ミックス・ブラッド   作:夜草

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聖者の右腕Ⅱ

人工島西地区 高級マンション

 

 

 人工島西地区(ハイランド・ウエスト)にある8階建のビルは、豪奢なマンションだった。

 王族貴族の持ち物だと言われれば頷きもするだろう。

 そんな周囲の街並みの中でも一際高い建物の、一番天に近い、支配者の座すにふさわしい最上階フロアを丸ごと主人は己の住居としている。端的な事実として、ビルの主人は社会的に明確な地位も、組織の運営もしているわけではないにも拘らず、街全土に手が届き、その異名は世界に畏怖として轟いている。

 

「第四真祖を尾け回していた攻魔師に、痴漢行為を働いたバカな吸血鬼(コウモリ)が眷獣をぶっ放した―――

 来て早々事件を起こすとは面倒な輩だが。なるほど、獅子王機関の剣巫か」

 

 冷ややかに、主人――南宮那月は言った。

 年齢は(自称)26歳であるが、その見た目は十代前半でも通用する。下手をすれば小学低学年と見間違われかねないくらいに若い、というより、幼い見た目。顔の輪郭も体つきもとにかく小柄で、常夏の島であろうと常にゴシックのドレスを着ているため、黙っていれば人形と思われるだろう。

 しかし、彼女はれっきとした魔女であり、攻魔師。そして、彩海学園の英語教師。

 どこかの華族の血を引いているとも言われており、自然仕草のひとつひとつに威厳とカリスマ性が備わっている。

 魔女として魔族に恐れられ、攻魔師として警備隊に頼りにされ、教師として生徒に慕われるなど、いずれも有能。

 

「ご主人、何か機嫌が悪いのか?」

 

 そして、かつて殺し合った相手を使い魔にするという酔狂者でもあった。

 

「様まで付けろと言ってるだろう」

 

 手にしていた黒レースのセンスを一閃。呪文を唱えず、手首を動かすだけで行使した術は、使い魔の額に叩く衝撃をぶつける。それも常人ならば、軽く頭蓋骨が陥没しかねない強さで。無論このような体罰は、二人を除いて、学生に実行したりはしないが。

 

「うぅ~、ご主人、さま」

 

「ふん、まあ、いい」

 

 ビロード張りの豪華な椅子に腰かけながら、手にしていた扇子をぱたりと閉じて―――もう片方の手にあった紅茶のカップを脇に置いて、那月の瞳が自身の前で正座しているクロウを薄く睨みつける。さほど強くはなく、それでも弱くない視線。露骨に眉を寄せて顰めつつも、視線は真っ直ぐに。

 

「機嫌が悪くなるのも当然だろう。我らの商売敵の名前を聞いたのだからな」

 

「そうか。獅子王機関は商売敵なのか。古城君は大丈夫なのか」

 

「ついでに言うと、第四真祖と比べれば犬コロだが、おまえも連中の抹殺リストに入るだろう」

 

 そこまで言って、那月は席から立つと、使い魔(クロウ)の耳を容赦なく引っ張った。

 

「痛い痛いぞ。ご主人!」

 

「当然だ。痛くしないと躾にならんからな。それにこのまま聞かせてやった方が、早速主のありがたいお言葉をド忘れする頭にも覚えがよくなるだろう」

 

 那月は耳を摘まんだまま、冷ややかな声で忠告する。

 

「やつらに理由を作らせるな。たとえ真祖が相手でも、本気で殺しに来るぞ。連中はそのために造られたんだからな」

 

「わかった! わかったぞ!」

 

 その言葉を聞いて、那月はぱっと解放する。再び、椅子に腰掛け、紅茶のカップを口付けてから、

 

「それで、今日はおまえにひとつ仕事を与える」

 

「おう、久々の仕事か。一ヶ月ぶりだぞ」

 

「警察からの依頼だ。標的は『旧き世代』の吸血鬼」

 

 虚空からクロウの手元に一枚の写真と、布きれ。

 

「その『旧き世代』は、表向きは貿易会社の役員だが、密輸組織の幹部の疑いがある。だが警察は取引の実態を掴めていない。なにせ相手は霧となってしまう吸血鬼(コウモリ)だからな。専門家(わたし)が出張ると知ればすぐ洞に引っ込む。小者は小者なりに小賢しくも知恵が回るらしい。だから、それを見つけるのがおまえの仕事だ。

 いいか、戦うな。ある程度時間をかけていいから慎重にやれ。

 現場を押さえるだけでいい。そして、その位置を私に連絡しろ。……この前、藍羽が携帯の扱いを教えたと思うが」

 

「うん。この楽々ワンダフォンの1を押せば、ご主人に繋がるんだろ。ちゃんと覚えてるぞ。……でも、オレが『旧き世代』をやっつけた方が簡単じゃないか」

 

「『旧き世代』を昨日のバカな吸血鬼(コウモリ)と一緒にするな愚か者」

 

「う~」

 

「岬が担当のクラスに預けているが、いったい何を教えている。ここ最近は調子に乗ってつけ上がるばかりではないか。馬鹿犬に馬鹿犬の相手などさせていたら、ますます馬鹿になるのはわかり切っていたのだがな」

 

 『旧き世代』の吸血鬼は、村ひとつを壊滅できるほどの眷獣をその身に有している。

 <雪霞狼>という対魔族の武神具も持たず、気功と拳法といった武術程度で相手できるものではない。

 だが、相手が自分より強いからと言って、それが退く理由とはならない

 なぜならば―――

 

「オレは、ご主人の眷獣なんだろ……!」

 

「―――」

 

 この偉大なる魔女の使い魔なのだから。人間に害する魔族を前にして、尻尾を巻くようなことはできない。そんな真似をすれば、すなわち主の評判を貶めることになるのだから。

 

 その言葉が可笑しかったのか、面を喰らった主は無言で顔を伏せて、肩を震わす。その反応にいくら主と言えど、む、と眉を寄せる。

 そんな不貞腐れる使い魔に、口元を扇子で隠しながら那月は言う。

 

「くっくっくっく―――どこまでも馬鹿犬なのだおまえは。だが、駄々をこねようが『首輪』の解放は許可せんぞ。契約に基づき一部を貸し与えているが、今のお前にアレは実戦で使える段階じゃない。最悪、寿命を削るだろう。私がおまえに期待しているのは、その鼻と脚だ。爪や牙ではない。

 自衛できるに越したことはないがな。近頃は無差別の魔族狩りが出没しているそうだ。くれぐれも気を付けろ。わかったら、返事しろ」

 

「う~」

 

「寛大な主である私は、特別にもう一度だけチャンスをやろう。

 ―――わかったなら、返事を、しろ」

 

「……わかったのだ、ご主人」

 

「様を忘れるなと何度言わせる。

 私の眷獣(イヌ)なら、犬以下の畜生などには成り下がってくれるなよ」

 

 会話が終わると、椅子に坐したまま南宮那月は虚空に消えた。

 

 

人工島南地区 ファーストフード店

 

 

 担任に昨日の件について、暁古城はちくちくとお小言をもらいながら(なんとなく口ぶりから機嫌が良さそうだった)、どうにか補習を終えた帰り。

 その際、中等部に昨日拾った『姫柊雪菜』の財布を届けようとし、その過程でいろいろとあったのだが、偶然通りかかった本人に直接渡すことができた。昨日の件から引き摺っている気まずい空気と誤解を解消しようと、ちょうど空腹な彼女を近場のファーストフード店に誘う。

