ミックス・ブラッド   作:夜草

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長くなってしまい、二分割してます。


観測者の宴Ⅲ

金魚鉢

 

 

 宴から遠く離れた、誰にも観測されない場所。

 

 

 心身ともに蹂躙されて、仰向けに倒れた人狼の視界に、月はない。

 ここは絃神島より遠く離れた、誰もいない無人島。

 機械と鋼鉄に塗れた人工島よりも、開発されず自然のままに残された場所は森に近い匂いだ。

 その森の中央に君臨する、悪魔と同化した創造主の血腥い臭いも含めると尚。

 月明かりさえない極夜の森へと、この無人島を変遷していくのは、森全土に根付いた下半身に、巨大な花弁と入り混じる半植物の魔獣の上半身、そして、頭部の位置に女性の上体が生えている。怪魔と怪魔を魔女が継ぎ木して一体化したかのような、異形の存在。

 

《私に勝てる―――そう、言い聞かされて、ここに来たのかしら?》

 

 冷たい地面の上で光のない空を見る人狼の耳に、“創造主”の声が飛び込んできた。

 

《あらあら、おかしいわ……オヤである私に逆らっても無意味なことを知ってるはずよね、“九番”》

 

 “創造主”の甘い囁きは、人狼がこの戦場へとやってきた時と全く変わらない。聴く者の理性を奪うような妖艶な声が、決死で戦いに臨んだ人狼を翻弄し、オモチャのように弄ぶ。

 

《ということは、私に身体を捧げに来てくれたのかしら?》

 

 森の匂いに混じって感じる空気は、初めて逆らった時と変わらない。

 あの時と変わらない、忍び寄る絶望の匂い。

 

《そのために私に造られ、“失敗作”を使って育ててあげた。生まれた時から、“九番”は私の道具(もの)よね? ―――けして、<空隙の魔女>のではない》

 

 残された力を振り絞り、人狼は身を起こす。

 立ち上がろうとする人狼の視界に暗幕を掛ける夜闇に、とめどなく流れる鮮血の紅が混ざっていた。赤く染められ、その周囲の木々には血の飛沫が塗りたくられて。銀の体毛に主より借り受けて、今や砕けてる黄金の鎧も血を吸って変色していた。

 

「森にいたころのオレと……今のオレは、違う……オレは、ご主人の眷獣だ―――!」

 

 立ち上がった人狼の顔面は、血と泥で汚れていた。

 顔を上げ、真っ直ぐに、“創造主”を睨む。

 

《いいえ、何も変わらないわ》

 

 傷だらけの人狼を見下し、“創造主”が嗤う。

 

《あの日――初めて反抗した時と同じ結果を、また繰り返すだけ》

 

 大地に根付く蔓蔦の下半身が脈動し、その星の血液たる龍脈を吸い上げる。

 星の龍脈と生命を循環する堕ちた大魔女は、取り込んだ四体の怪獣に相応しく身体を造り上げていく。獣の上半身に頭部にあった人の上半身が変貌し、巨大な女性の半身となる。かつて人であったころの面影が現れていくほどに、悪魔に馴染んでいく。

 

「―――ぐぉああああああッッッ!」

 

 絶叫を上げて、人狼の細胞は完全なる獣へと変生を始める。

 龍族に天使と同格たる至上(カミ)に近き存在と化す<神獣化>に対し、“創造主”はますます笑みを深めた。くすり、と意味ありげに嗤い、忌々しい大魔女の守護より外れていく己の最高傑作を見据える。

 

《真の主の完成に引きずられ、器は受け入れるに相応しい形へと覚醒するか―――これはますます喜ばしいことねぇ》

 

 その『首輪』を外しこそしていないが、それでも、膨れ上がる身体に、抑え切れぬ獣性。

 もう、左片腕がすでに成っている。

 その手を咢に、腕を体に。変生の途上で停滞している左腕より発散する黒霧は、人狼時よりも密度を濃くしており、辺りの空気がすべて濃硫酸に置き換わったかのように、木々が枯れ始めていく。

 視点を定め、この暴力を向ける先へと誘導する。傷口に口角から紋様の如き悍ましい黒の線を全身に走らせて、暴れ狂うエネルギーを集約させた左手から地面へ叩き込んだ。

 

「オレはアノ時よリ―――強クなっタ!」

 

 相手は、龍脈と繋がり、存在を保っている。

 ならば、その龍脈という自然を辿れば、逃しようがない―――

 

 黒夜の森に大魔女の瘴気を呑み込む黒い霧となる“匂い”が、半人半魔の大魔女の足元まで伝播し、そこから根こそぎ払う『岩角』を突き上げた。

 <堕魂>した<血途の魔女>が、粉々に砕け散った。

 その欠片さえ黒い霧は喰らい尽くし、跡形もなく消滅したのだ。不死身の生物であろうと、この壊毒は絶対の特性すら崩す。

 

《―――そう》

 

 虚空から声が響いた。

 

《でも、どれだけ強くなったとしても、今まであなたの事だけを考えてきた私に力押しではどうにもならないわよ……》

 

「―――!」

 

 振り返った。

 その眼前へ、声が続いた。

 

《まだ、わからないのかしら“九番”?》

 

 地盤がめくれ、荒れた黒夜の森―――そして、完全なる獣へとその左腕から成りかけている銀人狼の背後に、無傷の半人半魔の大魔女が忽然と姿を現した。振り向くと同時、完全なる獣はその超音速を超えて真空波が生じるほどの速度で剛腕を振り抜き、眷獣をも一撃で木端微塵にする熊手が悪魔を薙ぎ払う。だが、空を切るよう異形の姿が霞む。

 

 ―――この脅威を見誤っていた。

 

 一度、<堕魂>した魔女姉妹を相手したが、人間としての知恵や知識などかなぐり捨てた、狂獣などではなかった。

 執念がカタチとなった怨霊とも、言えるが、つまりこれは自意識を持っている。

 魔女としての秘儀を、魔術を、すべてそれは覚えていた。

 そして、中途半端に姉妹の半分ずつ魂を捧げたのではない、大魔女の真なる<堕魂>は、人間が怪魔となった―――完全に意志を持った魔法なのだ。

 

 20年前の古代遺跡での事故の唯一の生存者で、半身を“あっち側”に残してしまった<死都帰り>という者がいる。

 こちら側の世界には存在しないはずの、死の都より帰還したその者は、その代償として、空間制御に匹敵する超高難度魔術である物質透過と同等のことができるという。

 

 ならば、悪魔に魂を捧げ、封印された長い年月の中で存在を上書きし続けたことでついには同一化を果たしたこの大魔女は?

 

《今の私は、悪魔を召喚する魔女であり、魔女の魂を喰らった悪魔でもある。それなら、私自身の召喚も退去もできる。異世界と現世を自由に行き来できるのよ》

 

 空間転移、ではない。

 この世の裏側にある別の次元からの召喚に、現世からの退去。どちら側の住人であるからこそ、世界の裏表の境界線を行き来できる―――即ち、次元跳躍だ。

 

 召喚と退去を自在にこなす“創造主”は、この世界に存在するあらゆる観測から逃れ得ることができるのだ。

 そう、完全なる獣の攻撃が如何に神をも屠るような代物であっても、この半人半魔の大魔女は絶対に傷つきはしない。

 

 片腕だけ巨大な非対称のアンバランスに空振りした勢いに引っ張られて体勢を崩し、傾ける獣の前の、何もない虚空からまた声が響く。

 

《理解したかしら?》

 

 今度、現れたのは、半人半魔ではなく、浮遊している怪魔だ。

 “眼”だ。

 蔓蔦で形作られた外殻は丸く、瞼があり、人間の目玉の様なものを包んでいる。大玉ほどのそれが重力を無視して、“空を埋め尽くすほどに”宙に浮かんでいるのである。

 何千、いや何万と半人半魔の大魔女は異世界より呼び込んだ。

 召喚できるのは、無論、<堕魂>した魔女自身だけではなく、支配下に置いた眷属もまた。

 そして、数えきれないほどのそれらの視線上の焦点が、獣へ―――

 

「―――ッッッ!」

 

 死の照準に定められた<神獣化>の半端な形態の獣人。その黄金の体毛に覆われつつある体が、青白い輝きに包まれた。

 直後に押し寄せた熱風と轟音は、天変地異のようだった。

 轟音と震動で、この金魚鉢と呼ばれる島全体が揺れた。

 とっさに身をよじった獣の胸が、腹が、肩が、腕が、手が、足が、腰が、背が、首が、頭が泡立ち、避ける間も防ぐ間も与えられず弾け飛んだ。獣人の身体が黒夜の森ごと焦がし尽くされた跡地の上をバウンドする。

 どすん、という震動と身体に触れる感触で地面を転がっていくのを知る。

 大の字に倒れたところで、流れる血とともに、自分の命が零れ落ちていくのを感じる。

 体の各部が抉れて煙を上げているものの、まだ息はできることを意識する。そして、急速に弱まっていく心臓の音が、内側より聴こえる。

 重傷を負った獣の前に、裏側より現世へカーテンを開けるような手軽さで、半人半魔が姿を現す。

 

 四つの悪魔を取り込んだその異形。

 醸す芳香が鼻腔に入った途端、裡なる獣性がまた暴れ出す。

 

