ミックス・ブラッド   作:夜草

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錬金術師の帰還Ⅲ

回想 ショッピングモール

 

 

「わぁ、綺麗……」

 

 放課後のショッピングモール。

 その雑貨店のウィンドウに飾られたそれに目を奪われた。

 

 小さな石のはまった金色のピアス。

 その石の色は緑がかった薄い藍色。所謂、浅葱色(ターコイズブルー)である。

 

 そんな名前をした石だから、彼に誕生日プレゼントとして買ってもらいたい。

 

「ね! 古城、これがいいな」

 

「はあ!? あんまり高いのは出せないぞ?」

 

 すぐしかめっ面をするけど、そこは気心の知れた幼馴染がフォローしてくれる。

 

「まあまあいいじゃねぇか。那月ちゃんの補習地獄だって浅葱のおかげで抜け出せたんだし?」

 

「う……しょ、しょうがねぇな……」

 

 嘆息してから、わかった買ってやる、と微苦笑する彼。

 

「マジで? やったー! 古城大好き! ―――……あ」

 

「へ?」

 

 嬉しさのあまりつい出てしまった言葉。

 

「……え、あの……」

 

 何を言えば誤魔化せるか、それともこの勢いのまま本音として告白するかの判断つかずに固まってしまい、しどろもどろになったところ、もうひとりの同行人が声を上げた。

 

「わぁ、おいしそうなのだぁ……」

 

 常夏の島で年中厚着の後輩が、雑貨店とは反対側の飲食店のショーウィンドウに飾られた食品サンプルに夢中。

 尻尾があれば、ぶんぶんと振っていたことだろう。

 

「なあなあ、オレ、これ食べたいぞ古城君!」

 

「はあ!? 何で俺がクロウにご馳走することになってんだ?」

 

「まあまあいいじゃねぇか。那月ちゃんの補習地獄に連れてきたのはクロ坊なんだし?」

 

「それって奢ってやる要素ゼロだよな! 逆恨みされてもいいくらいだと思うぞ!」

 

「ほれ、せっかく懐いてる後輩だ。大事にしてやんな」

 

「だったら、矢瀬が払ってやれよお前も先輩だろうが」

 

「ご指名されたのは古城だ。俺じゃない」

 

「うー。オレだって、古城君が補習じゃなかったら、とっ捕まえたりしないのだ。おまけに逃げるから。その分の手間賃が欲しいぞ」

 

「それはこの前の金的(アレ)で入院しかけたからだ! マジで死んだかと思ったぞ!」

 

「対ハーレム野郎に特化した必殺天誅技『玉天崩』またの名を一夫多妻去勢拳、師父直伝の禁じ手なのだ」

 

「禁じ手なら使ってんじゃねェ! そんな恐ろしいもんは永久に封印しとけ!」

 

 男三人で騒いでくれたおかげで、先の発言はなかったことにされて流された。

 助かったというべきかなんというか。

 とにかく、今は、このままでいい。

 けど―――

 

「あ……あ~~、私もそれ食べたい! 古城、奢って♪」

 

「え!? 大食い(お前ら)二人にメシ奢るとか破産確定なんだけどっ!」

 

 

 ……いつかちゃんと伝えたいな、私の気持ち……

 

 

修道院跡地

 

 

 誕生日に買ってもらった大事な浅葱色のピアスを失くしてしまった。

 きっと、修道院跡地前でもつれ合った拍子に落としてしまったんだろう。

 

 特区警備隊が付近で警戒しているけれど、むしろ警備隊がいるなら安心だとみるべきか。

 しかし補習が終わってからずっと探してるけど、小さいからなかなか見つからない。もう夕方ですぐにこの辺りも暗くなる。

 ここは古城に責任とって、探し物に付き合ってもらうか。

 ―――と、浅葱がスマートフォンを取り出したその時、轟音と共に大地が揺れた。

 

「きゃあ!」

 

 身体が一瞬宙に浮いて、浅葱は投げ出されるように歩道に転がった。肩にかけていたバックが吹き飛んで、中身がバラバラにぶちまけられる。

 それを回収することはできなかった。

 それだけの余裕がなかった。

 林の向こう、修道院の建物を崩壊させて、原生生物のように不定形に蠢く漆黒の流動体が姿を現した。生物でもなければ金属でもなく、決まった外観(かたち)すら存在しない―――そんな不安定で、暴走した脅威が迫っているのだ

 

「―――なによ、こいつ……!? 血、みたいな……水銀みたいな……女の人!?」

 

 身体の痛みに耐えながら、のろのろと立ち上がる浅葱は、一瞬だけ女性の形をした何かを目撃したが、すぐにそれも漆黒の流動体に呑まれた。

 異音を放ちながら多様に変形するそれは、失敗した生き物の進化の過程を辿っているようでもあった。陸に打ち上げられた魚、空より落ちた鳥、異形の獣、そして人類。ありとあらゆる生物の遺伝子を取り込んだ合成獣(キメラ)であると納得できたであろう。

 しかも、その怪物は周囲の物質と無差別に融合して徐々に成長を続けている。最初は軽自動車ほどの体積は、既に小型のトラック程度にまで膨れ上がっている。

 

 そして、何でもを取り込み続けるブラックホールの如き悪食は、浅葱のことをどうとらえるか。

 

 逃げなきゃ―――と浅葱がそう思考した時、漆黒の怪物は咆哮した。

 

 不定形の流動体からリボンのような細い帯がゆるゆると伸びる。それはリボンなどではなく、刃のように研ぎ澄まされた巨大な触手で、途中、無数に枝分かれして辺り一面に乱雑に振るわれる。斬撃は無秩序で、しかしそのひとつは確実に浅葱の身体をなぞる軌道。それを眼前に、浅葱はとっさに体を横に飛ばして回避行動を取ろうと思考。だが、肝心の体は浅葱のその思考にちっともついていけない。足が震えているからか、恐怖で体が竦んでいるからか。

 どちらも違う。これは、意思が下半身に伝わっていないのではなく、意思が加速しすぎて、 その伝達速度に体がついてきていないのだ。

 死の間際の刹那に、視界が異常なまでにゆっくりになり、浅葱は目前に死神の鎌が命脈を絶たんと迫ってくるのを肌で感じ取る。意識が現実を置き去りにし、眼球を動かすことすら叶わない。故に浅葱の視界に残っているのは、眼前に迫る触手を除けば、目の端で勝手に画面が表示されたスマートフォンのみ。そこに映る絃神島すべての都市機能を掌握する現身(アバター)――モグワイ。

 

『安心しな、嬢ちゃん。この絃神島(しま)にいる限り、大事な相棒を死なせたりしねーよ。“何を犠牲にしてでもな”』

 

 自らの命が脅かされている状況で、響いたその皮肉気な合成音声は聞き慣れた人工知能のものでありながら、しかし幻聴と思うような記憶に残させない不確かさでこの刹那に浅葱の鼓膜をゆるやかに叩いた。

 

 咎神を祀るモノたちの“血”、それは何が何でも『巫女』を守るだろう。

 それが使命。たとえその宿命を知らずとも。

 殲教師にキーストーンゲートを襲撃された時も、

 黒死皇派に誘拐された時も、

 波朧院フェスタで脱獄犯に狙われた時も

 真っ先に馳せ参じた、この必然も同然の三度目の偶然―――そうなるように“運命が操作される”。

 この四度目もまた、同じこと―――

 

「あ……れ……」

 

 瞬きの間に、視界が美しいルビーのような夕焼けの空に変わってる。

 痛みも、ない。この制服が切り裂かれて、胸元があらわとなっているけど、それも薄皮一枚を斬られた程度。

 

「間一髪だったのだ、浅葱先輩」

 

 走馬灯を見たあの刹那の間に割って入り、浅葱の身体を押し倒しつつ、死神の鎌の側面から蹴り飛ばして逸らしたのだ。

 そのありえない人外の力技、その行為をあっさりとやってのけた存在は蒼銀の法被を翻してこちらに顔を見せる。

 

「クロウ……!」

 

「昨日は古城君がピンチだったけど、今日は浅葱先輩だぞ。こういうの、お似合い夫婦っていうのか?」

 

 危機的状況の中でも、日常会話を忘れない後輩は能天気に、浅葱の顔を真っ赤にさせることをのたまうのであった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 修道院跡地に詰めていた警備隊からの定時報告が途切れた。

 それにイヤな予感を覚えたクロウは、独断専行で駆けつけ―――遭遇した。

 

「―――オマエ、ちょっと違うやつだな」

 

 思考が戦闘態勢に切り替わる。

 錬金術が生み出した化物。

 これまで三度、不定形の金属生命体と戦闘したが、それとは色が違うが、質も違う。自然、これまでのが模造品でありこれこそが真の不滅であると理解して、細胞という細胞から余裕が搾り出されていく。

 南宮クロウは、未だ立てないでいる藍羽浅葱を背に庇うよう、前に出て、その暴走した霊血と対峙する。

 漆黒の<賢者の霊血>は禍々しく慟哭し、手負いの猛獣のように激しく蠢いている。

 それを見て、クロウも<神獣化>を――――できない。

 

「む。そうだったぞ」

 

 落ちた蒼天に潰されぬ限り、荒れ狂う白き海に呑まれぬ限り、裂けた緑の大地に喰われぬ限り、この契約は破れない。

 今朝、叶瀬夏音の制止を振り切ったクロウは、<禁忌契約(ゲッシュ)>を破ってしまっている。『王族の頼みを二度続けて断ってはならない』その誓約を守れなかった今、クロウは一日、その獣王の力を封印する制約が課せられている。

 

 この不滅の怪物は、神獣の圧倒的な力で吹き飛ばしてやる他ない。

 それが取れないのならば、手段はひとつ―――

 

「浅葱先輩、逃げるぞ」

 

 倒れ込んで立てないでいる浅葱を片腕で抱え上げて走り出す。

 逃げた獲物に背後よりそれは追いかける。

 猟犬というよりはもはや巨獣。

 クロウのように木々をすり抜けられない巨獣(ソレ)は、行く手を阻む障害(きぎ)を呑み砕きながら近づいてくる。

 トンネルを削る巨大な削岩機が高速で迫ってくるような錯覚。

 真紅の壁は少しずつ加速しながら、クロウ達を喰らわんと突き進んでくるかのよう。

 

 ……まずいぞ。

 

 立ち止まればやられる。

 間違いなく。

 不滅の怪物はその身を砕こうがすぐに修復して、人型時の胴体など工事現場の機械のようにズバグシャリと木端微塵に、跡形もなく踏み潰されるだろう。

 

 そして、人一人を抱えて走る人間時のクロウと真紅の壁の速度は同じ。

 林の中、不確かな足場に乱立する木々の中を、両手を塞がれて浅葱を抱えたままで、全くスピードを落とさずに駆けているが、コース取りを気にせず最短距離で直進する霊血の方がやはり有利で、一分もしないうちに間違いなく追いつかれる。

 そして、ここから人通りのあるところまでおよそ10分はかかる見込みだ。

 

「やっぱりダメ……! 私を落として、クロウひとりで逃げなさい……!」

 

「まだ追いつかれたわけじゃないし、ちゃんと考えてるのだ。アイツは振動(おと)体温(ねつ)で相手を識別してる。金属だからな。目も見えないし、鼻も使えない。だったら、ごまかすのは簡単だ」

 

 不滅の怪物。しかし、クロウはこれまで三度の天塚の模造品(レプリカ)との戦闘で弱点を見出している。

 あのような人間の形態を止めた、しかも暴走状態にある不定形(スライム)の感覚器。それが、その液体金属が役目を果たすのならば、何が感知し、情報を伝達しているのか?

