ミックス・ブラッド   作:夜草

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冥王の花嫁Ⅴ

本島 遊園地

 

 

「う~~~っ、全っ然連絡が来ないよ!」

 

 一度本島に寄ったら行ってみたかった世界的に名の知れ渡ったテーマパーク。

 家族サービスとして連れてこられた、ネズミをモデルにしたというマスコットキャラが誘う夢の国、そのレストランのひとつで、携帯機器(スマートフォン)を握った暁凪沙が不機嫌に唸っている。

 空港の遅延で鬱憤を溜まっていたのもあったのだろうが、そこへ『今日、連絡取れないかも』と九時前に来たメール。それから凪沙は携帯へ猛烈な勢いで打ち込みはじめ、マシンガントークそのままな文字数の返信をしたのだが、音沙汰無し。

 アトラクションとかは楽しんでいるようだけど、何か待ち時間があるとこうしてスマホの画面とにらめっこしているという。そして、それを見せつけられる父親の心境。

 

「クロウ君、やっぱり何かあったのかな。昨日の空港テロが関わってるよねやっぱり。大怪我してて……ああもう! 古城君にメールしても返ってこないし!? ちょっとすぐ絃神島に帰りたい!」

 

 まだ離れて一日もたたずにホームシックになってしまう娘。牙城は何だか今なら、未成年の娘を嫁にもらった義父と深酒の付き合いができそうな気がする。

 

「待てって、凪沙。年寄りは気が長いんだから少しくらい待たせたって問題ないけど、さすがに約束無視して神社に行く前にUターンしちまうのはマズい。本土行きのチケットを再発行してたら、年末には間に合わねェ。本当なら去年にお呼ばれされてたはずなんだから、(ババ)あに折檻されちまうよ」

 

「うぅ、お祖母ちゃんに会わなきゃいけないのはわかってるけど……」

 

「それに、ほら、便りの無いのは良い便り、っつうだろ? 俺が世界中飛び回ってずっと連絡がつかなくなっても、凪沙は心配なんかしてなかったろ」

 

「いや、牙城君とは違うよ。牙城君は信用してるんじゃなくて、心配しても無駄だっていう諦めだから」

 

 ぐさり、と娘の辛口な批評が、胸にくる牙城。心配されるうちが華だというが、どうやら父親のそれはすっかり枯れ果ててしまってるらしい。これは放任主義が行き過ぎたからか。

 しかしながら、こうも目の前で娘に遠く離れていてもずっと心配されるのが、羨ま―――いや、心労をかけさせるのは許せん。なんにせよ、このまま後ろ髪引かれているのは解消せねば。

 

「もしかすると可愛い女の子と楽しくやってるから電話に出れなかったんじゃねぇか。メイド服とか着て、ご主人様、とか言われちまうと男ってのはコロッと……」

 

「何それ牙城君の体験談? へぇ、そういうお店に行ってるんだ……あとで深森ちゃんに教えておこうっと」

 

「いや、ちょ、待って、凪沙ちゃん!?」

 

 ごふ、と明らかに冷たくなった視線で睨まれ、また左胸を抑える牙城。女の子は精神的に成長が早くて、彼氏(おとこ)ができると男親に容赦なくなるというけど、心の準備をしてない牙城にはこれは早かった。

 ……いや、普段の行いというのが原因かもしれないが。

 

「ま、まあ。『アメリカ連合国』の怖いお姉ちゃんなら先生ちゃんがどうにかしてくれるだろうし、クロウ君もきっと無事だ。暴走車をぶん殴って止めちまう小僧には、テロリストも形無しだろ。あの装甲車よりデカい怪獣が二体挟み打ちにされているような状況でもなきゃピンチとは言えねぇし、んで、そんな状況は現実的じゃない。だから、心配するな」

 

 牙城も何の根拠もなく励ましているのではない。

 『特殊部隊(ゼンフォース)』やら『鷲の戦士長』やらで大変なようだが、それ以上に大変な『焔光の宴』で、『原初(ルート)』から次々と災厄の如き眷獣をぶつけられて生き残ったような奴だ。それに息子もそうだがああいうのはそう簡単にやられるようなタマじゃない。

 

「うん……」

 

 と説得が功を奏したか、やっと凪沙はスマホをしまい、そこでちょうど注文した品がやってきた。

 

 

オシアナス・グレイブⅡ

 

 

『ヴァトラー……様……古城……』

 

 感情が抜け落ちた虚ろな表情。

 記憶を消され、最後の拠り所は目の前にあっても遠くて、消えてしまった。

 セレスタ=シアーテの精神は決定的に破壊された。その絶望をトリガーとし彼女の頭上に現出するのは、およそ直径1mの虚空に穿たれた穴のような奇怪な物体。

 おぞましい斑紋様に描かれた表面が、生物の内臓のように不気味な蠕動を繰り返す。そうしながら、空間を貪るように成長する―――異界より生じた、異形より生まれた、邪神の『卵』であった。

 

『すべてはディミトリエ=ヴァトラーの思惑通りか……口惜しいが、我ら一族の役目が終わりだ。<冥き神王>の現出は止められぬ……』

 

 最年長の獣人神官である長老が、虚空に浮かぶ邪神の『卵』を見上げて“終わり”を悟り、それから、“今や醜い怪獣となり果てた”若者を憐れむ。

 獣人たちに『アメリカ連合国』へ神殿の位置や『花嫁』の存在といった情報を売る――内通していた裏切者がいた。

 そして、その裏切者たちは……利用されていた。兵器として、利用された。

 

 もう、セレスタ=シアーテは、絶望してしまっている。邪神の『卵』が世界に現れてしまっている。

 ならば、やれることはひとつ。邪神を鎮める神官として、神王召喚の儀式を執り行う。

 まだ完全に成長し切る前に邪神を降臨させる。この異境の『魔族特区』絃神島で実体化したとこで、<冥き神王(ザザラマギウ)>は本来の神威を発揮できない。滅ぼすことができるのだ。

 ……あの<蛇遣い>は、『どうせなら、より完全な邪神の相手をする方が愉しい』と残念がるだろうが、『真祖に最も近い吸血鬼』ならば、<冥き神王>を屠ることができよう。

 ああ、強者との“戦争”を何よりも欲する戦闘狂の筋書き(シナリオ)通りの展開であろう。

 ……いや、村が滅んだ時からこうなるのは定めであったか。

 ならば、躊躇うまい。

 

 必要なのは、『花嫁』の絶望と、そして“強き上位獣人種の贄”。

 長老ら神官たちは、全員が一斉に、躊躇なく、自らの心臓を抉り出して、『卵』へ捧げた。

 

 

 

 獣人神官たちの心臓を喰らい、鞭のような緑色の触手――蔓草を表面から生やす『卵』。

 一気にその直径は1mから7mと七倍に肥大し、クルーズ船を覆い尽くすほどにまで成長している。

 あれは怪物の種子であって、異界へと通じる(ゲート)

 そこへ自我を喪失したセレスタ=シアーテの身柄が、絡みついた蔓草より引き摺り込まれて―――球体の内部に取り込まれた。

 

『先輩、あとのことはお任せします!』

 

 邪神の触手であれ、それを実体化しているのは魔力。そして、少女の銀槍は、魔力を斬り祓うもの。

 少女は、こちらに触手を伸ばして真祖の血までも貪ろうとする無数の蔓草を破魔の銀槍の一線でまとめて切断すると、傍らに着地して、こちらの容体を診た。

 半身を吹き飛ばされた傷。

 真祖の超回復であれば、それは致命傷とはなりえぬ。けれど、それでも、傷の治りが遅かった。

 神獣に負わされた傷、ではない。あれは神獣ではなく、豹蠱。獣人神官の若者を材料にした“最強の蠱毒”だ。

 じぃわあああああああああああああああああ!! と。

 あの時、爪撃で抉られると同時に傷口からまるで中華料理店の厨房のような、凄まじい音が炸裂した。真祖がここまでダメージを残すほどの呪毒を浴びるなんて……『波朧院フェスタ』で、操られ狂暴化した後輩以来の経験だろう。

 剣巫の少女も意見は同じ。

 あのクルーズ船から飛び出していった豹蠱を放つのは、危険だ。『不死』と『増殖』、そして、臓物を食い破るほどの負が煮詰められた呪毒。市街地にでも暴れたら被害は尋常なものでは済まなくなる。

 

 だけど、事態は豹蠱だけでない。邪神――セレスタを内部に攫った邪神の実体化を止めなければならない。

 だから、姫柊雪菜は単身で臨む。

 その行為が棒切れ一本で、決壊し始めているダムの放水を止めようとするほど無謀なものだと知りながらも。

 それでも時間稼ぎすればきっと―――助けてくれると信じて。

 この被害を食い止める術がないと無力さを歯噛みする古城に、高純度の霊媒たる自身の血を、回復(ちから)の足しになればと口移しにて呑ませて―――『花嫁』の後を追い、球体の中に飛び込んでいった。

 

 

人工島東地区 空港

 

 

 炎の色に空に暴風が逆巻いて絃神島を炙り、

 黒紫色の高波が押し寄せて絃神島を揺らし、

 そして、大地を踏みしめ外敵を拒む遠吠えが空海に轟く。

 

「壮観っすね……この記録映像、怪獣大決戦ってタイトルの特撮映画にしたら大ヒットするんじゃないんすか」

 

 空に、蛇竜。

 海に、豹蠱。

 地に、魔狼。

 

 怪獣と呼ぶに相応しいそれらが三つ巴で対峙するのを眺めて、ツンツンに短髪を尖らせて、首にヘッドフォンを引っ掛けた少年――矢瀬基樹が苦笑交じりに呟いた。

 今、彼がいるのは絃神島中欧空港――先日、特殊部隊(ゼンフォース)特区警備隊(アイランドガード)が一線を交えた場所。その建物の屋上だ。

 もはや原形をとどめず、港として機能しないであろうかつての巨大桟橋までは、直線距離でも2km近く離れているが、あの怪獣のデカさは望遠鏡無しの肉眼でもはっきりと見える。

 

 虚空に穿たれて、膨張する奇怪な穴も含めて。

 

「随分と余裕だな、矢瀬。この状況は、公社(おまえら)にとっても想定外(イレギュラー)だろうに」

 

 声の主は、日傘をさした人形のように小柄な、魔女。

 矢瀬の隣に前触れもなく虚空より現れた南宮那月が、苦虫を噛み潰したような不快な眼差しを投げかけてくる。

 お前らがもっと早く手を打っていればこうはならなかっただろう、と。

 隠れ過保護な担任教師の八つ当たりをされるのは御免被ると矢瀬は、直接の手出しは禁じられる監視者『覗き屋(ヘイムダル)』としての言い訳を語るとする。

 

「まあ、古代都市(シアーテ)を滅ぼした<冥き神王>は情報価値が高いって思ってるやつらもいて、それで復活するまで事態の様子見をすると議会で決定して……」

 

「ふん。それで尻拭いは下っ端にやらせるとは、良いご身分だな」

 

「いや、本当に申し訳ない。でも、そういう立場なもんでね。しゃーないッス」

 

 矢瀬としても、不本意なのだ。

 『暁古城の親友』という表向きの立ち位置を築き、しかしその裏側は『第四真祖の監視役』というポジションという面倒な役目を担わされている矢瀬。そんな彼にとって、今回のセレスタ=シアーテを中心とした騒動は完全に寝耳に水な不意打ちであって、監視者として与えられた権限では手に負えない。

 『戦王領域』の貴族ヴァトラー。

 『アメリカ連合国』の陸軍少佐アンジェリカ。

 『混沌界域』の戦士長クアウテモク。

 人工島管理公社の保有戦力では、そのうちの一人だけでも手に余る化け物揃いだ。

 だから、セレスタの正体を知りながら教えてやることもできず苦悩する古城を眺めたり、神獣化能力を持つ上位種の獣人部族や機械化改造された特殊部隊の相手を後輩に任せたり、そして、彼らの手助けもできない自分自身に嫌悪感に吐き気を催しそうになるのを堪えたり……

 

 けれども、その一方で矢瀬は、この騒乱が貴重な“予行練習(リハーサル)”になりえることも理解していた。

 

 那月は無感動に息を吐くと、己の使い魔とその管理役から視線を外して、

 

「―――で、公社の人工知能は、あの丸いやつをどう分析している」

 

「あー、<冥き神王(ザザラマギウ)>とやらを降臨させるために形成された、保護フィールドって感じすね」

 

 超電子演算頭脳の化身たる『モグワイ』が分析するに、あれは『卵』であり、その中に十中八九、邪神の“(コア)”があると予測している。

 