 ―――なくなる。

 意識が、無くなっていく。

 思考能力の低下。

 弾け散った自我の欠片を必死に掻き集めようにも、間に合わない。

 

 完全なる獣と化した左腕が反乱する。

 宿された残る四体の悪魔が氾濫する。

 最早、主の施した拘束は破綻する。主からの命綱を手放してしまえば、この激流に呑まれて二度と戻らないような悪寒。悪い予感は現実になる。

 だが、もう限界だ。

 これ以上は抑えられないし、これ以上は無視できない。

 『首輪』に手を掛ける。

 唯一の打開策が、今か今かと解放を待っている。

 壊れてしまうのならば、せめて自分の手で……

 

 ―――首輪を掴む右手が、震える。

 

 武者震いなどとはとても呼べない。

 どれだけ覚悟しても恐怖心は消え去ってはくれ

 

 今の己は、主に助けられていなければ半死半生。

 その状態で、この醜悪な痕を晒して、獣になろうものなら、一気にその傷口は開くであろう。

 いや、それよりも。

 

 ―――いつまで、自分は自分でいられるか、と。

 

 怖いのはただ一つ。

 この身体が壊れることではなく、心が狂ってしまうこと。

 

《古き真祖の時はこれより終わりを告げ、新たなる時代が始まる。この、咎神も真祖も超えた存在となる、血途の名の下に》

 

 “創造主”の声が、やけに遠くから響いた。

 

《私が見つけた第八の大罪。すべてを受け入れるには人間の肉体ではできない。けれど、魔族では飼い馴らすことはできない。

 求められるのは、生命力の質。

 量だけなら無尽蔵に穢れた“負”の生命力を垂れ流す蝙蝠で十分。“正”と“負”、両方を併せ持つ“混沌”の生命力こそ私が欲したもの。

 ふふふ、魔族と人類は交配して子をもうけることは可能だけど、必ず人類か魔族のどちらかに性質が傾いてしまう。『混血』とは、本来ありえざる存在で、自然界では認められてない―――私だけにしか創ることのできない》

 

 死に向かいつつある自分と向き合いながら―――

 

《そろそろ我が最高傑作を完成させたいけど。新たなる神となる私に相応しい土台でありながら、(ウツワ)に忌まわしい思い出などしみつくなど許せるものではない。この際だから、この魂を移す前に、すべてを白紙になってから上書きするとしましょう。

 汚れた装束の洗濯を待つように、“九番(これ)”の自我ごと消して―――》

 

 南宮クロウは『首輪』を、ついに外す。

 

 

 誰もいない島、お月様も見てない夜で、良かった。

 

 

「契約印ヲ解放スル」

 

 

 文言は、温度のない声色で紡がれた。

 

 

四年前 ゴゾ島

 

 

 欧州マルタ共和国。

 地中海のほぼ中央に位置する島嶼国家で、変化に富んだ海岸線と遺跡が名所な観光地として有名な島。

 島内の各地には地下墳墓や環状列石、さらには人類最古とも言われる新石器時代の巨石建造物が数多く残されていて、その如何にして当初の人々が関わってきたのかという歴史背景はまだ解明されておらず、今も多くの謎に包まれてる。

 

 そんな最古の遺跡が眠る島に、香港からイタリアと経由してきた子供たち二人。

 男の子は小学生を卒業した直後で、女の子の方は小学生の最高学年の6年生にあがったというところ。

 彼らは一歳違いの兄妹であり、ただし同行者に父母の姿はない。

 多国籍企業に勤める母親にフィールドワークで世界各地を飛び回る父親と、やたらグローバルな両親に挟まれて育った兄妹は何度も海外旅行を経験していて、旅慣れしている。遠路はるばる日本から旅してきたが、地図が読めずに迷子になったり、子供たちだけでパニックになったりしておらず、両替にも手間取ることなく、ごく普通に落ち着いてたりしている。その年代の割には、だが。

 

「うわぁ……! 見て、古城君。外国だよ外国! 外国の人がいっぱいだよ! 看板も全部外国語だよ!」

 

 11歳になる妹は、長い時間閉じ込められていた飛行機の機内から解放されて、空港の到着ロビーに出るなり、人目を憚ることなく歓声を上げる。

 

「久々だねぇ、この雰囲気!」

 

「まあ、外国だからな……つか、ここじゃ俺たちの方が外国人だろ」

 

 二人分の荷物を背負う兄は、妹のはしゃっぎっぷりに若干の恥ずかしい思いをしながら、とりあえず嗜めようとするが、

 

「どうしたの、古城君? 元気ないね? あ、屋台発見! 美味しそう! ビスコッティ! ビスコッティください! 4個! クワットロ!」

 

 見事なまでの順応ぶりで現地入りして早速馴染んでる妹は、構内の売店で店員と値引き交渉など講じたりしていて、さらには他の旅行者に頼まれて一緒に写真に写る始末である。

 

「古城君元気ないね。折角の海外旅行なのに、楽しまないともったいないよ。ビスコッティ食べる? 半分上げようか?」

 

「いや、いい。てか、おまえ、あんだけ機内食を喰っといて、まだ食べるのか」

 

 まったくもって元気いっぱい。

 格安の航空券でやりくりしたため乗り継ぎが多くて、日本とローマの時差八時間、まだ時差ボケしてる兄は体がだるくて頭は眠い。

 

「大体海外旅行って言っても、親父の仕事の手伝いじゃねーかよ」

 

「……そうだよね。ごめんね、古城君。付き合わせちゃって」

 

 兄の苦労性を思い、テンションを落としてしまう妹。父親に会うための旅行だが、正確に言えば呼ばれたのは妹だけで、兄はその付き添いだ。けれど兄が面倒事を請け負ってるのは自分の意思で決めたことであって、妹にまで気を遣わせるつもりは毛頭ないのである。

 

「おまえが謝ることはねーよ。で、これからどうすればいいんだ?」

 

「えっとね、牙城君のお友達が迎えに来てくれるって。航空会社のカウンターの近くで待てってくれてるはずなんだけど……」

 

 あ、地図をもらったんだ、とコートのポケットを妹が漁ったところで、ドン、と兄の肩に乱暴にぶつかる小柄な外国人の男性。

 

「Scusi―――」

 

 年齢は30代前後で、やけに地味で目立たない服装の男。

 どういう意味は聞き取りできないけれども、それでも大げさなまでの肉体言語(ボディランゲージ)で謝っていることはわかる。

 なので、兄も旅行ガイドに記載されていたイタリア語の基本用語をうるおぼえながら使って返事をする。

 

「あ、すんません……えと……ミディスピアーチェ《こちらこそごめんなさい》……?」

 

「Huh…Di niente.Buon viaggio,stronzo―――」

 

「あー、どもども、グラッツェ《ありがとう》、グラッツェ《ありがとう》」

 

 歯を見せながら笑顔で手を振って別れる男、それを兄は答えて手を振りかえして―――妹が、気づいて声を上げる。

 

「古城君、荷物―――!」

「え……?」

 

 途端、逃げ出す男、引ったくり犯。航空券にパスポート、それに現金カードその他諸々の入った兄妹の手荷物を肩がぶつかったその一瞬に奪っていた。

 

「あの野郎っ―――!」

 

 すぐさま兄も追う。熱中したミニバスで鍛えられていたか、相当に足が速い。だが、それは引ったくり犯も同じで、それも大人と子供だ。それも、空港の外に出られてしまったら、土地勘のない兄妹が捕まえるのはほぼ不可能になる。

 間に合わないか―――そう、絶望しかけた時、ひとりの旅行者が引ったくり犯の前に立ちはだかる。兄よりは小さく、妹と同じくらいの背丈の子。ただ、ぶかぶかの帽子に首巻、それにコートを羽織っているため男女の識別ができないが、兄はミニバスで培った直感的に、身のこなしが男子だと予想する。

 

「―――Per Dio!!」

 

 それに対して、引ったくり犯はよける気はなく、ナイフを取り出した。速度を落とさずにまっすぐに突っ込んでいく。

 

「危ない! 逃げろ!」

 

 体格は大人と子供。ぶつかればひとたまりもなく、刃物に刺されれば致命傷となりかねない。兄が声を飛ばすも、間に合わず。

 

 衝突。

 そして、吹っ飛ばされて宙に浮いた―――引ったくり犯が。

 

「は?」

 

 厚着の子の手袋に包まれた右拳が、一瞬、ぶれたと思うと、引ったくり犯のどてっぱらが思いっきり突き上げられてくの字に。その衝撃に飛ばされ、宙空に身体を飛ばしてから、落下。兄の前に仰向けに倒れた、引ったくり犯が目を回して気絶している。

 

「―――と、凪沙の荷物、返してもらうぜ」

 

 荷物を奪い返した兄は、衝突の間際に引ったくり犯から掴み取った凶器(ナイフ)を左手で、ぽっきりと折る厚着の子に頭を下げる。

 

「ありがとな。おかげで助かったよ。それで、あんた、もしかして魔族なのか?」

 

 兄よりも小柄な体躯で、大人を吹き飛ばすほどの腕力。人間ではない。それに、顔はコートのフードの陰に隠れて見えないけれども、その首に大きな枷の様なもの――魔族登録証か?

