海を見ながらタバコの煙を吸う。堤防に腰掛ける。
たぶんあの子が来る。この間のお詫びをしてくれるだろう。今の私にはそんなものは必要ないけど。
仕返ししなきゃいけない。
タバコのヤニで真っ黒になったガムを海に吐き捨てる。
「瑞鶴、隣いいか?」
私は答えない。
「勝手に座るぞ」
初月が私の左に座る。
「瑞鶴、火貸してくれるか?」
ジッポに火をつけて初月に突き出す。
「ん、ありがとう」
私は何も喋らない。
短くなったタバコを海に投げ捨てる。小さな音と湯気を立てて火が消えた。新しいタバコに火をつけて口に咥える。
なんか言ってよ。
ため息をついてその意思を伝えた。
「瑞鶴、この間は、その……」
なんでそこで詰まるの?
私は何も言わない。抗議してるつもりだ。
「この間は悪かった。謝るよ」
初月を見る。
初月は私を見ていない。自分の手なのか、そこに握られてるタバコなのか、その先の海面なのか、分からないけど、伏目で私を見ない。
「こっち見て」
初月の横顔が厳しくなる。
おずおずと、初月が私を見る。
「謝ってくれなくていいの」
「僕が謝りたいんだ」
「そう」
顔をこちらに向けた初月は、それでも私と目を合わせない。
「こっち見てよ」
明らかに初月は、ビビっている。
「謝るから、ごめん、ごめん。だから、その」
泣きそうな声でまくし立てる。
「怒ってないから、こっち見てよ」
「本当?」
「ええ」
初めて初月と目が合う。
その瞳孔が私を捉えた時に沸き起こった感情を私は表現できない。胃の痛みとそこから逆流してくる酸とため息をつきたくなるような闇への憧憬と義眼と今にも立ち消えそうな後頭部から渦巻く熱が頭蓋骨と脳の間を伝って眉間まで流れ着いて鼻筋から抜けていく過程とが脂質の膜に包まれて血中を循環する快楽ではない。口の中を蹂躙するアルカリみたいな苦味とバッドトリップの間目の奥に微かに灯る劣情と全身の筋肉の痙攣とを気管から細く短く解放すると言った方が近い。
その感情を一旦左目の裏にしまいこんで言葉を繋いだ。
「あれからね、思い出してみたの。あの海でのこと」
初月は何も言わない。また私から目を逸らしている。
前に向き直る。タバコの灰を海に落とす。
「あそこまで生き残っていた艦はみんな幸運艦よ」
初月がタバコを噛み潰す。
「敵のどうしようもないくらいの空襲は誰だって一回は経験してるわ。初月もそうでしょ? それでもあの海でみんな沈んでいった。ずっと私と戦ってきた仲間が? 沈んじゃった。私は艦載機まで取り上げられちゃった。でもあの時の私は小沢っちの艦だったから、あの人の言ったことだから。オトリだったから。私が、私は、なんにもできなくなって、爆弾も魚雷も食らって、機関がやられちゃって、分かる? 機関をやられて動きたくても動けない。どんなに頑張っても22ノットしか出ないの。浸水しちゃって、どんどん傾いてく。小沢っちも大淀に任せて、なんにもなくなっちゃった。でもね、乗員のみんなが私の甲板で万歳三唱してくれた。傾いた飛行甲板で、みんなが集まって万歳、って。でも瑞鶴は沈んだ」
「その乗員を僕が救助したんだ」
私は泣いていた。思い出したくないのに、思い出した。辛いのに、嬉しかった。辛さと嬉しさとさっきの感情がない交ぜになって、堪らなくなった。
「うん、そう、そう、でも初月は殿になって沈んだ。内火艇で何人か助かったんでしょ? だから初月が内火艇を気にするのよね。思い出したの。あの海」
「僕はみんなを守ったけれど、瑞鶴を守れなかった」
「それが皮肉なのよ。あの時の瑞鶴に何を守れっていうのよ」
「勇壮さではなかった。でも悲壮な姿だったよ」
「悲しかったら意味はないのよ」
涙が止まらない。
「瑞鶴、泣くな」
海水でタバコの火が消える音が聞こえた。
「そんなこと言われるなんてね」
涙が止まらない。
「謝んなくていいって言ったよね」
「うん」
「仕返しするから」
「……そうか」
初月がため息をつく。
「翔鶴型に仕打ちを受けるなんてな。僕の体が持つかな」
冗談っぽく言う。
初月を見る。初月は私を見ない。
私は口を開きかけたが、やめた。何を言うか分からなかったから。
タバコを海に捨てる。
仕返しってなんだ?
初月は私を見ない。
左目の裏の感情が全身に浸透する。拡散していく透明に近い純粋な流れが痙攣として背筋を反らせる。
「……初月」
「どうした?」
私はどうすればいい?
周りに誰もいない。白波が足元に打ちつける音が高周波のノコギリ波になって頭蓋骨の薄い部分を削ろうとする。
「ごめんね」
「謝らなくていい。僕が瑞鶴の役に立てればいい」
「私が謝りたいの。骨くらいは拾ってあげる」
「瑞鶴、泣いてるんだな」
何が私の脳の中でリフレインしているんだ?
