ミックス・ブラッド   作:夜草

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逃亡の真祖Ⅱ

人工島西地区 高級マンション

 

 

 最上階すべてを居住地とした南宮那月の邸宅。

 元旦に向けて、門松や鏡餅などの正月用品が玄関のそこかしこに飾り付けられている。世界有数の魔女の自宅でありながら、この純和風の装いには、知るもののイメージが台無しとなるかもしれない。

 大晦日。

 もう大掃除を終えて心置きなく年明けの準備は済ませてあり、夏音を中心とし、脇を要撃騎士と大錬金術師が固める居候ご一行は、北欧(アルディギア)風おせちの製作に足りない材料があったとかで、年末最後の買い出しに出かけている。何でもまた極秘に第一王女(ラ=フォリア)が年明けの挨拶に来日するとかで張り切っているらしい。

 

 そして、空港の警護に派遣されていた南宮クロウが年始年末の休暇で数日ぶりに帰還し、まっすぐに呼ばれている主人の部屋に赴いて報告をしている。

 

「………それで、登録証を外したって騒ぎがあったけど、そいつら常習犯だし特区警備隊に身柄を預けたのだ」

 

 密入国密輸等といった犯罪者もいたようだが、それらも逃さずにひっ捕らえた鼻のいい魔女の猟犬。テロから完全に警備機能が修復し切っていないとみていたのだろうが、その見通しは甘い。むしろ、眷獣(サーヴァント)ひとりを置いているだけで警備レベルは、前以上に上がっているだろう。

 すでに警備隊の方から届けられた報告書に目を通し、例年以上に犯罪捕縛率を挙げているその活躍ぶりについては把握しているも、那月は思い出しながらたどたどしくも数日分の出来事を話すクロウへ耳を傾ける。

 そして、報告書に記載されていた案件が終わったところで、手を組んだ那月は口を開いた。

 

「それで、他に変わったことはなかったか?」

 

「んー……イブリスとラーメンを食べたのだ」

 

「イブリス?」

 

「う。『滅びの王朝』の王子様だぞ」

 

 あっけからんとしたクロウの発言に、那月は頭痛を堪えるように眉間を指で押す。すぐさま脇に控えていたアスタルテが、教官へと用意していた紅茶を差し出す。

 それを鎮静剤代わりに一服すると、感情を抑えた口調で確認を問う。

 

「馬鹿犬、それでヤツをどうした?」

 

「あう? 他のラーメンも食べてみたいとか言って、少し絃神島を観光していくらしいけど、なんかまずかったか?」

 

 いや、まずくはない。

 しかし、那月が伝え聞く『滅びの王朝』の第九王子イブリスベール=アズィーズは、『焔光の宴』で兵器商ザハリアスを手引きして自治領へと侵入を許しただけでなく、家督の競争相手を始末しようと謀略を企てた裏切りものの第二王女マウィアを、一年足らずの間に追い詰めて復讐を果たし、それから<蛇遣い>の専売特許ともみられている『同族喰い』でさらなる力を得たという。そんな苛烈で誇り高い吸血鬼の王族は、機嫌を損ねれば、真祖一歩手前の第二世代の眷獣を解放し、一帯を更地に変えてしまうのに躊躇はないだろう。

 屈辱を晴らすためなら、血を分けたものであっても容赦はない。

 そんな相手に、あろうことかこの馬鹿犬はラーメン屋に誘ったという、外交官が一目で顔面蒼白になるような対応をした。それで穏便に何事もなかったのであれば、結果論で問題はなかったといえるだろう。だが、それならば万が一に備えて第九王子を確認した時点で、那月への報告連絡相談(ホウレンソウ)を徹底しておくべきだった。一体何のために連絡手段(けいたい)を持たせているのだこの馬鹿犬は。

 何と言うべきか、しかし言葉の出ない様子の那月に、きょとんと首を傾げるクロウ。

 そんな教官の代わりに動いたのは、ここ最近先輩の扱いが板についてきた後輩メイド。

 これまで主従の語り合いを邪魔しないよう調度品のように大人しかったアスタルテはつかつかと大股で、少年の側へ詰め寄った。

 これ以上ない迫力で、青水晶の瞳が睨みつけてくる。

 

「アスタ、ルテ―――?」

 

 思わず声がくぐもったところへ、つけ込むように訊かれた。

 

「説明要求。先輩―――要注意危険人物をその場で見逃したのですか?」

 

「え? あ、あう……別に、悪い事とかしてないし、それにメンラー好きに悪い奴はいないのだ、って、前に浅葱先輩に教えてもらったぞ」

 

「………」

 

「………」

 

 今度は、沈黙。

 さして長くはなかったが、あまりに重苦しいそれに少年が耐えかねて―――突然、来た。

 

「断定。先輩が悪い」

 

「うぬ!?」

 

 前置きなく、判決を言い渡された。

 きゅっ、と蒼銀の法被の胸元(コート)を掴まれる。

 

「大事な事なので復唱します。先輩が悪い。情量酌量の余地なく先輩が悪い。どうして、常に先輩は私を伴わないのですか?」

 

 少年の法被を掴み、精一杯背伸びまでして、実に一生懸命にアスタルテが言うのである。

 

「私は先輩の相方(パートナー)胴輪(ハーネス)であるはずです。なのにそれを置いて、どうして単独行動するのですか。食事を用意していたのに外食ですませるなんて、後輩としての屈辱で、先輩の怠慢と判断します。今回真祖直系のG種との戦闘は回避できたようですが、それにしても運否天賦に違いないでしょう。一体どれだけしたら、学習するのですか! 復唱しますが、どうしてもっと頼らないのかと私は抗議します! もう少しぐらい私の扱いを心得てほしいと切実に思います!」

 

「それは、そのだな……」

 

 一方的にまくしたてられて、クロウは瞬きする。

 気のせいかもしれない。

 後輩の顔が―――その人形のような顔が真っ赤に染まって、唇までへの字にしていて、今にも泣き出しそうに見えたからだった。

 

「う、ん……わかった。悪かったのだ」

 

「……ご理解いただけて何よりです」

 

 視線を逸らして、拗ねるみたいにアスタルテが口にした。

 それから、二人して目を丸くした。

 

「………」

 

 くっくっく、と那月が背を屈めていたのである。

 

「ん、どうしたのだ……ご主人?」

 

「いやなに、こちらの予想以上に縦の繋がりがしっかりとしているようで何よりだ」

 

 那月が叱りたかった点とは、微妙にずれているような気がしないでもないが、こちらの方が、反省が効きそうだ。

 そうして、この身柄を預かっている先輩と後輩へ退室を促して、その背中を細めた目で那月は見送った……

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 教官の部屋を出てから、アスタルテは先日、教官の部屋で話をされたことを思い出していた。

 

(本当に……もう、気にしていないのでしょうか)

 

 アスタルテは、思う。

 教官の口から通達された、“暁凪沙に関する”その決定事項。

 正確には、『神縄湖』で行われようとする国防のための計画について。

 あれから、自分に預けっぱなしがままあった携帯機器を、先輩が常に持ち歩くようになった、そして、警備任務であるも何かを待機するように彼女と別れた空港に半日以上も居付くようになった。

 彼自身さえもそれに気づいていないのだとしても、やはり自分には気になっているように思えた。

 不自然とは言えない微妙な差異で、不確定な情報。

 実際、彼の口から彼女の名前は一度も言われたことはないので、これは印象だけのことではある。

 だから、そのことは一度も訊ねかった。

 だけど。

 

「………」

 

 アスタルテは、そっとメイド服の胸に手を当てた。

 心臓が、ずっと高鳴りを止めなかったのだ。

 専用となった人工生命体用の調整槽で精神安定の薬品注入でそれを止めることもできたが、アスタルテはそれをする気になれなかった。

 

(……私は……おかしくなってしまったのでしょうか)

 

 胸に手を当てて、しばらくアスタルテは動かなかった。

 その気持ちを不安と呼ぶことを―――学習装置で最初に教え込まれたりはしていなかった。

 

「どうした?」

 

「え?」

 

「変な顔してるぞ、腹でも痛いのか?」

 

 こちらに気遣ってか声調をおさえた小声で――いつも通りの表情で眉をひそめたクロウの手を――アスタルテは黙ってきゅっと握った。

 驚いたのかもしれない。

 嫌だったらどうしようと、すごく心配になったけれど、少年は握り返してくれた。

 ひどく優しい、こちらを労わるような握り方だった。

 そのことが、アスタルテには嬉しかった。

 

「やっぱ変なのだ。どうかしたのか?」

 

「……何でも、ありません」

 

 だから、ほんの少しでもクロウの体温を感じていたくて、アスタルテはその腕をとても大事そうに抱きしめたのだ。

 

 ―――先輩に、どこにも行かないで欲しいと、私が思ってもいいですか?

