ミックス・ブラッド   作:夜草

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聖者の右腕Ⅳ

???

 

 

 夢に見たのは、失われたいつかの記憶。

 

 

『―――そうか。どうしてふたつ魂の匂いがするのかと思ったら、やっぱり、■は、『棺』の代わりなんだな』

 

 人造の獣人種の少年は、人造の吸血鬼たちに囲まれるひとりの少女を見て、そういう。

 

『心配するな。オレは、『墓守』だぞ。■が『棺』なら、守るのが役目。何があっても荒らさせはしないと約束するのだ』

 

 孤立無援。その不安を感じ取ったのだろう。

 何も根拠はないがそれっぽい理屈をつけて、味方だと彼は言う。

 

 ■■は、信じられないものを見るような目で少年の顔を凝視する。

 その表情は、何と表現したらいいだろうか。

 途方もない恐怖と、譬えようのない驚きが入り混じるような。とかく喜怒哀楽などと簡単に当て嵌められるものでないにしても、未だに安堵していいのかわからない顔だろう。

 

『どうして……?』

 

 ■■は、言う。

 感情の波が安定しない、ふらふらと揺れるような声色で。

 

『どうして、あなたが、私を助けるの……?』

 

 こぼれたのは、裡を大きく抉られた者から溢れる、本当の意味での本音だ。

 あるいは、ここで誤魔化してしまう不誠実なことは言いたくないと思えるような何かを、■■は覚えたのか。

 

『ひどいこと、しちゃったんだよ。■■のせいで、皆から怖がられたのに。ずっと避けてて、一度も■■から謝ったことないのに。どうして、■■を助けに来たの?』

 

 少年は、その言葉を黙って聞いていた。

 その言葉には、上っ面以上の何かが込められていると。

 

『わたし、心の中であなたのことこの島から出て行っちゃえって思ってたのに』

 

 ボロボロと、言葉が溢れる。

 それは、少年の半分が大事なものを奪った魔族のものと近しいものを感じ取ってしまったから、坊主が憎けりゃ袈裟まで憎いとばかりに、八つ当たりにもあんまりな理由だったろう。

 

『いつか皆を傷つけるんだって、あのときみたいに私たちを襲って殺しちゃうんだって!』

 

 ただ、だからこそ、その醜さには人間味があった。

 そんな本音は、彼女だけでなく他の学生からもずっと昔から嗅ぎ取ってはいた、けれど、面を突き合わせて口にしたのが最もその意思が強かった少女だとは少年には思ってもみなかったことで。

 

『頑張ってるの知って違うんだって思っても、大丈夫だって思いたくても、ずっとずっとそんなひどいことばかり考えてたのに!! 何でそんな人間を助けるために、こんなところまで来ているの!?』

 

 少年は、少女を見た。

 己が誰だかもわからなくなったひとりの少女の顔を。

 

『ひどいことも何も、それは当然のことだぞ』

 

『え……?』

 

『魔女に造られたことも、獣王の血が半分流れていることも、皆事実だ。オレは、怪物だ。正真正銘の怪物なんだ。そんな化け物が人間としていることを、今の今まで黙ってみててくれたんだろ。むしろ我慢してくれたのを図々しいオレは感謝すべきだ』

 

 少女は、驚いた顔で彼を見ていた。

 それに力強く答えるよう、無理やりではなく、心から笑みを浮かべる。

 

『オレが助けたいと思ったから、助ける』

 

 庇うよう前に出て、『棺』を攫おうとする相手と対峙する。

 彼女らが強いことを自ずと悟る。力を解放したとしても、1、2人が限界なところだが、あいにく3人以上はいる。

 だが、それが退く理由とはならない。もしも獣であれば、力量差を感じ取れば無駄な争いは避けようものだが、半分は人間。

 敗北がまず前提条件となる戦いに挑むことがわかっていながら、首輪に手をかける。

 

『だから、あんまり難しいことは考えてないのだ。■もあんまり難しいこと考えるな。オマエはちゃんと助けられていい。オレの勝手なワガママに振り回されてろ』

 

 くっきりと首に――を晒してる、それでも前にいてくれるのを見て、少女は―――

 

『……■じゃなくて、■■』

 

『?』

 

『もう、■なんて呼ばれたら、■■君と一緒になっちゃうじゃない。ややこしいからちゃんと名前でお願いね』

 

『む。そうだな。わかったぞ、■■ちゃん』

 

 

研究所

 

 

 擬死。

 俗に狸寝入りや死んだふりとも呼ばれる行為。それは、敵に捕らわれた際に起こる、ぴたりと動かなくなってしまう、反射的な行動である。

 無論、敵を前にそのような真似をすれば、格好の獲物であるも、だからこそ、急に動かなくなったそれを見ては緊張を緩めやすく、油断が生じやすい。

 また、敵の手により負傷していた場合、無駄に暴れるということもないので、傷口がより開くこともなく、余計な体力を使わずに済む。

 虎視眈々と機会を待ち、そこに全てを費やすために、あえて活動をしない。それが時によって、危機から逃れるための可能性を高めることもある。

 腐肉も平気で喰らう野生の熊相手にすればお終いであるも、利点がないわけでもない。実際、それで難を逃れた。

 

「生きて、たんですか……?」

 

 殲教師らがいなくなり、足音が遠ざかってしばらく、雪菜の目の前で、むくりと起き上がる。その腹部に血が滲んで真っ赤になっているものの、出血はすでに治まっていた。

 それを呆然と眺めていた姫柊に、当人はあっけからんと、

 

「オレの半分は人間だから、こーいうの魔族よりもへっちゃらなんだ」

 

 痛くないわけじゃないけどな、とお腹をさすりながら言う。

 

 <黒死皇>というインパクトの強い単語でイメージがそちらに傾いてしまっていたが、彼の言う通り、その血の半分は人間だ。本来なら魔族に対し致死に至る毒であった浄化された塩も、『混血』には効果が半減してしまうのだろう。

 そして、『混血』という2つの種の改良(改造)された配合体は、再生能力を持った吸血種ほどではないにしても、獣人種の秀でた生命力により速やかに銃弾による風穴も塞がれた。

 

「うん。あいつらの匂いは消えてない。もう逃がさないのだ」

 

「待ってください。何処へ行くつもりですか」

 

 まだ自らの足で立てずにいる剣巫が、静止を呼びかける。

 

 攻魔師としてならば、あの<黒死皇>の血を引くという危険な火種は速やかに排除すべきなのだろう。自滅するならそれを見逃すべきだろう。先輩――<第四真祖>とは違い、機関からは監視も命じられていない。

 なのだが、雪菜は、向う見ずな少年を諌めてしまう。

 

「今のオイスタッハ殲教師には、<雪霞狼>と同等の魔力無効化能力を有する眷獣がついています。対抗するには、真祖クラスに強力な眷獣がいなくてはいけません。あなたには、止められません」

 

 雪菜の声には静かな怒りがある。

 彼を救うために赴いた先輩が、犠牲となってしまった―――なのに、それを悼むこともせず、折角助かった命を粗末にするクロウを諌めている。

 

 確かに彼女の読みは正しいだろう。

 並の眷獣を倒せるだけの力があることは承知しているも、相手はそれ以上の『旧き世代』の眷獣をも打倒できるだけの力を持ち、そして今や腕だけにとどまらず巨人と化した、前回以上の怪物へと完成してしまい、魔術が一切通用しない。

 

「先輩の、……<第四真祖>の力は、獣人種はおろか、吸血種の『旧き世代』の長老さえも上回ってます。その魔力でさえも跳ね返したんです」

 

 このまま行ったところで返り討ちに遭うのは目に見えている。

 剣巫の判断は正しい。

 それでも、

 

「でも、行かないと。あいつら止めないと手遅れになる」

 

 あまりに落ち着いた、そして素直な響き。

 それについ頷きかけて、雪菜は眉をしかめる。

 その身を案じるのならば、と刺々しい――自らの喉にも刺さってしまう――声音で、それを問う。

 

「それは、先輩の敵討ちのためですか。……それとも、あなたが、道具、だからですか」

 

 言い難そうに――また聞きたくないように――つっかえながらも雪菜は尋ねる。

 

 わずか14歳で、殲教師と互角以上に渡り合える戦闘術を身に着け、降魔の槍を振るう獅子王機関の剣巫。それはオイスタッハが追及したとおり、魔族と戦うために育てられた道具とどこが変わらない。

 

 姫柊雪菜と、彼は境遇が似ている。いや、雪菜よりも偏っている。一から作られたことを考えれば、あのアスタルテと呼ばれた眷獣を寄生させた人工生命体の方に近いだろう。

 

 そんな同情心から響く言葉なのだと、嗅ぎ取ったのだろう。

 

「姫柊は、道具だと思ってるのか?」

 

 クロウを、また姫柊自身を、ともどちらでもとれる返し。

 

「オレは、ご主人にぶっ殺されて森から連れ出された。『捨てる魔女もいるなら、拾う魔女もいてもいいだろう。今日から私がおまえの神だ』って。こっちの了承なしで契約されたんだぞ」

 

 オーボーだ、と小さく、しかめっ面でぼやく。

 死なせた方が楽だったかもしれない。だがたとえそうこちらが望んでも、魔女がそれを許さない。魔女が神だ。

 おそらく傍若無人な魔女は、ウジウジ過去引き摺ってる暇があるなら行動しろと言いたかったのだろう。とはいえ、それが強引かつ乱暴に過ぎるやり口であることには変わりない。

 

 それから一般教養を身につけさせて、この古巣と比べて全くの別世界な絃神島に連れてこられ、学校に通わされる。その間にも、仕事の手伝いをやらされた。

 

