陽乃日記   作:ルコ

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冷たく暖かなフラーレン

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

✳︎赤く染まれば✳︎

 

 

 

一夏の思い出はすぐさま風化して黒歴史へと変わり行く。

 

彼がそんなことを言うものだから、私はスマホに保存された写真のデータを1枚1枚ゆっくりとスクロールして見ていった。

 

ここ最近の被写体はもっぱら彼の姿ばかりである。

 

我ながら呆れてしまう。

 

 

お花屋さんで撮った彼の後ろ姿はどこか逞しい。

 

花火大会中に撮った彼の横顔は暖かく優しい。

 

彼の家で小町ちゃんが撮った私と彼の2ショットは、ふわりと切ない赤で頬を染めている。

 

 

 

”どうやって、私を助けてくれるの?”

 

 

 

なんども反芻される言葉は、身を悶えさせる程に絶妙な辱めを与えてくれる。

 

 

なんであんなこと言っちゃったんだろ……。

 

 

その後の空気と言ったら……。

 

 

「……うぅ〜。あんなの私じゃないよぉ…。比企谷くんに呆れられちゃうよね」

 

 

自分の失態に、私は思わずクッションに顔を埋めてしまう。

 

ふもふもした感触の奥に香る優しい香りは柔軟剤の匂いだろう。

 

……比企谷くんの香りに似てる…。

 

 

「……だ、だめだ。これじゃぁ私……。彼に惚れ……っ、く、くっそー!!違う違う!!そんなんじゃ!!」

 

 

ボフンっ、と投げられたクッションは壁に打つかり無情にも床に転がった。

 

あぁ、ごめんねクッション。

 

八つ当たりをして。

 

 

 

すると、私の心臓を跳ねさせるように、扉を軽く叩くノックの音が部屋に響き渡る。

 

 

「っ!……な、なに?」

 

「陽乃?あなた、何をやっているの?物音が下にまで聞こえていたわよ?」

 

「な、何でもないよ。ごめんなさい」

 

 

心配そうに扉の隙間から顔を覗かせるお母さんは、一言二言と零しながら腕時計で時間を確認する素振りを見せた。

 

 

「陽乃、この後少しだけ時間はある?」

 

「時間?午後に少しだけ用事があるけど、それまでなら…」

 

 

すると、お母さんは安心したように手をポンと合わせる。

 

 

 

「よかった。それなら貴方も同席してちょうだい。これからお得意先の丸岡さんがいらっしゃるのよ」

 

「……っ」

 

「ほら、貴方も大学を卒業したら留学するでしょ?今の内から顔を合わせておいた方が良いと思って」

 

 

ズキン、と。

 

 

重く広がる黒いモヤモヤが私の心を包み込む。

 

 

先ほどまでの、虹色に彩る心の晴れ模様は嘘のように。

 

 

黒一色に、私の世界は移り変わった。

 

 

「じゃぁ、下で待ってるから」

 

 

がちゃんと閉まった扉と、固まる部屋の空気。

 

途端に頭を叩かれたみたいな現実回帰は、私の顔を強く歪めさせたことだろう。

 

 

ふと、鏡を覗く。

 

 

そこに映った偽りの笑顔を貼り付けた自分に嫌気がさす。

 

 

スルリと床に落ちたスマホをベッドに置き直し、私は背筋を伸ばして黒い世界を歩き出した。

 

 

 

ブルブルと震えるスマホに気づくこともなくーーーー。

 

 

 

 

 

 

 

……………

 

 

from 比企谷くん

 

待ち合わせはいつもの喫茶店でいいですか?

 

 

……………

 

 

 

 

 

 

………

……

.