 視覚、嗅覚、味覚はそれぞれに特化した知覚装置がなければ不可能だ。故に可能性としてあるのは、触覚と聴覚。触れもしないうちにその位置を特定しているところを見ると、空気振動を判別したり、気温変化より熱源を察知することも可能だろう。

 既に足音に関しては、生体障壁を変形させた肉球で殺している。

 だから、心拍音、呼吸音、そして体温さえ誤魔化せれば、こちらの存在は捉えられなくなるなる。

 

「ここが、森で助かったのだ」

 

 己の“匂い”を染みつけさせることで手足の如く指揮するという超古代人種『天部』に匹敵するその超能力。

 遠吠えひとつ。それだけで“全土にマーキングされている”この林は従う。夏音が猫を拾い、その世話の手伝いをすることになってから、何くれとなく訪れては、話しかけ、水を与え、世話をしてきたこの学校の裏林。

 

 活性強化された林が意志を持つかのように騒めいて、これまで荒らしまわってくれた霊血に襲い掛かる。

 地中より突き出る根の槍、氷雨となって降りかかる葉の刃、そして、長い枝が自然の鞭となって霊血の水銀触手を払う。

 この並の精霊使い十人分にも勝る膨大な支配力をもって、全方位から霊血を滅多打ちにその体を穿つ。

 

 しかし、それでも倒すことはできない。

 蜂の巣にされながらも障害全てを破壊して不滅の霊血は進む。

 

 

 

 ―――獲物(クロウ)たちを見失って。

 

 

 

「浅葱先輩、ちょっと心臓を止めさせてもらうぞ」

「へ―――」

 

 林が大地を震動させながら、霊血に猛攻していたその時。

 隠遁術の使えない素人(あさぎ)を速やかに息の根を止めた。捕らえた獲物を、首を絞めて落とすように。

 眠るように仮死された浅葱のかすかな呼吸と脈拍のペースにブレーキが掛けられた血流の微温は、この騒々しく暴れる自然界のノイズに紛れ込んでしまい、

 そして、体温をも遮断する隠れ蓑に被されれば、金属生命体には知覚できない。

 そうして、クロウは霊血が遠くに行ったのを見計らい……ちょうど20秒後に胸の気穴をとん、と軽く指でついて心肺蘇生。獅子王機関の魔導の鬼才にして師範たる師家様の詰め込み修行の成果で、『八雷神法』と一緒に習得した『八将神法』の暗殺拘束呪術を駆使して、難を逃れたクロウは、起こした浅葱から脳天に感謝のチョップをもらう。

 

「痛いぞ浅葱先輩」

 

「こっちはびっくりして心臓が止まりかけたわよ!」

 

「ん、ちゃんと心臓は止めたぞ」

 

「止めたぞ、じゃない! ああ、本当に無茶苦茶ね! 古城の気持ちが少しだけわかった気がするわ」

 

 とりあえず、これで危機を免れた。あとは浅葱を無事に林の外へ送り届けて、クロウは修道院跡地へ向かう―――

 

 

「逃げられちゃったか。中々上手くいかないもんだね……まあいいさ。代わりに思わぬ見つけものができたし、昨日のお返しができそう―――」

 

 

 その笑い含みの冷淡な声を拾うと反射的に、腕を振るうクロウ。

 弾丸のように放たれる、三条の電光手裏剣が、その声主である白いコートを着た錬金術師の青年に飛来して―――中空で弾かれた。

 

 ぐる……と。

 

 何か大きな獣が唸るような鳴き声が聞こえた。

 それはすぐ近くから、吐息を吹きかけるような生々しいものを覚える距離で、何かが唸り声を上げた風に思えた。

 

「いきなりご挨拶だね<黒妖犬>」

 

 特徴的な赤白の帽子と銀のステッキは身に着けておらず、その右半身も褐色となって紅い刺青が走っているが、この男の顔と“匂い”は間違いなく、天塚汞。

 

「あんた、何者……」

 

浅葱(それ)を僕に渡してくれるなら、見逃してあげてもいいよ」

 

 見ているのは浅葱であるが、それを無視してクロウに交渉する天塚。

 戸惑う浅葱をクロウは下がらせた。

 理由はまだわからないが、天塚の狙いが、先輩であることをクロウは理解する。

 そして、迂闊に自分から離して、浅葱を一人逃げさせることができないことを。

 

「ここに、何かいるのか?」

 

「おや? 姿かたちなきこの人工精霊(エレメンタリィ)に気づくのか。やはりその『鼻』は厄介だよ」

 

「エレメンタリィ?」

 

「そう。人工精霊(エレメンタリィ)は、人工生命体(ホムンクルス)の創造においても、必須の材料だ」

 

 功魔師の式神や魔女のファミリアと同じ、錬金術師が造り出す精霊たち。

 そして、脱獄犯の精霊使いキリカ=ギリカがその力を借りていた炎精霊と同じく、その存在は人間の感覚では知覚できない。いわば、魂と同じ、幽霊のような存在。

 

「『アゾット剣』の材料にした呪われた殺龍剣(アスカロン)に染みついているのは魔獣の怨念から性質の悪い魔族の悪霊までよりどりみどりでね。

 片端から<偽錬核(ダミーコア)>に残留思念を転送させて、自分の使い魔(アガシオン)に加工したんだよ。そんなわけで」

 

 悪魔を飼ったとも逸話のある“完全なる(アゾット)”剣と化したその右腕を振るい、呪力を混ぜ合わせれば、人工精霊は無限につくれる、と。

 

 屍の山と多量の討伐された魔族魔獣の残留思念を、意志を記録する<錬核>の性質を利用して取り込み、術者の力に変える。

 

 天塚が軽く右手を捻った。

 その<偽錬核>と接続したる『完全なる剣(みぎうで)』で煽ぐようにして、一回転させる。

 すると、そこに不透明な何かが生まれたのである。

 

「精霊とは人の目には見えないものだ。現象が意思を持ったものと言ってもいい。当然、人工精霊も同じだ」

 

 ぐる……という獣の唸るような音。

 

 真後ろから、30cm以内の距離で『何か』が響いた。巨大で、圧倒的な、『何か』がいる。大型犬なんてものではない。動物園の檻にさえ収まりきれないほどの、『何か』が。

 “物理的”に、存在はない。

 だが、気配を感じる。

 徐々にその巨躯を大きくし、やがては眷獣に匹敵する何かを心で知覚した。

 

 

 直後。

 一撃をもらい、そのまま地面に押し倒された。

 

 

 相手にとっては遊びのようなものだったらしい。

 真上から落下してきた鉄球に押し潰されたような衝撃に、クロウの身体が地面に屈する。メキメキィと鈍い音が鳴り、異様な重圧に呼吸が止まる。絞り出されるように、血の塊が喉から口へとせり上がった。

 

「ごっごふ!?」

「クロウ!?」

 

「本質は形のない呪いのようなものだよ。殺龍剣に染み込み、そして僕の手で醸成された魔獣魔族たちの怨念といってもいい。だから、避けようが、警戒しようが、そういうのは関係ない。僕がやれと命じれば、人工精霊はやる。そういうわけさ」

 

 <黒雷>

 <隠れ蓑>に伝導して増幅される呪的強化で、重圧を受けながらもクロウはその身を起こす。この殺されてきた魔獣魔族の念から作られた人工精霊にのしかかられる重圧は、その魔獣魔族らの総重量に等しい。

 

「こ……の、ォッ……!」

 

 みぢみぢみぢみぢみぢっっっ!!!!!! と細い繊維の束を引き千切るような音とともに、クロウはその場で押し潰されずに立ち上ろうとしている。予想される重量は、500kg? それとも1tを超えているのか? <監獄結界>に飾られているような不気味な拷問器具の記録によれば、仰向けになった犠牲者へゆっくり上から荷重を加える分には、300kg程度でもショック死せずに生き残る場合もあるそうだが、明らかにこれは限度を超えている。

 しかしそんな屍の山を一身に背負い、立ち上がれるところまで肉体が無茶するほどの強化の倍率を上げているのだ。1t超の荷重にも耐えうるということは、人型でありながら限界まで強化されたクロウの筋繊維の強度は鉄筋コンクリート製の柱に匹敵するだろう。

 それを見ても天塚はさして恐れることもなく、拍手すら送って見せるだけの余裕を見せつける。

 

「頑張るねぇ<黒妖犬>。でも、この人工精霊は副産物だ。本題は『完全なる剣』だ」

 

「……今聞いてやらないとダメかその話?」

 

「アゾットとは、『水銀』を意味することもあるけど、『完全なる』という表現でもあってね。この剣の前の持ち主は、半分もその真価を発揮できなかった。けど、『完全なる剣』として加工したことでそれを完全に掌握したといってもいい」

 

「……難しい話は無視するぞ」

 

「殺龍剣を取り込んだとしても、剣術に関する知識《心得》のない僕には扱えるものではない。だから、それを僕の錬金術が生み出した成果たる<偽錬核>を接続させて100%その剣の意思を発揮できるようにした」

 

 天塚の呼吸を読み、感情を探り、その会話の合間を縫って、奇襲で一気に制圧しようとした時だった。

 

「まあ、吸血鬼の『意志を持つ武器(インテリジェント・ウェポン)』みたいなものになるね」

 

 天塚の右腕が、こちらの超能力の読心が予期せぬタイミングで、動いた。

 

「魔獣魔族の類が近づけば自動で迎撃されるようになっている」

 

 『完全なる剣(みぎうで)』を見せつけて、錬金術師は囁く。

 

 

「『完全なる剣』から生じるのは、もちろんありとあらゆる魔獣魔族を切り伏せる“英雄の絶技”だ」

 

 

 ……ま、ずい……ッッッ!!!???