 

 そんな言葉は、とても口にできなかったけれど。

 せめて今だけは、引っ張らせてください……

 

 

 

 ピンポーン、と来客を告げるチャイムが鳴る。

 

 

 

 大晦日、今年最後の日に参上したのは―――このささやかな願い()も解いてしまうもの。

 灰かぶり(シンデレラ)の魔法が解けてしまう時の音と同じように……

 

 

「いきなり悪いな。那月ちゃんに話があってきたんだけど、会えるか?」

 

 

 余裕のない表情の第四真祖と、黒のギターケースを左肩に背負った剣巫が、教官の邸宅に訪れた。

 

 

人工島西地区 ???

 

 

 監視のスポットとして用意していた拠点のひとつ。

 そこから完全に室内を見通すことは、あの難解な過保護な魔女が敷いている結界のせいで無理であったが、それでも大まかな流れは推理で補うことができた。

 

 彼らが、事情を知る国家降魔官を頼るのは予想できていたこと。

 彼女が協力してくれる可能性も五分五分のところであった。

 ―――しかし、こうして彼らが出てこなくなったところを見ると、ヘマを打ったようだ。それも最悪の結果で。

 

「フォローしてあげたいけど……これは、あの子を応援に呼ぶ必要があるかしら」

 

 できるのなら、手を借りたくはない、引っ張りたくはなかったけれど、自分はどういうわけかあの建物には立ち入りを禁止されている。マンションの玄関口に入った瞬間、出入り口を繋いだ空間置換で外に出されるのだ。透明迷彩をしようにも誤魔化しようにない生体の魔力の精気を感知されているようで、どうあっても通ることはできない。部屋はすでに引き払っているけれど、元住人にこの仕打ちはあんまりだと思う。撤去後も密かに残していた、部屋に仕込んであったはずの盗聴器具等もすべて取っ払われているようだし。

 だから、自分にあそこの内部への干渉はほぼ不可能。

 ならば、目には目を。魔女に対抗できる力を持つのは、やはり“魔女”だろう。

 

「解放できても一筋縄じゃ行かないでしょうけど、あそこから出てきてもらえば、私にも手出しができるわ」

 

 明かりのない室内。

 その中で、刃を研いでいた黒の剣巫は、『乙型呪装双叉槍』の二つの刃先の間に挟むように円光盤(ディスク)を取り付ける。

 

 

 

「『鬼道術用追加モジュール』―――<神獣鏡>。太史局の秘奥兵器で、絃神島最強の主従の看板は下ろさせてもらうわよ」

 

 

 

つづく

 

 

 

邯鄲の夢枕X

 

 

 

人工島南地区 マンション

 

 

 十日ほど前の神獣襲撃に眷獣解放トドメの獣王激突の強烈すぎる三連コンボで、爆心地となった705号室はボロボロになっていて、未だに修理の目途がついていない。隣室にも少なからず影響はあったものの、そちらの修理は終わっている。

 そんなわけでやむにやまれず、姫柊雪菜は暁古城の704号室で半ば居候しているような状態である。

 傍目には同棲していると勘違いされるような状況なのだが、職務に真面目な剣巫はこれでより<第四真祖>の厳密な監視が可能になった、と述べている。一人当たりの家事負担が減るので、古城としても積極的に彼女を追い出す理由がないところだ。

 でも、ここで自宅にクラスメイトを招いて、愛の巣とか誤解されるのはたまったものではない。

 

「当然のように古城ん家に入るのね……」

 

「いえあの、凪沙ちゃんが帰省中でいないので、代わりに先輩のお世話をするのは好都合というか」

 

 慌てて言い訳する雪菜に、この現状を知りながら今日まで見逃していたことを悔やむ浅葱。災い転じて福をなすというのか、自宅に住めなくなり家なき子になったと聞かされたときはご愁傷さまと思っていたのだが、これを機に着々とポイントを稼いだなんて……!

 

「古城……あたし、絶対に家には帰らないから、年末年始泊めさせて! どうせ新年は基樹と結瞳ちゃんと一緒に初詣に行くんだし、いいでしょ!」

 

「んな、馬鹿な家出に協力するわけねーだろ」

 

 危機感に急かされた浅葱の懇願を、古城は一蹴して玄関に鍵を差し込む。と、そこですでに鍵が開いていることに気付く。訝しげに眉をひそめながら部屋に上がり込むと、古城たちは驚愕に息を呑んだ。3LDKのマンションすべての部屋が乱雑に引っかき回されていたのだ。箪笥の中身が残らず床の上にぶちまけられて、クローゼットの扉も開いている。

 すわ、空き巣か―――と即座に身構えたが、部屋を荒らした下手人は呆気なく見つかった。

 普段は締め切ったままあまり使われていない、両親用の寝室。

 そのベットの脇に屈み込んで、こちらのふりふりと頭隠れて尻を振る間抜けが一匹。

 30代前半と中高二児の母親には若すぎる歳、よれよれの白衣を着て、寝癖の付いたままのぼさぼさの髪とだらしのない大人代表。こちらに気付いて顔を上げ、その開ききらない眠そうな瞼の童顔を古城たちに見せる女性は、

 

「わー、古城君。浅葱ちゃんに雪菜ちゃん、それに可愛い家政婦さんまでいるの!」

 

「げっ……」

「深森さん?」

 

 ふんふー、と眼福に機嫌よく鼻歌を鳴らすこの女性は、暁深森。正真正銘、古城の母親。

 通勤が面倒臭いという理由で、職場の宿泊施設を事実上の第二の自宅にしていて、こっちの正当な所有権があるはずの自宅には週に1、2度しか帰ってこないのだが、流石に年始年末のシーズンになると研究室から追い出されたか。

 で、それでいったいなぜ、この母親は空き巣まがいの真似をしているのか。

 家事能力皆無の深森は、典型的な『片付けができない大人』であり、彼女が今奥に手を突っ込もうとしているクローゼットは、もう寄木細工のようにみっちりと隙間なく多種多様な代物が詰められている。

 

「ようやくスーツケースを見つけたんだけど、荷物が邪魔で出せないのよ。ちょっとこの辺、抑えてて古城君」

「ま、待てっ!」

 

 なので、そのクローゼットの中から、スーツケースなんて言うデカくてかさばるようなものを強引に引き出したりすれば、どうなるのかは火を見るよりも明らかである。

 ドサドサドサッ、と母親のフォローに飛び出すもあと一歩のところで及ばずに、頭上で崩壊した荷物の雪崩に呑まれる古城。

 『んふ、よかった。これでようやく荷造りができるわ』と大惨事の元凶である深森は、お目当てのものが手に入れられたことに満足している。

 さっさとスーツケースに荷物をまとめる深森は、崩落した荷物の壁の防波堤とならんとし、残念ながら残骸の下敷きとなっている息子には気にも留めず、それよりか新顔の家政婦に研究者として興味津々である。

 

「ねね、それでその子は何なの?」

 

「あー、この子は……」

「個体名『スワニルダ』―――藍羽浅葱様をマスターとする人工生命体(ホムンクルス)ですと回答」

 

 全身あちこちにあざを作る古城を心配そうに窺いながら、微妙な表情で浅葱が答えようとするよりはやく、深森にスカートの端をつまむ一礼(カーテシー)を返す家政婦。

 物差しで測ったようにきっちりと会釈する動作に穢れなき白髪がさらりと流れる。眉宇と鼻梁の長さを形作る黄金律。陶磁器のように白く滑らかな肌には、翡翠(エメラルド)色の瞳が儚い美しさを演出していた。

 純粋な美貌だけならばここにいる藍羽浅葱や姫柊雪菜も劣らないが、この家政婦にはどこかつくりものめいた不思議な印象が強い。

 それも、当然だろう。

 実際に、スワニルダは“人形でもある”のだから。

 

 それについに荷物の整理をしているスーツケースまでほっぽり出して、人工生命体の少女に接近。んふー、と低く唸りつつ、挨拶でも交わすようにごく自然に、唐突にスワニルダの胸を鷲掴みにする深森。

 

「なるほど、浅葱ちゃんは、こんな可愛い家政婦を雇ったのね。ふむ、これは中々」

 

「挨拶代わりに胸に触れる癖をいい加減に直せ!」

 

 荷物に埋まっていた古城が、母親の悪癖を察知して跳び上がる勢いで起き上がると、その後頭部を乱暴に張り飛ばして、ピンク色な脳細胞を死滅させんとする。

 除夜の鐘でも聴いてこの煩悩を清めてほしいと息子は毎年切に願う。

 そして、スワニルダは感情のない瞳を、自分の胸を触って恍惚の表情を浮かべている深森に向けて、

 