「邪神の実体化を止める方法は―――?」

 

「今んとこ、不明。他の『魔族特区』にも情報を調べてもらってますけど、何せ古い記録しかないもんで。一応、今、レーザー攻撃衛星を準備してるっすね」

 

 ただし、あと90分ちょい、時間がかかる。

 人工衛星搭載型の対地レーザー砲は、人工島管理公社が隠し持つ切り札の一つであるが、そのシステムは未完成なもの。発電能力と軌道高度の関係で、絃神島への精密射撃が行えるのは約3時間おきに一発だけ。

 邪神の実体化までに間に合うかは微妙なところであって、そしてレーザー砲撃で、あの『卵』を破壊できるかどうかは、また別の問題だ。

 

「てなわけで、それまでは、邪神の対応は姫柊ちゃんに期待するしかないみたいです」

 

「獅子王機関の『七式突撃降魔機槍』か―――無謀だな。棒切れ一本で、ダムの放水を止めようとしているようなものだぞ?」

 

 眉を顰める那月。

 魔力を無効化する人工神気を放つ<雪霞狼>も、神気を帯びた敵とは相性が悪いことは、『仮面憑き』との戦闘で実証されている。<冥き神王>が完全に実体化したら、もう為す術無しだ。

 

「自分が時間を稼げば、古城がどうにかしてくれるって信じてるんでしょ。実際、そのおかげでこっちにも対処する余裕ができたわけだし。健気な子ですからね」

 

「ああいうのは、思い込みが激しいというのだ」

 

「まあ、否定はしないっすよ。うちの幼馴染も似たようなもんだから」

 

 今頃、問答無用でキーストーンゲートの中核を担う<C>に閉じ込められている幼馴染の顔を思い浮かべ、矢瀬は薄く笑う。

 

「完全に実体化した場合、絃神島にどの程度まで影響が出る?」

 

「『卵』だけなら、大した影響はないっすよ」

 

 あの“怪獣大決戦”はないものと考えて、と前置きして、

 仮に『卵』が現在のペースで膨張を続けたとしても、人工島(ギガフロート)の機能に影響が出るまで96時間――4日以上かかる試算だ。呪術迷彩を使っていれば、その間、市民の大半が『卵』の存在に気付かせないのも可能である。

 

 そして、『卵』は、完全に実体化する前に自らの霊力を使い尽して自己崩壊する。

 

 もともと存在するべき神殿から切り離されて、まともな供物も儀式もない状態での召喚。本来の力を発揮できる方が、異常なのだ。

 

「だが、ヴァトラーは球体が飢えることなど最初から織り込み済みだろうな。ほれ、あそこにいる“阿呆鳥”と“銅鑼(どら)猫”、それと“馬鹿犬”……“獣人(けもの)生贄(ちにく)がお好み”の邪神には、恰好の馳走(エサ)としか映らんようだぞ」

 

 煩わしげに唇を歪める那月の視線の先、そこには“三体の極上の栄養源”のうちまずどれにしようかと食指を彷徨わせるよう、緑色の触手を揺らしながら伸ばしている邪神。

 長い年月をかけて醸成された“阿呆鳥”、

 人が壺で煮詰めて加工された“銅鑼猫”、

 遺伝子改良された素材である“馬鹿犬”、

 と、邪神にはテーブルに並べられた料理としか見えないだろう。

 あんなのを口にすれば確実に腹を下すか胃が焼けるだろうが、飢えている邪神には残さず平らげる腹積もりに違いない。ただし、最初は楽に喰らえる、脱落したものを狙っているようで、迷っている模様だ。

 そして、このお膳立てを整えたのは誰か?

 

 昨夜のこと、“代理戦争”の企画人がヴァトラーであることは、アスタルテより報告されている。

 奴の口車で絃神島に“阿呆鳥”を連れてきたことも大体は予想がつくし、あの豹頭の獣人神官どもを匿っていたことから、“銅鑼猫”の存在にも勘付いていたことだろう。

 騒動の種は『花嫁』セレスタ=シアーテだろうが、その『花嫁』を含め、更に絃神島に他所から火種を持ってきたのは、まぎれもなくヴァトラーだ。

 あの血に狂った戦闘狂は完全体の<冥き神王>を本気で望んでいる。そして、それが強き獣たちの死闘饗宴から産まれたのならば、存分に“愛で(ころし)甲斐”が出てくるというものだ。

 

「那月ちゃん……いますぐクロ坊を避難させた方が良いんじゃないか」

 

「そんなことをすれば、あの球体は絃神島との融合を早めるぞ」

 

「融合……?」

 

 真剣に後輩の身を案じた矢瀬は、那月の言葉に困惑する。

 <冥き神王>の正体は龍脈が生み出すエネルギーの集合体。『シアーテ』の神殿に構築された巨大な魔術装置によって、それに実体を与えたものに過ぎない。

 龍脈の集積地点である霊地との融合など、邪神本来の機能に含まれていないはずだが……

 

「あれは飢えていると言っただろう。馳走を目の前から取り上げてみろ。どこぞの“蛇”と同じで堪え性のないあの利かん坊は、本腰を入れて絃神島の住人全てを供物にして、不足分の魔力を補うだろうな」

 

「供物って……じゃあ……」

 

「そうだ―――この絃神島の全てが、喰われる」

 

 平然と那月は言い放つ。その言葉に矢瀬は息を呑んだ。喰われる、と彼女が口にするなら、本当に絃神島の全てが食われる。南宮那月と言う人物はこんなときに冗談を言う性格ではないのだ。ましてや、あの少年の命がかかっているような状況で……

 

「……邪神に喰われる以前に、島が壊れるかもしれんがな」

 

 身動ぎもせずに立っていた那月が、唐突に日傘を揺らして歩き出した。

 彼女が目指すのは、地盤が砕け、球体の触手が根を張り始めている港湾地区。そこを走り抜ける長身の女。大柄な男をひとり従える、毛皮付きコートの美女だ。

 

「対魔族装備すべてをもってしてもあの球体を倒し切るのは力不足だ。公社連中には、急ぎ東地区から市民を避難誘導するよう伝えろ。

 怪獣退治は趣味ではないのでな。私は私の仕事をやらせてもらう―――」

 

「待ってくれ、本当にクロ坊を放っておいていいのかよ!」

 

 背を向けたまま、那月が立ち止まる。

 監視役として矢瀬が彼女をここで引き止めるのは失格かも知れないが、ここは抑えが利かなかった。あんまりにも薄情だ。ここで何もせずに離れてしまうのは、絃神島と使い魔(サーヴァント)の命を天秤にかけて、前者を優先することを認可したようなもの。公社とすればそれを黙認するのが正解だ。しかし、そんな住民が食われないよう、邪神の気を引く、馬のニンジンをやらせるようなことを、認めていいのか。

 

「絃神島が危機なら、“馬鹿犬の行動は定まっている”のだろう」

 

「……っ」

 

 ケケッ、と矢瀬のズボンのポケット――そこに収まっている携帯機器(スマートフォン)より笑い声が聞こえた。“その通りだ”と言わんばかりの人工知能(AI)の癖に人間臭い合成声音。

 矢瀬は、これ以上引き止める言葉など吐けず、沈黙する。那月は嘆息を零して、その去り際に呟く。

 

 

「怪獣退治の管轄は、私の眷獣(サーヴァント)に任せている。『神殺し』に不完全の邪神程度など“役不足”だ。むしろ、絃神島の心配をするべきだと私は思うがな」

 

 

 そう言い捨てて、那月は姿を消した。彼女がそれまで立っていた場所には、ゆらゆらとした波紋だけが残されている。

 矢瀬はゆっくりと立ち上がりながら、今の捨て台詞を頭の中で咀嚼して、ついにやけてしまった。“力不足”と判断した相手には、その仕事を任せようとしないであろう天下の国家降魔官が、“役不足”と言い切った。即ちそれは全幅の信頼を置いているという……

 

「誤用、ってわけじゃねーだろうし……那月ちゃん、姫柊ちゃんのこと思い込みが激しいなんて言えないんじゃねェか」

 

 カリスマ担任教師が前にいてはとても吐けない言葉を出しながら、矢瀬は肩を竦める。

 ズボンのポケットから取り出した、見慣れない型の携帯機器(スマートフォン)の画面に浮かぶ不細工なマスコットキャラが“同意だ”とでもいうように、ククッ、と笑う。

 

 

人工島東地区 港 跡地

 

 

『―――やあ、古城、ようやくお目覚めかい?』

 

 雪菜の血を飲んだおかげでどうにか意識を保ててはいるが、体の芯に蓄積している負傷のダメージは完全に消えたわけではない。不老不死の真祖の肉体は、自己修復を続けてはいても、まだ戦えるレベルには程遠い。

 それでも、ここで立ち止まってなんかいられなかった。

 トビアス=ジャガンは、邪神の結界内に入った主に牙を剥いた『アメリカ連合国』アンジェリカ=ハーミダを追っていき、雪菜はそれよりも先に『花嫁』セレスタを救いに飛び込んでいる。

 古城はそれらを為すすべもなく見送った。

 

 “死んだふり”をしていた金髪碧眼の青年貴族もまた。

 

『ご苦労だった、キラ。もういいよ』

 

『はい、閣下―――』

 

 側近の眷獣で『影武者』を表に立たせて、獣人神官たちの中に裏切者がいることを知りながらも見逃す。

 そして、わざと自身の鏡像をセレスタの目の前で殺させた。

 邪神の『卵』が現出するトリガーとなる『花嫁の絶望』のための演出。

 それを理解した瞬間、古城は我慢できなかった。その涼しげな笑みを浮かべたヴァトラーの横っ面を思いっきりぶん殴る。

 ヴァトラーはそれを避けなかった。骨と骨のぶつかる鈍い音が鳴り響く。殴られた頬を摩りながらも、悠然と笑って見せた。

 

『―――痛いな、古城。そういうのも、嫌いじゃないが。キミには最初に伝えたはずだ。セレスタ=シアーテを殺して、<冥き神王(ザザラマギウ)>の復活を阻止するか。それとも絃神島(ここ)で邪神の降臨を待つか―――選択肢はふたつだと。状況は何も変わっていない。時間制限(タイムリミット)がわかりやすくなっただけさ』

 

 しかし、安心するといい、と。

 不完全な邪神ならば、簡単に滅ぼせる。何ならキミの代わりにボクが始末をしよう、そう浮き立つような口調で告げる。

 

 ―――それは、許さない。

 

 歯を食いしばったまま古城はヴァトラーを睨む。

 

 手を出すな!

 セレスタも姫柊も俺が連れ戻す!

 これ以上お前の好き勝手にはさせない!

 

 ヴァトラーが『花嫁』を古城に預けたのだ。ならば最後まで黙って見てろ。

 

『ふふ……キミならそういうだろうと思ったよ。いいだろう、ボクとしても、どうせなら、より完全な邪神の相手をする方が愉しいしね。それにボクには“代理戦争”を見届ける義務がある。彼らの死合いでしばらくは無聊を慰めるとしよう』

 

 と聞き分けのない弟をあやすような口調で、ヴァトラーは古城の物言いを聞き入れた。

 堪え性がないようでいて、妙なところで律儀な男だ。

 ただし、『邪神が実体化したら、セレスタ=シアーテも姫柊雪菜も、この世には存在しないだろうから、ボクが食べても構わないだろう?』と忠告じみた宣告をしてきたが。

 でも、不愉快ながら、その言葉は正鵠を射ている。

 邪神が降臨すれば、セレスタも雪菜も、そして絃神島も終わりだ。そうなれば、何もかもが手遅れである。

 

 そして、古城が止めなくてはならないのは、邪神だけではない。

 

『心配しなくても大丈夫だ古城。ボクは<黒妖犬(かれ)>に賭けているからネ』

 

 もう一発、後輩の分もその頬を力任せに殴った。

 

 

 

 天空より飛び掛かってきた蛇竜に、魔狼は真っ向からぶつかり、絃神島から突き放させて、続けて迫ってきた豹蠱を蛇尾で捕まえては噛み千切って飛ばす。

 

「グォォオオオオオ―――ッッ!!!!!!」

 

 100m以上離れているのに、その風圧だけで大きく姿勢が崩れた。一般常識と言うのを根本から突き崩してしまうほどの、凄まじい威力。何の技術もなくとも、圧倒的な質量と速度があれば、それだけで絶対的な脅威となりえるといやでも悟ろう。風圧どころか、その圧倒的な迫力だけで目にした者の精神(こころ)も砕きかねない。