 魔女はああしろこうしろと命令するばかりで、自らが生まれてきた理由は教えてくれない。そんなのは自分で考えるものだと一蹴された。それがわかるまで、自分は魔女についていくしかない。

 

「でも、オレはここにいるのが楽しかったぞ。大変だけど、ご主人もなんだかんだで面倒見てくれる。先輩も困ってたら助けてくれるし、クラスの皆も優しい。

 ……うん。今思うと、オレはきっと捨てられて当然な欠陥製品なんだろう」

 

 きっと道具であるなら、主の命に疑問を挟むのはおかしいのだ。たとえ、誰になにを言われたのだとしても、おかしいと思ってしまうのが間違いで、主に牙を剥くようならば、それは不良品と言われても仕方ない。

 あの閉じられた世界で、己は異分子だった。だから、もう自分はあの森へは帰れない、帰ってはいけないのだ。

 

「だから、オレは道具というのがよくわからない」

 

 この少女が自分と重ね合わせてみているのはわかった。

 できれば彼女の納得のいく、望む答えを口にしてやりたいが、それはできない。

 

 それでも、答えは決まっている。

 

「だから、オレが行くのはオレの意思だと思う」

 

 あの狭く、完結していた森の中で、己に関わってしまったから、家族は死んでしまった。親たる創造主もそれを恐れたから己を捨てたとそう思い込んでいた。

 だが、主であり、神である魔女は言う。

 おまえのせいじゃない。おまえが何もしなかったから奴らは死んだんだ。

 

 だから、もうせめて、迷わないように。

 自然に浮かんだ想いだけは貫こうとずっと前、あの時から決めたのだ。

 

「あいつらが強いのはわかってる。……でも、行かないと。ここにいたら何にもできないぞ」

 

 やらぬ後悔より、当たって砕ける方を選ぶと胸を張って断言する。

 その胸をつくのは未熟な衝動。

 今このとき、この場に残留する“匂い”を嗅いだ彼は、ただ、止めたいと思っている。

 島の危機とかそんなことは考えにも浮かばず、脳裏を占めるのはそれだけ。

 だから、全く持っていつも通りとなるのだが、その時その時の、その場その場の考えでしか動けないのだ。

 

 

 

「あ、それから古城君は、死んでないぞ」

 

「へ?」

 

 

キーストーンゲート

 

 

 絃神島の中心地にある逆ピラミッド型の巨大複合建造物キーストーンゲート。

 それは絃神島で最も天に近い建物であり、島全体の基盤を保持するための要石ともいうべき場所。東西南北と連結用ワイヤーケーブルで繋がった四基の人工島の連結部がそこにあり、そこに搭載された電子演算は、海流や気候と環境が要因となって生じてしまうわずかなズレも検知は予測し、各人工島の距離間を衝突させず一定の距離に保つよう、常時調整作業が行われている。

 

 故に、このキーストーンゲートの崩壊は、絃神島全体の崩落に繋がるため、特区警備隊のテロ等の破壊活動に対する防備は念を入れてなされている。

 

 夜の帝国の正規の獣人兵団一個中隊でさえも一日ではとても落とせないというレベルで。

 そのキーストーンゲートで、唐突に始まった戦いは、すぐに一方的な展開となり―――一方的に終わった。

 

「―――大方これで片付きましたか」

 

 ロタリンギア殲教師オイスタッハの眼差しが、冷ややかに前に向けられる。

 音のない空間が、眼前に広がっていた。ほんの少し前まで気密隔壁で閉ざされていたはずのキーストーンゲート海面下第十層は、何も行く手を遮るものがない、観葉植物に置かれた花壇が倒れて土をこぼしてるなど荒れ果てただけの廊下と化していた。隔壁には七層にも及ぶ結界が施されていたはずだが、一切静止させることもできず、ガラクタとなって床に転がっている。

 突破を阻もうとした60を超える精鋭部隊は、まるで火の中に飛び込む虫のように、“たった2人の襲撃者”に挑んでは倒された。

 

「なんなのよ、これ……」

 

 その経過を、離れた位置で眺めていた1人の少女。

 武装はない、あるのは小さなノートパソコン。戦闘訓練を受けたこともなく、魔力もない一般人。

 人工島管理公社でバイトする優秀なプログラマー兼彩海学園高等部に通う女子高生藍羽浅葱。その手にしたノートパソコンから、

 

『侵入者と鉢合わせちまうなんて、何とも運の悪いお嬢だぜ。今日の占いは恋愛運だけでなく総合運でも最下位だな』

 

「うっさいわね。今付喪神風情の相手できる状況じゃないわよ」

 

 モグワイ、と名付けた絃神島すべての都市機能を掌握する五基のスーパーコンピューターの現身(アバター)たる浅葱の補助人工知能たる相棒。

 彼の助けを借りれば、電脳世界(サイバーネット)において敵う者がいないであろう<電子の女帝>は、現実世界では普通の女子高生と変わらない。

 そして、運が悪いことに『彩海学園の女子制服』を着た相手と苦戦をした侵入者は、学校の制服に身を包んだ浅葱に警戒している。

 また、運の悪いことに、携帯電話が鳴りだした。ただでさえ相手の注意を惹きつけたくない状況下で、目立つという真似。

 

『ただ今の館内の携帯電話のご使用はご遠慮願います、ってな』

 

 戯言抜かす補助人工知能が憎たらしい。

 

 いつまでも着信音を鳴らしておけないと浅葱は襲撃者に注視されながら、のろのろと機械的な動きで携帯の画面を確認する。

 この発信者は後で絶対に―――と表示されたその名前を見たとき、浅葱の目に生気が復活した。

 

「―――古城!?」

 

 思わずその名前を口にしてしまう。

 あれだけ夏休みを補習課題三昧だったというのに、二学期早々の授業を個人的な都合上中退なさった同級生。そして、あの美少女な転校生と何かあるのではないかとやきもきさせる男子。

 

 ―――だが、浅葱は暁古城が、世界最強の吸血鬼であることを知らず、また侵入者たちがつい先ほど抹殺した相手であることを知らない。

 

(何? <第四真祖>は殺したはず……そうですか、これが真祖の不老不死と呼ばれる所以ですか)

 

 知らず知らずのうちに侵入者たちの警戒度を上げてることを知らず、訳もなく安堵してしまった浅葱はその電話を取ってしまう。

 もはやこの積もり積もった鬱憤を晴らさずしておくべきかとばかりに、

 

『浅葱……! よかった! 無事か?』

 

「なんなのよ、もう……ちっとも無事なんかじゃないわよ! 公社が襲われて、人がいっぱい怪我して、建物もあちこち壊れて閉じ込められて、しかも、今そこであいつらこっち見てるし……って!?」

 

 上擦った声で捲し立てるが、途中、現在状況を自覚して一オクターブ高めに悲鳴が上がる浅葱。電話の向こうにいる相手も、瞬時にただならぬ状況だと察知。

 

『襲撃してきた犯人がそこにいんのか!? 僧服を着たガタイのいいオッサンと人型の眷獣が!?』

 

「そ、そうなんだけど、知ってるの!?」

 

『知ってるどころじゃねーよ! こっちはそいつらのせいで危うく死にかけたんだぞ!』

 

「死にかけた……って、古城、あんた……」

 

『んなことより、今はお前が問題だろ! 早く逃げろ、浅葱―――』

 

 それ以上、古城の声は耳に入らなかった。

 浅葱に向かってくる殲教師が見えたから。

 放置してもこの島にいる人間はすべて死ぬのだから変わらないと考えていたが、<第四真祖>との関係者であるなら、それを人質に時間稼ぎができる。

 

 立ち竦む浅葱は、装甲服を纏った警備兵を一撃で重傷負わせた物騒な半月斧が今度は自身に降りかかるのを予感する。

 唯一自由になる瞼をぎゅっと閉じて、せめて、視覚情報だけは遮断する。

 けれど。

 1秒、2秒。

 3秒たっても、何もない。

 痛みもなく、掴みかかられたりもしてない。

 

「……?」

 

 ゆっくりと恐る恐る瞼を開ける。

 零れ落ちなかった涙が滲んだままの視界に映ったのは、殲教師の巨漢でもなく、半透明の巨人でもなく。無論、瞬間移動してきたクラスメイトの背中でもない

 

 ―――銀色の人狼。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 速い。

 目にも止まらぬ、を超えた、目にも映らぬ、その疾風の影。

 その残像が侵入者を囲うように、キーストーンゲート海面下第十層を駆けずり回り攪乱すると、その半月斧の牽制を躱して、浅葱の前に立つ。

 先まで電話に出ていた男子学生の色素の薄い灰色の髪とは少し違う、くずんだ銀の色。

 顔立ちは、人のものではない。

 口元には鋭い牙が生え、その両手からは長い鉤爪が伸びている狼の頭。けしておぼろげな影ではなく。紐で結ぶタイプの手術着の隙間からは銀の体毛が生えた、一頭の獣化した獣人種。

 その喩えるなら鬱蒼と生い茂る森のような深く清冽な空気を発する気配から、都会とは異邦者であることを自然と悟らす。

 なのに、どこか見覚えがある印象なのは、その首に付けた枷のせいか。

 しかし、浅葱が呼びかける前にそれは動いていた。

 

 一際高く、海底から地上にまで伸びる遠吠え。

 その喉笛を震わせ発す、弦楽器の如く遠くまで響かせる音は太古の記憶を呼び覚まさん。

 

「アスタルテ!」

 

 どっ、と緑と茶の色が巨人の足元から――正確には雑草のように踏み潰した観葉植物から、噴き上がった。

 瞬く間に膨大な量と太さに成長する植物の蔓が、巨人の身体を何重にも縛り上げたのだ。

 

