ミックス・ブラッド   作:夜草

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太史局関係のオリキャラひとり追加。




逃亡の真祖Ⅲ

太史局

 

 

『『力』ってのは結局のところ、どういう理屈でも『力』。清浄な風だろうが、澱んだ風だろうが、風車は動く。そんだけの話。使い手の資質や取り込んだものの清濁を問わず、『力』を振るえるのが、霧の字。わっちがあんたにやった『乙型呪装双叉槍』――<霧豹双月>だ』

 

 

 獅子王機関に高神の社の訓練生に武芸百般や退魔の武術を教授し、一騎当千に鍛え上げてきた特別指導教官を務める長生(エルフ)族の『師家様』がいるように、太史局にもまた優秀な技能を買われる魔族がいる。

 調伏兵器の開発に携わる矮人(ドワーフ)族の『作鏡連』。

 あの工房に引き籠りな、和装の枯れた女の矮人は、刀でも槍でも、あるいは魔獣でも、要は何でも構わず、彼女が竈に放り込んでよく熱し、丹念に金槌で叩いたものは全て怪異が宿る。例えば一騎当千の霊刀に、あるいは人語を話す使い魔に。鈴鹿御前の引き合いに出すまでもなく、時には浮遊し自動的に標的を切断する武神具を製作したこともあるという、超常の兵器設計で、『乙型呪装双叉槍』の開発者。

 

『方向性の違いっていうのかね。わっちから見れば、獅子王機関の武神具は、性能は優秀でも、兵器としては落第点。特に『七式突撃降魔機槍』は、毒が強過ぎる。ありゃ、使い手を『力』の虜としちまう妖刀の類さね。己を律してないとすぐに呑み込まれちまう』

 

 武神具は、兵器でしかない以上、使い手によって性能を左右される。さらに言えば、人を選ぶ。

 『六式重装降魔弓』は、最も優秀な腕を持つ舞威姫でなければ、扱えない。

 『七式突撃降魔機槍』は、腕よりも槍と相性のいい剣巫でなければ、真の性能を発揮できない。

 獅子王機関の武神具の力は凄まじいものだろうが、使い手によって性能は上下するので不安定で、また担い手が限定されてしまうというのは、兵器としては欠点であり、失格だ。また、いくら手足の延長のように武神具を使えるようになったところで、それはあくまで延長であって一心同体ではなく、微妙な差異(タイムラグ)はけしてなくならない。

 そして、限度を超えようとしあまりにのめり込み過ぎれば、所有者は武器に自我を呑まれる。

 所有者を選ばず、安定して最高の性能を出せるというのが、最高の兵器―――

 この理念からするに、殺神兵器という『命令に自立行動し、学習能力を持たせた兵器』は、ひとつの完成形だろう。

 所有者の腕に問わず、兵器自身が担い手である以上、最高の性能で安定している。

 しかし、それには重要な点がある。

 素材の強度や技能の練度は言うに及ばず、兵器でありながら担い手であるために、精神が重要になる。

 兵器として設定された能力や性能を100%ではなく、120%に引き出せるだけの精神力を得てこそ、殺神兵器は完了する。

 <ナラクヴェーラ>という殺神兵器もあったが、あれは学習できる知能があっても、心がない。故にあれは、殺神兵器としては未完了な試作品であって、それらの試行錯誤で研鑽してきた果てに『四番目の真祖』という“心を持った殺神兵器”が生まれた。

 

 

『わっちが太史局にいるのは、『天部』の残した魔獣――殺神兵器を、わっちの武神具が征するため。霧の字は、言葉遣いはいくら丁寧でも目つきが悪い。行儀の良い娘とはとてもいえない。けど、そんな“いい悪い肝っ魂”をもってるからわっちは買ってるんだ。だから、『力』を呑んでも呑まれるんじゃないよ』

 

 

人工島東地区 空港

 

 

『藍羽浅葱さん、おひとりですか?』

 

『はい』

 

『滞在先は?』

 

『東京です。都内で大学生をやってる姉に会いに』

 

『発熱、嘔吐、下痢などの症状は?』

 

『ありません』

 

『3ヶ月以内に吸血鬼に血を吸われたことは?』

 

『へ!?』

 

『もし、心当たりがあれば、四番窓口で再検査を』

 

『あ、いや、ないです。全然なし!』

 

『………』

 

 

 係員に疑われたがなんとか愛想笑いでごまかして検問を突破し、無事に出頭許可のスタンプを手に入れられた。

 大丈夫、ウソはついていない。

 姉は現在、大学進学を機会に絃神島を離れて、都会暮らしで、最後に会ったのは半年近く前のこと。

 それに、吸血行為は……されていない。まだ吸血鬼と正体を知る前、妙なテロ騒ぎに巻き込まれてからその変な勢いで口付け(キス)したことはあったが、もうそんなのうやむやになっててないようなもの。

 

『健気だねぇ嬢ちゃん。チューチューと血は吸われてなくても舌を絡めてベロチューした古城の兄ちゃんのために、本土まで行くなんてよ』

 

「別に古城たちのためってわけじゃないから―――って、ベロチューなんてしてないわよ! つか、なんであんたがキスのこと知ってるのよ!?」

 

 コートの胸元にしまったスマホのスピーカーから勝手に流れてくる妙に人間臭い合成音声。相変わらず、こちらの個人情報(プライバシー)を侵害してくれる性格の悪さ、でも使い勝手は良い相棒の人工知能(AI)だ。

 ケケッ、と絃神中央空港の面倒な手続きを済ませたばかりの浅葱に挑発的に笑ってみせる。

 

「それから、凪沙ちゃんのことを心配してるのはあたしも同じなの」

 

『ん』

 

「どうせ古城の馬鹿も、今頃どうやって本土に渡るかで悩んでることでしょうし。いつも通りに、あたしひとりを蚊帳の外に置いてね」

 

 それがむかつくのだ。

 妹に対して過保護な古城のことだから、本土まで凪沙を捜しに行く、と遅かれ早かれ間違いなく言い出すに決まっている。

 すると監視役を自称する雪菜も、当然のように古城についていく。

 それで浅葱の方は、情報だけを調べさせたらあとは迷惑をかけたくない、などともっともらしい理由をつけて手切れにする。これまでの経験から言って予言できる。確実に置き去りにされる。

 ―――そんなの冗談じゃない。

 浅葱にとっても凪沙は大事な存在だ。それにこの真実を知りたいという欲求もある。大体未登録の魔族である古城とは違い、こちらは合法的に絃神島から出られるのだ。凪沙の行方を調べるのは、どう考えても自分がやる方が適している。

 もちろんこれが危険であるのは承知している。だけど、最初からその心構えさえできていればそれなりの対策もできるのだ。

 向う見ずに行動して、あっさり罠に落ちてしまうようなドジ古城とは違う。

 

(そうよ。だいだいあいつは、バスケの試合で何度もマークされても独りで突っ込むんだから。パスプレイとかやりたがらない、スタンドプレー野郎だったし)

 

 目を瞑りながら脳内で愚痴をぶつけていると、

 

『嬢ちゃん嬢ちゃん』

 

 モグワイからの呼びかけに、なによ、と浅葱は鬱陶しげに応える。

 またくだらない冗談を言うものなら、電源を切って放置してやる―――と意識を内から外へ向けて気づく。

 

 ……あれ? 搭乗口って四番じゃなかったっけ……? 何だか妙に空いてるような……?

 

 今日は元旦ということもあって、空港の利用客が少ないのはわかる。でもこれは、無人というのはありえない。職員の数までいなくなっているというのは、さすがに異様な光景だ。

 壁の電光掲示板を見上げても、事故が起きたというニュースは流れてないし、予定時刻もいくつかの便と発着と搭乗ゲートがズレているだけ。これと言って異変とは呼べない、どこの空港でも見かけるありふれた風景である。

 

 だが、変わった兆候はないこの状況に、浅葱は本能的な違和感を覚える。この空港という巨大なシステムに隠れて、何らかの処理が行われているという、浅葱ならでは直感だ。

 そして、その感知した違和感を具体的に示してくれるのは、警告を発してくれた最高の電子演算頭脳の持ち主。

 

『まずいぜ、嬢ちゃん。ここを特区警備隊が囲っている。武装警備員が16名を、3班に分かれて職員通路を移動中だ。あと1分40秒で完全に包囲されるぞ』

 

「は? まさかあたしが狙われてるの!? 冗談でしょ!?」

 

『とにかく捕まりたくなかったらこのまままっすぐ走って60m先の階段だ。そこを降りれば誘導路に出られる。その先は新年さっそく運試しになるが、建物中には逃げ道はないな』

 

「ああもう! なんで正月早々こんな目に遭うわけ!?」

 

 どうやらこちらも想定を上回る事態に陥っているようだ。

 呆けている場合ではなく、現実に迫る危険から逃れるため、人工頭脳の案内(ナビ)通りに、キャリーバックを抱え上げた浅葱は走り出す。

 

「そこの女の子、止まりなさい! 止まれ!」

 

 背中から呼びかけられる制止を振り切る浅葱。

 それに黒ずくめの防護服で装備を固めた男たち――特区警備隊の空港警備隊が空港内の連絡通路を通ってこちらに走ってくる。その足音を聞きながら、階段を駆け下りた浅葱だが、相手は対魔族用の銃器で武装した攻魔班である。

 そんな連中に狙われる心当たりはないが、しつこく追跡してくる彼らを振り切る術を魔族でもない一般庶民は持たない。

 

「警告に従わない場合は、魔族特区条例に基づいて武力を行使します!」

 

「え!?」

 

 思わず振り返った浅葱の頭上を、何かが通過して、ガラスが粉々に砕け散った。今反射的に動いてなかったらあたっていた。やたら正確な照準の威嚇―――というより、これはもう武力行使に入っちゃってる!?

