ミックス・ブラッド   作:夜草

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逃亡の真祖Ⅳ

道中

 

 

「は―――はあ、はあ、は―――」

 

 呼吸が乱れ、視界が点滅する。

 走れば走るほど血の流れが加速するのか。喉元までせり上がる吐き気を抑えながら、歯を食いしばって、とにかく足を止めない。

 そして、振り向かない。

 振り向けば、この人工島西地区で群を抜いた高さにあるその高層マンションは視界に入ってしまうのだから。

 追手が―――自分たちを捕まえに来るのがあの主従であるなら、この島から脱出するまで何だっていいから、最短最速で走り抜けるしか逃げ延びる術はない……!

 

「―――交渉はすでに決裂しているのだから、早く出てくるべきだと忠告したわよ」

 

 ランナーズハイに全力疾走し続ける古城と雪菜に、突然、聞き覚えのある声が掛けられた。

 一瞬、光が射す。

 大型の目立たない紺色のバンが、二人のすぐ近くの車道へ停車したのである。

 その後部座席のスライドドアを開け放ったのは、古風なセーラー服とその上に赤いカーディガンを着た黒髪の少女。膝の上に三脚のケースにカメラバックのようなポーチをつけている彼女は―――

 

「妃崎霧葉……!」

 

 咄嗟に身構えた雪菜が、怒りの視線を霧葉に向ける。

 古城も無意識に警戒する。

 出たら迎えに来るとは聞いていたが、それはつまりこちらを監視していた。

 そして、結瞳を派遣させたということは、交渉が決裂することも読んでいたに違いない。

 およそ五分五分の確率で終わる賭け事を、止めもせずに送りつけたのは、南宮那月と人工島管理公社に『神縄湖』で進行している計画について事前通達があったか否か、獅子王機関とのつながりがあるかどうかを見るための、一石を投じてみたかったからだろう。

 結果は、藪を突いて蛇が出るような事態に陥った。古城たちが。

 

「姫柊雪菜、あなたは別にここでお役目ご苦労で構わなくてよ。獅子王機関の一員としては複雑な気分でしょう?」

 

 憐れむように小さく首を振りながら、霧葉が雪菜に視線を向けて言う。

 対し、その冷たい刃を含んだ言葉に、雪菜は屹然と言い返す。

 

「その必要はありません。獅子王機関が私に何を隠しているのであれ、<第四真祖>の監視役の任務に変更はありません」

 

 自棄になっていない目の輝きに、霧葉は少し驚いたように片眉を上げる。先日、獅子王機関にはぶかれて取り乱していたはずの雪菜が、ここまで立ち直ったことが意外だったらしい。

 

「そ、腑抜けになってないようで何よりだわ。この前みたいにヒステリックになってはたまらないもの。今の私達は呉越同舟、仲良くやりましょう?」

 

 乗りなさいな、と霧葉に促され、まず古城が半信半疑に警戒を解くことのないまま搭乗し、続けて雪菜も乗り込む。古城を挟んで少女二人がサンドイッチするような形で後部座席が埋まった。

 何だかんだで、こんなところで捕まりたくないのは、古城も霧葉も同じだ。そして、体力を消費して走るより、車による移動が効果的である。

 

「ニーナたちが時間を稼いでくれてる。思い切り飛ばしてくれ。とにかく島から脱出しないと、スターターピストルの号砲が鳴った時点でアウトになる」

 

「だそうよ。目的地に急いでちょうだい。どうせ攪乱なんて無意味でしょうから、最短距離でね」

 

 運転席に座っている、灰色の作業服を着て帽子を目深に被った、どこにでもいそうな男。おそらく太史局のスタッフは、六刃の指示に車を発進させる。

 

「一応聞いておくけど、本土への渡航手段はあるのかしら?」

 

「あるっちゃあるけど、そっちで用意してあるんだろ」

 

「ええ、こちらに用意してあってよ」

 

 霧葉は古城と雪菜の眼前に、一通の封筒を差し出す。その中身は古城と雪菜の顔写真の入った書類と各種証明書。

 

「これは?」

 

「太史局のビジネスジェットを一機用意したわ。絃神島中央空港ではなく、企業用の民間飛行場をつかうから、出島手続きも最小限で済む。これは偽造の身分証と必要書類」

 

 暁古城、電気工事会社に勤める18歳の会社員。

 暁雪菜、旧姓姫柊で暁古城の妻29歳。

 

 れっきとした政府機関である太史局が用意した身分証というのであれば、それは事実上、偽造ではなく正規の書類と同じ価値がある。さりげなく嫌がらせっぽいのが混じっているがこれさえあれば、もはや密航などという不安定な計画に頼る必要はない。

 そして民間所有のビジネスジェットがあれば、行動の自由度は大きく広がる。人工島管理公社といえども、民間機相手に好き勝手なことはできないだろう。

 偽造証明書の作成に、ジェット機のチャーター―――それには相当な労力と金銭が動いているだろうに、それでも古城と雪菜を本土に送り届けるために太子局は犠牲を支払った。

 敵の敵は味方。

 古城たちが獅子王機関と対立したのであれば、支援は惜しまないということなのだろう。

 

「つかさ、ジェット機を用意してくれるなら、最初からそう言ってくれればよかっただろ。そしたら俺たちが那月ちゃんたちに襲われることもなかったのに―――」

 

「その場合、あなた方は私の話を信じられて?」

 

 悪意の滲む笑みを向けて、霧葉は古城に訊き返す。

 

「南宮那月が敵に回ったから、太史局に頼る気になった。違って?」

 

「かもな……だけど、それは……」

 

「ええ、当然の判断ね。理解できるわ」

 

 他人事のように、古城が気に掛ける罪悪感など一蹴して肩をすくめる霧葉。

 目論見が失敗したとはいえ生体兵器<レヴィアタン>を利用し、絃神島を沈めようとした太史局と妃崎霧葉に100%信用を預けることを古城はできなかった。

 南宮那月を敵に回してようやく、仕方なくこの協力を受け入れることができたのだ。

 そのことは霧葉もわかっているはずなのに、これといって特に責めようとはしない。

 

「遠慮はいらないわ。あなたが『神縄湖』を訪れることを、獅子王機関は極度に恐れている。だったら、それを利用しない手はないでしょう? 気が合わない隣人の家に、汚物を投げ込むみたいなものよ」

 

「俺は汚物と同じ扱いなのかよ……!?」

 

 獅子王機関と太史局は同業であるが、それ故に何かと利害が対立してしまう同族嫌悪な関係。しかしながら、現在の太史局は先日の『青の楽園』での失態が未だに尾を引いており、正面切って獅子王機関とやり合うことができない。

 だから、今度はこちらから獅子王機関の弱みを握ろうと画策しているのだ。

 古城と太史局の利害は一致している。

 とはいえ、当然、汚物扱いされた古城はあまり気持ちの良いものではない。

 クスクスと失笑する霧葉に、この一件が如何に厄介であるかを嫌がらせ込みで古城は教えてやる。

 現在、古城たちが相手にしなければならないのは、<空隙の魔女>だけではない、何度となく霧葉に煮え湯を飲ましてきた存在がいると暗喩で……

 

「でもその隣人の家に近づくと番犬まで迫ってくるぞ」

「望 む と こ ろ よッ!」

 

 食い気味に反応を返されて、若干古城は雪菜に寄せるように身を引いてしまう。

 

「あら失礼。任務に邪魔は少ない方が良いのは理解してるのだけど、個人的に借りは一秒でも早く返したい性格なのよ。ふふ、うふふふ……」

 

 一瞬垣間見えた攻撃的にギラつく眼光は錯覚ではないかと思うくらいに、瞬きの間に余裕のある微笑に切り替えてみせた霧葉であるも、決して見間違いではない。元来、笑みとは動物が威嚇の際の表情であったという説を、何故か今古城は思い出す。目つきが尖り過ぎる彼女が、そう温和な表情をさせられるとこの上なく違和感があって、逆に不気味なのだ。

 本当に一体何をしたんだ後輩は……!

 『青の楽園』の時とは、敵味方が逆転している状況はすぐ慣れるようなものではないが、今はそのやる気と不敵さが頼もしいと納得しておこう。

 

 

 

『■■■■■―――ッッッ!!!!!!』

 

 

 

 何か異質な音が、人工島を震わせた。その咆哮は、車内にいる古城たちにも届いた。

 始まって即終了の鬼ごっこの号砲が撃たれた。

 

「まあだだよって、延長お願いしたいんだけど、聞いてくれねぇかな?」

 

「先輩、お遊びしてるんじゃないんですから。南宮先生もクロウ君も、真剣で私たちを捕まえに来ますよ」

 

「わかってる。手加減なんてしてくれるような優しい性格じゃないってのは。でも、サービスタイムはもうおしまいか那月ちゃん……!」

 

 この咆哮は、時を数えるのを止めた、鬼ごっこ開始の合図と同じ。

 間違えようがなく、狩りの狼煙である。

 これから獲物を追うぞ、と。

 親切で無慈悲な狩人と猟犬が、逃げ惑う脱獄犯に言い放つ死の予告そのものだ。

 

「―――来るわね」

 

「ああ」

 

 思考が戦闘態勢に切り替わる。

 来る、と。

 これまでのように頼れる救援としてではない、今や脅威の象徴と化した到来の予告に、細胞という細胞から余裕が絞り出されていく。

 

 

 そして、人工島北地区の産業飛行場に向かう途中、交通量の少ない海岸沿いの道路―――“おあつらえ向き”に何もない路上の空間に差し掛かったとき、姫柊雪菜の霊的な直感が警告を鳴らした。

 

 

「止めて! 車を止めてください、早く―――!」

 

 

 困惑した運転手がすぐブレーキペダルを踏もうとしたが、遅い。

 すぐ前の路上に同心円状の巨大な網が浮き上がる。

 蜘蛛の巣によく似た、幾何学的な美しい網、そしてそれを構成するのは虚空から吐き出される細い銀鎖。

 アクセルペダルを踏み切っての全速力をすぐに殺し切れない紺色のワゴン車は、その前触れなく設置されるという反則じみた罠に正面から突っ込んで搦め捕られた。

 

 

人工島西地区 高級マンション

 

 

 逃亡している古城の支援として、ここで彼らの足止めをするのが最善だ。

 せめてこの『魔力攪乱幕』が効果を発揮している内に、魔女の方を封じ込めなくては―――しかし、そこに『魔力攪乱幕』の通じない猟犬が立ちはだかる。

 

「ニンジャマスターでも、ご主人を狙うのなら容赦しないぞ」

 

「くぅ……クロウ殿っ!?」

 