 『神格振動波駆動術式』を有する<薔薇の指先>の体に、魔術的な拘束は通用しない。たとえ、<空隙の魔女>が用いる神々が鍛えたとされる鎖を以てさえ束縛しえないのだ。

 

 ならば、これに“魔力は一切使われていない”。

 

 そのような魔力とは別系統の異能が、この絃神島には存在する。

 <過適応能力者>。

 その『嗅覚感応能力』、通常時は吸引側(パッシブ)で『嗅ぐ』ことしか使えない能力を、発香側(アクティブ)にすることで匂付け(マーキング)を仕掛ける。―――自身の生命力を変化させる気功術に他者に生命力を与える死霊術の要領を学習した<過適応能力者>が、己の生命力を埋め込んだ自然物を手足の如く操る、応用技。

 精霊召喚士が行使する術と似てはいるが、こちらは動力に己の生命力で賄うため、体力は使うものの、特別な術式媒体は必要としない。

 

(同時に、警備隊を避難させてる)

 

 巨人を封殺するのとは別の蔓が、重傷を負って動けない特区警備隊に絡みついて保護し、戦場から引き擦り離していく。

 

「くっ、厄介な―――」

 

 ぎりぎり、と巨人をなおさら強く細い観葉植物の蔓が縛り上げている。

 それだけの強度が、あるのだ。獣化した今、<過適応能力者>の中でも、超常の念動力を操る古代超人種<天部>に匹敵する性能を誇る。

 魔力を使っていないため、魔力を無効化にする神格振動波でさえ完全に無効化できない巨人は、しかしその眷獣としての怪力で拘束を引き剥がそうと暴れる。

 

 ―――そこへ、迫る。

 

「結局、少年は魔族(そちら)側ということですか」

 

 迎え撃つ殲教師が法衣の隙間から、言葉と共に輝きを洩らす。

 

「ロタリンギアの技術によって造られし聖戦装備<要塞の衣(アルカサバ)>―――この光をもちて我が障害を排除する!」

 

 

 

 戦斧と気爪が、激突する。

 銀色の獣人種が銀色の気を纏った鉤爪で襲い掛かる。

 殲滅の祓魔師が黄金の呪を込めた戦斧で斬り掛かる。

 身動きの取れない巨人を狙う獣と、その脱出まで阻む人。

 浅葱が息を呑んだ時には、もう、ぶつかっていた。

 加速。加速。加速。

 刹那のうちに、両者は常人の身体能力を遥かに超える高速の領域へと達していた。

 瞬きするコンマ1秒程度で、5m先に移動していて刃を交わしてすらいる。

 床を駆けるだけに留まらず、壁にまでは疾走する二つの姿。

 それらの僅かな残像さえも、すぐに、消えてなくなる。

 

「以前の評価を訂正させてもらいましょう、貴方はやはりかの獣王の血を継いだ化物だと」

 

 互いに人体のカタチをしているのに、人体では成し得ない運動性能を当然のように発揮することで行われる、刃の舞踏。この魔族が住まう特区でもそうお目にかかれない、現実さえ置いていく高速戦闘。

 キキキキキキキキキキッッ!!! と衝撃が周囲の空間に放たれるのにやや遅れて、耳障りな金属音が連なっていく。

 火花が飛び散り、光が瞬く。物理的な現象なのか、攻撃的な力の残滓として生じたものなのか。

 あまりに速すぎる両者の戦闘を、素人の浅葱に欠片も読み取れるわけはなくて。

 

 だが、それも巨人が束縛を破ったと同時に終わる。

 

「逃がすか―――アスタルテ!」

 

「命令受託―――」

 

 巨人が手を伸ばそうとしたときには、最初と同じ位置に着地していた。

 荒々しい獣毛に身体を覆われた人狼から、浅葱は目をそむけなかった。

 自然に、それを受け止める。

 幼少のころから魔族特区で暮らしていた浅葱にとって、獣化した獣人なんてものは見慣れたもので、人より耐性がついている。

 なにより、この正体に勘付いていた。

 

「一応、確認だけど、クロウ?」

 

「そうなのだ、浅葱先輩」

 

 いつもと変わらぬ調子で応えて、腰が抜けてる浅葱を腕に抱える。

 学校で魔族としての力を発揮することのない後輩が、獣化した姿を見せるのは初めてのことだが、それでも雰囲気は変わってなかった。

 今の戦闘の合間に、植物の蔓たちは壊滅した警備隊を回収している。そのための時間稼ぎで斬り合ったのもあったのだろう。

 当然、その代償は安くなかった。

 

「……傷は、大丈夫なの?」

 

「わりと重いぞ。さっきから左脚が氷水に浸かってるみたいに感覚がない。あいつの斧に斬られるのはやっぱり危険だった」

 

 交錯しかけた状態から、無理にオイスタッハを振り切った結果である。

 <要塞の衣>で数倍以上に跳ね上げた武装祓魔師の膂力と祓魔の呪力は、掠っただけでもダメージを負う。そして、逃げ足に、剣巫クラスとは言わなくても予測した霊視と戦士の勘で合わせた。

 とはいえ、相手の方も決して無傷というわけではない。利き腕と思われる右肩の装甲に大きな裂け目があり、右腕が真紅の血によってしとど濡れていた。腱こそ断たれてないようだが、軽傷とは言えない具合であった。殲教師の纏った法衣の右半分は、今もゆっくりと真紅の領土を広げている。あとすこし、巨人が束縛されていれば、決着はついていたのかもしれない。

 

「ここで仕留めておきたかったのですが」

 

 オイスタッハは、逃げ際を誤らず撤退するクロウの背中を目だけ追う。脚を負傷している以上、こちらが全速で迫れば捕まえられるかもしれない。だが、それには時間がかかる。これが奇襲である以上、あまり時間はかけられない。ならば、当初の予定通り、先へ進むしかない。

 

「急ぎますよ、アスタルテ」

 

 出鼻をくじかれた形であるも、オイスタッハの目の光はより一層強まる。

 相手が何者であろうと、目的を達せれば、この島ごと沈むのだから。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 クロウは、オイスタッハたちの気配(におい)が自分たちから離れていくのを感知すると、その廊下の途中で立ち止まり、浅葱を床に下す。

 

「浅葱先輩にあったら言いたいことがあったんだ」

 

 若干、スピードを出し過ぎてGに振り回されたのか、まるで酩酊状態にフラフラな先輩はそれでも後輩に、なによ? と視線で問う。

 

「これどうやったら使えるようになるのだ?」

 

 取り出したのは、ボタンを潰してしまって、くの字になってる携帯電話。

 ……どうやら犬でもわかる携帯講習のお時間は無駄になったようである。まずボタン操作からではなく、ボタンの押し加減を徹底させるところから教えないとならないとはこの後輩手間がかかる。

 

「今度、那月ちゃんに、いっちばん頑丈なの、買ってもらいなさい」

 

「う~、ご主人に怒られるのだ」

 

「それより、古城がどうなってるか知ってる?」

 

 先ほど電話で死にかけたと言っていたが無事なのか。そう心配して訊いて浅葱であるが、

 

「……しばらくダメなのだ」

 

「え―――」

 

 後輩が沈んだ表情――狼頭であるも何となく表情が読めた――を浮かべ、浅葱は狼狽する。

 

「別れた時は、姫柊に膝枕されてたけど、全然起きてる気配がなかったのだ」

 

「え―――え?」

 

 ちょっと待って。

 何でそこで、この前会った美少女転校生の名前が出てくんの。それも膝枕ってどういう意味?

 

「いったいどういう状況なのよあいつは……」

 

 特区警備隊を蹴散らす侵入者に殺されかけて、病院のベットではなく後輩の膝枕で眠ってる?

 この展開は、ちょっと優秀なプログラマーの頭脳でも推理できないぞ。

 

「気になるんなら直接訊けばいいのだ。携帯まだ繋がってるぞ」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 この絃神島の都市設計が公開されたのは、今より40年前。当時、その発想は一躍話題となった。

 

 第一真祖<忘却の戦王>が東欧に『戦王領域』、

 第二真祖<滅びの瞳(フォーゲイザー)>が中東に『滅びの王朝』、

 第三真祖<混沌の皇女(ケイオスブライド)>が中央アメリカに『混沌領域』

 

 真祖たちが築く夜の帝国には、豊富な資源が眠っており、また霊地として格の高い豊潤な土地でもあった。それを奪還、もしくは、略奪しようとしても、真祖とそれが率いる魔族の軍勢は強く、また聖域条約と人間と魔族の不可侵が結ばれてしまっては諦めるしかない。

 夜の帝国を除く、この地球上にある大半の有数の霊地はすでに押さえられて、資源にも限りがある。もし国家組織の発展を望むであれば、人間たちは他の人間の国家組織の土地を奪うか、土地と資源を持った真祖と共生共存するか、可能性は低いが新天地を開拓するしかない。

 

 そんな、真祖に人間の懐事情が圧迫される情勢で、『海洋上にある龍脈(レイライン)が集約する場所に、人工の浮島を建設して、新たな都市を築く』は画期的であった。

 土地がないならば、新たに作る。

 多方から龍脈が流し込まれる集約地にある人工島は、霊地としては相当な格であることが予想され、住民に活力を、都市に繁栄をもたらす。それは通常よりも強力な霊術に魔力の実験が可能となることから魔族特区として理想的だ。実現すれば、人間は真祖に頼らず、独自の発展を―――しかし、所詮それは机上の空論であった。

 

 海洋を流れる剥き出しの龍脈の力は、その予想をはるかに超え、人間の手にそうおえるものではない。

 しかし、人工島計画は、地球表面を流れる巨大な霊力経路たる龍脈の上に築かれるものでなければ、魔族特区としての水準には満たされない。

 

