ミックス・ブラッド   作:夜草

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観測者の宴Ⅴ

回想 彩海学園

 

 

 それは10年前の話。

 

 

 彼女は、そこにあり続ける。

 深く静かに冴え冴えと、冷たく暖かく優しく、

 遠く隔たれた夢の向こうからこの世界を看取る。

 月のように。

 

 

「―――(ワタシ)と来い。盟友(とも)よ」

 

 白黒の十二単の若い女性が、人形のように小柄な制服姿の女子生徒へ手を伸ばして、誘いをかける。

 

(オマエ)(ワタシ)と同じ……だ」

 

 生まれながらにして、悪魔に魂を奪われた純血の魔女。そして、世界に蔑まれしもの。

 

(わたし)は我らの呪われた運命を変える」

 

 故に、世界を壊す。

 その決意にきっと友も同意してくれると思っていた。

 彼女は夢幻の監獄の管理者として設計され、死後の自由はなく、永遠と孤独に彷徨うことになる運命だ。

 そして、友は定められた運命に自分と同じ抗うもの。

 今こそ、この『魔族特区』で学生生活を送っているようだが、悪魔との契約方法を学び、魔女となるきっかけを与えられたのは、<タルタロス・ラプス>と呼ばれた『魔族特区』破壊集団の一員。そして、彼女も復讐を終えさせたその5年前まで『壊し屋』に属していた

 

 

 だけど、<闇誓書>――『世界を思うがままに作り変える』魔導書を友は友自らの手で焼き捨ててしまった。

 その失われた魔導書の知識があるのは、今や友の記憶のみ。

 

「……心配してくれるのか。優しいな」

 

 憐れむように、そして、決別の意をそのかすかな微笑に友は込める。

 友はすでに、この島の、『魔族特区』に住まう学生らのために、この犯罪組織の長たる自分に逆らうことを決めている。

 

 こちらも、誘いを拒否するのならば、無理やりにでも<闇誓書>の記憶を奪うとも決めている。

 だが、出来得ることならば、友に協力してほしいと願っている。

 

(オマエ)が護ろうとしたクラスメイト達も、いずれ汝を置いて大人になる。そして汝のことなど忘れる。何処にもいけない汝のことなどな」

 

「ふん……それもいいな。

 いっそ、この学園の教師にでもなって新しい生徒の成長でも見守るか……」

 

 清々しげな友の表情に、憤怒の感情が湧きあがる。

 魔女に蔑む人々に利用されることを良しとし、恥もしないその友の態度は、自分には度し難い欺瞞に見えた。

 

「愚かな」

 

 火眼金睛と化す双眸。背後に剣を抜いた<守護者(騎士)>。

 対して、友も金色に輝く巨大な影を浮かび上がらせて、

 

「なら、賭けてみないか? 阿夜」

 

「今更、この期に及んで何を賭けるつもりだ、那月」

 

「そうだな」

 

 夜空にある月を臨みながら、友は言う。

 

 

「―――月が沈んだ後に昇ってくる、太陽を」

 

 

金魚鉢

 

 

 どうしようもなく遠いものだと普通ならば諦めるだろう。

 

 

 およそ37万km。

 10年休まず歩き続けても、辿り着けない。

 宇宙(ソラ)の月は、湖水の月と隔絶した存在である。

 手を伸ばそうにも、近づこうにも、触れられない―――はずであった。

 

 

 

「―――いくぞ」

 

 <神獣化>の性能は理解していた。

 だが、目の前のこの形態の獣気はあまりに異質だ。

 溶岩にも純度があるのだと仮定するとして―――あらゆる不純物を取り除いて“熱量”のみを極限まで濃縮したマグマの塊。それが今の人型――『魔人』に対して抱いた印象である。

 

 

 轟音。

 

 

 構えた拳を斜め上に真っ直ぐに突き出す。

 クロウがしたのは、ただそれだけのことだった。

 しかし、その単純な行為も、魔人の剛暴なる獣気が加えれば、それだけで必殺の一撃と称するに相応しい威力に膨れ上がる。

 拳圧が夜空へと飛んで、異形のいた空間を隕石でも通り抜けたかのような烈風が吹き抜けた。

 

 そして、その拳圧の激しいうねりは、暗雲を消滅させて、円形の綺麗な星空が広がった。天蓋の星々に届かんと思わされるほどに達し、稼働を終えて宇宙ゴミ(デブリ)と化した人工衛星のひとつに、まるでチーズを刳りぬいたかのように綺麗な穴を穿ち広げた―――

 

 

 

《私としたことが、何を……》

 

 次元跳躍はあらゆる物理衝撃を届かせない。

 その一撃は、意味がない。だから、この“震え”は憤りのものであって、きっと予期せぬ姿に成ってしまったことからだろう。

 

 ―――どれほどの威力があろうとも当たらない。

 ―――その性能を理解して、対抗できる性能を得るために悪魔と融合した。

 ―――それよりも、何故、こんなにも“創造主”の意に反しているのだ?

 

 純粋な疑問。

 それはお湯を注ぐだけのインスタント食品が、説明通りに調理したのに麺が伸びきってしまっているのを見た子供と似たような感想であった。

 そして、原因が『器』にあると解った瞬間、その感情は驚嘆から苛立ちへ変化する。

 

《予期しなかったわけではない。むしろ、恐れていたことが起こってしまったとみるべきでしょうね。

 でも、実際に体験するまで、これほど苛立つものとは思わなかったわ》

 

 『器』が“腐蝕している”のだ。

 こんなのは成長だなんて認められない。消費期限があるよう、何であれ時間が経ってしまえば、腐ってしまうのは当たり前であった。それも防腐加工していない生物(ナマモノ)ならばなおさら。

 苛立ちと恍惚を混ぜ合わせた笑みを浮かべ―――鬼気に満ちた吐息を吐き洩らしてから、静かに告げた。

 

《今ので理解したでしょう? 私を倒せないことが》

 

 対するクロウは自分の手と異形を見比べ、応える。

 

「なるほど、ご主人とは違うが、ここにいるようでいないのか」

 

《そう、湖面の月と同じで……》

 

「そっか。“このタイミングじゃ”ダメなんだな」

 

 その発言を、<血途の魔女>は理解しなかった。

 

 

 ―――まだ、私の有利は動かない。

 

 

 <血途の魔女>は、ひとつの確信を持って、己のものとなった力を行使した。

 異世界より、その死角となっている場所に、再び怪魔を召喚する。無数の枝で構成された巨人――先の極夜の森の化身と同じ三体を複合させたものを。

 その巨体の陰がかかるよりも早くに、魔人はそちらを振り向く。

 『龍の巣』と形容すべき積乱雲の化身の如き竜形の怪魔が天を覆い、飛空艇に改造された大鯨のような怪魔がその全長200mを超える巨体を空に泳がせる。

 そして、また黒夜の化身がその巨体を森より起き上がらせる―――しかし、その盤面はわずか九歩で覆される。

 

 召喚されたと同時、地上から魔人が飛び出した。

 

 愚かな―――!