 二個目の手榴弾を投擲しようとしたところで、ユスティナに繰り出される拳の五月雨。

 神鉄の如き強度と重さを以て、厚着の少年の拳は要撃騎士をつるべ撃つ。

 その弾幕から逃れようにも、反応速度が、違う

 根本的に、人は大型の肉食獣に太刀打ちできない。

 鞭のようにしなる腕は、しかしこちらの反応を見て直角に変動する。

 放たれる速度が閃光ならば、そこからさらに変化する二の腕は魔人の業か。

 視認することさえ困難な一撃は、遊びなく相手を狩り取る。

 

「が―――!」

 

 肩口。右の鎖骨に、クロウの拳が掠っていく。

 

「は、ぐ―――!」

 

 鉄鎚の如く。そのまま肩ごと利き腕を砕き落とされたような感覚に、ユスティナは手にした電磁警棒を落としかける。

 

「―――っ」

 

 踏み止まって耐え、握り直した電磁警棒で眉間に繰り出される拳を弾く―――ことはできず、掴まれ、握り潰される。

 

 これが、宝剣<ニダロス>であれば……と悔やまずにいられない。

 しかし、この袴姿――晴れの席の衣装で帯刀することは憚れて外してしまっていた。無手でやり合うのは不利と見て、警備隊が落とした得物の電磁警棒を拾ってみたが、それではやはり無理であったか。

 ユスティナは、クロウから距離を取ろうとし―――嵌った。

 

「こちらに下がるでない! そこは―――!」

 

 ニーナ=アデラートの警告虚しく、だが、猟犬の重圧には下がらずにはいられない。

 ずぶり、と足が沈むそこは、床ではなく、沼に変質していた。

 

「ふん。このような煙幕だけで完全に封じ込められるなどとは思ってはいまいに」

 

 煙が充満した室内。

 しかしだとしても、足元の床にまで煙幕の攪乱作用は効果を発揮することはない。

 

「魔術の相性云々を語る前に、まずはそこに足が着くようになってから言え」

 

「ぬぅ、抜かったわ。終末の泥まで喚び出すとは……!」

 

 ニーナ=アデラートが下半身を埋めるそれは全ての元素を不活性状態で練り込んだ完全秩序(コスモス)の沼。“何物にも変化しない”以上、錬金術に取り込めるものはなく、底無しの虚無に囚われた錬金術師はそこから脱出することは不可能である。

 ましてや体長30cmの小人の体型では。

 

「どすこいだぞ」

 

「しまった!?」

 

 そして、片足を一機に膝まで沼に呑まれた要撃騎士は大きくバランスを崩してしまい、そこを厚着の少年がドンッと軽い感じの突っ張りで押して、尻餅をつかせ、余計に泥沼に嵌める。

 勝負あり。足止めもここまで―――いや、まだ、ひとりここにいる。

 

「まだ、不服そうだな叶瀬夏音」

 

「はい……どうしても、お兄さんを、見逃してくれるわけにはいきませんか?」

 

 切実に訴える身元を預かる少女に、那月は真剣な表情を作り、告げる。

 

「ここで行かせれば暁古城を失うことになる、と言っても反対か?」

 

「え……失う、ですか……」

 

 その言葉に夏音は呆然と固まる。そこで知識不足で話についていくことのできない夏音に代わって、ニーナが口を挟んだ。

 

「あの坊主は、神々により不死の呪いをかけられた吸血鬼の真祖ではないか」

 

「殺神兵器と読んで字のごとく、その神をも殺す存在だ。それに不死身が通用するとでも思うのか?」

 

 ふん、と面白くもなさそうな口調で、那月は説明を続ける。

 

 神と言っても、世界というシステムを造り出した造物主、という意味ではない。

 すべての人類の始祖、という意味での神。つまりは、神話にハジマリの人間として登場するものだ。

 吸血鬼の真祖と同様に不老不死の存在として設計され、そして、地上に生み落された『原初』の人間は、自分たちを造り出した神に命じられて、あるいはその神を殺して、新たな世界の支配者となる―――世界各地の神話で多く見られる類型である。

 

 しかし、その始祖たる神は、必ずしも人間側であるとは限らない。

 

 人間と魔族、その二通り存在するのだ。

 どちらが優れているという話以前として、人間と魔族はあまりに異質だ。

 同じ言語を解し、交配して子をもうけることも可能でありながら、生物としての性質が違い過ぎている。

 ならば、二つの種族が同じ神の子孫であると考えるのは不自然ではないか? 人類と魔族、それぞれ別物の始祖(かみ)が存在したのではないかと考えるのが自然ではないか?

 同じ造物主から生み出された兄弟であるかもしれない。

 

 そして、異質なもの同士が同時に存在すれば争いが起きる。神といえどそれは変わらない。

 

 始祖同士の戦争――それが『聖殲』。

 だが、その正確な実態は那月も掴めてはいない。共に滅びたか、封印されたか。或いは殺されたのかもしれない。

 ―――そう、神々を殺すための兵器によって。

 

「アヴローラ=フロレスティーナの記憶の中で<第四真祖>は殺神兵器と呼ばれていた。神々が争っていたのだ。神を殺すための兵器が造られたとしても、おかしくはあるまい? そして現存する殺神兵器は<第四真祖>だけではない」

 

 聖書にも記された海の怪物。『嫉妬』の蛇。神々が造り出したとされる最強の生物。全長数kmにも達するあの規格外の魔獣は、神話の時代の生体兵器と呼ばれていた。

 そして、ここにいる現代においてようやく完了したとされる『原罪』を負いし者。

 故に、本土に眠っているのが、そうでないとは限らない。

 

「『神縄湖』に沈んでいる『聖殲』の遺産が、その殺神兵器の一種であると?」

 

「それはまだわからん。それがどちら側か、というのはおおよそ予想がつくがな」

 

 『聖殲』の遺産には二種類ある。

 魔族の始祖を殺すためのもの。そして、人類の始祖を殺すためのもの。

 どちらにしても危険な存在であるには変わりないが、人類が人類の始祖を滅ぼすための兵器を手に入れるのは、まだましな状況と言える。

 加えて、獅子王機関は『聖殲』の遺産を掘り起こしたいと考えているわけではない。

 

 有史以来絶え間なく続く人類と魔族の争いが、数十年前に締結した聖域条約で一応の平和が実現し、最近になってようやく曲がりなりにも両種族が共存できるようになった。

 第一真祖<忘却の戦王(ロストウォーロード)>の功績や、長い戦いに人類が疲れてきたという事情もあったが、聖域条約締結の最たる現実的な理由として挙げられるのが、人類の持つ科学技術や魔術の進歩。人類の技術力は魔族との戦力と拮抗し、“今や殺神兵器まで人の手で造られるようになった”。

 だが、そのぶつかり合いが起き、共倒れとなればどうなる? ―――その結果なんて想像する間でもなく明らかだ。

 

 だから、どちらかの陣営が、パワーバランスを大きく崩すような強力な兵器(ちから)を手に入れることを、両陣営ともに回避したいのだ。

 

「獅子王機関の目的は封印だ。『神縄湖』の底で目覚めかけている『遺産』を、今度こそ完全に凍結する」

 

「なるほど、主が古城を『神縄湖』に行かせたくなかった理由はそれか。<第四真祖>の魔力と反応して、『遺産』の覚醒が早まるかもしれぬ、というところか」

 

「そうだ」

 

 獅子王機関は政府の特務機関であって、その活動目的は大規模な魔導災害や、魔導テロの防止。ならば、『神縄湖』でそんな事件が起きようとしているのなら、未然に防ごうと彼らが乗り出してくるのは、ある意味、必然である。

 

「しかし……ロクに正体もわからん殺神兵器を封印するような術式を組み立てられるのか?」

 

「そこで連中が目に付けたのが暁凪沙―――そして、殺神兵器の封印するための術式を知っているアヴローラ=フロレスティーナだ」

 

「なに?」

 

「貴様は知らんだろうが、ヤツは『原初のアヴローラ』を封印するために造られた器だ」

 

 アヴローラ――人工の吸血鬼である『十二番目』の<焔光の夜伯>は、正確には本物の<第四真祖>ではなく、殺神兵器としての呪われた魂『原初(ルート)』を封印する器である。

 『焔光の宴』を結果的に勝ち抜いたアヴローラ本人の行動にとって、『原初』の魂は消滅して、そのお役目から彼女は解放された。しかし、封印の機能が失われたわけではない。

 

「獅子王機関は、『原初』を封印するための術式を、『神縄湖』の『遺産』に使うつもりなのだな。しかし、そんな真似が本当にできるのか……!?」

 

「確かに分の悪い賭けではあるな。だが、成功すれば犠牲を出さずに済む。それに暁凪沙に憑いているアヴローラ=フロレスティーナは、肉体を持たない残留思念だ。『遺産』に与える影響は、おそらく最小限で済む」

 

「失敗すれば、どうなる?」

 

 感情を殺したニーナの問いに、那月は皮肉っぽく笑って見せた。

 

「そうだな……前例はあるのだし、上手くいけば、手懐けられるかもしれん。―――だが、最悪の場合は、戦争だ」

 

 那月の返答はひどく単純(シンプル)であって、異様な説得力があった。

 そして、その最悪の事態を想定して、獅子王機関は動いているのだ。

 

 この結論を聞き、そこに至る過程を院長様との問答でおおよそ理解した夏音は、それでも躊躇いがちに那月に訊ねる。

 

「……どうして、それをお兄さんに話さなかったのでした?」

 

「言って、本土行きを我慢できるようなヤツではないからだ。そして、それは身内も承知している。この件の黒幕は、暁緋紗乃――あいつの祖母だ」

 

「え?」

 

「暁緋紗乃は、獅子王機関が提示した『アヴローラ=フロレスティーナからの暁凪沙の解放』という交換条件を呑んだ。おそらく獅子王機関には、孫娘を救うための、何らかの策があるのだろうな。

 だが、それでたとえ暁凪沙が救われようと、アヴローラ=フロレスティーナが助かることはない」

 

 那月は冷ややかに首を振る。

 

「仕方がないことだ。あの娘はもういない。暁凪沙が命を削りながらも繋ぎ止めていようが、ただの残留思念。すでに失われた魂の一欠けらだ」

 

 夏音は、口を閉ざす。

 彼女はアヴローラのことを知らない、けれど、凪沙の体調不良のことを知っていて、それが改善するようにと祈っていた。

 でも、それが叶えられるとして、けど犠牲が出るのなら、手放しで喜ぶことはできない。きっとそれはアヴローラを知っている暁兄妹はより強く想うだろう。何か救える方法がないかと願い、一欠けらの魂であってもなくなってしまえば後悔するに違いない。

 

 だけど、暁兄妹の祖母は、それでも孫たちが救いたいと願う。

 

 ……誰も犠牲になることのない、みんなが救われる方法があってほしいと思うのは、夢想であるのか。取捨選択ができないのは、子供の我儘だとされるものなのか。

 

「クロウ君は……どうなんですか?」

 