 

「ちょ……どうなってるのよ、モグワイ!? あいつら本当に撃ってきたわよ!」

 

 女子の悲鳴にかまわず連射。降り注ぐガラス破片の雨から逃げながら、浅葱は若干キレ気味、八つ当たりのように相棒の人工知能へ怒鳴り散らす。

 こんなピンチの状況もむしろ面白いとでもいうようにクックと笑ってみせるモグワイ曰く、

 これは魔族捕獲用の粘着ポリマー弾。つまり、接着剤の塊であって、まあそれでも高速で発射された物理的な衝撃は軽く窓ガラスを割るほどはあるみたいである。

 そして、これまで何の問題を起こしたことのない浅葱が狙われている理由については、『浅葱を絃神島から出したくない連中がいるということ』と簡単に推察を語る。

 

 本土行きの飛行機に搭乗直前となったところで『待った』がかかって、それまで誰かに狙われてたという事実はない。

 絃神島内の監視カメラを掌握するモグワイが、主人(あさぎ)に対する備考に気付かないはずがない。

 

 となると、これは暁凪沙が関わっている事件がらみか?

 

 これは思ったよりも相当ヤバい案件―――そして、藍羽浅葱(じぶん)にも関わりがあることなのかしら?

 

『次の角を左だぜ、嬢ちゃん』

 

 立ち入り禁止区域の駐機場横の貨物積み下ろし口を息を弾ませながら駆け抜けていく浅葱は、不幸中の幸いで事前に特区警備隊の連中が追い払って空港職員もいないため咎められる面倒はなかった。

 あとはモグワイが警備隊の動きを先読みして指示を出してくれれば、何とか逃げ切れるか―――

 

「―――って、行き止まりじゃないのよ!?」

 

 浅葱の行く手を遮るよう、絶望的なまでに高い鉄柵が待ち構えていた。

 現在地がわからず、相棒の案内のままに走ったというのに、そこは袋小路。柵の頂上部には何重にも張り巡らされた有刺鉄線があり、どうやっても乗り越えられそうにない。

 これから引き返そうにも、すでに特区警備隊は距離を詰めており、包囲網を完成させている。

 

『いや、こっちであってるぜ』

 

 こんなこともあろうかと、ちゃんと待機させていた護衛を呼んどいたんだ、と。

 

 黒光する銃口を一斉に向けられてチェックメイトを迫られる状況下において、人工知能は勝ち誇るように笑ってみせる。

 

 直後、鉄柵の障害を突き破る炸裂音が、浅葱の背後で轟いた。

 

 思わぬ不意打ちの衝撃で、浅葱はその場でへたりこんでしまうも、行き止まりを粉砕して現れるその見覚えのある多脚の物影(シルエット)。噴煙が晴れた時、見えたのは真っ赤に輝くド派手な装甲。そうそれは、市街地戦を想定した対魔族用の超小型有脚戦車(マイクロロボットタンク)だ。

 まるで生き物のように照準用のカメラをぐるりと旋回させて、浅葱に合わせて、

 そこですかさず特区警備隊の武装警備員が応戦。

 けれど、対人用のサブマシンガンでは、この戦車の装甲の前では豆鉄砲も同然だ。おかえしに前脚に仕込まれた対人機銃が掃射されて、警備員たちを薙ぎ払う。低致死性のゴム弾とはいえ、威力は絶大の7.62mm機銃。警備員たちは防弾装備語と吹き飛ばされて悶絶する。

 そして、第一陣を制圧したところで、誓ン社外部スピーカーからその個性的な口調の声が流れ出す。

 

『どうやら間に合ったようでござるな、女帝殿』

 

「あんた……<戦車乗り>!?」

 

 この舌足らずな声と、それに似合わぬ時代がかった暑苦しい言葉遣いは間違いない。

 リディアーヌ=ディディエ。浅葱のバイト仲間にして稀代の天才ハッカーだ。

 この前は敵対したこともあったが、なんだかんだで浅葱に懐いているリディアーヌは、浅葱のピンチを見捨てては置けないだろう。

 

『いかにも。しかし、モグワイ殿の要請により推参仕ったのは拙者だけではござらん』

 

 有脚戦車から腰の抜けてる浅葱の前に、飛び降りたのは、和服にエプロンドレスで着飾った真っ白な少女。

 しなやかな体躯と、真珠のような艶やかな肌。完全に左右対称の彼女の面差しは、精密な工業製品を連想させてくる。

 

お嬢様(マスター)、お求めの品はこちらでよろしいですか?」

 

 数十のお守り袋を浅葱に差し出すのは、浅葱がわざわざ時間のかかる無茶な命令――絃神島内の全神社仏閣にお参りしてお守りを買ってきてとパシリをさせて引き離していたはずの、お付きの人工生命体のスワニルダ。

 

「っ、撃て! 決して逃すな!」

 

 そこで射撃の雨が襲う。

 咄嗟に抱きかかえられた浅葱だが、重荷を抱えるスワニルダの動きは鈍く、盾にした左腕が皮膚が裂けて、ちぎれ飛ぶ。

 そして浅葱は絶句した。

 スワニルダの左腕が床に落ちて、流れ出した体液が血だまりを作った。その血だまりは、鏡のように反射して、美しい銀色に輝いていた。スワニルダが左腕から流れた血が銀色だった。

 とろりと粘性を帯びたその液体―――独特のその光沢は、水銀と同じ液体金属のたぐいだ。

 そして、その金属質な体液は、時を遡るように元の腕の形へと巻き戻る。

 

 

「―――人工生命体保護条例・特例第二項に基づき自衛権を発動。武装制限(リミッター)を解除します」

 

 

 こちらに銃口を向けていたのは、空港設備に配置されたドラム缶に三脚がついたような10体もの警備ロボット。

 生体人形スワニルダは、人造の肉体に機械人形の部品を組み込んだ、いわば人工生命体版魔義化歩兵(ソーサラスソルジャー)だ。彼女の体内には十徳ナイフのように複数の魔具が搭載されている。

 その戦闘力は、スワニルダの捕獲に出向いた魔女の見立てでは、対魔族層の特殊兵器で武装を固めた強襲部隊でかかっても、まず相手にならない。

 

「ちょ、危な―――」

「―――ここで待機してください、お嬢様(マスター)

 

 避弾性を高めるために曲面を多用した有脚戦車に浅葱を乗せると、抑揚無く言って、<水銀細工(アマルガム)>が振り返る。

 消えた。

 次の瞬間、重力の束縛など無視するかのように、『スワニルダ』と個体名をつけられた人工生命体は、警備隊の第二陣と共に現場急行する警備ロボットの頭上へと飛翔していた。

 

「……っ!」

 

 浅葱が息を飲む。

 揃った両足を空へ、純白の髪をなびかせた頭を地面へ向けた宙返り(ムーンサルト)

 その頂点で、左手が振るわれた。

 同時、左腕が銀色に変色し、また形状が伸長する。

 その正体は、浅葱は見知ったものだった。

 やはり、あの液体金属は、あのとき、後輩(クロウ)を瀕死の重体にまで追い込んだ『霊血』と呼ばれる錬金術の産物。生体人形が搭載する電子演算脳が、<錬核(ハードコア)>の自己保存を代用を果たす。変幻自在な液体金属は、機械人形の神経と同化した電子コードを受けて硬化。単分子刃に匹敵する鋭さと、日本刀の粘りを備えた、美しい白銀の剣の顕現。

 生体人形の跳躍を感知して、警備ロボットの射線もまた上方へ流れた。

 しかし、さかしまにひた走る白銀の左剣は迅雷であった。

 

 ―――硬い音が鳴った。

 

 その場で、小さな音を立ててばらける警備ロボット群に、警備隊も浅葱も瞠目した。

 何という早業だ。

 少し遅れて、生体人形も着地し、自らの成果を冷たく見据えた。

 その有脚戦車にも劣らずの性能を誇る警備ロボットの特殊合金装甲が、今、生体人形の剣を前に一斉に両断されたのだ。

 指揮していた警備隊はその現象に凝固し―――すぐさま、銃器を危険度の高い生体人形へ向けようとする。

 そんな彼らの足首に、不意に糸が絡み付く。肉眼では見えないほどに細い傀儡使いの糸だ。しかしその材質は強靭で、ナイフを使っても容易に切断することはできない。

 その糸に意識を向けるが、すでに遅く―――直後、警備隊の第二陣は順々に逆さ吊りにされていく。

 警備ロボットを無力化する解体作業と並列して、この仕事人は迅速に罠を張り終えていたのだろう。

 

「ああもう、どうするのよ、これ!? 完璧にテロリストの所業じゃない!?」

 

 警備隊を壊滅していく凄惨な光景に、浅葱は頼もしさも覚えるが、やはり一般人の感性からして心配する。

 モグワイが救援で呼んだ新年紅白めでたい助っ人たちは優秀であったが、優秀過ぎる。まず戦車の主砲で鉄柵を吹き飛ばし、複数の魔具を持つ十徳ナイフじみた生体人形が警備戦力を不能にする。これ、もう護衛の範疇を超えている。

 しかし紅の助っ人リディアーヌは、そんな浅葱の心配を朗らかに笑い飛ばす。

 

『問題ござらぬ。この場さえ無事に切り抜けてしまえば、後でいくらでも揉み消しが効くでござる。ことが公になって困るのは、おそらく先方も同じ故。

 ―――そんなことよりも、女帝殿。南側404駐機スポットでござる』

 

 戦車の胴体部に内蔵されていた作業用のマニピュレーターが器用に指差すのは、誘導路脇の駐機場。そこには、大きな翼の両端にやや小さめのプロペラを掲げ、まるでヘリコプターと飛行機の合いの子のような風情を醸し出している――ティルトローターの多目的輸送機が止まっていた。

 ローター自体を傾けて空を飛ぶ、垂直離着陸機(VTOL)は、ディディエ重工製『パンディオン』

 

『僭越ながら、拙者の判断で輸送機を待たせており申す。このまま本土へと高飛びするでござるよ。()ぐるを上と為す、でござる』

 

 そりゃあ、確かにこのまま飛行機に乗せてもらえるとは浅葱も考えていない。今更空港ターミナルビルに戻ったところで、何事もなかったかのように予約してあった旅客機で本土にわたる、というわけにはいかないだろう。

 かといって、このまま絃神島に残るのは危険であり、揉み消し工作が終わるまでは、ほとぼりを冷ます必要がある。

 それを冷静に認めつつも、この特攻野郎みたいな展開には浅葱もがっくりと肩を落としてしまうというもの。

 

 しかしそこへ辿りつく前に、ガクン、と急停止する有脚戦車。車体を支えていた四肢の関節が張力を失って、地面に激突した走行が火花を散らす。

 

『ぬっ!? がっ……!?』

 

 今度は何!?