 

「?」

 

 きょとん、と厚着の子は首を傾げる。

 兄の問いかけがわからなかったというより、どう応えたらいいかわからない風だ。

 そこで、兄はひとつ己の失言を悟る。聖域条約が発効して40年以上が過ぎたとはいえ、未だに魔族を嫌悪したり、恐怖する人間は少なくない。だから、その正体がばれるのが不安なのだろうと、兄はその心境を予想した。

 

「そうだよな、この島って『魔族特区』だし、いてもおかしくないっつうか……ああ、そうじゃない。俺は、あんたに感謝してるんだ。おかげで、荷物を盗まれなかった。あ、えーと、グラッチェ《ありがとう》」

 

「??? ぐら、ちぇ……?」

 

 オウム返しする厚着の子。

 あれ? この島の現地民かと思ったんだが、今の様子は言葉が通じてないのか?

 

「古城君!」

 

 そこで妹が息を切らせながら、ようやく兄に追いついた。兄の無事を確認した妹は、もう、と拗ねたように眉を吊り上げて、

 

「無茶しないでよ。こんなところで怪我したらどうするの!」

 

「大丈夫だよ。手伝ってくれた奴もいたしさ!」

 

「え、っと、その子?」

 

「ああ、そうだ。引ったくり犯をワンパンチでやっつけたんだ」

 

 くんくん、と厚着の子から鼻を鳴らす音が聞こえる。それから、フードに隠れて視線は見えないけど、何やらじーっとこちらを見てる気配。意思の疎通に困っていた兄だが、それに妹は何やら察したようで、

 

「ありがとう。お礼に、ビスコッティあげる」

 

「!」

 

 ぶんぶんと頷いて、妹から分け与えられたイタリアの伝統菓子の固焼きビスケットをいただく。一口食べて、それでこちらにまた一度ぶんぶんと感激したように首を振って、それから、ぽわーっとした幸せを満喫してる空気を醸し出しながら、もぐもぐ美味しく食べる。なんだか、大げさな反応だな、と兄は呆れつつも、妹は、うん! 美味しいよねビスコッティ! と明るい声で言ってから、

 

「ねぇ、その首輪って、もしかして登録証なの?」

 

「?」

 

 その問いかけにまた首を捻る厚着の子だが、ごっくんと呑み込んで食べ終わってから口を開いた。

 

「首輪、ご主人、もらった。オレ、サーヴァント、魔族半分」

 

 驚く兄。片言だが、日本語が通じるのか。ただ、あまり意味が解らないけど。

 

「うーん、よくわからないけど、すごいんだね! 私と同じくらいなのに、大人を倒しちゃうなんて、びっくりだよ。何か武術とかやってたりするのかな。それとも魔術。それからその厚着って、この島の日差しが強いから? 日焼け対策?」

 

「う。あ……」

 

「その辺にしとけ、凪沙。初対面だし、それにまだ日本語に不慣れな感じだろ」

 

 ものすごい早口で質問を始めた妹を、兄は嗜めて、それから苦笑交じりに厚着の子に向けて、

 

「わるいな。こいつ、無駄に口数が多くて。……それで、あんたはひとりなのか? 連れとかいるのか?」

 

「ん。ご主人。あっち」

 

 指差す方を見ると、そこには、妹や厚着の子よりもさらに小柄な東洋人の少女がいた。フリル塗れなドレスを纏ったその姿は、美しい人形を連想させる。

 

「勝手にはぐれるな馬鹿犬。それとも、その首輪にリードでもつけないといけないのか」

 

 その豪華なドレスを着飾った少女は見た目の年齢はこちらよりも幼いのに、口調や態度は傲慢で偉そう、けれどもそれが妙にしっくりと似合っている。

 どうやら厚着の子の知り合いのようだし、ひょっとして姉弟なのか、と兄は予想。

 そんな少女は、厚着の子の口元に食べかすがついているのを見咎めて、

 

「どうやら、世話になったようだな、小僧。こいつは、食欲は人並み以上で、まだ人並みの常識が身についてない。この前も勝手に店前に並べられていた売り物を買わずに齧ってな……

 代金は私が払おう。いくらだ」

 

「いや、いいよ。助かったのはこっちの方だ。荷物を取られちまった引ったくり犯を倒してくれた」

 

 ほう、とまだ昏倒中の引ったくり犯を見て、少女は美しく笑う。兄はその見た目に反して態度がでかいが、妙な威厳と貫禄のある少女の態度が憎めずに、思わず苦笑してしまう。

 

「それで、あんたらは何者なんだ? ただ者じゃないってのはわかるんだが……」

 

「詮索するな。それより、面倒事に関わりたくなければとっとと行くと良い。ほれ、迎えが来たようだぞ」

 

 引ったくり犯撃退劇は、結構目立っていたようで、周囲がざわついている。ただ無題に注目を集めたのはこのドレスの少女のせいでもあると思うのだが。

 これ以上目立つ前にこの場を退散した方がいいかと兄も同意して、その時、野次馬たちをかきわけて兄妹にひとりの女性が近づく。

 

「―――失礼ですが、暁凪沙さんではありませんか?」

 

 父親が寄越してくれた現地のガイド。兄妹がそちらに視線を向けて―――その視界から外した一瞬で、ドレスの少女と厚着の子は姿を消していた。まるで虚空に溶け込んだかのように、何の痕跡も残さずに―――

 

 

オシアナス・グレイブⅡ

 

 

 軍用駆逐艦に匹敵する、破格の規模のメガヨット。

 大型船舶の寄港が多い絃神島でも、特に人目を惹きつけるこの豪華客船は、『戦王領域』の貴族アルデアル公が黒死皇派事件で占領された外洋クルーズの次世代機『オシアナス・グレイブⅡ』。

 

 つまり、ここは絃神島にありながら『戦王領域』の領地であり、日本国の法律の適用されない治外法権―――国家機関である獅子王機関の一員が気軽に立ち入っていい場所ではないのである。

 

『―――なんで、アルデアル公のメガヨットに先輩たちがいるんですか?』

『私や雪菜が乗りこめないようなところに<空隙の魔女>を連れて行くのよ? 馬鹿なの? 灰にされたいの!?』

 

 というわけで、後輩に続いて独走し、独断でヴァトラーの誘いに乗った古城へ獅子王機関のお二人はお怒りである。

 けれども、古城は何も豪華クルーズ船でのんびり楽をしたいと思って避難したわけではないのだ。

 

「仕方ねーだろ、ヴァトラーのアホは、那月ちゃんを囮にして脱獄囚を誘き寄せるつもり満々なんだから。あのまま街中にいるよりは、海上(こっち)の方がまだ安全だと思ったんだよ!」

 

 <監獄結界>の解放を望んでいた戦闘狂は、脱獄してきた強者との戦いを望んでおり、その脱獄囚が釣れる南宮那月を保護するのは都合のいい展開である。

 どうあっても、<蛇遣い>が参戦する以上、魔導犯罪者らと遭遇すれば、激しい戦闘となるだろう。被害は相当なものとなる。だから、防犯設備が整っているが、人が密集しているキーストーンゲートに滞在するより、何もない海の上の方が古城にとって好都合だ。

 

『それはまあ、たしかにそうかもしれないけど……』

 

「まあ、こっちも心配を掛けちまって悪かったよ」

 

 古城の判断がそれなりの合理性に基づいているのだと、雪菜と紗矢華も一応は認めた。

 古城も彼女らが必死に行方を捜してくれたことはちゃんと理解はしている。

 

『それで、藍羽先輩と南宮先生、それにクロウ君は無事だったんですよね?』

 

「あー、とりあえず浅葱と那月ちゃんは大した怪我はないみたいだし、脱獄囚とぶつかったクロウの方も問題はないそうだ。那月ちゃんの場合は、あれを無事っていえるのかわからないけどな」

 

 歯切れ悪く答えながら、古城は見る。

 

「クロー、ブラッシングしてあげるねー」

「痛い痛い!? 思いっきり髪を引っ張ってるの、あだだっ!? 小っちゃくなってご主人が優しくなったと思ったら、全然優しくないぞ!?」

 

 歳がおそらく10にもなるまい、ただでさえ手のかかりそうな年代の小さな女の子が、子犬の面倒を見るように後輩を可愛がっている光景。後輩は、つい先ほど極悪な犯罪者を相手取っていたそうだが、そのリトル・モンスターに泣かされている。

 

「一応……平和だ」

 

『一応って……随分と賑やかな声が聞こえますけど』

 

 ちなみに古城の電話口から聴こえるのは、救急車や消防車などのサイレンや喧噪、今雪菜らが連絡を掛けているキーストーンゲート付近はまだ混乱中のようだ。

 

「サナちゃんがクロウとスキンシップしてるんだよ」

 

『サナちゃん……ですか?』

 

「幼いバージョンの那月ちゃんの略称で、サナちゃんだ」

 

『ああ……なるほど、そういうことですか』

 

 雪菜らもまた、テレビで浅葱と一緒に幼児化した那月の姿を確認している。

 今の説明で大まかに状況を察したのか、雪菜が納得したように息を吐く。

 