 夏音からの問いかけに、クロウは己の中に決まっている答えを口にする。

 

「夏音。オレは、生きている方が大事だ」

 

 己の中にある絶対の優先順位に従い、クロウは暁古城の正義の悪になると決めた。

 南宮クロウは、アヴローラ=フロレスティーナを知っている。

 暁古城から、アヴローラ=フロレスティーナを守ってほしいと頼まれた。

 個人としても、アヴローラ=フロレスティーナに救われて欲しいと思う。

 だけど、やはり、生きている暁凪沙の方が大事であって、そして、暁古城が殺神兵器と戦争になって殺されてしまうのは避けることを優先する。

 すでに答えを出している者を、迷っている者が引き止めていいものではなくて、夏音にそれ以上口出しする権利はなかった。

 そんな夏音を痛ましく思ったのか、また『賢者』を封印するために犠牲となった自身との境遇に重なることがあり思うところがあったのか、ニーナは最後にもう一度だけ問うた。

 

「<空隙の魔女>よ……もし『遺産』との戦いになるのだとすれば、古城の力は必要になるのではないか?」

 

「それならば最低限、私たちの相手ができるようでなくては話にならんな」

 

 会話はそれで終わり、足止めも封じた。

 狩りを止めようとする者はいない。

 あとはこの邪魔な『魔力攪乱幕』を晴らすのみ。

 

「さあ、狩りの合図だクロウ」

 

「おうご主人」

 

 魔女が王座より重い腰を上げ、猟犬の咆哮が煙幕を吹き飛ばした。

 

 

人工島北地区 道中

 

 

 右腕を雪菜に、左腕を霧葉にガッチリと抱えられ、間一髪で古城たちは車内から脱出して、鎖網から免れた。

 しかし、これで移動手段は取り上げられてしまったわけで、そして、虚空に釣り上げられたワゴン車の屋根に音もなくそれは現れる。

 

「なにを驚いた顔をしている。逃げられない、と言っていたはずだぞ」

 

 日傘を差した豪華なドレスの女とその厚着をどこか騎士のように着こなす少年。

 

「那月ちゃん……! クロウ……!」

 

 人形を思わせるあどけない美貌を持った那月が闇色の魔力を空間に滲ませ、その脇に侍る従者の如きクロウが人狼となって戦闘態勢に移行する。

 もはや問答は無用。

 これ以上発する警告はなく―――

 

 

 真昼の空が、鈍色に染まった。

 

 

 灰色の雨雲が突如として発生した、わけではない。

 それは、空を埋め尽くすほどの鋼の豪雨だ。

 射線上の全てを捕縛すべく迫る無数の鎖。

 捕まえた相手の魔力を封じ込める<戒めの鎖(レーシング)>と名付けられた天部の遺産。

 

 絶叫を思わせる甲高い轟音が鼓膜を震わし、銀色の火花が網膜を刺激する。

 

「<雪霞狼>―――!」

 

 真っ先に飛び出していた雪菜が無数の鎖と相対し、槍を振るって撃ち落す。

 鎖の鋼がもたらすわずかな光の反射、わずかな風切り音に集中し、その情報を基に精密な未来を見通す霊視が開眼。

 基本的には足捌きで躱し、回避し切れないものは破魔の銀槍で斬り裂いて、しかしそれでもこちらに来るものまで含めるとすべてを迎撃するのは無理があった。

 

「跳びなさい、<第四真祖>!」

「う、うおっ!」

 

 雪菜ひとりでは、那月の攻撃を全て防ぐことはできない―――咄嗟にそう判断した霧葉が、古城の背中を押して突き飛ばし、路肩にあったコンクリート製の堤防の向こうへと送りやる。

 古城を追って跳躍しながら、三脚ケースから自身の双叉槍を引き抜き展開した霧葉が、古城を狙っていた、雪菜が取りこぼした銀鎖を払い飛ばす。

 それから遅れて鎖を槍で打ちながら後逸した雪菜が砂浜に着地。

 樹脂製の白砂を敷き詰めた人工の海岸へと舞台を移した古城たち三人は―――そこで、ワゴン車の上から消えている人物に気づく。

 

「っ、クロウか―――!?」

 

 空間転移(テレポート)の魔術によって、三人の背後、一番奥に逃がされた古城のすぐ近くに出現した。

 白銀色と蒼色の法被(コート)を羽織る、頸に枷のような大きな首輪をつけた銀人狼が、獲物(こじょう)を仕留めようと忍び寄り―――そこで、予め古城の衣服に仕込まれていた式神が飛び出た。

 

「<(かぎり)>よ!」

「<(とよみ)>よ!」

 

 剣巫と六刃の合唱に反応して、其々が古城に貼り付けていた金属製の呪符が、銀狼と黒豹へと姿を変える。

 それぞれ五体で計十体の護り。

 それも銀人狼は一薙ぎで数体を斬り飛ばす。だが、その足止めが稼いだ数秒で二槍が割って入った。

 

「先輩は、やらせませんクロウ君!」

 

 自動迎撃に設定した式神を展開させると同時に後退した雪菜と霧葉。

 クロウが『三打まで巫女への攻撃することを禁じられている』ということを知る三人は、戦法として、彼は雪菜か霧葉、もしくは二人が請け負うことにすると決めていた。

 剣巫が、破魔の銀槍を振り回しながら遠心力を味方につけ、ほとんど独楽のような体勢で連続的に斬り掛かる。さらに霧葉が、右側から加わった。妖焔なる魔性を揺らめかせる斬撃。

 まさしく嵐。

 申し合わせもしないのに、左右からの完璧なコンビネーションであった。派閥は違えど、流派は同門であるからこそ結実する、両面攻撃。

 しかし、

 

「ん」

 

 迎撃ができない以上、まともに防ぐことはできず、回避一択しかない―――そのこちらの事前予想が裏切られる。

 

 蒼銀の法被の裾をさばき、少女たちの剣さばきを前に、銀人狼は一切の躊躇いもなく踏み込んだ。

 刃圏の内側に悠々と入り込み、少女たちの動きに合わせてその手首に触れたのだ。爪を立てるのではなくその裏。軽く触れたとしか見えない手の甲が、大陸拳法の化勁を用いて雪菜のベクトルを誘導し、槍の切先を躱しつつ少女の身体を半回転せしめる。

 誘導された雪菜の身体がそのまま盾となり、一緒に斬り掛かったはずの霧葉さえ制御して退けたのは、凄まじいまでの手際であった。

 

 忘れてはいけない。この後輩もまた『八雷神法』を修める弟弟子である。

 体さばきや呼吸を把握し、武神具の得物の扱いはできずとも理解している。

 そして、師家様ではない、もうひとりの師父が基礎たる重厚な屋台骨を練り上げている。

 

「捕まえた」

 

 こちらの手首と相手の手の甲が触れているだけなのに、まるで体に力が入らない。拳法の達人が指先に小鳥を乗せたのならば、ほんの些細な指の浮き沈みで、鳥が飛び立てないようにできるというが、雪菜を操縦しているのはその逸話の再現であった。

 これは、かつて訓練生時代に<四仙拳>の指導教官に雪菜がやられたものと同じだ。

 

(ただ(はや)くて強いだけじゃない。合理的思考と直感の爆発的伸長……これが、『現代の殺神兵器』の実力(チカラ)……!?)

 

「そこをどきなさい剣巫! 彼が刺せないわ!」

 

「っ、……!」

 

 果敢に斬り掛かろうとする六刃だが、その前に立つように剣巫が誘導させられ、それで上手い具合に六刃の三撃を掠らせ(うけ)ることに成功。霧葉に対する攻撃条件を解除した。

 霊視で雪菜が操縦から逃れようとするも相手はさらにその先を読み、またその特異な嗅覚が感情まで嗅ぎ取っている。人間の術理とセンスを受け継いだ上で、別次元の演算能力と特殊能力を見せつけた。

 そして、サーヴァントが作り上げたこの隙をマスターの魔女が逃すわけがない

 

 ゴッ、と荒々しく風を巻いて虚空より撃ち出されるのは、新たな鎖。

 ただしその鎖に太さは、先の<戒めの鎖(レーシング)>より倍以上ある直径十数cm。鋼鉄の錨鎖。それはもう人間にというより怪獣の捕縛用に使われるようなサイズ。そんな大砲の砲弾に等しき巨大な(リング)が、散々二人を振り回した銀人狼が離れた直後に放たれた。槍で迎え打つには厳しい、<呪いの縛鎖(ドローミ)>の重量と速度、破壊力。

 ―――その前に、宝石の障壁が張られた。

 

疾く在れ(きやがれ)、<神羊の金剛>!」

 

 煌めく結晶の破片を散らして、撃ち放たれた巨鎖を撥ね返す。『報復』の象徴である大角羊で魔女へ逆襲―――しかし、それもあっさりとワゴン車から人工砂浜にいるクロウの肩に乗るような形で空間転移されて躱された。

 

「油断するな馬鹿者」

 

 畳んだままの扇子の先端を無造作に向けてくるそのポーズに、本能的な恐怖を覚えて古城は無意識に両腕を上げる。

 直後、顔面を不可視の衝撃波に襲われる。

 鎖により圧倒的な制圧と猟犬の奇襲ときて、息を吐かせる余裕も与えず死角からの一撃を見舞いする。

 

「ふん……少しは学習したか?」

 

 どことも知れない空間へと鎖を巻き戻し回収しながら、那月が感心したように言う。

 

「体罰反対……だぜ……くそっ」

 

 ぜえぜえ、と荒い息を吐きながら、那月を睨みつける古城。

 これまで何度となく苦汁を舐めさせられたピンポイントの空間座標で撃ってくる衝撃波を防げたのは、ほとんど偶然の産物。顎をガードして、揺れないように両腕で頭を挟んで固定していなければ、確実に脳震盪を食らって行動不能に落とされただろう。

 魔術による神出鬼没の奇襲に後方支援も得意とする魔女(マスター)と、超能力の探査と格闘による白兵戦を得意とする眷獣(サーヴァント)

 鉄板な組み合わせだが、それ故に強い。

 このまま防御一辺倒では、この主従を倒せるイメージが湧かない。

 ならば、無謀でも攻撃を仕掛けるしか活路はない―――

 

「そういや……ここにいる那月ちゃんの身体は、魔力で造った分身なんだっけか」

 

 荒く吐かれる気息を整えながら、古城は思い出す。

 南宮那月はただの魔術師ではなく、悪魔と契約した魔女だ。

 膨大な魔力を自在に操る代価として、魔女は例外なく代償を支払っている。

 彼女に課せられた代償は『眠り』だ。

 <監獄結界>の管理人として、未来永劫、『自らの夢の中で眠り続けなければならない』。

 成長することも年老いることもなく、他人と触れ合うことすらできないまま、ただ夢を見続けるだけ―――

 そう、今、古城たちの前に立っている南宮那月は、彼女が魔力で造り出した操り人形。

 すなわち<空隙の魔女>の夢の一部に過ぎない。

 