 それでも、都市の設計者である絃神千羅はよくやったと言える。

 東西南北――四つに分割した人工島(ギガフロート)を風水でいうところの四神に見立て、それらを有機的に結合することで龍脈を人間の手で制御できるところまで落とし込もうとした――いや、可能なところまでこじつけていた。

 たった一つの問題をクリアできれば……

 

 

 

命令完了(コンプリート)。 目標を目視にて確認しました」

 

 あらゆる結界を破る力を持った虹色に輝く巨人の眷獣は、最終防壁をも打ち破る。

 キーストーンゲート最下層であり、四基の人工島から伸びる四本のワイヤーケーブルの終端。

 その中央には、全てのマシンヘッドを固定するアンカーである、小さな逆ピラミッドの形をした金属製の土台がある。

 そして真ん中を杭のように刺し貫く黒曜石と似た素材を用いた石柱。その直径1mもない一本の円柱こそが、絃神島を支える『要石(キーストーン)』。

 その奪還こそが、ロタリンギア殲教師ルードルフ=オイスタッハの悲願だ。

 

「お……おお……」

 

 その“再会”を前にしては、これまでの怒りを一時とはいえ忘れて、敬虔な信者たるオイスタッハは、身体の震えは堪えようのない。歓喜のあまり面相は戯画のように歪んでいる。この瞬間をどれほど待ち望んでいたことであるのが、これだけでも窺えた。

 

「ロタリンギアの聖堂より簒奪されし不朽体……我ら信徒の手に取り戻す日を待ちわびたぞ!」

 

 人工生命体に、『あの忌まわしき楔を引き抜き、退廃の島に裁きを下せ』とオイスタッハは負傷に構わず高らかに右腕を掲げ、半月斧を振り下ろさんとして―――やめる。

 出来得ることなら、馳せ参じてすぐさま解放し、御前に跪きたい欲求に駆られるも、

 

「しかし、やはりその前に障害を排除しなければなりませんね」

 

 己の背後に、最後の障害がいる。

 つい先ほど、一太刀を浴びせた、銀の人狼が。

 

「『黒』シリーズ――魔女が創りし、森の番獣にして、霊地の防衛装置」

 

 人間の霊地不足は深刻だ。

 その森も、魔女が個人で所有するそれなりに格のある霊地で、それも魔族ではなく、人間が利権を持っていることから、人間にとって、この上ないご馳走であった。

 故に、森の魔女は個人で有する最強の戦力を欲して、創り出したのが、動死体を無限に蘇らせる一個にして軍団たる『黒』シリーズ。

 

「人間に故郷を奪われ、この背約の土地でさえ迫害され、それでも道具としての使命を果たしますか。そこが己の死地であることを知りながら、我々の前に立つのは、もはや献身とは呼べず、捨身としか言いようがありません」

 

 オイスタッハがつける片眼鏡(モノクル)型の分析器はすでに先の眷獣を縛った術の性質を見抜いている。

 『黒』シリーズは、森林を想定として創られた。

 この鋼鉄で仕切られた最下層にあるあらゆるものは人の手が行き届いており、生命力を伝播し易い自然物が絶無―――武器となるものがなく、『死地』と呼べるほど野生児には不利な空間だ。

 それも素早く翻弄する脚も負傷している今、戦えば待っているのは一方的な嬲り殺しだ。

 

「しかし、その憐れさに免じて、最期に、もう一度だけ、チャンスをあげましょう。―――咎人たちに踏み躙らされた彼の聖人を復活させるのです」

 

 オイスタッハは確信している。

 悲願成就に必要な『神格振動波駆動術式』をもった剣巫と遭遇したことも、

 復活という偉業を達成させる完全なる死者蘇生ができる道具を拾ったことも、

 一度目は拒絶されたが、今この瞬間に最下層に現れたとなれば、これぞ彼のご意思。

 

 そう、自壊などと生温い慈悲など与えず、己が手で、この罪に塗れた土地に天罰を下さんとしてるのだと。

 

「オマエのこと、オレもわかる」

 

 でも、

 

「誰かを蘇らすの、オレはできない」

 

 たとえ死霊術の資質があろうとも、それが可能だろうと、死者蘇生は行わない。

 <黒妖犬>は『墓守』だ。

 地面の下に眠る者たちを悪戯に起こすものではない。

 

 オイスタッハの双眸から、熱狂の炎が消える。

 激情に駆り立てられた面相が、以前と――魔族と対峙すると――同じく静かな面持ちで、立ちはだかるクロウを見下す。だが、その視線が孕む強烈な意志と執着は、微塵も衰えていない。

 

「所詮は魔族に、彼のご威光は理解できぬものですか」

 

 声はそう沈鬱に呟くも、嘆きはない。滲むのは、再点火された怒り。

 

「であるなら―――アスタルテ! この最後の障害を排除し、この退廃の島に裁きを下しなさい!」

 

 下された半月斧。

 その宣告と同時、巨人は―――動かない。

 

 

命令認識(リシーブド)。 ただし、前提条件に誤謬(ごびゅう)があります。故に命令の再選択を要求します」

 

 

「なに?」

 

 言われて、オイスタッハは気づく。

 要石によって固定されたアンカーの上に、影。

 ひとつはボロボロの制服を着た少年、もうひとつは長大な槍を持つ少女のもの。

 

「悪いな。その命令は、取り消(キャンセル)してもらうぜ、オッサン」

 

 第四真祖――暁古城と、その監視役たる剣巫――姫柊雪菜がそこにいた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「聖遺物って言うんだってな」

 

 古城が示す、要石の石柱――その中にある『腕』。

 手首に無残に縛られた痕の付いた、ミイラのように干からびたそれは西欧教会の『神』に仕えし聖人の一部。“絃神島の設計者絃神千羅が奪い”し、至宝。

 

 東に青竜、北に玄武、西に白虎、南に朱雀、四神相応の理を取り込んだ四つ人工島の中央に敷かれるのは、四神の長たる黄龍。これが、連結部の要諦となる要石である。

 

 しかし当時の技術では、黄龍の格に合わせられる建材を人の手で造り出すことはできなかった。

 故に絃神千羅は、この最後にして最大の問題に、外道に手を出した。

 

「それが、この『供犠建材』だな」

 

 古城が浅葱に頼んで軍事機密並のプロテクトを打ち破って調べてもらった。

 そして、オイスタッハが絃神島を憎悪する理由。

 

 ―――人柱。

 その建造物に降りかかる災厄を防ぐための身代わりとして、生きた人間を生贄として地中へと埋めた邪法。

 それも、龍脈という莫大な自然の気の流れを受けるには、人間では矮小過ぎる。従って、生半可な生贄では相手にならず、

 

「いかにも。絃神千羅が都市を支える贄として選んだのは、我らの聖堂より簒奪した尊き聖人の遺体でした」

 

 生涯を捧げた信仰のために苦難の道を歩んだ殉教者の右腕。それは、神の聖性が現世に顕現するための依代であり、後に続く同輩たちが迷いし時に導く信仰の対象。

 不朽体という永久に形を保ち続けるほどに聖性を秘め、遺体であれどさまざまな奇蹟を起こす―――故に、人工島の生贄に足りた。

 

「魔族どもが跳梁する島の土台として、我らの信仰を踏みにじる所業―――決して許せるものではありません」

 

 この正当性――正義を以て、ルードルフ=オイスタッハは、戦争を仕掛ける。

 断罪されるべき悪は、教会から聖人を盗み、踏み台にした絃神島の方であると。

 

「故に私は、実力をもって我らの聖遺物を奪還します。立ち去るがいい、第四真租よ。これは我らと、この都市との聖戦です。 貴方といえども邪魔立ては許さぬ―――」

 

 その隠されてきた絃神島の真実を知る者として、暁古城は、その正義を否定できない。

 共感はできないが、それが正しいものであるとは思っている。一介の学生が、割り込んでいい問題ではないと理解している。

 

「……、」

 

 己が正義を謳い上げる演説の間、黙してただこちらを見ていた後輩を見る。姿形は人とは違っても、その目を見れば、彼もまた理解している、いいや、古城はできなかった共感までしているのだろうのだとわかる。だから、ここでオイスタッハの言うとおり立ち去っても、恨むことはない。

 

「気持ちはわかるぜ、オッサン。絃神千羅って男がやったことは、たしかに最低だ」

 

 だから、暁古城も、オイスタッハの前に立つ選択肢を後悔はしない。

 

「だからって、何も知らずにこの島で暮らしている56万人が、その復讐のために殺されていいってのかよ! ここに来るまでにあんたが傷つけた連中も同じだ。無関係な奴らを巻き込むんじゃねーよ!」

 

「この街が贖うべき罪の対価を思えば、その程度の犠牲、一顧だにする価値もなし。

 もはや言葉は無用のようです。 これより我らは聖遺物を奪還する。 邪魔立てするというならば、実力をもって排除するまで」

 

 冷酷に告げるオイスタッハの前に、姫柊雪菜もまた凛とした声で叫ぶ。

 

「『供犠建材』の使用は、今は国際条約で禁止されています。ましてやそれが簒奪された聖人の遺体を使ったものであれば尚更……!」

 

 そして、現在の技術であるなら、人柱を用いずとも、人工島の連結に必要な強度の要石を作製できる。それを交換すれば、然るべき措置の下に聖遺物は返却される。

 

 ―――それが、どうしたと殲教師は言い放つ。

 

 そんなのは第三者の立場だから言える戯言だと。己の肉親が人々に踏みつけにされて苦しんでいるときも同じことを言えるのかと。

 