「……こちらの女性は?」

 

「古城の母親よ。一応怪しい人じゃないから」

 

 渋面を作り息子の口からとても言いたくない古城に代わって、浅葱が説明をする。

 

「状況把握」

 

「頼むからそんなあっさりと受け入れないでくれ……!?」

 

 傷ついたように唇を歪めて項垂れる古城。

 それを気にせず、家政婦はこの惨状、寝室だけでなく、リビングやキッチン、そして古城たちの部屋まで平等に散らかっている、まるで局地的な竜巻が吹き荒れたかのような光景をぐるりと視認。これを元の状態に復旧するのは、並の大掃除よりも遥かに手間だろう。

 

「にしても……あちゃー、これは大掃除が大変そうね」

 

 と嘆きに反応し、淡々とスワニルダは浅葱に確認を取る。

 

命令認識(リシーブド)お嬢様(マスター)、部屋を片付けますか?」

 

「できるの?」

 

「肯定」

 

 こくり、と首肯する家政婦。

 思えば、彼女の能力のことを知らないし、継母も『すごく優秀な子』としか聞いてない。その白髪白肌の整った美貌からして、愛玩用としても十分通用するだろうが、政治家の父親が見目の良さで娘のお付にするとは考えにくい。

 なら、その腕試しにちょうどいいかと浅葱は考え、

 

「じゃ、やっちゃって」

 

命令受託(アクセプト)

 

 お嬢様の命令に頷くと、人工生命体の純白の絹糸のような白髪が、揺れて―――

 

 散らかった物たちが動き出して、元あった場所へと帰り始める。

 そう、ひとりでに。

 ばかりかリビングには、掃除機がにょっきりと立ち、雑巾も持つはずの手は見えないのに宙に浮き、お伽噺よろしく自立して動き掃除をし始める。

 その働きぶりは大したもので、みるみるうちに荒廃した家の中で床に散らばる荷物はいなくなり、どころか、床が輝くくらいに磨かれる。そこらの家政婦を十人雇っても、これほどの功績は望めまい。北欧の伝説に名高い、家守りの妖精(ブラウニー)さながらだ。

 

「これは、『傀儡創造(メイク・ゴーレム)』……!」

 

 驚きに声を洩らす雪菜。

 無機物に仮初の命を吹き込んで、自らの忠実な従僕に仕立てる魔術。おそらく、その伸長した白髪を接続経路にして、繋いだ物体を動かしているのだろう。

 

「魔術? それって、こんな物にも有効なのか?」

 

「理論的には、意思のない無機物であれば可能です。けれど、これだけの数の傀儡(ゴーレム)を同時に操るのは、人間の術者には不可能です。傀儡(ゴーレム)からのフィードバックに脳や神経が耐えられません」

 

「人間には……って、それじゃあ、人間とほとんど変わらない人工生命体(ホムンクルス)でも無理なんじゃねぇのか……!?」

 

 古城が戸惑いながら訊き返すも、雪菜にその明確な答えはわからない。

 この数百の傀儡を、たった一人で指揮するなんて、彼女の体内に『傀儡創造』と同じ効果を持つ魔具が埋め込まれていたとしても、難しい。

 ……おそらく、そのように“改造されている”としか予測が……

 

「そうねー。あの子、体の半分は、機械人形(オートマタ)だったわね」

 

 そう、さりげなく核心をついたのは、深森。

 先ほどのボディタッチで、『接触感応能力者(サイコメトラー)』からスワニルダの身体構成を()ったのだろう。

 人間を超える演算能力を持つ機械人形であれば、数百の傀儡操作も可能だろう。

 しかし、

 

「人工生命体を素体とした機械人形の製造は、聖域条約で禁止されているはずです」

 

 雪菜が感情を圧し殺したような声で、それを口にする。

 自然ではありえないほどの整った容姿の人工生命体で、まるで生きているかのように自然な機械人形―――スワニルダの完璧な人形の美貌を持ちながら、その人間よりも完全な人間らしいその矛盾した完成度の秘密は、人工生命体の細胞を機械と融合して生み出した機械化人工生命体(サイバネティックス)。すなわち文字通りの『生ける人形』なのだ。

 

 しかしそんな真似は、雪菜の言う通りに、絶対の禁忌とされているものだ。スワニルダという一人の少女の肉体を切り刻み、単なる機械へと近づけるようなその蛮行を、魔族と人類の共存を目的とする聖域条約が許すはずがない。

 この生物とも機械とも判別できない、どっちつかずの不安定な存在である彼女は、違反製造されたものである。

 

「たぶん、『彩昂祭』の時に会ったアスタルテさんと姉妹機(しまい)なんじゃないかしら。同じ感触がしたし」

 

 最後の手をにぎにぎとしながら零した戯言は無視して。

 なるほど、と古城は、その顔立ちを見てからこれまで抱えていた違和感が氷解した。そう、今日の補習授業で代行教師を務めた人工生命体と彼女は似ているのだ。

 そして、納得する。

 人工生命体に眷獣を植え付けるという生命を弄べる人間ならば、人工生命体を機械化させて魔具を埋め込ませるなんていう非人道的な実験を行えただろう。

 

 それで、声を潜めていないその会話は、当人の耳にも当然入り、

 

「肯定。私とアスタルテは、同じ『人形師(マイスター)』の作品です」

 

 憤りを覚えたこちらに反して、感情の起こりのない一定調子の声音で、深森の言を認める。

 機械化されたことに対し、スワニルダ本人は何も思うところはないようで、その辺りは人工眷獣を役立てるアスタルテと変わりないようだ。

 そんな生い立ちを気にする過去よりも、現在の状況に彼女は集中しているようで、

 目を糸のように細めて、部屋の汚れを見回っている。

 その眼力たるや、嫁を家に入れたばかりの姑の如し。

 きゅきゅきゅっと指で擦る代わりに、『傀儡創造』で白い布を窓枠に擦り付け、しばらく観察した上で、

 

「制圧」

 

 と汚れてないのを確認し、次の戦場へ掃除機と雑巾を引き連れていく。

 凄まじい勢いだった。

 片付けのできない大人が空き巣とばかりに荒した室内が、あっという間に前以上の清潔な異空間へ改造されてしまいそうだった。

 騎馬よろしくぴいんと駆ける掃除機。

 兵隊の雑巾たちが悉く空を飛び、窓や棚等の埃被ったところに貼り付く。瞬く間に捕虜にされていく荷物たちは元の場所へと避難させられた。

 そうして、数分と掛からず、

 

命令完了(コンプリート)

 

 能力の無駄遣いしてる気がしなくもないが、遺憾なくその性能を発揮した今日からお付の家政婦人工生命体に、浅葱は胸の内を吐き出すように深く嘆息をする。

 彼女は優秀であり、そして、一般には出回ってはならない違反物。製造はもちろんだが、所有もそう簡単に認められるものではないだろう。

 だから、こんなピーキーな機械化人工生命体を引き取れるのは数限られ、『魔族特区』の評議員の家クラスでもなければ迎え入れることはできないし、

 だから、ここで浅葱がお付なんていらないと訴えれば、彼女は路頭に迷うか、またはその高度な技術を暴こうかと解体されるのがオチだろう。

 となると、彼女の幸せを考えた身の振り方は、浅葱の傍に置いておくのがいい、と……

 

「よくやってくれたわ、ご苦労様……これからも、よろしくね、スワニルダ」

 

「はい、お嬢様」

 

 

 

 そうして、北海道の社員旅行への荷支度を整えた深森は、大掃除をしてくれたお礼にMARの『ζ9』――自社の最新機種のデジタルカメラを贈ると出かけていった。

 それで折角だからと記念写真を撮って、その写真を自分の携帯端末に送るよう古城にノートPCを借りる。

 深森からのおさがりで、暁兄妹が共有で管理している。といっても、実質、凪沙が専有しているノートPCを、キーボードの上に張られた付箋に記入された、凪沙が設定したと思しきユーザー名とログインパスワードの通りに打ち込んで開いた……ところで、浅葱が気づく。

 

「このアカウント……凪沙ちゃんのスマホと同期してるみたいなんだけど……」

 

「同期?」

 

「スマホとパソコンで互いにデータのやり取りできるように設定してあるわけ。受け取ったメールやらカレンダーに入力した予定やらは、両方で確認できた方が便利でしょ」

 

 とはいえ、これは便利でもプライバシー的には危険な機能ではある。

 携帯機器に入っているデータの一部を、このノートPCを経由することで閲覧できるのだから。

 