「だったら、どうした?」

 

 いまさら何を言っているのか、と那月は平然と訊き返す。

 ここにいる那月は分身体。だからこそ彼女は無敵である。物理的な手段で斃すことはまず不可能であって、分身をいくら破壊したところで、南宮那月の本体には傷一つとして付けることはできない。

 <書記の魔女>の仙都木阿夜ですら、<空隙の魔女>の本体を攻撃するためには、絃神島全土を巻き込むような大異変を起こして、<監獄結界>をこじ開ける必要があった。

 無論、古城にそんな真似はできないし、する気もない。

 要はこの分身体を破壊して、彼女を一時的に無力化できればいい。その間に後輩を説得或いは行動不能にさせ、空港に辿り着き、さっさと島を抜け出すだけだ。

 

「一応確認しただけだよ。つまり手加減の必要はないってことだよな」

 

「まるで手加減しなければ勝てるとでも言いたげだな」

 

 暁古城――<第四真祖>の力は、災厄の化身の如き眷獣で、その凄まじく傍迷惑なくらい過剰な破壊力のせいで使う状況を限定してしまうもの。

 だが、この天災に巻き込んでも問題のない相手であるなら、召喚を構うまい。

 

「悪ィけど、こっちもいろいろと背負ってるものがあるんだよ!」

 

 本気を出す―――と宣告してきた古城を、那月は、一呼吸分嘆息して、蔑むように見下した。

 

「どうやらこの期に及んで、私の場数と殺神兵器(おまえ)の性能を理解できてないようだ」

 

 その肩を椅子に腰かけている己の眷獣(サーヴァント)の狼頭に那月は肘をかけるように手を置く。

 

「解禁だ。墓守としては不本意だろうが、この馬鹿の追試に付き合ってもらうぞ」

 

「ああ、サーヴァントは、マスターに従うもの。そうだろ、ご主人」

 

「ふっ、様付けを忘れなければ上出来だったな」

 

 『魔族大虐殺』と怖れられ、<監獄結界>の番人たる『鍵』の<空隙の魔女>の夢幻に繋がれる空間制御。

 斃してきた相手を軍勢に加える悍ましき<黒死皇>の資質を継ぎ、『完全なる死者蘇生』が可能とまで称される死霊術。

 

「貴様らが“遺産”とやれるかみてやろう」

 

 主従が織り成すその魔術が、この一帯に敷かれる。

 空間を塗り替えられて広がるのは、悪夢。

 

 

「我が名は空隙。禁忌の茨をもって墓守の猟犬と主従の契約を交わす者なり」

 

 

 呪句が、女の唇から大気にほどけていく。

 その意味を聴き、呪的回路が繋がって、付随的に遠吠えを響かせる銀人狼が淡く、そして昏く、闇色に発光しだす。

 

 

「やらせるか!」

「させません!」

 

 

 少女たちが疾走し、武神具にて術の発動を妨害しようとするも、まず根本的に人狼に速度で敵わない。霊視においても、先を読まれ、感情まで読まれている。心理戦の虚構(フェイク)が通用しない。

 そして、同門だから息の合ったように見えるその連携も、人狼からすればまだ拙く粗い、ほころびが見えた。その穴を縫うように避けて、主人の詠唱を邪魔させない。

 

「そこから離れろ、姫柊、妃埼!」

 

 膨大な魔力が古城の身体より発散されるのを視て、攻魔師の二人は異世界から眷獣が現出されるぎりぎりまで粘ってから、後退した。

 

疾く在れ(きやがれ)、<双角の深緋>!」

 

 引き継いだ<第四真祖>の血より喚び出されるのは、暴風と衝撃を司る緋色の双角獣。その音叉のような双角より放たれる超振動は、学園ほどの面積内の空間を激しく震わし、一瞬で壊滅的なダメージを与えられるもの。

 南宮那月が放つ不可視の爆風も、空間そのものを震わすことで、衝撃波を二次的に発生させる単なる物理現象だ。それと同じように空間を震わし攻撃する双角獣。その力は人一人の意識を奪えるどころか、周囲全体に破壊をもたらす。

 そして、原理が似ているのならば、より力の強い方が場の支配権を奪えるというのは当然の理屈である。

 

 双角より伝播した超振動波は、魔女を肩に乗せる人狼に直撃し、霧散した。

 蜃気楼のように像が揺らいで、霧散した。古城は愕然と息を呑んだ。いくら災厄の如き力とはいえ、後輩を一撃で跡形すら残さずに消滅させるほどの破壊力はない。同じく瞠目している雪菜は、その答えを口にする。

 

「幻術―――!?」

 

 直前まで至近で槍を交えていたはずの剣巫の霊視も欺くほどの、幻像。

 いったいいつやられたのかさえも覚らせない技巧が、自身だけでなく、猟犬も含めて振るわれた。

 

「っ、やられた! 隠れられたわ!」

 

 常に目を凝らしていた六刃の霊視から消えるほどの、透化。

 北欧の装身具に書き込まれた呪的迷彩で、自身だけでなく、主人の身をも覆い隠していた。

 

「くそっ、どこだ!」

 

 それは吸血鬼の五感にさえ拾わせないほど密やかに、世界と一体化するかのような気配遮断。

 闇雲に双角獣が暴風を撒き散らすも、掠ることもなく。

 

 

「今宵は暗月、闇夜を監視する目はなく、封絶された災禍は金狼の叫びに目覚め、現世を悪夢へ誘わん」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 刹那。

 世界は、変容した。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 変化は急激だったか。

 いや、むしろ“最初からそうだったか”のように自然極まりなかった。

 真昼が反転したかのような(くろ)の色が、この人工砂浜を含め、市街地から離れた一帯を埋め尽くしたのである。

 暗月の夜が訪れた。

 あまりにも静かな玄色の夜が、人通りの少ない海岸沿いの直線道路を塗り替えていくのだ。まるで電灯のスイッチを切ったように、いきなり落陽の刻を迎える。

 それは暗いというより、昏く。単なる光の有無ではなく、ある種の重ささえも湛えて、古城の肩にどっしりとのしかかってくる。この場の闇は何らかの物理的な意味合いさえ帯びているのだと、なんとなく古城も悟っていた。

 

「先輩」

 

 常夏の島であって、寒そうに二の腕を摩って雪菜が言う。

 

「ここ、時空が歪んでます」

 

「時空が?」

 

「『壺中天』と似たような一種の結界です。物理的な面積以上の広さが折り畳まれている。しかし、これほどの空間制御は……」

 

「流石は<空隙の魔女>といったところかしら」

 

 極夜の招くまま、暗月の領域はその範囲を広げていく。どうやら距離や面積といった概念さえも悪夢じみた空間制御によって騙せているらしい。

 

 そして。

 大きな明源が絶えて、常夜灯のような仄かな光しかないこの世界の輪郭、闇が盛り上がるように音もなく何体もの夜の住人が起き出す。

 見渡す限りの海一帯を、大小無数の群れが埋め尽くす。

 使い魔か。

 いいや、違う。

 地より這い上がるヒトガタは、曖昧模糊とした『影』だった。

 

「影?」

 

 雪菜が眉をひそめ、対する魔女が答えた。

 

「これまで<監獄結界>で眠らせてきた魔導犯罪者共の影、<闇誓書>の力で殻だけを再現した『ゾンビ』のようなものだ」

 

 『ゾンビ』というのは、制裁である。

 村落などの閉鎖された共同体において、罪を犯したものを罰するための一種の刑罰であった。毒薬や麻薬を使うことで、生きた人間の思考力を奪い、安価な労働力として使役する。魂魄の内の魂を奪われ、魄だけで動いている状態―――それが、『ゾンビ』

 死刑でもあり、懲役刑である。

 

 

「一匹残らず狩り尽くせ―――<魔女の騎行(ワイルドハント)>!」

 

 

 『ワイルドハント』

 妖怪、精霊、魔物、死者といったこの世のものならざる魑魅魍魎が『猟師』として、下界を駆け狩りを行う。

 戦争や疫病といった、大きな災いの前兆。

 死霊の大軍を目撃したものは、死を免れない。

 その群に加わる夢を見たか、『猟師猟犬』に狩られた者は、魂が肉体より引き離される。

 率いるとされるのは、世界を一周した海賊、騎士たちの王、北欧の主神、最初の咎人、そして、月の魔女。

 

「クロウ!」

「う。甦らせるぞご主人」

 

 古代欧州では、犬狼は守護神であり、亡霊を食らうもの。

 死体は肉が骨と切り離されるまでは、魂は解放されないと信仰があり、犬狼たちは、その肉体を食らってその者を自由にするとされた。

 北欧に伝わりし神話においては、狂戦士(バーサーカー)と犬狼は、いずれも死を表現するものであり、放浪者や犯罪者のような社会的に“死んだ”者と同義であり、『ワイルドハント』の一因であるといわれている。

 

 ここにある『影』は魂のない罪人たちの抜け殻(ゾンビ)を、現代の殺神兵器たる金狼の号令によって軍勢の一員である『猟師猟犬』と化す。

 

 <空隙の魔女>が自身の夢の異世界の中で眠らせてきた<監獄結界>の囚人の身体を<闇誓書>の力による再現を、『嗅覚過適応』で情報(におい)を嗅ぎ取った<黒妖犬>が死霊術の力でもって不足している魂――『固有堆積時間(パーソナルヒストリー)』を補強して、抜け殻の器を満たす。

 

「まずはおさらいだ」

 

 影の軍勢の先頭に立つ5人。

 老人。女。甲冑の男。シルクハットの紳士。小柄な若者。全身が黒く、色付けこそされていないが、それらはおそらくかつて古城が対峙した、『波隴院フェスタ』の脱獄犯たちだ。

 <監獄結界>でしか閉じ込めておくことができない凶悪な魔導犯罪者。

 ―――そして、古城たちが降してきた、一度は乗り越えた壁だ。

 

「そんな搾り滓の二番煎じが復習かよ! ―――<双角の深緋>!」

 

 頭部に突き出した二本の角を音叉のように共鳴して放つ凶悪な高周波振動の砲弾。

 それが命のない模造体であるのなら容赦する必要はない、手加減抜きで振るわれる<第四真祖>の眷獣を前に戦闘など成り立たず、巨大な竜巻がすべてを薙ぎ払う天災じみた光景が繰り広げられるだろう。

 しかし。

 前の時はただ的であった複製品(レプリカ)の5人とそれに率いられる影の軍勢は、双角獣の衝撃波を前に分裂した。

 

「っ!?」

 