 それは、肉親の顔さえ覚えていない雪菜にとっては動揺せざるを得ない殺し文句であり、それを知る古城は激昂しかけるも、当人に抑えられる。

 大丈夫です、と強気に微笑んで見せて。

 

「そう、この絃神島という背約の地自体が、誰かの犠牲無くしては成り立たない、守る価値などない、滅すべき対象なのです」

 

「弱肉強食。この世界で誰も犠牲にしない人間はいないぞ」

 

 そのオイスタッハの主張にクロウは言う。

 人間と魔族の『混血』、無垢な中庸は、『墓守』としての亡き者たちの想念こそ大事にするも、その亡骸に関しては当たり前のように割り切る。

 弱肉強食。それは一方的に虐げる関係性を言うのではなくて、そのまま、肉を食うことを

意味する。生命を維持するために、生命を消費する連鎖はどこでも続いている。そこに悲嘆や同情が介入する余地はない。

 墓所を暴かれたことに憤慨は覚えても、その骸の扱われ方は、己が悟る世の理に沿っているものだと。

 クロウは、巨人――アスタルテを指しながら、

 

「お前だって、“アイツ”の命を使ってるだろ」

 

「何を言いますか。“これ”は『道具』です」

 

「欠陥製品のオレが言ってやる。“アイツ”も姫柊も生きてる。『道具』には失格だぞ。

 そして、オレには、死んでいる者より、生きている者の方が大事なのだ。古城君やみんな、56万の住人、“アイツ”の方が、そこのセイイブツよりも守りたいものだ」

 

 ―――相容れない、と。

 

 主張は平行線をたどるだろう。けして交わることはない。とっくの昔にクロウの心中の切り替えは終わっている。

 雪菜の言うよう、大人しく返還されるのを待つならそれでいいと思った。だが、それと同じだけ、オイスタッハが却下するならば終わらせてしまっても構わないとも考えていた。

 まさか、偉大なる先達者の『聖遺物(聖人)』が、『道具(アスタルテ)』よりも優先順位が下だと言われるとは、決定的な亀裂が生じても無理はない。

 ふん、とオイスタッハは荒々しく息を吐く。

 

「もはや言葉は無益のようです」

 

 人工生命体に眷獣で敵を排除するよう命令を下す。

 沈黙を守っていたアスタルテは、かすかな悲しみをたたえた声で応じると、虹色の眷獣の輝きが増す。撒き散らされる魔力の量が増大し、最後の交渉を戦場へと塗り替える。

 

「結局こうなるのかよ……」

 

 一度瞑目しながら嘆息した古城が、獰猛に歪めた唇の隙間から見えた。その犬歯だったそれは、血を吸うに適した肌に刺さる牙となっていた。そして、開かれた瞳は真紅に染まっている。

 

「……けど、忘れてねぇか、オッサン。俺はアンタに胴体をぶった斬られた借りがあるんだぜ」

 

 ―――絃神島の設計者への復讐より、まずは、その決着からつけようか。

 

 古城の全身を稲妻が包み、その周囲の、何かが軋み、空間が歪む。

 それは暁古城が、己が意思で解放した吸血鬼としての発露。宿主の意志に呼応して、血の中に住まう眷獣も雷鳴の唸りを上げて覚醒の準備を始めている。

 

「貴様……その能力は……」

 

 ゆっくりと雷光を集約させる右腕を掲げるその姿は、もはやヒトガタの災厄に等しい。魔族を圧倒する攻魔師の上位たる祓魔師の戦士さえも、その圧におされて後ずさる。

 

「さあ、始めようか、オッサン―――ここから先は、第四真祖(オレ)戦争(ケンカ)だ」

 

 相手がここを戦場とするのなら、世界最強の吸血鬼はそこに戦争を呼ぶ。

 そこへ、その隣を寄り添うように銀の槍を構える少女と、その向かい側で口角を上げる銀の人狼と化した少年の、二人の後輩が参戦する。

 

「いいえ、先輩。“わたしたちの聖戦(ケンカ)”、です―――!」

 

 悪戯っぽく微笑みながら雪菜がそういえば、クロウも、

 

「オレだって、弾丸を撃たれた恨みがあるのだ。参加する資格はあるぞ」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 先の先を、選んだ。

 

 アスタルテの眷獣は、人型ではあるが、生物ではない。その実態は濃密な魔力を練り上げられて造られている。

 その拳は最大級の威力を持つ呪砲に等しく、その蹴りは儀式魔術が引き起こす爆発を凌駕する。特区警備隊を文字通り一蹴した圧倒的な力。

 だが、どれほど力があろうと何かする前に仕留められれば、どんな相手でも変わらない―――実現可能ならばと但し書きがつくが、先手必勝は基本にして効果的な、最善な策でもある。

 

 影が入り乱れた。

 

 銀人狼の爪が走り、剣巫の槍が唸った。

 申し合わせたわけでもないのに、乱れひとつない連携だった。たとえ巨人が相手であろうと、瞬きひとつの間に、身体など解体し尽くすかと思われた。その指先に至るまで、如何なる部位もその嵐からは免れまいと見えた。

 それは、防護を破れれば、だが。

 

 『神格振動波駆動術式』を発動させている<雪霞狼>は、その魔力無力化を相殺されては鋭い槍と変わらず、生体障壁で強化された人狼の爪は分厚い装甲のような身体を裂くことはできても断つことができない。

 そして、刻まれた損傷は一瞬で再生する。

 

 雪菜の体術と槍技、クロウの脚力と爪牙、それら合わせた連携で、一方的に攻められてるも、アスタルテの眷獣を破れる決定打がなく、完全な膠着状態に陥っている。

 

 

 

「おおおおッ―――!」

 

 一方、2人の後輩と人工生命体の眷獣が、膠着状態になっている時に、古城は青白い稲妻を撒き散らしながら、オイスタッハに攻め立てる。

 膨大な魔力量しか取り柄のない古城に、魔力を反射する眷獣は相性が悪い。だから、彼らが問題の眷獣を相手している間に、早急に主人たるオイスタッハを倒して、戦いを終わらせる。

 命令を出しているオイスタッハさえ倒せば、アスタルテは止まる。彼女本人は、絃神島の住人達を傷つけることを望んでいないことが、古城たちが交わした短い会話と瀕死のクロウの介抱で、確信している。

 だが、

 

「ぬぅん!」

 

 オイスタッハは、左手一本で戦斧を自在に振るっては、古城の攻撃を捌いて、一撃を返す。速く、重いこの攻撃はまともに喰らえば、吸血種だろうと致命傷を与えるものだとは研究所で実証済みだ。―――ただ、その勢いは昼間の時よりも遅く、古城にも見切られる。

 

「たしかに凄まじい魔力ですが、そのような無様な攻撃で私に触れることはできませんよ。浅はかな素人同然の動きですね、第四真租!」

 

「同然じゃなくて、本当に素人なんだが―――そういうオッサンも動き悪いぜ、バテてきたのか」

 

 元バスケ部だった古城は、相手ディフェンスの厳しいマークの裏をかいた、緩急と重心を工夫するフットワークで翻弄しながら、紫電纏う魔力を練り上げたバスケットボールサイズの雷球を鋭いパスのような感覚で投げつける。

 その動かない右腕側から―――

 

「ヘイなのだ、古城君」

 

「ったく、こっちは元気の良い後輩だ」

 

 それは一瞬のポジショニングチェンジで、ゴール前でノーマークとなった選手を見つけたような。

 エースであった古城にアシストする経験は少なかったが、そのアリウープのパスを出すような放物線を描く軌道で雷球を放り、空中のクロウがダンクするように叩きつける。

 昨夜の『旧き世代』の眷獣で見せた、生体障壁の応用。残滓ではないので模倣はできないが、その一端の欠片のベクトルを変えることくらいはできた。

 

「死力を尽くすべき敵だというのは、わかり切ったこと! ―――<要塞の衣>よ! 再度、その後光を灯せ!」

 

 外骨格のように動かない右腕を、装甲鎧が無理矢理に動かして、黄金の光を迸らせる裏拳で、即興のコンビプレイで奇襲を仕掛けた雷球を弾く。

 さらに、留まることなく、閃光に視界を奪われた古城に祓魔の呪を込めた半月斧を横薙ぎに―――それを古城は、殆ど勘だけでしゃがみ込んで回避。切り裂かれた頬から鮮血が散る。

 巨人をひとり足止めしていた雪菜は一端小休止を挟むよう、古城とクロウの傍まで後退し、その具合をみてわずかに表情を強張らせる。

 

「先輩はともかく。大丈夫、ではなさそうですね。これ以上、動くのは無茶です」

 

「う~」

 

 獣人種の生命力はあろうと、吸血種の再生力はない。

 致命傷を与えてもケロッと復活した先輩とは違うのだ。

 一度は塞いだ傷も、戦況が過熱するほど開いていく。その腹部からぽとりぽとりと血の滴が足元に落ちている。またその脚の傷も動けば動くほど悪化する。

 先までは二人で保っていた均衡だが、こうして動きを観察でき、今なら雪菜一人でも眷獣の相手ができるだろう。ならば、足手まといになる前に下がるべきで―――古城もクロウが長持ちしないことはわかっているが、それで大人しくする質ではないことも重々承知している。

 

「こっちもあんまり時間かけられないんでな。遠慮なく切り札を使わせてもらうぜ。 死ぬなよ、オッサン!」

 

「ぬ……!?」

 

 暁古城のオイスタッハへ突き出した右腕から鮮血が噴き出し、直ちにそれが雷光へと変化する。

 

「<焔光の夜伯(カレイドブラッド)>の血脈を継ぎし者、暁古城が、汝の枷を解き放つ―――!」

 