 魔術師研究者であり白兵戦で素人な天塚汞と見て、完全に『間合い』を見誤った。今、その右腕だけは紛れもなく人間の極致たる“英雄”のものなのだ。と思った瞬間にはすでに状況は動いていて。

 恐るべき斬撃が、稲妻のように襲い掛かってきた。

 

 

道中

 

 

『古城、クロウが……クロウが……死んじゃう……』

 

 

 それが電話より聴こえた最後の言葉。

 古城の携帯といきなり勝手に繋がった通話。それより聴こえた同級生の悲鳴に、後輩の苦悶。

 もう電話の声を聴いてからの記憶がないほど必死で。

 モノレールから降りてからは、何度も電話を掛け直しながら古城はその携帯に表示されているGPSの下へ、古城、そして雪菜は全速で走る。

 

「間に合え―――ッ!」

 

 

修道院跡地 付近

 

 

 くるん、と棒切れのようなものが空中で大きな円を描く。

 くるん、くるん、と。

 

 ―――

 まだ、痛みはない。だがわかる。回っているのは自分の右腕。肩のところから容赦なく切断されたその腕が回っているのだ。

 直後。

 真っ先にクロウは足元に倒れている浅葱を残る左腕で拾う。空中で回る右腕は口で強引に噛みついて固定。

 そして浅葱の体に強烈な負荷(G)がかかるが構わず、この『間合い』から“全力で”逃げる。幸い、『完全なる剣』が斬撃を放つには、人工精霊の重圧を解除しなければならないらしい。

 うっ―――とゼロから最高速まで急加速する高速移動の空気抵抗に圧を受け、苦しむ浅葱。それに目を細めて眉を寄せるも、さらに体を前へ前へと進ませる。

 その間、

 

「尻尾を巻いて逃げるとは、賢い選択だ<黒妖犬>。―――でも、逃げられるかな?」

 

 錬金術師に振るわれた『完全なる剣』は、都合三度。

 サンゾンバン!!!!!! と、金剛石(ダイヤモンド)も切断加工するウォーターカッターのように放たれる斬閃は、数十m単位で空を引き裂き、あたりの木々に地面を割断。クロウは上半身を振って回避行動をとりながら、宙空を蹴って、一身砲弾と化して発射する。

 全力で、遠くに放物線を描いて飛んで、浅葱の体を包むように抱えながら肩口から地面に落下。

 

 ざざざざざ、と地面を滑る音。跳躍着地の衝撃をうまく殺せずに転がる。風に飛ばされたゴミのように草地を跳ねて、止まった。

 そして、起き上がる前に、口で咥えていた右腕を地面に吐き捨てる。

 

「が、はぁ!! ……ぜひゅ、はあ……アイツ、やっぱり苦手だぞ……」

 

「だ、大丈夫なの、その右腕!?」

 

「ん、っく。オレ、怪我の治りが早いから、くっつとけば大丈夫、たぶん」

 

 全身に冷や汗が滲む。

 『黒死皇派』の古兵ガルドシュが、斬られた腕をくっつけられたように獣人種の治癒能力は高い。しかし、今はその獣人としての力は契約により封じられているせいで、それも半減しているが。

 

「たぶん、って! もう、早く病院に行かないとその腕が」

 

「腕だけじゃない。“全部避けきれなかったぞ”」

 

 どういう意味? と浅葱はクロウを見る。見れば、そのいつもの厚着に薄っすらと線――斬られた痕がある。

 

「……もうぶった切られてるのだ。一発も避けられなかった。“あまりにも鋭すぎて、まだ破壊が追い付いていないだけ”だぞ」

 

 これまで見切れていたクロウでさえ視えなかった、そして、切られたことに一瞬気づくのが遅れてしまったほど。

 それは術者の物質変性も間に合わぬほどであるようだが、その攻撃は光速のレーザービームのよう―――

 

生体障壁()で固定してるけど、気を抜いたらオレの体はバラバラのブロック肉になる」

 

 流石にそうなると助からない。

 死んでも蘇る真祖な先輩のような例外でもない限り、終わりだ。

 

「それに、浅葱先輩を担いで逃げられる自信もないのだ」

 

「そんな私のことは―――」

 

「立てるのか?」

 

 唇をかむ。

 着地の衝撃を殺しきれなかったせいでもあるが、腰が抜けて、立てない。

 ここで先輩一人を放置して逃げるという選択肢がない以上、生き残るには、いつまでもつかわからない制限時間内であの錬金術師と決着をつけるしかない。

 正直。

 状況は、かなりまずい。

 一秒の隙もあれば核を撃ち抜ける自信があるは、それだけの間なんて『完全なる剣』には―――

 

「―――伏せろ、浅葱先輩!」

 

 頭を地面につかせる勢いでたたきつけ、直後。

 

 

 ゾン!! と。

 眼前の林が、斜めに裂けた。

 

 

 視界にあった木々のどれもが、数十mの単位で一気に『完全なる剣』がすべて薙ぐ。伐採する。

 ……また上半身のお腹あたりもぶった切られたが、この際もう覚悟が決まった。

 修道院跡地庭先の林や地面もスパスパ斬られるのに、自身の体が時間差なのは、おそらく水分や脂肪で断面同士が若干ながら接着されているおかげでもあるだろう。

 あまりに鋭過ぎる切れ味は、切った相手にそのことを覚らせないというが、今のクロウの肉体がまさにそれだ。

 これを自覚して生きているというのは、我ながら呆れるくらい馬鹿な身体である。

 だけど、流石に無理があるだろう。

 今はかろうじて意識があるが、だんだんと視界が狭まっている。そもそも少しでも気を抜けば、中身がごっそり零れ落ちるこの状況で、この“眠気”に負ければ、永遠に眠りにつくことになる―――と。

 

「む―――う」

 

 ボトリ、と。

 獣人種の治癒性を発揮できず接続しきれない右腕が、落ちてしまう。

 

「動かないで……! もういいから、動いちゃダメ、クロウ……!」

 

 ……浅葱先輩の声が聞こえる。

 痛みはマヒしてるが、断たれた右腕からの流血も止まらない。“眠気”もだんだん濃くなっていく。

 きっとこのせいで、浅葱先輩は取り乱しているのだ。

 

「五度も受けて、まだ生きてるのか。しぶといね」

 

 近づいてくる、嗤い声。

 それがあまりに耳障りなので、消えていく意識が、しっかりと身体にしがみついている。

 

「は………あ―――!」

 

 残る左腕に力を込める。

 ずるり、と血の池を作る足元に滑りながらも地面を掴み、切断しかけている体に気を入れ直す。

 

「―――まだだ」

 

 片腕だけで構えをとる。

 両足は、断線しかかってるのか、上手く、動いてくれない。生命力も血液と一緒に垂れ流しで、心臓は鼓動を打つごとに弱まる。

 

「ふんっ、ぬ」

 

 左腕に力を込める。

 鉄にでもされたのか。

 それでも、腕は鈍い音を立てながら動いてくれる。

 そして、一歩踏み出そうとし―――ずるり、と血に足が滑って膝をつく。

 

「ぐ―――この」

 

 力を込める。また立ち上がる。

 そのたびに開いていく傷口から、何か生きていくのに必要なものがごっそりと零れ落ちていく。

 

「もう死にかけているというのに。そんなにそこの女が大事なのかい<黒妖犬>」

 

 『巫女』を命を懸けて守護せんとする血に宿るその咎神の意志か―――いいや。

 

「浅葱先輩は、大事な先輩だ。でも、それだけじゃない」

 

 左腕が、帯電している。

 最期に一太刀を浴びせるつもりか。―――そんなもの。拳打をまともに放てない今の状態で、『完全なる剣』に挑むなど無謀もいいところだ。

 

 だが、こうなるとは予想がついていた。

 夏音が危惧していた時から、それで引き留められて、止まらなかったのは自分だ。

 後悔と痛苦も皆背負い、なおこの体を突き動かすのは、至極単純な想い。

 

 

「本当に宿泊研修、楽しみだったんだ。それを約束破ってでも、凪沙ちゃんを泣かせてでも―――守ると決めたんだ!」

 

 

 だから、絶対に守る!

 吼える。

 物理的な現象を無視して、精神が肉体を凌駕する。

 身体を保持している生体障壁を解いて、この一撃にすべてを集中させる。

 その途端、クロウの目から紫電がぱちぱちと迸り、残っている生命力が大量に、急速に消費されていき―――世界が色を失い静止する。

 

 

 未来はあやふやで、ひとつに決まっていない。

 現在から未来を見渡した時、それは分岐し、変化し、只管何通りにも広がっている。

 起こりうる事象すべてが無限に分岐し樹のように伸びている

 どのような未来へも道は繋がっていて、どのような未来も起こる可能性はある。

 そして、ひとつの道を選んで前に進んだ時、後ろに下がった分岐はすべて無くなり、過去という一本道になる。

 後ろは一本、前は無限。

 未来は未知であり、未定である。

 

 霊視の未来視とは、視認し得た情報と知性が持つ未来への予想を統合して、現実の域にまで高めたモノ。つまるところ、数秒先の未来を視ているのではなくて、現実から導き出される数秒後の結果を視ている。

 直感ではなくて、高度な情報処理技術だ、と師家は語る

 

 従って、当然、外れることはある。視認できない不可視な攻撃や反射域を超えた突発的な不意打ちには、予測できずに食らってしまうし、初めて対峙するような実力が未知数の相手では、読みにくい。

 そして、余りに先のことは脳がオーバーフロウするため、ほんの一瞬先の未来しか計算できない。

 

 だから、もしも何の前提もなく未来を視るのだとすれば、それはもはや予測ではない。測定だ。特権ではなくて、越権行為。

 

『坊やの“霊視()”は雪菜(ひと)のより、『(けもの)』に近いねぇ』

 

 その越権行為をする存在がいる。

 この世に生まれ落ちた直後に、あやまたずに未来を告げて、そして、死ぬ、人頭獣体の魔獣『(くだん)』。

 生まれてすぐに死んでしまう『件』は、何も見ないで未来を予言する。

 どんな未来になるかという到達点を測定できている。

 だからこそ、代償として生まれたばかりで『件』は生命が尽きる宿命なのだ。

 無限の分岐をひとつに集束させて、必然としてしまえるのだから。

 

 そして、未来が測定できるだけでは、この状況は覆せない。

 この『完全なる剣』より、先手を打てるようでなければ―――

 

『この私と使い魔契約している以上、これの才能がないとは言わせんぞ』

 

 <空隙の魔女>の眷獣として覚えたいものがあった。

 彼女のサーヴァントであるとそんな証として、せがんで召喚黒魔術のついでに教えてもらった、空間制御。

 何度か補佐があってしたことがあったが、独力では、移動するなら自分の足でした方が速いと主からのお墨付き。

 空間制御に必要な魔術演算量は、移動距離に比例して指数関数的に増大するものなのだから、単独でやるというのがまず無茶だ。

 そして、空間制御は目的地の座標を正確に捉えてなければ行使できない。

 

 ―――今、クロウは必然とされた確固たるイメージの未来像が頭の中にある。

 

 ただし、それは空間ではなく、一秒後の時間。距離とは別次元。空間制御で記憶を辿り過去の現象を引き出すという技が可能だというが、その難易度は超高等魔術級のものだ。

 それでも南宮クロウには過去と同じ一本道であって、その一本道の距離をゼロにするイメージが、できる。そう確信した。

 

 

 必然とされた未来を視て、それが現在と未来が重なり、現在と一秒先の未来までの時間がゼロになれば―――届く。

 

 

「ばいばい、<黒妖犬>。人間のまま君を殺してあげよう」

 

 振り下ろされる錬金術師の『完全なる剣』。放たれるは、英雄の絶技に等しき、斬られたことも肉体に気づかせない神速の水銀斬撃(ウォーターカッター)

 一秒後、×()×()×()×()×()×()×()×()×()×()×()×()×()×()×()×()×()×()―――

 

 

 霊視で『一秒先の未来を視て』、空間制御がその『到達する時間をゼロにする』。

 

 

「―――<(ユラギ)>!」

 

 

 生の終わりに見た未来へ伸ばした、その因果を超越させて自らの拳は、『完全なる剣』より一秒先に届かせる。

 

 姿を見た者を死に至らしめる。

 突然、轟音とともに出現し、轟音、閃光とともに消える。地面は爆発したようにえぐられた跡が残る。

 ―――その<黒妖犬>の伝承の通り。

 

 閃光が世界を白紙に染め上げた後。

 少年ごと割断されるはずの風景は、いつまでも動かない。右腕を振り下ろした体勢のまま錬金術師は、いつまでも動かない。

 