「むー、クロ、癖っ毛だからブラシが梳きにくい……えいっ」

「ぎゃー! ぶちっといったぞ!? ご主人、ブラシがへたっぴなのだ!」

「サナ、へたっぴじゃないもん。クロがアスタルテみたいに真っ直ぐだったら簡単だったの……にっ」

「ぎゃーぎゃー! また強引にいったのだ!」

「もー、クロ! 動いちゃ、めっ! 次動いたら針を千本呑ませちゃうからね」

「違うぞご主人。言うこと破ったらハリセンボンをご馳走するんだったぞ」

 

 何の前触れもなく途端に、現在精神年齢が小学低学年レベルな主従の会話は古代語のルーツを求めてジグザグに脱線している。独特でも論理はあると思われるのだが、直感や感情によっていきなりバイパスしていくのがセオリーならぬセオリーであり、一瞬でも見逃していれば、完全に展開がわからなくなる。

 そして糸口が見えなくなるので会話に参加することもできないという。

 

「しゅっしゅっ―――!」

「いだっ、いたたっ!?」

「クロ、静かに。サナ、集中できないじゃない」

「うー。何か理不尽なんだぞー」

 

 しかしながら、正しいのは主に決まっており、主の決定ならばそれが黒であっても白になってしまうのだ。

 

『悲鳴を上げてますけど、助けに入らなくていいんですか』

 

「普段できないようなことをやってるんだ、水を差さないでおいてやろう」

 

 けして古城も小さくなってまで担任教師に苛められたくないからというわけではない。

 後輩ひとりを犠牲にすることで、古城もこの通り電話できるだけの余裕ができるわけで、浅葱も脱獄囚に追われて汚れた服を着替えに行けるという。

 やれやれ、と雪菜は弱々しく溜息を吐いて、

 

『それで……せめて藍羽先輩だけでも、自宅に送り届けた方が良かったんじゃないんですか。そこにいたら、確実に戦闘に巻き込まれてしまいますし』

 

「それは俺も同感なんだが」

 

 ヴァトラーに誘いを掛けられたとき、浅葱もその場にいた。

 それで『戦王領域』の有名な貴族と知人関係な古城を怪しみ、どうにか説得して誤魔化そうにも頭の回転で浅葱に勝てるわけもなく、またサナが『ママ』と懐いてることもあって、結局断り切れずについてきてしまった。

 

『とにかく、私と紗矢華さんもなるべく近くまで行きますから。せめてこれ以上、問題をややこしくしないでくださいね』

 

「ややこしく……ってなんだ?」

 

『つまり、その……藍羽先輩の前で吸血衝動に襲われたりとか……』

 

「―――するかっ!」

 

 確かに古城には前科があるが、それでも分別くらい弁えている。

 その心配はいい加減お門違いであるといつになったら理解してもらえるのだろうか。

 

『……だといいんですけど。それから、ちょっとクロウ君に―――』

 

 電話を代わってください、と言い切る前に、

 

「―――誰と電話をしてるの?」

 

「うおわ!?」

 

 突然、声を掛けられて古城は間抜けな悲鳴を上げてしまう。

 振り向くとそこには話題に出ていた人物こと浅葱が立っていた。

 

「何か私の名前が聴こえた気がするんだけど……」

 

「あ、浅葱!? 着替えてこなかったのか? ヴァトラーのとこの侍女の人が服を貸してくれるって言ってただろ?」

 

「そうよ。そしたら、お風呂を用意してくれるって言ってたから、サナちゃんも誘いに来たのよ」

 

「風呂?」

 

「船の中に大浴場があるんだって。半端ないね、ヴァトラーさん。流石領主。マジ金持ち」

 

 それには古城も同意である。

 戦闘狂的なとことか、同性愛的なとことか、性格に問題要素があり過ぎてつい忘れがちになってしまうが、れっきとした貴族で、その予測のつかない気まぐれな動向を常に注意しておかねばならないくらいの、国賓級の重要人物なのである。

 で、浅葱は間近で古城を見上げてくる。

 

「何で古城が、そんな人と知り合いなわけ?」

 

「あー、それは、その……」

 

「クロウも知り合いみたいだけど、あれは那月ちゃんの仕事だって納得できる。随分気に入られてるみたいだったけど」

 

 浅葱は古城が『世界最強の吸血鬼』であることは知らない。だから、どこにでもいる平凡な男子高生と思っているのだろう。今のところは、だが。

 

「同じ体質……じゃなくて、共通の話題的なものがあって、ちょっとな」

 

「……それって、クロウのこと?」

 

「あ、ああ、そうだな」

 

 ウソはついていない。

 けれど、何やら浅葱はそのヴァトラーを警戒している模様で、危険を承知で船に乗り込んだのもそれが要因の一つに挙げられるだろう。

 

「へー……」

 

 疑わしい半眼のまま浅葱は、ますます距離を詰めていく。

 理由はわからないがその雰囲気は、どこか追いつめられているような余裕のなさが感じられて……刺々しい視線が喉元に切先をあててくるレイピアのように、古城は迫力に圧されて壁際まで追い詰められる。

 

「あのね、古城……最近、あんたと話してると、あたしにだけなんか隠し事されてるような気がして、たまにすっごくムカつくんだけど」

 

「浅葱……」

 

 思いがけずに吐露された浅葱の本音。未だに告白の返事も返せずにいる彼女に、古城は激しい罪悪感を覚える。そんな古城の表情を観察してか、浅葱は、まあいいわ、と軽く肩をすくめて、追い詰めたところをあっさりと解放する。

 

「どうやら、まだ電話が繋がってるみたいだし、ごめんなさいね。―――でも、お風呂の後にはきっちりと聞かせてもらうから」

 

 それから、行こサナちゃん、と呼びかける浅葱。

 ブラシをしていた小さな女王様は、うん、と頷くと頭がぼさぼさしてる後輩の方を向いて、

 

「クロも行こ。洗ってあげる」

 

「うー。よりひどい目に遭う気がするのだ」

 

「あんまりはしゃいじゃダメよー。広いとはいえ他所様のお風呂なんだから」

 

 ごく自然に並び立つ3人に―――古城は待ったをかける。

 

「おい、それはまずい。っつか、浅葱も止めろ! 注意するとこが違うだろ!?」

 

「あー……やっぱそうよね。クロウって、男子だってのはわかってるんだけど、この前、制服貸して女の子のメイクしてあげたら思いの外似合ちゃっててさ。それにサナちゃんに可愛がられてるのを見てると飼い犬(ペット)みたいに認識しちゃうのよ」

 

「だからって、常識を忘れてんじゃねぇよ!」

 

 女装が似合うのだとしても、絶対に越えちゃいけない壁がある。性格は信頼できるものでも、後輩の性別は男性に分類される。年齢も男女混同禁止の7歳を倍は優に超えている。それで一緒に風呂に入ろうなどまずおかしい。

 けれど、うっかり行きそうになった後輩の手を引いて引きとめる古城、また逆の手をぎゅっとしがみつかれた。

 

「やー! クロは私が面倒見るのー!」

 

 上目遣いで睨みを効かせるサナちゃん。残念ながら、いつものカリスマなオーラのない彼女を臆すことはないが、そう目端に涙を溜められると古城も弱い。

 

「いや、でもな、クロウは男で」

「クロは私の使い魔(サーヴァント)なの!」

 

 潤む目線。向けられるだけで罪悪感がすごい。古城は頬に汗を垂らしながら、頭を抱えた。

 この娘が、古城の担任教師で、指折りの攻魔師であり、真祖よりも真祖らしい風格を備えた大魔女だということを理解しているのだが。

 

「クロウからもなんか言ってやれ」

 

「うー。小っちゃくなってもご主人はご主人だから逆らえないのだ」

 

 忠犬な後輩にあっさりと首を横に振られる。けれども、幼くても主と認識はしていても、対応には困ってるようで眉はハの字である。

 このままでは世界最強の吸血鬼も押し切られてしまいそうになるが、浅葱が脇に手を入れて持ち上げた。そして、抱きしめてその体温で安心させると力が抜けたようで、無理なく後輩を掴む小さな手を外してしまう。

 

「ママ!」

「はいはい」

 

 流れるように運ばれてしまうサナは、目を白黒させる。だが浅葱は落ち着き払った様子でその場に膝をつくと、優しく諭すように目線を合わせた。

 

「サナちゃん。クロは男の子だから一緒にお風呂に入っちゃダメなの。それに、サナちゃんもまだ一人で洗いっこできないでしょう? それでクロの面倒が見れるの?」

 

 浅葱が言うと、サナは残念そうに口ごもる。

 

「……うん、サナ、まだ一人で身体洗えないの」

 

「よし。じゃあ、ママがサナちゃんを洗ってあげる。だから、クロは古城に任せましょ」

 

 浅葱がぽん、とサナの頭を撫でる。すると、小さくこくんと頷くサナ。

 何とも鮮やかな手管で、いとも簡単に宥めてしまった。

 その光景を一枚の絵を眺めるように見ていた、古城はつい苦笑してしまい、

 

「なんか、そうしてると本当の母親と娘みたいだな」

 

 可愛らしい子であるサナに、意外にも甲斐甲斐しく面倒を見る同級生。その年齢は聊か若いと思われるが、確かに母親してる。

 それは浅葱本人も柄ではないと思っているのか、少し怒ったように顔を赤くして、

 