 <戦車乗り>から操縦権を奪い、戦車制御が失われる。

 その原因は、有脚戦車の足元の地面に浮かび上がる光輝く文様。そこから呼び出されて、戦車の関節部にしがみついている半実体の使い魔たち。

 

『『邪妖精(グレムリン)』だ。特区警備隊の攻魔官だぜ』

 

 冷静に分析する人工知能。

 『邪妖精』とは、機械や電子機器の動きを狂わすことに特化した特殊な軍用妖精。攻魔師同士の戦闘ではほとんど役に立つことはないが、有脚戦車のような最新兵器が相手ではその効果は絶大だ。

 

「なんでこの善良で清楚なバイト女子高生を相手に攻魔官が出てくるわけ!?」

 

『善良で清楚かどうかはともかく、戦車相手に魔術ってのは正解かもな』

 

 この電子機器を狂わせる『邪妖精』は、浅葱を電子ネットワークから切り離して、本当に無力な女子高生にしてしまえる、天敵。

 『邪妖精』に捕まってしまったこの絶体絶命の窮地―――それは、あっさりと抜けられる。

 

「対象属性把握。戦術オプションB5を選択。執行せよ(エクスキュート)―――」

 

 テレビ画面に強力磁石を近づけたかのように、戦車の脚にまとわりついていた軍用精霊の像が、ブレる。同時、リディアーヌの戦車が再起動を始める。眷獣実体化を阻害(ジャミング)する魔具。魔力の塊であるところの眷獣に、魔力の結合を弱める特殊な電磁波を放つものであり、侵食されれば、吸血鬼の眷獣は怯み、低級な使い魔であれば形を保つのが困難となる。

 そして、白の助っ人スワニルダは白霧を発生させて、型崩れしかかっている半透明な『邪妖精』を呑み込んでいく。

 

「対象制圧完了」

 

 所有者(マスター)からの魔力供給がなくとも単独行動ができるよう魔力を自給自足する吸収魔具。それは、気温や体熱といった熱量を魔力へ転換、および蓄積するもの。

 また阻害魔具の電磁波により、魔力結合を弱め、やがては空気に溶け込ませてしまうおかげで、余剰の魔力残滓を効率よく吸収し溜め込めてしまう。

 条件を整えれば無限循環すら可能とするこれは、『永遠』を求めた『人形師』が『花嫁』に組み込んだ、疑似的な第二種永久機関だ。

 加えて今は、“八つ裂きにされた少年を瀬戸際で引き止め死なせなかったように”、魔力を生命力に変えて命を繋ぎ止める“命の水”をも生産可能とする永久不滅の液体金属―――『霊血』を左腕としているので、蓄積の量に応じて肉体が強化され、ダメージ修復も迅速に行われる。

 

『助かったでござる。女帝の家政婦殿』

 

 素早く巡らす熱感知スコープ付きのカメラ。

 被写体の熱パターンをとらえて画像表示する電子装置は、術者が魔術回路を発動させた際の体温変化を読み取る。サーマル映像の熱分布から、リディアーヌはたった今魔力を使った術者の位置を特定。

 ギュルン、と枷が外れた戦車は旋回すると『邪妖精』を操っていた攻魔官がいる方角に照準を合わせる。魔術を破られた反動でよろめいているところに、機銃弾を放って無慈悲に打ち倒した。

 こうして完全に『邪妖精』の気配が消失したところで、スワニルダはリディアーヌの有脚戦車の上に飛び乗り乗車する。

 

「スワニルダもついてくるつもり?」

 

「肯定。お嬢様の旅路は危険が多いと判断しました。お供します」

 

 冷静に、マスター優先で判断する人工生命体。

 浅葱としては、準魔族であって、さらに前科持ちで機密情報の塊であるところの彼女には『魔族特区』で大人しくお留守番してほしかったところだが、

 

『時間がないぜ、嬢ちゃん。5分以内に特区警備隊の増援がつく』

 

「わかってる。行って、<戦車乗り>」

 

『御意』

 

 相棒に急かされて、浅葱は溜息交じりに指示を出す。

 リディアーヌが準備したティルトローターの輸送機はすでに離陸準備が完了しており、浅葱たちが戦車ごと乗り込んですぐ、下降気流(ダウンウォッシュ)と爆音を大地へと叩きつけ、絃神島の青空へと急浮上したのだった。

 

 

(本土に行くだけで大脱出劇したあたしが言うのもなんだけど、あまり問題を起こすんじゃないわよ古城!)

 

 

道中

 

 

「貴様らが“遺産”とやれるかみてやろう」

 

 

 想定がまだ甘かった。

 手を抜いて勝てる相手ではないと思っていた。

 油断をすれば一瞬で狩られるのはわかっていた。

 だけど。

 神代の生体兵器を、

 天使の模造を、

 図書館の総記を、

 不滅の賢者を、

 第三真祖の皇女を、

 世界最強の魔獣を、

 異邦の邪神を、

 それらすべてを退け下してきた自分たちが本気で相手をしたら、いくらこの魔族特区で最強の主従であっても、倒せないはずがない……とも、思っていた。

 

 

「我が名は空隙。禁忌の茨をもって墓守の猟犬と主従の契約を交わす者なり」

 

 

 ―――月の出ない夜に月の女神は、不気味な遠吠えをする眷属の犬の一団を連れて、生者たちを冥府へと引きずり込むという。

 

 

「今宵は暗月、闇夜を監視する目はなく、封絶された災禍は金狼の叫びに目覚め、現世を悪夢へ誘わん」

 

 

 ああ……

 なんて、抽象的な光景だ。

 街ひとつをその影で覆うほどの巨大な屍の山が雪崩の如く動き出す。

 この際限がなく湧き上がる億千万の百鬼夜行に巻き込まれれば、その仲間のひとつに引き込まれるだろう。

 

 

 

「一匹残さず狩り尽くせ―――<魔女の騎行(ワイルドハント)>!」

 

 

 

 大魔女が禁書の力で、邪神が祭壇を築き上げるために世界を変動させたように。

 天地を異界に塗り潰す大結界。世界そのものが襲い掛かる。

 

 

 生徒への追試でこれは大判振る舞い過ぎるぞ―――!

 

 

 

つづく

 

 

 

邯鄲の夢枕X

 

 

 

彩海学園

 

 

 簡単にこの現状あらましを言うとね、と少女は前置きして語るところによると。

 

 この延々と年越しできずに繰り返される世界は、起きうる可能性を全て内包した箱庭。

 暁凪沙を助けに最初に頼った南宮那月に、暁古城と姫柊雪菜は眠らされました。

 そして、<空隙の魔女>の催眠に対抗すべく<夜の魔女>が参った。←NEW

 

 ……古城は天井を仰ぎ、眉間を揉む。

 長期休みを削っての追試中、高校の教室に小学生が現れて、『ここは夢の世界です』と言ってきた。

 この少女は頭がおかしいのではないか、と思うだろう。

 そして、これを何の抵抗もなくすっと信じてしまった高校生はさらに輪をかけて頭がおかしいのか―――それとも少女の言う通りにこの世界がおかしいのか。

 

 古城には、これよりも完成度は落ちるものの、世界を想うがままに作り変えてしまう禁書<闇誓書>を取り込んでしまった人工知能(AI)が見せた仮想現実に落とされた経験がある。

 精神衛生上、どちらが望ましいかは甲乙つけがたいものはあるが、やはり大変だと思うのは、断然に後者だ。

 

「現実世界の古城さんたちは、南宮那月先生のお家でずっと眠りっぱなしです。寝正月はだらしないですよ」

 

 小学生――明るい青緑色の生地に、宝尽くしの模様を描いた可愛らしい振り袖姿の江口結瞳。

 

「那月、ちゃんが……俺と姫柊を……」

 

「はい」

 

 結瞳にその名を口にされるまで、古城は随分とお世話になっているはずの担任教師の名前を忘れていた。

 そうであるようにと設定操作されていたのだろう。

 これは身内だと敵対しても油断してしまう素人への配慮だろうか。

 そして、もうひとつある差異点は、『『七式突撃降魔機槍・改』が獅子王機関に預けられている』ということだ。

 それは、この世界を壊させないため。

 かつて、<書記(ノタリア)の魔女>が<闇誓書>で創り上げた“ある可能性のある未来(IF)”を、<雪霞狼>に祓われたようにはさせないために。

 

 ならば、あの人は、古城をこの夢の中から出したくないのか?