 

 その翼のない人型で、この空を制する二大怪魔に接近戦で挑みかかるとは天に唾をする行為に等しい。不慣れであっても、先の遠当てか気功砲などと言った遠距離戦を選択すべきだったのだ。ただ一度の跳躍で届く高みあるわけではなく、これでは恰好の的にしかならない。その隙を逃すわけもなく、即座に空艇鯨が巨体の各部に備え付けられていた砲台たる眼球を向けて―――

 

 一歩目。くるりと身体を回転させた後、空中で再度跳ね上がって、迎撃を躱した。

 

《っ!》

 

 これまでにも虚空を蹴って進むという力技をしてきたが、それは“技術”として洗練されていた。

 『鮭飛びの術』、『八艘跳び』、『觔斗雲(キントウン)の術』などと言ったかつての英雄獣王と同じ、神獣の脚力を身軽な人型でようやく技術として研ぎ澄まされたその跳躍術が空を自在に(かけ)る。

 

 二歩目。空艇鯨が迎撃するその寸前、またまるで見えない壁を蹴る。それに合わせて、足元から爆発的な気功砲を放っては推進力(ブースター)に変えて加速した電光石火。

 

 音を超えてその間合いに入った瞬間、剣爪籠手の乱舞。大鯨の内側より激しく斬線が閃く。胴体から背まで体内を突き進みながら、核を滅多斬りにされて、最後はサマーソルトキックで突き破って、怪魔は霧散する。

 

 

 

 全長200mほどの怪魔を細切れにするほどの力を振るいながら、突き破って現れたその人型は、姿勢にブレがない。

 

 そう、超高速で飛び回る機体が、逆に姿勢を安定するように、その高速安定ラインに達したのだ。

 飛行機は速度が遅い方が扱いやすいが、遅すぎては失速して墜落するものだ。あえて高速で飛ばして機体を安定させている。

 本来なら暴走するはずの力をあえて全開に引き出したことで、制御可能なまでにまとめることに成功したのだろう。

 解放が足りない半端だから不安定、そう<蛇遣い>の“助言(アドバイス)”通りに。

 

 だが、それが人型にまで状態変化して力が凝集されたのはまた別の要因だ。

 

 獣より醒めて、目も覚めて、そして、力が“冷めた”。

 物理的に、水という例外を除けば、気体に蒸発したものは体積が増えてしまうが、その逆に冷めると固体となりその体積が減る。

 神獣という爆発的に膨張する気体から、理性を蒸発させずに人型という安定して固まった固体に昇華した。

 ―――それは、呪われた真祖の狂乱をも封印する『十二番目』の恩恵か。それとも“蠱毒(孤独)”を呑み込んだ少女の願いによってか。

 

 三歩目。体勢を立て直す。

 

 ―――空艇鯨を撃破した直後、もう一体、さらにその高みより見下ろしていた雲龍の怪魔が斜め上より強襲を仕掛けて、

 

 四歩目。頭突きする雲龍が直撃する寸前で、身を捻りながら、とん、と小さく強く、脚全体ではなく足先だけ空を蹴って、その咢より逃れる。

 

 このタイミングと速度。そして、龍の巨体。

 一歩の移動で躱しきれるはずがなく、ほんのわずかに当たる角度と位置が変わった程度。

 だが、突撃の衝撃は、全体で受けたその身体を森の巨人がいる大地へ叩き落としたのではなく、身体を回転させる方向へ力を伝えていた。

 

 コマのように体を回転させながら、身軽な人型が一瞬で雲龍の側面を昇っていって。

 

 生体障壁でダメージを衝撃に変換して、さらには回転して駆け上がる方向へ転換させるその身のこなし。もし当たる角度に僅かでもズレがあれば地面に叩き落とされていたか、回転を制御できずにあらぬ方向に弾き飛ばされていたか。

 感情を読む嗅覚に獣の本能が合わさった冴え渡る直感があったが、これはそれだけでは説明がつかない。

 そう、まるで台本でもあるかのように、見知っていなければ、とても―――

 

《その動き―――もしや!》

 

 あの“眼”は、すでに雲龍の動きを完全に捉えていた。虹色の双眸から紫電がぱちぱちと迸るその瞳は、“一秒先の未来を視ている”。

 

 <禁忌契約>は、制約と誓約を課すことで、“対価として恩恵を得る”。

 『知覚した巫女には、三撃を受けるまでは攻撃してはならない』

 この制約を破れば『半日、人間としての力である超能力を含めた五感を麻痺し、霊力魔力の一切を練れなくなる』誓約を受ける―――この<禁忌契約>の恩恵として、巫女の加護を得る。

 

 剣巫に舞威姫が人間でありながら魔族よりも速くに動ける技能たる、霊視。

 元より、仁獣覚者に至れるほど霊的中枢を備えていた下地があり、それが“第二の契約”の恩恵で心眼に目覚めたのだろう。

 そして、人間にとっての一秒と、獣人にとっての一秒は、選べる選択肢の幅がまるで違うのだ。

 それと、クロウが結んだ契約は三つ。

 

 五歩目。風車の如く身体を廻しながら、剣爪籠手より純白の煌炎が迸る。

 

 ―――ッッッ!!!!!! と、その発現は束の間、音の概念すらも消失させた。

 

 一回りするごとに前より倍する勢いで両腕の剣指刀掌から輝く刃が噴き出し、回転拳舞が雲龍を切り裂く。

 

 『王族からの頼みごとを、二度続けて断ってはならない』

この制約を破れば『一日、獣王としての力である死霊術と獣化を封印する』誓約を受ける―――この<禁忌契約>の恩恵として、王女の加護を得る。

 それが、契約したパスから、遠隔からの<ヴァルンド・システム>を可能とし、聖拳(剣)属性付与させた。

 白い軌跡が唸る、その魔族にとって天敵たる王族の聖気は、一切の不浄を許さず、雲龍を消滅させた。

 

 そして―――

 

 

「―――壬生の秘拳『ねこまたん』!」

 

 

 瞬間的に腕だけが肥大化した森巨人の絶大な拳が迫る。それを天地の概念が消失したかのように、魔人は上下逆さまに受け流して、

 超々小型太陽が発生。陽光の聖気を取り込んだ気功砲が、極夜の化身を影も残さず喰らい尽くした。

 

 ここまで止まらず動いたのは、わずか九歩。

 魔女にすれば飛車角ともいえる三体の怪魔を、それだけで。

 

 三歩必殺。

 

 一撃では倒せなくても、三歩あれば倒せるという、中国拳法の理念のひとつ。

 一歩目で崩し、二歩目で撃ち、三歩目で備える。

 古来、達人の武術家にとって、わずか5m程度の距離などないに等しい。そして、その必殺の間合いは実力に比例しており、

 真っ向から斬り合いは、実力が高ければ高いほど刹那に終わる。

 その刹那のうちにできるのは、進むか退くか。

 不用意に左右に避けようと思えば、それは一瞬とはいえ踏込の勢いを静止させなければならない。

 そして、静止すれば、相手は容赦なく突き、仕留める。

 しかし、向かってくる相手の攻撃に対し、自身も踏み込むというのはけして容易い事ではない。

 迫りくる恐怖を捻じ伏せて相手の懐に飛び込んで初めて相手の備えは崩れて急所へ撃ち込める。

 それだけの勇気がなければ。

 

 心技体が揃った、完全体を超えるその究極体。

 

 『旧き世代』の眷獣に近い力を持つ怪魔数十体と戦ったため、無傷というわけではない。今の形態に至るまでにも負った疵の上から、新たな傷痕が何本も刻みつけられていた。

 それでも魔人は疲れた様子すら見せず、むしろ先刻よりもさらに獣気を濃くしてそこにある。

 そう、その手は、天上の月にさえ届きかねない超越者の領域に食い込もうとしている。

 

《……“九番”》

 

 その符号を呼んだ。

 そこに怒りも驚きも歓びもなく、感情の欠片もない、ただ確認するだけの作業。

 口に出すことで、確かに自身の目に映っている光景が現実であり、理解すると―――この瞬間まで、彼女の中に満ちていた狂気が、一瞬のうちに消え去った。

 沸騰していた水が一瞬で凍り付いたかのように、血途の殺気そのものが急速に冷え切っていく。

 