 叫びと共に、古城が念じる。

 ごぉっ、と雷光と化す血液が部屋の天井近くの宙空に集う。

 異常なまでの密度と、尽きることのない無限の奔流。カタチが成りつつある段階でさえ、魔力的な質量において、半透明に虹色に輝く巨人さえも凌駕して、この空間を侵食していく。

 

 

疾く在れ(きやがれ)、五番目の眷獣<獅子の黄金(レグルス・アウルム)>―――!」

 

 

 顕現し、君臨する、雷光の獅子。しかし、災厄として無秩序に荒れ狂うことなく、眷属として主の傍に侍る。

 

 それが獅子王機関の剣巫たる姫柊雪菜の血を吸うことで御し得た暁古城の眷獣。<第四真祖>の血に宿る十二体すべてを主と認めさせることはできなくても、この雷の眷獣は従えた。

 思えば、雪菜と出会った時からその予感はあったかもしれない。なにせ、この雷の獅子はここ数日間異様なまでに活性化して、倉庫街では雪菜を守るために自ら暴走さえしたのだ。きっとこいつは、姫柊雪菜に懐いて、彼女の血の匂いに惹きつけられたのだ―――

 

「これが第四真祖(あなた)の眷獣か……! これほどの力をこの密閉された空間で使うとは、無謀な!」

 

 まさに、迅雷だった。

 黄金の雷にも似て、獅子の身体はジグザグに爪牙を振るう。

 強化しようにも人間のオイスタッハは、もはやその攻撃を避けきれない。<要塞の衣>によって凌がんとするも、それでも一蹴。

 稲妻を走らす獰猛なる爪が、半月斧を溶かして消し飛ばし。

 胸部の鋼鎧が牙に穿たれ、肺を軋ませ、その巨漢が向こうの壁に磔にさせるよう撥ね飛ばされた。

 そして、余波だけでキーストーンゲートを震撼させる。撒き散らされる大電流が、ゲートの外壁を伝って周囲に拡散。設置されていた非常灯や監視カメラに、ワイヤーケーブルを固定する巻き上げ機(ウィンチ)がすべてショート。たった一撃でこれだ。

 

「アスタルテ!」

 

 それでもオイスタッハは、血痰を飛ばしながら従者に命令する。

 自然災害にも匹敵する暴威を振るう第四真祖の眷獣に及ばずとも、所詮は魔力の塊であり、<薔薇の指先>との相性は覆しようのない。

 雪菜の攻撃を強引に振り切り、アスタルテの巨人は古城へ迫る。

 主の意志を半ば無視して、<獅子の黄金>が反撃せんと、その雷霆と化した巨大な前足で、半透明の巨人を殴打する。

 しかし、牽制にしかなりえなかった。

 その瞬間、巨人が放つ虹色の光が輝き出しては、<獅子の黄金>の攻撃を受け止め、反射した―――!

 

「うおおっ!?」

「きゃあああああっ!」

「ぐるるるっ!」

 

 制御を失った魔力の雷は暴発し、飛散しては天井壁床と至る所を跳ね回る。分厚い最下層の天井にさえも穴をあけたところで、ようやく被害は止まった。

 

「くそっ……ダメか! 俺の眷獣でも、あいつの結界は破れないってのかよ……!」

 

 相性の有利は、世界最強の吸血鬼を以てしても覆せないものか。

 <獅子の黄金>の一撃を喰らっても、<薔薇の指先>は無事。幾度攻撃を繰り返そうにも、結果は同じだろう。

 そして、あまりに雷撃を連発すれば、建物が耐えられない。ここは海底。キーストーンゲートの外壁が破られたなら、水深220mの水圧が一気に押し寄せてきて、雪菜は間違えなく即死。古城とクロウもどうなるかわからない。

 

(まずい。 あいつは、倒せないかもしれない……!)

 

 不甲斐なさに自らに怒りを覚える。

 瓦礫に埋もれかける古城、その雪菜に支えられて立とうとする彼の前に、

 

「じゃあ、次はオレの番だ」

 

 もう一人の後輩が、巨人と相対する。

 その胴体に埋め込まれているアスタルテと、真っ向から視線を合わせる。

 

「アイツには、借りがある。オレが、止めてやる」

 

「ですが―――」

 

 その無謀さに、雪菜は制止させようとするも、古城がそれを留める。

 

「できるのか」

 

「できる」

 

 簡潔に言葉を交わす。

 この後輩が、できることとできないことははっきりという。そして、その勘は十中八九当たる。

 

「おやおや、手負いの獣風情が、眷獣を相手にするとは随分と大口をたたきましたねぇ」

 

 第四真祖を退けた余裕か、殲教師が親しげな口調で呼びかける。

 虫が自ら火に入った、と状況を見ているのだろう。

 味方であるはずの剣巫でさえも訝しんでいるのだ。オイスタッハがそれを自殺願望者と見るのは当然だ。

 それに応えず、一定の距離を置いて<薔薇の指先>――アスタルテと対峙すると、クロウは痛ましげに顔を曇らせた。

 言葉を選ぶ短い逡巡の末、口にしたのは、

 

「……死にたいなら、止めはしない。だが、生きたいなら止めろ。自分の意思で決めてくれ。お前は縛られているわけじゃない。無理に従う義務はないぞ」

 

 気遣うような叱咤するような、不器用な呼びかけだった。

 完全な無視に、殲教師から笑みが消えた。生与奪権が人工生命体ではなく、こちらにあることも気にならないのか。いいや、知らないのだこの若造は。

 そして、アスタルテは淡々と、

 

「命令に反することはできません」

 

研究所(あそこ)にいた人工生命体たち(おまえのなかま)は、実験に成功したことより、生き残ってくれたことを喜んでいたぞ」

 

 応えず。

 人工生命体の少女は、眷獣を引っ込める気配はない。

 

 人工生命体(ホムンクルス)には聖域条約によって、準魔族としての権利が与えられている。だが、軍事目的の生体改造は、国際的な非難を免れない重大な条約違反だ。

 それが暴露されれば、廃棄処分されることになり、ここで矛を収めようがどの道、彼女が助ける術はない。

 だから、最初から古城たちに島から避難するように忠告しても、自身が救われることは望まなかった。

 

 そんな事情を感じ取ったかどうかは知らないが、南宮クロウは呆気らかんと、

 

「……そっか。わかった。オレ、アイツ倒す。古城君、姫柊、止めは代わりにやってくれ。加減が苦手なんだ」

 

 苦手な食べ物を告白するよう、そんな態度についにオイスタッハの苛立ちが限界を超えてしまった。

 

 

「それから、あまり、見ないでくれ」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「っ―――!」

 

 古城と雪菜は息を呑んだ。

 

 頬に走る傷。

 

 その枷のような首輪の下には、痣があった。

 

 黒く、細い、まるで女性の指に酷く絞められたような痕。

 

 強烈な怨念の篭ったそれは、長い年月も癒えない呪詛だ。

 そう、これは、創造主(おや)を裏切った証たる傷痕。

 それを先の頬にあった切傷が首筋から肩口まで伸びており、まるで首輪のような痣を切ったような形である。

 

「―――契約印ヲ解放スル」

 

 それを隠していた『首輪』に手をかけると同時に、心の中にある厳重な封を解く。

 『神格振動波』によりかけられた魔術はすでに壊されているも、やっぱり主人の警告が脳裏をよぎった。

 ごめんなのだご主人。でも今は、ここは逃げちゃいけない場面なんだ。

 かつては道具であったオレにできることをあの子に見せてあげたい

 

 ごおっ! と風が吹く。

 

 決意の表れがその中心に渦を巻く。室内に巡る獣気は大気を焼く風となり、周囲の壁や床

にひっかき傷のような風紋を刻んでいく。

 

 人間だった時間は終わる。

 

 人型であった獣化形態から、さらにクロウの姿が変化していく。

 泥でもこねるように、水でも吸ったかのように、銀人狼の身体は膨張する。周囲に散乱する第四真祖の魔力の残滓もその体に取り込んでいるのか、じゅるじゅるとその体に取り込まれていった。

 コンマ数秒の出来事だ。

 昇華中の、過敏なほど強化されていく感覚には、世界がスローモーションのように感じる。

 殲教師の驚く姿を、クロウははっきりと見た。

 

「それは、まさか―――」

 

 その間も、巨大な牙がさらに盛り上がる。

 両手両足からは鋼も切り裂く爪が伸びていく。

 その肌も鱗のように硬質化し、毛並みも悪魔の牙めいて刺々しい。

 張り詰めていた筋肉は通常の獣の数倍に達し、まさに伝説上の魔獣に比すべき偉容を獲得していた。

 そして、盛り上がっていった身体は、やがて金色に染まる

 

 第四真祖の眷獣と同じ―――主が契約する守護者と同じ黄金に。

 

 現実にこんな獣は存在しない。

 体格4m以上の金の狼など存在するはずもない。だが、これは、魔術による幻影でも錯覚でもない。現実に起こりえていること。

 

「<神獣化>!? まさか、そんな―――!?」

 

 攻魔師として知識では聞いていたが、実際に目の当たりするのは初めてのことに雪菜は驚く。

 

 人型から完全なる獣の形と変生(へんじょう)する、<神獣化>。

 

 獣人種族の中でも、一握りの上位種だけが持つという特殊能力。

 寿命すら縮める凄まじいほどの消耗と引き換えに、上位種の獣人たちは、自らの肉体を神獣へと変える。鳳凰や龍にも匹敵する神話級への存在へと格を上げて、その戦闘力は、吸血鬼の眷獣をも凌ぐとすら言われている―――

 

「オ前ヲ、止メル。力尽クデモナ」

 