初月を見る。
初月は私を見ない。
俯いた横顔は決して私を見ない。
左目の感情と心臓のあたりを引っ掻き回す熱が周りの組織を破壊する。気がする。
加虐性愛より高尚な、それでも慈愛より低俗な初月への感情が首をもたげて左目の感情を懐柔する。
ワケの分からなくなった私の右手が初月の細い首にかかって少しだけ力を加えた。
初月の顔が強張った気がする。
押し倒す。
何がリフレインしている?
右手は首にかかったままだ。馬乗りになって正面で向き合っても初月は私を見てくれない。
「こっち見てよ」
「どうとでもしてくれ」
「見てって言ってるの」
「瑞鶴、怖いぞ」
「見て、私を見て」
強い視線が私の右の網膜を貫く。揺るぎないのに怖がったみたいな視線。この子は戦場でもこんな目だ。私は敵か?
「怖い。そんな顔するな」
震えている。怖いのか?
初月の顔に透明の液体がかかる。
左手も初月の首に。
「瑞鶴!」
呼吸が浅くなる。
涎が垂れる。初月を濡らした液体は私から出た水だ。
親指に力を入れた。当然のように。儀式のように。
彼女が私の腕を掴む。カエルを潰したみたいな音が彼女の喉から発生してそれからその喉から音が消えた。
彼女の脚が暴れる。痛いほどに彼女の手が私の腕を締め上げる。
彼女の涙と私の涙と涎が彼女の顔を濡らす。
彼女の口が動く。ず、い、か、く、や、め、て。そう動いた気がする。その瞬間、両手に体重をかける。瑞鶴? やめて?
右目だけの視界が何度もピントをずらす。
彼女の目が見開かれる。白に浮き出る血管の赤を美しいと思った。
酸素を求める。呼吸させてもらえない彼女と呼吸ができない私。
腕を握る力が弱くなる。そのとき私の顔が歪んでいることを認識した。口は開かれたまま、顔にシワが刻まれる。
ドラッグより浅い、皮膚を焦がすような愉悦。
hの音が口から漏れだす。
彼女から手を離した。殺したらまずいとか、そんな下等な理由じゃない。私が知っているどんな物質を静脈に流し込んでも得られない熱的な揺らぎを孕んだ快楽に私は苛まれている。熱に浮かされて力が抜けただけかもしれない。
涙は止まらない。
唾液を飲み込む。
何がリフレインだ!
私の脳の中では何もリフレインなんかしていない。乱雑な快感と熱の混合物が細胞の間をすり抜けてそしてそれが周期を持つことはない。
膝が伸びようとするのに逆らえない。私は立ち上がって歩き出した。
笑い声が木霊する。私以外の誰にも聞こえない笑い声。
歩く。どこに向かうかなんて関係ない。どこでもいい。私が歩いたところが道であり、目的地だ。
涼しい風が吹く。表皮の熱を剥ぎ取っていく風が別れを演出するのか?
再現できない感情が涼しい風と同時に消える。消えてしまった感情は熱的な量でなく私の中かそれ以外の場所を源とする縦波で、頭蓋骨ごと脳を揺らす。
再現できない感情は忘れられる。ひどい、ひどいことだ。
忘れられたから再現できない。左目の感情は空間に滲み出して戻ってくることはない。
何も解決しない。解決しない!
コンクリートを歩く。コンクリートは何も飲み込まない。地面からの反作用が私の中身を掻き混ぜていつか私は脂質の膜に包まれた有機化合物と水の混合物になる。
右手に残った私以外の熱はより温度の低い空気に消えて再現できない。
幾つもの感情に支配された私はそれでも純粋だった。もう再現できない。
私は見られている。違う。私を見ている人がいる。視界に入ったからとか、注意を向けたとか、そんな生易しいものじゃない。見るなんてことはそんなことじゃない。そんなことだったら私はそいつに中指を立てて唾を吐きかけて笑ってやってそのままどこかに隠れている。そいつはただ眺めている。ただ視界に捉えているだけだ。でも今私を見ている人はそれを許さない。そいつに向くことも、中指を立てることも、唾を吐くことも、隠れることも。そいつはただ無言で私を許さない。見るというのは許さないことだ。私は今何も見ていない。目を開いて、何もだ。私が今一人歩く眼前に見るものはない。視界を彩るだけのものは決して許しを請わない。許しを請わないものを私は許すしかない。
許しなんて知らない私が何を許すんだ?
何も見えない。見てない。
許して。
私は笑っている。
こみ上げてくる呼吸に抗えず笑ったみたいな音が喉から出ている。
何にも抵抗できない。
どうしてこんなことになっちゃったんだろ。
唾を飲み込む。
何にキズがついた? キズがないんじゃ私はこんなことにはならない。
表現できない感情は消え失せた。私を支配するのは脳を掻き回される錯覚だけだ。
それでも、それでも瑞鶴はフィリピンの海より自由だった。
個人的には90点くらい。100点になったら更新するかもしれませんが、もう触りたくありません。
4000字にも到達してないのは驚きでした。あんなに苦労したのに。