《……どんな人間に誑かされたのかは知らないけど、まるで鎖から解き放たれた奴隷のような目をしてるのね》

 

 その言葉だけならば、平常通り。先までと変わっていないように聞こえる。

 だが、放散する圧に込められた圧倒的な負の感情が、夜の無人島を一層強く冷やし込む。

 その氷の刃のような殺意を真正面から受け止めるクロウの眼差し。

 それが不快か。魔女の瞳の中が露骨な怒りで湛えられていく。

 

《希望を抱いてしまったのかしら? 自分が道具ではない、と。だから、こうして“創造主(わたし)”に逆らっている。自分が独立した存在であると、自分自身に示すために。

 ―――だったら、もういらないわ》

 

 この会話に意味はない。

 応答を求めるまでもなく、“廃棄”は決定しているのだから。

 ただ、時間稼ぎだ。

 破滅が実るまでの時間を。

 

《私の理想から踏み外れた“器”に、第八の大罪は重すぎる》

 

 その超感応から逃れるよう、密かに地中に存在を隠して実らせていた怪魔。

 それはこの金魚鉢に<蛇遣い>が送り込んでくる前から島の至る所に根を張り巡らせて数十、いや数百も準備して、これまでこの島の龍脈をずっと取り込み続けていた時限爆弾。

 最初にして最後の三体複合の怪魔は、鬼火を灯す南瓜に百眼がついた歪なもの。それは二体分よりも数倍に威力を増した爆弾だ。おそらく、今の四体分を吸収した魔女が召喚し得る怪魔の中では、最も瞬間的な破壊力を秘めているであろう。

 それが龍脈を取り込み続けて、今ようやく限界まで満ちた。

 地中より飛び出した爆弾の怪魔が、逃さぬようクロウの周囲をグルグルと回らせ始める。

 

「む」

 

 爛れるように熟れた南瓜頭に百眼の怪魔の群が、メリーゴーランドのようにクロウを取り囲んで踊り回る。

 そして、高速回転する影が残像を生み出し、巨大な橙色の半球状になった瞬間―――

 溜め込んできたものを解放する。

 

 

 

 万物に純粋なる終焉をもたらす自爆を重ね合せたのだ。

 この金魚鉢と呼ばれた無人島はもし表記されていたならば、“あった”、と過去形で地図に書かれていただろう。

 島が消えた。

 ごくわずかに足場だけを残して。

 炸裂した火柱は炎の竜巻となって、荒れ巡り続けながら、夜闇を照らす。

 

《終わったわ》

 

 そこでいったん目を逸らして―――わずかに怒りの色を薄めて呟いた。

 この焔が消えた時、あるのは焼き焦がされた骸だろうが、生きていようが死んでいようがどうでもいい。その“器”が割れていたとしても、残る四体の大罪の欠片を回収できさえすれば。およそ考えられる限り最悪の形となったが、結局振出しに戻っただけのこと。何でもいいから依代を確保して、“器”はまた、創ればいい。時間はかかるが―――いや、

 

《……なぜ、私は“器”など求めようなどと思ったのか》

 

 クツクツと笑い、魔女は顔を覆っていた手を外して、そして、おもむろに視線を海岸線に向け、軽く熱線を撃ち放った。

 細く鋭い閃光が海と空の境界の果てめがけて伸び進み、一瞬遅れて、地平線上に半円状の爆発が巻き起こる。小さな町程度ならば、一瞬で消し去ることができる熱量だ。熱線が通った後の景色がわずかに揺らめいているが、それは陽炎や幻ではなく―――確かに、空間そのものが歪んでいるのである。

 四つの悪魔がひとつにまとまった結果だが、しかしながら、悪魔四体分の魔力を足しただけではここまでの威力は出ない。

 これはあくまで欠片であって、『鍵』にすぎないのだ。ひとつになることでそれまで閉ざされていた力の回廊が開き、数倍の力が解放される。

 ―――こんなにも素晴らしい『力』を与えられるというのに。

 

《本当に……愚かな道具》

 

 無垢で愚かな存在。

 世界を穢すのが悪意とするならば、世界を壊すのは無垢さだろう。

“それ”を蔑むと同時に、莞爾と笑みを作る。

 自らの中にもまた、『無垢な一面』とやらがあることに気が付いたからだ。

 

 ………………

 …………

 ……

 

 消えない。

 炎の竜巻が、消えない。

 

 ―――まさか。

 

 緩んだ頬が、強張る。

 自分の口から迸った言葉を、理解できなかった。

 

 いた。

 火山噴火のように立ち上る炎獄の中心に、直立した影が揺らめいていた。

 その影へ収束していくように、炎の竜巻は縮小していって、徐々に姿を露わにしていく。

 

 ―――これは、何? 何なの?

 

 浮かんでくる解答を何度も何度も拒否するが、それでも目の前の現実が消え去ってはくれない。

 やがて、魔女の炎はその身の内に全て吸い込まれた。

 

「すぅ―――――」

 

 深呼吸。

 その獣気を纏わすことでする『匂付け(マーキング)』。それで大気に満たして源流(オリジナル)を超える空間支配を可能とした。

 今のは、魔女の炎を吸い込み、王たる獣気(におい)である神獣の劫火(ブレス)と体内で混ぜ合せて、己のものであると屈服させて支配する――炎に『匂付け(マーキング)』したのだ。

 

「―――――っ!?」

 

 その吸引が止まった音を拾った瞬間、半人半魔の大魔女は次元の裏側に跳躍―――

 入れ替わりに、そこからありとあらゆる怪魔が溢れ出た。

 数百、数千に及ぶ使い魔と化したその怪魔。それらが彼女の感情を表しているかのように不安定に歪み合い、溶けあうように融合していく。

 昏い天を衝くほどの巨大な怪物になったそれは―――

 

 

「―――――        ッッッ!!!!!!」

 

 

 途轍もない熱量に、空気中の水分は刹那に干上がり、絶叫の如き水蒸気爆発を起こす。

 そして、怪魔も魔女の炎を呑み込み、神獣の劫火を上乗せして放たれたブレスに完全に実体化する前に焼却され、天を貫くかのような痛みが、“創造主”の全身を支配した。

 

 ―――っっ!? がっ……なっ……避け……!?

 

 この神獣の劫火は呑み込んだ魔女の炎――魔力を帯びている。紅蓮の劫火は獲物の足跡を辿る猟犬にも似て、“前の主の下へ”燃える牙を剥いてひた走った。それが次元跳躍する寸前に噛みつかれてしまった。

 その心中の、感情のブレを、嗅ぎ取られる。

 

「―――よし! 今のは手ごたえがあったぞ」

 

 この海域一帯の気温が全体で平均5度上昇した。

 

 海一面に炎が上がっている。消えることのない。何故ならば、超能力者でもある神獣の劫火は、炎であると同時に獣気(におい)であり、それがこの海にまで浸透してしまっている。そこに焦がすように染み渡った“匂い”が消えるまでは、延々と海は燃え盛り続けているであろう。

 ―――そこへ魔女は戻らなければならない。

 ―――そして、クロウは今の当たりで確信する。

 

(“壊毒(どく)”をばら撒いていた時、お守りが当たった。やっぱり攻撃するときはこっちにいなくちゃいけないんだ)

 

 次元跳躍で、常に絶対の隠れ家へ逃げ込める絶対的なアドバンテージ。

 だが、たった今見抜かれてしまったとおりに、魔女でもその次元を超えるほどの攻撃は持たないのだ。故に、次元の裏側から攻撃をしても相手に届かず、魔女もまた攻撃するには現世に現れなければならない。