 変わらぬ景色の中で、唯一欠けているのは、錬金術師の胸の中央にある――<偽錬核>のあった場所の、一点の拳大の孔。

 貫通させて余計な罅を生じさせないほど力の収束した、最低最小限の致命傷。それが、天塚汞を止めた一撃だった。

 

 

「念のために……ダミー、で―――正解、だった―――」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「これで、終わった……」

 

 標的の核は打ち砕いた。

 

「あとは……凪沙ちゃんに謝って……」

 

 まだ、約束まで間に合う。

 なのに、もう体は言うことを、聞いてくれない。

 

「ああ……ダメだ。一緒に、大人に……それまで……死にたく、ない」

 

 それだけ言うと、力尽きたように両目を瞑った。

 

 瞬間、クロウの避けた腹部より腸は流れるように出ていき、急激に体温が下がり、視界が上の方から暗く染まり、さらに両足が断たれた追い打ちに姿勢はついに踏ん張れず、地面が目の前に迫ってくるのは見えた。

 そのまま地面に激突したのかどうかは、よくわからない。

 その前に、クロウの意識は途絶えていたから。

 

 

 

 各部をバラバラにして血塗れに倒れる後輩の身体。

 その様子を見て、浅葱は静かに思った。

 

 ああ、これは死ぬな、と。

 クロウはもう、まともな方法じゃ助からないな、と。

 

「古城、クロウが……クロウが……死んじゃう……」

 

 そう、呟いて。

 そこで、ふいに浅葱の意識は暗転した。

 

 

『錬金術の奥義をもってしても、死人を生き返らせることはできぬが。絶命する間を引き延ばすことはできよう。無駄なあがきとなるかは賭けだが、それをするだけの価値がこの小さな英雄にはある』

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「なんだよ、これ……」

 

 最初に古城が見たのは、修道院に起きた異変。

 正面の礼拝堂が完全に崩壊し、瓦礫があちこちに飛び散っている。あたかも巨大な怪物が起き上がって、建物を内側から突き崩したような有様だ。

 そして修道院を警護していた特区警備隊の姿はなく、代わりにその場に金属製の精巧な人型の彫像たちがあった。

 これが、錬金術師の仕業であることはすぐに理解した。

 だが、古城は天塚に用はない。

 

「浅葱は……? クロウは……?」

 

 足を止めてあたりを見回すと途端にそれまでの負担が一気に心肺機能に襲いかかる。荒い呼吸を繰り返し、絶望的な焦燥感に襲われながらも、古城は二人の姿を探す。彼女らとは長い付き合いで、たとえどんな人ごみの中に居ても、すぐに見つけ出せる自信がある。それなのに今は、この場所に気配すら感じられない。

 

「浅葱! どこだ、浅葱……!? クロウも聴こえたら返事してくれ……!」

 

 そこで、古城は、林の奥で木々が倒れてる、戦闘の痕が残る場所を視界で捉えた。

 既に日は落ちているが夜行性の吸血鬼の視力は確かにそこで、二つの人影を見つける。

 そして吸血鬼の感覚は同時にそこに強い血の匂いも―――

 疲労とは別の理由で呼吸が早まり、心臓の鼓動が再び速度を上げ始める。それらの反応に急き立てられるように、古城は林の奥へと踏み込み、

 

「浅葱! クロウ!」

 

 そこに、まず確認したのは制服姿の少女。

 校則違反ギリギリまで飾り立てた派手な服装と、明るく染めた華やかな髪形。そのくせ閉じた端整な横顔には、彼女本来の真面目な性格がにじみ出ているだろう。

 黙っていれば文句なく美人なのに、いつもニヤニヤと色気を感じさせない笑みを浮かべていて―――

 

「すぅ……すぅ……」

 

 だから、無防備な寝顔は見取れるほどに愛らしいものだ。

 その、甘く愛おしい息遣いを、古城の胸を安堵させてくれる。

 良かった。

 息をしてる。生きてる。無事だ。

 そして―――

 

「クロウ」

 

 その向こう、倒れた木々の陰に隠れて、真紅の血溜りに溺れるようにうつ伏せに、“五体満足”で倒れる後輩。

 出血がひどいが、その躰は人よりも頑丈。痙攣を続けている手足を見て、不覚にも生きているかもしれないと安堵してしまう自分がいた。しかし直後に気づく。

 

 おかしい。

 獣人種の自然治癒力が働いていないのか。

 

 遅すぎる理解に達したとき、古城の全身を悪寒がぶりかえしてきた。一度生還に安堵したからか、反動にこれまでにない冷たさを覚える。

 薄らとだが痕の残っている、今も塞がることのない傷口から不定期にビュクビュクと血を噴いている。

 体から急激に血が失われていくのに従って、手足が本人の意思とは関係なく蠢いているだけだと気づいたとき、古城はこの後輩の死を認めた。死に近い、ではなくて、死そのもの、なのだと、認めて、しまった。

 

「嘘だろ……おい……なんで、こんな……」

 

 ああ、もう助からない―――

 

「ふざけんなよ……また……死んだふりしてんのか、おい!」

 

 うつ伏せに倒れたその躰を起こし、古城はその血の気のない顔を見てしまう。

 呼吸も、ない。鼓動も、感じられない。

 

「先輩!」

 

 呆然とする古城を呼んだのは、全速で走った古城を追ってきた雪菜だった。

 彼女の呼吸は随分と荒い。まず助かった様子の浅葱を見て一息安堵して、そして、絶命している同級生に気づいて、さぁっと顔が青ざめる。

 

「クロウ君……!? どうして、こんな……」

 

 気丈を装う雪菜の声が震えている。当然だ。幼少より獅子王機関の剣巫として鍛えられても、確かな愛情を受けて育った彼女は人間で、そして経験の浅い見習い故にだれか親しいものの死に直面したことがない。

 しかし、そこに雪菜が負うべき責はないのだ。

 

「俺の……せいだ……」

 

 そう、悪いのは自分。

 

「姫柊の言ったとおりだ……俺が迂闊にこんなところに連れてきたせいで、無関係な浅葱を巻き込んだんだ……」

 

 そして、

 

「そんな俺のヘマを、クロウに拭わせちまった……」

 

 何が、ふざけるなだ。

 酷い仕打ちに憤りながら、この後輩を殺してしまったのは、自分のせいだ。

 浅葱を守った後輩は誇らしい。しかし、そこに命懸けで失わせてしまった古城は恥じ入るべきだ。

 

「俺が、また―――そうだ、あのときも―――」

 

 記憶が、疼く

 

『た、助ける。我の“後続機(コウハイ)”』

 

 あったはずだ。助けられる手段が、死にかけていた後輩を救った力が―――

 

 思い出せ!

 

 過去の記憶を探ろうとする古城の脳を、握り潰すように制止をかける圧迫感。深く深く潜るたびに、苦痛と嘔吐に苛まれる。

 

 思い出せ!

 

 くるとわかっていても、死ぬことはないとわかっていても、ある領域を越えてしまった激痛は耐えられるものではないし、慣れるものでもない。脳みそに電極をブッ刺して編み物を縫うようにこねられるその痛みは、絶叫と狂ったようにのた打ち回ることをなくして語ることなどできない領域にあった。

 

「止めてください、先輩! 先輩―――!」

 

 古城が何をしているのか悟った雪菜が必死で制止を呼びかけてくる。

 だが、今は邪魔だ、と振り払う。

 

 思い出せ!

 

 現実にしては一瞬、だがこの精神世界で、長く苦しい、堪え難い苦痛の時間が続いている。心臓のリズムは狂い、血流がメチャクチャに押し出されて全身が悲鳴を上げる。痛みについに血涙まで噴き出して、噛みしめた奥歯が思わず割れ砕ける。

 

 思い出せ!

 

 そして、撒き散らされる凄まじい魔力の波動にびりびりと人工の大地が震える。

 眷獣たちが暴れている。世界最強の吸血鬼――<第四真祖>が血の中に従える異界からの召喚獣。それを霊媒の血もなしに、痛みに塗れた記憶を頼りに引き上げようという無茶をしているのだ。無制限に暴走しても何ら不思議ではない。

 やがて苦痛の時間は遠くなり、視界が真っ白に染まり―――

 忘我の果てに、暴走する真紅の魔力が、ひとつの影を作り始める。

 この世界最強の吸血鬼の血に宿る十二の内のひとつ。

 あのとき、“彼女”が呼び出した『十一番目』の眷獣<水精の■■>―――

 

疾く在れ(きやがれ)ぇぇえええっ!!!」

 

 

 

 何かおぼろげに実体が形作られても、そこから洩れる魔力の暴走はさらに勢いを増す。

 雷撃や衝撃波の余波が生じて、それをどこからともなく現れた紗矢華を模した師家様の式神が、強固な防護結界を展開して雪菜の盾となり、その致命的な直撃を防ぐ。

 おそらくまだ見ぬ彼の眷獣を呼び起こそうとしているその無茶に、絃神島が耐え得るものではなく、そして何より先輩が危うい。あれが想像を絶するほどの苦痛を味わい、噛み殺してる表情であることは雪菜にはすぐに察した。

 しかし、<雪霞狼>のない雪菜に<第四真祖>の力を止める術はなくて―――

 

 ぷっつん、と糸が切れたように、古城の身体が頽れた。

 

「先輩!」

 

 それと同時に、魔力の暴走も霧散する。

 雪菜は倒れる古城の傍に駆け寄った。途中、血を流している額を指で拭い、そして、昏倒している古城の口に血の付いた指先を入れる。

 

「お願いです起きてください! こんなところで暴走して、先輩まで失ったら私は……!」

 

 そう呼びかける雪菜に、指先を吸われる感覚。赤子が母乳を吸うように、この優れた霊媒たる剣巫の血を余さず口腔内の舌は舐め取る。そして、呻きつつも、僅かにその瞼が反応する。雪菜は膨らませた胸を、ゆっくりと撫で下ろし―――

 

 

『おお……お……Oooooo……』

 

 

 一瞬先の未来を視る雪菜の霊視が、その存在を捉える。

 向こうの茂みから聴こえる罅割れた歪な声。

 発しているのは、黒錆に覆われたような、金属質の肌をさらし、胸元に穴を空けられ、そして端々から輪郭が融けている――錬金術師、だったもの。

 人間の形が崩れて、ドロリとした漆黒の流動体へと変わっていく。不定形の液体金属の塊に。

 

「まさか―――あれが、<賢者の霊血>……!?」

 

 不滅の肉体と無尽蔵の魔力。錬金術師が追い求める完全なる“神”の肉体。

 ―――こんな、歪なものが……!

 

 金属生命体の躰より伸びる複数の触手。それぞれが意思を持つ蛇のようにのたうって、様々な角度からこちらに襲いにかかる。

 

 ―――しまった……っ!