 いや―――そうなのだろうが、おそらく違う。

 眠らせておくだけなら、わざわざこんな夢を見せて付き合ってやる必要ではない。<監獄結界>にぶち込んでおけばいい。

 

 これ以上は憶測で進めるには期待があり過ぎると判断する。思索を中断して、上向いていた古城は視点を元に戻すと、教壇に立って、扇風機の風に当たり、涼しげに目を瞑っている結瞳を見る。

 

「結瞳、お前はどうして俺たちの現状を知ってるんだ?」

 

「お姉さんに教えてもらったんです。古城さんたちが魔女に捕まってしまった、ってキリハお姉さんに」

 

 古城たちにも情報を提供した太史局の六刃神官。どうやら彼女は古城たちがまず誰を頼るのかも、そして、それに失敗して躓いていることもお見通しであったようだ。

 しかし。

 『青の楽園』で、<レヴィアタン>を操作する<夜の魔女>の力を六刃に利用されていたというのに、そんな言葉をあっさりと信じられたな……

 口にはしないが古城の懐いてる思惑を感じ取ったのか、結瞳が弁護を入れる。

 

「あ、別に私はキリハお姉さんのこと恨んでません。研究所に監禁されてた時、『夢魔(サキュバス)』の――莉琉の私を、キリハお姉さんだけが親身になってくれたんです。表には出しませんけど、私のことを心配してくれてたんですよ」

 

 だから、お姉さんには感謝してます、と自然な微笑で結瞳は言う。

 『お姉さん』と今もつけていることから、そこにウソはないのだろう。

 

「そうなのか」

 

「ウソつきですけどね。でも、悪意のあるウソは吐きません」

 

 古城としては霧葉の信用はまだ半々ではあるものの、結瞳は信頼してる。

 結瞳は視線を落とすと少し沈んだ声で、

 

「本当なら、<夜の魔女>の力で目を覚まさせたかったんですけど、こうして自覚させることはできても起こすのは無理だったみたいです。ごめんなさい、私の力不足です」

 

「そんな、結瞳が責任感じることじゃねーよ。それよりも初詣のことや、心配掛けさせちまったみたいで、悪かったな」

 

 古城さん……と結瞳はまた真っ直ぐに見つめ、そして、眼差しを真剣なものとする。

 

「古城さんが目を覚ますには、みっつ方法があります。

 ひとつめは、この世界の主を倒すことです―――でも、それは何度やっても失敗しています」

 

 『魔族特区』から出ていこうとすると必ず現れる狩猟者。

 以前の仮想現実とは違って、忠実に『世界最強の吸血鬼』の眷獣(ちから)を再現されている。それでも古城は突破できない。

 力の差だけを、思い知らされ続けている。

 

「ふたつめは、このまま絃神島を出ようとせずに新年を迎えること―――ただし、その場合、大晦日とその前日の記憶を夢の中に置いていくことになります。つまり、目が覚めても凪沙さんのことを忘れてしまいます」

 

 敗北宣言みたいなものか。現状を受け入れれば、これまで挑戦を受けさせ続けてきたその代償として、古城の記憶はそうであるように改竄される。

 だけど、古城は凪沙を救うことを絶対にあきらめることはない。それだけはけして手放すわけにはいかない。

 

「悪いが、ひとつめとふたつめは却下だ。みっつめを聞かせてくれ」

 

 脱出を諦めない。

 その意を目に込めて古城は伝えると、結瞳は胸の前で小さな拳を握りしめ、覚悟を決めたようにうんと頷く。

 

「はい、みっつめは……」

 

 言いながら教壇から古城の机の前に立った結瞳は腰を締めた帯を緩め、纏っていた振袖がはだけさせた。襟から鎖骨ががばりと薄桃色の幼い柔肌が覗いて大変目のやり場に困る有様だ。着物だからなのか、下着もつけてない模様。

 幸いというべきか、なんというべきか。あられもなくたわむ襟元の奥には、発育の兆候はあまり見受けられない。早い話、結瞳の胸は年相応に平坦に近かった。だからこちらからちらっと見えたのは鎖骨だけだと言い張ることもできるのだが、しかしそれはつまり襟元と結瞳の素肌とのマージンがとても広いことを意味している。

 なので、成長期の少女の根源に至ってしまう前に古城はこの社会的立場を吹き飛ばしてしまうような地雷をとっとと処理するべきである。

 

「ど、どうしたんだよ? 暑苦しかったかもしれないが、服はちゃんと着とけって」

 

 古城が最初は驚いたものの、すぐに落ち着いて注意をしながら自ら開きかける襟元を咄嗟に押さえつける。のだが、その紳士的な対応に結瞳は不満を全開にぷっくり頬を膨らませる。

 

「えーいっ!」

 

「は、はあっ!?」

 

 身構えるより早く、猫のような身のこなしでいきなり古城に結瞳が正面から抱きついてた。

 

「っく……ゆ、結瞳……!?」

 

 うっかりバランスを崩し仰向けに倒れ込んだ古城の上に跨り、ぐいぐいと腰を押しつけてくる少女。その侵攻は留まることを知らず、驚きで腰を抜かしている男子高生の身体をコアラのように抱きかかえ、顎先で上半身の敏感な部分をツンツンと刺激してくる。

 マタタビに酔った子猫にべったりとなつかれてるよう。

 しかし、非情に危険な構図の体勢をしているのは、妹よりも年下の、女子小学生である。

 『犯罪者呼ばわりされるのも、あと十年ばかりの辛抱だ』と息子に助言を贈ったクソ親父の無精髭面が脳裏をよぎった。

 

「本当はあと5年待ってほしかったんですけど……古城さんを助けるために頑張りますから!」

 

「何を頑張る気だ!?」

 

 自分の世界に入り込んでしまってる様子の結瞳の力強い宣言に、古城は強く制止を呼びかける。

 

 

「みっつめは、夢への抵抗力をつけることです、古城さん」

 

 

 ピキリ、と固まる男子高生暁古城。

 

 江口結瞳は、<夜の魔女(リリス)>である。

 夢魔(サキュバス)の力は、精神干渉であり、その世界最強の力は世界有数の大魔女の夢の中にでも通用する。

 

 つまりは、『波朧院フェスタ』で、<闇誓書>の力に対抗するために、幼馴染の仙都木優麻の血を吸わせてもらい、耐性を作ったのと同じこと。

 この夢の世界を脱するために、結瞳の血を吸うのだ。

 

「そういうわけですから。はい、大丈夫です。私だって、いつまでも子供じゃありませんから!」

 

「問題だろ! 社会的に俺が死ぬぞっ!」

 

「これは夢の中ですから、法律なんてありません。それに起きたら忘れてます!」

 

 これは、夢だ。

 だから、現実の彼女の血を吸うわけではなく、夢の中に入り込んだ幽体離脱のような霊体からその魔力をいただくわけだが。古城的には直接するのと何ら変わらない。

 それくらい実感があり過ぎる精巧に創られた夢なのだ。

 しかもいつも自分が通ってる学校の教室で、小学生の女子と致すなんて誰かにみられれば一発通報お縄ものだし、古城は自主退学間違いなしだ。

 そもそも、吸血行為には性的衝動が必要なわけで、世界最強の夢魔といえど小学生の結瞳の、言ってはなんだが貧相な肉体で誘惑されることはありえない。

 

「そんな無理するなって。いいから、落ち着け結瞳」

 

「……はじめてはひとりだけが良かったんですけど」

 

 密着する身体を離させて、何か別の方法を考えようと説得を試みる古城だが、結瞳は意を決したように、一度深呼吸して、

 

「まあ、夢ですし予行練習ということで、見本してくれる助っ人が必要ですね」

 

 助っ人……?

 

 くっつかれて人肌で温まっているからだが、激流のような冷や汗で凍りついていくのを感じる、その足音。

 

 

 ……以前にも似たようなことがあった。

 どうしても、その血を吸わなくてはならないという状況下。

 かといって、吸血衝動の引き金(トリガー)になる性的興奮が湧くのが難しくて。

 なので、ひとりの少女に当て馬になって協力してもらった。

 

 ―――そして、古城は彼女に槍でぶち殺されかけた。

 

 

「ま、待て結瞳」

 

「ごめんなさい。いつまでも私がこうして夢の中に関わっていられることはできませんから……」

 

 教室の扉があけられる。

 入ってきたのは、次の補習予定の体育教師ではなく、放課後まで待っていたはずの、監視役。

 

 

「―――先ぱ、……い……」

 

 

 雪菜が真っ先に視点を合わせたのは、監視対象の古城であって、それから半脱ぎの結瞳がその腰の上に乗っている全体図を視野に入れる。

 

 ………

 ………

 ………

 

「……結瞳ちゃんに、何してるんですか?」

 

 痛い沈黙を破ったその第一声。『鬼気』という曖昧な言葉の実体を見た気がする。

 スイッチオフで瞳から光を消した雪菜の顔を絶望的に見上げながら、一瞬、もう一度単独で島脱出チャレンジする方がマシだと古城は真剣に考えた。

 そんなふたりが見つめあったまま固まっている中で、帯を締めることなく軽く手で整え前を閉じた結瞳が、雪菜に頭を下げる。

 

 

「もう、時間がないんです。雪菜さん、お願いします。古城さんに私の血を吸ってもらうのを手伝ってください」

 

 

 

おわり

 

 

 

人工島西地区 高級マンション

 

 

「アスタルテさん、あけましておめでとうございます!」

 

 

 予定になかった来客。

 江口結瞳。現在、矢瀬家で預けられる夢魔の少女。『青の楽園』で出会い、彼女とは知らない間柄ではない。

 それでも、この新年にわざわざここまで挨拶に来るとは思えない。……おそらく、挨拶とはまた別の目的があるものと思われる。

 

 ただ。

 しかし。

 

 現在、応接室にて警備隊との協議中で教官に確認は取れない。

 けして起こすな、と命じられた。でも、この少女を警戒しろとは言われていない。

 だから、室内に通した。

 

 おそらく。

 いや、きっと。

 

 これからの展開は予測しえた。

 