 

「そして、いつまでも“かくれんぼ”はできない」

 

 肉体を持っていない魔女は、クロウから悪魔と同時に半分の魔力霊的中枢を奪えたとしても、それだけでは存在の流出を防げない。

 南宮那月から<守護者>を代用臓器に貸し出されてなければ、倒れていただろうクロウと同じ。いや、魔女は肉体すらも持っていないのだ。人間魔族の生命力か地脈龍脈を吸い上げることで魔力を無理矢理固形化した状態を保っていたようだが、それでは、いつまでも裏側にいては存在が(ほど)けてしまう。

 鰓呼吸を持たない人間が、いつまでも水面下に潜っていることはできないよう。次元の裏側に隠れ潜むことはできない。

 

 南宮クロウは原理も何もわかっていない、そんな細かいことを考えもしない。

 ただ、逃がすつもりはない。

 どこに隠れようが姿を現した瞬間にやればいい、と気を張り巡らせる。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 ―――ウソよ……こんな……バカな……

 

 新たな駒の召喚が、できない。息継ぎすら難しい。

 

 ―――何かの間違いよ……そうでしょ! だから……

 

 顔を出そうとする―――その視界に、人型の姿が映る。

 

 その一秒先の未来を霊視し、感情思考の動きまで嗅ぎ取られて先読みされる。

 そして、宙空を蹴って跳べるようになった機動力。現れた瞬間に、もういる。

 どれだけ遠くに逃げようとも、どこまでも鼻先は正面に相対されて離れない。地の果てまで追尾してきそうだ。

 しかも、徐々にその距離を狭めて……

 

「もぐら叩きみたいなもんだが……だいたい行動パターンが読めてきたぞ」

 

 ―――……まずい。

 

 学習されている。

 これでは息継ぎもできなくなるのは時間の問題だ。

 それよりも、その目。ただ見ているのではない、その複雑な感情を篭めた瞳は、そこに含まれる感情の中に、憐れみの色がある―――

 

《何故》その憐れみの中に贖罪の色も混じり始めている。《私をそんな目で見る!》

 

 次元跳躍と同時に熱線を放つ。それはクロウを消し飛ばした。―――その分身体を。

 

《しまっ―――》

 

 接近。互いの双眸が、至近距離で揺らめいて、“見逃された”。

 確実に打ち抜けたはずの間合いで。今の隙を突かなかった。足を止めてさえいた。

 

《道具の分際でっ!》

 

 瞬間、<血途の魔女>が激昂した。あたかも戦いの最中に自分という敵の存在さえ放棄したようなその姿に、魔女は自分が世界からも否定されたような錯覚を覚えた。

 熱線を放つ。それを難なく足先だけの挙動で押された推進で躱したクロウは、

 

「オレは……もっとオマエのことをちゃんと知ってやるべきだったかもな。そうすれば、別の形でオマエと向き合えたのかもしれない」

 

《何?》

 

「死んでも縛られて、呪われていたのは“お前だったんだ”。ずっとその大罪の悪魔を創った時から、解放されたがっていた」

 

 何か、苦い後悔の様なものさえ噛み締めているその顔に、憎しみと、そしてもう一つの感情に衝き動かされて、半人半魔のその大罪の半身の力を振るう。

 “壊毒”。

 不死の王でさえ降す神殺し。それを全開で振るう。もはや五感の破壊だけに留まらず、一気にその命魂を壊すほどの濃度で、赫い鱗粉が場を満たした。

 それを諸に浴びて、吸い込まれた毒素は肺から血液に体内を駆け巡る。走って走って走り回って、その全身を沸騰させていく―――

 

《なっ―――》

 

 <血途の魔女>は、絶句する。よろめいて、血を吐き出して……………それだけ。クロウの姿が揺らいだ。炎のように揺らめくそれが、体積を増して血途の元へと、一歩、迫ってくる。

 

 “壊毒”は、“何もかも”を壊す。そこに特効薬はなくて、喰らえば真祖でさえ殺し得る―――

 

 

 ならばどうして、それを受けた南宮クロウが、“今も生きていられるのか”。いや、五感を潰されたというのに、なぜそれが復活しているのか。

 

 

 神さえ殺せるはずの“壊毒”に、不思議なことに“殺傷性がない理由”。

 それは、対処できる薬はない、だが、“対抗できる毒”がある―――“壊毒”は“壊毒”を壊せる。

 そう、自滅する。何もかもを壊す毒は、“その毒自体も壊してしまう”、共食いの毒素なのだ。

 濃ければ濃いほどに、または凶暴化するほどその破壊力は高まるが、その効力時間は反比例して短くなる。毒が強いほどに一瞬で互いに喰らい合って毒が“壊れる”。直接に噛みついて毒を送り込むのではなくて、大気中に散布してやるなど、対象に届くまでに時間がかかり過ぎてしまい、殺傷力を大幅に削いでいる。むしろ、前の加減してやった方が害せたほどだ。

 

《このッ! なんで、私の思う通りにいかないのよッ!》

 

 “壊毒”が通じない―――その原因さえ、理解できていない。だが、それでも魔女は悪魔であり、術の行使は一瞬。そして、“壊毒”がほぼ共食いされていようとその効力は凶悪であって、僅かの時間は稼いでくれた。

 即座に、細布状の群として広がる血途の触手が生体障壁で硬化させるように鋭さを増しており、それぞれの先に魔力が満ちていた。

 ほんの一瞬で、触手の先に圧縮されたそれはいつでも、先の熱線を打てることを示しており。

 

「オレは森を出て―――」臆せず、クロウは次の一歩を踏み出す。「いろんな人に会った」

 

 いろんなものを失った。その中には大事なものもあった。

 けれど、それで得たものもあった。それはかけがえのないものになった。

 それを失くさないために、目の前の“創造主”と闘う道を選んだ。

 けれど、その道は絶望と隣り合わせの道。崖の夜道など比べ物にならないほど危険な、溶岩の上に敷き詰められた薄氷を進まなければならないような道で。

 それでも、自分は踏み出せた。

 色んな後押しがあって、それだけ前に進むことができた。

 

「オレはそれをみんな、忘れてなかったんだ。ああ、オレは森を出てから、止まってなんかいない!」

 

《―――》

 

 そして、最後の、一歩。

 

「だけど、お前はもう死んだ。死んだ者は止まってる。もう先はない」

 

 血途は頬を歪ませて、魔力に、その禍々しい黒さを増していく。淀んだ沼の如く。

 そして、触手の一本一本に魔力の刃を纏い、熱線と斬撃を組み合わせた連撃が一斉に放たれる。閃光のひとつひとつが空間を歪ませ、互いに引き寄せ合い、絡まりながら空気を引き裂いていく。

 その絶死の焦点は、己の“最高傑作”―――

 

《消えた―――空間転移!?》

 

 自身の身体を自在に移す飛天の御業。

 『縮地』

 鎧の補助があってのことであるが、わずか一秒分だが、『かかる時間をゼロにした』―――霊視した未来へ空間跳躍をした。

 

「―――ご主人の力に頼るのは、これが最後!」

 

 はたして、気づいてだろうか。

 ずっと、声が微かにわななかせていたのを。

 この欠陥製品を、最高傑作と言い、

 あの神殺しの毒さえ、その欠陥に気づけない。

 都合のいいモノしか見ない人間であった。

 そう傲然と見下さなければ、その威を保てないほどに。

 目の前の相手に追い詰められていて、それほどに強くなってしまったことに。

 はたして、気づけたか。

 

「おおおおおおおお―――っ!!!」

 

 魔女の前に、鎧を解いた(ぬいだ)、ありのままの人型。

 それが、吼える。

 深く踏み込む。

 震脚。

 強く握り込む。

 拳骨。

 これまでの何もかもを、込める。

 

《―――》

 

 次元跳躍。

 間合いに入っても、まだ構えは溜めている。

 逃げられる。回避できる。魔女は、そう確信したが。

 

『加減は身に付いたけど、力が大きすぎるから仕方ないんだけどねー。クロウ君、力は多いのに、余計な力が入り過ぎてるっぽい』

 

 “第二の契約”で南宮クロウが得た加護は、“力を暴走させないようにする制御力”。

 霊能力者としての気の使い方を理解して、その霊視という心眼に目覚めた。だが、それは副産物の様なものであり、制御力こそが巫女の加護である。

 師よりも気の量は多いはずなのに、一撃の威力は同じ―――それだけの“無駄”が多かったが、今、その足りていなかった制御力を身に着けた―――

 

 ―――青竜殺陣拳!