 

 霊視で視たのに、動き出すのに遅れた。吸血鬼の反応速度をもってしても回避不能の攻撃に、人間の雪菜が先手を取らずに避けられるわけがない。

 

 ―――寸前、雪菜に迫っていた触手はすべて、空間ごと食い千切られた。

 

疾く在れ(きやがれ)、<龍蛇の水銀(アル・メイサ・メルクーリ)>!」

 

 意識を覚醒させた古城が鮮血噴き出す両腕を掲げる。鮮血はゆらりと陽炎のように揺らぎ、巨大な眷獣の姿に変わる。『三番目』の眷獣で、すべての次元ごと空間を喰らい、世界から消滅させる次元食い(ディメンジョン・イーター)―――

 水銀の鱗に覆われた双頭の蛇龍。

 

 あれが浅葱を襲い、クロウを殺した―――

 そして、今斃さなければ、雪菜が殺されていた―――

 

 古城は何故かそれを理解する。

 魔族としての本能がそう告げる。容赦はするな、と。

 

「―――食い尽くせ!」

 

 宿主より命じられた水銀色の眷獣は緩やかに流動する蛇身をうねらせて、開いた巨大な咢に、かつて天塚だった漆黒の流動体を呑み込み、跡形もなく消していく。

 

『Oooooooooo……!』

 

 融合増殖する不滅の肉体も、再生能力も、双頭龍の攻撃の前には無力であり、分裂しても

ふたつの咢は欠片も逃しはしない。

 漆黒の流動体は分裂した全ても含めて、消滅した。

 あとに残されたのは破壊されて、何もない平野となった学校の裏林だけ。

 暴れ足りずに不満そうな双頭龍を強制退去させて、古城はようやく深呼吸を吐いた。

 

「終わったんだな……これで……」

 

 夕闇の中、力無く呟く古城の背中を、雪菜は痛ましそうに見つめる。

 後輩の仇でもある、異形の錬金術師は斃した。だが、そんなことを望んでいたわけではない。

 結局、天塚が何をしたかったのかも理解できず、しかし、古城はそれを知りたいわけではない。たとえ知ったとしても、後輩の命はもう―――

 

「古……城……?」

 

 それでも、救えたものがある。

 後輩が、命がけで、救ってくれたものが。

 眠っていた、華やかな容姿の女子高生が、ぎこちなく上体を起こす。

 

「あいたたたた……―――って、クロウは!」

 

 制服が破れて、血に塗れながらも、真っ先に後輩の安否を確認しようとする。

 それに何かを堪えるように目を瞑り、そして俯くのをやめ、重く感じる胸を反らして、一度、空を見る。

 泣くな。俺に、ここで泣いてやれる資格はないんだ。だから、堪えろ―――

 

「浅葱……」

 

 呑み込んで、それから古城は真正面に対峙して、浅葱に声をかける。

 そんな古城に気づき、浅葱はほっと安堵するよう表情を緩ませて―――怪訝な顔をする。

 

「クロウは、もう―――「古城、あんたの胸に張り付いているその子は何なの?」」

 

 言われて、見る。

 やけに重い体―――それは、罪悪感とか精神的な重責からではなく、実際に重量がひっついているのだ。

 

「え? えと………………

 なにこれ?」

 

 思わず、間抜けな声を上げてしまう古城。古城の前に回り込んだ雪菜も“それ”を確認して、目を瞠る。

 古城の胸には、その制服にしがみついて―――

 

「くぅ………くぅ………むにゃむにゃ……」

 

 すやすやと眠る――どこか見覚えのある――小さな金髪褐色の赤子がいた。

 ぶかぶかの、そして、ボロボロに切れた蒼銀の法被に包まれている姿は零歳児のよう。薄らと、妙に力強い、その金色の瞳で古城を見上げ、小さくマシュマロのように丸まっちいお手手が古城の制服のシャツ生地を綿の軽さで、しかししっかりと握っている。

 直感的に、確信した古城は、もう一度天を仰いでから、遠い目で若干現実逃避。

 

(ああ、このパターンは、前にもあったなー……)

 

 泣き笑いに近いが泣くにも笑うにも実に中途半端な感情を持て余しているといった風の表情を浮かべながら、浅葱に仕切り直して言った。

 

 

「クロウは、もう……なんか、赤ちゃんになっちまった」

 

 

人工島南地区 マンション

 

 

「はぁ……」

 

 凪沙はリビングのソファに蹲って、深く溜息を吐く。

 部活を休み、学校から帰宅してから、何もしてない。

 明日の宿泊研修の準備は昨日のうちに済ませてあるのだが、風呂の支度も夕食の準備もしない。買い忘れてた牛乳は兄にメールで頼んでおいたけど。

 

「なんで、あんなこと言っちゃったんだろ」

 

 思い出して、また消沈。自己嫌悪。

 でも、そんなことばかりしてるわけにはいかない。

 もうすぐ兄が帰ってくることだし、明日から三日間ほど家にいないから、日持ちのするおかずも用意しておかないといけない。

 とりあえず、身体を動かそう。

 そう、自分に言い聞かせて凪沙がソファより身を起こして、立ち上がり―――

 そこで、玄関のベルが鳴った。

 

「はいは~い、今出ますよ」

 

 玄関を開けるとそこに、

 

「よ、よお、凪沙……」

 

 兄が、ひとつ年上の友人を連れて、赤ちゃんを胸に抱いて帰ってきた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

『―――え、えぇ~~~~~っっっ!?!?!? こ、古城君、何その赤ちゃん!? どうしたの!? それから浅葱ちゃん―――わ!? どうしたの、その恰好!? ―――は! まさか、その子、古城君と浅葱ちゃんの―――』

 

 この通り、予想されていた妹の猛追求をどうにか躱した古城は、大きく嘆息して、ソファに腰を下ろす。

 

 あれから、古城たちは修道院跡地に大部隊で押し寄せてきた特区警備隊を避けて現場を後にした。古城は未登録の吸血鬼で、雪菜はその監視役。浅葱は胸元を少し切られていて、服はボロボロ。そして、何か小っちゃくなって生き返った後輩。この状況で警備隊に捕まって、あっさり解放してもらえるわけがない。

 一応、那月にも連絡を取ろうとしたのだが繋がらず、雪菜も師家様に式神を破損させてしまった報告も含めて相談しに行くと途中で離れて、浅葱は念のために後遺症がないか医師

免許を持っている母に診てもらおうとついてきてもらい、結局、赤子は家まで連れてきてしまった。

 

『仕事で忙しいってことで、一日だけ那月ちゃんの遠い親戚の子を預かったんだが、そしたら浅葱が張り切って、できもしない料理をしようとして鍋を爆発させちまって……うんぬんかんぬん』

 

 となぜか上機嫌だった浅葱は、その不名誉な言い訳に顔をしかめたものの、古城もこれ以上に上手い言い訳が思い付かなかった。

 怪物に襲われたとか、眷獣の暴走に巻き込まれたとか、重度の魔族恐怖症の凪沙に聞かせるわけにもいかない。眷獣の暴走に関しては浅葱にもだ。浅葱も前回、幼くなった担任『サナちゃん』を経験していたおかげで、同じ状況に陥ったと勝手に納得してくれたので助かった。

 

 そうして、素直な凪沙は大変だったんだね、と理解を示してくれて、服がボロボロの浅葱にシャワーをすすめて新しいバスタオルと古城のジャージを用意してから、買い忘れていた牛乳と赤ちゃんの世話用具等を買いに急遽家を出ていった。

 

「相変わらずちょこまかしてて可愛いわね、凪沙ちゃん。今のクロウのような子供もいいけど、妹も欲しいわね」

 

「え?」

 

「あ、ちがくて……別に古城との子供とか、義理の妹とか、できちゃった婚とか、そういう意味じゃなくてね」

 

 焦ったように何やら訂正する浅葱を胡乱気に眺めつつ、古城は彼女を追い払うように手を振った。

 

「何でもいいからさっさと風呂入れ。場所はわかるよな」

 

「え、でもクロウは」

 

 と今もコアラのように古城の胸にくっついてる赤子を見る。

 

「あう?」

 

 すると浅葱が視線を向けたせいか、赤子の視線がひゅっと彼女に向かった。赤子の反射行動は予備動作が一切なくて、すべてが唐突。とはいっても、泣いたりはしない。不思議そうに口を半開きにして見つめ返す。

 可愛い。ごく単純に、そう思える。

 とはいえ、それが笑顔でないのは生まれたばかりのころに戻って感情を知らないからか。それとも感情がないほど純粋無垢なのか。サナちゃんよりも幼い赤子。赤子の世話をしたことのない古城にはその判断がつかない。

 

(なんにしても、クロウがこうなったのは俺の責任だからなぁ……)

 

 赤子から戻らなかったらどうしよう、と罪悪感と双子の不安がぞっと血の道を冷やす。

 そんな意識を向けたからか。浅葱からこちらを見上げる。赤子の、つぶらでとほんとした瞳が、ただ真っ直ぐに古城を見つめてくる。

 

「あうあう?」

 

 しがみつきながら、ぷについた右掌を古城の顔に向けて、触覚のようにぶらぶら振っている。

 ぅっ……と、それを見て鳩尾を震わせてうめく浅葱。可愛い。古城も罪悪感とか難しいことを考えてなければ素直にそう思えただろう。

 腕に収まった赤子は、柔らかく、軽い。そして、怖いくらいに静かだ。古城の不器用な腕の中でも全くむずがらないのも、おとなしいというより何かの欠如に思えた。

 人間としてではなく、道具として生まれたばかりのころに戻っているのだから。

 

「まるで『野獣の王子(アダム)』だな……」

 

 古城は思いついた名前を無意識に口にする。そう、魔女に造られた無心の少年は、現代の殺神兵器というよりも、お伽噺の呪われた王子のようだ。

 そんな古城の呟きを拾った浅葱が、ふぅん、と何やら思いついたように、

 

「『美女と野獣』の、“野獣の王子アダム(ビースト・アダム)”―――いいわね、凪沙ちゃんの前でクロウって呼ぶわけにもいかないんだし、何のひねりもなくクロと呼ぶよりは、アダムのほうがいいんじゃない」

 

「いや別に、俺は呼び名を提案したわけじゃなくてだな。っつか、風呂行けよ」

 

 浅葱の素直な賞賛に、古城は無性に気恥ずかしさを覚えてしまう。

 ただ、この心の空っぽな存在を見て、何かを吹き込んでやりたいと欲を感じてそう口にしたのだ。

 とにかく、こっぱずかしいので古城は再度、浅葱を促して、風呂場へ行かせる。

 そうして、ひとりになった古城は大きく息を吐いて、

 

 

「あー……那月ちゃんになんて説明すっかな」

 

 

人工島西地区 高級マンション

 

 

 天塚汞は、『魔族殺し』の南宮那月を見誤っていた。

 

 

「神々の鍛えた<戒めの鎖(レーシング)>の縛から逃れられるとは奇術師に転向すれば案外稼げるかもしれんぞ。

 ―――それでも、私をやれると思うのは甘いがな錬金術師」

 

 

 叶瀬夏音のいる建物に侵入。

 下見にも協力してくれた“協力者”の情報支援でここの構造は把握済み。

 だが、そこは一度捕らえた獲物を逃さない結界(おり)

 そして、主の<空隙の魔女>はすべての元素を不活性状態で練りこんだ完全秩序(コスモス)の沼を空間制御で即興で作り出せるほどの異常な技量の持ち主。

 “何物にも変化しない”終末の泥の中では、錬金術に取り込めるものがない。

 底なしの虚無に捕らわれた錬金術師はそこから脱出することは不可能だ。

 ―――本体で侵入しなくて正解であった。

 

「アルディギアの腹黒王女に貴様を捕らえてくれと頼まれてな。このまま<監獄結界>に放り込んでやるつもりだったが、貴様ただの切れ端か」

 