 古城の眷獣は確かに影の軍勢を捕らえ、その半数を蹂躙した。だが、そのすべてを一撃で葬り去ることはかなわなかった。

 

 侮るな。

 かつて<書記の魔女>が創造した複製品(レプリカ)とは質も量も何もかもが違う。

 所詮は魂のない幻影に過ぎない、と。たとえ同じ能力が備わっていても、脅威度は格段に差のついた劣化品だ、などと侮ることは許されない。

 

 それは正しく魂の篭められた、狡猾に標的を狩る『猟師猟犬』であるのだから。

 

「力を雑に振るい過ぎだ暁古城。それが通用するのは真っ直ぐ突っ込むしか能がない人形だけだぞ」

 

 空中で無数に枝分かれした荊の鞭が、緋色の煌めく鬣を持つ双角獣に絡みつく。

 惨劇の歌姫――第三真祖の血統である『旧き世代』の女吸血鬼が振るう眷獣は、『意思を持つ武器(インテリジェントウェポン)』。<ロサ・ゾンビメイカー>の力は、『支配』であり、人間だけでなく、吸血鬼の眷獣さえも操ることができる。

 幉を噛ませられたように縛り付けられた双角獣が、支配能力から逃れんと暴れ馬の如く辺りに破壊を撒き散らしながらもがく。

 

「<深緋の双角>……!」

 

 制御権を奪われぬよう古城は自身の眷獣を強い意思で引き止め、惨劇の歌姫と綱引きする均衡状態に持っていった。

 ―――警戒するのは、ひとりだけではない。

 

「先輩! 危ない!」

 

 双角獣の動きが止まった―――その絶好の隙を逃さず、二本の角めがけ、兜割を下す一刀。

 甲冑の男が叩きつけた巨刀<殺龍剣(アスカロン)>は、眷獣をも殲滅する斬撃を放つ。堕ちた英雄の豪力に角を砕かれ、脳天から両断された双角獣が、苦悶の咆哮と共に全身を震わせ、突風を吹き荒らして爆発四散した。

 そして、眷獣を失い無防備になった古城は、すぐ新たな眷獣を召喚しようとして―――固まる。

 

「なっ……!?」

 

 古城は眼前にたつ紳士服の男と、目が合っていた。

 『下から伺い見る魔牛(カトブレパス)』の邪眼を取り込んだ美食家。その眼光に射された対象は、あらゆる動作を“静止”させられる。

 圧倒的な魔力を有する真祖を完全に動きを止めることはできないが、重圧をかけることはできる。

 魔力を邪眼の抵抗に回してしまっている以上、迅速な眷獣の召喚は無理があり、さらに古城へ群が一個である毒蜂の眷獣と龍殺しの巨剣が襲い掛かる。

 

「そこをどいてっ! <雪霞狼>!」

 

 身動きの出来ぬ古城のピンチを見た雪菜は、相手――魔力無効化の通用しない念動力を操る『天部』の末裔から、ある程度の被弾覚悟で強引にその暴風域を押し通り、龍殺しの剣撃を銀槍で受けた。

 しかし、少女の細い体躯で堕ちた英雄の一撃必倒の豪力を完全に受け切ることはできず、吹き飛ばされた雪菜の身柄は古城が受け止めるような形でぶつかってもつれ込む。

 

「世話が焼けるわね! <霧豹双月>!」

 

 炎精霊遣いの老人を斬り捨てた霧葉が二人の前に駆け付けると、毒蜂の群を双叉槍から放った灼熱の魔力で焼却する。

 

「姫柊、無事か!?」

 

「先、輩……」

 

 槍を盾にしても馬鹿力をもろにぶつけられた雪菜は、震える声で応えると、あらゆる魔力を打ち消す『神格振動波』を発動させた銀槍を軽く当てて、古城にかけられた邪眼の効果を解く。

 

「休んでる暇はないわよお二人さん! 次が来てるわよ!」

 

 雪菜を抱きかかえる古城をその陰で覆うのは身長3mを超え、体重は400kgに迫る巨体の人型。まるで筋肉の壁のような、凄まじい威圧感を発する巨大な魔族。

 それは『魔族特区』や『夜の帝国』でも滅多に見かけることのない、稀少種の魔族。巨人(ギガス)種族だ。

 低音楽器の響きに似た太い声で唸りを上げて迫る巨人は、背中から武器を抜いていた。巨人にとっては単なるナイフでも、普通の人間から見ればその刃渡りは大剣と変わらない。

そして、巨大なナイフは、単なる鉄の塊ではない

 古城は咄嗟に雪菜を突き飛ばし、それで回避行動が遅れた。

 

「っ、そ! またか―――!」

 

 白砂の地面が古城の周囲だけ陥没したように歪んでいく。

 大気が重苦しく軋んでいるのは、急激な気圧の変化によるもの。その変化はやがて堤防にも無数の亀裂を入れていく。

 自らを亜神の末裔と称する巨人の特性は、精霊の力を操る武器の作成。

 巨人種族の武器となるのは、巨体を支える筋力だけではない。大自然の過酷な環境に適応進化した結果、その肉体は極めて精霊と相性がよく、巨人は先天的な精霊遣いであるケースが多いのだ。

 そして、その精霊の力を用いた鍛冶の技術はアルディギアの『疑似聖剣』の原型だとも言われるもの。

 即ち、その短剣は、武器であると同時に魔器である。

 重力を操る、凶悪な魔剣。数百倍の重力は古城自身の肉体に重さ数tの負荷を掛け、わずか十cmの落差を、高度数十mからの落下の衝撃へと変える。

 しかもその超重量の影響範囲は、攻撃対象である古城が立っている場所に限定され、他の『影』へ負荷に巻き込むことはない。魔剣の効果とは無関係に古城を攻撃することができるのだ。

 

(……まだ、俺は見誤っていたというのか……?)

 

 全身を襲う凄まじい重圧に耐えながら、痛恨の思いに、古城はかられていた。

 この最後の梯子を外されるどころか、足元を突き崩された錯覚さえ感じる中で、ただただ一心に奥歯を噛み締める。歯茎を伝わる血の錆びた味が、少しだけ冷静さを取り戻した。

 

 

「もう降参か?」

 

 

 『影』は次々に数を増やしている。

 極夜をさらにべったりと塗り潰す―――単なる光の欠落とは別の何かによって、ここに形成される実体を持つ『影』。

 二十や三十ではない。

 数百どころか、千にも至ろうかという数の暴力。しかも、全体でひとつの群体の如く連携戦術を取る。

 ただでさえ個で指名手配されるような危険な魔導犯罪の実力者だというのに、司令塔の下で指揮されているのだ。

 

「まだだ!」

 

 この圧倒的な戦況に古城は危うく押し潰されそうになるが、その恐怖を振り払うべく、身の裡の魔力を全開放する。その爆発的な威力は巨人の重力攻撃をあっさりと無効化し、巨人を打ちのめすだけでなく周囲を陣取る他の『影』の群を後逸させた。

 ここでやられてしまったら、凪沙を助けに行けない―――だから、立ちはだかるものを全滅させてでも―――

 高く掲げた腕より、真祖の血と魔力を迸らせて、古城は新たな眷獣を召喚する。

 

「<獅子の黄金>―――!」

 

 全長十mを超える荘厳な猛獣。稲妻を撒き散らす雷光の獅子だ。

 <第四真祖>の『五番目』の眷獣<獅子の黄金>は、かつて人工島の一区画を一瞬で焦土に変えたことがある。その力は今も健在だ。

 そして、電気は鎖に通る。この性質から、たとえ那月が攻撃を仕掛けたところで、雷光の獅子は、その鎖を伝って彼女にダメージを与えるだろう。

 巨大な稲妻と化し、『影』の軍勢を壊滅させる雷光の獅子の突撃を止めることはできない―――!

 

 しかし、これでも那月の表情を微動だにすることもできなかった。

 古城の眷獣を見据えながら、一言、轟然と自らの影に命じるのみ。

 

「―――起きろ、<輪環王(ラインゴルド)>」

 

 南宮那月の背後より現れたのは、優雅さと荒々しさを併せ持つ、金色の甲冑を纏った機械仕掛けの黄金騎士。

 禍々しい存在感が、本来干渉しえないはずの時空を震わせた。

 闇そのものを封入したような分厚い鎧の内部より、巨大な歯車や駆動音を怪物の咆哮のように轟かす。

 

 ―――これが、那月ちゃんの<守護者>なのか!?

 

 黄金の騎士像は<空隙の魔女>と契約を交わしし、悪魔の眷属。

 <守護者>の文字通り、魔女を護り、願いを叶える力を与える。しかし、契約を破棄すれば、魔女の命を狩り取る処刑者と変わるもの。

 いわば魔女の契約そのものを具現化した存在であり、その力の強さは契約の重さに比例する。

 南宮那月の代償を思えば、彼女の<守護者>が強大であることは予想できよう。

 だが、それでも黄金の騎士像の異様な禍々しさは古城の想像を遥かに超えていた。

 

 そして、黄金の騎士像は、真正面から雷光の獅子と激突。

 

 凄まじい爆発が巻き起こり、超音速の衝撃波が海を割り―――雷光の獅子が苦悶の咆哮を上げた。

 黄金の騎士像が放つ真紅の茨――<禁忌の茨(グレイプニール)>が<獅子の黄金>の四肢へ絡みついたのだ。

 思いがけない力によって身体を捻り上げられ、魔雷は夜天だけを突き抜けた。

 

「<第四真祖>の眷獣を……力で抑えつけた……!?」

 

 戦いの行方を傍観していた霧葉が、呆気にとられたような表情で呟いた。

 正確に言えば、黄金の騎士像だけのパワーで雷光の獅子を縛りつけたわけではない。真紅の茨―――それに、魔女の眷獣(サーヴァント)たるクロウが、『嗅覚過適応』で自身の獣気(におい)を浸透させてより強靭にする『匂付け(マーキング)』を行っていた。

 主従二人の力で、<第四真祖>の眷獣を封殺したのだ。

 

「ぐ……おおおおおおおっ!?」

 

「無駄だ、暁……この<禁忌の茨>は千切れんよ」

 

 必死で雷光の獅子を操ろうとするが、この強制力は先の惨劇の歌姫の支配とは比較にならない。唇を噛み切るほど歯を食いしばる古城を、那月は傲然と見下し、

 

眷獣(それ)より、まずは自分の心配をしたらどうだ?」

 

 と、那月が肩に乗っていた銀人狼―――それが霞んで大気に溶け込んだ

 先と同じ、幻像で攪乱して注意を逸らし、『園境』と世界と呼吸を合わせて気配を断ち、呪的迷彩で姿を透化させる。

 

 六刃は、動けない。『影』の軍勢を相手している彼女に他をフォローする余力はない。

 剣巫も、同じ。少なからずの負傷を負っている彼女に迅速な対応は無理だった。

 