 ―――辰星(しんしょう)歳刑(さいけい)

 ―――若雷!

 

 古兵に学びし四獣の極意に、巫女に学びし八雷八将の神法で、師に見せてもらった『二の打ち要らず』の理想形に近づける。

 十全に獣王の力を振るいながら、衝撃変化に身体強化を同時に行使する。

 クロウの左腕から小さな破裂音が響き、その手先から鋭く紫電が破裂する。

 彼の左腕が、その力の流れに耐えられない。

 神獣のときは、力がありながら無駄にロスしていたのも多かった。それを振るうだけでも至難であったというのに、力を倍々にしているのだ。

 それでも、彼は止まらず力を籠め続ける。

 首が、脚が、背が、臓腑が。

 次々と全力の反動にうち負け、新たな血を噴出させる。

 それでも今の自分ならばできる、と。

 自分の全てを上乗せした乾坤一擲の打撃。

 

 

 

「―――<(ゆらぎ)>!!!」

 

 

 

 ()く。()く。()()く。音よりも光よりも疾く、次元も時間さえ超えて。神域に至ったその神速は、時間が逆行して因果を成立させたと思うほどに、急所を捉えた。

 投擲された必殺必中の魔槍の如き左腕は一筋の光となって、その核がある魔女の鳩尾へ食い入った。

 しん、と物音が絶えた。

 風も絶えた。

 静寂。

 爆発も衝撃もない、その余波の揺らぎが拡散せず、爆縮(ぼうしゅく)と呼ぶにふさわしい。一点集中を極限にしたその<(ゆらぎ)>は、“音”さえ“食”った。

 

「……かはっ」

 

 拳を引く。

 すぐに、結果は出た。

 ちょうどクロウの拳が穿った部分から、ざわざわと触手の如き紅い影が、半人半魔と化した魔女の開いた胸元を這い回ったのだ。抑え切れなくなった魔力、その毒素が、まるで堰を切ったかのように魔女を蝕んでいるのであった。

 ぞりぞり、と何かを削るような異音。

 紅い影の這い回った場所から、魔女の肉体は萎びて、朽ちる。

 肌から水気が失い、ぴしぴしっ、といくつもの罅が入って、肉ごと割れて、そこからずり落ちてあらわとなった骨も赤くなり干乾びていく。

 最早、人の死に様ではなかった。

 

「……憐れ、ね」

 

 と、乾いた唇を洩らした。

 その唇さえ、たちまち崩れていった。

 

 その一撃は、どうしようもないほどの止めになった。

 まったく―――呆れるほど出鱈目な力技だったが、同時にこれ以上ないほどの一撃だった。あれを受けてしまっては、もはや制御核は破壊されて、そうなった以上は強大過ぎる自らの力に呑まれるだけ。

 

 わずかな身(じろ)ぎでその数多の根と化していた足元が脆くも砕ける。

 半人半魔の躰は、今や出来損ないの塑像のように崩壊していく。

 

「……本当に、憐れね」

 

 言葉さえ、微塵と砕けるようだった。

 

「……結局、契約は……果たせず……何も……残せ、ない。外道に……外道を、重ねて……これ、まで。何とも、畜生……らし、い結末。ふふ……滑稽、にも……ほどが……あるわね」

 

「………」

 

 その姿を見つめて、クロウは瞼を閉じて。

 もう一度開くと、魔女の首筋に喰らい尽くように、口づけするように噛みつく。その何もかもを壊す毒を滴らせて。

 ―――その黒き(ドク)が、紅い(ドク)を喰らい、消していく。

 

「……な、に?」

 

 魄はなく、魂もその核を打ち砕かれた以上、自滅するしかない。契約を果たせなかった魔女は、悪魔に自らの魂を喰われる。そうなるはずで、なのに、

 

「あくまで……自分の手で……私を、討つのね……“九番”」

 

 なるほど、これにも復讐する感情も芽生えていたか。その動機も“道具から成長すれば”納得できる。

 

「ああ、オレが討つ」

 

 噛みながら、人型は続ける。

 

「オレが、“ご主人様の残した種”だ。残さず喰らう。だから、ここで終わって、たとえ、その先が望まなかったものでも、“続いていく”」

 

 肉に、そして、悪魔も喰らう。

 臓器でもある奪われた魔臓霊的中枢を取り返すだけでなく、その大罪の四つの悪魔をもその身に取り込んでしまっている。

 蠱毒。

 つまり壺の中に多くの毒虫や害獣を閉じ込め、殺し合わせた結果として生まれるもの。

―――逆に言い換えれば、同じ毒を扱うものの間だけなら、互いに喰らい合うこともできる。

 そう、喰っているのだ。

 蠱毒は、生き残ったものに全ての力を結集させる邪法。すなわち、勝者は敗者を受け継いで、その負債を請け負うことになる。

 

「……ああ。愚かな子」

 

 重く、“創造主”は溜息を吐いた。

 彼女が“作品(こども)”らの前で初めて見せた、心からの感慨に満ちた吐息だった。その裏にもっと切実な感情を隠し。

 

「ふ」

 

 と、魔女は笑みを洩らす。

 今までと同じ、しかし違う声だった。

 

「ふふ、ふふふ」

 

 高く、夜空よりも高く、その声が伸び上がった。

 悪魔との契約から解放されたが、死の間際。毒がなくなっても、身体はもう耐えられない。高い声を上げるたびに、魔女の崩壊も早まったが、気にする風でもなかった。

 

「あの、<空隙の魔女>、『壊し屋』ども、一員、が。15年前まで、復讐に、取り憑かれた、小娘が、この子を、育てるなんて、無理、も、いいところ、よ」

 

 嘲笑のような言葉。

 しかし、どこか一陣の涼風の如き爽やかさが混じっていた。

 

「そ、う。つくづく、私、の、思い通りには、いかないの、ね」

 

 どんどんと、罅が入っていく。

 何百年も経た木乃伊(ミイラ)のように、崩壊が止まらない。

 ついには腕がもげ、腰が砕け、魔女の身体が大きく斜めに傾いた。

 

「ひと、つ、だけ、忠告、して、あげ、るわ」

 

 眼球さえ罅割れて埋没し、魔女は盲目のままに告げる。

 

「『聖殲』……は、まだ、終わってない……」

 

 それを最後に。

 魔女の首が、自壊した。

 まるで乾いた粘土細工のように砕け散り、皮膚や肉ばかりか、骨も血も後には残らない。

 そのまま、風に溶けていった。

 

 

オシアナス・グレイブⅡ

 