 その慧眼は、ここにいるのは『天塚汞』の意識をコピーした“偽物”だとすぐに気づいた。

 それでも質問に答えられるだけの知能は有している。

 

「二つ訊こう。なぜ今更叶瀬を狙う? 彼女の養父から、必要な<賢者の霊血(もの)>は奪ったのだろう?」

 

「彼女を邪魔だと思っている人間がいるからさ」

 

「何……?」

 

 敵を作るような性格でないとしても、アルディギア王家の血を引く女児である叶瀬夏音は生まれついての強力な霊媒。高めれば高次空間の神気すら受け入れてしまえる潜在能力は、『魔族特区』でも最高ランクだ。

 

「それにあの子だけが生き残っているのはあまりにも不公平が過ぎるじゃないか。だから続きをしなくちゃね。あの5年前の惨劇の続きを、今度こそ……!!」

 

 その憎悪の発露に、表情を震わせる那月は、扇子で口元を隠し、

 

「では、最後の問いだ。馬鹿犬――<黒妖犬>をどうした?」

 

「ああ、そうか。そういえば<空隙の魔女>が飼い主だったんだっけ―――」

 

 那月の問いを嘲弄するかのように、笑い含みの冷淡な声で、とぼける。

 

「さあ、どうだろうねぇ? 細切れにしてしまったと思うからどこに落ちてるのかわからないよ? ごめんよぉ、君のサーヴァントだとは知らなくて。知ってたら素敵な彫像(オブジェ)を土産にしてきたんだけど」

 

 嗤う。もうこれ以上、こちらも何もできることはないが、向こうもこの自己増殖型の液体金属生命が相手ではどうしようもないのだから、思いっきり挑発して、その感情を逆撫でする。

 怒りに我を失い、隙ができれば、幻影体とはいえ一太刀を―――

 

「―――アスタルテ、叶瀬夏音のところへ行け」

 

 パチン、と扇子を閉じて、侍らせていた人工生命体(ホムンクルス)の少女に、命じる。

 

命令受託(アクセプト)

 

 抑揚のない無機質な声で応答し、アスタルテはこの地下駐車場より立ち去る。

 二人きり。そして、今のでこの結界の逃走ルートが分かった。

 あとは近づいてきたところを触手を伸ばして、魔女の首をはねれば、この脱出不能の罠も―――

 

「<薔薇の指先(アスタルテ)>に魔力を根こそぎ喰らわせて、霊血のサンプルを手に入れようかと思ったが―――気が変わった。もうあるしな。屑鉄はやはり焼却処分に限るな」

 

 冷然と見下ろして、息を吐く。

 そして、彼女の背後から空間を引き裂いて出現したのは、黄金の鎧に包まれた巨大な腕。

 機械仕掛けの悪魔騎士<輪環王(ラインゴルド)>。欧州魔族を恐怖のどん底に突き落とした、時空すら歪めるとされる<守護者>。その一端である黄金の巨大な腕の中より、漆黒に濁る焔が灯される。

 

「魂のない抜け殻には過ぎた贅沢だが。冥土の土産に、私が『魔族殺し』と恐れられた所以が何たるか、地獄の業火の中で教授してやろう」

 

 週末の泥さえ喚び出す大魔女の空間制御によって、この地下駐車場を一時、魂をも灼き尽くす煉獄に塗り替えられた。

 

 

人工島南地区 マンション

 

 

 ―――まだ、終わっていなかった。

 

 <偽錬核>を5つ植え付けられて制御不能となった<賢者の霊血>は、以前暴走している。

 <偽錬核>は、天塚が死ねばその機能を停止するのに、まだ働き続けているということは、本体がまだ生きているということ。

 <偽錬核>に、切り取った身体の一部を取り込ませることで半人半金の天塚は分裂体を作ることができる。人間の姿形に執着している天塚が怪物の姿に成り果てたのならば、それは間違いなく偽物である、と。

 

「おお。(ヌシ)の料理は美味いな。このような温もり、久々に賞玩したわ」

 

「もう、大げさだなあ浅葱ちゃん。こないだ夏音ちゃんの快気祝いの時にも食べに来てくれたじゃない。それよりどうしたの、その喋り方? 流行ってるの?」

 

 浅葱――に乗り移っているヘルメス=トリスメギストスの末裔にして、大いなる作業(アルス・マグナ)を究めし者、そして、天塚を破門にした師である大錬金術師ニーナ=アデラードから説明された。

 

「そ、そうなんだよ。最近、高等部でな!」

 

 彼女には、切断された箇所を治し、後輩の命を古城たちが来るまで繋ぎ止めてくれていた。おかげで浅葱に取り憑いていたニーナは残る僅かな“霊血”を使い果たしてしまい、元の<賢者の霊血(からだ)>を取り戻すまでは離れられなくなってしまったが。

 しかし、恩人であることには変わりがない。

 けれど、自称26歳の担任の10倍以上の270歳と、周回どころではない時代遅れの彼女に、今どきの女子高生の真似するなんて無理があり、慌てて誤魔化した古城はひやひやとする。

 さらには、大錬金術師は浅葱の演技を忘れており、

 

「夏音というのは叶瀬夏音のことか? 元気にしておるかの?」

「……おい、ニーナ……じゃねぇ、浅葱!」

 

 小声でたしなめる古城だが、その心情は察していた。

 叶瀬夏音は彼女の名を冠しているアデラート修道院の出身者で、5年前まで夏音の親代わりであったのだ。娘も同然の夏音を気にかけないわけがない。

 

「今はもう元気だよ。最近は前より明るくなったかも。アスタルテさんとも仲良しだし、クロウ君との暮らしも楽しいって言ってたよ」

 

 今日の夕飯グラタンを頬張りながら、凪沙は答える。それに優しげに目を細める浅葱(ニーナ)。それから、

 

「う」

 

 と呼ばれて返事をする赤子のアダム(クロウ)

 今はきっちりふんわりもこもこな赤ちゃん服を着てる(材料バラ・手順物質変成・作成大錬金術師様)。

 小さくなっても食欲旺盛なところは変わっていないのか、自分の分の乳児用のご飯をあっという間に平らげて、今は、このこんがりと焼けたチーズの匂いを漂わすグラタンに夢中なようで、縛り付けられている椅子から必死にそのちっちゃなお手手を伸ばしてる。

 

「アダム君ダメでしょー。グラタン皿アツアツなんだからさわちゃったら火傷しちゃうよ」

 

「あうあう~」

 

 困ったように叱りつけながら、アダムを膝の上に乗せる凪沙。

 小さい。どこを撫でても丸い。全身クッションみたいに柔らかい。見た目零歳児なのに、よたよたと立って歩けて、突っつくとあっさり転がって『ぅー』と不思議そうにこちらを見上げてくる。

 ―――つまるところ、ひたすら可愛いのだ。

 感心したように、共に食卓を囲んでいるお隣の雪菜が相槌を打って、

 

「あやすのが上手ですね凪沙ちゃん」

 

「そう? 何かよくわからないけどこのことは波長が合う感じがするんだよね」

 

「あうあうあ~」

 

「もうしょうがないなぁ。ホワイトソースのとこだけちょこっと舐めさせてあげる」

 

 ふーふー、と凪沙はスプーンの先に掬ったグラタンのホワイトソースを息で冷ましてから、

 

「はい、あ~ん♪」

「あう♡」

 

 ―――ちょっ、おま!!

 

 がたっ、と急に立ち上がろうとして机に脚をぶつけてしまう古城。

 その間に、ぱくり、と凪沙のスプーンを頬張るアダム(後輩)。

 失態を悟らせぬよう、懸命に何事もなかった風に冷静を取り繕う古城だが、完全に隠しきれていない。

 

「(いや、アダムがクロウだけど、今は赤ちゃんだから別にどうということは)―――熱っ!」

 

 目測を誤り、思いっきりグラタン皿を掴んでしまう。

 

「(赤ちゃん(今のクロウ君)に何反応してるんですか先輩。いくらなんでも大人げなさ過ぎます)」

 

 狼狽える古城を、水で濡らした手拭いを渡しながら冷たく眺める雪菜が凪沙に聞こえない音量で呟く。

 

「(し、仕方ないだろ! 目の前でこんなのやられたら!)」

 

「(はぁ、もう本当に仕方ないんですから)」

 

 まったく先輩はシスコンですね、という心中の呆れまでもが、はっきりと聞こえてきそうな冷淡な眼差しである。

 それからひとり早めに食べ終わっていた雪菜は、凪沙に抱きかかえられている手を差し出して、

 

「じゃあ、今度は私がアダム君を預かります」

 

「あ、そう。ありがとう雪菜ちゃん」

 

「ぅぅ~」

 

 ぎゅっと凪沙にしがみつく。まるで雪菜から逃げてるように……

 

「あれ? どうしたのアダム君? 雪菜ちゃんとこに行かないと」

 

「アダム君、ほら、おいで」

 

「ぃぁ」

 

 説得されても、プイ、と反対側を向かれる始末。

 見れば、表情は泣き顔でもなく変わってないように見えるけれども、小さな身体はぷるぷると微動してる。

 雪菜も微妙に表情がひくつき始めてる。

 

「あ、アダム君……?」

 

「ぅ」

 

 ……ひょっとして、身体は小さくなったけれど、『怒ると怖い』記憶は覚えてたりするのだろうか? それともどこか将来は教育ママになりそうな厳しめの気配を察知したのか?

 なんて、古城が考えた時、剣巫様はついに強硬手段に、

 

「お、お姉ちゃんと遊びましょうね~~♪」

「ぅぁ~~!?」

 

 やや強引に凪沙より攫われたアダム。

 大人げないなぁ……と思うが、表情には出さないように努める古城。

 腕の中でじたばた暴れるアダムを、雪菜は、

 

「ホーラ、高い高い」

 

 懸命にあやすが、無反応。

 いやいやと身体を揺らしてる。

 

「高い高ーい!」

 

 それでも精一杯の笑みを頑張って作る雪菜は、もう一度!

