✳︎七色のビューティー✳︎
雲に見え隠れする月に手を伸ばしてみるも、それに手が届くことは絶対にあり得ない。
そう分かっていたとしても、何度も何度も手を伸ばしてしまうのは、届かないことを確かめたいから。
部屋の窓から見える月はとても小さく儚いのに、私では辿り着けるはずもない場所で在り続ける。
彼も同じだ。
近づけど近づけど、どこかスルリとかわされるような。
近くに居そうで触れることの出来ない幻想。
「…なんてね。さて、続き続き」
少しだけセンチメンタルなことを考えつつも、月明かりの綺麗な窓辺から離れて机に身体を向け直す。
1枚の紙にボールペン。
紙には未だ、何も書かれていない。
「…私がやりたいこと。やりたいこと」
先日の花火大会で彼と話したこと。
私の好きなことをやってみろ。
自由を楽しむ私らしさ。
「……」
比企谷くんのほっぺを抓る。
比企谷くんの指を食べる。
比企谷くんに頭を撫でてもらう。
比企谷くんにあーんしてもらう。
……。
書き切れない…。
って、これが私のやりたいこと!?
「ん〜!なしなし!こんなの私じゃない!!」
くしゃくしゃと紙を丸めてゴミ箱に投げ捨てるも、それは淵にあたって床に転がる。
私の心は荒れ模様。
心のどこかに隙間ができているせいでコントロールが乱れたのね。
「…この前の花火大会みたいに、”今”を楽しめるようなこと……」
今を楽しむことには自信があったはずだ。
楽しいことを見つけるのにも自信があった。
色々な事を経験し、学び、飽きてきた。
その中で、いつまでも明るく灯し続ける1人の存在が、どこか大きく私を支配する。
飽きたら捨てればいい。
また面白いことを見つけるだけ。
「……でも、彼は少しだけ違う」
ポツリと溢れた言葉は誰にも聞かれているはずがないのに、なぜか背筋が痒くなり、身体が火照ってしまった。
「…むぅ」
私は完璧なお姉さん。
……そうだ、勉強を見てあげよう。
大学の講義は難しいもの。
きっと彼も苦労をしているはずだわ。
何でも知ってる陽乃さんを彼に見せつけるのよ。
”陽乃さんは何でも知っているんですね。”
”何でもは知らないよ。キミのことだけ…”
な、なんてね…っ!!
「…ふぅー。暑い暑い。クーラーが壊れてるのかしら?」
リモコンを操作し設定温度を少し下げると、クーラーは心地の良い風を静かに優しく吐き出してくれた。
ちゃんと仕事しなさいよ、クーラー。
「さて、やりたいことも決まったし……、で、で、電話でもしようかな…」
21時を回ろうかという時刻。
少し夜分遅いけど彼ならきっと気にしないだろう。
私はスマホを片手に取り、画面をタップし彼の電話番号が記される電話帳を開いた。
……あとはココを押せば彼に繋がる。
指が震えるのは気のせいかな?
あれ、手が汗ばんできたかも…。
身体が凄く暑い。さっき室内温度を下げたのに。
「お、落ち着け私!電話をするだけじゃない!心を整えろ!息を吐け!思いの丈を彼に伝えるのよ!!」
せいっ!!
ぽん。
トゥルルルー。
トゥルルルー。
3コール程鳴った後に、スマホの向こうから小粋な電子音が鳴る。
それはスマホの先で彼と繋がった合図か。
少なくとも、暫くの無言が続く事から推測するに留守番電話サービスではないようだ。
「……」
『……?』
「……!」
『……あの、雪ノ下さん?』
「や、やっはろー!!」
『は?』
「あ、あはははー!私だよ!陽乃さんだよ!ガハマちゃんかと思った!?」
『え、いや…。雪ノ下さんだと思ってましたけど」
「……へ?そ、それって心が繋がってるから分かってましたよってこと!?」
『……』
「そ、その…。まだ時期尚早って言うかそういうのは結婚してからじゃないと恥ずかしいっていうかまずは結婚を前提にしたお付き合いからでお願いしますごめんなさいすみません」
『……心とかは繋がってないです。雪ノ下さんの電話番号は登録してたんで分かるに決まってるじゃないですか。少し落ち着いてもらっていいですかねえ』
「!?」
心とかは繋がってないです。
繋がってないです。
ないです。
す。
無情な言葉に思わずスマホを落としてしまう。
床に打つかったスマホは虚しく私を反射し続けた。
『…っ!え、なんか凄い音がしましたけど……。あれ?おーい。雪ノ下さん?……?え、何これ。新手の嫌がらせ?』
スマホから聞こえる彼の声で我に帰り、私は慌ててスマホを掴み直して耳に当てる。
「……私の心を弄んで何が楽しいのよ。…この淫乱童貞が!」
『…。なんなんだよコイツ』
.