 そして、攻撃の瞬間まで、人狼を捉えるものは誰もいない。

 

 

「壬生の秘拳、サボテン!」

 

 

 『仙人掌』あるいは『覇王樹』と漢字で書くサボテン。

 それは彼の武帝が、不老長寿の霊験を得るために、仙人の巨像を造り、その掌に皿を乗せて、そこに集まった甘露を玉屑に混ぜて飲んでいた。手の平を差し伸べる仙人像の様と、サボテンの形と似ていたことを字の由来とする―――その名で放ったそれは、一撃必殺の“不死殺し”の技。

 

「、―――――――――――――――――がばっ!?」

 

 人狼の重ねた両掌が、古城の胴体に当てられ―――七孔噴血と弾けた。

 

「先輩っ!?」

 

 両目・両耳・鼻・口より、サボテンの針のように血を噴き出した古城は、そのまま仰向けて倒れた。

 それは、『仮面憑き事件』にて、『血に飢えた漆黒の狂獣(ブラッディウルフ)』をも仕留めたものをさらに中華拳法の『无二打』の型を取り入れることで洗練させて、ひとつの技として昇華させたもの。

 『匂付け』――己の生命力を植え付ける発香側の超能力の応用と死霊術の併用で繰り出した魔拳にて、不死と再生力の強い相手の超回復をさらに刺激して、その身を“腐らせる”。加えて“負”の生命力を“正”の生命力で“呑む”ように打ち込んでいるのだ。

 過剰なまでに増幅された超回復により回復不能のダメージを負わされ、吸血鬼には毒にも等しき聖気が浸透されたとなれば、立っていることなどできない。

 

 

「身をもって知れ、殺神兵器とはなんであるのか。そして、真祖は殺され得る存在だとな」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 荊の檻に囚われた雷光の獅子が、宿主の昏倒により、霧散消滅する。

 眷獣の実体化が解除された。すなわち、今の彼にそれほどの余裕がなくなったということ。

 

「先……輩……!」

 

 血塗れの古城を目にした瞬間、雪菜の瞳から光が消えた。

 あんなにも血を噴き出した瀕死の重体で、しかもその傷が治らない。いや、再生能力はまだ働いているようだが、いつもと比べればその速度は十分の一以下で鈍すぎる。

 このままでは、本当に、死んでしまうかもしれない。

 

「あ……あああっ……ああああああああああああああああぁ―――っ!」

 

 声を振り絞る雪菜に、獲物(こじょう)を仕留めたばかりの猟犬(クロウ)が、初めて動揺する素振りを見せた。

 悲痛とも雄叫びともつかない悲痛な絶叫だ。<雪霞狼>が目の眩むような激しい閃光を放つ。

 

「ふん。これで我を見失うとは、出来の悪い教え子がもう一人か……」

 

 その光にかき消されるように『影』の軍勢を薙ぎ払う。

 魔力を無効化する『神格振動波駆動術式』が封印され、ひとたび起動すればありとあらゆる結界を斬り裂く『七式突撃降魔機槍・改』は、魔女である南宮那月の天敵と言える。単純な戦闘能力だけならば圧倒的に那月が上だが、ほんのわずか一刺でも届けば、たちどころに形勢は逆転する。

 もちろん那月も、そのことは理解しており、そのため、槍の防御はクロウに任せており、そして巫女を攻撃の出来ないクロウの代わりに、那月が牽制攻撃を行う戦法を取っている。

 

 ギュンッ、と大気を乱暴に引き裂いて、虚空から鎖が雪菜に向けて放たれる。

 しかし雪菜はわずかな動きだけで、その鎖のすべてを撃ち落す。まるで飛来する無数の鎖の軌道を全て知っていたかのような反応速度だ。

 

「獅子王機関の剣巫の霊視……未来予知か。なるほど、よく訓練されている」

 

 言葉で称賛するが、那月の表情は変わらず落胆としている。

 

「だが、思考があまりに単純でお粗末だ。こちらから動きが読まれるようでは意味がない」

 

 純白の砂を蹴り上げて疾走する雪菜が、古城を背に立ちはだかっているように見えるクロウへと接近。

 その前の大気が歪む。

 空間制御による衝撃波の砲撃だ。

 不可視の衝撃波は、霊視でも視えない。衝撃波が放たれることは予測できても、その軌道や発射のタイミングはわからない。

 そして、勢いをつけて槍を繰り出そうとする雪菜には、放たれる衝撃波を緊急回避するには無理があった。

 だが―――それを力技で切り抜ける。

 

「<雪霞狼>!」

 

 魔力を無効化する『神格振動波』の閃光。それが作りし結界で、衝撃波を生み出す空間制御の魔術そのものを消去することで未然に防いでしまう。

 

「―――獅子の神子たる高神の剣巫が願い奉る」

 

 クロウへ槍の連撃を見舞いながら、厳かに祝詞を口ずさむ。

 増幅された雪菜の霊力によって、『神格振動波』の輝きがさらに増した。それは<雪霞狼>の穂先に沿って収束し、一振りの巨大な刃を形成する。

 彼女の身長の数倍にも達する、光り輝く閃光の刃だ。

 

「破魔の曙光、雪霞の神狼、鋼の神威をもちて我に悪神百鬼を討たせ給え!」

 

 ―――でも、当たらない。

 斬り払っても、それは分身か残像。限界に活性化させた霊視は翻弄され、雪菜が全身全霊で振るった槍撃は、悉く躱される。

 ならば―――

 

「<黒雷>―――!」

 

 裂帛の気合いと共に、雪菜は呪的身体強化(フィジカルエンチャント)を発動させる。人間の限界を遥かに超えた敏捷性で、無数の残像を従えてクロウに肉薄し、閃光と化した槍撃を放つ。

 

「<黒雷(くろ)>」

 

 だがしかし、雪菜と同時に、そして同じ呪的身体強化をクロウは発動させていた。

 ただ先までのやり取りが倍速となっただけで、攻撃が当たることはない。むしろ許容限界の違う強化比率から速度の差はよりつき始めていた。

 雪菜の高速連続攻撃も、絶対に槍の射程圏に入らないクロウには届かない。一定の距離感を保って、回避行動を続けられている。

 

(っ、ここで先輩を助けようにもクロウ君を止めないと―――!)

 

 古城が目の前で斃された怒りか、それとも血塗れの古城の姿から掻き立てられる焦りからか、いつもの手法とは違うやり方を雪菜は取らされていた。

 幻術で翻弄して、隙を鋭く突き通す、という師家様が仕込んだ身体能力に圧倒的な差のついた相手との戦法とは異なる。そのような悠長なことなどしていられない。

 とにかく、一撃。

 『過剰神格振動波』を身体に刻みつけて、クロウの行動を封じ込める―――!

 

 あらゆる魔術を打ち消す効果を持つ破魔の銀槍は、当然ながらそうした魔術に頼るものの天敵として機能するわけだが、戦うのが初めてか、二度目以降かで脅威度は大きく変わるだろう。

 平たく言えば、特性さえ理解していれば攻略法の組み立てようはある。

 

「はぁ―――はぁ―――!」

 

 考えなしに霊力を注ぎ込んだ結果、瞬発的に凄まじい猛威を振るった雪菜だが、問題は継続力。

 これほどの術式を、遮二無二になってずっと使い続けていられるのか?

 前提からして、雪菜よりもクロウの方が圧倒的に体力を有している。

 それで初めから攻撃の選択肢を取る気のないクロウが、戦闘力を全て防御・回避に回して、この猛攻に付き合えば、果たしてどれだけもつか?

 しかし全開の霊力を注ぎ込んで『神格振動波』の結界を張り続けなければ、不可視の衝撃波にて仕留められる。

 これでは分ももつのも怪しいくらいだろう。

 

「ん。ご主人」

 

 消耗具合を測ったクロウが、主人に合図を送る。

 虚空から周囲に落とされる小さな獣。見た目クマのぬいぐるみに似ている、二頭身の可愛らしい獣の群。

 それらは見た目に反した敏捷性を有し、かつ自爆戦法をとる魔女の使い魔(ファミリア)だ。

 使い魔たちが槍に振り回され始めた雪菜の四方を囲んで、爆発させ、衝撃波を撒き散らす。

 当然ながら、爆発地点から近ければ近いほどダメージは増す。距離を取った状態で行っても破壊力は減衰され、有効な打撃を与えることは難しくなる。

 しかし、それで構わない。

 大事なのは未来を先読みしても回避しようのない制圧を心掛けることで、小さくとも積み重ねれば、確実にダウンさせられるのだから。

 そして、霊力のすべてを攻撃に回してしまっている雪菜は、防御が華奢な女の子も同然の紙装甲に薄い。

 また、気づかせぬよう少しずつスピードを上げているクロウを速度設定(ペースメーカー)にして追い縋っていては、もうすぐに身体は限界を迎えるだろう。

 

「そんな(オモチャ)に頼っているから、肝心なことを見失う。未熟だな。養成所で一から鍛え直してきたらどうだ」

 

 無呼吸で長槍を振り続け、視野狭窄に陥りかけている雪菜がついに体勢を崩して転びかけたところで、虚空から銀色の槍が放たれる。膝が震え、槍を白砂について体を起こそうとしている雪菜に、その鎖を防ぐ力は残されていない。四肢を鎖に搦め捕られて、為す術もなく動きを封じられる。

 あとはこのまま、<雪霞狼>の能力をもってしても自力での脱出は不可能な<監獄結界>に連れ込んでしまえばいい。

 雪菜は必死に抵抗するが、今の荒い息を吐いている彼女には銀鎖から逃れられるだけの体力は残っていない。

 

「終わりだな」

「いいえ、まだよ」

 

 古風なセーラー服に赤いカーディガンを着た少女が鈍色の刃を振り抜き、雪菜の四肢を戒めていた銀色の鎖を焼き斬った。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「邪魔してごめんなさいね。『黒の剣巫』とも呼ばれる六刃神官としては、見習いとはいえ本家・獅子王機関の剣巫に、あっさりと負けてもらっては具合が悪いのよ」

 

 口で謝りながらも悪びれずに微笑するのは霧葉。くるりと陽炎に穂先が揺らいでいる双叉槍を旋回させて、その切先を那月、からクロウに向ける。

 あからさまな宣戦布告の仕草に、那月は短く鼻を鳴らす。

 

「教え子に余計なことを吹き込んだのは貴様か。太史局の小娘」

 

「あら、そんなちんちくりんな見た目の魔女に小娘だなんて言われたくないわね。殺すわよ―――」

 

 本性剥き出しにした好戦的な口調で言いながら、霧葉は横目で雪菜を見る。

 拡縮を繰り返す胸を押さえ、懸命に息を整えようとしながらも、未だに立つ気配のない古城の容体を気にかけている雪菜を眺めて呆れたように嘆息する。

 