 そこで獅子王機関が国家の治安のために働いてることやら第四真祖たる自分は戦争やテロと同じ扱いになっていることやら話を聞かされ愕然。監視役が付くのも当然だと納得せざるを得ない。向こうも向こうで、古城が人間から真祖を喰らって第四真祖になったことやその際の記憶がない、思い出そうとすると頭痛がすることに大変驚いていた。それでも、今の古城が人間としての生活を望んでいることと、もともと人間であったのは理解してもらえた。

 結果、こちらは第四真祖としての自覚が足りてないので監視されることを了承し、向こうも危険でない限りは安全を保障することを約束してくれた。特別、この世界最強の吸血鬼の力を用いて夜の王国を築くつもりなんてないし、生活に過度な干渉はしてこないとわかったのだから、相互理解という戦果と僅かばかりの信を勝ち得た実に有意義な話し合いだったと古城は思う。

 

「それで昨日、先輩の妹さんに会って話を聞きました」

 

「ああ……らしいな」

 

 今朝、妹の暁凪沙から、昨日、お兄さんはいるかと尋ねられた初対面の転校生に好きな食べ物から好みのグラビアアイドルに友人関係、そして恥ずかしいエピソードまでつまびらかにされたことを聞いている。妹は、兄に興味を持ってくれる女子が滅多にいないからつい暴露してしまったというが、あれは単純におしゃべり好きなだけである。

 

「先輩は、自分が吸血鬼であることを隠してますよね」

 

「まあ、そうだけど。いや、姫柊。非登録魔族だってのは違反だってのも、そいつが怪しまれるのもわかるんだけど。……ちょっと、訳あってな」

 

 この話は、妹にも深く関わっているものだからできれば話したくない。古城についてだけならばとにかく。どうやらこの監視役も妹と同じクラスで、早速友人になっているようなのだから。

 そんな焦る古城に、雪菜は少し苦笑気味で頷いて、

 

「はい。先輩が妹さんのためを思ってることがわかりました、先輩が吸血鬼だってことは内緒にしておきます。ですから、わたしのことも秘密にしておいてくださいね」

 

 悪戯っぽい笑顔でそう言ってくれた。初めて見せた、年相応の幼い笑顔。いろいろと不安な部分もあるが、姫柊雪菜は話せばわかってくれて、悪い人間ではないようだ。こうして、特務機関の監視員だと言われなければ、普通にかわいい女の子にしか見えない。

 

「あと、周りで先輩のことを吸血鬼だと知っている人はいますか」

 

「担任の那月ちゃんと後輩のクロウだな。ほら、昨日、会った厚着してた奴」

 

「ああ、あの魔族の……」

 

「ちょっと待ってくれ姫柊」

 

 古城は待ったをかける。

 

「クロウは、半分は人間だ」

 

「え?」

 

 雪菜が驚いたように目を瞬く。

 当人自身も知らないし、よく覚えてない。だから、古城が話を聞いたのはその主で、担任の南宮那月からだ。

 

「ある魔女が作ったっつう、獣人と人間の『混血』で……唯一その作品の生存例なんだそうだ」

 

 ライオンと虎を掛け合わせて、ライガーという自然界には存在しえない、神の摂理に逆らい新しい生物を生み出すことを、今の人間の科学力は可能としている。

 それと同じように、その魔女は『混血』という魔族でも人間でもない存在を創り出した。

 

「あいつは、魔族なのに魔族を捕まえる攻魔師の助手なんてやってるつって、魔族から裏切者呼ばわりされてる。かといって、人外な能力を持ってるせいで人間の中でも浮いちまってる。今は学校で爪弾きにされるようなことはないし、友人もちゃんといるけど……」

 

 彩海学園は、人間だけでなく、魔族の子も通っている。この絃神市で魔族など外国人よりもありふれた存在で、魔族だからという理由で特別視されたりはしない。転入してきた美少女の方が、よっぽど注目される。

 

 だが、人間と魔族の『混血』はいない。

 

 クロウが入学した最初の一年目、一際注目されていた彼は、ひとつの事件を起こしてしまった。

 “ある女子生徒”に、公衆の面前で、酷く怯えられてしまったのだ。

 古城はそれをよく知っている。あれは誰も悪くなかった。ただ、間が悪かっただけだ。

 だが、それが原因で『女の子を襲う凶悪な怪物』という根も葉もない悪評が広まって、迫害のような虐めを受けた。

 学校には魔族の子も通っていたが、それでも彼らは少数派。そして、魔族の裏切者の混血ということもあり対応を決めかねていて、傍観に徹していた。

 結局、その誤解が解けたのに、半年も時間がかかってしまった。

 

「あいつは良いヤツなんだ。姫柊がナンパされて困ってるのに最初に気づいたのはクロウだし、真っ先に駆け付けたのもアイツだ」

 

 虐めを受けている間も、クロウはけして屈せず、ただ只管にみんなに認められようとしていた。

 なのに、魔族から裏切者扱いされ、人間たちから討伐対象として見られるのは、あまりにも……

 

 ―――ああ、そうか

 

 魔族の力を持ちながら、人間としてあろうとしている。

 あの後輩は、古城と境遇が同じだった。

 

「……先輩。私の攻魔師の師匠は、長命種(エルフ)なんです」

 

「姫柊……」

 

「彼に、お礼を言いそびれてしまいました。気づかせてくれて、ありがとうございます先輩」

 

 雪菜は養成所で魔族を討伐することだけを教えられ、この魔族特区に来たのも昨日が初めてのことだ。

 意識してなくとも、緊張するのも無理はない。だからといって、魔族と知った途端に態度を変えてしまったのは、あまりにも失礼だった。

 

「で、でも、そうなったのは先輩のせいでもあるんですからね!」

 

「だから、あれは事故だって言っただろ!」

 

 

人工島南地区 スーパー

 

 

 昼過ぎ。

 チアリィーディング部の午前部活も終わり、マンションに帰る途中、暁凪沙は買い物にスーパーに寄る。今日はお隣に引っ越してきて、自分のクラスにやってくる転入生の歓迎会をするから、いつもより奮発して豪勢にそして多めに買うつもりだ。

 人間関係は、最初が肝心。

 絃神島に単身で転入してきて心細いはず。だから、身近の自分が助けてあげるんだ。

 ふっふふん♪ と短く結い上げた髪をご機嫌に跳ねさせながら店内を物色していると、

 

「―――あれ、あそこにいるのって、クロウ君? 何してるんだろ?」

 

 お惣菜コーナーを前に、じーっと凝視したまま固まってるクラスメイトがひとり。

 雨合羽のようなぶかぶかのコートに手袋まで付けて、耳付きの帽子と首巻で頭部は瞳しか見えないほど覆われていて、その下にちょろっと魔族登録も兼ねている特注首輪の鎖部分が顔を出している。彼はこんな厚着がデフォルトで、炎天下でも授業中の教室でも常にこの格好である。

 

「う~、骨付きフライドチキンもいいけど、この肉団子も捨てがたい。それにステーキにカルビ焼肉……どれにすべきか。500円玉じゃ全部買えないぞ」

 

 どうやらちょっと遅めの昼飯らしい。

 選択に野菜どころか炭水化物さえない、100%肉食の食生活に、暁家の献立を任されている凪沙は心配になる。

 

 明るく可愛く天真爛漫。話しかけやすく、面倒見もいい。友達も多く、男子からも人気がある。

 そんな暁凪沙は、南宮クロウには、少し、壁を作ってしまってる。

 最初の出会いが大失敗だったせいで。

 

 暁凪沙は、魔族に対し、異常なまでに恐怖を抱いてしまう。

 魔族がトラウマとなった4年前の事件から、それが原因で体調を崩しやすく、今もまだ定期的に検査入院を繰り返している。

 