.
.
…
……
………
……………
「それでね、講義が難しくて苦労してるんじゃないかなぁって思って」
『あぁ、それでわざわざ勉強を見てくれると』
「わ、わざわざとかじゃないよ。ほら、ここ最近、キミには愚痴みたいなことばっかり言ってたからさ…」
『…別に気を使わなくてもいいのに』
「だから勉強くらいみてあげようかなって。私ってほら、何でも知ってるし」
『そうですね、雪ノ下さんは何でも知っていますもんね』
「何でもは知らないよ。キミのことだけ」
『ん?え?…ん?』
あれ、思ってたのと違う反応。
ちょっと残念だな。
すると、雑談も交えた電話をしていたためか、いつの間にか彼に電話んをしてから1時間近く経っていたことに気が付いた。
最初の数分は記憶に無いけど…。
「あ、ごめんね。長々と話しちゃって」
『いや、大丈夫ですよ。…それじゃぁお願いしてもいいですか?』
「え?何を?」
『……。勉強、見てくれるんでしょ?』
「あ、そうだそうだ。よーし!沢山見ちゃうよ!!」
『来週の土曜日なんてどうです?』
「おっけー!」
『それじゃぁ、来週の土曜日に俺ん家で。よろしくお願いしますね。それじゃぁ、おやすみなさい』
「うん!おやす……。ん?……え!?ちょ、ちょ、比企谷くん家!?!?」
『ーーーーー』
返答の代わりに帰ってくる電子音。
どうやらスマホの向こうに彼はもう居ないらしい。
私はスマホを耳に当てたまま固まってしまう。
大抵のことには動揺をしない、もしくは動揺を隠せる私だが、今だけは存分に動揺させてくれよ。
なんせ…。
純血の乙女少女である私が男の家にお呼ばれされたのだから。
✳︎純粋はトラブル✳︎
電車を乗り継ぐこと数分。
午前中にも関わらずに蒸し返すようの暑さがジリジリと、駅のホームに舞い降りる天使こと私の身体を包み込む。
珍しく電車を使ってみたのは彼の家に行く事を家族に知られたくないからだ。
優秀なドライバーも、母の前では口が柔らかくなってしまうから。
「それにしても暑いなぁ」
駅から出て直ぐにあるロータリーには学生らしき人影がチラホラと見受けられる。
待ち合わせ場所にはまだ比企谷くんの姿は見えない。
それもそのはずだ。
まだ待ち合わせ時間にはまだ30分以上もあるのだから。
暫くこの暑さから逃れるために喫茶店にでも入ろうかと思っていた矢先に、私の肩が背後から優しく叩かれる。
「?…みゅ」
振り向くと、私のほっぺは彼の指によって突かれた。
あまりに彼らしくない行動に驚いたものの、触れられたほっぺから伝わる彼の温度に少しだけ顔を緩まされてしまう。
「早く来ておいて正解でした。こんにちは、雪ノ下さん」
柔和に笑う比企谷くんがそこに居た。
ふわりと私のほっぺから離れていく彼の指に名残惜しさを感じつつ、私は少しだけで毒付いてみる。
「むむ。乙女のほっぺを触るなんてセクハラで訴えられても知らないよ?」
「乙女なんて年齢でもないでしょ。さぁ、行きましょう」
「ちょっと!そういう年齢ネタは静ちゃんの専売特許でしょ!」
「年齢ネタって…」
呆れ笑いを見せながら、彼はゆっくりと歩き出した。
彼の隣へ並ぶように私も歩き出すと、何も言わずに彼は私の鞄を奪い取る。
そんな気づかいや優しさを、私は今までされたことが無かったためか、慌ててそれを奪い返そうとしてしまった。
「い、いいよ!そんな重たくないし」
「そうですか?女性が荷物を持っていたら無言でそれを受け取れと教わっていたんですが」
「そ、そういうのはさ、もっとか弱い女性にしてあげてよ」
「…、そうですね。じゃぁ」
ヒョイっと、彼は鞄を私からまたもや奪い取る。
「見た目だけならか弱い雪ノ下さんもその対象ですね」
「…っ!!…み、見た目だけってなによ!もう!比企谷くんは本当に比企谷くんなんだから!」
下心の無い優しさが。
偽りの無い優しさが。
私にはどこか気恥ずかしく、もどかしい。
遠慮無しに打つけられる彼の親切心が、私の強化外装をすり抜けて柔らかい所を刺激する。
そんな感じ。
ーーーーー。
車通りの多い国道沿いから一本外れた生活道路の一角に、見た目から新築だとわかるマンションが一棟現れる。
そこのマンションロビーで4桁の数字を入力すると、開かずの自動ドアーが私達を迎え入れるように横へ開いた。
「へぇ、良いマンションだね。オートロックのうえに立地も良い。築年数も新しそう。一人暮らしの学生には勿体無いんじゃない?」
「まぁ一人なら勿体無いかもですよね」
「一人なら?」
エレベーターに乗り込み5階のボタンを押す。
ゆっくりと動き出したエレベーターは直ぐに減速し、目的のフロアに辿り着いた。
512号室が彼の部屋らしい。
「ただいま〜」
「え?ただいま?」
玄関先で靴を脱ぎながら発せられた声に、部屋の奥から聞こえる元気な声。
ん?