 

 

 

 

「いらっしゃい、丸岡さん」

 

「お邪魔します。いやぁ、雪ノ下さん、今日は突然すみませんね」

 

 

 

玄関先から聞こえる声は野太く響く。

 

丸岡さんは前に一度会ったことがあった。

 

大きくて丸く、とても優しい人。

 

父の会社と協力関係にあり、とても有効的で頭の回る人だと父は評価していた。

 

実際、丸岡さんに嫌味な所は一つもない。

 

 

 

「おや、陽乃ちゃん。久しぶりだね」

 

「丸岡さん、お久しぶりです」

 

 

丁寧を頭を下げるも、彼は手を前に出してそれを制してくれる。

 

 

「本当によく出来たお嬢さんだ。学校では内の愚息が世話になっているようで」

 

「とんでもありません。丸岡くんにはとても良くしてもらってます」

 

 

丸岡さんはコロコロと笑いながら客間のソファーに腰を降ろした。

 

暫くして、お母さんが紅茶を持ってくると、話題は会社の来年度以降の予算やら方針やらの話に。

 

丸岡さんは父に強く言えない節があり、意見をお母さんから間接的に伝えてもらうようにと頼むことがある。

 

父の独り相撲に成らぬよう、堅実に、冷静。

 

丸岡さんは雪ノ下の会社にとって、無くてはならない存在であるのは間違いない。

 

だからこそか、お母さんは丸岡さんとの繋がりをどこよりも大切にしているのだ。

 

 

「あぁ、陽乃ちゃん。そういえば留学するんだってね」

 

「っ、…はい。卒業して直ぐに渡ろうと思ってます」

 

「日本はね、極東の島国にも関わらず文化は世界でも随一だよ。だからといって外国の文化を蔑ろにしちゃいけない」

 

「はい」

 

 

丸岡さん自身、若い頃に留学をした経験があるからこそその言葉は私に重く伝わる。

 

真剣な眼差しで、若い娘にしっかりと声を掛けてくれる大人は貴重であろう。

 

 

「まったく、本当に雪ノ下さんの家は羨ましいよ。うちの愚息と言ったら1年で海外から帰ってきちゃってね」

 

「あら、息子さんが留学したのは高校生の頃でしょう?立派じゃないですか。ねぇ、陽乃。健二くんとは留学について話してないの?」

 

 

健二くん……。

 

丸岡って健二って言うんだ。

 

 

 

「あんまりそう言う話はしないかな」

 

 

 

「そうなのかい?それなら留学する前に健二に色々と聞くといいさ。今日だって家でゴロゴロしているはずだ。よかったら午後にでも会ったらどうだい?」

 

 

丸岡さんは少し身を乗り出しながら私に尋ねる。

 

 

そのとき、私は初めて理解した。

 

 

なぜお母さんがこの場に私を呼んだのかを。

 

 

黒い世界は大きく大きく広がっていく。

 

 

私の隣でそれは良いとばかりに頷くお母さんの顔を見れない。

 

 

…だめ。

 

 

これから私には、大事な用事があるの。

 

 

彼と沢山お話をして、お花屋さんに連れていってもらって、ゆっくりと、ゆっくりと、優しい言葉で温めてもらう用事が…。

 

 

 

”雪乃ちゃん、我儘いっちゃだめだよ”

 

 

 

……黙っててよ、私。

 

 

 

 

 

「…はい。是非お願いします」

 

 

 

 

 

 

 

✳︎黒く染まれば✳︎

 

 

 

 

 

 

「やぁ、陽乃さん」

 

 

昼下がりの太陽は空高く。

 

雲ひとつない天気が嘘のように私の心はどんよりと曇っていた。

 

 

「こんにちは、丸岡くん」

 

 

駅のロータリーで待ち合わせた人物は、派手な装飾こそ身に付けてはいないものの、所々に嫌らしく光る高価な品をチラつかせる。

 

 

「ウチの親父が変なこと言ったみたいだね」

 

「いいえ、とても素敵なお父様ね」

 

 

偽りを貼り付けた私は横に並んだ彼に微笑みかける。

 

 

「時間もあるし、とりあえず喫茶店でコーヒーでも飲みながら予定を決めようか」

 

 

喫茶店…。

 

そうだ、比企谷くんにメールを入れなくては。

 

…遅れると。

 

そう思い、私はポケットに手を伸ばすもスマホの気配は無い。

 

さり気なく鞄に手を入れてみるもそれは見つからない。

 

 

「……っ」

 

「ん?どうかした?」

 

「…。いや、何でも…」

 

 

焦る気持ちを抑えながら、私は丸岡の一歩後ろを歩く。

 

私としたことが、スマホを部屋に置きっ放しにしてしまったのだろうか。

 

それでも、どうにか比企谷くんに現状を伝えようと考えるも案は浮かばない。

 

 

「ここの喫茶店にしよう。良い豆を使ってるらしいからね」

 

 

おまえに豆の何が分かるんだ、と悪態を付きながら、私はどうすることも出来ずに彼に続いて喫茶店へと入店する。

 

 

涼しい冷房で頭を冷やせば明暗が浮かぶかもしれない。

 

 

店員さんに通された席は仕切りで別れらた半個室。

 

なんで喫茶店で半個室?