 そんな凪沙が、中等部に入学して数日のころ、親切に落とし物を届けてくれた半人半魔の同級生と接触し―――絶叫。

 何もひどいこともされていないのに、ダメだった。

 

 凶悪な漆黒の巨狼にそれが率いる動く死体に囲まれ、自身を庇って死にかけている兄の姿。

 

 彼に触れられた途端、凪沙はそんな鮮明なまでの映像(イメージ)が頭の中に流れ込んだ。

 凪沙の魔族恐怖症は学内で周知となっておらず、兄とその友人たちでしか知らない。またそのショックがきっかけだったのか、凪沙は倒れてしまいすぐ病院へと運ばれた。

 凪沙が意識を失う前に見たのは、血相を変えて心配する兄の友人と、荒っぽい怒声を発しながら相手に詰め寄る兄、そして戸惑う少年の姿。教師が収拾するまで、事態は混迷を極めたという。

 その日のうちに意識を回復させた凪沙は、付き添っていた兄と一緒についてきた友人に事情を説明し、誤解を解いた。

 しかし、しばらくの間、病院に入院することを余儀なくされ、凪沙本人から学生たちへ半人半魔の少年の弁護ができなかった。凪沙の代わりに、兄と友人たちがいれば事件ではなくただの事故で、少年は無実だと話をしようにも、最初のインパクトが強過ぎたせいか信じてもらえず、虐めは止まらない。凪沙が無事に退院してからも、すでに定着していたイメージはなかなか拭えるものではなかった。

 

 だから、半人半魔の南宮クロウに暁凪沙は魔族への恐怖心が全くないとは言わない。けど、やっぱり何より罪悪感の方が強いと思う。

 

(だめだよねこのままじゃ。折角、同じクラスになったのに)

 

 人間関係は最初が肝心。でも、挽回できないはずがない。

 ぱん、と凪沙は自分の両頬を叩いてから、パッチリ目を大きく見開く。

 

「こんにちは、クロウ君」

 

「うー……う。凪沙ちゃん、こんにちはなのだ」

 

 目の前のおかずに夢中だったクロウは、話しかけられてようやく凪沙の存在に気づいたように、少し驚いた顔で挨拶を返す。

 

「何してるの? お昼の相談? ダメだよ肉ばっかりじゃ。野菜と炭水化物も一緒に取らないとバランスが悪いよ」

 

「でも、ご主人からお昼は500円までと言われてるのだ。でも、これじゃあ、他の物を買う余裕がないぞ。ほんとは、ウルトラスペシャルDX大盛りミノタウロスチャーシューメンが食べたかったのに、あれ、800円も取るんだ」

 

「ダメだよ。そんな言い訳は通じないよ。ぐーたらな古城君だって、凪沙がご飯の用意ができないときは、同じ500円でちゃんとやりくりしてるんだから。自炊とかしないの? そっちの方が安くて、いっぱい食べられるよ」

 

「前にご主人に紅茶の淹れ方を習ってたけど、二度と許可なくキッチンには入るなと言われてる」

 

 運動はもちろんのこと、成績も兄のように補習を受けない程度にそこそこで、遅刻欠席なしで皆勤賞な模範生なのだが、食方面がダメダメと聞かされて、凪沙は呆れたように腰に手を当てた。

 それから、一歩、相手に歩み寄り―――向こうも、一歩下がった。

 

「………じゃあ、」

 

 また一歩、近寄り―――一歩、後退する。

 

「―――凪沙が、」

 

 もう二歩、接近し―――二歩、遠ざかる。

 

「……、」

 

 あれほど夢中だったお惣菜コーナーから離れてしまっているが、あと1、2歩の間合いを残して、磁石の同極同士の反発でもみているように、両者の距離は縮まらない。店の角に追い詰めたら、両掌を向けてくる待ってのポーズ。

 兄からお喋り魔と言われるくらい口数の多い凪沙も、その反応に閉口してしまう。

 最初は勘違いかと思ったが、二度も三度も繰り返して同じ結果では気のせいではない。『これってどういうこと? 説明してもらえないかな?』と凪沙が珍しくも無言のジト目で訴えてくるのに、クロウはあわあわと手を振りながら、

 

「凪沙ちゃんには指一本触れるなって言われてるのだ」

 

「だ・れ・か・ら?」

 

 一文字一文字区切って、にっこりと笑う凪沙。吊り上げられた唇の端がピクピクと痙攣してるのは怒りのサインだ。騒々しき同級生から発せられる静かな恐喝に、首までぶんぶん横に振るクロウ。なんとなく凪沙は下手人がわかっているのだが、必死の抵抗を見せる。しかし、角に追い詰められた彼に逃げ場はなくて、

 

「……………こ、古城君から」

 

 やっぱり、半径1m圏内立ち入り禁止令は、兄が出したものらしい。

 そういえば、教室でも、不自然にも凪沙を避けていたし、会話もするけど距離は常にとっていた。ときどき、窓から飛び降りてたし。

 魔族に対する恐怖症を知る凪沙のことを心配して後輩に言い聞かせたのだと思うが、流石に同級生になったのにこの反応はさびしい。

 

「もー、古城くんったら、やりすぎ。いくらなんでも過保護だよ。道理でクラスメイトになったのに距離感が縮まらなかったんだ。ていうか、古城君も古城君だけど、クロウ君もなんでそんな無茶なお願い聞いてるの!? 凪沙と同じ教室のクラスメイトなのに近寄れないって大変じゃない?」

 

「オトコとオトコの約束だから、破っちゃダメなのだ」

 

 この同級生は頑固で、中々に義理堅い。

 最初の顔合わせで、妹を襲ったと勘違いされて怒鳴ったのは兄の古城なのだが、それでも今では先輩後輩。一時期、殺伐としていた兄にも離れずにいる唯一の男子後輩だろう。

 しかし、このままでは凪沙のお近づきになるという目的は果たせない。

 というわけで、凪沙はひとつ屁理屈をこねることにした。これでも口には自信がある。マシンガンのような口数を前に、兄でさえ口喧嘩は避ける。以前、自宅にエッチなビデオを持ってきた兄の友人のひとり矢瀬を苛烈な言葉責めによって、しばらくの間女性恐怖症に陥らせたことがあるくらい。

 

「でも、凪沙から触るのは良いんだよね?」

「? そうなのか?」

「そうだよ。古城君はクロウ君に触るなって言っただけで、凪沙から触ることは禁止されてないよ」

「うん、そうだな」

「うんうん、凪沙は古城君にそんなバカなこと言われてない。言ってたらお説教してるもん。だから、凪沙からクロウ君に触るのは約束を破るわけじゃないし、問題ないの」

「うーん、でも、凪沙ちゃんは、大丈夫なのか?」

 

 その返答に、凪沙は口より先に手を出した。

 クロウが突きだすその掌に、自分の掌を合わせる。手袋越しだけど、確かに触れてることに変わりなく、やはり、少し震えてしまってる。半分は人間であることを知っても、今もフラッシュバックのように蘇るあの光景に凪沙は苛まれる。

 それを察し、引こうとしたクロウの手を、凪沙は捕まえるように握り締める。

 

「やっぱり、ちょっとだめかも。でもね、クロウ君がクロウ君だってのはちゃんとわかってるんだ。だからさ、ちょっと怖いかもしれないけど、大丈夫」

 

 精一杯に握られていても、か弱い、それも震えてる女の子の手を振り解くのは簡単なことだろう。けど、クロウはそのまま、凪沙の言葉を待つ。

 