「はじめまして! 江口結瞳って言います。あけましておめでとうございます!」

 

 リビングにいた全員と初顔合わせになる江口結瞳が、はきはきとした声であいさつをする。

 

「……江口結瞳殿……おお、クロウ殿から話に聴いてましたな。実に大変な境遇であったようで……アルディギア聖環騎士団ユスティナ=カタヤ要撃騎士であります。めでたく新春をお迎えのことと謹んでお喜び申し上げる」

 

 ジャパニーズ・オセチ料理の準備手伝いをしていた、銀髪ショートカットで袴姿の女騎士が仰々しい挨拶をし、

 

「ほう、主が<夜の魔女>か……よし、ここは古の大錬金術師たるこの妾、ニーナ=アデラートがお年玉をやろうではないか」

 

 ほとんど愛玩動物に近い立場にある、身長30cmにも満たないオリエンタルな美貌の人形が尊大な口調で、偽造硬貨の錬金を始めようとし、

 

「新年おめでとうございました、結瞳ちゃん」

 

「夏音お姉さん!」

 

 キッチンの奥からお雑煮を載せたトレイを運んできた、青地に銀通しの花柄の生地の振り袖姿の銀髪碧眼の少女が、最後に朗らかに新年の挨拶を送る。

 そうして、新たな客人を迎えて、正月の饗宴を楽しむ。

 コンソメスープで煮込んだお雑煮。

 一年を通してまめに働けるように、と願いを込めた正月料理定番の黒豆、その代役のチリビーンズ。

 伊達巻と同じ形に巻いてあるロールケーキ。

 栗きんとんと同じメイン食材であるモンブラン。

 コハダの粟漬けに似たアルディギアの伝統食のニシンの塩漬け……気密性の高い缶の中で発酵させることで旨味の増した――先輩が裸足で逃げ出す――世界一臭い食べ物。

 など純和風とは趣が違うが、東洋と北欧の郷土料理の共通項をまとめてみた感じのおせち料理を若い来客に振る舞う。

 

 ―――そして、一通り舌鼓を打ったところで江口結瞳は、さりげなく身を引くように席を外す。

 

「暁古城は、部屋を右に出て突き当りの客室にいます」

 

「っ、……はい」

 

 彼女が部屋を出ると、それまで朗らかであった叶瀬夏音の表情が不安げに曇らせ、ニーナ=アデラートは面白そうに目を細め、ユスティナ=カタヤは忽然と姿を消していた。

 

 やはり―――そう。

 

 こうなってしまうのか。

 ここにいた誰もがその全容を知らず、自分の口でそれを語るのは封じられている。

 でも、そんなことを言わなくたって、彼らが何のためにこのような真似をしているのか、わかるはずなのに……

 もし、これを見逃してしまったら―――

 

 そのやりとりを思い返す。

 

『アスタルテは、馬鹿犬が大切か』

 

 今や去年となる昨日の大晦日。

 教官を頼って訪ねてきたその両名を昏倒させた彼が、先日の邪神騒動の際に泊めさせた客室にそれぞれ運んでいく際、教官が深く椅子に腰を落として、紅茶を淹れさせる自分に不意を打つように水を向けた。

 

 ―――。

 一瞬動きが止まった。

 その微細な隙を見定めるかのように、教官は続けて口を開く。

 

『そうだな。ずっと健気なくらい一途に、あいつを支えている。そうでないと否定する材料がないな』

 

 命令認識。先輩の補助を優先するようにと命令したのは、教官です。

 

 そんな、押し付けるかのような言葉の返しに、くくっと教官が喉を鳴らす。

 

『ほう、マスターの命に忠実なホムンクルスのプログラムだからなんて言い張るのか? 可愛いものだ。だが、それはないな。ここのところのお前を見る限り、行動の中心は教官(わたし)ではなく先輩(あいつ)のようだ。教官の命通りに馬鹿犬のサポートを考えるなら、見るのは馬鹿犬ではなく、その周囲だ。それくらい、いちいち説明されるまでもないだろう?』

 

 差し出された紅茶を一口含んでから、教官は口元に手を当てて、

 

 

『―――知らないようなら教えてやろう。それは、恋、というものだ』

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 警備隊の協議が、終わった。

 暴走を抑え込めている現状を崩すことは望ましくないと、決が下された。

 しかし、それでも抑え切れない事態に備え、常時作戦行動可能な状態で隣室に待機をさせ、覚醒をしたのならばそれらを警備隊が捕縛する、と上層部の意向が通された。

 完全に、任されていない。

 

「まったく、問題児の生徒を受け持つというのは、面倒なことだ」

 

 下駄を預かることが認められず、不満げな声で愚痴を洩らす主人。

 教育者であるからか。意外と思われるかもしれないが、傲岸不遜のようで、面倒見がいい。

 

「それで、馬鹿犬。お前のことだ。暁凪沙の件について、完全に納得しているわけではあるまい?」

 

「う……昨日の古城君たちの話を聞いて、思うところがあるぞ」

 

 認める。

 まだ言葉にすることはできないが、認めるしかない。

 ああ、そうだ。

 ここのところ、腹腔から、ふつふつと温度を上げていくものがある。

 かっかとした先輩の姿を見て、震えている己を自覚させられた。

 でも、膨れ上がり、気管をつきあがって喉を熱くする感情(こころ)。その感情を何と呼べばいいのか、わからないでいる。

 

「古城君が島を飛び出してでも凪沙ちゃんを助けたいという“匂い”。―――オレは間違ってないと思う」

 

 ならば、絃神島に封じ込めた自分は、間違っているのか?

 

「姫柊が組織の意向に逆らってでも自分を貫きたいという“匂い”。―――オレは間違ってないと思う」

 

 ならば、組織の意向に従う自分は、間違ってるのか?

 

 きっとあの二人は、彼女のことが好きだからあんなにも必死になっているのだ。何もせずに構えていられる余裕などないのだ。

 

「ご主人。オレはご主人の眷獣(サーヴァント)でありたい。―――これはオレが決めたことだ」

 

 そう。

 初めから、ずっとそうだった。

 この街で、何もかもがわからないことだらけの環境で、生きていくために。

 どうせ自分でもわからないのなら、せめて、迷わないように。

 自然に浮かんだ気持ちだけは貫くのだと、もうずっと昔から決めていたこと。

 結局、過去(あと)未来(さき)も思うことはない。自分はその時その時のことしか考えられない。今したいことをする、などと、動物のような思考回路。

 

「でも、ご主人。―――それ以外のことを望んでしまうのは、ダメなのか?」

 

 あの二人の“匂い”で動かされた未熟な衝動に、胸の裡の何かの殻が割れたように。

 だけど、それはあの二人の“匂い”とは似て非なるもの。

 何かをしたいのではない。自分はただ、彼女に会いたいと思った。会って問いかけたいものができた。

 

『クロウ君のこと、好きでいてもいい?』

 

 彼女は自分に向けてそう願った。

 自分を好きになろうと、なぜ乞うのか。

 “こんな怪物は”、ここにいさせてくれるだけでも十分に報われているのに。

 どうして、これ以上、近づこうとするのか。

 わからない。―――その理由を今、自分は知りたくなった。

 

 心配や助けなんて浮かばず、それだけしか思えなかった―――これは、“間違っているのか”?

 

 それは情欲など馬鹿馬鹿しいくらい存在しない、殻のついた雛のような無垢さで、南宮クロウは問う。

 

 

 

「ご主人……オレは好きになっちゃいけないのか?」

 

 

 

 大きく、那月は目を瞠った。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 随分と長く繰り返されていたはずの元旦の初夢は、邯鄲の夢のように現実では数百分の一に時間が圧縮されていたようであった。

 目が覚めた古城は、“力の使い過ぎて”ぐったりと動けない、自身の腕を抱き枕に添い寝をしていた結瞳をそのまま寝かせて、部屋を出る。

 目指すのは隣室。そこに雪菜が眠っている。

 

「槍を握らせればいいんだな……?」

 

 ベットの脇に旅行荷物と一緒に置かれていた黒のギターケース。それを開くと、眠り姫な後輩に握らせる。

 夢魔の吸精によって耐性を得られたのは、古城だけ。だけど、雪菜にはあらゆる魔術を打ち破る破魔の銀槍がある。あとはそれを展開できさえすれば……

 

 バチッ、と静電気に触れたように、古城は手を離す。

 その手が槍の感触に情景反射で握り締め、折り畳み傘を開くように長槍を展開する。途端に、吸血鬼の古城の手を弾く仄白い霊気が発散されて―――押し倒された。

 

「―――」

「うおっ!?」

 

 ぐるん、とベットに身を乗り出しているような形で脇で様子を見ていた古城は、入れ替わるようにベットの上に寝かされてマウントを取られた。剣巫に仕込まれた無意識の組打ち術。

 

「ぐへっ!? ちょ、おい、寝ぼけてんのか姫柊!? 俺だよ俺!」

 

「………ど」

 

 腰の上に乗った少女が最初は無言で、やがてぐんぐんと上がっていく温度計のように顔を耳まで真っ赤にすると、吠え立てる。

 

「ど、どうして先輩が私の寝顔を覗いたりなんかしてるんですか!? まさか、寝込みを襲おうと……やっぱり先輩はいやらしい人ですね!」

「ちげーよ! 起こしに来ただけだっての!」

 

 必死に、この槍の刃先を突き付けっぱなしの状況から抜け出さんと状況説明も兼ねての説得を試みた。

 簡潔に述べると、『那月先生に援助してもらおうと思ったら、あっさりと捕まってしまった』という感じで。話を聞いてるうちに、思い出したのか槍を収め、雪菜は古城を解放する。

 と、

 

「それとは別に、ものすっごく先輩を追求しなくちゃいけないことがあった気がするんですけど……夢の中で、先輩が小学生といやらしいことをしていたような……」

 