「ちょっとやめてよね。だいたいあたしの娘なら、父親はあんたってことに―――」

 

「え?」

 

 口を半端に開けたまま浅葱が言葉を止める。ほとんど言ったも同然のところで切ったので、古城も聞き咎めて、呻いてしまった。自らの失言を悟ってしまい硬直する浅葱に、古城も古城で何を言ったらいいかわからず、ペット的なポジションの後輩はこの場の空気が妙な方向に流れていかないようフォローすることはできない。

 いくら幼児化しているとはいえ、担任教師の目の前で、不純異性交遊を疑われるような発言は控えるべきであろう。

 

「こ、この状況ではって意味よ。あくまでこの状況ではそうなるってだけ」

 

「あ、ああ。そうだよな」

 

「そう! だから……じゃ!」

 

 と言って、サナを抱いてそのまま部屋を出て言った浅葱。

 その顔が赤かったことは見なかったことにしよう。たぶん、古城も今は鏡を見れそうにない。

 

『―――早速、ややこしいことになってるじゃないですか先輩』

 

 そんな火照った頬を冷ます言霊が、これまで繋がっていた電話口から漏れ出てきた。

 待っている間、随分と不機嫌を溜めこんでいたようで、ついオーラを漂わす携帯から距離を取ってしまう。

 

 

『大事なお話があったんですが、その前にクロウ君と先輩には“少し”注意をしないといけないようですね』

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 ―――空が落ちぬ限り、この誓いを破ることを禁じる。

 

 

 北欧地方での古い言い回しだ。

 それを、祝詞を紡ぐよう厳かに巫女が口にするのなら、それこそ神話の一幕の如き気配を宿す。

 

『現在のあなたの状態と状況を鑑みて、急を要する事態と判断。獅子王機関の舞威姫、並びに剣巫が手を打たせてもらうわ』

 

 スピーカーモードにした電話の向こうから、獅子王機関の舞威姫の宣告。

 

『南宮クロウ。これから、あなたには<禁忌契約(ゲッシュ)>を結ばせてもらうわよ』

 

 『No.013』の魔導書を介して行われるそれは、禁忌を自らに課すことで、恩恵を得るが、背いた場合は禍が降りかかる契約呪術。

 禁忌の誓約が厳しいものであるほど、受ける恩恵も強くなるというが、ただし、諸刃の剣だ。多くの英雄は敵にその禁忌を破らされることで破滅をしていった……

 

「なあ、煌坂、それって本当にしないとダメなのか?」

 

『南宮那月に封印されていた<血途の魔女>が、南宮クロウの身体を狙っている。そして、それが完成すると真祖を殺し得る脅威となる―――脱獄犯に<書庫の魔女>もそうだけど、その子も見過ごすことはできないのよ』

 

 <黒妖犬>が敵にまわってしまう危険性。

 それは、古城と雪菜二人がかりでも止めることはできなかったことからも実証されており、制止させた南宮那月も今は頼りにできない。

 ならば、最悪を予期して、最善の手段を模索する紗矢華の言は正しく。

 

『これは、アルディギアの第一王女から提案されたことなの』

 

「ラ=フォリアが……?」

 

 そして、<禁忌契約>についても、別れる間際に、紗矢華に提案をしたのだ。彼女はそれに乗った形となる。

 

『そう。今回の件で南宮那月の管理能力の信用が落ちたと獅子王機関が判断を降そうものなら、民の生活を預かる王族として、一枚噛ませてもらう―――それが、この魔導書(No.013)の一頁を譲り渡すための条件だったのよ』

 

 その歳で親善大使をこなせるだけであって、政治的な判断は迅速、余計な介入をされる前に先手を打ち、その弱みを突いた。

 たとえ、船舶であろうと他国の外交特使の所有する領土に立ち入るのを躊躇わなければならないくらいだ。

 この交渉により、紗矢華や雪菜ら現場の人間よりも上の――『三聖』であっても、獅子王機関の関与の及ばない他国の政治を担う王族が口を挟んでくるとなると、独断は許されなくなり、都合の良いように駒にさせることはできなくなる。

 

「? オレ、故郷はアルディギア(あっち)だけど、絃神島(ここ)の住民じゃないのか?」

 

『向こうでは、自国民と認められているそうよ』

 

 実際、この絃神島にいるより、長い間北欧の森に住んでいた。

 

(手回しが良過ぎるだろ、いくらなんでも)

 

 当人も知らぬ間に国民に認められているとか、前のスカウトは冗談ではなかったのかと古城は、現代の美の女神(フレイヤ)様のいい笑顔が思い浮んで軽く頬を引くつかせる。

 

『それで、前回でその子にはちょっとやそっとの拘束じゃ効かないのはわかったから、魔導書の助けを借りた<禁忌契約>くらいでないと意味がないわ。

 そのくらいの材料がないと、獅子王機関としては、監視下に置くか、それとも討伐するかの手段を取らざるをえなくなるのよ』

 

 黒死皇派事件で迫られたのと同じ選択。

 もし、これでまた逃亡なんてして、それを事前に察知しておきながら許したことになれば、『舞威姫や剣巫の手には負えない』などと危険対象としての評価を上げてしまうことになる。

 だから、どうしても『舞威姫や剣巫で対処できる』という『三聖(トップ)』が静観できるラインにまで持っていかなければならない。

 

「わかったのだ。やってくれ」

 

「クロウ……」

 

 どうしても心配してしまう古城だが、後輩は頷いてその提案を了承する。

 

「オレも前回は反省したんだぞ。それに、こうやってやる前に選ばせてくれたんだ」

 

 舞威姫は、呪術、そして、暗殺の専門家。

 相手に気づかれることなく、呪いをかけるなんて芸当は可能だろう。だから、これが紗矢華なりの譲歩であって、クロウもそれに応えたいと思った。

 

「電話からじゃ“匂い”なんて嗅げないけど、それでも煌坂や姫柊、それにフォリりんが提案してくれたなら、オレはそれで十分なのだ」

 

『本当、お気楽というかなんというか、もっと、こう頭悩ませてほしいんだけど。じゃないと、難しく考えてるこっちが溜息つきたくなりそうで、まあ、いいわ……じゃあ、獅子王機関とアルディギアからの制約と誓約を提示するわよ』

 

 託宣を告げる神官の如き厳かな声音で、告げる。

 

 『存在を知覚した巫女には、三撃を受けるまでは攻撃してはならない』

 この制約を破れば『半日、人間としての力である超能力を含めた五感を麻痺し、霊力魔力の一切を練れなくなる』誓約を受ける。

 

 『王族からの頼みごとを、二度続けて断ってはならない』

 この制約を破れば『一日、獣王としての力である死霊術と獣化を封印する』誓約を受ける。

 

『―――以上、こちらが提示するのはこの二つよ。……それで、<禁忌契約>を結べば、今私が有する魔導書の一頁は灰となって、使い捨てることになるわ』

 

 その内容も、組織の力を借りずとも相手できるよう、ハンデを課した、と言ったところか。

 誓約もその命を奪うものほどではないし、彼女らとしても、これだけの条件があれば、“対象を殺害せずとも無力化できるだけの手加減ができるライン”、なのだろう。三手ももらえて対処できないようでは、それは逆に獅子王機関の能力不足であると評価を降される。

 

 ……でだ。二つ目のアルディギアからの要求。もうあえて突っ込まないが、王族であり巫女である誰かさんから、『自分に攻撃しなさい』なんて命令を下されてしまえば、どちらか誓約を喰らう羽目になる

 絶対服従ではないのは配慮されたんだろうが、これは彼女の都合のいい方向に流されそうではないか? とは思うけれども、

 アルディギアの現国王は大変娘を溺愛しているようで、そこらの馬の骨が付き纏うようなら戦争も辞さないレベルなのだとか。それを抑えるための材料として、これくらいの要求が最低限必要なんだろう。

 それに、

 

(まあ、たぶんそれだけじゃなくて、一緒に那月ちゃんのとこに叶瀬も住んでるからな……)

 

 女児が皆、高い霊媒素養を持つ巫女である王家の血筋を引くが、無力な夏音。そんな彼女を傍に置いている不安を拭い去るためのものでもある。

 

「おう、オレ、頑張って約束守るぞ」

 

「またお前はあっさりと……」

 

『もし、契約を結んで不都合があった場合でも、南宮先生が健在であるなら、<禁忌契約>を解除、もしくは緩和も可能です。これはあくまで南宮先生が対処できない事態を想定したものですから』

 

 契約に関する魔術であり、使い魔の支配権利を正式に所有している大魔女が、力さえ戻ればまた元に戻ることもできる。あくまでこれは一時的な措置なのだと、雪菜に説明されれば、古城も長く嘆息を吐いて納得しよう。後輩の安全を保障するためというなら―――これは悪くない話である。契約も一生ではなく、頼りになる主の不在時に限定されるものであり、解除もできる。それならこの事件が解決して担任が元に戻るまで、契約を結ぶというのは選択肢として有りだ。

 

『それで、クロウ君。先輩も。二人で握手してもらえませんか?』

 

「わかったぞ」

「え? なんでだ?」

 