「凪沙が、魔族を怖がるの、クロウ君は知ってるよね」

「知ってるぞ。今も凪沙ちゃんが怖がってるのも、オレわかる」

「うん。クロウ君にはわかっちゃうよね。でもさ、絃神市(ここ)で生活するなら、克服しなくちゃダメだと凪沙は思う」

「荒療治はよくないと思うぞ。凪沙ちゃんは体が弱いんだから」

「ダメだよ。凪沙が逃げてもこれは変わらない、このままじゃ古城君にずっと心配かけてることになっちゃう。初めて会った時のこと、クロウ君にいっぱい迷惑かけちゃったよね」

「むぅ、でも、凪沙ちゃんは悪くないぞ。オレも不注意だった」

「ううん。古城君や浅葱ちゃんも仕方なかったって、クロウ君も気にしないって言ってくれるけど、やっぱりあれは凪沙のせいなんだよ」

 

 いつまでの過去を引きずってはいられない。

 前へ踏み出そう。今日から―――

 

「だからさ、クロウ君にあんなに迷惑かけちゃったけど、凪沙が慣れるの、手伝ってほしい。クロウ君なら、大丈夫だから……」

 

「う~……オレからはしないぞ。古城君との約束だから。でも、凪沙ちゃんから逃げない。触れてくれるのは、オレもうれしい」

 

「うん!」

 

「でも、無理はしちゃダメだからな」

 

「よしじゃあ、最初は握手からチャレンジしよう。あ、それから今日、二学期から転入してくる姫柊雪菜ちゃん――とっても可愛い子なんだよ――それで凪沙のお隣に引っ越してきたから歓迎会するんだけど、クロウ君も参加しない?」

 

「う~。でも、ご主人から頼まれた仕事が……」

 

 残念そうに断わりを入れようとするクロウ。先輩に義理堅い同級生は、保護者な主にも忠誠心が高い。けど、世の中に絶対はない。凪沙は魔法のキーワードを知っていた。

 

「お肉もいっぱい用意するよ。それも奮発してランクは特選の牛肉」

 

「ホントか!」

 

「それでたっくさんのお野菜と具材で寄せ鍋にして、しめは残ったスープを出汁にしておじやにするの」

 

「いく! 絶対にいくぞ!」

 

 凪沙と手を合わせたまま、バンザーイと高々に挙げて喜びを表現するクロウ。もし尻尾が出てたら、千切れんばかりにぶんぶんと振っていただろう。

 

 

 その後、荷物持ちに軽々と片手で両手分の買い物袋ふたつを持ちながら、もう片方の手で隣の妹と手を繋いで歩くクロウを目撃した、古城がこれはどういうことだと詰め寄ってきたが、そこで凪沙が何勝手なことしてるのと兄を迎撃し、マシンガントークで消沈させたという。

 ちなみに、その間、古城に付き添っていた雪菜が、クロウに謝罪と感謝を述べた。

 

 

道中

 

 

「もう、先輩。凪沙ちゃんを怒らせてどうするんですか」

 

「いや、姫柊、いきなり手を繋ぐ前にもっと踏まなくちゃいけない段階があるだろ!? っつか、クロウの奴いつから凪沙を下の名前で……」

 

 歓迎会後。

 妹の機嫌を損ねてしまった古城がちょっとお値段高めのアイスを買いに、そして、その古城の監視役として雪菜がコンビニ向かう道中。

 

「確かに、先輩が心配する理由もわかります」

 

 古城が過剰なまでに心配する理由を説明し、雪菜も凪沙が魔族特区の人間でありながら魔族を恐れる重度の魔族恐怖症であることを知った。それがかつて魔族に襲われて瀕死の重傷を負ったという、自己の体験に根差したものであることを。

 そして、なし崩しになってしまったが、古城が先ほど言わなかった、妹に吸血鬼であることを隠していた理由も。

 

「ですが、クロウさんは良い人だと先輩がおっしゃっていたじゃないですか」

 

「ああ、そういった。あいつが凪沙に危害を加えるようなことはないのはわかってる」

 

「はい。もしもこれで魔族恐怖症(トラウマ)を改善できたのなら、凪沙ちゃんに先輩の正体がばれたとしても、一緒に暮らせなくなるような事態にはならないのかもしれません」

 

「だったらいいんだけどな。凪沙の治療は魔族特区にある病院じゃないとできねーし、魔族特区にいる限り、魔族との接触は避けようがないからな。凪沙の“リハビリ”相手にはちょうどいいのかもしれない」

 

 雪菜の冷静な指摘に、古城は一定の理解を示したように頷く。も、

 

「だが、それとこれとは話が別だ」

 

「先輩……」

 

 もうこれはどうにも説得しようがないと雪菜は困ったように身をすくめる。

 古城の中では、凪沙はまだ子供で、ほんのちょっと前まではランドセルを背負って、小学5年生までサンタクロースを信じていた。

 

「まさか、こんなことで第四真祖の力を振るったりしませんよね?」

 

「するかっ!」

 

 冗談ではなく割と本気目で確認する雪菜に、古城は思わず怒鳴ってから、苛々と反論を展開した。

 

「うちは両親が離婚してて父親がいないし、母親が家に帰ってくることも稀なんだ。だから、なんというか……俺が守ってやんなきゃ、ってのはあるんだよ」

 

「そうですか……」

 

 普段からそこまで深く考えていたわけでもなく、半分以上は今思いついた即興の言い訳だったのだが、生真面目そうな彼女はどうも本気にしたらしく視線を下に向けて沈黙する。

 

「いいですね、兄妹って。私には家族がいないので、ちょっとだけ凪沙ちゃんがうらやましいです」

 

 何気ない口調で呟く雪菜に、古城は驚いてその横顔を見つめる。

 

「家族がいない?」

 

「はい。高神の社にいるのは全員、孤児なんです」

 

 雪菜はさしたる感傷を挟むことなく、己の身の上を古城に話す。

 獅子王機関の攻魔師養成所たる高神の社には、素質のある子供たちが全国から集められた。

 雪菜もその一人。

 でも、スタッフは皆優しく、剣巫の修行も嫌ではなかったし、その攻魔師の先生は母親のように面倒を見てもらった。

 

「へぇ、そうか」

 

 その話しぶりにウソをついている感じはなく、本心から述べられていると古城は信じられた。

 

「それでいまさら聞くのもあれなんだが、剣巫ってなんだ? 字面から剣が使える巫女って思うんだが」

 

「ええ、まあ、それで大体合ってると思いますけど」

 

「巫女ってことは、姫柊は祈祷や占いなんかもできるのか?」

 

「一応形だけは、あまり得意ではないんですけど」

 

 古城は何となく納得する。

 短い間ではあるも、雪菜がきっちりしているようで無防備な、意外と型苦しい儀式とか苦手そうな性格をしていそうな気がする。

 後輩ほどではないにしろ動物っぽいというか、理詰めではなく本能で動くタイプだろうと予想している。考えてみれば、直感が優れている方が巫女の資質として向いているのかもしれない。

 

「先輩……何か今、失礼なことを考えませんでした?」

 

「え、いや、そんなことはないぞ」

 

「わたし、霊感霊視はそれなりに使えますから、ウソをついてもすぐわかりますよ」

 

「え……!? やっぱり動物っぽい……」

 

「やはりそういうことを考えてたんですね……」

 

 ふん、と鼻を鳴らす雪菜は、そこでふと気になることを思い出した。

 

「そういえば、先輩は祈祷とか占いとかできるんですか?」

 

「いや。昔、父親の方の祖母さんがやってるのは見たことがあるけど、全然。それがどうかしたか」

 

「いえ。この前、先輩を追跡していた時、どうもこちらの位置が把握されていたようですから」

 