「な、何を言ってるのかわからないけど、んな現実的にありえないことよりも現在(いま)のことを考えるべきだろ姫柊!」

 

 夢は起きたら大抵は忘れてしまうもので助かった。

 やや強引に話を切り替えた古城は、雪菜にここを出ることを促す。

 

『古城さん、キリハお姉さんが………』

 

 最後に話してくれた伝言(メッセージ)が正しければ、おそらく、迎えが近くに待機しているはず。ただし、建物に掛けられている防護結界で中まで行くことはできないので、外に出なくてはならない。

 

 しかし、“反則(ズル)”をして、目覚めたことは当然、魔女には知られている。

 

 トントン、とノックをして、客室の扉があけられる。

 顔を出したのは、藍色の髪の人工生命体。

 今日は晴れ着に身を包んでいるアスタルテは、こちらの覚醒状態を確認すると、折り目正しく一礼する。

 

「謹賀新年」

 

 年始の挨拶を抑揚の乏しい口調で告げる。

 古城と雪菜はそれを見て、今日が元日――去年の大晦日を乗り越えられたこと――であるのを実感した。

 

「あ、あけましておめでとうございます」

 

「アスタルテ、那月ちゃんは……?」

 

 慌てて頭を下げながら、どこか決まり悪げな気分でそう答えた。

 

「お二人が目を覚ましているようなら、腹ごしらえと準備を済まさせてこちらに連れて来い、との命令を受託しています」

 

 そういって、アスタルテが持ってきた重箱を客室のテーブルの上に並べる。古城は雪菜と顔を見合わせ、アイコンタクトの頷きを交わすと、とりあえずまずは出された独創的なおせち料理を大急ぎで平らげ始める。

 そんな様子を監視し()ながら、口からつい(まろ)び出たようにアスタルテが呟いた。

 

「……教官(マスター)と先輩は、けして暁凪沙を見捨てているわけではありません」

 

 急いて食事する手を止めて、古城は揺れる淡い水色の瞳と目を合わせる。

 

「そんなの、思い付いてすらいねーよ」

 

 最後の一口を口に放り込むと、古城と雪菜は立ち上がる。

 腹は決まった。

 結瞳の伝言で送られた霧葉の意見は、目が覚めたら一目散に建物から出ろ、であったが、やはり、逃げるのは性に合わない。

 

 

「それじゃあ、那月ちゃんに会わせてもらえるか?」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 古城たちを出迎えるのは、昨日と同じ、彩海学園の教室よりも広大な応接室。

 窓ひとつなく、照明器具も最小限。四方を取り囲む壁は艶やかな黒曜石のように光を吸い込む。昼であっても極夜のように薄暗いその空間に、ぽつんと置かれているアンティークの椅子がひとつを除いて、家具はない。

 そして、主は深々と椅子に座り、自らの眷獣(サーヴァント)を脇に侍らせる。

 

「来たか、暁古城。てっきり顔を合わせずに逃げ帰るかと思ってたぞ」

 

 それは愚行であるとせせら笑いながら那月が、挑発的に言った。古城は自分でも馬鹿だと思いながらも、気怠げに首を振り、

 

「ああ、ここを出る前にきちんとあんたに言っておかねぇとな」

 

「ほう、話すことなどもう何もないかと思っていたが?」

 

 真剣な古城の顔を見返して、那月は頬杖を突いたまま、言いたいことがあるなら言ってみろ、と続きを促す。古城は静かに呼吸を整えて、体内の空気の入れ替えと同時に意識を切り替えてから、問う。

 

「俺を絃神島から出すわけにはいかない、と言ってたな……」

 

 古城は拳を固め、全身からかすかな怒気を滲ませ、

 

「だから、俺と戦う気なのか!? なあ!?」

 

 夢でもう何度となく行われたとなれば、流石の古城とて覚悟を決めていた。

 本気で妨害されるのであれば、こちらにも戦う意思ができている。それであっても、問い掛けずにはいられなかった。

 

「別に貴様らと戦闘ごっこがしたいわけじゃない」

 

 那月はひどく素っ気なく答える。

 

「私はあの<蛇遣い>と違って、好き好んで面倒な思いをする趣味はないからな。今度は<監獄結界>に入れてやろう。大人しくしていれば痛い思いをしなくて済むぞ?」

 

「そんなことが……できるわけねーだろ……!」

 

 ギリギリと歯を軋ませながら、古城が荒々しくその案を撥ね退ける。無論、那月がそれに臆することも、驚くことなどなく、冷酷なまま、

 

「ひとりでいるのが寂しいなら、そこの転校生も同伴させてやってもいいが……それとも藍羽の方がよかったか?」

 

「そういうことを言ってんじゃねぇよ!」

 

 古城は宣戦布告とばかりに吼えた。

 

「俺は凪沙を助けに行く。その後なら補習だろうが<監獄結界>だろうが付き合ってやる。だから今は見逃してくれ! それともあんたが、俺の代わりに凪沙を連れ戻してくれるのかよ!?」

 

「暁凪沙を連れ戻す……か。この期に及んでまだそのようなことを言うとはやはり言っておかないとならないか」

 

 嘆息した那月は、古城に冷厳な眼差しを向ける。

 

「暁凪沙は無事に帰ってくるはずだ。貴様が余計な事をしなければな」

 

「なに!?」

 

 “何も知らされておらず”戸惑う古城を、那月は哀れむように目を伏せる。

 

「危険なのは貴様の方だ、暁古城」

 

「どういう意味だよ」

 

 問いかけに、間を置くことなく那月は告げる。

 

「もし『神縄湖』の底に沈んでいるのが、獅子王機関の期待通りのものだったとすれば、そいつと接触すればお前の無事は保証できない」

 

 悲しげな微笑を浮かべて吐かれた那月の言葉には、ただ脅迫では説明がつかない真剣さがあった。

 かすかな動揺を覚えながらも古城は噛みつくように言い返す。

 

「何でそんなことが言い切れる?」

 

「わざわざ言うまでもなかろう。『聖殲』の遺産とはそういうものだからだ」

 

 それは古城も経験しているはずの事。

 記憶は忘れたのだとしても、記録は憶えている。

 灼けつく陽射しに炙られた岩だらけの大地。

 遺跡の最奥に鎮座された氷の棺。

 その中に浮かぶ虹色の髪の少女。

 脳裏に過ぎるは、断片的で、血塗られたように紅い映像。那月の言葉をキーとして、それらが前触れもなく怒涛に押し寄せてきた。

 

「ぐ……お……!?」

 

「先輩!?」

 

 思い出すたびに苦しめてくる。強烈な頭痛に襲われて呻く古城を、雪菜が咄嗟に抱き支える。

 記憶を“喰われてしまった”ことの後遺症である、失われた記憶の断片(フラッシュバック)

 だが、今はその痛苦を噛み締めて、古城はまたも咆える。

 

「ふざけん……な……! <第四真祖>の存在と、『聖殲』ってやつが繋がっているとして、獅子王機関はどうしてそんなものに凪沙を巻き込んだ!? あいつは関係ないだろうが!」

 

「関係ない……か。本当にそう思うのか?」

 

 歯を食いしばった古城の反論に、那月は嘲笑を返しながら意味深な口調で逆に問い返す。

 古城は、答えられない。その意味が解らない。

 

「凪沙は、吸血鬼じゃない。混成能力(ハイブリッド)だって、今は失われている。<第四真祖>とも、もちろん『聖殲』とも無関係だ。無関係のはずだ!」

 

「……先輩」

 

 古城の訴えに、声を上げたのは那月ではなく、雪菜。

 古城を支えてくれている雪菜の肩がかすかに震えていた。

 数秒経ってもその震えは留まることなく、むしろその強さは増すばかり。

 そう、その横顔に浮かぶのは、隠しきれない恐怖の相だ。

 そして、そんな雪菜の狼狽を見逃すことなく、静謐な口調で那月は追及する。

 

「心当たりがあるという顔だな、転校生」

 

「………」

 

 そう。

 気づいては、いた。

 勘付いてはいたけれど、関係がないと信じていたくて、目を逸らしていた。

 そして、その無言は、百の問答を交わすよりも雄弁に古城に隠そうとしていた真実に辿りつかせてしまった。

 

「まさか……アヴローラ……か?」

 

 『十二番目』の<焔光の夜伯(カレイドブラッド)>――アヴローラ=フロレスティーナ。

 彼女より古城は<第四真祖>の力を受け継ぎ、そして古城の前からいなくなった。『原初のアヴローラ』と呼ばれる邪悪な魂より凪沙を救うために、自らを犠牲にして死を選んだのだ。

 

 だが、もしも、いなくなったと思っていたはずの魂が、今も残っていたとしたら―――?

 

 強力な霊媒である誰かが、その身に宿すことで彼女の魂を繋ぎ止めていたとするなら、それはありえない仮定ではない。

 昔の暁凪沙のような異能の霊能力があれば、だが。

 

 そう、アヴローラが凪沙の中に残っていた―――!