『お忘れですか先輩。クロウ君と魔導書を使って契約を結んだのは、優麻さんでしたが、身体は――使った魔力は第四真祖(センパイ)のものなんです』

 

 そうだ。

 肉体だけであったとはいえ、暁古城の第四真祖の魔力で、魔導書『No.013』を発動したのだ。

 

『だから、私たちがその場にいないのもあるけど、元々繋いである暁古城の魔力を使ってやる方が手間が省けてやりやすいのよ』

 

「いや、っつっても、俺、魔導書とか魔術とか全然わからねーぞ」

 

『別に難しいことは要求しないわ。ただ、魔力を流してくれればいい。雪菜が仕掛けてる監視探査の呪術を経由して、私が補助として入るから』

 

「そうか。細かいところは煌坂たちに任せて……って、何か今変なこと言わなかったか? 呪術がどうのとか……」

 

『―――先輩を監視する任務のためです!』

 

 疾しいところは何もないと、電話口の向こうで胸を張って言われる。

 

「ちょっと待てェ! 仕掛けてるって何だ!? 俺の身体に変なものでもやったの!?」

 

『変なものではありません! 今回のように身体を狙われる事態になった時を想定した対処策です。先輩のプライバシーは守りますから、安心してください』

 

「安心できるかっ!」

 

 後輩に呪術が掛けられることに悩んでいた古城であったが、自分はすでにやられていたなんて(それも当人の断わりもなく)……

 クソ真面目な彼女が100%の善意でやってることはわかっているが、獅子王機関は国家公認ストーカー養成所なのか?

 身体のどこに仕掛けられているのかもわからないだけに、どれだけプライバシーが暴かれることになるのだろうかと非常に気になるし、風呂場やトイレの中まで把握されるとは思いたくない。いくら相手が綺麗な女の子であっても、覗かれて喜ぶ露出壁は古城にはないのだ。

 

「なあ、これも解除できるんだよな!? あくまで一時だけの緊急対処なんだよな!?」

 

『そんなことよりも先輩、早く契約を済ませましょう』

 

 雪菜が、もう一度咳払いをしながら促す。古城は渋面を作って半目で繋がっている携帯を見る。

 この件についてはあとできっちり解消させるとして、とりあえず今は好都合だと考えておこう。

 

『じゃあ、行くわよ……』

 

 深呼吸ひとつして、少し緊張した面持ちで、眷獣を出すときの要領で魔力を出してみる古城―――そして、詠唱が始まった。途端に向こうにある魔導書の一頁が光出し、次に古城の身体が、続いてクロウの身体も同じ色の光を帯び始める。電話の向こうで魔導書を読み上げる契約の呪文を唱えているのだろうが、素人の古城にはさっぱりと聞き取ることはできず、念仏のように流していると、

 チャリ、と小さな音を古城は拾う。

 見ると、後輩の手首に見慣れないアクセサリーが巻かれてることに気づく。

 

「クロウ、これは……?」

 

「ん。凪沙ちゃんにもらったんだ。お守りだぞ」

 

 黒猫のシルバーのブレスレット。そういえば、凪沙の格好が今日は黒猫のコスプレだったなー……いや特別意味があるようなことではないと思うけど。

 なんとなく、兄は目についてしまうもので。

 それから、母親の忠告の後、この後輩を追って外に飛び出しかけた妹のことを思い出してしまい、ふぅ、と息を吐く。

 

「……約束しろ」

 

「ん。古城君もか?」

 

「いや、単なるお願いみたいなもんだ」

 

 後輩と繋いだ手を握り締める力を目一杯入れて、

 

「―――凪沙を泣かせるような真似をするな」

 

 吸血鬼と獣人種、種族差から力ではかなわないが、それでも何かを一緒に掴み篭めたその握力に、クロウは驚いて、それから応えるように古城の手を強く、固く握る。

 

「うん。わかった」

 

 後輩に正しくその意が理解できたかはわからないが、それでも破りはしない。

 不思議と、そう、古城は確信することができた。

 

 

四年前 妖精の柩

 

 

 地中海に潜んでいるという、黒死皇派の残党討伐。

 

 それが、『戦王領域』の<蛇遣い>が、<空隙の魔女>にした依頼だ。

 <監獄結界>の看守であり、魔族殺しでかつて名を馳せた大魔女はこのように人の手に余る凶悪な魔族の討伐にたびたび駆り出されることがある。

 今回もそうだ。

 たまたま同じ欧州地方の北欧の森で仕事を済ませてから、それが森で拾った使い魔と関わりあるものだと知り、戦闘狂に使われるのはとても気に喰わないが仕方なくその依頼を受ける。そうして、日本の絃神島に帰る便を急遽変更して、このマルタ共和国ゴゾ島にやってきた。

 

 しかし、それに<空隙の魔女>をもってしても厄介な点が二つあった。

 

 まず、テロリストらが潜伏していたと思われる地点では、『戦王領域』と日本政府のごく一部だけが知る遺跡の発掘計画が行われており、そのため『旧き世代』の吸血鬼が眷獣を使って敷いた結界で魔術的に隠蔽されていた。それを見つけるにはその『旧き世代』と同格以上の力を要するということ。

 

 そして、黒死皇派の残党に、<死皇弟>ゴラン=ハザーロフがいたことだ。

 

 魔術を扱える古代種の末裔であり、獣王<黒死皇>の親族であるハザーロフは、死霊魔術(ネクロマンシー)を操ることで敵さえ殺して動死体(リビングデット)にして己の駒としていく不死の軍団を率いて、眷獣をも嬲り殺せる神獣となることのできる正真正銘の怪物だ。

 たとえ軍の護衛がいようとも<死皇弟>が襲撃すれば、その調査団の野営地(キャンプ)はひとたまりもなく壊滅するだろう。

 

 実際、調査団のひとり、暁牙城は死を覚悟した。

 神獣と化した<死皇弟>に立ち向かい、銀弾をお見舞いしてやったが、それでも撃退することはかなわず、一蹴される。

 魔族に比べて弱い人間の命など虫けらのように思われているのか、完全に止めを刺されずに見逃されたが、左腕の骨は折れて、全身は傷だらけ。血を流し過ぎたせいで酷く寒気を覚えていて、頭の回転も鈍ってきている。

 それでも、這ってでも進む。

 <死都帰り>――多くの仲間を死なせながら、いつも一人生き残ってしまう暁牙城の異名。だが、それを今回だけは名乗らせるわけにはいかない。ハザーロフが向かった先には牙城の命よりも大切なものがいる。仲間の『旧き世代』の吸血鬼が守ってくれるだろうが、それでも相手は神獣。力はあっても戦闘経験の乏しい彼女では荷が重すぎる。

 

「―――出遅れてしまったようだが、完全に間に合わなかったということはないようだな」

 

 そんなときに現れたのが、フリル塗れの豪華なドレスを着た、小柄な東洋人。人形を思わせる美しい顔立ちで、髪が長い。そして、真夜中だというのに、何故か日傘をさしている。

 そのゴシックな服装に、若いというより幼いと形容するべき顔立ち、しかし纏う気配は見た目不相応のカリスマ性を感じさせた。

 

「あんたは……<空隙の魔女>の南宮那月か」

 

 その異名を口にした牙城に、しかしドレス姿の小柄な少女は、ふ、と嘲るように小さく笑みを返す。

 

「どうやって、ここに? この遺跡はミス・カルアナの結界が張られているはずだが」

 

「なるほど、カルアナ伯の娘か。私でもいささか手間取るようなものだが、しかし、馬鹿犬には関係がない」

 

 この惨劇に、幸運なことがあった。

 

 それは、魔力を隠蔽する結界を張ろうが、魔力によらない探知が可能な超能力者であり、<死皇弟>以上の死霊魔術の使い手を<空隙の魔女>が連れていたことだ。

 

「安心しろ。<死都帰り>が<死皇弟>を相手に稼いだ時間は無駄にはせん。もうこれ以上の犠牲者は出さんよ。面倒な動死体も馬鹿犬が(だま)らせる」

 

 一匹の銀の獣人が、遺跡を縦横無尽に駆け巡り、調査団や民間軍事会社のスタッフらを救出しながら、死霊魔術をかけられた動死体らを、術式を解除して無力化し、眠らさせていく。

 動死体は体温も脈もなく、殺気を放つこともない故、その気配を探るのは難しく、この地下墳墓一帯が強力な魔力を蓄えているために、動死体に宿る魔力を感じ取ることもできず、攻撃されるまで敵味方の区別がつかない。だが、その仔狼は死体の“匂い”を嗅ぎ分ける。

 魔女もその神々が鍛えた封鎖を展開していき、テロリストの残党らを次々と捕縛していく。その神獣をも斃せる実力者の登場に驚きを隠せないが、その彼女が連れている子供の銀人狼は何者だ?