 左腕を持ち上げると、その左腕に頬から首筋を裂いて胸元の心蔵に至る傷痕から溢れる黄金の生命力が集積し、昨夜と同じ生体障壁の応用から手甲というカタチとなる。魔女の契約印――その<守護者>たる黄金の悪魔の騎士鎧の一部の貸与。ただし、それは殲教師の<要塞の衣>のように装備者の力を強化するためのものではなく、縛るためのもの。自身では制御しきれない力を抑え込み、律するための補助具。

 

「往クゾ―――」

 

 巨体でありながら、金の毛並みは残像遥かに、それは、暴風にしか見えない程の速度だった。

 だが対峙していた<薔薇の指先>は真っ向からくるそれと合わせることはできた。

 グリズリーの張り手のように振るわれるそれに、最大威力の呪砲に等しい拳をカウンターで繰り出した。

 

 

 加減が難しい、というが、そのリミッターを全開に外した本気の一撃はどれほどのものなのか。

 古城は後輩の言葉が戯言ではないと知ることになる。

 

 

 激突する熊手と拳骨。

 

 

 破壊音。

 というより、それはもはや爆発音だ。

 衝撃に思わず閉じた目を開いてみれば―――<薔薇の指先>が振るった左腕“があったところ”には、ごっそりと――喰われたように――弾け飛ばされたような傷口。あたかもその肩口が爆発したとしか思えないくらい千切れとんだ。

 魔女の術や武技の理だとか―――そのような、人間の理論など一切合財何の判断材料にもならない。

 これぞ、力任せ。

 とても、『二の打ち要らず』――<仙姑>と謳われる師が放つ、体内の生命力を練り上げて、強大な衝撃へと変換する内功の奥義とは比べ物にならないほど雑。それと同等の威力を生み出すために、その3倍量のエネルギーを燃やしている無駄遣い。

 だが、攻撃法が原始的であるだけに、それを防ぐことはできず、難しい。

 眷獣を物理的に倒すなどばかげた話だが、これは防御なんてまるで意味がない。全くの的外れ。盾で受ければその盾を持った腕ごと吹き飛び、鎧で身を護っても構わず吹き飛ぶ。

 純粋な力が成せる、究極とも言える物理的な破壊。

 

「洒落にならねぇぞ、那月ちゃん」

 

 <神獣化>にしても今のところ手の届く近接でしか戦えないため、最強でも、無敵でもない。だけど、眷獣だろうと魔力の塊だろうと物理的に粉砕する。実に魔族よりも怪獣らしい傑物だ。

 相手するなら真祖の眷獣を連れて来いと担任は言っていたが、これは一体じゃ釣り合わない。

 『物理的なダメージが通用しない』<空隙の魔女>であるからこそ、退治し得たのだ

 

 それは、非常識的にありえざる防御力を備えた<薔薇の指先>にとってみれば天敵のような、非常識的にありえざる攻撃力。

 

 <薔薇の指先>の特質は、他の魔族の能力を喰らって自らの糧とすることと、そして、魔力の無効化だ。

 神格振動波で護られている以上、魔術攻撃に対して強い耐性を持ち、第四真祖の強大な魔力でさえ打ち破れずに跳ね返される。

 だがそれは、魔術を使わない攻撃に対しては、身体強度は変わらない。

 

 

 そして、二撃目。

 

 

「アスタルテ……ッ!?」

 

 半透明の巨人の左腕は、まだ再生できていない。

 殲教師はこの状況を黙って見過ごせるほど理解できていないわけではない。これを見逃してしまえば、終わってしまう。要石から聖遺物を解放するというオイスタッハの野望が潰えてしまう。

 <薔薇の指先>の強さは相性の強さだ。それを突破し得る例外があると留意しなかったのか。その手の届かない遠距離からの攻撃を仕掛けてさせたいところだが、<薔薇の指先>も同じく近接戦闘しかできない。

 焦るオイスタッハは身を投げてでも、この快進撃を阻もうとする。

 だが、この場にいる脅威は、ひとつではない。

 

「―――お前の相手は俺だ、オッサンっ!」

 

 <獅子の黄金>の一撃で、武器の半月斧も防具の<要塞の衣>も破壊されている。半透明の巨人が盾と動けず、飛び掛かってくる雷の獅子に注意を向け、同時に迫っていた古城をオイスタッハは見逃す。そして、鎧の補助なしでは、右腕は動かせない。

 殲教師が気づいた時には、その右の頬っ面を古城はぶん殴っていた。

 魔力も術も何もない、真祖の能力などとは無関係な、後輩と同じ力任せの強引な一発。

 屈強なオイスタッハの身体が吹き飛び、何度かバウンドして、ついに倒れる。

 

 

 同刻。

 

 

 クロウが弓なりに両腕を大きく振りかぶって、体勢を崩して動けない<薔薇の指先>に飛び込み、

 そして、その両腕を―――

 

「コレデ、終ワリダッ!!」

 

 ―――振り下ろした。

 

 胴体の両側に2度、雷霆が落とされた。そんな、イメージだ。

 それがV字を描くように、両腕から、さらにその両脚まで振り切られた。

 再生しきってない左腕は無論、残る右腕も、肘の部分に食いつか(殴ら)れ、虹色の皮膚が弾け、魔力の塊たる腕が飛び散り、つまるところは爆散し、ばかりか、太腿にまで食い込んで、同じく―――クロウの熊手に触れられた部分は影も形も残らなかった。

 本体のある胴体を残し、手も足も出なくなった。

 強引な決着のつけ方であったが、今のクロウにはこれが限界。

 <神獣化>した獣人種が発現する尋常ではない身体能力は、混血の半分である人間の血により独力で完全な制御がきかず半ば暴走し、結果としてそれは比類なき剛力となってはいるが、上手く誘導できなければ当てることも難しいのだ。

 

 だから、止めは任せた。

 

「この聖戦(たたかい)、私たちの勝ちです」

 

 颯爽と、剣巫がこの絶好の機会を逃すまいと走り出す。

 

「―――獅子の神子たる高神の剣巫が願い奉る」

 

 神に勝利を祈願する剣士のように、あるいは勝利の予言を捧げる巫女のように。

 

「破魔の曙光、雪霞の神狼、鋼の神威をもちて我に悪神百鬼を討たせ給え!」

 

 粛々とした祝詞を重ねていくごとに、その銀槍の輝きは増す。

 両者とも刻印されているのは同じ『神格振動波駆動術式』であるも、<薔薇の指先>は今や形を保つことすら難しい風前の灯で、対して、<雪霞狼>は、術者にとってその力を一点に集中し、より切れ味を上げている。

 

「<雪霞狼>!」

 

 銀色の槍が、靄のような防護結界を突き破り、人型の眷獣から宿主たるアスタルテを切り離した。

 眷獣の鎧を外しただけに留まらず、人工生命体の少女の腹部に、そっと雪菜は掌を押し当てる。

 

「響よ―――!」

 

 鎧さえ貫通して人体内部にダメージを伝える、剣巫の掌打。

 それを加減して放って、アスタルテの意識だけを刈り取った。

 

 自らも打ちのめされながら道具の最後を見て、オイスタッハはゆっくりと要石――聖遺物へと手を伸ばす。

 目視できるところまで踏み込めたのは、奇襲だからこそだ。

 次からはもう警戒される。こんな好機、もう二度とはあるまい。

 敗因は一点、神格振動波を持った眷獣の力を絶対視しすぎていたことだ。

 世界最強を跳ね除ける例外があったならば、こちらにも打倒できる例外も存在すると留意しなかったのか。

 

「……復活さえ、望まなければ―――」

 

 力無く、届くことなくその手は落ちた。

 

 

彩海学園

 

 

 彩海学園高等部の職員室棟校舎―――

 足音を吸い込んでしまうくらい分厚いじゅうたんと、陽の光に透けてステンドグラスのように煌めいて見える天鵞絨のカーテン。それに年代物のアンティークの調度品がいくつか揃えられており、天蓋付きのベッドまである。

 学園長室よりも品格だけでなく位置的にも上な最上階に位置するその部屋は、国家攻魔官としての資格を有する一教師の執務室だ。

 そんな主が王座の如きアンティークチェアに深々と腰を下ろしている足元で、クロウは粛々と正座。

 怒られる怒られないの次元ではない。数日ぶりにそこへ呼び出されたクロウを待っていたのは、予想通りの方向性でかつ予想以上の破壊力を見せつける、飼い主南宮那月様の怒涛の説教フルコースだった。時に扇子を振るっては鐘の如く空っぽな頭に空間衝撃を叩き込みつつ、

 くどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくど……と時間にして30分、ほぼ授業の一コマを消費する罵詈雑言、途中こっくりと眠そうになればわざわざ叩き起こしてくれるのでじーっと聞き続けるしかない。

 流石に長いと自覚したのか、紅茶で渇いた喉を潤しつつ、ようやく休まる。

 

「……しかし、言いつけを守らず、戦闘して殲教師の手に落ちたかと思えば」

 

「『旧き世代』とは―――あぐっ!」

 

「携帯だけでなく、『首輪』も壊しただけで飽き足らず」

 

「『首輪』は壊された―――あぎっ!」

 

「主の許可なくして、<神獣化>を使ったか」

 

「………―――あがっ!? なんも言ってないぞご主人」

 

「まあ、今回は状況を加味して、暴走させずに済んだのならそれでいい。悪いと思ってるそうだしな。許そう」

 

「じゃあ、なんで叩いたのだ……うぐぐ」

 

「で、件の転校生からは何と」

 

「あう。姫柊は―――」

 

 『私は第四真祖(センパイ)の監視役ですから』と雪菜は<黒死皇>のことや<神獣化>のことなどは獅子王機関に報告しないそうだ。

 