 それは、人と人の戦いではないのだ。

 怪獣と怪獣、純粋な力と力がぶつかり合い、その度に大地を鳴動させる。巨大な獣たちが織り成す荘厳な神話を目の当たりにするかのようだった。

 

「く……」

 

 ヴァトラーの船から降りた古城を歓迎したのは、十数mもの三体の怪獣(うち一体が後輩)が暴れ出す渦中。

 

 そして、それらを虎視眈々と窺うよう、ひっそりと触手の根を張り巡らせながら膨張を続ける球体――邪神を降臨させるための魔術装置。

 

 虚空に穿たれた巨大な空隙は、邪神の力で生み出された異空間へ繋がっている。降臨するため、実体化に必要な魔術装置を、自ら構築したい空間の中で再現しようとしているのだ。

 邪神と言えど神のはしくれだ。固有結界を構築することくらいやってのけるだろう。

 このイメージに近しいもので思い浮かべたのは、南宮那月の<監獄結界>だ。那月の夢の中に構築された、異空間の監獄。あれはあれで凄まじい魔術の産物であったが、この球体はそれよりも桁違いに規模がでかい。邪魔をされずに成長を続けていれば、遠からず絃神島をも完全に呑み込んでしまったことだろう―――

 そう、邪魔をされなければ、だが。

 

「■■■■■ァァ―――ッッ!!!!!!」

 

 空を焦がし、海を荒らし、島を揺らし、と三体の怪獣の乱闘の余波の物理的な衝撃波で、蔓草が吹き飛ばされている。現実空間を呑み込もうにも、こんな異空間を構築してもすぐ破壊される争嵐では無理があったか。賽の河原で積んだ石を鬼たちが情け容赦なく壊していくよう。おかげで邪神の降臨は遅れており、セレスタを救う時間が稼がれている。

 ただし、邪神の『卵』との融合を阻害しようとも、怪獣たちの大乱闘で絃神島が沈みかねない。さらには異空間の中には、雪菜たちがいて、『卵』本体まであれに巻き込まれたら彼女たちの安全などない。

 なんて、累卵の危うきだ。

 だったら、ここは奮戦している魔狼――後輩を支援して一気に“代理戦争”に決着をつけさせる―――!

 

 まず、狙うのはあの豹蠱。

 ひどく大雑把に粘土を捏ねて造ったような肉体で、その顔もまるで仮面。目も鼻も単なる空洞と盛り上げ(モールド)の集合体だ。彫刻家ならずとも、そこらの小学生でももっとましな形を砂場で作って見せるだろう。

 しかし、二体の『獣王』を相手しながら、邪神の脅威に曝されるという、この上なく危機を鏡映しして、その力は先の対峙よりも格段に上をいっている。

 

「―――疾く在れ(きやがれ)、<水精の白鋼(サダルメリク・アルバス)>!」

 

 回復し切っていない体力を振り絞って、古城が召喚する眷獣は、水流のように透き通った肉体を持つ水妖。美しい女性の上半身と、巨大な蛇の下半身。流れ落ちる髪も無数の蛇。

 紫黒に染まる海面を割って現れた、水用の巨大な蛇身が、激流を起こして穢れを洗い流して、さらに鋭い鉤爪を備えた織手が、津波と一体と化したような巨大な豹獣を引き千切る。

 

 <第四真祖>の『十一番目』の眷獣は、吸血鬼の超回復能力を象徴する水の精霊。まるで時間を巻き戻すように、触れたものを修復する。高度な機械を原子に分解し、生物を生まれる以前の姿に還すのだ。

 『不死』と『増殖』―――その<病豹鬼>の特性に近しかった<賢者の霊血>で構成された鋼竜を塵屑と化したその力は、呪毒に侵される領域ごと豹蠱を呑み込み、本来あるべき蒼い海へと戻していく。効果的だ。鏡映しのように脅威に対して増強される<病豹鬼>でも、その増強(しんか)を許さない水妖。

 

 しかし、この行為が、この三つ巴の拮抗を崩してしまった。

 

 消滅しかかっている豹蠱。

 そして、それを警戒して、海面近くには飛び込まなかった蛇竜が動く。

 羽毛を焼き焦がし、赤熱した鱗。吸血鬼の如き牙を生やしたその嘴は鋸のよう。羽毛を持つ蛇は、己が身から太陽の如き熱量を発しながら、虚空を穿つ球体へと急降下する。

 

 『鷲の戦士長』の目的は、獣人神官たちと同じで、邪神の被害を食い止めること。

 だから、完全に降臨する前に、<冥き神王>の『卵』本体を破壊するつもりなのだろう

 しかし、それは今、雪菜とセレスタのいる異空間を抹消することを意味している。

 

「やらせるかよ! あそこには姫柊たちがいるんだ!」

 

 古城が水妖を蛇竜に迫らせる―――しかし、それは太陽に近づきすぎたせいで蝋の翼が溶けるよう、流体の身体が崩れていく。

 物質は還元できるが、あの爆炎流の灼熱まで還元はできない。

 

「邪魔ヲスルナ!! <第四真祖>!!」

 

 その蛇身に猛き炎が渦巻いた。

 狂化されたその<神獣化>。

 豪炎を収束させ、第二の太陽と言わんばかりの熱と刃で神すらも断ち切らんとする蛇竜。上を通過するだけで、海水はもはや煮え滾りさえせず瞬時に蒸発し、その炎刃の翼腕が、海と溶け込んでいる水妖の流体をいともたやすく溶断し、意思を持つ魔力の塊が霧散した。

 

「ぐあああああああっ!?」

 

 斬撃の余波を、古城は浴びた。

 熱波をもろに受けた肉体は、全身火傷の重傷を負い、網膜が光に押し潰される。

 

「誇リ高キ『豹ノ戦士』ガソノ命ヲ捧ゲテ作ッタコノ好機ヲ邪魔サレテタマルモノカ―――ッ!?」

 

 蛇竜が<第四真祖>の身を灰と化そうと嘴を大きく開けた―――その瞬間。

 気配を察知した蛇竜は、ほとんど反射的に、炎迸る双翼を羽ばたかせ、急上昇する。

 刹那、ごお、と飛び掛かってきた巨獣が腕を振り落としていたのだ

 

 獅子の頭を持つ地母神(アスタルテ)との結合で地獄最強の魔獣(マルコシアス)の伝承に記載された幻獣の想像図と同じく鷲獅子(グリフォン)の翼と竜蛇の尾を持つ魔狼は、凍れる炎(ブースター)からの魔力放出で加速しては、神獣の爪撃を振りかぶり、破城槌となって蛇竜の燃え盛る蛇身に雪崩れ落ちた。

 

 北欧の神話には、太陽を喰らう日蝕狼(スコル)がいる。

 

 触れれば火傷では済まされないだろう羽毛のある蛇の赤熱した鱗を、魔狼の爪は大きく削り、肉を裂いてみせた。

 

「グゥ―――コノ青二才ガ! 今スグ邪神ヲ殺スベキダトワカラナイノカ!」

 

「古城君モ、姫柊モ、セレスタモヤラセナイ!」

 

 魔狼と蛇竜の対峙。

 その衝突で巻き起こった暴風に古城は煽られ―――急に張り詰めていた糸が切れたように力が抜けて、吹き飛ばされる。

 あの両者――両獣の間に、生身で割って入るなど、自殺も同然。

 そして―――弱ったものを待ち構える邪神がいる。

 

「ぐぉっ!?」

 

 全身の血が流れ出すような苦痛に、古城は起き上がれなくなる。

 その原因は、密やかに這いより、古城の足に絡みついた、球体から吐き出される蔓草状の触手だ。

 それが、魔力を喰らう。

 かつて遭遇したあの『龍脈喰い』の魔竜。それと同じく、邪神の『卵』が侵食するのは、霊地龍脈だけでなく、蔓草に巻き付いた対象からも膨大な魔力を奪えるのだ。

 

「く……! 俺の魔力を遠慮なく喰いやがって……!?」

 

 両手を頼りなく地面に突いて、古城は荒い呼吸を繰り返す。

 蛇竜の攻撃で、まだ視界全体が光量調整の失敗した写真のように白みがかっていて、周りがよく見えない。激しく転がったせいもあってどの方向を向いているのかさえもわからなかった。

 夏のスイカ割りでもないのに視界不良前後不覚の状態で、残っていたなけなしの体力が、ごっそりと奪われて目減りしている。

 これでは眷獣の制御は不可能、召喚するのは危険。

 <第四真祖>の強力過ぎる眷獣は、古城にとっても諸刃の剣で、一歩間違えば絃神島そのものを消滅させかねない。それにたとえ召喚したとしても迂闊にぶつければ眷獣からも相当の魔力を喰らうだろう。

 

 求められるのは、一撃必壊の攻撃。

 

「しまっ―――!」

 

 しかし、いずれにしてもそれ以前に、脚に絡みついている蔓草の触手を破らなければ、枯渇してしまう。どころか、追加で蔓草状の触手が頭上と左右からの同時攻撃。弱り目に祟り目。どうやっても回避し切れない。そもそも捕まって吸精(ドレイン)されている古城に、避けるだけの体力が残ってない。

 

「ッ!」

 

「お兄さん!」

 

 捕らえられた古城を救ったのは、蔓草を撃ち落す苛烈な閃光。弱った真祖を喰らおうとする邪神を次々と撃ち抜きながら駆けつけてくるのは、ひとりの少女。

 

「叶瀬!?」

 

 古城は呆然と彼女の名を呼んだ。

 目はまだ白ずんでいてよく見えないが、その清らかな声調は間違いない。また、耳朶を叩いてくるのは彼女の声だけでなく、

 

(ワシ)もいるぞ」

 

 彼女の胸には妖精めいたサイズの液体金属生命体。自称『古の大錬金術師』ニーナ=アデラートがいて、無尽蔵に近い夏音の霊力を借りて、重金属粒子のビーム砲撃を放っている。

 純粋な物理攻撃である粒子ビームが相手では、触手の魔力吸収能力も役には立たない。灼熱の閃光の刃を受けて、緑の触手が次々と焼け落ちる。

 

「お兄さん、無事でしたか?」

 

「おまえら、どうしてここに―――!?」

 

「ごめんなさいでした。やっぱりセレスタさんのことが心配で見に来てしまいました」

 

 夏音は困ったような表情を浮かべて、言いつけを破ったことを告白する。

 そうして、ニーナの出鱈目な攻撃力によって一時制圧をすると、夏音は、立ち上がれずにいる古城に躊躇せず肩を差し出した。自分の服が、古城の血で汚れることすら一瞬たりとも厭わない。そして、火傷するほどではないが第二の太陽に炙られたその身はまだ高温を保っていて、けれども、熱がっていても夏音は古城から離れようとはしない。非力で、華奢な身体で古城を懸命に支え、そのまま安全そうな場所へと引き摺って行こうとする。

 

「いや……助かった。ありがとな」

 

 弱々しくそう告げる古城に、夏音は無言で首を振り、照れたように俯いた。

 けれど、食事の邪魔をしてくれた攻撃の源である夏音たちをめがけて、新たな触手が更に倍に増量して鞭のように撃ち出された。

 

「危ない!」

 

 古城は暴発覚悟で眷獣を喚び出そうと構え―――それを横から掻っ攫う白い影。

 

「みー!」

 

「フラミーちゃん!」

 

 触手の包囲網から古城たちを救い出したのは、後輩の<守護獣>だ。爪も牙も攻撃性はないが、攻撃性を拒絶する防護性から壁役として有能な白き龍母。主人(クロウ)より安全に避難をさせるべく古城へ寄こしたのだろう。しつこく球体からの触手が迫ってくるが、四枚の翼を器用に操る獣竜は、それを危なげなく切り抜けていく。

 そして、古城の視界が回復したころに、無事着したのは、<オシアナス・グレイブⅡ>だった。全長が2mほどと眷獣と比較して小柄で小回りの利く毛皮の翼竜(ファードラゴン)だからそのまま船内に入り込めた。

 ヴァトラーが退避させたのか、目と鼻の先にあった邪神の球体からは距離を置いて、なおかつ怪獣決戦を観戦できるような位置取りにそのクルーズ船は移動していた。そのせいか浸食からは逃れており、移動できる分、下手に建物の中に逃げるよりは安全であった。

 また船内には乗員たちの姿は見えず、本人が降りてくる気配もない。あっけなく逆戻りした無様な姿を見られずに済んで、古城は少しだけ安堵する。

 

「雪菜ちゃんとセレスタさんは、どこに?」

 

 船内の通路に古城を降ろして、夏音が心配そうに訊いてきた。

 

「あいつらはあの中だ。今から行って連れ戻してくる―――」

 