「それで、すぐに動けそう? 私ひとりでこの二人を相手にするのは命懸けなのだけど」

 

 現状、まだ余力を残しているたったひとりの霧葉に、雪菜は言いにくそうに応える。

 

「―――すみません、妃崎さん。三分、時間を稼いでもらえませんか?」

 

「は!?」

 

 あまりにも身勝手な雪菜の依頼に、霧葉が眦をつり上げた。

 

「ふざけてるの!? たった一瞬の攻防でも数年寿命が縮む綱渡りなのよ? それを足手纏いを庇いながらなんて、随分と無茶を言ったものね!」

 

「わかってます。でも、お願いします」

 

 抜き身の苛立ちをぶつける霧葉を、真っ直ぐに見返して言う雪菜。

 その頑なな雪菜の態度は、まだこの状況でも諦めていない。瞳に強い光を宿して、底をついていたはずの霊力がまた湧き上がってくる気配に、霧葉はまた一度嘆息して、

 

「あなた……存外いい性格してるわね。<第四真祖>に少し同情してよ」

 

 皮肉交じりの捨て台詞を残して、霧葉は構える槍に“それ”をセットする。

 

「鏡か……」

 

 那月はわずかに目を見張る。

 鏡を使った魔術は、洋の東西を問わずに存在する。

日本の各地から銅鏡が発掘されたりするように、三種の神器のひとつに選ばれるように、今も占い師が鏡を使うように、はたまた多くの都市伝説に合わせ鏡やお手洗いの鏡が登場するように、魔術の発展には鏡という存在は欠かせない。

 

「時間稼ぎはいいけど―――別に倒してしまってもいいんでしょう?」

 

 

 

 くるり、くるり、と指と手首の小さな動きのみで槍を二度ばかり回転させてみると、双叉の狭間に嵌めた円鏡(ディスク)が光を反射しては角度によって輝きの色を変える。霧葉の目には、包囲する『影』も、宙空でこちらを見下す魔女も、入っていない。少女の瞳、そして鏡に映るのは、真っ向で相対する彼ひとり。

 

「……ふふ」

 

 六刃は、微笑む。

 何らかの歓喜を込めた口元であるはずが、ひどく、歪んで。

 どんな感情によって導かれた表情であるのかは、とても認識し難い。

 敵意、憎悪、憤怒、いずれとも該当していそうで、外れている。

 敬意、親愛、憂愁、いずれとも該当していそうで、外れている。

 でも、いずれにしても―――対象に執着していることだけは確かだ。

 

「ふふ、ふふふふ」

 

 笑みが深くなり、足元で影が伸びた。

 炎が、周囲に立ちこめていた。おおよそ人の頭ほどの赤々と揺れる鬼火が、霧葉の影を伸ばす。連続的に出現した鬼火は、十を超え、二十に至っても止まらなかった。ずらずらと並んだ鬼火は、古めかしい灯籠にも似て、この極夜を妖しい光で照らしあげる。

 

『妃崎が起きた時には全部終わってる。だから、眠ってろ』

 

 あの時、敗北を喫したが、それを燃料としますます勢いは増すばかり。

 狙い定め一度■したものを逃すことのない、獰猛の刃として、完成されていた。

 

 その鱗に生え変わる手が、愛おしむように鬼火の表面を撫でた。じりじりと見るものの肌を焼くほどの熱量がそこから放たれているのに、少女の指は火傷どころかほんのりと熱くなることもなかった。

 

 この身の裡に抱える情念の方が熱いと言わんばかりに。

 

「ええ、終わってた。<レヴィアタン>も、“獣王(アナタ)の監視役も”、色々と終わっていたわね」

 

 ぞろり、と少女の額に、半透明の“二本から三本に増えた角”が生えた

 会えない時間に育まれた情念は灼き尽くす炎となりて肉体の外へと溢れ出て、六刃は般若の如き魔性の角を生やして<生成り>を発現する。

 

「……ご主人、オレ、何か妃埼がすごく怖いのだ」

 

「厄介なのに目をつけられたのは同情してやるが、男なら自分が撒いた火種くらい処理しろ馬鹿犬」

 

 若干引き始めた主従に構わず、霧葉は双叉槍を振るいその名を唱えた。

 

「<霧豹双月>ッッッ!!」

 

 ただシンプルに、そして確実に。六刃が双叉槍を横薙ぎに振るった直後、世界の傷口から鮮血が溢れるように怒涛の勢いで炎が殺到した。神社仏閣の鐘を融解させるほどの大火力が直線的な鉄砲水のように暴れ回る。呑み込まれたものを焼きつくし、ぐずぐずに崩し、原形すら奪う情念の煉獄。

 それが一筆書きのように白砂の地面に円陣を描いて、雪菜と古城たちを遮断する鬼火の結界を築き上げた。

 

「本気で、ひとりで相手をするつもりか六刃?」

 

「いいえ。私ひとりではないわ」

 

 振るった双叉槍から円盤が射出される。

 高速で回転するディスクから、立体映像(ホログラム)が浮かび上がるように、“それ”が現れた。

 

「―――<(とよみ)>よ!」

 

 それは、式神。

 “魔力を複製(コピー)する”太史局の調伏兵器に取り付けられたのは、式神用の魔具だ。

 

 体長2m近い銀の人狼。

 白銀色と蒼色の法被(コート)を羽織り、ただ、枷のような大きな――魔女の所有物(サーヴァント)だと示す――『首輪』はあえてつけられていない。

 そう、クロウの前に現れたのは―――

 

 

「誰だお前?」

 

「……<黒妖犬(ヘルハウンド)>」

 

 

 ―――『南宮クロウ』だった。

 

 

 

つづく

 

 

 

黒妖犬服属日記

 

 

 

 オシアナスガールズの元気一杯の最年少、イメージカラーは黄色のラナ。

 リーダーのヴィカの決定で、単身で『黒妖犬の服属』にするということになった。

 これも自分たちを『戦王領域』に売った祖国への下剋上のため、有能な駒はひとつでも多く必要であるとかで、『王族のものの命令に二回続けて逆らえず』、『三度の攻撃を受けるまで巫女に攻撃できない』という“いかにも自分たちに扱いやすい”黒妖犬を従えようという話になった。

 こちらから攻撃しなければ、安全。だから、ひとりでも大丈夫でしょ、とみんなは言うけれど、必ず反抗されないわけではない。一度の拒否権はあるのだ。そして、変に無茶な事を言って機嫌を損ねれば、契約を破ってまでこちらに害するかもしれない。ヴァトラー様の側近さえワンパンチKOしたというし、もしそうなったら、私は絶対に死ぬ。

 

 だから、諾否のラインを把握するためにも小さなことからコツコツと確認するという目標を掲げて、この仮初の学園生活を行うことにした。

 

 

 

 12月〇日 朝のHR後

 

 ミッション1『教科書を貸してもらおう』

 

 イメージカラーは黒なヴァレリアの案だ。

 メンバー内でも良心的な彼女は、無茶ぶりなんて振ってこない。きっと幸先のいいスタートを切れるようにと考えてくれたんだろう。これなら私でもいける!

 

「ねね、クロウ君、次の時間の教科書忘れちゃったの。だから、貸してくれないかな?」

 

 そして、席隣だし一緒に見よう、とごく自然に誘うのだ。

 これで、お願い事を受けやすくさせると同時に黒妖犬のパーソナルスペースに接近する―――一石二鳥の作戦だ。

 

「? 何だ、ラナ。お前って意外とドジなんだな」

 

「えへへー、ラナ、実はちょっとドジっ子みたいだったり」

 

 そんなわけがない。生き馬の目を抜く王族社会でそんな不注意を侵すなんてありえない。これはアイドルという鳴物入りで転校してきたところで完璧でないと演出して、あえて隙を見せて、親しみやすくさせるアピールなのだ。

 

「あ、それならあたしが教科書貸してあげるよラナちゃん! はい!」

 

「え」

 

 黒妖犬の席の後から、暁凪沙が、こちらに教科書を差し出してきた。

 自分たちが最もターゲットにしている<第四真祖>暁古城の妹であることから、あまり彼女には強く出づらい。無碍に断り辛くて対応に困る。

 

「あー、凪沙ちゃん。クロウ君とは、席が隣だし、机を寄せれば一緒に見れるし……無理に凪沙ちゃんから借りることはないかなー。凪沙ちゃんも教科書は使うでしょ?」

 

「そうだぞ、凪沙ちゃん。次の教科は凪沙ちゃんの苦手な奴だし、教科書なかったら大変だろ?」

 

 よし。

 これならあとは自然の流れで行ける―――

 

「それに、オレ、教科書は予備があるからな」

 

 と机の上に同じ本を二冊出した。

 ……あれ?

 

「え……クロウ君、教科書ふたつ持ってきてるの?」

 

「ん。ここ最近、なんか私物がなくなるからな。念のために予備を持ってくるようにしてるのだ」

 

 だからはい、と教科書を渡される。

 

「あ、ありがと……」

 

 命令は成功したけど、作戦は成功したとは言い難い結果になった。

 

 

 12月〇日 授業中

 

 ミッション2『保健室まで運んでもらおう』

 

 イメージカラーは青のマルーシャの案だ

 メンバーの中でも乙女なマルーシャは、この絃神島に来てから情報収集(少女マンガ)を怠らず、年頃の男子の扱いに詳しいという知恵者。弱っているところを見せて、頼りにするというのが男心をくすぐるポイントなのだとか。

 

「ごめんなさい……少し、気分が悪くて……クロウ君、保健室までお願いできる?」

 

「? そうなのか? 別にいいぞ」

 

 連れ込んだ(運んでもらった)保健室という密室空間では、イベントが発生するとマルーシャは豪語する。……原理がまったく理解できないけど、そういう法則があるらしい。

 

「それなら、あたしが保健室まで付き添おうか? お世話になってたから保健室のことならよく知ってるし」

 

 とまた妹様から立候補される。

 こちらからは断り辛いんだけどさっきと同じように、黒妖犬から『保健室に連れてくくらいオレにもできるから大丈夫だぞ』と言われると、引き下がってくれた。

 よし。

 それから、よよよ、と立ちくらみがしたように、黒妖犬にしなだれかかるように身を寄せて、教室を退場。ただその際、あからさま過ぎたか、同じ教室にいる古城様の将来の正室候補である姫柊雪菜に訝しんで視線を送られたが。

 

「風邪っぽい感じはしないんだけど、疲れてるみたいだなお前」

 

 廊下を歩く際、こちらの身体を支えながら、『あんまり無茶するなよー』と素直に心配される。そう、仮病ではないのだ。アイドル活動だけでなく、兵器の扱いや電子戦の練習とか王女生活だったころにはしなかったようなことを日夜してるのだから仕方がない。

 だから、正直保健室で休めるのはありがたかったりするのだ。

 ……しかし、この黒妖犬、どれだけ媚を売ろうにもまったく効果がないように見える。古城様は水着姿に慌ててくださったのに、少し胸を押しつけてもまったく動揺しない。年頃の男子は、狼だと。実際、黒妖犬は狼系の獣化ができるようなのだけど。まったく異性の意識がないように見える。『朴念仁』と情報収集した際に、クラスの女子からそう評されているのを聞いたことがあるけど、まったくその通りだ。

 

(……そういえば、黒妖犬は、古城様とただならぬ関係と聞いたことがあるわね)

 

 そう、『彩昂祭』という文化祭で、演劇中の舞台に乱入して愛の告白をしただとか。

 ―――まずいそれは!

