✳︎彼色クレパス✳︎
雨が止み、月と星だけに照らされた街はどこか幻想的で、私の手を引く彼の手は何よりも暖かく、夢見心地の良い感触を私に与えた。
ゆっくりと導かれるように、私は彼の背中を見ながら歩き続ける。
駆け落ちしちゃいましょう。
なんて、突然の申し出に私は思わず首を縦に振ってしまった。
すごく深い所へ落ちそうになった私の身体を包み込むように、彼はそっと救い出してくれる。
「……あ、あの、駆け落ちって…」
背中に投げかけた言葉に、比企谷くんは答える事もなく、そっと引かれていた手に力が少し入るだけ。
柔らかそうに跳ねるアホ毛はひょろひょろと周囲を警戒するように揺れる。
なんか雰囲気がいつもと違うような…。
「…ん、ちょっとそこに座りましょうか」
「…うん」
ポツリと置かれた公園のベンチを見つけると、比企谷くんは私だけを座らせ自販機へと向かっていった。
夏の名残を残した熱気が少し物悲しい。
「コーヒーで良かったですか?」
「うん。出来れば甘い方がいいな」
「それならコイツを渡しましょう」
「それは甘すぎるからいらない」
「あらら」
彼との会話が全て丸いショボン玉のようにふわふわと浮かんでいく。
気持ち良いんだよなぁ。
比企谷くんは黄色と黒のストライプが特徴的なコーヒーを大事そうに抱えながら私の隣に腰を下ろした。
「服、まだ濡れてますか?」
「んーん。直ぐに乾いちゃった。でも髪はぐちゃぐちゃのままだね」
「似合ってますよ」
「そう?ありがと」
そっと交わる冗談の数々が全部、私のお腹に優しく触れているみたい。
時刻は午前0時を回ろうとしている。
このまま本当に、比企谷くんと何処かに行ってしまいたい、そんな願いを口に出すこともなく、私は受け取ったコーヒーに口を付けた。
「…美味しい」
「やっぱりコーヒーは鬼糖に限りますね」
「微糖で十分だよ。…ねぇ、比企谷くん…」
「はい」
「もしも……、もしも本当に、私が駆け落ちしたいって言ったらさ、……。君は……」
君は消え入る果てまで付いてきてくれる?
と、それはあまりに酷な冗談だろうか。
雪ノ下家に無関係な彼を巻き込んでまで、私は救われたいと思わない。
自由が欲しいと思わない。
彼には人並みの幸せを手に入れてもらいたいと本心から思うし、それを私の我儘で失わせるわけにもいかないから。
ふと、この一瞬を忘れまいと、そっと彼の肩に寄り掛かる。
「…今日だけだから。今日で……、お終いだから」
ほんの少しの勇気を頂戴。
ほんの少しの優しさも。
ほんの少しの本物も。
「……」
「雪ノ下さんはいつも1人ですね」
「…私が1人を望んだの。これまでも、これからも、ずっと1人…」
私は何でも出来るから。
誰からも羨ましがれ、頼られ、敬われ、完璧な人間。
きっと、私と関わった人の中に、私が悩みや不安を抱えているなどと考える人は居ないだろう。
すると、比企谷くんは煙草をポケットから取り出し口に咥えた。
カチッと火を付けると、肺に含んだ白い煙が口から一斉に飛び出す。
「……。俺が煙草を吸い始めた理由を知っていますか?」
「……静ちゃんの影響でしょ?」
「前にも言いましたが、それは半分だけ正解です」
彼はころころと笑いながら白い煙を吐き続けた。
「早く大人になりたかったんです」
「大人に?」
「はい。格好の良い大人に。……まぁ、中身を除けば平塚先生も格好の良い大人に見えますからね」
「ふふ。静ちゃんに言ったら殴られちゃうね」
「そうですね」
比企谷くんと再会して最初に抱いた印象を思い出す。
しなやかに伸びる指に挟まれた煙草と、落ち着いた雰囲気が醸し出す哀愁が、少なくとも私より年上だろうと勘違いしたっけ。
ふふ、十分に効果が出てるじゃない。
「あの頃の俺は傷つくことにばかり怯えて、本心を隠すことが最善だと勘違いしていて」
「……」
「…いや、最善だとか言ってる時点で、今もガキなんでしょうけどね。きっと、雪ノ下さんだったらもっと上手く収められたのかなって、今でも思います」
「…私だって…、嘘で塗り固めて、周りの目ばかり気にしてるよ」
お互いに目を合わせクスクスと笑い合う。
甘い甘いコーヒーばかりを好んで飲むのは苦い経験が豊富だからか。
彼はいつも自らを傷付けた。
身を守る手段を選ばないことに、私は親近感を抱いていたのだろう。
ただ、彼は私と違ってすべてを背負うから、偶に危なかっしくて見てられない。
守ってあげたくなる。
学生服に身を包んでいた頃の比企谷くんはとても不確かに揺らいでいたんだ。
そんな彼が、卒業式の日に自らを傷付けることを辞め、本音を隠すなんて言うものだから…。
「私の出番はきっと、あの日に無くなっていたんだね」
「そうかもしれませんね。……きっと、次は俺の出番なんだと思います」
彼は短くなった煙草を飲み終えた缶に押し込み、それをゴミ箱に向けて放り投げた。
綺麗な放物線を描いた缶は、ゴミ箱の中へと吸い込まれる。
「大人振って、背伸びをして…、ようやく雪ノ下さんの横に並べました」
「んーん。もうとっくに追い抜いてるよ」
ベンチから立ち上がった比企谷くんは私に向かって手を差し伸べた。
それを掴むと強い力で引かれ、勢い余ったフリをして彼の胸を飛び込んでみる。
彼の胸に微かに残る花の香り。
キュッと包み込まれた身体は比企谷くんの体温をしっかりと感じる事ができる。
「私、お花屋さんになりたいの」
「はい」
「お嫁さんにもなりたい」
「はい」
「優しい旦那さんと一緒に、甘い香りのコーヒーが飲めたら最高に素敵だと思わない?」
「ええ。砂糖を10個くらい入れて飲みたいものです」
「ふふ。それは入れすぎだよ」
「ははは」
比企谷くんの声がくすぐったい。
彼の声が身体中に充満していく。
抱き着いたこの腕はもう離したくないから。
ずっと一緒に居たいから。
「私の夢、君が叶えてよね」