 そこで、一枚の画像ファイルを見つける。

 

 データは半壊している。しかし、これは暁凪沙が撮影したもの。

 記録日時は、ちょうど凪沙が丹沢にある祖母の地元に到着した日で―――そして妹からの連絡が途絶えた直後の日付である。

 画像の下半分のデータは破損しており、モザイク状の模様になってしまっている。そして、上半分に映っているのは、夜空。

 おそらく車窓越しから撮った写真で、山の稜線に切り取られた冬の空。雪も星も映っていない、深い海底のような暗闇の夜空。

 でも、その暗闇に、奇妙な模様が点々と浮かび上がっている。

 内側にびっしりと魔術文字の羅列が埋め尽くす円。それが幾重にも同心上に重なり、光が焼く巨大な文様となって、夜空をすっぽりを覆い尽くしている。

 

 

 まるで凪沙たちを閉じ込める檻のように、“魔法陣が展開されていたのだ”。

 

 

 これが、起点。

 幾度となく挑ませる、暁古城のハジマリであった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「落ち着きなさいよ、古城。まだ凪沙ちゃんに何かあったって決まったわけじゃないんだし」

 

「分かってるよ。俺はメチャクチャ冷静だろ」

 

「そんな必死にメールを送り続けてて、どこか冷静なんだか」

 

 夜空を満たす巨大な模様と、空中を乱舞する人工的な輝き。

 その意味で、この光景は花火のようである。

 だが、その可能性を迷いなく却下する。

 

 デジタルデータなんていくらでも改竄できる。

 仮にこれが魔法陣だとしても、凪沙を狙ったものとは限らない。

 だが、逆にそうではないという保証もない。

 

「これがどういう効果の魔方陣かはわかりませんけど……紗矢華さんの<煌華鱗>によく似てますね」

 

 『六式重装降魔弓(デア・フライシユツツ)』より、鳴り鏑の呪矢を利用して展開する大規模魔法陣と類似するものがある、と雪菜は控えめに注解を入れる。

 細かな模様や形は違っているが、上空に描き出す性質やあの巨大な規模はほぼ同じだ。

 

 しかし、<煌華鱗>は起動に必要な呪力量が桁外れに多い上に、相性が物凄くシビアだ。そんな取り扱いが難しい『六式重装降魔弓』をまともに扱えるのは、獅子王機関に所属する呪詛と暗殺の専門家である舞威姫の中でも煌坂紗矢華のみだという。

 

 ……ただ、これまでの<煌華鱗>のデータを基に、構造を『剣』と『弓』に分けて簡略化した量産モデル『六式降魔剣(ローゼンカヴァリエ)(プラス)』と『六式降魔弓(フライクーゲル)(プラス)』が開発されているという噂がある。

 それを使えば、優秀な舞威姫である紗矢華以外にも、同じように武神具を扱える可能性がある。この夜空の写真の通りに空中で魔法陣を描くことは、ありえない話ではない。

 

 ―――だとしたら、それは獅子王機関の関係者が、凪沙を事件に巻き込んだということになる。

 

 古城が唯一、雪菜以外で連絡先を知る紗矢華に連絡を取ろうとするも、繋がらない。

 雪菜もこの絃神島の出張所を通して、獅子王機関の本部に問い合わせることはできるだろうが、この凪沙の写真だけでは誰に何を訊けばいいのかわからない。

 

 

 

 それから、古城たちは浅葱の家にお邪魔する。

 浅葱の自分用のノートPC――絃神島を制御する五基のスーパーコンピューターと繋がり、世界最高水準の演算能力を持つ補助人工知能(AI)モグワイの支援を受けて、本腰を入れて調査するために。

 <電子の女帝>と情報世界では右に並ぶものが存在しない浅葱のハッキング能力で、空港の監視カメラや絃神島で撮られた顔写真といった牙城と凪沙の映像と照合しながら、二人の移動経路を追跡。

 飛行機の搭乗記録は残っているのだから、そこから足取りは追える。

 クレジットカードの履歴を辿れば、どこで何を買い物したかを探ることもできる。

 

 公共の建物や信販会社のサーバーに侵入し、データを奪い、さらにそこからたった二人の個人を特定するという、気が遠くなるような作業であるも、浅葱とモグワイは瞬きする間もなく進めていく。画面では絶えずウィンドウが開いたり閉じたりしており、古城の感覚ではついていくことはできない。

 しかしこのまま追跡作業を続ければ、確かに凪沙の現状の確認ができるだろう。

 

 

 ・暁牙城、偽名でレンタカーを借りる。

 ・その際に、通行データを残さないようナンバープレートも交換。

 ・車ナンバーではなく、搭乗者の画像データからこれを追跡。

 ・都内で、買い物や遊園地、凪沙の小学校時代の友人と会ったり、久しぶりの本土を満喫。

 ・ホテルで一泊(暁牙城、その際、ホテルを抜け出し、ストリップ劇場に赴く)。

 ・新しいレンタカーに乗り換えて、移動再開。

 ・高速道路に設置された各種カメラに測定機器によって、追跡。

 ・特にトラブルに巻き込まれることなく目的地『神縄湖』に到着する。

 ・ただし、移動があまりに順調(スムーズ)。道が混み合う年末の時期に、一度も交通渋滞に引っかかっていない

 ・念のために別のところを調べてみるが、主要な幹線道路には大渋滞が発生している。周辺の道路地図はどこも混雑しており、場所によっては歩いた方が早い。

 ・二人が移動した丹沢方面――『神縄湖』に向かう道程だけが空いている。

 ・これは他の者たちは無意識にその道を通るのを避けているとしか思えない。他の道路が異様に混んでいるのは、その分のしわ寄せによるものと思われる。

 

 

 ……あの親父は、犯罪組織のボス並みの用心深さを持ちながらも、キャバクラ巡りをしたり夢の国で頭に猫耳をつけて年甲斐もなくはしゃいでいたりと、息子としてはどんなだけ後ろ暗いところがあるんだと呆れたり、恥辱を感じずにはいられない行動ばかりだが、それでも確実に裏があった。

 

 この渋滞のシーズンに不自然に空いた道。これは、おそらく人払いの結界が張られていると推定。牙城と凪沙を除くすべての人々が、本人たちの知らぬ間に『神縄湖』に近づけないという呪を掛けられた。逆を言えば凪沙たちだけが、結界の中に差し込まれたということ。

 これが正しいとなると、凪沙が撮影した魔法陣が、すべての始まりではなく、『神縄湖』に近づく前からすでに呪詛は発動していたことになる。

 もはや疑いの余地なく、これは牙城か凪沙のどちらかが狙われたもの。

 

 そして、『神縄湖』周辺をまるごと覆う結界を敷くには、それだけに見合った大掛かりな準備とかなりの数の術者を揃えるのが必要になる。

 人払いの結界は、最も基本的な呪術のひとつである。極端な話、『通行止め』と書かれた道路標識を一つ置くだけで最低限の結界は成立する。

 しかし、原理がシンプルであるだけに規模が大きくなればなるほど、結界の維持に必要な人員と労力は指数関数的に増大する。『神縄湖』周辺から無関係な人間をすべて排除しようと思ったら、個人ではまず無理。相当な規模の集団が必要になる。

 そんな大規模の人払いの結界を張れるほどの統率された組織となれば、存在は限られており、検索はそう難しいものではない。

 関係者が増えれば増えるほど、痕跡を消すのは難しいのだ。

 食料、休息、移動、通信―――集団行動を維持するために行われた様々な二次的な活動の痕跡を拾い、金の流れを辿れば、組織の正体を自ずと絞られる。

 

 

 ・『神縄湖』周辺に、降雪と土砂崩れが原因で通行禁止ということになっている。

 ・災害救助の名目で自衛隊が派遣されている。

 

 

 だから、もう無理があった。

 あの夜空の写真で、真っ先にその類似点に気づいてしまった時から彼女は追い詰められていた。

 その、疑問に思えばすべての筋が通ってしまうその点を、思考から無意識に外してる。

 愚かしいほど無知ゆえの信頼感。

 それは何の根拠もないからこそ、理知的に並べられていく真実を前にしては、弁護するのは難しくて、

 

 

 ・ただし、実質的に自衛隊を指揮し、呪術結界を張っているのは、『魔導災害管理局(SDC)

 

 

 妄信的とすら思える、自分を育ててくれた組織への忠誠。

 でもこれ以上目を逸らすのは無理だった。

 落ちた。

 血の気を引きながらも、これまでの信頼に縋るように抑えていた少女は。

 その組織名を聴いて、

 剣巫としての仮面を、落としてしまった。

 

 

 ―――その、『魔導災害管理局』は、獅子王機関が所有しているダミー組織のひとつです。

 