 

周囲の静けさを楽しみながらオープンにコーヒーを啜るのが醍醐味なのに……、って比企谷くんが言ってたし。

 

 

「陽乃さんもアイスコーヒーでいい?」

 

「うん、いいよ」

 

 

注文して直ぐに運ばれてきた2つのブレンド。

 

冷たい結露を身にまとったコップの横に置かれたガムシロップには可愛らしい花柄が飾られていた。

 

 

「ここのコーヒーは風味が凄く良いんだ。ガムシロップなんか淹れたらもったいないくらいにね」

 

「そうなんだ。私、コーヒー好きなの」

 

 

主に比企谷くんと一緒に飲むコーヒーが好きなの。

 

 

「それはよかった」

 

 

アイスコーヒーをくいっと傾けると、苦味が口の中に広がる。

 

苦っ…。

 

……ガムシロップ入れたいなぁ。

 

 

 

「…お互い大変だよね」

 

「え?」

 

「いや、周りの反感を買うかもしれないけど、親が立派だと子供には凄いプレッシャーになるだろ?」

 

「…まぁね」

 

「留学するんでしょう?…俺も、高校の頃に1年留学してね。…正直不安で潰れそうになる毎日だった」

 

 

不安で潰れる…。

 

そんなわけあるか。

 

不安じゃ人は潰れない。

 

人が潰れるときは心が死んだ時だけだ。

 

別に私は留学が不安だとか、自信がないだとか思っているわけじゃない。

 

ただ、やりたいことをやれなくなることが嫌なだけなんだ。

 

 

 

「俺で良ければ何でも相談に乗るよ」

 

「そう。ありがとう」

 

「生まれが似た者同士、それに……、これからも何かと支え合う機会があると思う」

 

「…そうかなぁ」

 

「本当は、もっと早く言おうと思ってたんだけど……、もう気付いてるんでしょ?」

 

 

もう気付いてる?

 

あんたのしたたかな下心ならば充分に見抜いているよ。

 

 

「付き合ってくれないか?」

 

 

それを言わせぬようにのらりくらりとしていたが、両家の両親にまでしゃしゃり出て来られたらそうもいかないか。

 

 

おそらく、お母さんは私と丸岡の婚約を望んでいる。

 

 

丸岡さんとの繋がりを確実な物にするためにも、私と丸岡の婚約は絶対的に必要な事だから。

 

 

「……」

 

「…陽乃さん?」

 

「少しだけ…、考えさせて」

 

「……」

 

「ほら、私達だけの問題じゃないじゃない?お母さんや、貴方のお父様にもお話をしなくちゃだし」

 

「そうだね。うん、わかった」

 

 

 

覚悟を決める覚悟を。

 

 

自由を手放すにはまだ惜しい年齢だ。

 

 

やりたいことが沢山ありすぎて、まだ、自分を奪われたくない。

 

 

そんな我儘を通せる程、雪ノ下家が甘くないことも知ってるつもり。

 

 

それでも。

 

 

彼に……。

 

 

 

比企谷くんにすがるだけの猶予を私に頂戴。

 

 

 

 

.

……

………

……………

 

 

 

 

その後、丸岡と分かれた私は急いでいつもの喫茶店へと向かう。

 

既に約束の時間からは2時間も過ぎてしまっているが。

 

日は沈んでいないのに、辺りはどこか薄暗く、先程まで雲ひとつなかった空は分厚い雲に覆われていた。

 

私の心も空も、すべてが曇天模様。

 

なんでこんなに上手くいかないの?