「良かったな。その報告次第じゃ、“ハウス”だったぞ」

 

「うむ。姫柊に感謝なのだ」

 

「何が感謝だ。商売敵に余計な借りを作りおって。それで新入りの面倒が見れるのか」

 

 新入りとは、アスタルテ。

 あの後、雪菜の協力の下、古城による“救命措置”をした結果、『血の従者』となった彼女は、眷獣に食い尽くされかけていた生命力を第四真祖に加担してもらえることとなり、一命を取り留めることができた。

 しかし、テロリストの殲教師とキーストーンゲート襲撃に加担したとして眷獣を宿す人工生命体の少女は、3年間の保護観察処分となった。

 その身元引受人となったのが、国家攻魔官であり、教育者の南宮那月である。

 

「ちょうどメイドがひとり欲しかったからな」

 

「最初は、しっかり上下関係を教えてやるのだ」

 

「安心しろ。そこの執事にはまるで向かない馬鹿犬よりはできそうな奴だ」

 

 パチン、と扇子を閉じると、クロウの前に、何かが虚空から落ちてきた。

 

「ほれ、土産だ」

 

 それは、(ニシン)の絵柄が書かれてる缶詰。きょとんとクロウは首を傾げつつ、手袋を外して、早速その縁に爪を立てた指を添わせる。

 

「土産? ご主人、外に出張し()ていたのか?」

 

 ついっと缶切りも使わず開封(オープン)

 

「……馬鹿犬は叩いて躾けても効かないようだからな。躾のやり方を変えてみることにした。いいか。これを誰もいないところで―――おい! ここで開けるんじゃない!」

 

 これより数日、南宮那月は執務室の拠点を生徒指導室へ移すことになり、缶詰から解き放たれた臭いをもろに受けたクロウは、あまりに刺激の強さに昏倒。

 銀弾よりも死にかけた、と後に彼は述懐する。

 

 

廊下

 

 

「う~、シャワーに入っても全然臭いが取れないのだ」

 

 帽子にコートに手袋、首巻と制服までクリーニングに出して、おニューの首輪はつけているも運動着で珍しく肌を露出している格好。濡れた髪をスポーツタオルでごしごし拭きながら、運動部等が利用するシャワー室から出たクロウは、くん、と鼻を鳴らした。

 不機嫌さを地面に叩き込んでいるのか、その足音は強くて、廊下の角から長い髪を結い上げた、活発そうな雰囲気の少女が現る。

 

「もう古城君ったらホント信じらんない。雪菜ちゃんに―――あ、クロウ君」

 

「凪沙ちゃん、こんにちはなのだ」

 

 なにやら怒りの頂点に達していた暁凪沙だが、級友の顔を見てとりあえず沸点から平常運転まで温度を下げた。

 

「あれ? どうしたの? シャワー使ってたみたいだけど」

「ご主人から、しゅーるすとれみんぐ、とか言う缶詰の土産をもらったのだ」

「え、それって、西欧で作られる、世界で一番くっさーい缶詰でしょ」

「おかげで死にかけたぞ」

「うわー、すっごい悪臭がするってホントなんだ。開けるときはいろいろと注意事項があるって聞いたことあるけど、けど、食べると結構おいしいって評判らしいよ」

「うむ。味はうまかった。でも、臭いが最悪。オレは、もう遠慮する」

「でさ。さっき古城君に会ったんだけど………」

 

 と早口で、妹のクラスメイトに手を出した淫魔への愚痴を聞かされる。

 それにクロウは、ああ、吸血行為(あのこと)か、と納得。しかし、先輩が吸血鬼(まぞく)というのはこの少女には絶対の秘密だと口止めされており、クラスメイトの転入生もそちら方面の関係者やら監視役やらは内密にと頼まれている。

 とはいえ、先輩には日ごろ何かと面倒を見てもらっている恩義があり、転入生には借りがある。ので、関連用語は除くよう単語を選んで二人の弁護をする。

 

「あれは、救命行為だったのだ凪沙ちゃん」

 

 詳しくは説明できないが、古城が血を吸ったのは、姫柊雪菜とアスタルテ。このうち前者は吸血鬼としての切り札と再生で失った魔力を回復させるためであるも、後者に関しては『血の従者』にして眷獣に食われた生命を補填するための延命措置だった。

 

「え、救命行為? よくわかんないけど、それより知ってるの? 古城君から聞いたのかな? でも、雪菜ちゃんの体調を気遣ったりはしてるけど初めてを奪って痛い思いをさせたんでしょ?」

「違うのだ」

 

 きっぱりとクロウは否定する。

 

「違うって何がかな?」

「確か、姫柊の方から古城君に話を持ち掛けたのだ。古城君は最初はやめた方がいいって断っていたんだぞ。だから、初めてを奪われたのは古城君の方なのだ」

「―――、っ、え、雪菜ちゃんってそんなに大胆な子だったの!? でも、浅葱ちゃんには悪いけど古城君に興味を持ってくれるのは良いような……」

「二回目は姫柊が当て馬にされたーって、古城君をブッ刺そうとしたのだ」

「ねぇ、クロウ君、それってどういうことなの!? 二回目って、え、修羅場になっちゃったの!? 古城君、牙城君みたいになっちゃったの!?」

「でも、最終的にはお互い納得したから問題ないのだ」

「問題だらけだよクロウ君っ!」

 

 兄の女性関係を問い質そうと、気炎を上げる凪沙であるも、くぅ~、とそこでクロウのお腹が鳴る。

 缶詰の処分と部屋の換気及び消臭をすぐさま空間転移で緊急脱出した主に叩き起こされてから言いつけられて、クロウはこれまで危険地帯で清掃活動に勤しんでおり、昼食は取ってない。

 

「あ、ごめんね。お昼まだだったんだね。なのにお話に付き合わせちゃって」

 

「構わないのだ。それより……」

 

 くんくん、と調子を確かめるよう鼻を鳴らす。

 

「アミノカルボニル反応で生成されたピラジン化合物の匂い。それに小麦グルテンとバターとオリーブ油……凪沙ちゃんはお昼に揚げパンを食べたんだな」

 

「わっ、正解! そうだよ、さっき購買部で買ったんだけど、おばちゃんから揚げたてのをもらったんだ」

 

「おいしそうな匂いなのだ。オレも買いに行くぞ!」

 

「あー、でも、売れ切れちゃってるかも。すっごい人気だったから」

 

「そうなのか……」

 

 しょぼーん、と落ち込むクロウ。耳が垂れてるイメージが見える。そこへ凪沙が鞄をごそごそと漁り、

 

「じゃあ、これお詫びにあげる。部活の後に食べようと思って揚げパンじゃないけど菓子パンをいくつか買ったから」

 

「え、いいのか!」

 

「いいよいいよ。お話に付き合わせちゃったし、それと正解したご褒美かな」

 

「わーい、うまうま」

 

 垂れた耳がピーンと立てたようなイメージが見えて、凪沙は苦笑してしまう。

 

「……でも、クロウ君の鼻ってやっぱりすごいんだね」

 

「うむ。すごいのだ。ご主人からもお前の頭はとにかく鼻は使えると太鼓判を押してもらってる」

 

「それで、クロウ君、この街を守ってるんだ……けど、それって無理してるんじゃないの? 始業式を欠席したのだって、そうなんでしょ」

 

「むぅ、皆勤賞を逃してしまったのだ」

 

「凪沙は心配したんだよ」

 

 ―――と数回、クロウは瞬きする。まるで耳慣れない単語を聞かされたように。耳に入って脳で理解するにしばらくの時間を要してしまう。その間にも少女は俯いた陰に隠れる唇を、小さく震わせて捲し立てる。

 

「やっぱり、おかしいよ。クロウ君は無理してまで頑張ってるけど、そんなにする必要なんてない。だって、クロウ君は学生で、攻魔師でもなんでもないのに、守る義務なんてないんだよ」

 

 ごくりと頬張っていた菓子パンを呑みこんでから、遅れて理解した少年は、少女の言葉を反復するよう深く噛み締めて、

 

「優しいんだな、凪沙ちゃんは」

 

 などと、幸せそうにいって、クロウは、くん、と鼻を鳴らす。

 そして、自信を以て堂々と、

 

「オレが守りたいと思ったから、守る。あんまり難しいことは考えてないのだ」

 

 その言葉に凪沙は小さく睫毛を震わせた。彼にとってその行動に、献身や自己犠牲などといった代物は欠片もないのだ。道具として生まれながら自我を持ってしまい、最終的には

エゴを優先してしまうようになった、それが欠陥製品の在り方だ。もしその理由を挙げるのだとすれば、その第一はきっと自分が生き残るためだろう。だから、彼女のそれは見当違いで―――

 

「クロウ君、ハイタッチ!」

 

 ばっ、と両手を上げる凪沙。釣られてクロウはそれに合わせてしまう。

 

 

 どん、という衝撃が胸元に生まれた。

 

 

 

 ハイタッチ―――と見せかけて、クロウが手を挙げ万歳したところを、鳩尾に頭突きするように抱き着いたのだ。

 

「ありがとう」

 

 クロウがどう返していいかわからずのところで、言われた。

 また、盲点を突かれたように思考が停止してしまう。

 

「でも、やっぱりクロウ君は感謝はされるべきだよ」

 

 じゃあね、と。

 彼は、久しくそんな言葉をかけてもらったことがなかったのだろう。そのまま反応が返される前に、少女はあっさりと離れて去ってしまった。

 

 

 

「それじゃあ、パトロールがんばるのだ」

 

 魔族と人間の混血は、今日も魔族と人間の入り混じる街を行く。

 

 

 

つづく

 


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