 

 これまで新しい情報がひとつ挙げられ、真相に近づくたびに顔を青褪めていった雪菜が、その情報についに口を開いた。

 魔導災害の被害防止の研究と、政府機関への情報提供が主な任務とする、獅子王機関の組織の一部門であると消え入りそうな声で説明した。

 けれども。

 きっと今でも、それが間違っていると、そうであってほしいと、少女の目は揺れる。

 

 大規模な魔導災害や魔導テロを防ぐために組織された獅子王機関。

 だからこそ、凪沙たちを覆う魔法陣の画像を見せられても、その時までは、それはないと古城も思考から外していた。

 しかし残された痕跡は、獅子王機関の関与を認めてしまっている。

 言葉をなくす雪菜に代わって、浅葱が冷静に結論をのべる。

 

「自衛隊と獅子王機関ってとこが共謀して、『神縄湖』を封鎖してるってことでしょ。魔導災害の被害を防ぐために。凪沙ちゃんとの連絡が途絶えたのは、つまりそれが原因ってこと」

 

『あるいは魔導災害を引き起こすために、妹ちゃんを呼び寄せたのかもな』

 

 ケケッと悪意を滲ませた口調で笑う人工知能。

 ぞくりと言い知れぬ不安を古城は覚えた。

 過去に凪沙は、数万人を巻き込み、結果として人工島のひとつを沈めた巨大な魔導災害の中心にいたことはあるが、それはもう終わった話のはずだ。

 あれは凪沙の責任ではないし、今更妹が魔導災害に関わる理由などあるはずがない。

 そう言い聞かせて、古城は平静を保とうとする。

 

「獅子王機関が……そんな……どうして……」

 

 そして、転落した。

 浅い呼吸をつづけ、目眩を起こしたように倒れ込む。

 確固たる精神的な基盤のひとつであったものが、大きく揺らいだ少女は、慌てて抱き支えた古城の腕の中で怯えたように小刻みに首を振りながら―――そのまま、ぷっつりと意識を失った。

 

 

 

 人工島である絃神島とは違い、『神縄湖』周辺は色濃く自然が残り、ハッキングして乗っ取れる電子機器はほとんど存在しないことから、これ以上のネット回線からの情報収集は断念した。

 

 その後、少し休んでから浅葱家を出て、古城たちは師家様こと縁堂縁の式神(ねこ)が常駐している獅子王機関の出張所へと向かう。

 しかし、詰所に張られていた結界は、雪菜にも解呪(デコード)できない形に術式を変えられていた。

 剣巫である彼女にも、入れない。

 

「どうして……そんなこと……!」

 

 悔しそうに雪菜が肩を震わせる。

 真面目すぎるほど真面目な性格が災いして、雪菜の思い込みは人一倍に激しいところがある。凪沙を心配し、そして、獅子王機関から除け者にされて、接触すら避けられている。

 剣巫の肩書を与えられていても、組織の末端に過ぎない雪菜に、本部のある高神の社は外界から隔離されているため直接連絡はできず、他の支部の連絡先も教えてもらっていない。

 

 凪沙の撮影した写真は、偶然、手に入ったものであって、獅子王機関は雪菜に徹底して情報を遮断して、こちらを隔離しようとしている。紗矢華との連絡がつかないのも単なる連絡ミスとは考えにくいのだ。

 焦燥に駆られる雪菜に反して、古城はむしろ雪菜を気遣えるくらいには落ち着いていられることができた。

 獅子王機関が凪沙を事件に巻き込んだかもしれない、というのは雪菜には相当ショックなものだろう。

 でも別に古城の方は元から獅子王機関を大して信用していないから、そこまで裏切りのショックは少なかった。

 獅子王機関が、常に正義であるとは限らない。

 組織の中で派閥や勢力争いはきっとあるだろう。

 基本、性根が真っ直ぐな雪菜には、同じ組織内でも信頼できる人間とそうでない人間がいるなんて発想は思いつかないのだろうが、

 だから獅子王機関に雪菜の知らない一面があったとしても、雪菜が責任を感じる必要ない。少なくとも、あの妹分大好きな紗矢華が雪菜を裏切るわけは絶対にありえないのだから。

 だから獅子王機関の全てが雪菜を裏切ったわけではない、と。

 

 そうやって、古城が言葉を尽くして、雪菜を宥めているとき―――古城たちがこれからどうすればいいかと立ち止まったそのとき、穏やかな声が響いた。

 

 

「お困りのようね、<第四真祖>―――」

 

 

 極上の墨を思わせる黒髪を風に流すセーラー服の少女。世を拗ねたような目つきで、こちらの様子を眺めていたのは、妃崎霧葉。

 政府太史局の六刃神官―――対魔獣戦闘の専門家(エキスパート)であり、獅子王機関の剣巫とは、同じ術を使う表裏一体の関係。

 『青の楽園』で起きた魔獣騒動の事件で、雪菜は彼女にあと一手で負けのところまで追い込まれた。

 しかし今の霧葉には、その時ほどの戦闘の意思は感じられず、背負っている大型の三脚ケースにも手を伸ばす気配はない。

 

「久しぶりね、姫柊雪菜。酷い顔ね、捨てられた子犬のように見えてよ」

 

 戸惑う本家の剣巫を見返し、揶揄する黒の剣巫。特別、喧嘩を売っているつもりはなくて、こういう物言いしかできない性格なのだ。

 そして、霧葉は古城たちに言う。

 

「獅子王機関が『神縄湖』で何をしているのか、知りたいでしょう? 違って?」

 

 その思いがけぬ、また狙ったような発言に驚く古城を見返して、霧葉は嘲笑する。

 内務省参加の特務機関である太史局は、獅子王機関と組織の目的が重複するため利害の対立することが多い。だからこそ、獅子王機関の動向を把握しており、また獅子王機関が暁古城に伝えると都合の悪い情報を聞かせるのは、太史局としては得になるものだ。

 そういう意味では、信頼できる情報筋だろう。それに、浅葱から偶然手に入った写真の画像が間違いなく真実であると裏付けが取れている。

 太史局・霧葉の目的は、獅子王機関の行動を妨害するために、古城たちを利用すること。それはつまり、この情報を教えることで古城が獅子王機関と敵対することを確信しているということでもある。

 

 

「知りたいのなら、すべて聞かせてあげる。後悔することになると思うけれど―――」

 

 

???

 

 

「本土へ行きたい。手を貸してくれ」

 

「役所に行って査証をもらってくるんだな。

 発給手数料は3300円。ただし査証の申請には魔族登録が必要だ。貴様が未登録魔族だとばれることになるが、構わんか?」

 

「だからそういう話じゃなくて! ちんたら手続してる時間がねーから、あんたに頼みに来たんだよ!

 あんたなら、審査をすっ飛ばして俺たちを絃神島の外に出すくらい簡単だろ」

 

「仮にできたとしても、私には貴様のためにそこまでしてやる義理はないはずだが?」

 

「人の命がかかってると言ってもか?」

 

「なに?」

 

「『神縄湖』―――現在、神緒田ダムがある土地には、かつてひとつの村がありました。人口300人にも満たない小さな集落です」

 

「ダム建設の犠牲となって、湖の底に沈んだ村というわけか。悲劇的だが、よくある話だな」

 

「そうですね。村がなくなったのが、ダム建設のせいであれば、ですが」

 

「ダム建設の3年前に村人は全員失踪してたんだ。痕跡すら残さずな」

 

「原因は?」

 

「沈んでしまった旧神緒田村には、『犀木シャーマニクス』という企業の研究施設がありました。これは推測になりますが、神緒田地区には、先の大戦中の軍用機の残骸が多く残っていたようです。おそらく、その機体に積まれていた物資の中に、強力な呪物が含まれていたのではないかと」

 

「その呪物が小さいとはいえ300人もの村民を失踪させた原因、とでもいうのか。陰謀論としては悪くないが、説得力には欠けるな」

 

「ですが、その呪物が、『聖殲』の遺産、だとしたら、神緒田ダムが封印のために造られたとしても大袈裟とは言い切れないではありませんか?」

 

「どちらにしても、40年以上前の話だろう」

 

「ですが、もしも、その遺産が活性化する要因があったとしたら―――」

 

「それが、暁凪沙、か?」

 

「え……!?」

 

「『聖殲』は、確か暁牙城の専門分野であったな。そして、暁凪沙はその封印のひとつを破った」

 

「なんで……なんでそれを知ってるんだよ……!?」

 

「それはこちらのセリフだ。獅子王機関が隠蔽しているはずのその情報、お前たちはどこで手に入れた?」

 