 

器用にこなしてきた私が、今はどうしてこんなにも格好悪く、慌て、不安に駆られているのよ。

 

 

気づけば足には酷い激痛が走っていた。

 

 

……慣れないことをするもんじゃないわね。

 

 

ふと、ようやく見えてきた喫茶店に、少しの安堵を抱きながら急いで扉を開ける。

 

からんころんと小粋な音を立てる鈴に、店員さんの目がこちらへと移った。

 

 

「いらっしゃいませ」

 

 

いつもの店員さんが私を出迎える。

 

店員さんは気が付いたように私と1つの席を交互に見渡した。

 

 

「あの、お待ち合わせのお客様ならつい数分前に出て行かれましたよ?」

 

「…そ、そう。ありがと」

 

 

 

優しい風は途端に止んだ。

 

 

そりゃ帰るよね。

 

 

連絡もなしに待ち合わせ場所に現れないなんて。

 

 

 

私は店員さんにお礼だけ言うと店を出る。

 

しばらく何も考えずに外を歩くと、空からは涙のような大粒の雨が降り出した。

 

 

黒は嫌い。

 

暗くて前が見えないから。

 

黒い花なんてちょっとも可愛くないし。

 

それでも、黒い世界が私の居場所になりつつある。

 

大丈夫、前なんか見えなくても、周囲の期待に答え続ける事が私の道標になるのだから。

 

与えられた課題をクリアし続ける人生こそ、私の生きている世界そのものなのだから。

 

 

頬を落ちる一粒の水滴が、他の水滴よりも少しだけ暖かい。

 

これが涙だと気づくのにそれほど時間は掛からなかった。

 

 

「……もう、イヤ…。全部全部、大嫌い…」

 

 

雨で冷えた身体から力が抜ける。

 

びしょびしょになった服が気持ち悪い。

 

 

 

「……」

 

 

 

ゆっくりと、空からは流れる雨が止んだ。

 

 

 

 

「午後の降水確率は50%でしたよ?雪ノ下さんにしては不用心でしたね」

 

「っ!」

 

 

 

青い傘が私を覆う。

 

 

幸せな声と暖かな優しさが、目の前から溢れ出るように。

 

 

 

「……ごめん。ごめんね、比企谷くん」

 

 

「…ん、気にしてません」

 

 

「違うの、そうじゃなくて……。私……」

 

 

君の理想からかけ離れてしまう。

 

格好の悪い不自由な人間になり落ちる。

 

私はその事を謝っているんだ。

 

 

「格好悪くてごめんね。詰まらなくってごめんね……。もう、キミの知ってる私じゃなくて…、ごめんね」

 

 

涙で濡れた顔はきっと不細工だろう。

 

雨で髪もぐちゃぐちゃだ。

 

親の期待と将来に、私はついに自由を失う。

 

卒業までの猶予も無い。

 

 

私は丸岡の告白を受けなくてはいけないから。

 

 

 

「ごめんね、ごめんねっ…」

 

 

 

ふわりと、静かな声が傘の下で飛び回る。

 

丁寧に撫でられる頭には暖かな彼の手が乗っかっていた。

 

 

 

「はは。今の雪ノ下さんは人間味があって面白いですよ。顔も最高に笑えます」

 

「……へ?」

 

 

 

比企谷くんは自らの袖で私の涙を優しく拭いてくれながら、小さく笑って呟き続ける。

 

 

 

「鼻水とか、雪ノ下さんも垂らすんですね」

 

 

「っ!」

 

 

「ほら、チーンして」

 

 

「で、でも袖が汚れちゃうよ?」

 

 

「ん、大丈夫ですから」

 

 

 

彼の声には眠気を誘う魔法があるのかしら。

 

思わず身体を委ねたくなってしまう。

 

気丈に振る舞おうと思えば思うほどに綻びが出てきてしまい、彼の前ではただの子供のように我儘を言いたくなってしまう。

 

 

 

 

 

「逃げちゃいましょうか」

 

 

「え?」

 

 

 

 

 

雨はいつも突然で。

 

良いことなんて一つもないと思ってた。

 

彼の言葉に私は理解が追いつかない。

 

 

 

 

 

「駆け落ちしちゃいましょう」

 

 

 

 

 

 

 

 


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