイは早とちりしたみたいだけどな。もし、殺神兵器だったらもう眠らされているぞ。だから、ここにあったのは封印じゃなかった、って証明されるんじゃないのか」

 

 『原初のアヴローラ』を永遠の『眠り』につかせるために造られた『十二番目』であれば、殺神兵器を封印できる―――それが正しいのであれば、『十二番目』の魔力で封印できなかったものは“殺神兵器ではない”という筋立ては屁理屈などではなく、正論である。

 

 6000万tを超える人造湖の湖水すべてを氷結させるほどの膨大な魔力は、確かに『十二番目』のものだ。

 だけど、現実に獅子王機関が目論んだ<黒殻>の再封印は失敗し、魔獣の大量発生を引き起こしてしまった。

 

「<蜂蛇(あいつら)>は吃驚して暴れただけ。誰だって眠ってるときに、ぴたって冷たい氷を当てられたら驚くだろ。だから、一度落ち着けさせたから、“余計な真似をしなければ”すぐ悪さをすることはないぞ」

 

「確かにそうですけど……」

 

「だいたい獅子王機関が“なんで慌てている”のだ?」

 

 これまで獅子王機関の活躍を見てきた者は、言う。

 

「獅子王機関にとって魔導災害の封印は日常茶飯事なんだろ。剣巫の姫柊は、世界最強の吸血鬼と言われてる第四真祖(古城君)をひとりで斃せる監視役だし、世界最強の魔獣(リヴァイアサン)を対処させようと派遣させたのは、舞威姫の煌坂たったひとりだった―――世界最強(それ)くらい大変な脅威ってのは、オレもあんまり想像できないけど、ここには自衛隊もいるみたいだし、『三聖』とかいうすごいのもいる―――なのに、どうして、フォリりんの船で上空から見てた時に思ったけど、獅子王機関(おまえら)が<蜂蛇(あいつら)>にてんやわんやになってるのが、オレにはすごく不思議だ」

 

 素直な疑問を投げかけられて、唯里は言葉を失う。

 大きくても精々4m程度の<蜂蛇>。4000mもの『蛇』と比較すれば千分の一。数こそ多いようだが、それでも総量では世界最大の生体兵器の方が遥かに勝るだろう。

 そのときでさえ獅子王機関が派遣したのはたったひとりの舞威姫で、今回は出現を確認されてもいない魔獣に対し、剣巫と舞威姫、さらには『三聖』が獅子王機関から参加させている。言われてみれば、それは過剰な戦力だが―――“それで相応”と上層部が予測していたのだとすれば―――しかし、ならばこの魔獣の群に対してあまりにも脆すぎるし、対応も遅い。

 手を抜いているのか、と疑われてもいいくらいに不可解だ。

 

 殺神兵器と想定された正体不明の魔獣に対し、獅子王機関は破格な人員を投入し、自衛隊とも連携を取る。

 そこまでは納得できたのだとしても、群であっても一個体あたりの戦闘力が獅子王機関の見習い攻魔師で対処できる脅威度(レベル)の魔獣で壊滅している現状だ。対殺神兵器を設定した軍隊(むれ)でここに来ているというのに……

 逆に上層部が迂闊にも正体不明の魔獣を対魔獣用兵装なしで対処できるのだと予想していたのだとすれば、獅子王機関が『三聖』まで出張るのは聊かいき過ぎている。

 

 この浮き彫りにされてくる今回の作戦への違和感に唯里は、額に手を当てて考え込む。どうあっても、納得のできるような答えは出ない。もがけばもがくほど嵌るアリジゴクのように、考えるだけ深みに落ちていく。

 

 誰か……自分以外に関係者の意見を訊いて……と判断を迷う唯里の耳に聞こえてきたのは、彼女の心象の五里霧中に明るい光を差し込んでくれる同期の声だった。

 

 

 

「唯里ーっ! どこだーっ!」

 

 

 

「この声は、志緒ちゃん……!」

 

 きっと自分を捜してくれてたのであろう相方(パートナー)に、すぐその心配を払拭せんと唯里は出口に座すクロウを押し退け、かまくらから飛び出した。

 

「ここだよー! 志緒ちゃん!」

 

 

 

 ……ゆい……りー……!

 

 両手でメガホンを作り大声で呼びかけながら、しばらく声がしたほうへと走っていると、白霧の向こうから人影、声から想定した通りの斐川志緒が現れた。

 銀弓を携えながら辺りを警戒していた彼女も、こちらの姿を見かけると真っ直ぐに駆け寄ってきた。唯里も待たずに走って彼女の元へ―――

 

「唯里っ! 無事かっ!?」

 

「うん、私は大丈夫だよ。それより志緒ちゃんの方は?」

 

「ああ、あたしも問題ない。基地の方が魔獣にやられてたけど、いきなりどっかに行ったからな」

 

 抱き合い、互いの無事を全身から伝わる実感でもって確かめ合う。

 よかった。志緒が無事で。

 ルームメイトに怪我がないことを心底から喜ぶ唯里は。

 

 

 そいつから離れろ! と焦った声が耳朶を叩いた。

 

 

「え?」

 

 咄嗟に振り向く。

 視線は遠く、白霧の向こうでおぼろげに映る人影へと向けられる。

 

 ―――すれ違うように、軽い飛翔音と共に飛来する半透明の何か。

 それは真っ直ぐに唯里の方へ向かってきて―――

 

 ドンッと。たった今自分が迎えた少女の額を打ち抜いた。

 

「え―――」

 

 唯里は呆然とそれを見た。半透明で棒手裏剣のようなそれは、かつて師家様が見せてくれた霊弓術と似ていて、そして、それが相方を攻撃した。

 唯里は親友から目を離し、改めてそれが飛来した方向に目を向ける。見据えた先にいたのは―――

 

「南、宮君」

 

 険しい顔をした、<黒妖犬>だった。

 

 

神縄湖付近 渓谷

 

 

「―――自己診断(セルフチェック)実行中。駆動系、電装系共にクリア。破損したモジュールを切り離せば、おそらく再起動は可能でござろう。各種センサーの類は再調整が必要なれど、ソフトウェアで補正可能な範囲でござるな」

「オーケー、そっちはあたしがやるわ」

「かたじけない。では拙者はシステムの再起動プロセスを開始するでござる」

「超特急で終わらせるわよ―――それまで頑張ってスワニルダ! でも無理はしないでね!」

 

 神緒田地区全域に大規模な『人払い』の結界が張られていたが、欧州ネウストリアに軍事顧問としていた雇われていたという世界屈指の法奇門使いが監修した対結界のプログラムでそれを突破。

 しかし、軍事企業ディディエ重工製のティルトローター<パンディオン>が、突然、未確認移動物体(アンノウン)に襲撃を受けて墜落。

 上空1000mから投げ出された有脚戦車(ロボットタンク)は、姿勢制御用のブースターを吹かしながら、四基の非常用パラシュートを展開。落下速度は殺せたものの、降下先は気流の荒れる山間地帯。凄まじい横風にパラシュートが引き摺られて横転。脚部の衝撃吸収機構(ショックアブソーバー)と着陸用エアバックは、完全に役に立たない体勢に倒され、

 また着陸地点が、樹木の密集した山林であったころから、木々の弾力で有脚戦車はピンボールのように何度も撥ね飛ばされた。

 最終的に深い谷底に落下した<膝丸>は、あちこち破損していたが、大破には至らず、電源はまだ生きている。しかしながら、魔力を帯びた霧の影響で、電波障害も発生しているせいで、動かすには要修理点検だ。