「っ、それはこの写真からだ。凪沙のスマホに残ってたデータを偶然見つけて、でもって浅葱が、こいつの裏を取ってくれた」

 

「藍羽か。それだけではないようだが、まったく余計な真似をしてくれたものだ。

 まあいいさ。心配しなくても貴様の妹には、暁牙城がついているのだろう? お前が出ていっても話が拗れるだけだ。大人しくヤツに任せておけ」

 

「それができたら苦労しねーよ。

 他はともかく『聖殲』の遺産はダメだ。あれはあいつの手には負えない。それに今回のことを仕組んだのは親父じゃねぇ。ヤバい予感がするんだよ。

 だから、頼む。力を貸してくれ」

 

「断る」

 

「なんで!?」

 

「教え子の違法行為を止めるのに理由が必要か?」

 

「そうか。わかった」

 

「……先輩?」

 

「もういいよ。あんたの立場も考えずに、勝手なことを言って悪かったな」

 

「待て、暁。どこに行く気だ?」

 

「他を当たるよ。邪魔したな」

 

「駄目だ」

 

「■■ちゃん!?」

 

「お前たちを行かせるわけにはいかない。ここで大人しくしてもらうぞ」

 

「っつ、させません! <雪霞狼>―――」

 

「遅いな、転校生。もう、終わっている―――■■■」

 

「古城君、姫柊、眠ってもらうぞ」

 

「ク■■―――!?」

 

 

人工島南地区 マンション

 

 

「う……ん……」

 

 わずかに身動ぎをして、古城は目を覚ました。睡眠時間は3時間足らず。目を覚ましてから、自分が今まで眠っていたことに気づかされる。そして、何か夢をみていた気がするのだが、夢というのは大抵目を覚ました時には忘れてしまうものだ。

 不思議と頭はすっきりしている。

 覚えている。

 これから何をすべきなのかを自分はわかっていて、その覚悟も固まっている。

 

 『神縄湖』

 

 南関東の丹沢にある人造湖。今は観光地として知られている。

 その神緒田ダムがある土地には、40年以上前ひとつの村があった。

 ダム建設の犠牲になって、湖の底に沈んだ村―――それは、表向きの理由。

 ダムが完成するその3年前に、村は消滅していたのだ。当時の村人が、痕跡すら残さずに全員失踪して……

 原因は、わからない。公表されていないだけなのかもしれないが、沈んでしまったその旧・神緒田村には、『犀木シャーマニクス』という呪装品機器を扱う企業の研究施設があった。

 奇しくも、『犀木シャーマニクス』は神緒田ダムが完成した年に倒産しており、当時の経営者や従業員たちの記録は散逸し、彼らの行方は一切知られていない。倒産の原因もまた不明。

 しかし、ある程度の推定はできた。

 何故、こんな辺鄙な土地に研究所を構えたのか―――それは、その近くに莫大な価値を持つ研究対象が眠っていたからだ。

 神緒田地区には、つい託した軍用機の残骸が多く残っており、それらに積まれていた物資の中に、何らかの強力な呪物があったのではないのか。

 そう、先の大戦中で使われるはずであった呪物が。

 村人の失踪もその呪物が原因だとしたら、あながち大袈裟とも言い切れないし、あるいは神緒田ダムそのものが、その呪物を封印するために造られたものなのかもしれない。

 この貯水量6万5000tの人造湖で封じなければならないほどの呪物―――それは、おそらくは『聖殲』の遺産ではないだろうか。

 

 これは、40年以上も前の話。

 だが、近年、その遺産が活性化する要因があったとしたら―――そう、そこで暁凪沙が関わってくる。

 『聖殲』は、父の牙城の専門分野で、そして凪沙はかつて『聖殲』時代の遺跡の封印をひとつこじ開けたことがある。

 蝶の羽ばたき(バタフライ)効果で、それがこの『聖殲』の遺産にも影響を与えたのではないか。

 

 妃崎霧葉が教えてくれた情報は、それほど多くない。

 

 

 ・『神縄湖』の底に、『聖殲』の遺産と思しき呪物が沈んでいる可能性があること。

 ・獅子王機関が何年も前から、その呪物に興味を示していたこと。

 ・そして、凪沙の来訪と時を同じくして、獅子王機関の政府向けの窓口である『魔導災害管理局』が動いたこと。

 

 

 自衛隊に封鎖された神緒田地区で、現在起きている事態については、まだ太史局も把握できてはおらず、だが、袋小路に陥った思索の突破口となり、古城の箍を外すには十分なものであった。

 

 今回の件を仕込んだのは、親父じゃない。

 そして、『聖殲』の遺産と凪沙を接触させるのは、まずい。

 

「―――よし、いくか」

 

 シャワーを浴びて軽く寝汗を流し、服を着替える。この常夏の気候では着る機会があまりない、彩海学園の冬の制服。ブレザーのジャケット代わりに、少し厚手のパーカーを羽織る。

 これからの事態が想定できないことから、持ち出す荷物はそれほど多くない。自宅の鍵と携帯電話、そして浅葱から借りた改造スマホと専用の充電機。

 必要なものがあればその都度現地で買い揃えるとして、となるとその分出費はかさむことになる。手持ちの現金だけでは、正直頼りないのでキャッシュカードと預金通帳も持っていく。深森の研究室の掃除や牙城の使いっ走りといった中学時代に稼いだバイト代で、預金通帳には14万9289円はある。元々は部活の遠征費の足しにする予定だったのだが、バスケ部を止めたことで使い(みち)がなくなっていた金だ。

 そして、軽めの荷支度を整えて、自宅を出る。その直後、

 

「……どこに行くつもりですか、先輩?」

 

 ひやりと冷たい声が、古城の背中に突き刺さる。

 びくっ、と身体を浮き上がらせて古城が振り向けば、そこに気配を殺して無表情で背後に立っていた雪菜がいた。

 

「ひ、姫柊……!?」

 

「……どこに行くつもりですか、先輩?」

 

 と抑揚の乏しい声で二度同じことを復唱する雪菜に、古城は、うっ、と一瞬言葉に詰まって、

 

「いやこれは、そう、大晦日だし、今年最後の大盤振る舞いでパーッとやろうかな、と」

 

「制服の冬服を着て遊びに行くんですか……」

 

 年下の少女にジト目で睨まれて、硬直したままだらだらと冷や汗を流す古城。

 監視役である雪菜には気取られないようにと、細心の注意を払って準備を進めていたのだが、どうやらもうこれバレバレらしい。

 

「本土に行くつもりなんですね、先輩」

 

「まあな」

 

 降参、と強張った肩から力を抜いて、がっくりと落しながら首も縦に振る。勝者の雪菜に笑みはなくて、むしろますます不機嫌そうに眉間に皺を寄せる。

 

「私に黙ってこっそり、ですか?」

 

 責めるように雪菜から言われて、古城はもう開き直った態度で言い返した。

 

「だって姫柊は止めるだろ」

 

「そうですね。先輩は吸血鬼の真祖ですから。『魔族特区』の中ならギリギリ許されても、本土を好き勝手に歩き回られたら大問題になると思います。見逃すわけにはいきません」

 

「えーと……そこんところは、なんとかならないだろうか」

 

「なりません」

 

「ですよネ……」

 

 唇を歪める古城に、雪菜はため息をついた。

 怒っている。

 怒っているのだ。

 “きっとこうなるだろう”と思った。

 この怠惰な先輩は、時に溜め込んでいたかのようにやる気を爆発させることはあっても、行動はあまりに杜撰であると。きっと、部屋をしっちゃかめっちゃかに散らかした母親の適当さも受け継いでいるに違いない。

 雪菜は頭痛を堪えるようにこめかみに手を当てながらも、幼児に教え諭すように、あくまで冷静に言葉を続ける。

 

「先輩は、どうやって絃神島から出ていくつもりだったんですか。『魔族特区』への出入りには、厳重なメディカルチェックが義務付けられているのを忘れたわけじゃありませんよね? 先輩が<第四真祖>だって確実にばれますよ」

 

「あー……まあ、そうなんだけどな」

 

「仮に何らかの方法で本土に渡ったとして、戻ってくるときはどうするつもりだったんですか? 言っておきますけど、絃神島への入島審査は、外に出るときよりもチャックが厳しいんですよ」

 

「それについては臨機応変に対応しようかな、と」

 

 ヤケクソ気味に堂々と胸を張る古城。

 それを雪菜は一蹴。

 

「なにも考えてなかったんですね」

 

「まあ、最悪、吸血鬼だって言えば、絃神島に強制送還されるんじゃないかと思ったんだが」

 

「その時は凪沙ちゃんにも先輩の正体がバレますけど、それでよかったんですか?」

 

「そ、そうか……それはまずいな」

 

 頭を抱える古城。しかし、雪菜の方こそ頭を抱えたい。

 『魔族特区』の人間でありながら重度の魔族恐怖症である凪沙に、実の兄が吸血鬼であることなどが知れたら、彼女は凄まじい苦悩を抱えることになるだろう。それでは本土に行けたとしても余計な問題を作るだけだ。

 

「まったくもう……私に黙って一人で本土に行こうとするから、そうやって大事なことを見落とすんですよ」

 

 いやそれはあまり関係ないと思うが……と弱々しく反論を零す古城だが、キッと細めた視線をやられれば、その切れ味の鋭さに沈黙を選ぶしかない。

 どことなく理不尽な理屈を押し通した雪菜は、コホン、と小さく咳払いをして、

 

「だから、私も行きます」

 

 古城は雪菜のその言葉に逆に驚いたように、唖然と呆けてしまう。この監視役の少女は古城の無謀を止めに来たのではないのか?