 

 薄々気づいていた、わけではない。だが、そこに気づけば、納得できることが多い。

 強力な霊媒としての資質があったのに、凪沙が霊能力を失ってしまった理由。加えて、原因不明の衰弱。

 それらがアヴローラの魂を繋ぎ止めるための代償なのだとすれば、いくつかの疑問は氷解する。

 おそらく、これは凪沙も知らない、無意識下の能力行使だろう。

 だがその結果として失われていたはずのアヴローラの魂にかすかな希望が出てきたというのであれば、古城は責めることはできない。むしろ安寧をもたらしてくれた妹を誇りにすら思う。

 だからこそ、

 

「獅子王機関は『聖殲』の遺産ってやつを調べるために、アヴローラを利用するつもりなのかよ!?」

 

 許せることではない。

 それが誰であろうと、凪沙とアヴローラの魂を勝手な都合で利用するのなら、それは暁古城の敵だ。

 

「ひとつだけ保障してやろう。獅子王機関に暁凪沙を危険にさらす意思はない。その逆だ。自分たちの目的を果たすためにも、連中は死に物狂いで貴様の妹を護ろうとするだろう」

 

 古城の怒気を真正面から受け、なお那月は淡々と告げてきた。

 それが真実である保証はない。だが、きっと言葉少なな彼女はこの手のことでウソをつかないと信じられた。

 

「そうか……安心したよ」

 

 無意識に古城は小さく笑う。

 

「凪沙が危険な目に遭わないとわかっていたから、獅子王機関に協力したんだな」

 

「当然だ。貴様の妹も、私の教え子であることに変わりはないからな」

 

 予想通りの答えを、躊躇なく答えてくれた。

 その言葉は妙にくすぐったくなるくらいに嬉しいものだった。

 

「それに姫柊も、獅子王機関に裏切られたわけじゃなかった……だろ?」

 

 あ……! と大きく目を見開いて雪菜が古城を見た。

 獅子王機関に対する忠誠心と、凪沙への友情の板挟みとなっていた彼女にとって、この種明かしは救われるものだろう。

 獅子王機関は凪沙を犠牲にしようとは考えていない。それがわかれば雪菜も獅子王機関を信じられる。苦悩する理由は半減するのだ。

 それまで翳りを差していた瞳に、雪菜本来の強い光が灯り始める。

 

「そう、ですか。だから、獅子王機関は、私を先輩の傍に残したんですね。たとえ先輩がどこに行こうと、最後まで一緒に行動して、先輩の暴走を止められる監視役が必要だったんです。それが結果的に、獅子王機関の障害となったとしてもです。だから私には何も知らされなかった。私が先輩に敵とみなされることがないように―――」

 

「随分と都合のいい解釈だが、確かにありえない話ではないな。あるかどうかもわからない『聖殲』の遺産と違って、<第四真祖>は今現実に存在する危険物だからな。野放しにはできまいよ」

 

 段々と調子の上がっていく雪菜の声音に、那月の唇は微苦笑を浮かばせる。

 見限られたのではなかった。

 むしろ、世界最強の吸血鬼を制御可能な切り札であるために、あえて監視役をすべての情報から隔離させたのだ。

 それが獅子王機関で満場一致の総意でなくとも、雪菜ひとりに任せても十分に役割を担えると信頼があったという見方もできる。

 また別の思惑があったのだとしても、雪菜はそれだけで苦悩から解き放たれた、華やかな笑みを浮かべることができた。

 

「それがわかったところでどうする?」

 

 ほとぼりが冷めるまで大人しく島に残るか? という那月の無感情な眼差しに、古城は犬歯を剥いて応える。

 

「話をしてよかったよ。おかげであんたを尊敬したままでいられるぜ、那月ちゃん。今からあんたをブッ倒してでも、俺は本土に行かせてもらう―――違う、行かなきゃなんねーんだよ!」

 

 那月は、誰でもない古城のために、古城を止めていてくれた。

 そんな彼女だから古城は信頼できて、矛盾しているかもしれないが、だからこそ、罪悪感なく戦うことができる。

 

「『聖殲』の遺産ってやつを手に入れるために、<第四真祖>の力が必要だというのなら、その役目を果たすのはアヴローラじゃねぇ。この俺だ。どんな理屈をつけようが、凪沙やアヴローラを勝手な都合で利用する奴は俺が潰すぞ! ここから先は、俺の戦争(ケンカ)だ!」

「いいえ、先輩。“私たちの戦争(ケンカ)”です―――!」

 

 ふん、と那月は鼻を鳴らし、

 

「結局、そうなるか。ここまで身の程を弁えない教え子(ガキ)どもとは思わなかったぞ。二人がかりで何度となく敗北した貴様らに、どうして『聖殲』の遺産――殺神兵器が存在するところにやれると思うか?」

 

 正論を、なおかつ女王の貫録で言われては言葉で覆す術もない。実力で勝ち取ってやるしかないのだ。

 古城たちは、これまで驚くほど静かに、主人の話に口を挟まず、沈黙を保っていた厚着の少年、クロウを見やる。その一挙一動に気を払う。

 しかし、仕掛けてきたのはその背後からであった。

 虚空で起きる波紋の揺れを感知し、古城が振り返れば、広大な応接室の中に無数の人影が現れる。

 これまでこの二人以外に戦闘に立ち入ることはなくて、増援もなかった。というより、那月が後輩以外を使うなどとは思わなかった。その予測しえない闖入者の登場に、何が起こったのか、状況を理解するのが遅れた。

 古城たちを包囲するこの集団は、武装警備員たちだ。

 対魔族戦闘用に防護服(プロテクター)と、最新鋭のサブマシンガン―――特区警備隊特殊部隊の装備で身を固めた大人が8人。左右から挟撃するように展開している。

 彼らを一瞬でここに送ったのは、<空隙の魔女>の空間転移(テレポート)に他ならない。そうだ、既に彼女は完全に古城の敵に回ったというのはわかり切っている。

 

「動くなよ、暁。獅子王機関の剣巫でも、毎分600発のサブマシンガンの弾幕は避け切れん。低致死性のゴム弾だが、当たり所が悪ければ怪我では済まんぞ」

 

 冷ややかな口調で告げる那月の言葉に、雪菜が眉をしかめる。

 吸血鬼の肉体である古城にとって、弾丸の嵐など我慢すればいいだけのもの。しかし、生身の人間であるところの雪菜は別だ。たった一発の弾丸でも彼女には致命傷になりかねない。

 つまり、この状況は、雪菜を人質に使われているということ。

 これは紛れもなく侮蔑。

 雪菜は自分の存在が<第四真祖>の足かせとなっていると指摘されたも同然だからだ。

 

「殺神兵器どころか、現在の量産兵器で封殺される貴様らは、やはり島で大人しくしてた方がいい」

 

 人形のように無表情のままこちらを睥睨する那月が、右腕を上げる。

 瞬間、全身に凄まじい衝撃を受け、古城は息を詰まらせた。そしてすかさず虚空から撃ち出された銀色の鎖が、意思を持つ蛇のように古城の全身に絡みついた。

 

「………」

 

 そして、石像のように直立不動の姿勢で、その様子を見ていた古城の後輩は、落胆したような目の色を浮かべる。

 

「くそ!?」

 

 陽炎のように揺らぐその歪み。古城の背後で開かれるのは、虚空の(ゲート)。遠い蜃気楼のようにその先に浮かぶは欧州の監獄島を思わせる巨大な建造物の輪郭。

 あれは、凶悪な魔導犯罪者を幽閉する、南宮那月が自らの夢の中に構築した牢獄の世界<監獄結界>だ。

 夢の世界である故に、収監された者たちは那月の許可なくして能力の使用は封じられる。それは世界最強の吸血鬼であっても例外ではない。

 そこに引き摺り込まれてしまえば、今度こそ脱出不可能。しかしそれがわかっていても、古城はどうすることもできない。

 ネックレスと大差ない細さであるも、巻き付く銀鎖の強度は凄まじい。吸血鬼の持つ腕力を全開にしてもびくともしない。しかも魔力を封じる力があるのか、眷獣召喚の行使も禁じられている。

 

「先輩!」

 

 背後より迫りくる門の魔力に瀬戸際で抗う古城を、雪菜が焦りの表情で呼ぶ。

 しかし、8挺のサブマシンガンに狙われている状況にあっては、雪菜も手も足も出ない。一瞬先の未来を視る霊視をもってしても、すべての攻撃を回避するのは不可能であり、僅かでも抵抗すれば、武装警備員たちは躊躇なく引き金を引く。

 そして、ここで雪菜が倒れれば、古城を<監獄結界>から解放する者がいなくなるのだ。

 雪菜は動けない。

 古城は焦燥に歯軋りする。

 

 その直後に、余裕めかした尊大な声音が部屋に響いた。

 

「神々が鍛えた<戒めの鎖(レーシング)>か……流石は那月だ、珍しい魔具を持っているな」

 

 瞬間、古城を捕縛していた銀色の鎖が、突然、飴細工のように溶けてちぎれ飛ぶ。

 反動でバランスを崩した古城の肩に、古城の旅行鞄に潜んでいたそれがよじ登ってくる。視界に入ったその正体は、液状化した金属塊。ちぎれた銀鎖を呑み込んでいくそれは、やがて小さな人型へと姿を形作る。

 

「物質変成……ニーナ=アデラートか」

 

「正解だ、<空隙の魔女>」

 

 挨拶代わりとばかりに、自称古の大錬金術師は、液体金属の腕を無数に枝分かれする触手のように伸ばして、武装警備員たちの銃を次々に搦め捕っては、金属部分を食い尽くす。対応する間も与えない早業で、特区警備隊の精鋭たちは武装解体された。

 これで膠着状態を余儀なくされた弾幕の包囲網から雪菜は自由になった。

 

「ニーナさん!? どうしてここに……!?