「ああ、それ、クロウだ。あいつの嗅覚は特別だからな」

 

「なるほど。獣人種は優れた五感の持ち主ですから」

 

 口元に手を添えて、冷静に考察しているように見えるが、古城はそれが不機嫌を隠してるポーズに思えた。

 ああ多分、負けず嫌いなんだろう。途中でトラブルがあったが、あのまま逃走戦を続けていれば、彼女の負けだった。それが霊視霊感という直感でわかっていて、顔には出さないけど、悔しいと。何とも動物っぽい……

 

「先輩……また、ですか? 言いたいことがあるなら言ってもいいですよ?」

 

「ん、いやー。そのだな。クロウの嗅覚が特別なのはそれだけじゃないんだ。

 ―――<過適応能力者(ハイパーアダプター)>っつったけな。『人間』としても特別なんだよ」

 

「……え……<過適応能力者>ですか?」

 

 古城が口にしたその単語に、雪菜は驚き古城への疑惑を忘れてしまう。

 <過適応能力者>とは、魔術や呪術に頼らない先天的な“超能力者”の総称だ。体系化できないその特殊技能は極めて稀少なスキルが多く、科学技術や魔術呪術では不可能な現象を引き起こすこともあるという。

 

「うちの母親もそうなんだけど、結構すごいらしいなそれ」

 

「いえ、先輩。結構すごいなんてそんな軽いもんじゃ……」

 

「それでクロウのは、嗅覚感応能力(リーディング)だったな。匂いで人の頭の中とか色々とわかるそうだ」

 

 たとえば、顔で笑っていても、怒ってたり、ウソをついてたり、そういうのや、そのものの記憶を――<固有堆積時間(パーソナルヒストリー)>を読み取ることで相手の力量を計り取ったりなど。

 

 五感の中で匂いは唯一、脳の古い部分に直接働きかけることができる、人間の記憶と感情に密接に繋がった感覚だ。

 

 たった一度でも匂いを覚えて(ロックして)しまえば、思念や過去まで読み取る嗅覚は、獣人の優れた性能との相乗でさらに精度を上げて、広大な範囲圏内を誇り、相手を察知すれば、どこまでも追い詰めていく。

 

 それも匂いを嗅ぐだけの受け身(パッシブ)な能力なため、どれほど気配に敏感な相手でも察知されたことを気取られることがないという、追跡者として――主人に獲物の位置を教える猟犬として実に優秀だ。

 

 そして、天性の才能を持った猟犬の主人は、息をするように空間制御を行使でき、場所さえ分かれば遠く離れていようと一瞬で転移できるのだから、あの見るだけで暑苦しい厚着主従は反則的な組み合わせと言えるだろう。

 『黒い(イヌ)を見かけたら、それは魔女()の予兆だ』なんて、魔族の中では都市伝説ともなっているようだ。

 実際、今日まで古城があの担任から逃げられたことはないし、後輩から隠れられた試しも一度もない。

 

 ただし、それは理論上、上手くいけばの話だが。

 

 

倉庫街

 

 

 ―――見つけた。

 

 人工島・南地区と東地区の境を跨ぐ大きな橋は、全長で500m以上の威容を誇るアーチ形式の橋である。

 そのアーチの頂は高さ50mを越え、その高みにあって海から吹き込む、人工島特有の突風をもろに受ければ、すぐさま足を踏み外して眼下へ落下するのは当然の帰結であり、海路がそのまま末路となるだろう。熟練の整備士とて、命綱なしに上るような馬鹿な真似はしない。

 そんな冷たい鉄骨の上に、攻魔師助手の南宮クロウは命綱も持たず、どうにも呆れ果ててしまうくらい余裕たっぷりの態度でもって腰を下ろしてぶらぶら足を遊ばせている。

 とはいえ、匂いで相手の位置が大まかにわかるのだから、なるべく高い場所に陣取る利点はなくもない。『高いところは人にとって危険である』という人類共通の常識を無視すればの話だが。

 

 さて、マスクのようにつけていた首巻をおろし、その特異な嗅覚を解放している猟犬が向ける視線の先。

 あるのは、海路と接した倉庫街。無味乾燥なプレハブ倉庫が延々と連なっており、船が停泊している様子から湾港施設も兼ね備えた区画らしい。

 夜ともなれば人通りは絶え、まばらな街灯が無益にアスファルトの路面を照らしている様が、景観を物寂しくさせる。

 だからか、“それ”ある場所に似合うのは。

 

 夜行性動物と同じ暗視能力で、陽の沈んだ夜でもその姿はっきりと視認している。

 

 大型車両の行き来を考慮して幅広に設けられた四車線の道路の真ん中で、支配者が君臨するかの如く、そこにある。

 年齢はおよそ30歳前後の、上品な背広に身を包んだ男性。だが、その見た目通りではない。夜風に乗って届く、この濃い血の匂いから、相当な年月を経ている存在だとわかっている。

 無論、嗅覚だけで相手を計ったりはしないが、沸々と放たれている法外な魔力によって、人ならざる超常の存在であることを暴露している。

 

 その程度の力量なら―――――やれない、ことはない。

 

 嗅覚感応能力で測り取る相手の吸血鬼の実力は、『旧き世代』でも長老(ワイズマン)貴族(ノーブルズ)と呼ばれるようなレベルじゃない。

 『首輪』を外さずとも、眷獣を出させる前に仕留めれる自信はある。

 なにせ吸血鬼単体は、獣人種よりも弱いのだから。接近戦に持ち込めばこちらの土俵だ。

 

「うぅ~……でも、ご主人の命は守るのだ」

 

 渋々と携帯を取り出す。機械方面にめっぽう強い藍羽先輩が選んだ、その手のものに苦手な自分にも最低限の操作ができる機種。3つのボタンを押せば、それぞれに登録した相手に繋がる仕様だ。ただそれを教えるのに、藍羽先輩とそれに付き添っていた暁古城は、30分ほど時間を費やしたという。

 なんにしても使い方をマスターしたクロウは、主の番号を登録した『1』を押そうとし―――気づく。

 

 標的の吸血鬼に近寄る、二人の存在(におい)に。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「―――私たちと遊んでくれませんか」

 

 

 夜。人気の絶えた時間。人払いを済ませ、誰もいないはずの空間で、吸血鬼を呼び止める何者かの声。

 薄ぼんやりと明るい街灯の下に、ひとりの女性が立っている。

 藍色の髪の小柄な少女。

 透き通るような白い肌と、水色の瞳。完全に左右対称の整った顔立ち。生物としての匂いがまるで希薄な、妖精じみた娘。

 彼女が身に着けている服装は、ケープコート。それだけ。膝丈まですっぽりと体を覆って、その下には何もつけておらず、足元も裸足である。

 

「男漁りは他所でしろ」

 

 『旧い世代』の吸血鬼は一瞥し、無視する。相手にするまでもない、と。

 

「―――いいえ、そこらの魔族には飽きてしまいまして。是非、あなたに相手してもらいたいのです、『旧き世代』の吸血鬼」

 

 しかし、少女と反対側、吸血鬼を挟む形で、もうひとり進路に立ち塞がる。

 聖職者の法衣を纏い、金髪を軍人のように短く刈り上げた白人種。左目には眼帯のような片眼鏡(モノクル)を嵌めており、年齢は40代いくかいかないか。だが、190cm以上の身長に、大きく盛り上がった肩の筋肉とがっちりとした体格で、法衣の下には軍の重装歩兵が装備する強化装甲。発する威圧感も相当なもので、また長大に相手の意識を圧迫するその得物。身の丈をさらに上回る2m余りの長竿に、巨大な刃が取り付けられたそれは、最早武具として見間違いようのない。半月斧(バルディッシュ)