 

 そして、この間にも飛空機体を撃墜した未確認飛行物体はこちらに迫っていた。

 

「―――命令受託(アクセプト)

 

 お嬢様の命令を受けた白髪の人工生命体の頭上で、太陽を翳る銀黒色の巨大な影。

 それは、魔獣。

 翼長14、5mにも達する巨大な翼、鎧のような鱗と、分厚い刃のような蹴爪で武装した日本の後ろ足。鞭のように伸びる太い尾と、肉食のトカゲに似た凶暴な顎。

 

 『飛竜(ワイバーン)』。

 

 天空から舞い下りてくる巨大な魔獣は、かつて戦争の道具として猛威を振るった『飛竜』であった。その戦闘能力は、飛行系の魔獣の中では文句なく最強クラス。本物の『龍族』には及ばなくても、他の魔獣とは一線を画す。

 魔獣退治の専門家である太史局の六刃神官であっても、『飛竜』を撃破するには集団でかかるほどの強力な魔獣。単独で挑むなど自殺同然。

 

(また、データーベースに検索されても該当なし。生体障壁の術紋及び魔力組成が通常の魔族とはかけ離れています。新種という可能性もありますが―――そして―――)

 

 さらに警戒を高めさせるのは、『飛竜』の背中に騎乗用の鞍が着用されている―――つまり、竜を御す乗り手が存在するということ。

 据えつけられた鞍上に、騎槍(ランス)を構える騎士。

 漆黒のマントを羽織った黒銀(くろがね)の竜騎士。

 

(危険―――あれは、お嬢様(マスター)に会わせてはいけない」

 

 相手の正体は不明。戦闘力も測れないが、その強さの性質が、どこか異常で異質。

 しかし、この環境はスワニルダに好条件。

 魔力の濃い霞は、周囲の魔力を吸引する疑似永久機関を持ってる彼女には、エネルギーに利用できるのだ。

 

状況開始(スタート)

 

 黒銀の竜騎士は、『飛竜』を自らの手足のように操り、不可侵犯の浅葱たちに襲い掛かろうとするが、ディディエ重工製の追加飛行ユニット<鶯丸>による小回りの利く高速機動で小刻みに切り返しながら、翻弄する。

 

「セット―――」

 

 『飛竜』の眼前に投じられた銀色の金属筐体に包まれたコンパクトな物体―――それは、大晦日前日に大掃除の報酬として暁深森よりいただいたデジカメだ。小型スマートフォン程度のサイズに、ごつい大口径のレンズがついている日本では未発売のMAR社の最新機種『ζ(ゼータ)9(ナイン)』。

 防水耐衝撃処理が施され、幾多のセンサーを搭載。ネット接続も可能で、撮像素子も高性能。そして、最大の売りは新型のDSP。独自設計の積和演算回路を積んでおり、コードの実行効率が概算で二桁上昇している。

 ―――その『ζ9』に極細の糸が接続されており、相手の面前で連写。秒間に60で焚かれたシャッターフラッシュの目晦ましを黒銀の竜騎士はもろに喰らう。

 

「っ!?」

 

 閃光に怯んだ隙に、宙空でこちらを見下す飛竜の背面に回り込んだ人造人間(ヒューマノイド)

 そして、その機翼に付属された発射砲より、網目状に広がる特殊粘液を、竜の飛翼へ浴びせる。

 

「戦術オプションD8を選択。執行せよ(エクスキュート)、<絡新婦網(ウェブシューター)>」

 

 暴徒鎮圧用に開発された特別性の粘液弾は、発射され空気に触れた瞬間に固まり、その耐久度は鋼鉄並。強力な接着性をもっており、どんなものにもくっつく。摂氏550度の高熱にも融解しない、数時間の時間経過による自然消滅でしか相手を解放させない、自然界・科学界問わず世界最強の繊維である蜘蛛の糸―――それで、スワニルダはまずは機動力を奪う腹積もりであった。

 

 大翼の羽ばたきに枷が張り付かれ、飛行に支障をきたし、乱気流の山間上空にてその巨体を支える強大な揚力を維持できず、失速し、錐揉みし、そして落ちる。

 

 ドッガシャアッッッ!?!?!? と渓谷の尖った岩肌に身を削るように火花散らして落ちる『飛竜』

 

 ―――だが、地に堕ちた『飛竜』は、まだ原形を保っている。

 

「対象の脅威度判定を更新」

 

 冷静に相手の戦闘能力を見極めんとする機械化人工生命体。

 いくら強靭とはいえ、単なる生物に過ぎない『飛竜』が、きりもみ回転しながら脳天真っ逆さまに渓谷へ墜落して無傷で済むとは思えない。

 ―――ならば、“対竜に特化した兵装”で仕留める。

 

変形加工(ディフォーミン)、<水銀細工(アマルガム)>―――執行せよ(エクスキュート)、<殺龍鍍金(アスカロンプレーティング)>」

 

 魔力生体金属である左腕を竜殺しの断頭刃(ギロチン)に形を変えさせ、渓谷に急下降しながら一気に『飛竜』へ振り下ろす。機械人形(オートマタ)の人工筋肉で強靭な膂力だけでなく、重力を味方につけたその一刀が、分厚い鱗で守られた竜の頭部めがけて―――寸前、黒銀の竜騎士が振るった騎槍によって、砕け散るように飛散した。

 

「な―――」

 

 拮抗は、刹那の事だった。左腕が変じた凶器が、騎槍に合わさった瞬間に、びしりと亀裂が入る。破損はそれにとどまらず、剣腕を構成する液体金属を血肉の如く噴きだしながら、まるで硝子のように砕け散っていった。

 

「無駄ダ」

 

 黒銀の騎士が、乱れて判別を誤認させる声紋で呟く。

 抑揚からは何の感情も窺えず、それ故に絶対的な響きを帯びて、極冷の大気に流れた。

 

「魔族ニ、我々ハ負ケナイ」

 

 真理のように。

 摂理のように。

 

 『霊血』は、不滅であり、“学習する生きた金属”だ。取り込んだ金属の特性を得る。

 かつて堕ちた英雄の巨剣を吸収した。原本(オリジナル)よりも純度が落ちる鍍金(にせもの)だとしても、それは『旧き世代』の眷獣を討伐する<殺龍剣>の性質を獲得している。

 なのに、特別に力を篭めてるわけではない、奇怪な波動を放つ騎槍の軽い薙ぎ払いに砕かれた。

 あまりに異質。そして、その異質さに対抗する手段がない

 

「あ、ああ―――これでは、また―――マスターに―――捨て―――」

 

 だがそんなことより、肉体的なダメージよりも、恐怖が思考を占める。

 腕はまた復元できるものなのだとしても、左腕を一撃粉砕されて―――“主人に捨てられた”彼女の過去はまだ拭えていない。スワニルダは、その恐怖に視界が真黒となる。

 

「ああああああああああああああっっ!!!」

 

 鋼鉄の強度の粘着網を『飛竜』は馬力でもって強引に引き千切り、両翼を大きく広げると、啼き震える人工生命体(ホムンクルス)を嘲笑うように咆哮する。

 

「……コイツ……使エルカ……」

 

 黒銀の竜騎士が、頭部(うえ)から爪先(した)まで憐れなお人形を品定めするよう睥睨した。音もなく飛翔した『飛竜』が、そのままスワニルダの方へと突っ込んでくる。

 騎槍の切先は、迷いなくスワニルダの心臓へと向けられていた。それでもスワニルダは動けない。理不尽な強者に敗北し、“出来損ない”と捨てられた過去の恐怖(トラウマ)が蘇ったせいだ。動くべきなのに、全身に力が入らない。