 

「夏音が主らのことを気にかけておったのでな」

 

 銀槍を構えながら雪菜が訊けば、得意げに顎を上げながらニーナが答える。昨日から不自然にも眠り続ける古城たちを心配した夏音が、こっそりとニーナに偵察を頼んでいた、ということらしい。そして、古城たちの手荷物の中で変態させた小さな身体を潜ませていた、と。

 

「話は聞かせてもらったぞ。ここはひとつ大人として、古城たちの心意気を買って、気持ちよく送り出してやるのがスジであろう、<空隙の魔女>?」

 

居候(ペット)風情が偉そうな口を利く……身の程を知らない井の中の蛙を導いてやるのが、責任ある大人の対応だ」

 

 十倍近い年長者からの諌める言葉に、苛立つ那月が刺々しい文句を吐き捨てた。

 

「違うな、<空隙の魔女>。何が起きても責任を取る。それが、正しい大人のあり方だ。貴様のやり方は、若者の可能性を縛り付けることになるぞ」

 

「弟子の幉を誤った骨董品(アンティーク)が、よく語ってくれるものだな」

 

「それを突かれると妾も耳が痛いが、こ奴らが間違いを犯さんのは貴様の目にもわかるだろう?」

 

 不機嫌そうに唇を曲げる那月に、液体金属の肉体とは違い主義主張を曲げることのないニーナは訂正の意見を語る。

 どちらも頑固な意見の対立させる間、特区警備隊の隊員たちはそれを暢気に聴き入っていたりはしない。防護服に付けられている電磁警棒を抜き、あるいは素手で古城たちを抑え込もうと襲い掛かる。

 

「くっ!」

 

 即座に対応しようにも、数が多い。魔族すら圧倒する雪菜の近接格闘能力をもってしても、この一瞬で8人もの武装警備員を無力化するのは不可能だ。

 警備員は4人がかりで剣巫の足止めし、残る4人で古城を狙う。対魔族戦闘の訓練を積んでいる彼らに、素人である古城が格闘技でかなうはずもない。

 まずい、と古城が表情を強張らせた、そのとき―――

 

「忍!」

 

 突如として現れた袴姿の女騎士が、背後より警備隊員たちに不意打ちをかます。光学迷彩の術式が描き込まれたコートを着た彼女は攻撃の瞬間まで、それを覚らせることなく、かつ一人一打で仕留める。

 

「ユスティナさん!?」

 

「ご無事ですか、古城殿。不肖このユスティナ=カタヤ、王妹殿下の命により、助太刀いたします!」

 

 唖然と立ち尽くしてしまう古城の下に跪いて、慇懃に一礼をするユスティナ。

 そして、相手に何かアクションを起こさせるよりも早く、振り向きざまに着物の袖から手榴弾のような金属球を投擲する。床に叩きつけられたそれから、真っ白な煙が噴出する。

 

「『魔力攪乱幕』か……姑息な真似を」

 

 不愉快気に、ギリッと奥歯を鳴らす那月。

 要撃騎士が撒き散らした煙幕は、魔力の伝達を妨げる効果があるもの。遠隔操作系の魔術は特に影響を受け、南宮那月の得意とする空間制御には絶大な妨害効果を発揮する。

 

「ニーナ殿!」

 

「ふふん、任せよ」

 

 一番の難関を封じたこの絶好の隙、逃さずニーナの指先から放たれる眩い閃光。

 重金属粒子砲―――いわゆる荷電粒子ビームだ。

 灼熱の閃光はビルの外壁を突き破って大穴を開通させ、非常階段までの脱出経路を無理やりに造り出す。

 

「古城殿! 剣巫殿も今のうちに!」

 

 特区警備隊の残存兵力を足止めするユスティナが古城たちに呼びかける。

 

「悪い! 助かった!」

「ありがとうございます!」

 

 一時的に空間転移(テレポート)を封じられた今の那月に、追跡は不可能。ユスティナに礼を言って、古城と雪菜は非常階段へと走る。

 それを目で追いながら小柄な魔女はむくれたように片頬を上げて、静かに溜息をつく。

 

「新年早々、派手に部屋を散らかしてくれたな、ニーナ=アデラートとそこの愉快な外国人」

 

「ふふん。家主に弓引くのはちと心苦しいが、見逃せ、那月。どうしても戦り合うというなら相手をするのも吝かではないが、主の魔術と妾とは少々相性が悪いぞ」

 

 倒れ伏した武装警備隊の背中に胡坐をかいて、勝利宣言をするように獰猛に笑いかけるニーナ。

 だが、那月はその挑発を歯牙にもかけず、椅子から立つ気配もない。余裕のある声音で逆に問う。

 

「いいのか、ニーナ=アデラート。私だけを警戒して―――貴様らが特区警備隊の特殊部隊を潰してくれて助かったのはこっちの方だぞ」

 

 彼女にとって、<第四真祖>を封じる策は、特区警備隊の包囲などではない。南宮那月の鬼札は、今、苦しげに呻いている武装警備隊などではないのだ。

 むしろ、それらは邪魔な足枷だ。

 

「人工島管理公社の顔は立ててやろうと援助したが、結果はこのざまだった。制限(ハンデ)を付けてやる必要はもうないな。手柄惜しさに馬鹿犬に手出し無用と注文を付けてきた貴様たちの上司にもそう伝えろ」

 

 ここからは好き勝手やらせてもらう。

 那月の全身から凄まじい威圧感が放たれて、警備員たちの表情が恐怖に竦む。

 

 そして。

 

 これまで古城たちに口を挟まず、

 これまでニーナたちの介入を見過ごし、

 これまで主人の命を待っていた、魔女の猟犬が解き放たれた。

 

「行かせない」

 

「っ、クロウ!?」

 

 その怪物じみた運動能力が、確定したはずの勝利を覆す。

 警備隊を鎮圧した要撃騎士が疾風だとしたら、それは、魔風のような速度であった。

 非常階段につく寸前に、一気に追い抜かれて回り込まれる。

 

 

「凪沙を助けに行きたいんだ。だから、そこを通してくれクロウ―――!」

 

「―――……オレは、ご主人の眷獣(サーヴァント)だ。だから、古城君を絃神島から出さない」

 

 

 特区警備隊の上層部より<第四真祖>との親しい仲を疑われ、捕獲の任から外すようにと要求されていた<黒妖犬(ヘルハウンド)>は、先輩である古城の頼みを一蹴して、その疑念を払拭する。

 

「それに、やっぱり、古城君たちは島から出さない方が良いな。警備隊(あいつら)を自分でどうにかできないんじゃ、本土に行っても大変なのだ」

 

 主従の意見は同じ。

 立ちはだかった後輩が古城たちへ向ける落胆の目の色は、晴れていない。

 認めさせなければならないのは、那月だけではない。クロウも、古城たちの障害となりうるもの。

 そして、この呼吸を許さぬほど空気を凍らせる強烈な重圧(プレッシャー)を放つ後輩は、先ほど訓練された武装警備隊8名が束になっても敵わない猛者。それはこれまで幾度となく頼りにしてきた古城たちはよく知っていることだ。

 前門の虎、後門の狼。

 『魔力攪乱幕』で魔術を妨害しているものの、魔女相手にどこまで効果があるかはわからない。そして、いつまでも煙幕が室内に立ちこめているわけがなくて、荷電粒子ビームで大きく風穴を開けてしまった以上、完全に換気されるのにそう時間はかからないだろう。

 そして、万全の主従が動き出せば、もはや止めるのは不可能と断じてもいい。

 つまり、ここで煙幕が晴れるまでに、後輩を打ちのめさなければ、夢と同じ末路を辿ることになる―――

 

 

「“お願いです”。お兄さんたちを通してあげてください!」

 

 

 そのとき、清澄な声音が空間を打つように響いた。

 聴こえてきた方を見れば、そこにいたのは、振り袖姿の銀髪碧眼の少女。

 

「王妹殿下!?」

 

 残り一人の武装警備隊を無力化した要撃騎士が驚き声を上げたその最後の乱入者は、叶瀬夏音。

 王族の血を引く前王の隠し子が、古城たちを足止めするクロウに“願う”。

 それを聞き届けたクロウは嘆息して、構えから力を抜いた。相手を金縛りに遭わせていた重圧も、緩める。

 

 南宮クロウは、<禁忌契約(ゲッシュ)>を課している。

 

 第二の制約『存在を知覚した巫女には、三撃を受けるまでは攻撃してはならない』

 第二の誓約『半日、人間としての力である超能力を含めた五感を麻痺し、霊力魔力の一切を練れなくなる』

 

 第三の制約『王族からの頼みごとを、二度続けて断ってはならない』

 第三の誓約『一日、獣王としての力である死霊術と獣化を封印する』

 

「ごめんなさい、でした……でも、私も……」

 

 止まってくれた家族も同然である少年に、少女は頭を下げるように俯く。こんな真似をするのが、ひどく心苦しい、と。

 古城と雪菜は、その行為に助かるも、とてもお礼の言葉を送ることができなかった。

 だから、まず口を開いたのは、止めさせられた少年だった。彼は特別恨み言をぶつけるようなことはなく、いつも通りに自然な対応で話しかける。

 

「何も間違ったことはしてないぞ、夏音。“我儘を押しつけたくらいで”いちいちそんなに気にするな。それが正しいと思ってしたんなら、そんなに悔んじゃダメだ」

 

 顔を上げた夏音とクロウは視線を通わせて、微苦笑する。

 

「通してやれクロウ―――どうせ逃げ切れんよ」

 

 主人からの許しも出て、クロウは非常階段の前から立ち退く。

 それは、逃げれた、というより、逃がされたという印象だ。

 

 こうして、古城と雪菜は、マンションから脱出することができたが、睡眠学習で何度となく味あわされた、苦い敗戦を思い出さされた。

 

 ゾッとする。

 特区警備隊の相手をさせたのは、人工島管理公社が絃神島脱出を阻止するために動いている―――その事実を見せつけるために、あえてぶつけさせた。

 これは、警告の次は本番。

 特区警備隊の包囲を破ったことで、人工島管理公社は、この主従に頼らざるを得なかった。

 すべての裁量を任された魔女と猟犬は、今度こそ誰にも邪魔されることなく、古城たちを捕まえることができるのだ。

 

 

 どこまで行こうが、魔女の掌で踊るだけ。

 決して逃げることのできない鬼ごっこが始まる。

 

 

 

つづく


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