 

「帰ってきたのか、魔女の―――――」

 

 

 『門』の前。

 帰還した南宮クロウを出迎えた貴公子は、まるでブレーカーが落ちるような勢いで、ピタリと声を止める。人型の魔人に成長したその様に驚いたのもあったが、なにより、その異常なまでに垂れ流す獣気の圧の濃さと量に当てられて、肺や器官ごと声帯が固まったという方が正しいだろう。

 実際、『狙ってる<第四真祖>、の後続機(こうはい)』を一目拝見しようとその傍にいた『戦王領域』に贈られた人質の5人の王女皇女は、自身が呼吸を止めていることに気づかず、危うく窒息しそうになった。

 過呼吸気味の王女らを視界の端で捉えながら、貴公子が溜息交じりに呟いた。

 

「力を抑えろ。俺は問題ないが、そのままだと人間には毒だ」

 

「む……難しいなこれ」

 

 今は全力で解放させた戦いも終わり、けれど事件は終わっていないので気が抜けず、魔人のまま中途半端に獣気を垂れ流している状態である。そのため、戦いから避難していた者らにとっては、重い圧力で臓腑の底を鷲掴みにされているようなものだ。

 そんな中、ごく自然に割りこめたのはやはりこの貴族であったか。

 

「やあ」

 

 向こうの上甲板より、ヴァトラーの声が響く。

 

「戻るなら、そろそろだと思ったよ」

 

 龍殺しとの殺し合いを愉しんだ戦闘狂は、ひとまずその空腹を満たすことはできて、抑えられているようだが、目の前の成長した(ウマくなった)強敵(ご馳走)にいつまでそれがもつか。

 

「その魔人(すがた)は予想外だけど、正直な話、キミが魔女に負ける可能性は一割はあると見ていたヨ。キミが“全力で解放しなければの話だが”」

 

「……、」

 

 何かを言おうとして、クロウは口を閉ざす。

 この吸血鬼の助言が少なからずの後押しになったのは確かだが、それにお礼を口にするのは憚れた。感情的な問題で、言いたくないのだ。

 その無言を無礼と受け取る部下の貴公子に対して、主の貴族は面白おかしくに笑い、

 

「礼ならいらないサ。キミが良き隣人か、あるいは良き“敵”になることを期待した先行投資だと思ってくれ」

 

「世話になったけど、オマエ、やっぱイヤな奴だ」

 

 薄ら笑みを浮かべるヴァトラーに、クロウはそっぽを向く。

 

「それで悪いけど、もう船は出航()して、島から離れてるんだ。絃神島(むこう)に置き去りにした古城に後のことは任せるつもりだけど……キミもここで見物するかい?」

 

 その返答は、ない。

 すでにクロウの姿はヴァトラーの前より消えていた。

 

 

MAR研究所

 

 

 毒草トリカブトも扱いによっては薬となるように、毒素から血清が作られる。

 不死をも殺す“壊毒”は、あまりに強力過ぎて勝手に自滅するものなので、その解析だけでも難しいものがあるが、もし、その“異常状態だけを壊す”よう調整できたならば、それは万病に通じる抗体とならないか。しかもそれは『病』ではなく、その概念そのものに通じるものだから、『呪』さえも()殺しくれるかもしれない。

 

 ふんふー、と暁深森は宿泊施設(ゲストハウス)の自室兼研究室でそんな夢想にふける。できれば、早速手に入った研究サンプルに没頭したいところだが、彼女には面倒を見なければならない相手がいる。

 今、寝室のベットで寝かせている、娘と、その幼馴染の少女。

 

 マグナ・アタラクシア・リサーチ――MARは世界有数の魔導産業複合体。風邪薬から戦闘機まで、広汎な魔導製品を販売している巨大産業だ。

 この絃神市内に設けられた研究所も1000人近い研究者を抱える巨大なもので、けれど、今日は『波朧院フェスタ』の開催日ということもあってか、建物の中に人の姿は少ない。所内の警備も人間ではなく、魔術的な回路を組み込まれた機械(ロボット)と、式神によって行われている。人間と違って手を抜いたり、見落としたりするケアレスミスをしない優秀な連中だ。

 

 

 その一方で、優秀な攻魔師や魔女魔術師ならば、彼らを容易く欺けるのも事実であった。

 

 

奥様(マム)―――」

 

 自室の隅の空間が揺らぐ。

 壁抜けをするように姿を現したのは、目立たない灰色のスーツを着た男たちだった。

 年齢不詳の二人組だが、特に粗暴な気配は感じられない。実直そうな顔つきで、服装にも怪しげな部分はない。訪問しに来た企業人と名乗られれば、ほとんどのものが素直に信じただろう。

 しかし男たちの手の中には、それぞれ一冊の本が握られている。禍々しい魔力を放つ奇怪な魔導書だ。

 

「古城君の厄介ごとに巻き込まれちゃったわね……」

 

 深森は、珍しく深刻そうな表情を浮かべて、ながら、しわくちゃの白衣のポケットにつっこんである型遅れの携帯電話を出さずに、警備部門の番号を呼び出そうとして―――

 

 

「縛れ―――『No.343』」

 

 

 深森の手が石化した。

 魔導書――『力ある書物』が読み手の魔力を吸い上げて起動したのだ。

 

 暁深森は、超能力者であるが、霊能力者ではない。それも『肉体面(ハードウェア)』は分析できても、『精神面(ソフトウェア)』の読み込みまではできないのだ。その特殊性から、霊的魔的な気配には対応できず、むしろ普通の人以上に鈍感になっている。

 だから、息子の連れてきた可愛い少女二人の正体が何者であるかはわかってないし、息子が第四真祖と呼ばれる規格外な魔族の肉体を手に入れたことに気づいていない―――と息子に思われている。

 

 つまり、戦闘には無縁の生粋の研究者である深森にこの魔術師らと戦える力はないのだ。

 そのあまりに遅い対応に、彼らも深森が素人以下だと察したのか、手を胸において優雅に一礼する余裕を見せた。

 

「我々は、<図書館(LCO)>の第三隊『社会学(ソーシャルズ)』の『司書』二名でございます」

 

 ライブラリ・オブ・オーガニゼーション―――通称<図書館>と呼ばれる国際的な犯罪組織。

 それが武闘派メイヤー姉妹の属する『哲学(フィロソフィ)』では戦力不足であると、別部門である『社会学』の彼らも『総記』の脱獄に協力していた。

 ただし、その目的は違う。魔術師が部門の長老から命じられたのは、魔導書の回収。つまり、その『総記』が所有する<闇誓書>の奪還。

 “貴重な禁書を保護する”――それが、<図書館>で多くに共有される理念である。

 

 そして、魔術師らがここにやってきたのは、禁忌指定の稀覯本を貸し出された魔女が、掴まってしまう前に本だけでも救出するためだ。

 

「あらあら、LCOがこのMARに何の用かしら。挨拶もなしに人に呪いをかけておいて……」

 

「失礼、奥様。人を呼ばれるのはいささか面倒なので。ですが、我らLCOはMARと事を構えるつもりはありませぬ

 我らがここに来たのは、<蒼の魔女>仙都木優麻と、彼女に貸されていた『No.013』を回収するためでございます」

 

 魔術師らの目的は、子供たちの幼馴染である魔女―――の魔導書。

 呪いが解析できず、肉体面の専門家である深森に、呪いを放つ魔導書にあまり研究意欲はわかない。LCOとMARは、文系と理系くらいの畑違いだ。だから、ここで魔術師らが帰ってくれるのなら、深森としては渡してくれても構わない。

