続きはかなり苦労しそうです。少し待っていてください。
瑞鶴が弓を引く。いわゆる弓道っていうのは、こんなに緊張感があるのか。息を止めた瑞鶴の後ろ姿が三秒だけ静止して、矢が放たれる。放たれた矢は直線に近い放物線を描いて的の第四象限に命中する。
弓道の作法なんて分からない僕でも、いい加減だと分かる所作で弓を右手に持ち替える。小さく首を傾げる。
僕は手を叩く。瑞鶴は驚いてこちらを向いた。
「初月、いたの」
「さすが一航戦、上手だ」
「その呼び方はちょっと。ここでは私は五航戦だから」
「五航戦? 聞いたことないぞ」
「そうかもね」
もう一本矢を取ってつがえる。
もう一度弓を引く。さっきと同じように見えるけれど、何か違うんだろう。
また放たれた矢は糸を引くように的のど真ん中に当たった。
「修正したのか?」
「そう」
「毎日やってるのか?」
「もちろん。リハビリも兼ねてね」
「リハビリ? 何かあったのか?」
「あれ? 知らなかったっけ。一回左腕が取れたの」
「え?」
「左腕は繋がったけどまだ完全じゃないから」
こっちを見ないでまた弓を引く。
そんな話があったのか。
「それとね、左目もないから」
「どういうことだ? 何を言っている? 左目だって?」
また矢が放たれる。一本前に刺さった矢に当たってまた別の放物線を描いた。
「後で見せたげる」
瑞鶴はこちらを見ない。
また弓を引く。
それより。
「……三航戦でもないのか?」
「っ!」
息を止めていた瑞鶴から声が漏れる。それと同時に放たれた矢は的の縁ギリギリに刺さる。
苦笑いの瑞鶴が振り向く。
「やめてよ。思い出したくないから」
「どうして? あの時の瑞鶴は勇壮でカッコよかったぞ」
「勇壮? あんな惨めな姿が?」
語気が強い。
笑みも消えている。
左目? 何も変わってないじゃないか。
「先輩達も、翔鶴姉も、……大鳳も沈んで、私と、瑞鳳だけ残って? ロクな艦載機も残ってなくて? 質も量も負けてて、囮になって沈んだ、それの何が勇壮よ! 初月もあの時沈んだんでしょ? 辛く、……辛くないの?」
「僕は辛くない。あの時僕は皆を守って沈んだから」
「皮肉!」
瑞鶴は弓を投げ捨てる。木の床に音を立てて落ちる。
「守るものなんて私にはもう残ってなかった! 皮肉じゃないの!」
「そう聞こえたかい?」
「どうして私をそんなに怒らせるの?」
右手の革の手袋を落とす。
「声が震えてるじゃないか」
「何よ、それが何なのよ」
「泣いてるのか?」
「知らないわよ」
ちゃんと左目にも涙が滲んでいる。左目がどうなっているんだ?
瑞鶴は口をぱくぱくさせる。音は出てこない。肩で息をしている。
ゆっくり歩み寄る。
瑞鶴がタバコを取り出して、ジッポで火をつける。僕の存在を忘れようとしているのか? 手が震えているぞ。忘れられるのか?
「僕はここにいるぞ?」
煙を吸い込んでから瑞鶴が口を開く。
「そう」
生返事だ。瑞鶴が二歩後ずさって、尻餅をついた。
「どうした?」
なんて顔だ。僕を怖がってるみたいじゃないか。
僕は膝をついて、後ずさりする瑞鶴の脚を掴む。瑞鶴が小さく悲鳴を上げる。瑞鶴の口を左手で塞ぐ。
「逃げることないじゃないか」
「離してぇ」
僕が押し倒したみたいだ。あの瑞鶴が、僕の手のひらの上だ。
「泣いてるじゃないか」
「やめてよぉ……」
消え入りそうな、くぐもった声で訴える。
「ちょっと我慢してくれ」
瑞鶴の右目を塞ぐ。
瞬きもする、涙も流す、ひっきりなしに動く左の目。
「左目は開けててほしいんだけどな」
嗚咽が聞こえる。ゾクゾクする。
「瑞鶴、僕がどんな顔してるか分かるかい? 教えてくれよ」
「見えない、見えないよ。なんにも見えない……」
うわ言みたいに言う。
「そうか、見えないか、残念だな」
「初月……やめてぇ」
「やめないよ」
舌舐めずりをする。
美しい義眼を、左目を舐めた。生体ではない硬い、冷たい感触とほとんど味のしない涙が舌を刺激する。
「ごめんな、辛かったよな」
瑞鶴と目を合わせる。見えていない左目と。
瑞鶴が声を上げて泣く。
床に落ちていたタバコを口に咥える。
「どうやるんだろうな」
弓を拾う。矢も一本手にとる。
作法も、握りも知らない。
「こんなに重いのか」
歯を食いしばって息を止める。
こんなにキツいのか!
張力に耐えられず放たれた矢が右に曲がって、的のずっと手前の地面に刺さった。
弓を床に置く。
瑞鶴は横たわったまま小さな子供みたいに声を上げて泣いている。
「瑞鶴、起きた方がいい」
立ったまま瑞鶴を見下ろす。
「出てってよ……一人にして」
弱々しい声。
「いいのか?」
「早くして」
「そうか」
ドアを開ける。湿ったぬるい風が緩やかに弓道場の空気を混ぜる。
短くなったタバコをコンクリートの地面に捨てる。吸い殻を踏み潰してドアの中に振り返る。瑞鶴は僕に背中を向けて胡座をかいている。肩が落ちて、頭を垂れている。身じろぎひとつせずに床を見ている。
「悪かったね」
それだけ言って僕は弓道場を離れた。
矢が的に当たる音が聞こえた。
次の第二話で完結します。