 

「まさか、姫柊も一緒に付き合う気なのか?」

 

「私が獅子王機関に与えられた任務は、先輩の監視です。先輩が本土に行くというのなら、当然私も同行します」

 

 そのための監視役ですから、と得意げに胸を張って雪菜は言う。

 

「いや、でもさっき見逃すわけにはいかないって……」

 

「私の目の届く範囲から出すわけにはいかないという意味ですけど」

 

 言われてみれば。雪菜は一度も古城に行くな、とは言っていない。古城のあまりの考えなしに呆れていただけだ。

 雪菜も獅子王機関が自分の知らないところで、凪沙を事件に巻き込んだことを相当根に持っているのだ。古城は雪菜の監視対象だが、凪沙は違う。純粋な友人に近い存在だ。

 

 

「凪沙ちゃんのために仕方なく先輩の不正行為を黙認しているだけですから! そもそも先輩が私に何の相談もなく島を出ようとするのが行けないんですからね!」

 

 

道中

 

 

「それで、どうやって本土へと行くつもりだったんですか?」

 

「……前に、叶瀬が言ってたんだよ。この正月に、ラ=フォリアが絃神島に来るって」

 

 本土へと行く方法は、古城も考えてあった。

 プライベートなので、詳細な時刻までは解らないが、北欧アルディギアの姫御子ラ=フォリア=リハヴァインが、血縁上は叔母に当たる夏音に会いにやってくるという情報を古城は思い出した。

 第一王女は、古城が<第四真祖>である事情を知り、彼女が搭乗しているであろう飛空艇は、『魔族特区』の警備隊から身を隠せるだけの治外法権。出島審査も、王族の権威とやらで押し通してクリアさせてもらって、そして島を出てしまえば誤魔化しも利くはず。

 

「つまり、王女様に密航の手伝いをさせるつもりだった、というわけですか」

 

 そんな真似をするのは、先輩くらいなものだろう。

 呆れ果てたように言う雪菜に、古城は重々しく頷いて、

 

「解釈次第ではそう捉えられても仕方ないな」

 

「他に解釈のしようがありませんけど」

 

「非常事態なんだから仕方ねーだろ! もっと穏便な方法があるなら俺だってそうするわ!」

 

 逆ギレ気味に叫ぶ古城。

 他にもヴァトラーのクルーズ船に乗せてもらう案もあったが、それにはいったいどんな見返りを要求されるかわかったものではない。その点を言うなら、ラ=フォリアの見返りとやらも怖いのだが。

 まあ、それでも戦闘狂よりもマシなはず。

 

 ―――それに、港はダメだ。

 

「それに、ラ=フォリアさんがいつ来るかもわかりません」

 

「だから、大晦日(いま)から行って、空港に貼り付くしかない」

 

「そうですね。こちらからコンタクトが取れれば、きっと……」

 

 そして。

 方針が定まったところで、

 

「じゃあ、行くぞ―――」

 

 マンションを出てから、すぐに古城は走り出した。

 全速力だった。

 

「先輩……!?」

 

 どうしてそんなに急ぐのかと雪菜が戸惑いの声を挙げるも、立ち止まることはない。

 駅近くの繁華街に入ると、年明けカウントダウンにイベントのBGMが流れていた。

 街を歩く誰もが幸せそうで―――たまにあまり幸せそうじゃない人もいたが、そんな人達でさえ、楽しそうな今年最後のイベントの光景を見ると思わず微苦笑してしまうのだった。

 古城が共感する相手は、どちらかといえば後者であったが、少なくともこの光景が嫌いではなかった。

 今は、それもろくに意識へのぼらない。

 

「……はっ、はあっ!」

 

 息を切らせて、走る。

 駆ける。

 雪菜も何も言わずについてくる。

 どうしてこんなに焦って、目的地(ゴール)へ急ぐのか、古城にも説明できなかった。

 そう。どこへ向かおうにも待ち受ける相手を出し抜くには、全速力で駆け抜けるしかない、と―――そんな根拠ない望みは、早々に潰えることになる。

 

 

 “■■■、■■■、■■■、■■■―――!!!!”

 

 

 聴こ、えた。

 空港の最寄駅を降りた直後だ。

 突然、雰囲気が変わるのがわかった。

 まず、電車を降りたのが自分たちだけであったこと。キラキラ光るライトアップされたカウントダウンを前に、人影がさっぱりと消え失せていた。

 ショーウィンドウや店内は、通常営業のまま電気を灯されているのが、なお不気味だった。

 

 人払い。

 凪沙たちが誘い込まれたのと同じ、空間から余計な部外者を排他し、獲物を狩る場を整える。

 それに気づいた時にはもう―――捕まっていた。

 

「―――っ!」

 

 視界に“あるもの”を認めて、一瞬、息を止めた。

 それは、ごく平凡な、絃神市内にいくつか支店を持つオープンカフェであった。

 そこにいたのは、幼い少女の見た目をした、そのくせ脇に“三次元に盛り上がった影のような獣人”を従える世界有数の、魔女。

 

「……お、前」

 

 古城の唇が強張った。

 いいや。

 心臓が止まったのではないかと、疑ったほどだ。それほどに目の前の光景は悪夢のようで、どうしようもない現実だった。

 

 

「お前、とは年上に対する言葉遣いがなってないな暁古城」

 

 

 悠然と座ったままの、漆黒の衣装。

 ゴシックな人形に着せるような装いを纏う、<空隙の魔女>。

 この魔女が座ると、ただの椅子が玉座に変じるようだ。長い髪は夜の威厳を湛え、瞳は世界を映す鏡となって、あらゆる者を足元に跪かせる。

 

「“今回は”、<蛇遣い>に頼るのを止めたのか。しかし、残念だが、あの腹黒王女は年が明けても来ない―――そして、貴様らが年を越すことはない」

 

 と、彼女はこちらの行動を採点し、落第再追試を言い渡すように宣告する。

 表情はあくまで無感情に固まっているままなのに、その瞳には一切の油断がなかった。

 実際、この魔女が恐ろしいのはそうした心性だ。単純な強さや能力ではなく、行動や思想の隅々に至るまで油断がないのだ。意識と意識の断絶がなく、いかなる瞬間にも全力を傾けられるということの恐ろしさ。

 夢幻の監獄に閉じ込められたその友である魔女が、その隙を衝くのに長い年月をかけて精緻巧妙なる計画を組み上げ、己の分け身たる娘を犠牲にしてようやく一太刀を浴びせられたという。

 その恐怖は、古城は身をもって知っている。

 忘れるはずもない。

 忘れられる、はずもない。

 なのに、どうしてこれまで思い出すことができなかった?