 窓越しに見える球体、そして、それを巡って争う怪獣二体。

 それら戦況を一望した古城は表情険しく答えた。

 夏音は碧い目を驚いたように見開いて、慌てて古城の身体を押さえつけた。

 

「今のお兄さんでは無理でした」

 

 ふるふると首を振る夏音を見返して、古城は唇を噛み締める。

 焼かれた全身も、それより前に豹蠱に吹き飛ばされた心臓も再生を終えているが、それはあくまでも機能だけの話だ。古城の胸部半分は焦げたように、または毒に冒されているように黒ずんでいる。魔力体力を根こそぎ奪われ、ここで夏音の支えから離れれば立っていられるのかも怪しい。彼女が心配するのも当然だ。

 

「大丈夫。このくらいの傷は、すぐに治る―――」

 

 それでも古城は強引に立ち上がる。しかし何歩も進まない内に、目眩に襲われてよろめいた。遠のきそうになる意識を、危ういところで繋ぎ止める。

 

「やめておけ。自分であることもままならん奴が、あの場にいってもクロウらの足手纏いになるだけだ」

 

 それを夏音の手出しを制して、見下すニーナが、無情な言葉を投げつける。

 今の古城は戦えない。悔しいがそれを認めざるを得なかった。でも、このまま黙って見ていることなんて、とてもできない。不甲斐なさに歯軋りさせる古城は、苦しげにも言葉を吐いた。

 

「だからって、あそこで後輩たちが戦ってるのに、尻尾を巻いて逃げられるかよ」

 

「言っても聞かんか。まあ、わかっていたことだ。貴様が金属生命体の妾でも困らせる石頭であるのはな」

 

 嘆息するニーナ。ちらりと夏音に視線をやり、

 

「しかし、同感だ。あそこに孤軍奮闘するのは妾と夏音を居候と受け入れた身内。妾はこう見えても義理堅い。何せ金属生命体だからな。

 ―――だから、貴様が男として、きっちり責任を取るというのなら、ひとつ策がある」

 

「なんだそれは!」

 

 一にも二にもなく話に食いついた古城。

 でも、それに答えたのはニーナではなくて、院長様のアイコンタクトを受けて意味を悟った夏音からだった。

 

「はい。今度は私の番でした」

 

「よいのか、夏音?」

 

「大丈夫です。セレスタさんに言ったことは、ウソではありませんでした、から」

 

 吸血鬼が失った魔力を回復させ、未だ血の中に眠る眷獣を覚醒させて状況打開させる新たな力を得るのに、最も効果的な手段。

 それは恐ろしく強力な霊媒の血を飲むこと。

 そして、今目の前に、古城のすぐ前に、アルディギア王家の血を引き、極めて純度の高い霊気を持つ、最高級の贄がいる。

 

 頬に朱を入れ恥じらいながらも、視線を伏せることなく真っ直ぐに古城へ向ける夏音が告白する。

 

 

「お兄さんのこと、ずっと好きでした……」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「我ハ太陽ヲ賜ッタ」

 

 それは、まさに真紅の織物であった。

 真祖の眷獣と蛇竜の神獣が、一本の紐に編み込まれるように一体となったその姿。恐るべき第二の太陽を体現する怪獣であった。

 あまりの熱量と膨大な炎によって、もはや神気と聖護結界を相乗していつもの倍する防御性をもった白金の生体障壁で覆われている魔狼の身に突き刺さるような痛苦が走る。

 

「故二、コレハ天罰ト心得ヨ」

 

 蛇竜が燃え盛る双翼を羽ばたかせ、火の雨を降らす。

 羽毛の蛇神が、人類を滅亡させたという伝承の一節さえ思わせる、神話的で破滅的な光景だった。

 

「クゥ……ッ!」

 

 海が抉られるように蒸発し、一瞬遅れて渦になって巻き戻っていく。雨霰と無数の火矢羽に、海が穴だらけとなる光景。

 これが、『混沌界域』で最強の獣王の本気か。

 事前に嗅ぎ取り予想し得た情報を、改めて鼻腔に入れる。そうすることで、ようやく今自らの降りかかっている現象を呑み込める。

 しかし、それでいて魔狼は正気を保っていた。

 ここでこの身を穿たれるのは、少女を道連れにすると知っているからこそ。

 そして、少女は―――

 

 

 

 なぜ人間が自分の腕を器用に扱えるのか。

 それは単純にそういう機能になっているからではない、赤ん坊がグーパーぐらいしか手を操れないことを考えればわかるだろう。

 実際の理由は、そこに伝達部位(シナプス)が形成されているためである。

 習慣付けられ、反復して行使され刺激された結果として、しわを深く刻み込むように脳神経が最適化されるのだ。

 赤子のころからの訓練が、人間の脳に腕という機能を刻み付けていると言ってもいいだろう。余談だが、幻肢痛(ファントム・ベイン)と呼ばれる『事故などで欠損した手足が痛む現象』も、最適化した脳が四肢の喪失を受け入れられないために引き起こされるものである。

 

 つまりは、同体となったところで、本体と翼の連動に齟齬が生じてしまうのはどうしようもないことだ。

 しかし、それはどうあっても一人で走った方が早い二人三脚を強いられるようなこと。

 

 この人工生命体の身に寄生させた人工眷獣を、器用に動かすことなどできない。巨人に拳法の真似事をさせるなど叶いはしないのだ。思考制御をできてはいても、それはあくまで『こんな感じで動いて対処してくれ』というひどく大雑把な指令を与えているに過ぎない。

 

 だが、自らが変身する獣人は違う。

 使い魔という外部から新たに魔術回路を接続するのではない、体内にある伝達組織をそのまま延長させるからこそ、倍以上の身体に成長しようが、思うがままに自在なのだ。

 

 だから、どうしてもこの二つは勝手が違う。

 差が出る。

 世界最強にして世界最大級の魔獣は、動作が緩慢で、行動が遅いためについていくことができた。

 だけど、超高速戦闘が繰り広げられる『獣王』同士の戦いは速い。ついていけなくなり、差が広がっていく。

 

 また、判断速度も違う。

 機械的な完璧な分析ができるようにも、言語化できない直感や第六感といった範囲では、科学の粋より動物の原始的な能力の方が勝る。

 だからこそ、獣の本能を宿している彼は、機械の計測よりもあっさりと最適解にたどり着いてしまう。

 

 結果、動きを鈍らせてしまう。

 本当は、もっと加速できるというのに……

 

 ―――だから、二人三脚では、間に合わない。

 

 降ってくる火矢羽を避け続ける。

 数秒ごとどころか、コンマ秒ごとに試験問題を突き付けられるようなものだ。

 アスタルテは頭が、ひりひりしだすのを覚えた。

 相当、思考制御に無理をかけている。

 

(私は―――)

 

 アスタルテは、思考する。

 徐々に速くなる加速領域。

 “たったひとつ”を除いて、糸を引いていくようにしか見えなくなる世界の中で、その“たったひとつ”に集中する。

 

(私が想うのは―――)

 

 徐々に、魔狼の動きが鋭さを増していく。

 未来を予知するかのように、火矢羽の細い細い隙間に、蛇尾狼という大きな針を通していく。どんどん、移動範囲が狭められていく。レトロゲームのラストシーンで、崩壊した洞窟を飛ぶ、頼りないプロペラ機。ひとつでも動きを間違えれば、いいや間違えなくても少し運が悪かっただけで、自分の躰など簡単に圧し潰される。

 想像した。

 神気聖護混合二重障壁が破られ、自分の華奢な身体ごと魔狼の肉へ食い込む場面。あっさりと骨が砕け、内臓が焼かれる痛みを錯覚する―――

 

 

 

 ―――アスタルテ、心配するな。

 

 ひどく、世界は緩やかだった。

 スローモーション。

 脳内処理に、現実が追い付かない。雨霰と世界の終末を連想させる猛攻撃の中を、魔狼の躰がすり抜けていく。

 どこか夢でも見ているような、ここにいながら、まったく違うどこかにもいたような、ひどく不思議な感覚。

 

 ―――オレが、絶対に死なせやしない。

 

 思考制御も、翼の操作も考えなかった。ただ、彼の念話(こえ)だけに意識が傾く。

 連続する難題をクリアし続ける。数はわからない。時間もわからない。延々と続こうが目の前にあるのは常にひとつ

 ただ、無我夢中で、彼の背中を見る。この景色が線状になる加速世界の中でも、彼の背中だけは変わらず前に固定されている。そのアスタルテに見えるたったひとつだけを、いくつもいくつもいくつもいくつも解いていった。

 もはや、考えていない。

 すべては、思考以上の自分と彼に託す。

 

(そう、私が想うのは……先輩の動きやすいように、することだけ)

 

 それが、答えだった。

 

(私に見えるのは―――私がわかるのは―――私を想うのは―――先輩だけ)

 

 超高速戦闘についていくことはできない。

 でも、彼の考えていることはわかる、そしてどんなに速くなっても預かった背中は前に見える。

 ならば、彼の動きだけを予測すればいいのだ。魔狼自体の行動を想像し、予想し、彼の背中に追随させればいい。辺り一面に災厄が降り注ごうとも、自分の視界一面に映るのは、彼だけ。

 そうすることで、無駄な力は消える。思考は一点に研ぎ澄まされる。鷲獅子の翼の挙動を、もっと目的そのものへと活用できる。

 

 そう。

 これは。

 理屈などではなく。

 彼と何もかもともにしたいという、ただそれだけの覚悟が決まった。

 

 人間がコンピューターの特性を得た場合、『自分とは誰なのか』を不安に思うことだろう。

 人工生命体の思考回路は人間の手で設定される。つまり、簡単にコピーできるものを、自分と認識できるだろうか。性質も性能も性格もすべて、学習装置のクラウドに置いて、いつでもバックアップから再生できてしまうのなら、一体ここにいる自分とはなんなのか。

 同じ思考回路を持って大量生産される人工生命体に、唯一性(アイデンティティ)などないということなのだろう。

 

 だからこそ、大事なのだ。

 

 人工生命体の身で、どうしてこのような人間性を持つに至ったのか、それはアスタルテ自身にも判然としていない。

 人間に従順な性格であれと望まれ、感情など設定されていなかった人工生命体が、そうしたいと初めて思ったことに、高い優先順位(プライオリティ)をつけた。

 この優先順位のつけ方を、人間は“心”というだろう。

 

 <第四真祖>の魔力供給だけではダメだ。

 同体しただけでは、二人三脚。

 だから、アスタルテはこの“心”も与える。

 二人三脚ではなく、一心同体こそが求めるもの。

 

 

(私が想うのは、標的ではなく、先輩だけ―――)

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「<シアコアトル>―――!

 

 

 蛇竜の双翼が、合わせられる。

 光が集う。

 天空が、紅蓮に染まる。

 水分どころか、空気中の成分すべてを蹂躙し、沸騰させて、逃げ場のない魔狼へ急直下する。

 あらゆる風は、その一合双翼の前に燃やし尽くされた。炎の形状をしているが、それは炎とは似て非なる何かなのだと、クロウは直感する。

 魂さえ、その業火は灼き尽くす。

 断罪炎は、魔狼の頭上へ振り落されて―――豁然、その両手が霞んだ。

 

 

「壬生ノ秘拳―――」

 

 

 刹那にも至らぬ虚空の間に、“四足形態(ケモノ)である”魔狼の両腕、と二人羽織と添わされる鷲獅子の双翼―――二つが溶け合うような重合掌となったところを、果たしてその鷹の目は視認できただろうか。

 真剣白刃取り―――!