 自分の胸元へと迫る騎槍の輝きが、スワニルダの瞳にスローモーションで映っている。

 

「ソノ“情報”、私ガ役立テテヤル」

 

 ああ……

 また、自分は“エサ”にされるのだろうか。使えなければ、取り込まれるだけ。それは、前と変わっていない―――

 

 

『ちょっとウチの子に何してんのよっ!』

 

 

 怒声と共に、何かがこちらへ物凄い勢いで駆け抜けていく。

 『飛竜』の背後に真紅の有脚戦車が、残っていた最後のロケットブースターを使って猛接近し―――思いっきりぶつかって吹っ飛ばす。有脚戦車も激突で装甲にダメージを負うが、『飛竜』を撥ね飛ばして、スワニルダから距離を離すことに成功した。

 

『攻撃は最大の防御! いくでござる! 起動確認。全武装ロック解放、自律射撃管制装置(オートファイアコントロール)標的指定(ターゲットロックオン)!』

 

 次の瞬間、銃声と爆発音が山中の森に木霊する。有脚戦車に搭載されるすべての武装を一斉発射したのだ。

 純粋な射撃兵器による弾幕。同時に戦車背面ポッドより発射される戦車の正面装甲すら撃ち抜く対戦車成型炸薬弾頭(ロケットミサイル)は、『飛竜』の硬質な片翼をあっけなく風穴を開けると爆発四散した。

 

『効いているわ、<戦車乗り>!』

 

『火力を強化してきた甲斐があったでござるな! ―――おっと、女帝殿、警告が』

 

 と有脚戦車の主砲が『飛竜』の胴体を撃ち穿ったところで、停止。累積したダメージに無理矢理な突貫からの一斉掃射の反動が響いたか、操縦席のモニタは警告に埋め尽くされ、頼みの綱の射撃管制装置が停まった。

 

 そして、彼女たちの運の悪さはそこで終わらなかった。

 

「貴様ラ、ヨクモ私ノ“情報”ヲ……」

 

 『飛竜』が突き飛ばされた地点、そこはちょうどつい先ほど撃墜された浅葱たちの乗っていた多目的輸送機(ティルトローター)――ディディエ重工製<パンディオン>があった。

 不時着したがまだかろうじて原形を保ち、修理をすればまた動けるかもしれない。しかし、今は墜落した航空機の残骸に、黒銀の竜騎士は騎槍を突き刺し、

 

「……神ヨ、我ガ神ヨ、我ニ報復ノ力ヲ―――」

 

 なっ!? と浅葱とリディアーヌが、恐怖に声を歪ませた。自分たちを乗せていたティルトローターが、水銀のように融け崩れたのだ。小型とはいえ戦車を収納できるその機体は十数mと巨大な輪郭が融けた飴のように流動して、その質量が丸ごと、『飛竜』の巨躯に溶け込んだ。

 

『なに……あれ? 錬金術……なの!?』

 

 異様な光景に、誰もが混乱を隠せない。

 無機物を己のものとして吸収する歪な魔術―――それは一見、錬金術師が使う術理に似ているが、しかしまず錬金術の効果は、複雑な機械には及ばない。

 だが今、竜騎士が行ったのは、『飛竜』の受けた損傷(ダメージ)を埋め合わせるだけではない。補填するだけに留まらず、さらに『飛竜』は巨大化したのだ。

 多目的輸送機という人工物が持つ重量・速度・力強さ(パラメーター)までも取り込んだかのように、『飛竜』の姿形が拡張される。

 

 そう、あれはもはや『飛竜』などではない。

 体長は20mを超え、形態も太く肥大化する。鋼鉄と竜鱗が交わった合金の如き外骨格は、そう、魔獣を除き、地球上で最大の動物である鯨。欧州ネウストリアに伝わる神話に出てくる『化鯨(ケートス)』と化した。

 

『スワニルダ―――』

 

 そして、呆然と糸が切れたように動けないでいるスワニルダに、主人が告げる。

 

『―――あなただけでも逃げなさい』

 

 役に立てなかった人形は、それを最初は幻聴と捉えた。

 『人形師(マイスター)』から『欠陥製品』と烙印を押された罵声を、また己の都合のいいように解釈したのだと。

 

『ですな、女帝殿。我らが楯となっている間に撤退召されよ! 女給殿の<鶯丸>ならば逃げ切れるはずでござろう!』

 

 空を泳ぎ、辺りに暴風を起こす『化鯨』。

 その荒ぶ嵐除けの壁となるようスワニルダの前に有脚戦車は移動する。

 

『早く、此処から離れてスワニルダ!』

 

 震えて動けぬ人形を叱咤するお嬢様の声。

 その必死さにようやく、『彼女は自分を助けようとしている』ことを理解する。

 それを純粋に疑問に思った。理解できない。何故()が恐怖を塗り替える勢いで脳裏を占めていく。

 

「なぜですか、お嬢様(マスター)? あなたには私を助ける合理的な理由はないはずですが?」

 

『こんなときに何言ってんのよ! 知らないわよそんな事!』

 

「ですが、私は人工生命体(ホムンクルス)です」

 

『何言ってんの。それこそあたしがあなたを見捨てる理由にならないでしょうが!』

 

 ふんっ、と『馬鹿馬鹿しい』と言わんばかりに荒めの鼻息をマイクが拾う。戦車複座コクピットにいてみえないが、お嬢様が顔をしかめているのが予想付いた。

 

『あたしは保育園のころから絃神島で暮らしてんのよ。あなたが人工生命体(ホムンクルス)だろうが機械人形(オートマタ)だろうが魔族だろうが全然まったく関係ない。あたしが助けたいいと思ったら助けるの! 『魔族特区』育ちを舐めないでよね!』

 

お嬢様(マスター)……あなたは……」

 

 スワニルダの無機質な瞳がかすかに揺れた。

 

 

 

「やれやれ……そのようなガラクタを乗り回し、無様を晒しているかと思えば、人形を庇うとは、俺ですら罵倒を控えるほどだ、人間」

 

 

 そして、森閑を震わした浅葱の大声は―――ちょうどそこを散策していた凶王子の元まで届いていた。

 

「しかし、このような無礼(バカ)者を、これ以上野放しにしておけるものか」

 

 正面モニタが金一色に染め上げられたかと思えば、浅葱たちの有脚戦車の前に現れたのは、白衣姿の少年。

 ジャッカルの姿をした<ドゥアムトエフ>、

 ヒヒの姿をした<ハピ>、

 ハヤブサの姿をした<ケベフセヌエフ>、

 木乃伊(ミイラ)の臓腑を守護する天空神(ホルス)の四人の息子たちの名が付けられた、濃密な魔力に紡がれ絢爛な黄金の眷獣三体を従える、デタラメな力を持った吸血鬼。

 浅葱が知る限り、これほどの眷獣を従えている吸血鬼は、ディミトリエ=ヴァトラー、ジャーダ=ククルカン、そして、<第四真祖>暁古城だけ―――即ち真祖に匹敵する力の持ち主だ。

 

『貴殿……その姿、まさか……コーカサスの……』

『―――コーカサス……まさか『滅びの王朝』の……!?』

 