 けれど、幼馴染の少女は別だ。巻き込まれたにしても、子供たちから預かった大事な身内だ。

 

「ユウちゃんの退院許可は出せないし、あなたたちには見舞いの許可も出せないわね。本も知らない。古城君たちが来たときにはもっていなかったから、どこかに落としたんじゃないかしら?」

 

「我ら<図書館>が、その命よりも重大な魔導書を落とすなど、ありえない」

 

 組織思想に狂信的な魔術師は、魔導書より空間を歪めるほどの瘴気を撒き散らしながら、深森を凄む。

 

「わかった。蒼の魔女(やつ)を吐かせる。その脳から記憶を穿り返そうが、禁書の叡智は護らなければならない」

 

「ダメよ。あの子はまだ身体が治り切ってないの!」

 

「どけ、研究者。さもなくば―――」

 

 再び、魔導書の魔力を深森に向けて―――そのとき、背後より突き飛ばされた。

 

「―――ごめん! 下がって、おば様!」

 

 簡易的な、けれど、だからこそ一工程(シングルアクション)で発動できる火球の魔術。

 ベットで眠っていたはずの優麻が身体を起こして、魔術師らに攻撃を仕掛けて―――先を制された。

 

「―――遅い」

 

「なっ、『法』の魔導書……それも石化の術を、高速詠唱で……」

 

 彼らは『司書』―――つまり位からすれば、優麻と同じで、それだけの実力がある。

 複雑で多くの工程を要する魔術であっても、一言で発動させる。そう、優麻が儀式触媒を有する空間制御を呼吸するようにこなせるように、彼らも魔導書の力を一工程より早くに使えるのだ。

 火球を放とうとした優麻の右腕が、魔導書の魔光を浴びせられて、石と化していた。

 石化した優麻の腕の表面には、細かな文字がびっしりと刻み込まれている。古代文字によって記された刑法の法典だ。呪力を備えたその文字は、優麻が得意とする空間制御魔術を封じて、ここからの逃走を不可能にする。

 

 大罪を犯したものだけを拘束する石化の魔導書――それが『法』の魔導書と呼ばれる『No.343』の能力。

 

「これは、罰を与えるための魔導書だ。<図書館(そしき)>の意に沿わぬ者たちほど、絶大な効力を発揮する。つまり、それが貴様の罪の重さなのだ<蒼の魔女>」

 

 咎人を見る目で、魔術師らは石にされた腕の重さを、今の状態で支えきれず前のめりに倒れる優麻を見下し、

 

「その気になれば、魔導書『No.013』を喪失した貴様を生きた石碑にしてやることができるが、まだ利用価値がある。助かりたくば、我々に従うのだ」

 

「何をしろと、言うんだ」

 

「『総記(ジェネラル)』との交渉だ。自らの作品(こども)が説得するならば、<書記の魔女>も快く<闇誓書>を我らに渡してくれるだろう」

 

 厳かに告げる魔術師に、優麻は鼻を鳴らして、自嘲するように失笑する。

 

「……なにが、おかしい」

 

「使い捨ての人形を人質に取ろうが、あの人は気にもしないよ。そして、絶対に<闇誓書>を誰にも渡したりしない。交渉は成立するわけがない」

 

「そうか。なら、貴様にもはや生かす価値はないと言うんだな」

 

 抑えられていた魔導書の瘴気の濃度が上がる。

 その足からゆっくりと、しかし着実に優麻の身体が石となっていく。

 魔導書も<守護者>もない。そもそも今の状態では、封呪されなくても空間制御は使えないのだ。優麻に打開策はない。

 だが、自分さえいなくなれば、魔術師らはここより退散する―――そんな打算的な思考もあって挑んだのもあった。

 だから、

 

「……だ、め」

 

 小さく響く、少女の声。

 それは、この部屋にいた最後のひとり。呪術を掛けられて昏倒していたはずの暁凪沙。

 彼女はまだ強制的な眠りに頭を重くされたようにふらついてるも、それに抗って目を覚ましている。

 

「ダメ。ユウちゃんにヒドいことをしないで……」

 

 ―――ここで、彼らを刺激するのはマズい。

 

 優麻、そして、母の深森は同時に思う。

 娘の身に万が一のことはない。彼女に危害を加えられる者など、滅多に存在しないし、『司書』程度の魔術師の相手は造作もない。

 だが、今日はすでに“彼女”に一度頼ってしまっている。一日二度の負担は明らかに無理であり、娘の身に祟る可能性が高い。

 そして、その“彼女”を知らない優麻は、先よりも焦った声で凪沙に制止するよう呼びかける。

 

「ダメだ凪沙ちゃん! 彼らに逆らったらキミにまで危険が及ぶ」

 

「でも、それじゃユウちゃんが!」

 

 無垢な彼女の訴えは、仙木都阿夜(ははおや)に切り捨てられた優麻にひどく染み渡る。やはり、彼ら兄妹が仙都木優麻の大事な核の部分を占めている。でも、今はそれを手放してでも突き飛ばさなければ……

 

「……キミにひとつ、言わなければならないことがある」

 

「えッ……?」

 

「キミを人質にして、彼に、南宮クロウに酷い仕打ちを強要した」

 

 きっと幼馴染の口からこんなものを聞かせられるなんて苦痛だろうが、せめて、その心だけは救いたい。

 どちらにしても、力のない凪沙に優麻を救うことはできない。

 “こんな人間は死んで当然だと思わせる”。そうすれば、目の前で見捨てても彼女は罪悪感に押し潰されることはなくて、いつもの景色の中に、笑って帰ることができるのだから。

 

 優麻がひとりの少年にした仕打ちを語る。けして、許されたいがための懺悔ではなく、淡々と覆しようのない事実を述べる。

 主の在り処を探らせて、戦力を補うために悪魔まで憑かせて、古城らを襲わせた。

 古城の正体のこともあり、ざっとであるが、それでも理解できたはずだ。

 そして、語り終えて、

 

「……ウソ、だよね。ユウちゃんが、そんな」

 

「本当、だ。ボクは、石にする以上に酷いことを平気でする悪い魔女なんだ。騙していてごめん」

 

 掛けられている石化の呪い。罰に比例して効力を上げる魔導書の力が、今の優麻の、けして組織に対してではない、この少女に向けての罪の意識に侵食の速度を加速させる。すでに上半身の胸元まで届いている。

 

「だから、助けようとしなくていいんだ」

 

「そんなの関係ない! ユウちゃんのこと、放っておくなんてできない。それにユウちゃんが本当に悪い魔女なら、凪沙は無事に解放されてない筈だよ。それに、そんなことをわざわざ凪沙に言ったりなんてしない」

 

 何も疑わず、目の中に優しい光を湛える凪沙。

 優麻はこれまで出会ってきた人間の中でも兄妹共々異質な存在だと思っていたが、ここまでお人好しではその将来も心配になる。

 ―――やめてくれ。

 ―――ボクはただ無駄な血が流れるのを避けようとしただけだ。

 

「ユウちゃんこそ、それでいいの!? 石になっちゃうんだよ!」

 

「覚悟は……できてるよ」

 

「“覚悟なんて、どうでもいいよ”! ユウちゃんがそれでいいかどうかを聞いてるんだよ!」

 

 それまでになく真剣な凪沙に、優麻は思わずたじろいでしまう。

 だが、勢いに押し切られる寸前で踏み止まり、薄い笑顔を作りながら答えた。

 

「これで……いいんだ。ボクは、魔女ということを差し置いても……存在するだけでキミらに迷惑をかけてしまっている。そうまでして生きるぐらいなら、ここで石になった方が……幸せなんだと思う」

 

「なら、何でそんな悲しい顔するの! そんなの願いじゃなくて、諦めだよ!」

 

「だって! そうしないと凪沙ちゃんは……ッ!」

 

 思わず叫んだ後、優麻は気づく。

 これでは、死ぬ理由を凪沙に押しつけているだけではないかと。

 ―――ああ、やっぱりボクは、最低だ。

 ―――この期に及んで、ボクは自分で決められない。

 ―――他人の中に、答えを求めてしまうなんて。

 

「……ごめん……ボク、キミを理由にする……つもりは……」

 

「―――いいよ。それでユウちゃんが希望を持てるなら、いくらでも私を理由にしてよ。でも、諦める言い訳をする必要はないよ。たとえユウちゃんが諦めても、私は決してユウちゃんを諦めたりしないから!