 それも、“魔狼が二足歩行で”腰を落とす沈墜の動作で蛇竜の渾身の一撃の勢いをもわがものに吸収するという、理合いにも術理にも反した人外の体術。挟み捕ったふたつの手が、しかも疑似聖拳と神格振動波を同時に発動させ、合掌したところで共鳴増幅させるという離れ業さえやってのける。

 いかな最上位の怪獣であってもできることではない。

 天才という言葉さえ愚かしい、規格外(バケモノ)の所業。

 なにせ。

 神獣と化した完全なる獣である魔狼が、あの瞬間に、両手が自由な二足歩行に進化した巨大な魔人狼になるなどと、誰も想うまい。前代未聞だ。

 

 

「―――ネコマダンクッ!!」

 

 

 地獄最強の魔獣(マルコシアス)は、“比類なき戦士の姿を持つ”といわれる。

 

 野生の獣型から、知性を得た人型。

 万人の――“代理戦争”を観戦していた<蛇遣い>でさえ想定外な――斜め上の変身をしたが、魔人狼は気迫も技術の冴えも、いささかの濁りもない。

 挟み捕った双翼をそのまま圧し潰して、蛇竜の胴腹に返し技(カウンター)の双掌を叩き込みながら巻き込む。一回転。天高く飛ばすのではなく、海へ叩きつけるよう方向修正を行い、百花散らす気功砲が炸裂した。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 ―――蛇竜の変身が解け、蛇腹剣を手放して霧散させ、鳥人は海へ失墜した。

 

 

 勝った、のだ。

 後輩が、あの『鷲の戦士長』を倒したのだ。

 

「ったく、負けてられねェな」

 

 暁古城は、強気な微笑を“代理戦争”を制した、怪獣を超えた怪物の魔狼――魔人狼へと向ける。目眩も苦痛も感じない。失われた魔力が回復して、全身に異様な昂揚感が漲っている。

 

『―――みんなのことをお願い、でした』

 

 リネン室で、吸血されぐったりとした夏音より託された願い。

 わかってる、と古城は、彼女の目を見て頷き返して、甲板デッキに立つ。

 

 見据えるのは、斑模様の卵に似た巨大な球体だ。嵐が去った。怪獣決戦が鎮まったのを見計らっていたのか、一気に球体から滝のように溢れ出した無数の蔓草が、絃神島の人工の大地に絡みつき、その建造材を侵食し始める。

 戦いの余波で散った魔力を吸収してたからか、球体の直径はすでに100mを超えていた。

 

 だが、膨張を続けていたはずの球体の様子は、どこかおかしい。

 球体内部で渦巻いていた濃密な神気が乱れ、通常空間との境界面が苦悶するように震える。邪神の結界の内側で、何か異変が起こっているのだ。邪神召喚の魔術にとって、想定外の致命的な異変が。

 

 それは古城たちにとって歓迎すべき幸運の予兆だ。

 ならば、と古城は頭上に向けて右腕を掲げる。

 ここで『卵』への魔力の供給を完全に絶つ―――

 

「<焔光の夜伯(カレイドブラッド)>の血脈を継ぎし者、暁古城が、汝の枷を解き放つ―――」

 

 古城の右腕から撒き散らされた鮮血が、天空へ閃光と化して昇る。

 <第四真祖>の膨大な瘴気が空間を歪め、虚空に生み出したのは剣。

 刃渡り100mを超える馬鹿げた大剣―――『意思を持つ武器(インテリジェント・ウェポン)』だ。

 

 

「―――疾く在れ(きやがれ)、『七番目』の眷獣、<夜摩の黒剣(キファ・アーテル)>!」

 

 

 高度数千mの高さにありながら肉眼でくっきりと全容が捉えられるそれは三鈷剣と呼ばれる古代の武具の形をしていた。そう、神々が使ったと言われる降魔の利剣である。

 かつて、『原初のアヴローラ』と呼ばれる少女に使役され、絃神島の一部を沈めた最凶の眷獣たる裁きの剣―――

 それが古城の右腕を振り下ろす動作に連動して、破壊するという、たった一つの目的に特化した眷獣が落下を開始する。

 

「俺が邪神(オマエ)をブッ倒す。ここから先は、俺の戦争(ケンカ)だ―――!」

 

 灼熱の炎に包まれ、重力に引かれて加速する刃は、まさしく天から堕ちてくる隕石そのものだ。大気を轟然と震動し、また新たな太陽が出現したかのように空が明るくなる。

 古城はこのただ落とすだけの眷獣の制御に神経を尖らせる。

 加速する剣を誘導する際は、絃神島の岸壁と、斑模様の球体が接する狭間。

 

 

「「「■■■■■■■■■■■■―――ッ!!!!」」」

 

 

 その狙った境界上より、噴出する巨大な獣。

 それは先ほど、古城が完全消滅し切れなかった豹蠱。球体が吐き出していた触手たちに絡みつかれた怪獣は、邪神の守護獣となって甦っていた。

 

 巨大な衝撃波を生む超音速の落下。

 しかし、それすらも物量で押し切った。

 <冥き神王>の守護獣と化した豹蠱は、億千万の軍を為す個へと爆発的の増強。まさに無尽蔵。夥しい数の豹蠱は互いに咬みつき合い、黒紫の血飛沫を散らしながら融合を果たす。

 吐き気を催すほどに穢らわしい粘液に濡れ光る、集合体の豹蠱毒は<第四真祖>最大の破壊力をも防ぎ、またその大きく半分まで断ち切られた傷痕からさらに膨張を繰り返して、より巨大化しようとしている。

 

「なんだと……」

 

 最凶の一撃を弾いた、そのおぞましくも圧倒的な異様に、古城は息を呑んだ。

 『増殖』と『不死』は、<病猫鬼>の機能として備わっていたものであり、驚嘆するほどのことではない。だがなにぶん今回の大怪獣は規模があまりに大きすぎた。

 脳天を叩き潰しても風船のように膨れ上がり、みるみるうちに損壊部分を覆い潰してしまうため、どこをどう破壊されようとも弱点と呼べる核はないだろう。桁外れの再生能力がある以上、総体を一撃のもとに消し飛ばす他ない。

 だが、古城も天を突く数百mもの超巨体を相手にするのは初めてだ。

 

 そこに気を取られて、気づくのが遅れた。

 大豹蠱に弾かれた100mもの黒剣の行方を。

 

 しまった!?

 

 絃神島への影響を防ぐためにも海面に激突する直前に、古城は召喚を解除するつもりだった。それほどにあれはデタラメな眷獣。あんなのが市街地に堕ちたら、またも島の一部を破壊させかねず……と、黒剣の落下地点に回り込んでいた、十数mの巨大な影。

 

「イイヤ、古城君。オレタチノ戦争(ケンカ)、ダ―――!」

 

 

 そう、戦士長を撃退した魔人狼が、黒剣をその手に掴んだ。

 

 

オシアナス・グレイブⅡ

 

 

「―――ああ、なんて素晴らしい! やはり成長させるには強敵との死闘が一番だ。そして、ボクの期待に応えてくれるなんて、育て甲斐のある子だ。ますます張り切ってしまうヨ。ああ、でも、ダメだ、これ以上は我慢ができなくなる」

 

 獣王同士の“代理戦争”に絶頂したように歓声を上げる金髪碧眼の青年貴族。

 けど、まだ事態は解決していないし、邪神と言う親玉が残っている。

 青年貴族の背後より戦況を窺い見る、妖精めいた美貌を持つ二人の少女。

 零れ落ちる二人の淡い金髪は、見る角度によって虹のように色を変えていく。

 その双子のようにまったく同じ容姿をした彼女たちのうち一人が、ほう、と息を零す。

 

 『七番目(ヤツ)』を『六番目(ワレ)』以外が使うつもりか……いや―――

 

 

「船を下げろ、<蛇遣い>―――さもなくば、原初の地獄に巻き込まれるぞ」

 

 

邪神内部

 

 

 朝焼けにも似た炎の色の空。

 四方を密林に囲まれた広大な遺跡。

 石柱が無数に建ち並び、その中央を石畳の道が走っていて、遺跡の中央には半壊した石造りの神殿が建っている。

 建造されて、千年以上の時間が経っていることだろう。神殿の表面は風化が進み、苔むした柱は蔓草に覆い尽くされている。降り注ぐ陽射しも、常夏の絃神島よりもさらに強烈な熱帯。

 

 <冥き神王>の『卵』の中にあったのは都市国家『シアーテ』を魔術的に再現した仮想現実(イミテーション)

 

 龍脈のエネルギーを制御するため、魔術装置によって生み出された人工の神に過ぎない<冥き神王>は、それゆえに、完全に実体化を果たすには、魔術装置である『シアーテ』の神殿が不可欠だ。

 だから、神殿から遠く離れた絃神島で召喚された邪神は、この箱庭の中に神殿そのものを再現しなければならなかった。

 自らを召喚するための魔術装置を、自分自身で構築しようとする邪神。

 

 だから、まだ間に合うはず……!

 

 見たところ、遺跡の姿はまだ完全ではない。これだけの規模の質量をゼロから生成するには、邪神の力をもってしても不可能で、ならば、不足した質量を、絃神島と融合することで補おうとするだろう。

 でも、それには相応の時間が必要であって、“外界の状況は相当荒れている”。

 こうして、紛れ込んだ“異物”の妨害がおざなりになってしまうくらいに。

 邪神にここまで手を焼かせるものなど、自身の親しい知人の中に、該当するものが二名ほどいるのが頼りにもなるけど、実に頭の痛いところである。

 

 想像したよりも遥かに広大な遺跡を駆ける。

 神殿に近づけば近づくほど、邪神の影響力が増していき、遺跡を覆い尽す蔓草だけでなく、大気や重力や、それらを含む世界のすべてが敵となっていく手を阻もうとする。

 この空間そのものが、邪神を生み出すために造り出された結界であるのだから、そのような防御機構の存在もあって当然。

 だから、こちらにも対処策を切らせてもらった。

 

「獅子の神子たる高神の剣巫が願い奉る―――!」

 

 眩い人工神気を放つ、『神格振動波駆動術式』を刻まれた<雪霞狼>。

 その輝きは強力な防護結界となって、雪菜に対する遺跡からの攻撃を阻害した。

 幸いにも龍脈から生成される邪神の神気と、破魔の銀槍の神格振動波は、極めて近い属性を有しており、相手の力を無効化することはかなわないが、同属性であるので敵と認識されることがない。いわば環境に適応したウィルスに近い形で、この固有結界内を動き回ることができたのだ。

 

 そして、槍で切り込んで神殿の内部へ侵入。

 

 床だと思っていた場所が壁で、天井だと思っていた方角が床になる……そんな、上下感覚の狂った奇怪な空間。

 眺めているだけで正気を奪われそうな空間、その中央に置かれた黄金の祭壇に蜂蜜糸の髪を持つ少女がいた。ここは邪神に捧げられる『花嫁』だけが入室を許可された寝所。ならば、当然そこにいるのは決まっている。上下逆さになった姿で、祭壇の上に浮かんでいるのは、姫柊雪菜の捜し人の、セレスタ=シアーテだ。

 

「セレスタさん! 起きてください、セレスタさん……!」

 

 『神降し』に入った状態のように茫然と自我を不能にしているセレスタに雪菜は呼び掛けて覚醒を試みる。

 素質は『花嫁』として磨き育てられたみたいだけれど、雪菜のように訓練された巫女ではなく、『神降し』という高度な技法が上手にできるとは考えにくい。おそらく“かかり”は甘い。外部からのちょっとした刺激で解けてしまうくらいに。

 

「地味……女……」

 

 瞼が痙攣し、それからゆっくりと眼が開かれる。

 雪菜は確信した。

 セレスタはまだ生きている。その精神も人間のままだ。

 でも、その声には絶望と諦観の響きがある。当然だ。自分の定められた運命を知り、信じていた恩人は振り向かず、そして、死んだ。絶望しかない。こんな憎まれ口を叩けるだけで上等なのだ。

 

「あんた……何やってんのよ、早く逃げなさいよ……見てよ、あたしはもう……」

「いえ、ダメです。あなたを連れて帰ります」

 

 そう拒絶されるのを予想していた雪菜は間髪入れずに断りを入れる。

 拒否権を与えない雪菜の真っ直ぐな笑みに、セレスタは、ひくっと喉を鳴らした。

 

「あたしがどうなろうと、あんたたちには関係ない事でしょ!? あんたは古城と二人きりで家でいちゃいちゃしてなさいよ」

 

「言われなくてもそうします。だから、そのためにもあなたを連れ出さないとダメなんです」

 

 思いの丈をぶつけてきたセレスタに、雪菜も胸の内をひらく。

 先輩とのことは余計なお世話で、まずその前に、セレスタが救われないとダメなのだ。

 

 雪菜とセレスタは、古くからの友人でもなんでもない。むしろ雪菜たちにしてみればセレスタは厄介ごとを持ってきた迷惑な存在でしかないだろう。

 そも邪神の降臨を防ぐのが目的ならば、声をかけずに槍をかけてセレスタを殺すべきであった。こうやって無理に祭壇に辿り着かなくても、あの取り込まれる直前に、仕留める機会はあったはずなのだ。

 それができなかったのは、二人の境遇が似ていたからだ。

 

 姫柊雪菜は、7歳の誕生日を迎える前に、神を呼び出すための生贄として殺されるはずだった。

 

 邪神の『花嫁』として命を捧げるセレスタ=シアーテと同じ。

 でも、雪菜は殺される直前に、獅子王機関から派遣された剣巫に儀式場から救出された。

 おそらく当時、今の雪菜と同年代であったその剣巫は、『助けるのに理由は必要ない』といって何の迷いもなく手を差し伸べてくれ―――そして、その女性(ひと)と同じことを言う先輩と出会った。