 リディアーヌの呟きに反応した浅葱はその正体を悟り驚きの声を発する。

 コーカサス地方は、中東を統べる『第二の夜の王国(ドミニオン)』の支配地域のひとつ。

 その出身であり、年端もいかぬ少年の姿をして、真祖に匹敵する力を持った吸血鬼で該当するのはただひとり。

 イブリスベール=アズィーズ。

 第二真祖<滅びの瞳(フォーゲイザー)>の直系の二世代吸血鬼。

 

「ほう、極東の僻地に、この俺の顔を知る者がいたとはな。まあいい、下がっていろ小娘ども。なに、元より我が『滅び』の命より、『咎神』の騎士を糺せと命は受けていた。このようなきまぐれも構うまい」

 

 凶王子が軽く腕を振り、眷獣たちに攻撃を命じる。

 純粋な魔力の塊である眷獣の攻撃は、生身の魔獣ごときに防げるものではない。そして、王族である凶王子の眷獣は、巨大な戦艦をも一撃で沈め、城塞に隠れようがそれごと消し飛ばすほどの破壊力を有する。とても個人相手に召喚するような眷獣ではないが、ひとたび命を受けたのならば、20m級の海獣であろうと肉片ひとつ残さず、この世から抹消するだろう。そう、本来なら、秒殺で蹂躙劇は終わってもおかしくなかった。

 だが、『化鯨』は耐えきった。地上に降り立った黒銀の騎士が漆黒のマントを展開して、闘牛士よろしく三体の攻撃をいなしたからだ。

 マントの裾が虚空を包み込むように展開されたその空域が、イブリスベールの眷獣の立ち入りを拒む。厚みを持たない薄膜だというのに、オーロラ状の虚無の障壁は、煌めく閃光と化した眷獣らの神々しい巨体であっても破れない。

 騎士が広げた奇怪なオーロラには、眷獣が放つ魔力を消滅させる効果が付与されているのだろうか。

 が、それを見ても、凶王子の嘲笑はますます深くなる。

 

「一瞬で楽に屠ってやろうと慈悲を与えてやったつもりだが、刃向かうとは、身の程知らずだな下郎! 臓物を引き摺り出せ、<雷酸の王蛇(メルセゲル)>!」

 

 新たに召喚されたのは、猛毒の瘴気を纏う蛇身を持った巨大な王蛇(コブラ)

 

 瞬間、それと真正面から相対した『化鯨(ケートス)』は、蛇女の首を直視して石化したかのように、硬直する。

 

 <雷酸の王蛇>は、元々イブリスベールの眷獣ではない。イブリスベールを謀略に嵌めた裏切りの第二王女を『同族喰らい』して、奪った眷獣だ。

 その力は、空気感染する強酸性の猛毒。長い蛇身で取り囲んだ結界内を、不吉さに身震いさせる薄紫に大気の色を染め変える。

 空を泳いでいた『化鯨』は失墜すると、陸に打ち上げられたかのようにのたうち、痙攣して微振動する合金の外骨格より白煙が噴き上げるた。

 蝋が高熱に炙られて融けていくように、型崩れしていく『化鯨』。黒銀の騎士がまた虚無の障壁を張るも、<雷酸の王蛇>はたとえ魔力を消滅させようとも、猛毒と変化した大気までも防ぐことはできない。

 そして、その脅威は『化鯨』だけに振るわれるものでなく、

 

「どうした、『咎神』の騎士よ。そこまでか? 苦しいのであれば介錯してやっても構わんぞ」

 

 猛毒に包まれた黒銀の騎士に、冷ややかな視線を向けるイブリスベール。

 黒銀の全身鎧に護られていようと、<雷酸の王蛇>はその防御も溶かすだろう。時間の問題だ。奇怪なオーロラで酸毒を掃うことはできず、『化鯨』もすでに動くだけの気力がない陸で窒息した魚類のよう。

 黒銀の騎士が、懐より取り出したものを『化鯨』の胴に押し付け、自らの騎槍をさらにそこへ突き立てる。

 モニタに垣間見えた騎士が手にしたのは、手榴弾。

 『飛竜』と多目的軍用機を合成させた時のように、この『化鯨』に手榴弾の“情報”を増せ合わせれば、果たして何ができるか―――そこまで考えて、最悪の予感が過る。

 

「貴様、まさか……!?」

 

 イブリスベールの表情が引き攣った。

 胴体より引き抜いた騎槍が、手榴弾のピンと重なり、全長20mを超える巨体が“爆弾”に変じたことを悟ったのだ。

 また脱皮するかのように『化鯨』の外殻を突き破り、『飛竜』が顔を出す。一度、合成させた組成を分離させたのか。『化鯨』の外骨格に護られ、酸毒に冒されていない万全の『飛竜』は黒銀の騎士を拾い上げるとそのまま飛翔し、上空へと逃れていく。

 

 そして、抜け殻の『化鯨』だけが残され、

 ―――真紅の物体が小柄な身体の凶王子の前に割って入った。

 

「ちっ、<ドゥアムトエフ>! <ハピ>! <ケベフセヌエフ>!」

 

 

 山間が爆発的な閃光に襲われた。

 校舎のように大きな置き土産を中心地に半径100m圏内が、一気に爆炎に呑まれた。

 

 

 山犬、狒々、隼、と三体の金色の眷獣が煌めく颶風と化して、爆風を相殺。

 それでも光と音――眼球と鼓膜から同時に衝撃が走り抜け、感覚が喪失。そして、騎士を乗せた『飛竜』は、この自爆戦法で生じる追い風を受けて魔獣の限界を超えた凄まじい加速で凶王子から離れていく。たちまち敵の姿は小さくなり、消え残る冷気の霧に紛れて消えてしまった。

 

「逃げた……いや、より有利に戦える場所を求めて撤退したか。小癪な奴よ」

 

 それから凶王子は、自身の前に壁となった有脚戦車―――とそれを支えようと粘着液の蜘蛛の糸を張り巡らせて、有脚戦車の横転を防いだ人工生命体を睨む。彼の口元に浮かぶのは、感心と呆れ半々の微苦笑だ。

 

「おかげで逃してしまったが、まあいい。浅慮とはいえ、身を挺して俺を庇おうとした心意気だけは褒めてやろう」

 

 イブリスベールは逃げた騎士を追わず、ひとまず、彼女たちの意識が覚めるまでは、負傷者満載の現場に留まることにした。

 

 

箱根 旅館

 

 

 すき……だぞ。

 

 信じてた、のだ。霧葉のこと……

 

 ああ、本当に、強い……ご主人に助けてもらわなかった、ら、倒されてたぞ……霧葉は、すごいな。

 

 だめだ。……絶対に逃がさない……

 

 いいや、油断しないぞ……霧葉は、オレが……全力で……仕留める。

 

 

「―――って、だから何を思い返してるの私っ!?」

 

 頭を抱えて身悶える古風な長い髪の少女。<第四真祖>を獅子王機関の計画に乱入させんとする六刃神官・妃崎霧葉は、太史局からの連絡を受け取った。

 

 南宮那月からお目こぼしをもらったような形で絃神島を出て、無事にとは言い難いが(剣巫と六刃はボロボロ)本土へ辿り着く。

 今は箱根の山中に位置する、温泉が有名な高級旅館――『戦王領域』のアルデアル公がまるごと貸切にした一棟――で、休んでいる。暁古城が『三聖』の槍撃で千切られた右腕の調子が悪いことと、あとは海に落ちてべとべとになった制服が洗濯中で外に行きたくとも着れるものがないことから、温泉でのんびりくつろぎながら、制服のクリーニングを待っている状況だ。<火鼠の衣>が濡れ鼠では問題なので霧葉もこの立往生に付き合っている。まあ、天然ぶった色気でたらしこんでいる本家剣巫と暁古城いちゃこらしてると言い換えてもいいが、そう考えてるとイラッとくるので精神衛生的によろしくない。