 だって、誰が何と言おうと、ユウちゃんがどんな風に言ったって、ユウちゃんは友達だよ! こればっかりは絶対に変わらないっ!!!」

 

 

 

 石化が、止まった。

 

 

 

「何?」

 

 同じ『司書』としての恩情で二人のやり取りを静観して、あるいは余興で愉しんでいた魔術師らは訝しむ。

 その胸――ちょうど心臓に差し掛かる寸前のところで、石化が遅滞した。どころか、止まっている。魔導書には魔力を注ぎ込んでいるし、魔術も発動している。ならば、それは、<蒼の魔女>の罪の意識がなくなった、と魔導書は判断したのか。

 

「……ふざけるな」

 

 裏切りの魔女が贖罪されるなど、あってはならない。

 それより、

 

「わかったぞ。この少女の絆されたのだな貴様は。そして、それを組織よりも優先順位の上に置いてしまっている―――ならば、それは取り除いてやらねばならぬ」

 

 狂信的な魔術師は、その表情を消した冷徹な面持ちを凪沙へ向ける。

 その視線の位置にいち早く気付いた優麻は声を上げる。

 

「やめろ! 彼女は関係ない筈だ!」

 

「黙れ<蒼の魔女>! 貴様、魔導書も<守護者>も失っただけでなく、我ら<図書館>の思想さえも忘れたか!」

 

「そんなもの、最初から持っちゃいない! ボクが、ボクの持ち物だって言えるのは、彼女と彼女の兄だけだ!」

 

 無表情にしたはずの顔を歪ませ、魔術師は目を細め宣告する。

 

「そうか。よくいった。なら、ここで死ね。その後にこの小娘も一緒に送ってやる」

 

 暁深森がそこで起き上がって、ぶつかろうとし、もうひとりの『司書』にあえなく阻まれる。

 そして、魔導書に魔力を送り、優麻に掛けた石化の強制力を高めさせて、同時に凪沙へ向けて火球の術式を展開する。轟!! と凄まじい音を立てて、燃え盛る豪火球。

 その。

 直前の出来事だった

 

 

 ドゴォ!!!!!! と。

 まったく別の轟音が炸裂した。

 窓から飛び込んできた金色の体毛の魔人が、その身に重ねて展開していた数十もの魔術障壁ごと魔術師の胴を蹴り飛ばした音だった。

 

 

 それはひょっとしたら、自動車にフルスピードで突撃されるにも等しかったのかもしれない。

 衝撃波じみた轟音の直後、『司書』の魔術師の身体が部屋の隅へブッ飛ばされて、今度はすり抜けたのではなく、壁をぶち破って、外へ出ていった。おそらく宿泊施設の庭に植えられた大木の幹が受け止め、施設を一直線に突き進んだ破壊の連鎖がようやく終わる。

 危機を一蹴する、文句のつけようのない至上の暴力がそこにあった。

 

 刹那、時間の流れは体感的には止まっていた。

 外まで壁に穴が開いた室内を、魔人はジロリと静かに見据える。

 

「なっ……」

 

 まだもう一人、魔術師がいた。彼は思わずといった調子で声を洩らす。その手は飛び掛かってきた深森を押さえ付けていた。けれど、あらゆる時間が戻るよりも早く、魔人の虹色の眼光が魔術師を貫く。

 それだけで、魔術師は飛び退いて、尻餅をついた。それほどまでに、その気当たりは圧倒的であって、恐竜か何かに睨まれているイメージを頭に叩き込んでいた。少しでも刺激すれば噛み千切られる、と。

 かちかちかちかちかちかち、と魔術師は永遠に震えていた。

 死という壁を感じる。自分に選択肢は与えられていない。

 百獣の王と出くわした草食獣は、相手が気紛れでも起こしてくれるのを祈るしかできないような、あらゆる努力を封殺する理不尽極まる破滅を肌で知ってしまう。魔導書を盾にするように突き出す格好。それでいて、あからさまな恐惶と殺意に塗れながら、脂汗だらけのその顔は卑屈に笑い、唇はこう動いていた。

 待て。

 素晴らしい叡智を授けよう。

 

 

「いらんっ」

 

 

 パンッ!!! と額に撃ち込まれた“指弾”。

 たった親指一本で弾き飛ばした弾丸のような空圧に、それを眉間で受けた魔術師の男は、一回回って、落ちた。少なくとも先の相方よりはマシだが、撃沈した『司書』は口よりゲロとヨダレの混じったものを吐き出している。

 それでも、加減はされた。でなければ、その頭蓋骨は木端微塵になり、中身の脳漿を飛び散らしていたことだろう。

 

「う。みんな、大丈夫だな」

 

 はっきり言うと。

 この時まで、彼には詳しい事情は分からなかったはずだ。だが、躊躇はなかった。

 状況を見渡す。

 友達を殺されそうになった少女が泣いていて、何者かが魔術を行使しようとしていた。

 それだけわかれば十分だ。

 彼は、彼の信じる世界の理に従い、即断して、その涙が零れ落ちる前に終わらせた。

 

 

「約束、ちゃんと守ったぞ、凪沙ちゃん」

 

 

 その目元の滴をすくい上げて、大人になった少年はにかっと少女に笑ってみせた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 事件は、終わっていない。

 別れた古城らがこのMARに行くと話を予め聞いていたから、そこに寄った。そして、近くに来て危機を察したと言ったところだ。

 

『―――キミに頼める資格はないのはわかってる。けど、お願いだ。ボクも一緒に古城のとこへ連れてってくれ!』

『いいぞ』

 

 少年は、また忙しく去った。

 今度は幼馴染の少女もつれて。

 それで、石化が解けたばかりで体力の低下している幼馴染が、こう、あっさりお姫様チックに抱き上げられていたのは、見ててちょっと、イラッとくるものがあったけど。

 

「…………………………………………………………………恰好良い」

 

 登場から見送りまで、姿が見えなくなるまでずっと茫然と立ち竦んでいた少女はようやく一言。

 して、その間、心臓は彼女の心の機微に呼応するように高鳴りが止まらず。

 勝手に出ていったことへの怒りや心配も吹っ飛んだ。

 ただその立ち姿だけで。

 男子三日会わずんば、とあるが、あれから三時間も経っていないのに、ひとつ、乗り越えた男の子は、その威風が大きく見せていた。

 で、そのぼーっとしてた間に行ってしまったのだが。

 

「足も速いけど、成長も早いわねあの子」

 

 肉体面のスペシャリストである深森は、神獣から魔人になったその姿に大変驚きを見せて、ますます研究対象としての興味が掻き立てられる。それに、

 

 

「へー、有望株だと思ってたけど、大人になるとああいう感じになるのねー。今のうちモノにしないと5年後は大変よ凪沙ちゃん」

 

 

 

つづく


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