 雪菜はその女性に憧れ、剣巫となり、先輩たちとこの島で暮らす内に、ここでの生活が大事なものとなった。

 

 それが、雪菜がセレスタを救う理由となる。

 

 そう、先輩にも隠してきた秘密を打ち明ける雪菜に、それでもセレスタは絶叫を上げて拒絶する。

 

「無理よ! あんたひとりで神に勝てるはずがない! そんなこともわからないの―――!?」

 

「そんなこと、最初からわかってます」

 

 この会話の間にも、異物を排除せんと蔓草の触手が物量で雪菜を押し潰そうとしているが、それを銀槍で斬り裂きながらも、懸命にセレスタに言葉を投げかける。

 

 雪菜に、邪神の実体化を完全に止めるだけの力はない、それは雪菜自身も認めるところだ。

 それでも祭壇に辿り着いた雪菜を妨害せんと、『卵』は折角構築した魔術経路を自ら破壊しなければならない状況に陥っている。

 だから、ここで雪菜が槍を振るって暴れ続ければ、それだけ邪神は神気をそこに割り当てなければならず、儀式場構築に供給する分が少なくなる。すなわち、実体化が遅れることになる。そうやって、一秒でも多く時間稼ぎをするのが雪菜の狙いだ。

 そう、彼らの準備が整うまで―――

 

「私ひとりで勝てないことはわかっています。でも、ずっと監視()てきたからわかるんです。あなたを助けようとしているのは私ひとりじゃない。私以外にも、必ず助けに来てくれる―――」

 

「雪……菜……」

 

 雪菜の訴えに、ついにセレスタの瞳に、失われていたはずの意思の光が復活する。

 逆さになって浮かんだままセレスタは、ふるえる腕を前に向かって伸ばし―――縛り付ける祭壇の外へその指先が届く。

 瞬間、ずぐん、と神殿全体が揺さぶられたように震えた。同時に、雪菜を苦しめていた重力のねじれも消失して、神殿があるべき姿へと還る。

 床がただの床に。壁はただの壁に。

 そして、重力に引かれてセレスタは落下し、祭壇の外へ転げ落ちた。

 

「痛った……」

 

「セレスタさん!」

 

 触手も消滅し始め、残らず銀槍で刈り取ってから雪菜は、倒れているセレスタへと駆け寄った。『神懸り』の状態は解けており、自力では立てないほど消耗しているが、セレスタは無事だ。

 ただし、それは邪神にとって最も重要な、代えの利かない要が外れたということ。

 

 神殿が――いや、この固有結界そのものが、大きく揺れる。

 

 結界の中枢を担うはずだった『花嫁』を失い、神殿の儀式場が、機能不全を起こしているのだ。それまでかろうじて制御されていた莫大な神気が、不規則に乱れ始めており、このままでは邪神として実体化することもできないまま、溜め込んだエネルギーだけが解放されるだろう。

 結果、最低でも半径数十kmに甚大な被害を出す神気の暴発が生じる。

 絃神島は確実に消滅だ。

 そのことを雪菜よりも早くに悟ったセレスタは、自らの意志でまた祭壇へ戻る。

 

「セレスタさん……!?」

 

「大丈夫よ……地味女。あたしがなんとかしてみせる……」

 

 心配いらない、と唇の端を吊り上げるセレスタ。

 最初、息を呑んだ雪菜だが、それでも行動の意味を理解し、手を伸ばしかけた姿勢のまま引き止めるのをやめた。

 邪神の『卵』を召喚したのは、『花嫁』のセレスタ。彼女の絶望が切っ掛け(トリガー)となり、<冥き神王>の実体化は始まった。逆を言えば、<冥き神王>の実体化を阻止できるのは、『花嫁』である彼女だけだということだ。

 もちろんうまくいくという保証はないし、ぶっつけ本番の難事にセレスタも不安を覚えているだろう。

 しかしわずかでも可能性が残されている以上、今はセレスタのことを信じてみる―――そう、雪菜は祈るように考えた。が―――

 ガン、と祈りを踏みつけるように雪菜たちの眼前で黄金の祭壇が砕け散る。

 

「―――なっ!?」

 

 祭壇と、そこへと続く階段が割れる。

 ちょうど雪菜とセレスタを分けるように、石を敷き詰めた神殿に“見えない斧を叩きつけたような”巨大な亀裂が生じた。

 この圧倒的な破壊力を持つ不可視の斬撃は、戦術魔具によるもの。

 そう―――つい先ほど、雪菜と交戦した―――

 

「よくやってくれた―――と言っておこうか、民間人。貴様のおかげで、生贄の間に入れた」

 

 聴こえてきたのは、無感情な機械に似た、冷酷な声。

 神殿の入口に見えたのは、毛皮付きのコートを着た長身の女。

 いつでも攻撃を繰り出せるよう左腕を頭上に振り上げた姿勢で、こちらを冷ややかに睨んでいる。

 アメリカ連合国陸軍特殊部隊少佐―――

 『血塗れ』アンジェリカ=ハーミダが、静かに雪菜たちの前に登場した。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「獅子王機関の剣巫と言ったか。セレスタ=シアーテを渡してもらおう。なるべくなら民間人を殺したくないのでな……」

 

 即座に構えた槍を向ける雪菜。

 見えない斬撃を振るってくる女兵士。研ぎ澄まされた剣巫の霊感が、目の前にいる敵の危険性を伝えてくる。気を抜けば、凄まじい重圧に押し潰されることだろう。

 いかなる魔族とも違う、人間の兵士。雪菜がこれまで戦ってきた敵とは異質な存在。

 <雪霞狼>でも完全には防ぎきれず、霊視でも見切れない不可視の攻撃を左腕を振り下ろすだけの一動作(ワンアクション)で放ち、それでいてまだ奥の手を隠している疑念を持つ強者。

 それでも雪菜は退くわけにはいかない。今ここでセレスタを護れるのは、雪菜しかないのだ。

 

「セレスタさんを、どうするつもりですか?」

 

「その疑問への回答が、貴様からの要求であれば答えよう。

 回収し、『混沌界域』へと移送する。貴様たちにとっても望ましい条件のはずだが?」

 

 爆弾に等しい邪神と共に『花嫁』を連れ出す。

 だが、龍脈に縛られている『花嫁』を霊地から離そうとすれば、神気は暴発することになり、アルデアル公はセレスタを仮死状態にすることで一時龍脈からのラインを中断したみたいだが、今はもう『卵』が現出してしまっている状態ではその方法も取れないだろう。

 

「そんなことできるはずが―――」

 

「可能だ。だから私はここにいる」

 

 事務的な口調と必要最低限の言葉。それは女兵士の任務達成への自信の表れであって、その突き放すような声音は、言外に交渉の終了を宣告している。

 

「五つ数える。その間に私の視界から消えろ。さもなくば、貴様は死ぬ」

 

 5(ファイブ)……

 

 雪菜の背後からセレスタが叫ぶ。自分のことは見捨てて逃げろ、と言いたげな悲痛な声。

 ―――それが雪菜の迷いを振り切った、

 

 4(フォー)……

 

 神殿の床に穿たれた亀裂のせいでセレスタとは分断されている。彼女を庇うことはできず、ならばとれる手段は一つ。

 やられる前にやる―――アンジェリカへに対する先制攻撃だ。

 

 3(スリー)……

 

 全力で床を蹴りつけて、雪菜は跳んだ。

 ―――しかしその渾身の攻撃を、女兵士はあっさりと躱す。

 

 2(ツー)……

 

 無情なカウントは続いている。

 すでに答えは出した、それでも雪菜に与えたわずかな時間の猶予を守る。すなわち制限時間を過ぎれば、容赦なく攻撃を仕掛ける、という意思表示。

 

 1(ワン)……

 

 女兵士は、その身を改造された<魔義化歩兵>。

 おそらくは、体内に未来予測が可能な魔具が埋め込まれており、生半可な攻撃はすべて避けられるのだろう。

 戦闘中一瞬先の未来を霊視することで、魔族を上回る速度で動く―――それは、獅子王機関の剣巫が持つ、異様な戦闘能力の秘密でもある。

 アンジェリカ=ハーミダがそれを同じ能力を持っているのならば―――雪菜はさらに先を視ればいい。

 それを実現するには、自身の霊視が、<魔義化歩兵>の魔具の力を上回らなければならないが、しかし、雪菜はこの絃神島に来てから、科学の粋よりも先読みが鋭い野性的な同級生を相手に訓練を積んできたのだ。

 

「<雪霞狼>!」

 

 新たな『七式突撃降魔機槍・改』を持ってからますます冴えわたる霊視と武術。

 風が花を散らすような至近距離での連撃は、一瞬で刺突を七度繰り出されて、危険と感じた左腕の手首を刺し貫いても気が付かせなかったほどの鋭さであった。

 

 ―――そして、雪菜は見た。

 女兵士の背中に隠れていた、“もう一つの左腕に”。

 

 

「残念だ」

 

 

 表情一つ動かさずに、アンジェリカは呟く。

 彼女の周囲に八個もの左籠手が、出現。

 “新たに我が身の一部として接続した”のは、部下の一人マティスの<神託照準器(オラクル・ボムサイト)>の魔具が埋め込まれた左腕。

 

「三本目の……腕?」

 

「より正確に言うなら、私の左腕が一本と八本あるといったところだ。そして、私の左腕は、<斬首の左腕>という」

 

 無数の籠手を自在に操る<神託照準器>、

 不可視の重い斬撃を放つ<斬首の左手>、

 それら魔具を複合させた、八方からの殲滅―――!

 

「対獣王に、マティスから腕を一本獲らせてもらったが……さて、避けきれるかな剣巫」

 

 

 

 しかし、その左腕が振り下ろされても、何も起こらない。

 戦術魔具を発動させようと意識しても、うんともすんとも言わない。

 <斬首の左手>も、<神託照準器>も。

 不発。

 何か決定的な、不具合が生じている。

 

「なに……!?」

 

 アンジェリカは、刺された左手首を見た。

 手首から先の感覚が喪失した左腕には、魔術文様のような奇妙な傷跡があった。

 それは結界を生成するための術式。姫柊雪菜は、初めから女兵士を斃すことではなく、神格振動波を応用することで、女兵士の魔具を封印するつもりだったのだ。

 魔力を打ち消してしまう結界を刻み付け―――さらにその傷跡から<魔義化歩兵>の肉体全体へ人工神気を伝播させる『過重神格振動波』によって。

 魔力を喪失した魔具は、もはやガラクタと変わらない。

 宙に浮かんで包囲していた八つの籠手も静電気が散ったような衝撃と共に、地に落ちて転がる。

 事態をすぐ察したアンジェリカは、これ以上、<魔義化歩兵>の肉体に人工神気が行き渡らないよう結界を刻まれた左腕、もはや楔としかならないそれを懐から抜いたナイフで切り落としたが―――そこへ、雌狼の如く、一気に懐へ飛び込んでいた剣巫。

 

「<(ゆらぎ)>よ!」

 

 密着状態からの打撃技。雪菜が最も得意とする剣巫の基本攻撃だ。本来は、対魔族用の凶悪な内蔵破壊技だが、この密着攻撃ならば硬い金属質の皮膚で覆われた<魔義化歩兵>であっても素手で衝撃が通る。

 吹っ飛ばされて神殿の壁に叩きつけられたアンジェリカは、信じられないという表情で雪菜の顔を凝視したまま、膝をつく。

 

「よくも、やってくれたな剣巫……! ―――来い、四番!」

 

 ナイフの投擲で牽制しながら姿勢を立て直した女兵士は最後の四体目の<病猫鬼>を喚び出す。黒く煙るようにアンジェリカの影から現れた影の豹人に、雪菜も破魔の銀槍に霊力を篭めて、白い輝きを放ち始め―――そこで、セレスタ=シアーテは感じ取った。

 

 

『アアアアアアアアアアアア!』

 

 

 神殿が――結界が――邪神が、咆哮した。

 外界で起きつつある異常に、かの<冥き神王>は五感ならざる何かで悟った。ぞぞっと核が泡立つのを覚えた。

 恐怖だった。

 邪神は、初めて恐怖を覚えたのだ。

 

 

人工島東地区 港跡地

 

 

 すぅ―――と。

 

 ひとつ、魔人狼は息を吸った。

 蛇竜の制圧攻撃で焼けた空気は、未だに熱かった。その空気を大きく取り込んだ巨躯はさらに一回り大きくなったようにも見える。

 