 

 箱根は『神縄湖』までの距離は20km足らず。徒歩でも辿りつける距離。

 足も、人身御供の姫たち(オシアナス・ガールズ)が、北米連合(NAU)製の装輪兵員輸送車を用意している。自衛隊所属の車両ではなく、取り付けられているのも外交官車両用ナンバー。おそらく異分子(イレギュラー)の介入を防ぐために敷かれている人払いの検問に引っかかるだろうが、太史局――国家魔導災害対策機関に属する攻魔師として通れるだろう。

 

 

 そして、たった今、組織の情報部より『神縄湖』に魔獣が発生したとの報告があった。

 

 

 獅子王機関の目論見が外れたか。しかしながら魔獣の群は人里を襲う前にUターンして戻っていったため、まだ太史局も様子見で本格的な介入を控えている。もし無秩序に暴れ回る魔獣であれば、霧葉は六刃神官の本来のお役目として、自衛隊の後衛(バックアップ)について『神縄湖』近辺に出現した魔獣の群を掃討に駆り出されていたことだろう。

 

「魔獣たちの急な鎮静化―――これは、『魔獣庭園』で起こった現象と似ている……いいえ、同じよ。そう、『神縄湖』にはきっと―――」

 

 ―――国家攻魔官名義で、“準魔族”の国内派遣の許可が取られた、と霧葉の耳に届けられたもうひとつの報告。

 

「ふ、ふふ、ふふふふ―――そう、いるのね、『神縄湖』に」

 

 この受けた快…屈辱を倍返しする……ッ!

 

 妃崎霧葉こと鬼女の体内エンジンを加速させる。咆哮する臓腑、加速する肺、吐息はニトロの匂いが漂い、標的がどこにいようと隠れようと超高々速追跡を可能とする―――逸る気持ちについうっかりと、もう一本増えてさらに最初の二本が鹿角のように枝分かれしつつある形態に変化しかけたが、気を落ち着けさせる。

 

「焦ることはないわ……ええ、『獣王』をやれるのは、私だけなのだから」

 

 『神縄湖』――強く感じる方角――を睨む霧葉が昂じるように頬を火照らせ、優艶に笑う。

 

 そう、先日の戦闘、結局、本家剣巫は一太刀を浴びせることは叶わなかったのだ。きっと同年代で彼を傷つけることができたのは自分だけだろう。

 つまり彼を倒せるのは自分だけであり、資格がある。万が一の時に討伐する力量が必要である監視役に最も相応しい……

 

 

神縄湖

 

 

「羽波―――!」

 

 ―――呼吸ができない。

 ―――目の前が真っ白になる。

 ―――どうして、と叫びたくなる気持ちを必死に堪える。

 

 

「そい は違 ッ!  く離れ ッ!」

 

 

 ああ、きっとそれは『裏切られた』と思えるくらいに、彼に心を許していた。

 それを理解し、自覚した途端、激情が噴火し、怒りに沸騰した溶岩が激流となって溢れ出す。

 温厚な性格の内に抑えられた感情を爆発させ、獣―――そう、ほとんど獣のような咆哮をあげていた。それは羽波唯里を知るものであれば誰もが、耳を疑うような肉声だったろう。理性ではなく、本能が表出した怒号。

 

 

「『六式降魔剣・改(ローゼンカヴァリエ)(プラス)』―――起動(ブートアップ)ッッ!!!」

 

 

 自分を避けて背後を狙うよう曲げる軌道で放たれた霊弓術。第三国の『獣王』との対決で更に鋭く練磨された手裏剣は、それこそ舞威姫の弓に匹敵する。

 それを一息に、腕が霞んで見える速さで振るって飛ばした数は実に十を超えた。

 

 そのすべてを事も無げに弾き返す剣巫の護り。

 

「―――」

 

 針の穴さえ通す手裏剣術を防ぎ切られた。

 相手の武神具(ぶき)は、剣一本。

 左右に振って投擲し、切り返す剣の隙間はあるはず。確実に相手の背後を抜ける手裏剣が、悉く弾かれる。

 

「これ以上は、やらせない!」

 

 剣巫の気配が変わる。

 ずっと鞘に収まっていたものが今となって解き放たれたかのような剣気。

 

 ―――前方を除いた八方から手裏剣が奔る。

 こちらへと踏み込もうとした剣巫に合わせた、迎撃(カウンター)となる高速掃射。

 

 それも防ぐ。

 躱すのではない、剣巫から避けて通ろうとしたものを余さず打ち落とす。軽く、ほんの僅か剣の刃先を揺らしたようにしか見えない必要最小限の隙のなさで、剣巫は目で追うには無理のある霊弓術を直感で捉え無効化する。

 

「―――」

 

 吼える剣巫に反して、黒妖犬は無言だった。

 牽制として放つ霊弓術は、その対応を観ることで、相手の力量を測る物差しでもある。

 投擲を放つ前の一呼吸、『鼻』で嗅ぎ取った“匂い”から経験値を測り、

 一度目の投擲が防がれたことで相手の運動性を測り、二度目の投擲で相手の行動法則を測る。

 

 この間合いを詰めるまでの刹那の内に、“感情で強さが確変することを知る”黒妖犬は今この時における相手の力量を推量するのだ。

 

 結果、理解したのは、飛び道具は通用しないこと。先ほど格付けして測った『羽波唯里』の強さは、“井戸の底”であって、けして“天井”ではなかった。

 牽制といえど相手の裏をかこうと計算している。それを凌がれたとあれば、無謀と悟るしかない。

 

(今の羽波は、姫柊よりも上……ユスティナ=カタヤ(ニンジャマスター)に匹敵するくらいだ)

 

 銀色の長剣で虚空を薙いだ羽波唯里は、これまでになく炯々と霊視の光を高め、“親友を討った敵”を凝視する。

 余計な情報は遮断(カット)した。

 音も色もない灰色世界の感覚。全てを未来の情報を取得することだけに尖らせる。

 そして、思考も余計な雑念は捨てた。

 標的に対し善悪好悪を持たない、純粋な目的意識だけがあればいい。

 

 三歩、だ。

 

 先程の立ち合いから、この間合いで三歩、踏ませたら自分はやられる。

 接近させてはならない。長剣が届き、相手の手の届かぬ距離で攻める―――!