 

(……空隙の、魔女)

 

 勝算を、はかる。

 この魔女と戦った場合の、自分が逃げ切れる方法。

 何も……思い浮かばなかった。

 いや、考え付くのだが、“それらがもうすでに攻略された”という想像図(ビジョン)が脳裏に過ぎるのだ。

 ここにこうして、アルディギアを頼りにすることも、見抜かれている。

 ―――そして、警戒すべきは魔女だけでなく、あの“影”もだ。

 

「来るぞ姫柊っ!」

 

 魔女が左手に持った扇子を翳す―――それを見た古城は、雪菜に警告を発する。振り降ろし、不可視の衝撃波が、雪菜に撃ち込まれる。

 華奢な身体が吹き飛ばされ、中空で翻して着地した。

 

「ほう……避けるか。いや、“覚えているか”」

 

 一撃で仕留めきれなかったことに、魔女は小さく舌打ちをする。

 古城が注意を促したことで、霊視では見切れない攻撃を堪え切れたのだろう。

 と、そこで“影”を見失ってしまったことに気づく。

 

 ああ、そうだ。

 あいつは、姫柊を相手にするのを避けている。

 だから、一瞬でも動きを封じればよかった。

 そう、一瞬でも目を離すとこれだ。

 だが、来るのは“体が覚えている”。

 

「■■■―――ッ!」

 

 十数mもの間合いを一種でゼロにして、護衛するように前衛に出た剣巫を置いてけぼりして、“影”は古城へと右腕を突き立てる。その指先からは凶悪な鋭爪が伸びている。

 

「こいつ!」

 

 “影”の攻撃は避けられない―――直感でそう判断した古城は、反射的に眷獣を喚び出していた。古城の全身が霧に変わり、それを刺し貫こうとした“影”の右腕も霧化せんとする。

 吸血鬼の『霧化』の象徴である<甲殻の銀霧(ナトラ・シネレウス)>。

 

「霧の眷獣、か―――悪くない選択だが、迂闊だな」

 

 “影”の右腕を消滅しようとした霧が、爆発したように弾き飛ばされる。その衝撃に古城の霧化を解除され、焼き焦がされた左胸から蒸気のような血飛沫が噴く。あらゆる物質を霧に変えて消滅させる古城の眷獣も、その高純度の霊気を纏う聖拳の輝きには晴らされてしまう。

 

「ぐお……ッ……!」

 

 “影”の金色の光を放つ右腕を睨んで、古城が呻いた。あの獣人のシルエットをしながら、<疑似聖剣(スヴァリン・システム)>なんて魔族の天敵じみた力を振るうその腕を―――

 

「先輩っ!」

 

 昏倒まではいってないが、まだ意識のふらついている雪菜が、強引に奮い立たせて駆けつける。駆け付けた勢いそのままに、渾身の一打を“影”へと叩き込む。同時、“影”もまた雪菜の顔面に手を伸ばし―――それが届く寸前に、剣巫の掌底が打ち抜いた。

 

「―――<(ゆらぎ)>よ!」

 

 “影”の分厚い筋肉を貫通し、内臓へと直接衝撃を送り込む近接戦闘での雪菜の切り札。

 だが、掌から伝わるのは異様な手応え。

 肉体へダメージが通っていない。

 この薄く練り込まれた、強靭な生体障壁が、雪菜の掌打を防ぎ切る。

 ―――そして、雪菜の意識が揺らぐ。

 

「ぇ―――」

 

 戦闘状態に思考を忘却の彼方へと飛ばしてしまう、この陶酔感。

 鼻腔を満たすは、呪的耐性など意味を成さぬ、生物の本能を衝き動かす芳香。かつて、ジャコウネコ科の獣人種が、真祖をも夢中にさせた特技(スキル)を、“影”が使う。

 そして、一瞬の意識の空白が致命的。

 

「とらえたぞ、転校生。49本の時間差攻撃、今の貴様に躱せるか?」

 

 魔女がセンスを振り降ろす。空間に目に見えない無数の亀裂が走り、銀色の鎖が撃ち出された。それらは目標である剣巫を完全に包み込み、そして四方から一斉に搦め捕る―――

 肉体と精神が切り離されたように、雪菜は動けない。いや、動けたとしても、この一瞬先の未来を先読みしても回避不能な制圧から逃れる術はなく。

 

 

「さて、これで残るはひとりだ」

 

 

 虚空へと引き摺り込まれようとする雪菜に、古城の意識が蒸発するには十分だった。

 まだ身体が完全に再生されていない。それでも雪菜を救おうとする古城の前に、立ちはだかる“影”。

 

「―――そこを、どけっ!」

 

 力任せに殴りつける古城の拳すら、“影”は軽く頭を振るだけで躱し、同時に右足を古城の側頭部に叩き込む。

 鋭く、重く。そして、紫電が迸るのは、剣巫の技である『八雷神法』。

 頭がトマトか何かのように吹き飛ぶのを、想像させられるほどの衝撃。

 吹き飛ばされた古城が起き上がった時に光が揺れるその瞳に映したのは、雪菜が異空間に呑まれる光景。

 大切な仲間を失い、孤立無援。もう……

 

「暁古城。貴様が不完全な<第四真祖>であるのは知っている。だが、未完成の殺神兵器でさえ私とやり合って一昼夜はもったぞ。

 その私に<守護者>を、眷獣(サーヴァント)に<神獣化>を使わせるまでもなく、何度も秒殺で沈められる雑魚が、『聖殲』の遺産を相手に何ができる?」

 

「……っ」

 

 冷ややかな視線で見下す魔女に、古城は言い返せる言葉を持たない。

 彼女たちは手を抜いていない、油断なんて欠片もされていない、だけど、手加減されているのがわかった。

 最後の獲物を狩り取るべく疾走する魔女の猟犬。

 

「■■■■―――ッ!!!」

 

 人を超える、魔族においても頂点(トップクラス)の身体性能。

 しかし、その初動作のない最短の軌跡を行くそれは、人間の格闘技術。

 拳と足、膝や爪先に衝撃変換の呪術を用いた白兵戦術、その基本となる体裁きは人間が魔族に対抗するために練り上げられた術理だろう。

 力に酔いしれて本能に任せて暴れ狂わせる獣とはわけが違う。

 獣王として創り込まれた骨と肉に、人々が積み上げてきた血と汗の遺産が染み付いている。

 そんな殺戮機構(キリングマシン)にとって魔族は狩る対象。それが不完全な真祖であっても。

 

 あれを止めなければ、今度こそ古城は仕留められる―――!

 

「疾く在れ、<神羊の金剛(メサルティム・アダマス)>!」

 

 古城が眷獣を召喚する。金剛石で構成された大角羊。それは数千数万もの結晶を辺り一面に敷いて、攻撃を反射する障壁を築き上げる。

 だが、『報復』の障壁を張るが、その守りを固めようとする古城の思考(におい)は読まれていた。

 突っ込んできたところをカウンターで撥ね返すはずだったのに、“影”はその障壁を前に急停止し、扇子を振るった魔女が不可視の衝撃波が、障壁を無視してピンポイントで古城を撃ち抜く。

 脳を揺さぶられ、眷獣の操作から気が抜ける。

 

「ぐ、っ―――!?」

 

 “影”の姿がない。

 その主人の魔女が古城の意識を飛ばした一瞬で、古城の視界から消え去り、障壁の隙間

に獣体長身を滑り込ませ、古城の心臓のある左脇に潜り、掌で腹を殴る―――さらに刹那の拍子に手首を返した爪が臓を破り―――連鎖は止まらず、稲妻迸る左右の脚で、古城の身体を容赦なく蹴り上げた。

 

「―――は、が……!」

 

 光瞬く軌道が大気を焦がし、磨った地面に火が走る。

 電光石火な左右の蹴り上げ。

 肉体と一緒に意識が完全に、トブ。

 一体、何m突き上げられたのか。胴から首を引っこ抜かれてもおかしくない衝撃。いや、それを言うなら腹臓を叩き破った爪拳ですら、行動不能とするには十二分な威力があった。

 そして、そのまま中空で古城の肉体は虚空から撃ち出された封鎖に搦め捕られ、異空間へ引き摺られる。

 

 

今回の夢物語(チャプターX)は、失敗だ……」

 

 

 ……ああ、意識が暗闇に呑まれる。

   手を伸ばした夜空に、(ひかり)はなくて。

   繰り返される初夢は、こうして。

   目覚めることなく、同じ終着に堕ちるのだ。

 

 

 

つづかない

 

 

 

 

 

彩海学園

 

 

 ―――微睡みから、覚める。

 

「お……っと」

 

 この吸血鬼殺しな常夏の日射にやられて、英語の追試中に、意識が飛んでいたらしい。

 古城は慌てて、答案用紙を見て、それが一応全部埋められていることを確認し、安堵する。

 それから、残り時間を確認しようと時計を―――見ようとしたところで、目を見張った。

 

「なんで……お前が、ここにいるんだ……?」

 

 教壇にいたのは、教師代行の人工生命体でも、英語担当のカリスマ教師でもなく、中高一貫校に入るはずのない小学生。

 白いワンピース姿のセーラ服。明るい色の猫っ毛の髪に、学校指定と思しきペレー帽がよく似合う。気難しいネコを連想させる、大人びた顔立ちの可愛らしい少女。

 

 

「古城さん、初詣は一緒に行くって約束したでしょ?」

 

 

 そう、華やかに笑って言ってのけたのは、江口結瞳。

 魔族総合研究員の特待生である、世界最強の夢魔(サキュバス)―――<夜の“魔女”(リリス)>だった。

 

 

 

「もう、ずっと待ち惚けでしたから、こっちから“夢の中に来ちゃいました”」

 

 

 

つづく


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