(―――――)

 

 思考までも空白のまま、一歩、前に出る。

 それだけで、何かが軋み、歪んだのが古城に見えた。

 蛇尾狼から魔人狼へ変わり、ゆっくりと歩み出るその姿は、もはやヒトガタの天災に等しい。未開花の邪神さえも、その圧に押されて後ずさるよう。

 鋼の大地を踏み締め、その巨躯をもっても身長の五倍以上はある黒剣を、魔人狼は、一度ぐるりと回して肩に乗せて構えた。

 

 <夜摩の黒剣>―――『原初(ルート)』でさえも、ただ空から落とすしか扱うことのできない一発限りの破壊兵器。

 そして、暁古城の後輩、南宮クロウが武器を扱えないのは、後輩の全力に耐えられるものがないのが理由……

 それゆえに、武器の扱いに関する経験が圧倒的に不足しているのだが、両手で握りしめる『意思のある武器』―――『嗅覚過適応』でその意思(におい)を感じ取り、剣が思うがままに剣を振るう。

 

「っ!? ―――疾く在れ(きやがれ)、<甲殻の銀霧(ナトラ・シネレウス)>!」

 

 剣が振り抜かれる寸前に、眷獣の召喚が間に合う。

 <第四真祖>が従える『四番目』の眷獣――吸血鬼の『霧化』を司る甲殻獣。その能力は古城だけでなく、森羅万象に及ぶ。制御を誤れば一度霧にされたものが完全に元に戻るという保証はなく、災厄の化身たる<第四真祖>の眷獣に相応しい―――破壊的で傍迷惑な眷獣。

 そんな、かつて『波隴院フェスタ』で、絃神島全土を霧の都としたその力で、急遽、絃神島の四分の一東地区を、物理干渉をすり抜けさせる霧と化す。

 

 いったい何が古城をそこまで急かしたのだろうか。

 

 剣を振り抜かんとする巨人狼の足下が、地盤が蜘蛛の巣のように罅割れ、いや、カーボンファイバーと樹脂と金属で造られた超大型浮体式構造物(ギガフロート)を、魔術によって固定された絃神島が“傾いていたのだから”。

 

 これから振るわれる一撃は、かつてないほど強大なものになる警報(よかん)が、鳴った。

 

 

「アア―――コレデ、全力ガダセルナ―――」

 

 

 剣撃と共に、巨人狼が念じる。

 ごおっ、と剣身を中心軸とし、周囲のあらゆる存在を捻じれ取り込む。

 <第四真祖>の『意思を持つ武器』の力は、重力操作。

 100mもの長大な黒剣はそれだけで高層ビル一棟ほどの重量だというのに、重力を収束・加速させることでさらに重量を増大させる。その空間を歪めてしまうほど異常なまでの密度。その奔流。それはもはや、重力崩壊の結果できるとされる強力な重力場を持つ天体(ブラックホール)が『剣』のカタチとなったよう。

 

「「「■■■■■■―――――ッッッ!?!?」」」

 

 空が哭いた。

 啼く。

 貪食し、破壊し、千切り毟る。

 空の境界に沿う横一線は、重力加速は止まることなく、破滅の渦を巻いて、逃げようとする豹蠱そして邪神を掃除機のように強引に引き寄せ、逃さない。

 

 

 そうして、傾国の一閃は、世界に巨大な空隙を刻み付け、この刹那に天と地を分けた。

 

 

邪神内部

 

 

 ―――その一刀は、豹蠱と邪神の触手を切り払うだけにとどまらず、固有結界にも影響を及ぼした。

 

 

 炎色の空が堕ち、密林の大地が砕け、神殿も何もかもが無に帰す。

 今や邪神の内部は、罅割れ、砕かれ、まるで砂時計の終わりのように崩壊していく。

 これで現実世界への浸食や<冥き神王>の実体化を防げたが……やりすぎだ。

 一歩間違えれば、蓄積された龍脈のエネルギーが暴走したかもしれないというのに、いや、その龍脈のエネルギーごとごっそりと吹っ飛ばしてくれたのだが、

 

 私とセレスタさんが『()』の中にいるのをわかってますよね……!?

 

 ああ、こんなことだから、目を離したくないのだ!

 どっちだ?

 こんな破天荒な真似ができる下手人は二名だけど、ああもうなんか、二人とも正座で説教フルコースだ!

 

 なんて、憤慨するだけの余裕はなかった。最後の<病猫鬼>が雪菜に襲い掛かった。それを<雪霞狼>の天敵たる神格振動波で切り祓ったが、使い魔を失くした女兵士は、なぜか満足げに微笑んだ。

 

「お前がそう動くことは、視えていたよ、剣巫」

 

 雪菜の表情が強張った。アンジェリカの目的は、雪菜をセレスタから引き離すことだったと気づいたのだ。

 <魔義化歩兵>の強化改造された脚で、女兵士は凄まじい加速で跳ぶ。

 その先にいたのはセレスタだ。恐怖に立ちすくむセレスタを、アンジェリカは乱暴に抱き寄せた。<冥き神王>の『花嫁』を、『血塗れ』の右腕が―――

 

 

「<抱擁の右手>―――これが『アメリカ連合国』が誇る魔具の真の力だ」

 

 

 アンジェリカの右腕が輝きを放ち、その光がセレスタを呑み込んでいく―――

 

 

人工島東地区 港跡地

 

 

 <抱擁の右手>――アンジェリカ=ハーミダの右手に秘められた力は、『彼女が望んだものすべてを彼女の肉体の一部へと変える』というもの。

 『特殊部隊(ゼンフォース)』とは、<抱擁の右手>を有するアンジェリカのためだけの編成された部隊であり、隊員たちの肉体はすべてアンジェリカの予備部品(スペアパーツ)に過ぎない。もう一つの左腕も、忠実な部下から任務遂行に必要なプロセスの一つとして奪い、そして、アンジェリカの体内に埋め込まれた機械が、独立した生物のようにめきめきと蠢いて、部下の体内の人工臓器に接続し、回路を繋ぎ変えていく。単なる融合魔具の効果だけでなく、全身を機械化した<魔義化歩兵>であるからこそ可能な連携。

 敵も味方も一様に殺す―――ゆえに彼女は『血塗れ』なのだ。

 

 そして、この<抱擁の右手>という融合魔具で、『花嫁』ごと<冥き神王>を文字通り、“我が物”とした。

 

 『シアーテ』の神殿に刻み込まれていた魔術装置の“源本(オリジナル)”をそっくり自身の体内に移植してあったアンジェリカ。

 魔術装置としての『シアーテ』の神殿は、千年以上前の技術で造られたものだ。現在の魔術集積技術を遣えば、あのような大掛かりな装置は必要ではなく、人ひとりの体内にすべて埋め込むことが可能であった。実際に、1cm四方の集積チップにまで圧縮できた。

 ゆえにアンジェリカは邪神の依代である『花嫁』さえ手に入れば、任務達成となる。

 

(生贄の回収は成功した。犠牲は出たが、想定内だ。任務は問題なく遂行されている―――)

 

 邪神を実体化させるための固有結界は崩壊。

 しかし、アンジェリカの体内に魔術装置があるためそれも問題はなく、必要としない。

 通常空間に還ったアンジェリカは、神を支配したその威容を知らしめる。

 <冥き神王>と化したその姿。

 夜闇のように暗く染まった肌。

 人間の輪郭を失った身体が、膨張しながら形を変えて、巨大な鳥のようであり、同時に蛇のようでもある、あるいは禍々しい卵から孵ったばかりの、凶獣の雛のようにも感じられた。

 人間だったころの面影は黒曜石の鱗に包まれた三本の腕にしか残っていない。

 そして、翼を広げたその姿の全高は7mを超え、なおも成長を続けている。

 全身を覆う黒い鱗には、精緻な電子回路に似た黄金の魔術文様が浮かんでいて、その回路の中枢にセレスタがいた。

 怪物の胴腹に四肢を埋め込まれたような姿で、『花嫁』は恐怖に目を見開いたまま彫像のように固まっている。

 

(しかし<冥き神王>の降臨に対する我が国の関与が公表されるのは、望ましくない。故に目撃者の抹消を行う)

 

 <冥き神王>は死を司る夜の神。

 黒曜石の鱗に覆われた邪神の腕が、漆黒の炎に包まれた。

 凝縮された魔力が放つ冥き太陽の業火は、この地域一帯を焼き払うのに十分すぎる熱量を持っている。黒い輝きが大地を焼き、海面を白く泡立たせて沸騰させるだろう。

 だが、その破壊的な高熱が、絃神島に降りかかる前―――現実世界に帰還した開幕早々、異形の怪物に陰がかかった。

 

 

 天を突くような漆黒の摩天楼が、太陽を叩き落さんと迫っていた。

 

 

「先手必勝ナノダ」

 

 それは巨人狼が100mもの三鈷剣を異形の怪物めがけて兜割に振り落としたもの。

 “匂い”で邪神の出現ポイントを把握していた巨人狼(クロウ)はそこに待ち構えるように振り抜いていたのだ。

 ―――甘い。

 邪神化したアンジェリカは、<冥き神王>の力を完全に引き出しているわけではない。

 本来の地脈から遠く離れた場所での実体化、そして魔具による強引な融合などの不完全な儀式が原因で、邪神本来の力をごくわずかにしか再現できていない。セレスタが人間の姿を保ち、アンジェリカの自我が残っているのがその証拠だ。今ならば、セレスタを救い出すことができる可能性はある。

 だがそれも止められなければ意味がない。

 アンジェリカの身体に埋め込まれていた未来予測の魔具で、黒剣の軌道は完全に先読みしている。欠伸が出てしまうくらいに鈍いので、攻撃を回避するのは簡単で―――

 

「逃ゲラレナイゾ」

 

 ぐんッ! と空を舞う異形の怪物が、黒剣へと堕ちていく。

 まるで世界のあらゆるものが堕ちていく―――ブラックホールに捕らえられて、光さえも脱出できずに堕ちていく重力半径を想起させるこの危機感。

 強力な重力で相手を引きつけ、回避不能にする一撃―――

 全力で羽ばたいても逆らえずに喰らった獣王が振るう<第四真祖>の『意思を持つ武器』の攻撃に、アンジェリカの甲高い絶叫を放った。

 そう、これは、邪神でさえも恐怖したものだ。

 感情のない戦闘機械であるはずの女兵士が、初めてこの理不尽に恐怖を抱いた。

 

 しかし、これが全力で剣を振るった経験が少ないことを感謝するべきだろう。

 一度目で自重して加減して振った二振り目。

 もし熟練して、また全力でフルスイングをかましていれば、その身が邪神であろうがアンジェリカは死んでいた。

 

「上出来だが、やりすぎだ、馬鹿犬―――」

 

 巨人狼に続いて、少し舌足らずな女の声が響く。

 豪奢なレースの日傘を傾けて、念願の邪神へと変貌したところを蠅叩きされた女兵士を哀れむように見つめているのは、主人の南宮那月だ。

 足元の影の中から、戦艦の錨鎖(アンカーチェーン)にも似た、巨大な黄金の鎖を撃ち放って、漆黒の邪神を捕縛する。神々が鍛えた黄金の魔具<呪いの縛鎖(ドローミ)>に繋がれ、身動きができなくなったところで、アンジェリカを追って疾駆する槍手(ランサー)

 

「ええ、後で先輩と一緒に説教ですね」

 

 祝詞を紡ぎ、破魔の銀槍の膨大な霊力を流し込む姫柊雪菜は、神格振動波の刃にて、黒曜石に覆われた邪神の肉体を貫いた。

 狙うは、一点。

 アンジェリカの体内に埋め込まれた魔術装置のチップだ。邪神体内の神気の流れから、チップの位置はわかっていた。針の穴を通す正確な槍捌きで、雪菜は1cm四方の小さな集積回路を一撃で破壊。

 その瞬間、邪神を実体化させていた力は失われ、異形の怪物の姿が揺らいだ。

 邪神と融合していたアンジェリカの肉体も外に吐き出されて、同時にセレスタも解放される。

 空間を揺るがすような咆哮と共に、邪神の力が暴走を始める。

 凝縮されていた膨大な神気が、無差別に解放されようとしているのだ。

 

「なんで俺まで説教されるんだよ! むしろ、クロウをカバーしてたんだぞ!」

「連帯責任です先輩」

 