 

「よくも志緒を―――っ!」

 

 本当であれば、<第四真祖>の監視役に選ばれるはずだった第一候補。

 そこから外されたのは『七式突撃降魔機槍』の担い手に選ばれなかったからだが、もうひとつ師家より挙げられたのが、彼女の“優しさ”である。魔族に対する苛烈なまでの拒絶感を持たないことだ。

 努力を積み、剣才を持つというのに、その一点で剣を鈍らせている。

 

 だがそれはつまり、“優しさ”という敵への配慮をなくせば、第一候補に相応しき力を発揮するということ。

 

「<黒雷>―――!」

 

 一歩―――長剣の制空圏に入るのを視認するより早く、ほとんど自動的に唯里の身体は動いた。

 

 振るえば断つ、空間断絶に力を篭める必要はない。

 求めるのは速さと正確さ。力で押し切らなくても、敵を断てるのだから、手数と緻密さで圧倒する。

 

 迷いのない瞳に付け入る隙などなく。冴え渡った武の術理が、少女の身体を旋回させる。呪的身体強化のブースと共に<黒妖犬>の脇、斜め前方の虚空へと滑り込んだ剣は、まるで風が花びらを散らす様を幻視()せられるような、至近距離の連撃を見舞いした。

 一瞬で、繰り出された斬撃は七度。

 

(くっ―――無理か)

 

 退かずにこれを処理するのは不可能。

 空間を断絶する太刀筋は物理的に防御不能。受けることはできず、振るわれたのならば、避けるしかない。

 ―――だが、後退する余裕はない。

 

(仕方ない―――諦める)

 

 跳躍。

 “前に”。

 強化も獣化もなく素でこの冗談じみた上昇は、砲台の弾丸そのものだった。

 力を溜めに溜め、限界まで引き絞った筋肉を開放し、相手との距離をゼロにするどころか、飛び越えんとする超人芸。

 空中に身を躍らせ、七つの斬線の隙間を縫うように、身体を捻り―――抜けた。

 

 

 

 その右腕ひとつを斬り飛ばされたが。

 

 

 

「なっ―――!?」

 

 『六式降魔剣・改』の連撃を“完全に”躱すのは無理と悟り、腕一本を斬り捨てられる(あきらめる)ことを計算に入れて飛び込んだ。

 くるくる、と回る自分が斬った相手の腕に――あの刹那に犠牲を払う覚悟を完了した<黒妖犬>の意思に――唯里は目を奪われ、接近を許す。

 そして、残った左手が唯里の顔へ突き出され―――こめかみを風が吹き抜けた―――

 

「                   」

 

 記憶に空白が生じた。

 気が付けば唯里は、凍れる湖面に押し倒されていた。

 そして、

 

「え……志緒ちゃん……っ!?」

 

 右腕を刃と伸ばした異形、そして、まるで日焼け痕を乱暴に剥がしたように、『斐川志緒』の皮膚の破片が少し残っている不気味な面相が、視界に入った。

 

 

神緒多神社 座敷牢

 

 

『暁牙城の顔では残念ながら行けないようだ―――新しい“手形(パス)”が欲しい』

 

 

 暁牙城に連れられて、『特殊攻魔連隊』の野営地に入り……そこで意識は途切れた。

 やられた。暗技を修める攻魔師として、こんな騙し討ちでやられるヘマを打つなんて、煌坂紗矢華に知れたら、どれほど笑われるか。いや、そんな個人的な事情よりも自分の失態のせいで今計画が台無しとなったとなれば、そして、唯里の身に危険が迫っているとなれば、大問題だ。

 どうにかして、自由の身になりたいところだが……動けない。

 暗殺と呪詛の専門家、数多の呪いをその身に宿す舞威姫の扱いは難しいだろう。だからか、この身に一切触れずとも身動きを封じてしまえるように、今、昨日まで暁牙城が閉じ込められ、自身も見張りをしていた牢獄の中で、斐川志緒は“壁に埋め込まれていた”。

 

「っ、ダメだ……全然、動けない」

 

 今の志緒は、きっと絵画より飛び出そうと上体だけが出ているように見えるだろう。

 見張りはいないようだが、それは相手にも予想外の事態が発生して人員を割ける余裕がなくなったからか、もしくは脱獄ができないから必要がないとみられているのだろう。はっきり言って舐められている。だが、『六式降魔弓・改』も呪符も奪われ、四肢も満足に動かせないこの現状を覆しようにないのは、悔しいが事実だ。

 

 誰かの助けがいる。

 壁を壊し、自分をここから出してくれる信用の出来る味方が―――

 

 

「よ、助けに来たぜ、志緒ちゃん」

 

 

 諦観に重くなる瞼を開くと、鉄格子の仕切を無視して登場した髭面の中年男性の顔がドアップで志緒の視界に映った。

 

「う、お、あえ!?!? な、こ、ここ―――ここで会ったが百年目だ暁牙城! よくも私を嵌めてくれたな!!」

 

「いやいや、嵌められたのは俺の方もだからな志緒。牢屋の中にいたらいきなり襲われて、逃げるのに大変だったんだぞこっちも」

 

「知らん! それから、呼び捨てにするな!」

 

 

神縄湖

 

 

 あれは、だれ……!?!?!?

 

「だから、あいつは“偽者”だ! 志緒とかいうやつじゃない!」

 

 空間断絶の斬撃で腕を切断した右の肩口と、強靭な<黒妖犬>の左腕から血が滴っていた。完全に意識外、背後を突かれた唯里が全く反応できなかった、そして、唯里の背後が見えていたクロウがその魔の手から唯里を庇ってまた傷を負った。

 

 停止した思考、手にした長剣を落としてしまう。

 

「あ   ああ     っ……」

 

 震えて動けない唯里の身体を抱いて、そして、落ちていた自身の片腕を蹴り上げて咥え、クロウは『斐川志緒』の偽者より距離を取る。

 

「……こうもすぐ変装を見破るとは……『三聖』を退場させたというのに、とんだ異分子(イレギュラー)が紛れ込んだものだな。しかし、『右腕』を斬り飛ばされたのは愉快だ。よくぞやってくれた剣巫よ」

 

 『斐川志緒』の声で嘲笑するのが、唯里にはひどく歪んで聴こえる。一秒たりとも聞くに堪えられない不協和音。また獅子王機関より与えられた武神具も手放してしまい、拠り所を見失っている彼女は、戦力面でも心理面でもとても戦えるような状態ではなかった。

 

「し……志緒ちゃんは!? 志緒ちゃんは無事なんですか!?」

 

「ええ、獅子王機関との人質交渉にも使えますし、それに“生餌”としても活用できますから―――まあ、無事だとは言いませんが」

 

 精一杯の震える声での唯里の問いかけに返されたのは、生存を保証しても安否は定かではないという血の気を引かす回答だった。

 

 して、クロウは拾った右腕の切口を肩口に当てて押さえる。生体障壁で覆い繋げることで見かけは固定されたが、流石に動かすことはできない。獣人種の高い自然治癒をもってしてもそうすぐに斬られた神経経路を復旧することは無理があった。

 つまり、クロウはこの通常の強さとは別次元の異様さをもった相手に、片腕が使えないハンデを負って、戦わなければならないのだ。

 

「我々が『神縄湖』に来た目的は、『咎神』の遺産であるが……<黒妖犬>、貴様の『鼻』が私には天敵であることを理解した。だから、ここで殺神兵器の“情報”を抜き取り、処分しよう―――ああ、あの魔女と人工生命体へ右腕と計画を奪った復讐となろうな」

 

「……そうか。オマエ、ご主人とアスタルテが逃がした曲者か―――だったら、なおさら逃がさない。ここで、確実に、狩る」

 

 <黒妖犬>の、宣告。

 クロウは鼻での呼吸とともに、源力(マナ)を取り込む。

 臍の下まで息を落とし、丹田にて吸い込んだ源力を凝縮。螺旋の想像図(イメージ)方向性(ベクトル)を与え、正中線の任脈を通してぐるぐると身体を巡らせる。

 <四仙拳>の師父より学びし、気功の技法がひとつ。

 より効率よくこの一帯に漂う冷霞の外氣――中心地点(グラウンドゼロ)の環境を激変させた<焔光の夜伯(カレイドブラッド)>の残り香(におい)――を取得し、体内に循環させ、増幅させ、クロウは変生する。

 

「―――っ!」

 

 身体を巡らせた源力が、突然点火したようだった。血液が残らず溶岩と化し、すべての神経が燃え上がった灼熱の感覚。悶えることもできず、同時にクロウは別のものをも認識した。