 

「ありゃ、何者だ。見たところ子供の獣人ってのはわかるが……」

 

「森で拾った私の使い魔(サーヴァント)だ。大飯ぐらいで世話の焼ける馬鹿犬だが、存外使える拾い物だったらしい」

 

「こりゃあ驚きだ。あの魔族殺しが魔族を飼うなんてな―――」

 

 牙城が心底意外そうな表情を浮かべたのを見て、那月は、ふん、と鼻を鳴らす。

 

「あれは、半分は魔族だが、もう半分は人間だ。狂った魔女の創った人造魔族だよ」

 

「人造魔族……だと、<第四真祖>と同じ……」

 

 これまでに記憶された知識が刺激される。

 だが、それをすくい上げる前に、事態は進む。

 

「―――ご主人、この中、朝、兄妹、いる」

 

 ぐるりと遺跡を一周して、動死体に黒死皇派の残党を鎮圧して戻ってきた仔狼が、主に報告する。それを聞いた牙城は、はっと顔を上げ、

 

「そうだ! 遺跡にハザーロフが―――!」

 

「何―――?」

 

 震動。地底より噴き上げる辺り一帯を焦土と化すほどの熱気―――それを一瞬で冷ました絶対零度以下の負の温度領域の冷気が呑み込んだ。

 この下で、地下墳墓で、超越した怪物同士が激突している。

 衝撃と、その急激な熱寒の影響で物質的に脆くなった遺跡が自重に耐えきれず、崩れ去る。

 そして、崩壊する地下墳墓より、漆黒の巨狼が姿を現した。

 咆哮の代わりに黒い爆炎(ブレス)を撒き散らし、崩落から地上へ脱出したその威容を晒す。

 <神獣化>した<死皇弟>。

 その獣気を仔狼は嗅ぎ取って、

 

「アイツ、もう、死んでる」

 

 通常、魔術とは、生命力を魔力に変換して行使するもので、その原則は、死霊魔術であっても当て嵌まっている。

 そして、生者が生命力を持ち、死者が生命力を失った存在であるなら、生者を死者に変える――つまり死んでしまえば、それまでの生命力の余剰が発生する。その余った生命力をすべて魔力に変換させて、死体となった自身に死霊魔術を掛けるのだとすれば、死者でありながら意志を持って動くことが可能ではないのか。

 

 けれど、それでも死んでいることに変わりない。

 そんな自殺をするような死霊魔術にいったい何の意味があるのか。

 ……まさか、この地下に、“死んでも殺されたくない”と恐怖するほどの相手がいたのだろうか―――

 

(さっき感じた強烈な魔力は“二つ”。こりゃ、『眠り姫』が、目覚めたのか……!?)

 

 この地下墳墓には、牙城が知る限り子供たちと女吸血鬼、そして、あともうひとり。

 女吸血鬼ならば、死霊魔術使いの獣人と対抗できるかもしれないが、相手は神獣であって、それを追い払えるだけの実力は残念ながら彼女にはない。

 ならば、この神獣が、死霊魔術の禁術を行使するほど逃げ帰るほどの可能性で思いつくのはひとつ。

 『十二番目』が覚醒したという証拠はないが、<死皇弟>を圧倒できたのはあの殺神兵器しか考えられない。

 何にしても、子供たちの安否は不明で、学者(こちら)にも予想のつかない事態に見舞われているだろう。

 すぐさま、この邪魔な死体をどかして、真下の死都へ向かわなければ―――!

 

「おい、<空隙の魔女>、どうやらあいつも黄泉から帰ってきたみたいだぞ!」

 

「ふん。ならば、地獄に送り返してやるとしよう」

 

 ぱちん、と魔女が指を鳴らす。

 文字通りに死に体の神獣をめがけて、弾丸のように銀鎖の雨をぶつけていく。

 同時に数十本の鎖が、ありとあらゆる方向から撃ち込まれたのだ。

 人間の反応速度で処理できる量をとうに超えている―――だが、相手は獣だ。

 的のでかい巨体でありながら、そのすべてを回避した。ほぼ最小限の動きでほとんどの鎖をすり抜け、黒い爆炎(ブレス)で残りの全てを焼き払う。

 

「―――<戒めの鎖(レーシング)>では捕まえられんな、これは」

 

 ただ鎖を放つだけでは俊敏さに追いつけない。そう判断して那月は即座に次の手を打つ。

 まるで凄腕の手品師のように、那月は掲げた日傘の中から、小さな獣たちを撒き散らす。見た目はクマのぬいぐるみに似た、二頭身の可愛らしい獣の群。だが、これは魔女の操る式神とでもいうべき、使い魔の一種ファミリア。

 ファミリアはファンシーな見た目に反した敏捷さで動き、そして、人間より遥かに優れた獣の感覚で、この神獣に追従する。肉薄し、迎撃するより早く自爆。ファミリアという自動追跡弾を喰らい、怒涛の爆風によろけた神獣。その足元に銀鎖が巻きつく。

 那月は虚空に展開するだけでなく、その地面の下にも銀鎖を張り巡らせて、蜘蛛の巣じみた罠を作り上げていたのだ。

 

「だが、一昼夜も馬鹿みたいに馬鹿犬に付き合わされてな。害獣駆除にはもう飽き飽きとしてる―――」

 

 暴れる神獣を縛る銀鎖が軋み―――しかし、耐え切れずに破損するより早く、那月は<呪いの縛鎖(ドローミ)>を実体化させていた。

 直径十数cm、長さ数十mにも達する、神々の鍛えた銀鎖をさらに一回り強靭にした鋼色の錨鎖。重量に至っては、何百tあるのか見当もつかず、その桁外れに巨大な錨鎖を鞭のように振るって、動きを止めた神獣を薙ぎ払う。

 

 だが、神獣の躰は、『旧き世代』の眷獣よりも硬く、そして、今は死体。

 その脚に強烈な一撃を見舞われて骨が折れた音がしたというのに、動く。筋肉だけで動くようにずるずると虚空へ引き摺りこもうとする封鎖錨鎖を振り切ってくる。

 鎖は、またも黒き爆炎に焼き消される。

 

「おい―――大言吐いておいてこれか<空隙の魔女>」

 

「ちっ、あれだけの巨大な物体を破壊するのは面倒だ。生きているなら心臓を刺してやれば終わるが、死者となればそうはいかん。腕がなくなろうと頭がなくなろうとおかまいなしだ。死霊魔術を解いても、かけ続けている状態であるなら上書きされて意味がない」

 

「わかっちゃいるが、こっちも手持ちの『呪式弾』もこの前、遺跡守護像(ガーゴイル)に使っちまった―――」

 

 身体の一部が凍りついていようが、焼かれていようが、折れていようが、死者の念で動く神獣。

 死者はすでに死んでいるから、殺せない。殺すのではなく、消し飛ばさない限り、それを止めることはできない。

 だからと言って、こちらも退くわけにはいかない。まだ地下墳墓に子供たちがいるのだ。こんなところでこの神獣を暴れさせて、遺跡を完全に崩壊されては中の彼らが危ない。

 その中で、ひとり前に飛び出た仔狼。

 

 

「アイツ、邪魔、なんだな―――」

 

 

 四足で這うように駆け抜ける。

 それは背をかがめて獲物に襲い掛かる、肉食獣の在り方に似ていた。

 ぞおっ、と逆立つ銀の毛並みがその根元から金色に染まっていく。

 変生。その躰が巨大となり、強大となる。疾駆しながら、凶悪で狂暴な意志が浮上する。

 <神獣化>―――現代の殺神兵器が、その神をも喰らう獣王の力を解放。

 

 

「―――なら、オレが、壊シテヤル(ネムラセテヤル)

 

 

 (ラン)、と完全なる獣とかした仔狼が金色の瞳から赫の入り混じる火眼金睛を灯す。

 

 肥大化した両脚が地を蹴り、体当たりの特攻。

 迫りくる黄金の神獣に、漆黒の神獣はその腕を振るう。

 それを紙一重で躱して、足が潰されて動きの鈍い<死皇弟>の狼頭を掴む。神獣の顔を片手で鷲掴みしてその巨体を腕一本で宙吊りにするその様は、羅刹のよう。

 今、その腕は、獲物の頭を噛み(にぎり)潰す為の殺戮機械であり、ビキリ、と骨が砕ける音が響く。強引に閉ざされた咢から黒き爆炎が漏れ出しその手を超高温高熱で炙るが、一度食らいついた獲物は離さない。そのまま跳躍して、遺跡から遠くの地面に落下する。

 飛行機雲のように空に爆炎が昇る軌跡を描いて、黄金の神獣は漆黒の神獣を大地に叩きつけていた。地面が大きく陥没し、地響きが起こる、

 

「なんっつうもん、拾ってきてんだ<空隙の魔女>!」

 

 頭部どころか胸部まで躰を半分以上も地面に埋め込んだ状態にもかかわらず、漆黒の神獣はまだ動く。

 ―――まだ、壊し足りないわよ“九番”。

  影より聴こえる囁き声に突き動かされる破壊衝動。

 その神獣の頭を掴んだまま、また飛び出すように地面を蹴る。向かう先には森があり、そこまで掴まえた頭を地面に擦りながら重戦車の如く蹂躙走破する。

 もがき暴れる<死皇弟>の爪が、黄金の神獣の躰に裂傷を刻んでいく。

 黄金の神獣が吼える。それは痛苦に悲鳴を上げたものではなく、己の周囲の自然を従えるためのもの。高位の精霊遣いが十人揃えて成しえるか。この土地に根付いた形なき精霊の力を行使するのではなく、精霊そのものを隷属させるほどの支配力。