 そこで、古城が新たな眷獣を召喚した。

 <龍蛇の水銀(アル・メイサ・メルクーリ)>。水銀色の双頭竜が、暴走直前の邪神の肉体へと食らいつく。二つの竜の咢に食われた邪神の肉体が、ごっそりと空間ごと削り取られたように消失する。邪神の神気がすべて解放される前に、『次元喰い(ディメンジョン・イーター)』の能力を持つ双頭竜で、神気そのものを、どことも知れない異世界へと飛ばすのだ。

 肉体を喰われ続ける漆黒の邪神が、苦悶の咆哮を上げながら荒れ狂う。残された最後の力を振り絞り、自らの下半身を切り捨てて、双頭竜の咢をどうにか振りほどいた邪神は―――

 

「ムゥ、オレ頑張ッタノニ」

(再確認。先輩が張り切り過ぎるとよくないのが改めてわかりました。胴輪(パートナー)として、より厳しく管理していく所存です)

 

 <夜摩の黒剣>の重圧に捕まり、またジャストミートを喰らった。

 ピッチャー返しとばかりに、双頭竜の咢へ戻された邪神は、今度こそ欠片も残さず食い尽くされた。

 

 

 

 そして、邪神が完膚なきまでに消滅されたそのとき。

 邪神の侵食で大破した岸壁で、『花嫁』の定めから解放された、蜂蜜色の髪の少女が、弱々しく上体を起こそうとした、その前に海より現れる影。

 

「グォォオオオッ! 『花嫁』ェッ!」

 

 海に叩きこまれた戦士長クアウテモク。

 両腕が折れて、どてっぱらが黒ずんでいる、肉体を凌駕する執念で動いている鳥人はもはや飛ぶこともできないだろうが、それでも人一人を蹴り殺してしまうことくらいできるだろう。

 

「なっ!?」

 

 すでに完全に決着がついて終わったものだと気を抜いてしまった古城たちは反応が遅れた。

 だが、そんな表情に焦りが浮く古城たちの面前で、そのものは現れた。

 

「え……!?」

 

 セレスタとの間に割って入るよう黄金の霧が美青年へと形を成す。

 そう……それは、<蛇遣い>の異名を持つ貴族――アルデアル公ディミトリエ=ヴァトラーだ。

 

「ヴァトラー……あいつ……」

 

 セレスタを庇うかのように、『鷲の戦士長』と対峙する青年貴族に、古城は無意識に顔をしかめた。

 

「そこをどけ! <蛇遣い>! それとも貴様も殺されなければわからぬか!」

 

「殺し合いは歓迎だけど、キラとトビアスのお礼参りってのもガラじゃないし……なにより、今のキミじゃ食べ応えがない。とりあえず、まずは落ち着いたらどうだい?」

 

 ヴァトラーは、戦士長が手負いのところを見るとがっかりしたように溜息をこぼして、セレスタの方へと振り返る。融合された際に衣服を失った彼女は何も身につけていなかった。少女の艶やかな褐色の肌には、目立つような大きな怪我はない。

 ヴァトラーは優雅に微笑みながら、そんな裸のセレスタの肩に、自らのスーツの上着をかけてやった。

 

「無事だったようだね、セレスタ=シアーテ―――おめでとう、と言わせてもらおう」

 

「ヴァトラー……様……」

 

 驚いたように顔を上げた蜂蜜色の髪の少女は、半ば無意識に青年貴族の名前を呼ぶ。

 そして、ヴァトラーはそれ以上何も言わず、ただもう一度、戦士長を流し目で一瞥を交わすとそのまま立ち去ってしまう。その背中を熱い視線で見つめ続けるセレスタ……

 映画のワンシーンにも似たその光景を、呆気にとられながら眺めていた古城はぼそりとこぼす。

 

 ……なんで、あいつがセレスタを助けたみたいなことになってんだ……

 

 最後の最後に戦士長を制止した以外、ヴァトラーはほとんど何もしていない。それどころかあの男は“代理戦争”などという火種を放り込んだだけでなく、セレスタを見捨てるつもりだったはずだ。

 セレスタ=シアーテに同調(シンクロ)していた<冥き神王(ザザラマギウ)>の神気は、実体化したことで『花嫁』から離れ、双頭竜に食い尽された。セレスタはもう『花嫁』ではないのだ。

 だからああして近くで観察して、そのことを確認したヴァトラーは彼女に対する興味を失くしたのだろう。セレスタを庇う優しい振る舞いは、彼の無関心さの表れだ。戦士長も最初はその反応を訝しんだみたいだが、すぐセレスタが『花嫁』でないことに気付き、邪神が葬られたことを悟って、闘気を消火させている。もっとも、セレスタ自身がそれを理解しているようには見えないのだが。

 憧れとは、理解とはもっともかけ離れた感情なのだろう。

 

 納得いかねぇ……

 

 やるせない気持ちに肩を落とす古城は、そのあと、じっと半裸のセレスタを見つめ続けたために監視役の少女に説教をもらうこととなった。

 そんなやりとりを見て、救われた少女は小さく噴き出した。

 目の端に浮いた涙を拭って美しい笑みを浮かべるセレスタの横顔を、絃神島の夕日が明るく染めて、

 

 助けてくれて……ありがとう……

 

 強い海風に攫われたそのつぶやきは、誰の耳にも届かないまま消えていった―――

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「先輩……なんでいつまでも彼女を見ているんですか……?」

「え……ええ!? ちょっと待て、今のは、ただ、あいつのことを心配して……!」

 

 

 犬も食わないやりとりを他所に、すでに魔人狼の変身を解いた、クロウ。

 よほど疲れたのか、クロウはほとんどうつ伏せでわずかに上体を背反らすくらいが精いっぱいな困憊気味で、それでも頑張って主人へ向けて起こそうとするクロウ。

 不意に、頬に違和感が生じた。

 

「あう?」

 

 きょろり、と眼球を動かすと、綺麗な白い指が少年の頬をつまんでいるのだ。

 

「アスタル、テ?」

 

「いえその」

 

 その腕の先を目で追ってみれば、なぜか合体が終わっても背に乗っかっているアステルテ。

 

「なんで頬を?」

 

「あの」

 

 短く言って、アスタルテが俯く。

 背中に乗ったまま、頬を指でつまんだまま。

 

「このまま顔を持ち上げられると……痴漢罪に該当されますので、制止しました」

 

「そうなのか?」

 

 確かにクロウが顔をまっすぐに持ち上げると、その視線の先にはヴァトラーからの上着を羽織っただけのセレスタがいるわけだが、

 

「ぬぅ、でも、このままじゃオレ起き上がれないぞ」

 

 今の体力がほぼ底をついている状態でアスタルテを背に乗せたまま身を起こせない。だから、アスタルテに起き上がってほしいのだが、後輩は一向に背から離れず、また指も頬から離さない。

 

「現状把握……しているのですが、なんとなく……第四真祖の二の舞になるのを想定すると、処理できないノイズが発生しました。その……エラーの一種だと判断しますが……それに背中(ここ)胴輪(わたし)定位置(ポジション)であると思いますと……

 ―――あああ、あとで自己メンテナンスを行いますので、ご心配なく」

 

 珍しくも、口籠るアスタルテ。

 そんな後輩の様子に、クロウは頬をつままれたまま―――ぐるんと180度引っ張り回された。

 

「あぐ!? 今、お腹が思いっきり擦れたぞご主人!」

 

「まったく、後輩に尻に敷かれているとは情けない眷獣(サーヴァント)だな。そうだ、このまま犬ぞりでもしてみるか」

 

「それって、オレは引っ張るイヌ(ほう)じゃなくて、ソリになるのか!?」

 

 思いっきり嘆息してみせる那月。

 首に銀鎖を巻き付けたまま、数体の使い魔(ファミリア)の人形を喚んで引っ張らせる。

 周りは戦闘で荒れて、雪原のように滑らかでない凸凹を、後輩(おもり)をつけたまま引き回されるのは軽い罰ゲームだ。市中引き回しの刑である。

 

「やり過ぎた罰だ馬鹿犬。あのまま調子に乗ってデカブツを振り回してたら絃神島が沈んでいたぞ。そのまま家に帰るまで犬ぞりだ。地面と直に触れ合って、そのありがたみを確認しろ」

 

「うぅ……オレの身が磨り減る気がするぞ……でも、引っ張ってもらうのは楽ちんだからいいや」

 

「そして、アスタルテ―――お前は、馬鹿犬を見張っていろ。そのまま背に乗っかってな」

 

「あ……」

 

「私はそこの“泥塗れな軍人”を連れて行かなければならないんでな。いつまでも馬鹿犬の躾に付き合ってられん。―――悪いが、面倒を任せる」

 

「はい……命令受託(アクセプト)。お任せください教官(マスター)

 

 那月は、倒れているアンジェリカに鎖を巻き付けると、空間転移で飛び出した。

 そして、残されたクロウは、アスタルテを背に乗せたまま使い魔たちに引っ張られる。どこからかドナドナのBGMが聴こえてくるようで、

 その前に立ちはだかる大きな人影。

 何とも言えない微妙な表情を浮かべている戦士長クアウテモク。

 

「……私は、これに敗れたのか」

 

「む。なんだオマエ、まだやる気か」

 

「戦う理由もなくなった以上、戦う気はない。邪神は消滅した。『花嫁』ではなくなったセレスタ=シアーテを処刑する必要もなくなった。ならば、もう絃神島(ここ)に用はない。セレスタ=シアーテを本国へ移送するのがこれからの私の仕事となるだろう」

 

 内戦はこれで終了した。

 第三真祖<混沌の皇女>の出陣するまでもなく、『混沌界域』の反乱軍が鎮圧されたのだ。

 戦闘はあっけなく終了し、市民の犠牲者もほとんど出なかった。そのことで第三真祖は、逆に為政者としての評価を上げることになるだろう。

 『アメリカ連合国』の軍部による、謀略工作の証拠も公表される予定だ。その中には負傷して捕虜となった、特殊部隊の女将校も名前を挙げることとなるはず。

 結果、『アメリカ連合国』は国際的な非難を浴びることになり、『混沌界域』に多額の賠償を請求されて頭を悩ませる―――というオチがつく。

 そして、国籍上は『混沌界域』の臣民であるセレスタは、治療や今後の生活について、『混沌界域』からの支援を受けるようになる。

 セレスタ=シアーテが核となった今回の事件のおかげで、結果的に『アメリカ連合国』に多大なダメージを与え、莫大な賠償金を得られたのだから、そのぐらいの待遇は保証しよう。

 

 しかし、『鷲の戦士長』は、これを完全勝利などとは思えない。

 

「……“代理戦争”、負けを認めよう。―――しかし、貴様個人に負けたわけではない」

 

「ぬ」

 

 背を向ける戦士長。そのクロウから視線を外した際、一瞬、アスタルテに視線をやって、

 

 

「―――次にやるときは、一対一で決着をつけるぞ極東の獣王」

 

 

 そうして、戦士長が立ち去った後、入れ替わるように夏音と彼女に抱きかかえられたニーナがやってきた。

 そこで打ち明けられた夏音の初体験に、監視役からの古城の説教がさらに延長されることとなり、今夜の南宮家の食卓はお赤飯に決定した。

 

 

 

 

 

人工島西地区 高級マンション

 

 

 Purururu…… Purururu……

 

 Purururu…… Purururu……

 

 Purururu…… Purururu……

 

 Purururu…… Purururu……

 

 Purururu…… Purururu……

 

 Purururu…… Purururu……―――――

 

 

「お、やっと繋がったのだ」

 

『………』

 

「結構時間がかかったぞ。『神縄湖』? ってとこ、電波が入りにくいとこなのか?」

 

『………』

 

「昨日はごめんなのだ。ちょっと強いヤツに手痛くやられちまってなー。あ、でも大丈夫だから心配はしないでくれ」

 

『………』

 

「それから、古城君のことだけどな。マンションが大変になったけど、それで姫柊と一緒の部屋に暮らすみたいだぞ。姫柊と一緒なら安心なのだ」

 

『………』

 

「ん……そっちはどうなのだ? さっきから全然お喋りしてないみたいだけど……長旅だったみたいだから疲れたのか?」

 

『………』

 

「おーい、何か返事してほしいぞー。もしもーし………もしかして、何かあったのか凪沙ちゃん?」

 

『―――凪沙は、無事です』

 

「誰だお前?」

 

 

 ツーーーーー………

 

 

 それから一週間、南宮クロウは定期連絡を続けても繋がることはなく、暁凪沙とは音信不通となる。

 

 

 

つづく

 

 

 

???

 

 

 

「凪沙を助けに行きたいんだ。だから、そこを通してくれクロウ―――!」

 

「―――……オレは、ご主人の眷獣(サーヴァント)だ。だから、古城君を絃神島から出さない」

 

 

 

つづく


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