 臍の下で、巨大な焔が熾ったようだった。

 力が、漲る。

 途轍もない熱とともに、自分の身内から膨れ上がる。

 

(やっぱり、オレに関わりがあるのか)

 

 主人である<空隙の魔女>は危惧していた。

 『聖殲』の遺産は互いに共鳴し合う可能性がある、と。

 『神縄湖』に眠っていたものは、“これまでになく調子があがる”この反応からして、自身と関わり深いものと、クロウはそう判断した。

 だから、それについて考えるのは後回し。

 今は、この留まるところを知らぬ力を目前の相手に向ける。混血の裡に眠る獣性を起こし、白銀の人狼となり、臨戦態勢へと突入する。

 

「それで、オマエの“臭い変装”はオレに通用しないが、降参する気はあるか? 今のオレはちょっと手加減が難しい」

 

「それは、私が騙し討ちしか能がないと侮っているのか―――」

 

 触手と伸びる右腕を振るい、剣巫が落とした銀色の長剣を拾い、さらに左手に持つ銀色の洋弓を―――右手に喰わせる。

 

「生憎だが、私が模倣する“情報”は姿形(かわ)だけではない」

 

 武神具の材料にもされる稀少で高度な霊媒の金属が、『霊血』の純度を高めさせ、そして、“生きて学習する金属”は、この武神具の特性をも取得する。

 

「『六式降魔弓・改』と『六式降魔剣・改』は、運用の難しい『六式降魔重装弓』を二分化したことで難度を落とした量産兵器と聞いていましたが、ならば、二つをまとめるのならば―――それは、<黒妖犬(きさま)>を降して、禁呪を施した舞威姫の<煌華鱗>も同然だ」

 

 “『波朧院フェスタ』後に獅子王機関に送られた『黒妖犬に対処した舞威姫』の報告書”を知る『人狼』は、こちらに見せびらかすように右手を小指から順々に握ってみせ―――瞬時にすでに矢の装填された弓が生えた。クロスボウと一体化した右腕をこちらに向け、放つ。

 

 

「獅子の舞女たる高神の真射姫が請い奉る! 雷霆(ひかり)あれ―――!」

 

 

 傍観者の唯里は、耳と目を疑った。

 相方の声音で紡がれる呪句。そして、甲高く鳴く風切り音に空に描かれる多重魔法陣。人間の声帯には不可能な呪文を、鳴り鏑矢を用いて展開するあの技は紛れもなく舞威姫の――斐川志緒が才能と努力を重ねて行使できるようになった術だ。

 

 それに。

 銀人狼は。

 ただ上を向いて、凶悪な魔力が篭められた広範囲制圧術式を睨み。

 

 

「―――■■■■■■■■ッッッ!!!!!!」

 

 

 “人間の声帯には不可能な遠吠え”が迎え撃って、相殺する。

 凍った湖面に地割れが生じてしまうほどの轟音は、鳴り鏑矢が生み出そうとした高密度の呪文を掻き乱す。

 

 呪矢の音響魔法陣を大声でぶつける、こんな原始的な方法で破るなんて……!

 

「猿真似が、オマエの自慢か?」

 

「舐めるなッ! この『霊血(うで)』には、『殺龍剣(アスカロン)』とたった今、その腕を斬り飛ばした『降魔剣』の“情報”を取り込んでいる!」

 

 形状変化される右腕が、長大な刃と化す。

 模倣された龍殺し(ゲオルギウス)の絶技で、防御不可能の空間断絶の斬裂を放つ。

 ―――一採必殺。

 隼めいた一刀を腕が動かせないであろう右上段から。

 稲穂を狩る鋭さで、黒妖犬(クロウ)の首を薙ぎ払わんとする。

 

 

「忍法落とし穴の術」

 

 

 ドン、と震脚する銀人狼。

 

 瞬間、『斐川志緒』の視界が、一気に下がった―――いや、落ちた。

 周囲の凍った湖面が、一瞬で、水に溶けたのだ。

 衣類についた水分を飛ばしたものと原理は同じ。自然物に干渉する『嗅覚過適応』の発香側応用(アクティブ)匂付け(マーキング)』、それが氷結していた湖水に状態変化を起こさせて、水に戻させた。

 下半身が零度以下の氷海の如き湖面に落水する。

 地盤沈下して体勢が崩れた剣筋は乱れ、『霊血』の刃は湖面を割り―――そして、右腕を食い千切らんとする渦が発生した。

 

「師家様から聞いてる。空間断裂(それ)は、水に浸けちゃいけないもの」

 

 空間断絶は水に浸けては使えない。

 剣の軌道上に生み出された空間の亀裂が周囲の水を巻き込んで、使い手が自滅するからだ。

 キレ味が良過ぎる刃物は、扱いを誤れば自身に深手を負わせてしまうもの。

 

「オマエはやっぱり本物とは劣化した猿真似だ。技術は同じでも、それに対する理解が全然足りてないのだ」

 

 震脚の踏み込みを、真上の推進力へと変換。

 高く跳躍したクロウは背を反らし腰を捻りながら頭と足先を逆転させる。この総身の回転の力を含め右爪先に集わせ、蹴り放つ―――

 

「忍法飛雷針の術!」

 

 この身を“弓”とし、すべての力を集約させて解き放つ。手ではなく足で蹴り飛ばす霊弓術の秘技。腕力の三倍の脚力で放たれたのは、攻城弩矢(バリスタ)と呼べるサイズに長大化させた銛槍だ。

 

 曲芸じみた投擲フォーム(オーバヘッドシュート)ながら、“匂い”で常に相手の座標位置を把握している故、狙い過たず標的へ。

 溺れるように動けない獲物、その渦に呑まれる魔性の右腕を穿ち―――

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 無事着しても高々と上がっている水柱。

 そのまま湖底まで縫い止めんとする勢いで放たれた必中であるはずの霊弓術は、外れていた。

 衝撃音も悲鳴も、風の音すら聞こえない。完全な静寂だけがクロウを包み込む。

 その静寂を破ったのは、どこか現実離れした穏やかな少女の声音であった。

 

「舞威姫は役に立ちませんね。勿体ないので節約をしたかったのですが、仕方ありません」

 

 その声と同時に、世界に音が戻った。

 湖水を爆散させて雨のように天上から飛沫を降らす衝撃の余韻の中、被害を免れるようにその者は30mばかり離れたところにいた。

 クロウに気づかせず、一瞬で移動していたのだ。

 

「なん、だ……?」

 

 戦闘の最中だというのに、銀人狼は意識を空白にしてしまった。それほどの驚きがクロウを襲う。

 記憶が欠落したかような気持ち悪さを覚える。今のは空間跳躍(テレポート)ではない、と直感が答えた。そう、あれはコマ落ちした映画を観ているような不快感に近い。ページを破り捨てられた本のように、時間の繋がりが途切れている。

 

 そして、相手の姿形も変化していた。

 短めの髪をした気の強そうな印象を受ける少女から――一瞬、大人な男性のシルエットが浮かんだかと思えば――これといって特徴のない地味な印象の少女へ。

 文学少女というイメージの彼女は、しかし小脇に一冊の本ではなく、対物ライフルを構えていた。本来なら地面に固定して使うその巨大な銃を、強引に腰だめに構えて、引き金に指をかける。

 

 