 斧部分は相当な重量を持った金属の塊。それも先端に重心がいく長柄の得物だ、当然、両手を使っていなければ、振るうどころか持ち上げることもできないだろう。

 しかし、片手で真っ直ぐ腕を伸ばして、斧刃を吸血鬼に突きつけるその様は、苦としているどころか余裕すら感じられる。

 そしてその格好に『旧き世代』は、遠い過去に見たことがある。

 

「珍しい……西欧教会の祓魔師か。教会に引きこもってばかりの連中だとは思っていたが、変わり種もいるものだな」

 

 攻魔師の中でも高位技能を扱える高位の聖職者。吸血鬼の再生さえ阻害する強力な呪力を乗せた攻撃ができ、あらゆる浄化の術を身につけたという対魔族戦の専門家(スペシャリスト)。しかし、本来、地位のある司祭や僧侶である彼らは自ら市街地で死闘を誘うような真似はしない。できないのだ。

 

「ふむ。流石に『旧き世代』となれば我々を見た者がおりますか。はい、私は、ロタリンギア殲教師、ルードルフ=オイスタッハ」

 

 それでも、所詮は、人間だ。

 

「あなたの命、我が計画の糧となりなさい」

 

 吸血鬼の頭上から、それは舞い降りた。

 

「調子に乗るなよ、小童」

 

 夜闇に溶け込んでいたのは、巨大なワタリガラスに似た漆黒の妖鳥。

 翼長は優に10mを超え、黒真珠を彷彿とさせる滑らかな羽毛に琥珀色(アンバー)の煌めきが反射する。わずかに開いた嘴から漏れた、蜃気楼とばかりに大気を揺らめかせる熱気は地核熱に匹する高温を予感させる。

 若い吸血鬼の眷獣であった炎の妖馬とは、格が違う。

 まさに、『旧き世代』にふさわしい、圧倒的な存在感を知らしめる。

 

「いいだろうニンゲン。『旧き世代(われわれ)』の力を思い知るがいい」

 

 人間が、眷獣に勝てはしない。

 

 

 ―――吸血鬼に、背後から巨大な影がさしかかる。

 

 

「強大な眷獣(ちから)には、より強大な眷獣(ちから)をぶつける。これで簡単に魔族は倒せるのですよ、『旧き世代』」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 バキッ、と。

 

 ボタンを押す指の力配分を間違ってしまった。機器がひび割れて、くの字に折れた。

 普段はこんな失敗はしないのだが、現れた二人の実力に緊張が走り、つい力が入ってしまったのだ。

 

 ―――強いぞ、あの二人。

 

 倉庫街で暴れている眷獣は、“2体”。

 吸血鬼を直接相手しているのは、大柄な僧侶だが、巨大な火球を放つ漆黒の妖鳥を抑えつけているのは、夜闇を裂く虹色の光に輝く、半透明の巨大な腕だ。眷獣と同じ意思を持ち、実体化するほど濃縮された魔力の塊。

 

 戦闘の優位は明らかだ。

 

 男の半月斧は吸血鬼を肩口から深々と斬り裂く一太刀を浴びせ。

 主を助けるはずの妖鳥は虹色の腕が地に押さえつけ、羽をもぎり、喰らうように握り潰す。

 仄白く輝く虹色の腕の宿主は、小柄な少女の方。殲教師に気を取られていた隙を狙い、背後からの奇襲を仕掛けた藍色の髪の少女は、妖烏の実体化が保てなくなろうが、屍肉を貪る獣のように蹂躙する腕を静止させる気配もなく、ただ無感情に見ている。

 

 そして、(これは彼らのせいではないが)連絡手段(けいたい)が使えなくなってしまった以上、応援は呼べない。

 こんな時、担任で師父ならばなんというか、クロウは考える。

 

無問題(ノープロブレム)! とりあえずぶっとばしてから考えればいいこと!』

 

 なるほど。

 『旧き世代』とはやり合うなとは言われたが、『『旧き世代』を倒した奴ら』とやり合うなとは言われていない。

 なんて、言い訳は通じるまでもなく、一蹴されるだろう脳筋思考である。どう考えても問題点しかなく、最初に参考にする人物から間違っている。もしも場に南宮那月がいたら頭部を押さえずにいられないだろう。つまり、仕置きが一打では釣り合わないくらい頭痛がひどい。

 

「よし」

 

 開いた瞳孔が爛々と。

 脚に力を溜めるように前かがみに屈伸し、クロウは舌なめずりし、

 

「行くのだ―――!!」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 それは、突然現れた。

 

 いつもの帽子と手袋を外し、首巻を下げて、常に裡に隠している己の姿見と本能を外気へと解放している。

 錆びたような銅色の髪に褐色の肌、そして、頬に走る大きな傷跡、それらのパーツが野性味を宿しているよう端整に整えられている面貌。やや小柄ながらも、纏う気配からか、少年を実際より大きく見せる。

 

「お前ら、コイツはオレのエモノだ。横取りするな」

 

 祓魔師の男は、己の命に従い少女(道具)眷獣(エサ)を喰らっている経過を見ていた。すでに吸血鬼の方は、自らの手で瀕死の重傷を負わせてあり、戦闘になるまでもなく終わっている。昂揚もなく、精々返り血を浴びてしまったのが不快なだけだ。再生阻害が掛けられた半月斧は、吸血鬼さえ殺せる。しかし、虹色の腕が完全に魔力を貪り尽くす前に、主を殺してしまうのはもったいない。今日のは『旧き世代』であることもあって食い甲斐があるのか、いつにもまして時間がかかっている。それを待つ祓魔師は、吸血鬼から意識を向けていても、視線は少女と眷獣の方へ外されていた。

 だから、祓魔師は、昏倒する『旧き世代』の吸血鬼を片腕で抱える――己から盗み取った乱入者に、少しだけ、驚いたように見開いた。

 

「―――ふむ。見られてしまいましたか。これは想定外でしたね」

 

 だが、それなら始末すればいいだけのこと。

 『旧き世代』と聞いていたのにあっさりと終わってしまい、不足だと思っていた時だ。“遊び相手”が増えるのはありがたいことだ。

 祓魔師は、隅に置かれていた細長いスポーツバックを、乱入者の少年の前に投げる。そこには無造作に武器の束が突っ込まれている。剣や刀、槍に斧など、無論すべて玩具(レプリカ)ではなく、本物の武器。そのむき出しの刀身がバックの底を突き抜け地面に刺さる。

 

「若いですね。丸腰ではかわいそうですから、どうぞ好きな得物をお取りなさい。その勇気に免じて、選ぶ時間は与えましょう、少年」

 

「得物も時間もいらん。敵から渡される道具を使うなんて阿呆のすることだぞ」

 

 呆気からんと即答され、祓魔師は失笑する。

 なるほど、その通りだ。先日の獣人種が滑稽だったとはいえ、己も無駄な慈悲をくれてしまった。

 

「くっ。いえ、全くその通り。この国には『敵に塩を送る』という言葉があったのですが、魔族に対し塩とはなんとも滑稽だ。さて、ひとつ訊きますが、

 ―――少年は、人間ですか、魔族ですか?」

 

 半月斧の切っ先を、乱入者――口封じをしなければならない少年に向ける。

 

「我が名はルードルフ=オイスタッハ。ロタリンギアの殲教師です。人間であるなら慈悲を以て天に召させ、魔族であるなら容赦なく地の底へ堕して差し上げましょう」

 