 眼前の森の木々が爆発的に生長したかと思うと、それらが一際高い一本木を起点にして辺りを巻き込み、天雲を突くほどのひとつの樹となるよう絡みついて、大きな壁となる。

 そこへ投擲。これまで大地を耕して引き摺ってきた<死皇弟>を、水平に円を描くように振り回し、円盤投げの要領で放り投げた。

 激しく廻って廻って廻って廻って廻って飛空する神獣の巨体。

 数多の木々を束ねて絞り込み、単一の極太の柱となった大樹に激突。神獣の叫びにドップラー効果までつきそうな勢いだった。硬いモノがひしゃげる不気味な音が辺りを震撼させる。

 野蛮で、圧倒的な凶行は、けれど、さらに奇怪な現象となった。大樹に半身がのめり込んだ<死皇弟>の躰が、水に沈むようにその中で呑み込まれらのだ。

 ぞぶぞぶと音を立てて大樹と一体化するよう、その中に神獣の巨体が、呑まれた。

 

 

 

「……あの<死皇弟>相手に、圧倒的だな。そうか、あれが<第四真祖>の後続機として設計されたっつう『黒』シリーズの九番目(ラストナンバー)か」

 

 遥か古代、人類と魔族、互いの始祖たる神を殺し合う『聖殲』で第四の真祖や大罪の魔獣と殺神兵器を造り出されたが、『黒』シリーズは現代の技術力を結集させて造り上げようとした最新の殺神兵器だ。

 まったくもって、何たる偶然か。

 獣王の血族が襲撃を仕掛けた第四真祖の遺跡に、獣王のDNAを使われた第四真祖の後続機がやってくるとは。一切の神秘を丸裸に暴き立てる考古学者であるが、運命めいたものを感じてしまう。

 

「何を呆けている<死都帰り>。まだ終わってないぞ」

 

 魔女の叱咤よりも早く、神獣を屠った金色の神獣がこちらを向く。

 ―――さあ、まだ敵がいるわよ。

 足元で蠢きざわめく影。

 ―――あなたは、私の最高傑作。第八の大罪を背負いし“器”。

 地下より感じる力の波動(におい)

 ―――四番目の真祖であろうと十二別れたその分体如きに劣ることは許さない!

 

「あいつは使い魔じゃねーのかよ<空隙の魔女>!」

 

「主の言うことをまともに聞かん奴だから、馬鹿犬なのだ。だが、制御できんとは言ってない」

 

 契約に貸した悪魔の左腕――金色の神獣の左腕より、血を流すように<禁忌の茨(グレイプニール)>が伸び上がり、その躰を縛り上げる。

 真紅の茨に捕まれた使い魔は、そのまま足元の影から強引に引き千切るよう、空間の歪みに呑まれて、水に沈むように虚空へ消えていく。

 全身から静かに、けれど凄まじい威圧感を放つ魔女は力技で切断されたその影を冷淡に見下し、かすかな怒気を含んだ声を出す。

 

「たわけ。誰が獣に堕ちることを許可した。“ハウス”だ。しばらく頭を冷やしてろ」

 

 その夢の異空間は、あらゆる力が封じられる。

 人型に戻りつつ、この不揃いな自然石が積み上げた壁と、鉄格子のはまった小さな窓と殺風景な部屋に落とされた少年は、完全に眠りに落ちる前に、主からの忠告を耳にした。

 

 

「あの<死皇弟>を忘れるな。あれが力に溺れたものの末路だ」

 

 

オシアナス・グレイブⅡ

 

 

 古城が風呂へ汗を流しに行ったのを機に、クロウはひとり、船の上甲板(アッパーデッキ)へ出る。

 漆黒の海に煌びやかな街明かりを一望でき、吹いてくる風よりその“匂い”を嗅ぎ取る―――この船を拠点として周囲を見張るには絶好の位置と言える。

 

「ん」

 

 ―――黄金の霧に、濃密な血の“匂い”。

 違う船だが、同じ型の<洋上の墓場>の次世代機。

 邂逅した時とは逆の立ち位置であるが、再演するかのように舞台に上がってきたのは青年貴族――ディミトリエ=ヴァトラー。

 

「折角用意した風呂にも入らずに、ひとり見回りかい? ケド、ボクの遊び相手を奪らないでほしいネ」

 

 ヴァトラーが南宮那月を預かると申し出たのは、脱獄犯らを釣り上げるためのエサだからだ。それでこちらが退治してしまっては意味がない。

 

「それとも、ボクではキミの主人を護るには力が足りないとでもいうのかな?」

 

「……いや、オマエ、強い。でも、信用できないぞ」

 

「くくく、正直だね。または純粋と呼ぶべきかな。けど、ボクの船に乗ることは古城が決めて、キミも納得したことだろ」

 

 それに、

 

「これ以上、他の敵に力を回せるだけの余裕はないんじゃないかい?」

 

「………」

 

 クロウの視線を受けて逸らさず、ヴァトラーは蛇のような瞳を細める。

 

「舞台は用意してあげた。誰もいないとこだヨ。存分にやると良い。キミが神獣の力を振るうのは滅多にないと聞いてるからネ」

 

「―――使わない。オレは『首輪』を外すつもりはないぞ」

 

 きっぱりと断る。

 抑えつけることはできても、それを制御するのは至難。そして、暴走しても今の主を頼りにできない。この戦闘狂の甘言挑発に乗るつもりはない―――

 

「なるほど、キミは主の命を忠実に守り、自分を律してきたわけか―――随分と、南宮那月は甘やかしてるらしい。いや、宝の持ち腐れかな。どっちにしても、使い魔を堕落させるなんて、主としては失格だね」

 

「なんだとっ!」

 

 主を貶されて憤るクロウに、ヴァトラーは自論を撤回する気もなく、その口元に笑みさえ浮かべて、

 

「自分よりも強大な怪物を相手するような人間は、それを恐れながらも狡猾な知恵で、欺き、騙し、裏切り、陥れて―――殺す。そのためには、己の力を過信せず、相手の力量を見誤らないようにする。その点から考えると、キミは力に溺れず、相手を恐れてる、英雄になる資格としては合格だ。

 ―――でも、キミは怪物でもある」

 

 人間に禁忌の果実を食べるよう唆した蛇のように弁舌をふるう。

 

「古城を強くするには、アヴローラの眷獣を覚醒させるに足る霊媒の血を吸わせるのが一番手っ取り早い。<第四真祖>を完全にするためにボクは色々と人材を集めたりしてるんだぜ。

 それに対して、後継機のキミをどう手助けしてやろうとかと考えたんだが、吸血鬼とは違うから難しくてね。そこで“ある人”が助言をくれたんだ」

 

 直接は言わないが、ヴァトラーがその存在を臭わす相手―――それは、クロウにはもうわかっている。

 

「絃神島に来る前から、<輪環王>を出した全力の<空隙の魔女>と一昼夜も()り合えたという<黒妖犬>は成長すればもっと強くなるだろう。この『魔族特区』で多種多様な魔族を相手にし、<四仙拳>のひとりに師事を受けたとも聞いてる。

 なのに、『私の最高傑作(コドモ)は森を出てから成長してない』、そう、キミの“オヤ”はひどく残念がってたヨ」

 

「なに……?」

 

 その言葉にクロウは目を見開いて、けれども、それを否定できずに口を噤んでしまう。

 何故ならば、今、<蛇遣い>が口にしたが、その評価は、自分を誰よりも知っていた人物のものだからだ。

 そして、言われて見れば確かに、加減や技術を学習することはあっても、力が大きく増したとはあまり感じられたことはない。それは『首輪』を外して<神獣化>を発動したときを除けば、誰かに力を貸してもらった時だけで、それは成長したとは呼べないだろう。

 

「どうやら南宮那月の封印は、キミの身の内に潜んでいる鬼気を“森にいた時のまま”に抑え込んでいる。けど、抑えつけるだけでは制御してるとはとても呼べない。完全に使い切れてこそ、強くなる。

 怪物は自分の力を思う存分に振るえてこそ怪物だ」

 

 ディミトリエ=ヴァトラー。

 己の欲求に従うままに力を振るい、強さを貪欲に求める。だけど、それを無秩序に振るったりはしない。向けるのは、あくまで強者のみ。

 この怪物の言をそのまま受け入れて、主に言いつけられてきたこれまでのやり方を変えようとは別の話だが……

 内に鬼気を飼いながら、それを制していて、そして、縛られている自分よりも遥かに自由―――それを羨むことがないかと言われれば否定することはできない。

 

「オレが未熟だからご主人は許可しないんだ……あんな暴走するくらいなら、しない方がマシだ」

 

「違うね。解放が足りないんだヨ。中途半端にやるから寿命を削るし、暴走する。ボクが<黒死皇>と殺し合った時、全盛期をもう半世紀も過ぎてるのにあの爺さんは神獣になっても自然体だったぜ」

 

 と、ヴァトラーは試すような口ぶりでそう語った。

 

「いつまでも枷なんて付けてたら巣立ちもできないし、親離れできない。もっと強くなりたいんなら、全力で飛ぶことをオススメするよ」

 

 そうして、ヴァトラーは黄金の霧となって上甲板より去って、クロウはそれを見送る。

 ひとり、拳を握りしめて。

 

 

 

つづく


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