 しかし、顔を青褪める始末で、

 

「食後の赤子をそんなに揺らしてどうする! ほれ、儂に預けい」

 

 横から割って入った浅葱(ニーナ)が雪菜よりアダム(クロウ)を取り上げ、それから顎を肩に乗せるように抱きながら、とんとんと赤子の背中を弱めにかつしっかりと叩く。

 時折、上下に背中をさすり、それから叩く角度を変えたりして、

 

「……けぷ」

 

 食後の赤子よりげっぷを出させた。

 すっきりしたように顔色も良くなっていく。

 

「あ……」

「うわあ、すっごくて慣れた手つきだね浅葱ちゃん」

 

「ふ、儂は夏音のおしめだって変えたことがあるんだぞ。そこらの小娘と比べ―――「うぉほんっ! 浅葱、ちょっとこっちに来てくれ」」

 

 亀の甲より年の功。今どきの若い連中の駄弁りを真似ることなど造作もないわ―――といちいち古い言い回しで自信のほどを語ってくれたが、もうこの大錬金術師は喋らせない方が良いと古城は判断。270歳にもなればボケてきても不思議じゃない。

 幸い、勘の鋭い雪菜は、ショックを受けて消沈してるようで聴こえてなかったようだが、まだ事件が終わっていないことを彼女に知られたくないのだ古城は。

 

 旅行に持っていくお菓子を厳選したり、

 パンフレットの内容を全部暗記してたり、

 まくら投げに静かに闘志を燃やしてたり、

 

 だから、『天塚汞が消滅したことで、<賢者の霊血>の脅威は去った』とそう思っているだろう雪菜をそのままでいさせてやりたい。

 細々とした後処理や未解決のクロウ幼少化の問題があるが、後処理は古城たちが直接手を出すことではない。幼少化に関しては、師家様曰く、

 

『暴走させたまだ未見の眷獣を真祖の坊やが制御できるようになるか、その退行(のろい)をかけた眷獣の力を『壊し屋』の坊やが上回る抵抗力を持つか。

 それとも責任とって、元の年代まで雪菜と二人で育てるかだねぇ』

 

 の三択(実質二択)しか古城らにできる解決策はなく、あとは主の南宮那月に任せるのが一番いいとのこと。どのみち<雪霞狼>があってもなくても雪菜にクロウを戻すことはできず、また今の使えない雪菜を無理に危険に巻き込む必要もない。

 そして、古城はニーナ=アデラードとともに天塚の本体を今日の夜中にでも捜しに行くつもりだが……

 

(アダムをどうするか……さすがに、連れていけねーよ)

 

 かといって、ひとり置いていくわけにもいかない。

 雪菜にアダムを預けるとそれを不審がるかもしれないし、また赤子の扱いを見る限り無理がありそうだ。

 当てのない古城には、天塚の居場所を突き止めるためにニーナの探査魔術も必要だ。

 となると、消去法で預けられるのは、ひとりしかいない。

 今は男女同衾が禁止される7歳より下の幼児だし、問題ない気もするが……

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 こチ……こチ……と。

 真っ暗にはしないよう常夜灯だけほんのりと睡眠の邪魔にならない程度に明るい凪沙の部屋の中で、聞こえるのは、アナログ時計の隠微な作動音と、

 

「……くぅ……んゃ……」

 

 なんだか子犬っぽい寝息を立てるベットの上の赤子(アダム)

 その傍らで、凪沙は一向に眠れないでいた。ベットに横たわり寝にかかってから、かれこれ一時間、明日は宿泊研修で早いのに眠気の糸口すら掴めない。きちんと躾がされているのか、突発的にびぇぇと夜泣きもすることのない、食欲が旺盛だけどそれもまた元気のいい、親に迷惑をかけない理想な赤子なアダムに、原因があるとは思えない。

 思えない、のだが……

 その体熱に温められた匂いとかそんなようなものにいちいち胸が高鳴ってしまう。

 リビングで皆とワイワイやってた時は気にしなかったのに、自室で二人きりになるとどうも変になる。

 どうしてこうなったかといえば、兄古城から一番懐いてるし、一緒に寝てやってくれないか、と頼まれたのだ。

 

(なんか、今日は、いつもよりちょっと暑い気がする……)

 

 寝巻は、薄着で、膝下は輝くような素足で、年頃の男子をどぎまぎさせるに十二分の威力があっただろう。この常夏の島に対応するよう、タンクトップとショートパンツ姿で、ガードが甘い気がするけど、家の中には普段兄しかいないのだからこれで問題はなかった。

 それが今、気になる。しかし、赤子相手に意識してるとは思いたくないのだ。

 

(だめ……寝なくちゃと思うほどに眠くなくなるんだよね)

 

 こうなってくると、もうベットに就くなり吸い込まれるように眠ってしまったアダムが羨ましい。と、なんとなく恨みがましく八つ当たりな視線を向けた瞬間、寝返りを打ったアダムがしがみついてきた。

 

「……んゅ……」

「―――!?!?」

 

 起きてしまったわけではない。夢でも見ているのか、ぅにゃぅにゃと口を動かしながらぎゅっと凪沙の胸に顔を押しつけてくる。

 無遠慮に腹へ乗っかってくる細い手足は人形のそれのようで、でも、確かな温もりをたたえて熱いくらいだった。

 

「もう……」

 

 ふぅ~~、とこの濃密に心臓が鳴かされる原因不明の緊張感やらなんやらを一緒に吐きださんと若干長めの吐息を零す。

 大人の定義というのはあやふやで年代的に凪沙は子供であるも、5歳と10歳の子供が同じエレベータの中でふたりきりという密室環境を想定すれば、5歳から見て10歳の子供は大人に見えるだろう。

 それと同じ。

 この部屋にいるのは、中学三年生の凪沙と、まだ人肌の恋しい赤ん坊。

 子犬のように体を丸めて、紅葉のような指で凪沙のタンクトップをぎゅっと掴んでいる。ずれかけていたタオルケットを直してやると、『んゅぅ』と綿飴を口に詰め込んだような声を洩らす。それになんだか微苦笑して、その髪を撫でる。

 ―――と、既視感が針のように心臓を刺した。

 

(クロウ君に、似てる―――)

 

 常夜灯のみの薄暗い視野に映るその顔が“彼”と重なった途端、そう意識した途端、ただ気恥ずかしいだけだったこの同床が、何だかとても気まずく感じてきた。胸が締め付けられるようで、だから速く速く速くなる鼓動がより強烈に感じられる。痛い、くらいに。

 

 あのあと、HRにも参加しないまま彼は学校を早退した。仕事だから特別欠席扱いにはなるけど、『一時限目までは授業受けられたっぽいのに。警察局も働かせるね』と担任教師がぼやいてるのを聞いて、“凪沙のせいなんだ”と思うようになった。

 

(きっと、クロウ君、怒ったんだよね)

 

 そうとしか思えない。

 だから、顔も合わせたくない凪沙を避けて、クラスにも来なかった。

 

(……あの後、すぐ謝りたいって。ごめんなさい言いたかった。クロウ君が約束を破っちゃうのは本当に仕方がないってこと知ってるのに、クロウ君には皆を守る大事な仕事があって、なのに、無理を言っちゃった。私が、悪いよね……)

 

 目の奥が熱くなり、凪沙は瞼を閉じた。

 

(……もう、私のこと嫌いになったのかな?)

 

 ずっと、わがままで、ひどいことばっかり。

 初めて会った時も、それに―――――の時も、何度も何度も謝りたかった。

 なのに、その逆のことをしている。

 だから―――

 

 

 ぷにっと頬に当たる感触。

 

 

 きゃ―――

 その小さな接触にさえ凪沙は悲鳴を上げ、たまらず目を開ける。

 アダムが、見ていた。

 凪沙のことを、じっと見ていた。

 仄かな闇に満ちる部屋で、その金色の瞳は夜行性動物のように光って見える。

 ただ、それだけで、そう思っただけで、凪沙が心底に恐れる魔族に睨まれたように、硬直。

 その小さな手が自分に向かってくるのが見えても、金縛りで身じろぎもできず。それが自分の顔に触れても、凪沙はもう悲鳴も上げられない。大きな金瞳で、凪沙をじっと見ている。その掌が頬から目元を擦って、そのまま眼球を握り取られるような恐怖感に、反射的に目をきつく瞑って―――手が離れた。

 

「あう」

 

 小さな声。言葉として意味をなしてない。だけど、気にかけてくれたのが不思議とわかるような声。

 おそるおそるもう一度見開いた凪沙は、赤子の瞳に害意のようなものは無いと知り、そして、その小さな手を精一杯に伸ばしていたのは、いつの間にか目元にこぼしていた涙を拭いとろうとしたのだと知った。羞恥で顔が真っ赤になるくらい、自分の愚かさに凪沙は気づかされる。穴に入りたい気分だが、それではしがみついてる赤子も一緒に入ってしまうだろう。

 

「あうあう?」

 

 大丈夫? と伺うように、凪沙を見上げる。

 その幼い声、真っ直ぐな瞳が、凪沙の心の底にまで染み渡る。

 

「あのね、今日、私、喧嘩しちゃったの―――」

 

 気が付くと、凪沙は語り始めていた。

 “彼”と一緒に宿泊研修に行けなくて悲しかったこと、それで“彼”にヒドいことを言って仲直りがしたかったのにできなかったこと、もう“彼”は自分に愛想が尽きたんじゃないかと怖くなったこと、それから仕事でいつも怪我ばかりするからもっと“彼”自身のことも大事にしてほしいと愚痴ったりなど……胸にあるものを全部語った。全部吐き出した。

 赤子はその間、眠りもせず、ただただじっと聞いていた。単に凪沙が煩くて眠れなかっただけなのかもしれないけど、それでも全部聞いてくれた。

 

「あうあ」

 

 どこまで伝わったのか、理解したのか、わからないけれど、聞き終ると最後に、その小さな手をまた精一杯伸ばして、凪沙の頬をそっと撫でた。

 労わるような彼の手つきで、もう一度こぼれそうになった滴を拭い取る。

 不思議と、安心した。力強い大きな体に抱かれているわけではないけれど、それで十分に心の中の怖さや、そして罪悪感が軽くなったような気がした。

 ありがとう、と言葉にせず唇だけを動かすと、この小さな温もりに身を任せて、凪沙は眠りに落ちていった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 早朝。

 

 

「―――アダム(クロウ)が、どこにもいねぇっ!?」

 

 

 監視役にこっそり徹夜で霊血の捜索。

 宿泊研修に出かける妹の寝坊。

 そして、同級生の誤解をとくのにドタバタしていて、気づくのが遅れてしまった。

 てっきり昨日預けた妹の部屋で眠っているのかと思ったが、古城がベットの上をかくにんするともぬけの殻。

 大掃除が必要になるレベルで部屋だけでなく、家全体を捜索したが見当たらない。

 

「治す方法もまだ見つかってねぇのに、その本人もいなくなったらどうしようもねぇぞ」

 

「まあ、落ち着け。儂が探索魔術ですぐ見つけてやる。赤子の足だ。そう遠くには行けんだろ」

 

 浅葱(ニーナ)が落ち着いた対応で、魔術儀式の準備を終えて、魔力を通して起動―――

 その気配を辿る途中に、凄まじい魔力の波動を捉えた。

 

「―――っ! これは、<賢者の霊血>」

 

 古城もまた全身を硬直させる圧を感じた。

 続いて、雷鳴に似た巨大な爆発音が響き、絃神島の人工の大地が震える。急いで窓から身を乗り出して外を見れば、遠くの海沿いの地区(エリア)より、かすかな黒煙が立ち上っている。

 おそらく、その爆心地となっているのは、空港や埠頭が連なる絃神島の玄関口である人工島東地区の港湾地区。

 ―――そう、中等部の三年生が宿泊研修で向かったフェリー乗り場のある場所。

 

 

港湾地区

 

 

 港湾地区の倉庫には、島外より輸入した大量の鋼材や貴金属が備蓄されている。

 金属生命体である<賢者の霊血>がそれをエサとして求めて、ここを襲う可能性は高いと見た。

 修道院で7名の拠点防衛部隊が金属に物質変成されたと報告があった。そして、昨日より連絡の途絶えた<黒妖犬>がいない以上、この巨大な魔力源が多い『魔族特区』絃神市内での追跡は至難であり、予め標的の出そうな場所に網を張る方針に狩りを切り替えた。

 