 値踏みをするように淡々とした表情で、最終宣告。

 待つつもりはなく、命乞いを聞くつもりもない。この聖別された半月斧は、魔族だろうと人間だろうと殺せる武具。

 

 その時まで、殲教師は少年を侮っていた。

 無論この状況で現れるような相手ならば、それなりの危険性があると承知している。外見が実力に比例するとは限らないのは、この世界では鉄則である。だからこそ、オイスタッハは宣告と同時に、油断なく巨大な戦斧を振り上げる。

 

「オレは南宮クロウ。ご主人の眷獣だ」

 

 依然、その場を動かず、名乗りを上げる少年。

 降されんとする断罪の暴力を前にして、避ける素振りさえ見せない。

 

 鎧の強化のアシストを得て、大地を割らんばかりに踏み込み強い前脚。

 脚力からありあまるばかりに伝わるベクトルに、はち切れんばかりに膨らむ背筋から、殲滅師の戦斧を振り下ろさせる。

 

 それをわずか半歩で躱す。

 

 攻撃した直後の、隙。絶好の機会を相手に与えてしまう。

 チャンスがピンチに変わる。

 武器も持たないその手を熊手にし、強化装甲服に構わず、すくい上げるように下から上に薙ぎ払った。

 

「ほう……!」

 

 弾き飛ばされた殲教師は愉快そうに呟いた。躱しきれなかったとはいえその巨体から想像もできないほどの敏捷さで後方に飛び退いて、威力は殺せていた。その強化装甲服の表面に、五本線の爪痕が、うっすらと刻み付けられている。

 

 ざあ、とクロウの周囲がざわついた。

 外気にさらした頭部と両手。そこから蒸気のように醸し出される体の香気(におい)が絃神島の大気と混じり合っているのである。見る見るうちにおぼろげだったものは目に見えて確かなものへと存在を持ち始めて、その八重歯から刃と紛うほどの巨大で鋭い牙に、その五指から鎌と紛うほどの強靭で硬い鉤爪を形作った。だが服や靴が破れた後はない。

 そう、半透明な獣の霊体を重ね着しているように、人間のまま気配だけが置き換わる。

 

「これは生体障壁ですか。面白い使い方をしますね少年」

 

 気功術とも呼ばれる技巧。だが、クロウのはただ全身に気を纏うというものではない。

 異常な密度の魔力が物質化して眷獣となるよう、目に見えるほどの気の塊を体に纏わせることで、少年を獣へと見せかけているのだ。

 『獣の皮を纏う戦士(バーサーカー)』という言葉の通りに、見せ掛けではない絶大な獣性は単なる生体障壁の枠を超えて、圧倒的な加速と膂力によって蹂躙する。

 

 跳躍。

 

 まるで肉食獣の如きしなやかな発条(バネ)

 その速さは、先日殲教師が対峙した獣化したL種完全体(ライカンスロープ)よりも上。

 

「正式な夜の帝国の獣人兵に優るとも劣らない速度です。が、単調ですね」

 

 アスファルトの路面を削り取りながらふり払われた気功の鉤爪を殲教師は横っ飛びに回避する。法衣の下から獣の咆哮に似た駆動音を唸らす強化鎧は、各部関節を過負荷に火花を散らしながら、主の運動能力を数倍以上にフィードバックさせる。

 人体に無理な分負担は大きくはなるが、クロウの生体障壁による身体強化にも匹敵するようだった。

 殲教師はその勢いのまま周り込み遠心力に体の捻りを加えた渾身の返し技(カウンター)で戦斧を一閃する。『旧き世代』の吸血鬼さえ致命傷を与えた一振り。濃密な生体障壁でさえ斬り伏せるであろう。

 それが器用にも、側転の要領で少年の体は勢いよく回り、振るわれた斧の柄を高跳びのように捻り回避する。

 

「む……」

 

 オイスタッハが表情を歪める

 速度は互角でも機動性は向こうが上。

 外した半月斧が叩きつけられてめくれあがったコンクリートの破片を、クロウは空中で蹴った。

 首輪に付いたアクセサリーのように垂れ下がった鎖が揺れる。

 続けざまさらに跳ぶ。

 人間の動体視力を大きく上回る速度で倉庫街のコンテナに街灯をピンボールみたいに跳ね跳んで、クロウの鉤爪は天から地に。殲教師の背後からその初撃の返しを防いだ鎧の防護のない頭上に振り落とされ―――だが、この場にいるのは、2人だけではない。

 

「―――アスタルテ!」

 

 虹色の腕が眷獣を喰らうのをやめる。

 

命令受託(アクセプト)執行せよ(エクスキュート)、<薔薇の指先(ロドダクテュロス)>」

 

 そして新たな標的を喰らいにかかった。

 

 

 

「ほう……これも避けましたか」

 

 完全にとった状況から逃れたその事実に殲教師は驚愕する。

 

 『混血』の人間としての力、<過適応能力者>は追跡だけに役立てないものではない。

 

 嗅覚感応能力により相手の経験値や感情の動きを読心して得た情報を動物的な直感で絞り込むことで疑似的な未来予測を可能とする。

 

 オイスタッハが叫んだ一瞬でアスタルテの動きを察知し、気功波とは言えないとにかく大声と発せられた衝撃波で身体を押し、力技で空中で急転回させたのだ。

 誰よりも速く駆けて、巧く動き、そして先手を打つ。二対一だろうと確実に追い込まなければ攻撃は当てられないだろう。

 

「ひとつ、思い出しましたよ。あの<空隙の魔女>が飼っている<黒妖犬>……魔族の仲間にも、人間にもなれない憐れで醜い『混血』の噂を」

 

 男の口元に、侮蔑の笑みが浮いた。眼帯のような片眼鏡が紅く発光を繰り返す。分析器であるレンズに映す標的に情報を精査しているらしい。

 

「しかし叶わぬのならば抹殺すべきですが、あの『黒』シリーズの唯一の成功例は手に入れておきたい道具」

 

「―――オマエ、煩い」

 

 吸う。

 吸う。

 吸う。

 不透明な何かが、鼻に吸い込まれていく。

 巨大で、膨大で、絶大で―――それでいて、曖昧な流れ。

 そこで最初に、そして初めてアスタルテと呼ばれる少女が反応する。

 彼女にはわかった。

 同じである。先ほどまで“アスタルテが喰らっていたもの”と同じであると。

 

 武術と仙術の複合接近戦闘術『四拳仙』の達人から学んだのは気功ともうひとつが、象形拳。

 虎形拳、龍形拳、猴(猿)形拳、馬形拳、鳥台形拳、黽(蛙)形拳、燕形拳、蛇形拳、熊形拳、蟷螂拳、鷹形拳、鷂形拳―――と計12種の獣の動きを参考にして創られ、究めれば究めるほどに人間性を喪失させる擬獣武術は、血の半分が獣人種のクロウに適正があった。そしてそれから生体障壁を変化させるイメージを掴んだ。

 そして<嗅覚感応能力>――匂いは感情や記憶を司る大脳の深部に直接刺激する。

 クロウはクロウ自身の匂いを嗅ぐことにより獣化することなく、『混血』に眠る獣化のイメージ情報(ソース)を引き出し、纏う生体障壁を変質させた。

 

 そう、獣人種と超能力、この2つのうちどちらかが欠けていたら異質な生体障壁はクロウにはできていなかった。

 『混血』であるからこそ、人のまま獣を纏うことができた。

 

 さて。

 

 纏う生体障壁が蠢く。

 強大な狼から、また別のカタチへと。

 

 そう、匂いを嗅げるのは何も自分の匂いだけではない。

 そう、生体障壁は決まった形に固定されることはない。

 そう、“眷獣の残り香(残滓)嗅げる(喰らえる)”のは、相手の専売特許ではない。

 