 『戦王領域』の人質にされたけどアルデアル公が女性に対して興味がないので全く手が出されず、若くも行かず後家の心配をしているこの現状。

 これでターゲットにしている古城様までアルデアル公と同じだったら、自分たち全員死ぬまで生娘のままではないだろうか?

 だめだ。そこまで女として終わってしまうのは絶対にイヤだ。

 

(聞くところによると、迫っているのは古城様であって、黒妖犬はそれに流される受けだとか。古城様の好みがたとえアブノーマルであっても、黒妖犬がノーマルであれば問題はない)

 

 ならば、ここはもっと押すべきか?

 

 よし。

 この時間には保健の先生がいないことは調査済み。

 二人きりの空間で迫れば、流石のお子様黒妖犬でもこちらを意識するはず! かつて王女で今は仮にもアイドルなのだからしないとこちらの女子としてのプライドに多大なダメージを受ける!

 

「アスタルテー、ラナが気分悪いみたいだからよろしくなー」

 

命令受託(アクセプト)

 

 あれぇ?

 保健の先生はいないけど、代わりに白衣を着たメイド――人工生命体(ホムンクルス)がいた。

 そして、その白衣メイドはこちらを診察(観察)するように一瞥して、

 

「―――状況把握。ミスラナは私に任せ、先輩は教室にお戻りください」

 

「う、アスタルテに任せれば安心なのだ。頼んだぞ」

 

 ちょっと待って……と。

 こちらが制止をかける間もなく、黒妖犬はごくあっさりとこちらの身柄をその白衣メイドに預けて、一度も振り返ることも後ろ髪引かれるようなこともなく教室へと戻っていった。

 

 一応命令は成功したけど、作戦は上手くいかなかった……

 

 

 12月〇日 休み時間

 

 ミッション3『校舎裏に呼び出そう』

 

 イメージカラーは白なミスリナの案だ。

 メンバーの中でも肉食系なミスリナは、躾の進捗があまり進んでいない不甲斐なさにこちらを叱咤してきた。そもそも、この手の輩に変化球なんてまどろっこしいことは通用しないのだから、ストレートに言うのが一番手っ取り早いのだとか。

 人気のないところに呼び出して、『私のイヌになりなさい!』とか言ってやればいい。もしそれで断られても、戦王領域流のジョークだと言って誤魔化せば問題ない。

 いつも黒妖犬を手玉にできたのかとか、ヴァレリアやマルーシャは手緩いとか言ってせっついてくる。だけど、速攻で勝負を決めたいというのには賛成だ。

 

「ここに来てって言われたけど、なんか用か、ラナ?」

 

 来たようね、黒妖犬。

 パンッ、と頬を自分で叩いて気を入れ直す。

 ここはドジっ娘な演出とか儚げに媚びるとかいう弱々しい要素はいらない。そう、傲慢に、高圧的に、上から目線でやるのだ。今まで作ってきたのとはギャップがあって、その威力はきっとすごいはず……そう考えれば、これまでの作戦も無駄にはならないと思えてきた。

 

 よし。

 今度こそやるぞ。

 舐められないよう強気に、ビシッと黒妖犬に指差して、

 

 

「南宮クロウ、私のものになりなさい!」

 

 

 ―――言った。言ってしまった。

 でもこれが上手くいけば、『黒妖犬服属』完了で、一気に下剋上を―――

 

 

 どてっ、と物音。

 

 

「あいたたた……」

 

 見れば、そこに校舎裏のやり取りを立ち聞きしていた人影が尻餅をついていた。

 そう、それは……

 

「あたしが運痴だってこと忘れてたけど、咄嗟に、動けないなんて、どんだけ……」

 

「暁凪沙! ちゃん……!?」

 

 最もやりにくい人物――暁凪沙である。

 こちらに呼ばれて、慌てて立ち上がった古城様の妹様は服や足についた砂を払うと、わたわたと首を横に振り、

 

「あっ、あの、きっ、聞いてないからねっ。私のものになりなさいとかどうとか、全然、まったく、これっぽっちも聞いてないからっ」

 

 驚くくらいに嘘下手である。もう、思わず突っ込みたくなるほど、ぼろ出し過ぎである。

 なんか、もう瞳がグルグルしてて、物凄くパニくってるのがよくわかる。

 

「ごめんねっ―――」

 

「あっ」

 

 そのまま暁凪沙は逃げるように校舎裏から去っていった。

 

「凪沙ちゃん―――」

 

 そして、それを追い掛けていきそうな黒妖犬。

 それに慌てて待ったをかけた。

 

「ちょっと、まっ、待ちなさいっ。私、まだ答えをもらってないわ。今すぐ跪きなさ―――」

 

 “お願い”の効力が働いたからか、黒妖犬は立ち止まった。

 ここで何にも頷かれないままでは困る。こっちは命懸けの一世一代の大勝負のつもりだったのだ。だから、<禁忌契約>を逆手に取った強権を働かせてでも―――

 

「ごめん、お前の話、よくわからんから、あとにしてくれ」

 

 と言い残し、黒妖犬はスタスタ行ってしまった。

 何の躊躇もなく『王族の頼みごとを二度続けて破る』という誓約を破り、呆気なく『獣王』の力を封じられて―――“そんなことよりも”、暁凪沙が心配だというように。

 

 

 ……命令に失敗。作戦も大失敗に終わった……

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「えーと、えーとえーと……ラナちゃんがクロウ君に私のものになれって言ってて……それってつまりラナちゃんはクロウ君のことが……」

 

「おーい、凪沙ちゃん」

 

「く、クロウ君……!? え、何で凪沙追ってきてるの!?!?」

 

「むぅ。転んだから大丈夫か心配して……なんか、まずかったか?」

 

「へ、あ、うん、あ、ううん! だっ、大丈夫だけど、そ、その、こっ、こっち来ちゃっていいの? なっ、何か大事な……話……してた……みたい……だけど……」

 

「……大事な話? そんなのしてたのか?」

 

「あ、あれ? だって、ほら、さっきラナちゃんが、私のものになりなさいって告白して……たよね……?」

 

「??」

 

「何で首を傾げちゃうのかなクロウ君っ!?」

 

「よくわからないけど、オレはご主人の眷獣(サーヴァント)だから、ラナのものになるつもりはないぞ」

 

「えっ!? そっ、そういう意味、だったのかなあれ……え、っと、じゃあ、あたしの勘違い……??」

 

「それよりも、やっぱり足を擦り剥いてるぞ凪沙ちゃん。ばい菌はいる前に消毒しないと大変だぞ。保健室まで連れてくから、背中に乗っかるのだ」

 

「あ……うん。よろしくお願いします……!」

 

 

 12月△日

 

 

 先日の『黒妖犬服属』作戦は失敗に終わった。

 でも、どうにか立て直すことはできた。

 言葉を尽くして、『私のものになりなさい』と言ったのを、『友達になってください』という解釈に曲げさせた。

 流石に無理があるかなー……と思ったけれど、そこは人の言うことを素直に受け入れてくれた黒妖犬のおおらかな性格に助かった。

 それと、暁凪沙より、『黒妖犬(クロウ君)のことを気にかけているみたいだけど……』と尋ねられたが、そこは、『肌の色が似てたから、つい同郷の人かと思って、話しかけやすかった』と答えて、ひとまず余計な軋轢を生まずに落ち着けたと思う。

 ただ、これは振り出しに戻っただけで、それと『黒妖犬服属』作戦がいかに難しいのかを思い知らされた。

 これはまず、あの<空隙の魔女>に対する忠誠心とやらをどうにかしないと引き抜きは無理っぽい。そもそもあの北欧アルディギアの王族から何度も勧誘されているのに断っているというのだから、没落した元王族の小娘の誘いに乗るわけがなかったのだ。

 結局わかったのは、自分ひとりじゃとても無理だということである。

 

「ねぇ、『黒妖犬服属』の作戦はどうなってるのかしら?」

 

 イメージカラーは赤。自称メンバー一の魔性の女で、年長(19歳)のヴィカが進捗を訊いてきた。

 とりあえず、何も進歩がないというのは、流石に言えないし、『友達になることはできた』と報告した。

 

「そ、まあいいわ」

 

 とあまり期待でもしてなかったのか、あっさり流すヴィカ。

 ……そちらもいろいろ(19歳)と誤魔化して学園に入学したのに、古城様との関係が全く進展していないようだけど。

 

「黒妖犬は、アルディギアとの結びつきが強いのよね?」

 

「そうらしいけど……どうしたの、ヴィカ」

 

「これを見てちょうだい、ラナ」

 

 前に投げ出された雑誌記事に掲載されているのは巷で『ドラゴンキラー』とか騒がれている『オシアナスガールズ』のライバル――『ミラクル☆カノン♪』の特集だった。

 

「この容姿、間違いなくあのラ=フォリアの関係者ですわ」

 

 まだ売り飛ばされるまでの王女であったころ、ヴィカが社交界のライバル視していたという北欧の姫御子。その世界的にも多くのファンがいるというお姫様と似ている綺麗な銀髪と蒼色の目は間違いなく、リハヴァイン家のものだとリーダーは言う。

 

「アルディギアと懇意にあるという黒妖犬なら、この新人アイドルともコンタクトができるはずでしょう」

 

「えー、っとヴィカは何を……」

 

「まだわからないかしらラナ? これはラ=フォリア=リハヴァインの策略よ。ええ、きっとまた何か腹黒いことを考えているに違いありません! だから、その活躍はなんとしてでも阻止しなければならないのよ!」

 

 口角泡を飛ばす金髪美女。

 こうなったらもうメンバー最年少のラナに逆らえるわけがなく、

 

 

「黒妖犬を通して、新参者と渡りをつけ、何としてでも、私達、『オシアナスガールズ』とイベントでアイドル勝負をすることを了承させるのよ! そして、ラ=フォリア=リハヴァインに似た『ミラクル☆カノン♪』をコテンパンに負かして公衆の面前でみっともない恥を晒させ、うなぎ登りな人気を幻滅させる! 『出る杭は打ち抜く』作戦ですわ!」

 

 

 

つづく?


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