 しかし標的にはこちらが築き上げた呪術結界も効かず、冷却炎熱の攻撃も表面と内部に真空の断熱層を造り出し、魔法瓶の原理で本体を守り切る。

 霊血に攻撃の通用しないことに混乱した拠点防衛部隊は、そこで突如現れた天塚汞に銃弾を浴びせてしまい、標的に極めて優れた錬金術の素材を食らわしてしまう。その総量は、おそらく数百kgに達する―――そう、錬金術の秘奥儀式を行うのに十分な量の供物。

 『賢者(ワインズマン)』の復活。

 それと同時に放たれた閃光に、部隊は壊滅。輸入品の倉庫も10棟以上が崩壊。幸い死人こそ多くはないが、装備の損耗と混乱がヒドい。そして、<賢者の霊血>は天塚と共に失踪し、そのまま『覗き屋』は行方不明。

 指揮系統の混乱はひどく、負傷した隊員の収容だけで手一杯だ。この状況でキーストーンゲートの守備部隊は動かせず、予備兵力として本土の―――

 

「―――攻魔官に任せろという警告が警察局から出ていたはずだが。仲間を殺された鬱憤を晴らすにしてもこれでは殉職した奴らも浮かばれんな」

 

 通信機を取り出した部隊長の前にいたのは、黒い日傘を差した小柄な影。

 

「……南宮教官」

 

 空間跳躍でいきなり虚空より現れた、圧倒的に場違いなフリル塗れのドレスを揺らし、一冊の古びた魔導書を胸に抱いた、魔女にして国家攻魔官、南宮那月。

 

「部隊長。馬鹿犬の前では絶対にこんなことは言わんが、獅子身中の虫を取り除けるとは、実に優秀なサーヴァントを私は持った」

 

「何を……?」

 

「貴様の言う通り、死体として火葬場に出すより、溶鉱炉に溶かしてやったほうがふさわしい物だよあれは。物質変成されたものは単なる彫像とかわらない、それがもともとその人物だったかどうか、科学捜査では完全に見分けがつかん。DNAなんて鉄からは採取できないし、彫像ならたやすく人相(かたち)を変えられるからな。遺族の前に出してやらなくて正解だ。危うく偽物を拝ませるところだった」

 

「……、」

 

「新参者のお前らに教えてやる。馬鹿犬の『鼻』は追跡能力に優れた超能力と思われているようだが、その実体は<固有堆積時間>への感応――それも、ちょっと前に拾い食いした物のせいで、過去の記録を共有(コピー)できるくらいには性能が上がっている。いや、元々できる資質があったが、そこから手本を学習した、とも言えるな。魔術世界では長い歳月を経てきたものほど強い力を得ていくが、現代に生まれた馬鹿犬が殺神兵器として足りないものは、<固有堆積時間>だからな。それを補うための学習能力として身についたんだろう。

 だから、声と姿をどんなに精巧に似せようが、馬鹿犬の『鼻』は絶対に誤魔化せん。

 『覗き屋』の声紋()を誤魔化せるほどに、どうやら“変装”には自信があったようだが、馬鹿犬の『鼻』まで誤認させられるとは思い上がったものだな。

 お前の部隊に紛れ込ませていた『人狼』の選別は終わった。残るは泳がせていたお前だけだが、予備兵力と称して本土から連れ込もうとしたお仲間は諦めた方が良いぞ『聖殲派』――魔族殲滅を掲げる咎神(カイン)のテロリストども」

 

「……、―――」

 

「『No.014』――<図書館(LCO)>の『総記(ジェネラル)』仙都木阿夜の『固有堆積時間操作』の魔導書。私はこれに一太刀を浴びせられてしまったが、馬鹿犬はその一太刀を逆に食らってしまってな。そう、これが拾い食いしたもののひとつだ。

 さて、これで人狼探しをしながらお前らと屑鉄処理に精を出していた私のサーヴァントが、“人狼”どもに気づかせずに回収して、後輩のサーヴァント(アスタルテ)を経由して私に届けてくれた霊血のサンプル――二個目の<偽錬核(ダミーコア)>があるんだが。それから、魔導書で情報を抜き取ってみれば、面白いものが見れてな。

 なあ、その内容――錬金術師が叶瀬賢生襲撃の前日に本物の部隊長と一緒に誰と会っていたか知りたいか? もし知りたいのなら、鏡を用意してやるぞ」

 

「……………………………………」

 

「昨日、押し掛けてきたコソ泥から記憶を抜き出し、増設人工島(サブフロート)に捨てられていた本物の部隊長の死体も発見した」

 

「…………………………………………」

 

「汝は人狼なりや?」

 

 気が付けば。

 部隊長の顔一面を嫌な汗がびっしょりと覆っていた。この敵に向ける明らかに異質な魔力の波動を放つ魔女を前に、小刻みに震える彼はもう動けない。これまでの余裕は失われ、探り合う腹もこちらはすでに腸を掻っ捌かれている。

 

「貴様は、何もわかっていない……」

 

「『ねぇ知ってる』と前振りが同じだな。そういわれたところでお前らの事情など知るわけがないだろう。今となっては理解する必要すらないと思えるがな。これからの予定で公社で24時間取り調べに付き合わされることに埋まっている『人狼』ほどではないが、私も忙しい立場だ。一秒たりとも無駄話に割いてやる時間はない」

 

「<空隙の魔女>、要警戒対象である貴様のことはよく調べた。仙都木阿夜の、盟友の思想を引き継いでやろうとは思わんのか? 魔族の持つ魔力が、どれほど破格で、いかにたやすく世界を歪めるか。たった一人の吸血鬼の気まぐれが、巨大な都市を壊滅させる―――こんな歪みが世界の正しい姿だと思うのか」

 

 はあはあと身の毛のよだつ重圧(プレッシャー)に過呼吸のように荒い息を吐きながら、部隊長の皮を被った『人狼』は続ける。

 

「だから、我々は全ての魔族を滅ぼし、人類の本来あるべき姿を取り戻す。魔族も魔術も存在しない、真に清浄なる世界をな。そのためなら、歪み同士を共食いさせてやる手段もとろう。

 北欧王族の血筋を引く愛人の娘を避難させたつもりでいるようだが、本土にはすでに我々の同士が待ち構えている。

 真祖を覚醒させるための供物にしてやるくらいなら、高い霊媒を持つ贄共は残らず抹殺してやるべきだ」

 

「……、」

 

「そして、<黒妖犬>。この異常な世界の歪みの産物。あれがどれだけ我々『聖殲派』に利用価値がある力を持った兵器で、そして魔族と人間が融和した『混血』という許されざる存在なのか。貴様は知りもしないで、無駄に遊ばせおって実に腹が立ったぞ。錬金術師に殺されなければ、この人工島管理公社に対抗手段として私は上手く使い捨ててやれた」

 

「幉も満足に掴めんどころか、見張られていたことも気づかないでよく言う。そろそろ、負け犬の遠吠えに付き合うのも耳が耐えられん。貴様らに阿夜の名をかたられるのは甚だ不愉快だ。公社に届けてやる前に吠え癖を強制してやろう」

 

「咎神の騎士を舐めるな魔女。即刻、貴様を処分して、その顔を剥いでやる」

 

 『人狼』はその部隊長の顔に掌を置いて、ずらす―――無貌の面を外した途端。

 ドロリ、とその全身が融けた飴が流れ落ちるように部隊長の皮が剥がれていく。

 錬金術師が使う物質変性に似ている。だがその本質は全くの別物。錬金術師は物質の変成を自在に操るが、原理のわからない複雑なメカニズムまでも再現することはできない。

 しかし『人狼』は、自身の組成は変えないままに、対象の声紋外見を忠実に模倣(コピー)した。本物の部隊長の“情報”だけを奪ったのだ。

 その、びっしりと文字を刻んだ仮面型の魔具で。

 

 そして、その姿が無地の仮面だけを出した闇色のマントに包まれる。

 

「ほう……その力、『聖殲』のものか」

 

 虚空より放たれた神々の打ち鍛えた封鎖が、その闇の仕切に弾かれる。

 その闇色のカーテンは、<雪霞狼>と同じく真祖の力を封じ得た<闇誓書>の『異能の存在しない世界』の塗り潰しに似ていた。

 そして、『人狼』は人間離れした異様な跳躍力で、一足飛びで那月に迫る。

 

「知らぬか呪われた魔女。仮面というのは古来、己を護るための魔術であり、超常的な能力を引き出すための儀式であることをな―――」

 

 トランス――降神術による超人的な身体能力。

 叶瀬夏音を含め、<模造天使>の被験体の全員に仮面が付けられていたのは、高位次元の存在たる神霊が自らの身体に憑依させ、その能力を引き出しやすいようにするための儀式だ。正体を隠すためのものではなく、人が神へと変装するためのものなのだ。

 そして、闇色のマントを手操りて、放つ布槍が那月の身体を貫き―――寸前で、彼女の姿は陽炎のように揺らいで、向こうのコンテナの上に現れた。

 

「お前も、私の体が幻影であることを知らないのか、『人狼』」

 

 そして、那月が標的の視線を引き付けるその隙に忍び寄るは―――

 

「―――アスタルテ、『人狼』を逃がすな」

「命令受託、執行せよ、<薔薇の指先(ロドダクテユロス)>」

 

 抑揚のない無機質な声で主に答えるアスタルテ。

 肩と背中が大きく露出したメイド服、その剥き出しの白い背中より、虹色に輝く巨大な翼が現れる。翼は不気味な怪物の腕となり、宙空の『人狼』へと手を伸ばす。

 再び、『人狼』は<戒めの鎖(レーシング)>を防いだその闇色のマントを盾にする。

 しかし、巨人の手に漆黒の仕切は破かれる。

 

「なに!?」

 

 アスタルテは眷獣共生型人工生命試験体。世界で唯一、眷獣を召喚できる人工生命体(ホムンクルス)。そして彼女が操る眷獣は、他社の魔力や生命力を食らい―――<雪霞狼>より『神格振動波』を模倣している。

 そして、<闇聖書>は<雪霞狼>に切り裂かれた。ありとあらゆる結界を破る『神格振動波』は、魔力を無効化するフィールドそのものをも無効化にする。

 

「相手が悪かったな『人狼』」

 

 <薔薇の指先>の一撃をもらい吹き飛ばされる『人狼』。闇色のマントは破かれ、ところどころその意外に細身の正体をさらす。そこへすかさず、闇が剥がれた右腕へ那月が鎖を絡みつかせ―――

 

「―――っ! この右腕の代償と我らの計画を破綻させた所業、忘れぬ。いずれ必ず復讐してやる!」

 

 ぶつり、と右腕を布槍が切り捨て、束縛から逃れた『人狼』は、マントを翻して跳躍し、一瞬で姿を消した。那月はそれを追いかけることができず。

 あとに残されたのは、その細い――女性のものと思われる右腕だけ。

 

「ヤツめ『人狼』のくせに、トカゲの真似事をするとは」

 

 面倒なやつを取り逃がした、としかめた顔で小さくつぶやく。

 それから、ふと、遠く――この僅かに感じられる主従契約のパスを手繰るように――その海の先を見て、

 

「馬鹿犬め。一体どこをほっつき歩いてる。まさか、海の上というわけではあるまいな」

 

 ―――予定時刻よりお寝坊した少女が慌てて起床する直前にベットより転げ落ちて、ベット脇に置いてあった旅行バックに入ってしまう赤子がいたのだが、その頃はまだ、誰も気づいた者はいなかった。

 

 

 

つづく


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