「素晴らしい! 今度は『旧き世代』の眷獣に生体障壁を変化させましたか!」

 

 『獣の皮を纏う戦士(バーサーカー)』、その言葉の通り。

 巨大なワタリガラス―――『爆発』を象徴とする『旧き世代』の眷“獣”の()を纏う。

 クロウが口を開く――同時、クロウが纏う半透明な妖烏の影がその嘴を開いて、砲門と化す。

 発射されるは超高熱の塊。激突すれば激しい衝撃と共に超高温の業火が敵もろとも辺り一面を焼き尽くすだろう。

 

「いいでしょう、『黒』シリーズの成功例、食わずに持ち帰るとしましょう―――やりなさい、アスタルテ!」

 

 強化鎧の筋力を全開にして、殲教師が背後へと跳躍し、ケープコートを羽織った藍色の髪の少女が前に出る。

 

再起動(リスタート)、完了。命令を続行せよ(リエクスキュート)、<薔薇の指先>―――」

 

 虹色の腕が抱くように楯となり、そこへ琥珀色の豪火球が衝突―――

 

 

 

 

 

 ―――しなかった。

 

 直径数十mもの火の玉は、放物線を描いて、倉庫街の向こう―――海へと落ちた。

 

 超高温の塊が、海面に触れ―――大規模の水蒸気爆発が起こる。

 

 水は熱せられて水蒸気となった場合にその体積はおよそ1700倍になる。故に多量の水と高温の熱源が接触すれば水の瞬間的な蒸発による体積の増大が起こり、それが爆発となる。

 村ひとつを焼却する業火が海に落ちれば、それは水蒸気噴火の如く。

 幸いにして何もない海上であったことから被害はなく、局所的な暴風が発生したのと変わらない。

 しかし、そこで舞い散る多量の水飛沫。一気に大気に溶け込み雪崩の如く押し寄せ、倉庫街一帯をホワイトアウトの如く覆う濃霧。

 

 視界が、真っ白に。

 

「っ、まさか、アスタルテ―――」

 

 殲教師が警告を発するも、遅い。

 

 この一瞬、自由に動けるのは、特異な嗅覚を持つクロウのみ。

 

 眷獣の皮を脱ぎ、気配――生体障壁を大気に溶け込ませるよう合わせて、獣のようにその足音を殺す。

 追跡者として必要な技能は探知だけではなく、尾けられていることを悟らせない隠密もまた。

 最初、オイスタッハから吸血鬼を奪えたのはこの技能があったからこそ。

 

「―――捕まえたぞ」

 

 <薔薇の指先>に迎撃を―――しかし、気づいた時にはもう息がかかるほど眼の前にいて、アスタルテは首を掴まれていた。

 その眷獣が『旧き世代』のを圧倒するほど強力であろうと、その本体は吸血鬼よりも弱い少女。

 

 彼女はクロウにとって、殲教師よりも天敵だ。

 その身に宿す不相応な眷獣ももちろんだが、何より“匂いが薄い”。

 活力の源たる生命も、感情も過去も希薄で、視界から離してしまえばクロウの意識から外れてしまうくらいに。

 奇襲も殲教師の意思を読んでようやく気付いたくらいだ。

 それはもう生者より死者に近いのか。

 しかしないわけではない。彼女だけに注意し嗅覚に集中すれば、微かでもその足跡を辿れ―――裡を感じ取ってしまった。

 

「オレの勝ちだ。降参しろ」

 

 ここまでは上手くいった。

 だが、ここで一つ誤算が生じる。

 少女の体が予想以上に脆すぎるのだ。あまりに軟なのだ。

 再生能力を持っている吸血鬼ではなく、首の骨を折ってしまえば死んでしまう。

 吸血鬼が自身よりも強大な力を持った眷獣を召喚し得るのは、無限ともいえる負の生命力を持つからこそ。

 なのにこの少女は人間とほとんど変わらない。そして、クロウの握力は常人よりも遥かに強い。ちょっとでも力を入れてしまえば崩れてしまう、土の塊を持っているようなもの。

 上手に絞め落とすなど、そんな器用な真似はできない。少しでも加減を誤れば、その首の骨を折ってしまう。

 ボタンを押しつぶしてしまった携帯機器と一緒にするわけにはいかない。

 だから、説得するしかない。

 

 だが、ここで相手を誤解していた。

 

 苦しげに眉間に細い谷を刻む。小さく開かれた唇が痙攣するように震える。その奥で歯がきりきりと軋む。額に汗の玉がひとつ、ふたつと浮く。元から色白い肌が青く。

 力技だ。抵抗さえやめれば楽に落ちるはずなのに意思の力でもたせ、絞められて出せないはずの声を強引に出そうとしている。

 

「お前に、眷獣(それ)は無茶すぎるのだ。死んじゃうぞ」

 

 この途方もなく苦しそうにしか見えない行為を、たとえ先が死であっても中止をしないのだ。

 時間にしたら10秒足らずだったろうが、その何倍も長く感じられた苦闘の果てに、アスタルテの唇が2cmほど開いた。続いてすぼめられ、そしてもう一度開く。

 

ア、 クセ、プト。

 

 全く無音ではあったが、確かに主人の命を受けたことをアスタルテは自身の口で刻んでみせる。

 

「やめろ! お前、ホントは戦いたくないんだろ! わかってるんだぞ!」

 

 エク、ス、キュー、ト。

 

 やるしか、ない。

 この少女は殺さなければ止まらない。

 主人の眷獣であるからに負けは許されない。

 

『クロウ君なら、大丈夫だから……』

 

 初めて、泣かせてしまった少女が、それでも自分に言ってくれた言葉。

 ここでこの少女を握りつぶしてしまったら、自分は再びその手を取ることができるか。

 いや―――

 

「自分ごとやりなさい、アスタルテ」

 

 その背から生える半透明の腕が、大きく、勢いをつけて、少女自身を抱くように振るわれる。

 

「っ!」

 

 宙吊りとなっていた少女が投げられた。

 少年に捕えられた掌握から解放された。

 己の眷獣の攻撃から逃れながら少女はその光景を無感情に、しかししかと目に焼き付けた。

 

 <薔薇の指先>

 

 虹色に輝く眷獣の腕が今度こそ、クロウの体を捉えた。

 今度はクロウが捕まりその全身を握りつぶすように絞められ、骨が砕けようが容赦なく、死なさぬ、けれど限界までその生命力を貪り―――

 やがてその巨大な手を広げると、ぼとり、と力無く、クロウの体が路面に転がる。氷の棺に埋められたように、ピクリとも動かない。

 

「よくやりましたアスタルテ。これで<黒妖犬>は我々のものです」

 

 意識のない獲物を見下ろしてオイスタッハは唇をつりあげた。

 その瞬間、濃霧が裂けた。

 

 

「―――獅子の神子たる高神の剣巫が願い奉る」

 

 

 中空から降り注いだ白銀の槍。あらゆる魔力を無効化する『神格振動波駆動術式(DOE)』の刻印を刻んだ<七式突撃降魔機槍(シュネーヴァルツァー)>は分厚い霧を抉り、殲教師へ貫かんと迫る。咄嗟にその籠手で防がんとするも、聖別装甲の防護結界を一撃で打ち砕いた。

 弾き返された秘奥兵器を剣巫は宙で取り、表情を険しくさせる。

 半透明の腕に抱かれる、少年を見て、

 

「その人から離れてください」

 

 姫柊雪菜は槍を振るう―――しかし、南宮クロウを救出することは叶わなかった。

 

 

 

つづく

 


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