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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 己の身にいったい何が起こったのか、数瞬、クロウは理解できなかった。胴に着弾したのは、濃縮した魔力を撃ち出す特殊で貴重な弾丸『呪式弾』。その凄まじい魔力を撒き散らして爆発し、銀人狼の喉は絶叫を放つよりも先に血反吐を迸らせていた。

 世界に音が戻ってきたのは、その直後だ。

 

「南宮君!?」

 

 視ていた唯里にも、何が起きているのかわからない。

 わかるのは……

 

 

「頑丈な肉体。『呪式弾』でも壊れないなんて―――とても、壊し甲斐がありますね」

 

 

 これより攻撃権の移らない、一方的な蹂躙が始まることだけだった。

 

 

神縄湖付近 森

 

 

「はぁ―――はぁ―――」

 

 孫娘の救難は失敗したが、危機を脱することはできた。

 神緒田神社の巫司としてこの地のことを誰よりも知る暁緋紗乃は、霊脈を潜って空間転移する『禹歩』を以て、戦線離脱に成功。緊急だったため距離は稼げなかったが、それでもヤツらの目から逃れることはできたはずだろう。いずれあの復讐者である『冥狼』は弱っているこの好機をそう易々と逃しはしないだろうが。

 

「っ、無理をし過ぎましたね」

 

 ぐらぐらする視界を、こめかみに手を当てて固定。奥歯を噛み締めて無理矢理に意識を賦活させんとする。

 緋紗乃の横には、白髪の少女が昏倒して横たわっている。もとより白い肌が、無残なほどに青褪め、息は荒く、白衣の胸が小刻みに上下している。

 こちらが離脱準備を整えるまで、あの二人を同時に相手取らなければならず、また霊糸の一部を『暁凪沙の繋ぎ止め』に振り分けていたのだから、衰弱の理由は痛いほどわかる。

 あれは狸寝入りなどではない、『十二番目』の暴走はこちらにも想定外だ。“何者か”に助けられる直前まで凪沙の霊体を彼女は守っていたのだ。

 かくいう緋紗乃も、消耗は酷い。如何なる術式・方法であろうとも、最も難度の高いひとつとされる空間を渡る魔術、それも余程の準備をしていてすら困難なのに、緊急避難的な術式ではさらに難度が跳ね上がる。

 それだけの悪条件の中で、なおここまで転移したことが、暁緋紗乃の並々ならぬ呪力を証明していた。

 

 して、不幸中の幸いか、<蜂蛇>が大人しい。“何者か”が制御に成功したのか。

 

「しかし、私たちは油断し過ぎていましたね」

 

 牢を出ていた息子、暁牙城……あれが“偽者”であることを緋紗乃は昨夜の内から疑いをかけていた。

 『子供たちのことを覚えているのか?』という質問に解答できたみたいだが―――牙城は“記憶を喰われている”。

 『焔光の宴』で起きた<第四真祖>の復活――真祖として不足していた『固有堆積時間(パーソナルヒストリー)』を補うための記憶喰らい――その後遺症で、暁牙城は自分の子供たちの記憶の大部分を失っている。自分がそれを失った理由すら、今の彼にはわかっていないだろう。古城や凪沙がそのことに気付いていないのは、牙城が事前に周到な準備を施し、そして必死の演技を続けてきたからだ。

 その思い出そうとするたびに、喪失した記憶との不適合(ズレ)で、幻肢痛じみた耐え難い頭痛が襲うはずなのだ。なのに、あれは平然と受け答えができていた。

 

 

『黒を白にするその忌々しい力。盤上の駒すべてを己のものとするそれは、一度術中にはまればこれほどに恐ろしいものはないでしょう。それでこそ、吸血鬼の真祖たちですら一目置く獅子王機関『三聖』だ。

 ―――ですが、元より白い駒(みうち)の反逆に対しては甘いところがあるようだ』

 

 

 故に、息子に対しての警戒心が強かった舞威姫の斐川志緒を張り付けさせ、影ながら本物の息子の捜索をして―――結果、このざまである。

 張り付かせていた斐川志緒は囚われ、変装される。

 それでも、近づいてきた『斐川志緒』に緋紗乃たちは一挙一動を見逃さず、警戒していたが……

 

 

「まさか……<静寂破り(ペーパーノイズ)>を使ってくるなんて……」

 

 

 『闇白奈』の霊糸による絶対操縦権と同じように、『閑古詠』に代々と継がれてきた絶対先制権―――獅子王機関筆頭の『三聖』にまで上り詰め、真祖にも致命打を与えられる血継淘汰の力―――その“情報”を相手は入手していた。

 

 

神縄湖

 

 

 カラン、カラン、と。

 『呪式弾』の薬莢が一体いくつ凍る湖面に転がっていることだろうか。

 

 滅多打ち―――そう、形容するしかない戦況。

 

 その全身に硬気功を張り、亀のように守りに徹する銀人狼。それを人型の的にして、対戦車ライフルを容赦なく撃ち込み続ける少女の顔をした相手。

 いつ照準を合わせられたか、

 いつ引き金を引かれたのか、

 いつ弾丸が着弾したのかさえ、理解が遅れるこの始末。理不尽に“撃たれた”結果だけを押しつけられる。

 

「このまま我慢比べを続けるとこちらが弾切れとなりそうだ、実に優秀な性能です。欠陥があれど我らが主の殺神兵器を完了させるための“部品(うつわ)”であることは変わりない。その“情報”だけでも欲しくなりますね」

 

 耐えるしかない。

 耐えて耐えて耐えて、打開する勝機を見つける―――しかし、“何もわからない雑音(じかん)”で起きていることをどうやって分析できるのだ。

 それにそう何発も『呪式弾』を耐えられない。

 

(どうすれば、助けられるの……っ!?)

 

 傍から見ている剣巫は、見ていることしかできなかった。

 絶対の護りを展開する『六式降魔剣・改』は相手に奪われ、そもそも、“すでに終わった結果”に割って入ることなど不可能なのだ。

 相手もそれをわかっているから、平気で無視できる。

 

 

 剣巫も、そして銀人狼も何もできず―――

 

 ―――百面相は頭上から影が差すまで気づけなかった。

 

 

 視界不良な冷気の霧、加えて一方的な的撃ちに引き金を引くのが快感(トリガーハッピー)に陥った視野狭窄で、気づくのが遅れた。

 空から鋼色の魔獣の群が集中豪雨の如く神風特攻と襲い掛かってきたことを。

 

「―――っ!?」

 

 <蜂蛇>は、『龍族』と共生する魔獣。象や水牛の背中に集まり鳥たちのように、強力な龍による庇護を求めて、<黒殻>の周囲に群を巣食っていた―――それ故に、新たな群の大黒柱たる『獣王』の危機に、<蜂蛇>に躊躇はなかった。

 

「おま、えら……!」

「今のうちに―――!」

 

 仁王立ちで動けないでいるクロウを唯里が回収する。

 鋼色の怪物の大軍に襲われればひとたまりもない―――しかし、暁緋紗乃の実証例がある通り、魔獣を鎧袖一触と薙ぎ払えるほどの実力者であればこの程度の有象無象でやられはしない。

 それでも、時間稼ぎにはなるはずだ。

 ―――そう、時間稼ぎとしかならないことを承知して、魔獣たちは飛び込んでいる。

 

「ちぃ! この程度の雑魚に『三聖』の“情報”を使えるか!」

 

 文学少女の姿からまた相方の『斐川志緒』に変わる。

 親友の顔で魔獣たちを蹂躙していく光景から背を向け、羽波唯里はクロウに肩を貸しながら懸命に戦場からひた走った。

 

 

 

つづく


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