一人暮らしじゃないの?
「おかえりー!お兄ちゃん!!あ!陽乃さんもいらっしゃいませ!」
「こ、小町ちゃん?え、比企谷くん、キミ、一人暮らしって…」
「一人暮らしですよ?今年まではね」
「今年まで?」
私が現在の状況に玄関先で立ち止まっていると、小町ちゃんは丁寧に私の前へスリッパを置いてくれる。
「来年から私もお兄ちゃんと同じ大学に通うんです!」
「もう推薦でほぼ合格は決まってるみたいなもんなんですよ。だから、実家を出るなら2人で済んだ方が安上がりだっていってお袋が」
……。
仲、良いですね。
狭いアパートで2人きりの勉強会を妄想していた自分が恥ずかしいです。
いやいや、小町ちゃんも良いコだし好きだよ?
……うん。
「そ、そうなんだー。あははー」
「それにしてもお兄ちゃんの言ってた強力な助っ人が陽乃さんだったなんてビックリしたよ!」
「ん?助っ人?」
「え?あれ?お兄ちゃん、陽乃さんに何も言ってないの?」
フローリングにパタパタとスリッパを叩きつけながら、忙しなくリビングとキッチンを往復する小町ちゃんは器用にも3つのカップを片手に持っている。
それを見て比企谷くんがカップを受け取り、私の前に置いてくれた。
「……雪ノ下さんには勉強っていうか、小町の小論文を添削してもらいたいんです」
「へ?小論文?」
「はい。これを見てください」
と、比企谷くんがクリアケースから数枚の作文用紙を取り出し私の前に差し出した。
400字詰めの作文用紙にはびっしりと文字が埋められており、それが20枚程……、多くない?
「うへぇ、凄いねぇ。推薦に必要な小論文ってこんなに書かなきゃだめなんだ…」
「違うんです」
「え?」
「3枚でいいんです。3枚でいいのに、小町は20枚も書いてしまったんです」
驚愕、絶句とは正にこの事。
私の身体は固まり、時間さえも流れることなく動きを止めたかのような錯覚に陥った。
っていうのは大袈裟だけど、私の考えていた添削とは少しだけベクトルの違う方向の問題らしいことは分かった。
「あ、あははー、書き過ぎて困っちゃうなんてある意味才能だよね」
「そうなんです。小町は天才なんですよ。この小論文、芥川賞とか狙えるんじゃね?」
「お兄ちゃん、それは言い過ぎだよ。候補止まりくらいだ思うなぁ」
そういえば、この2人ってお互いには甘いのよね。
なんとなく懐かしいけど今は面倒臭いなぁ。
「……と、とりあえずさ、先ずはこの中からトピックスを一つ取り上げて、それについてだけ書くってのはどう?」
分厚くなった小町ちゃんの小論文を手に取り、私は苦笑い気味にそれを読み始める。
これだけ書けるのだ。
きっとテーマが壮大に違いない。
ー小論文ー
【私のお兄ちゃん】
ーーー比企谷 小町ーーー
……。
「……。小町ちゃん、全部書き直そうか」
「「!?」」
.
…
……
…………
………………
「出来た!!」
「お、やっと完成したか」
「……」
5階から覗く夕焼けは普段よりも少しだけ明るく切ない。
真っ赤に染まるリビングには小論文を両手で掲げてはしゃぐ小町ちゃん。
小論文の作成開始から7時間、ようやく完成したそれ3枚の原稿用紙にしっかりと収まっている。
「出来た出来たー!」
「ほら、はしゃいでないで雪ノ下さんにお礼を言え」
「うん!雪ノ下さん!ありがとうございます!」
そう言って腰を90度も折ると、直ぐに起き上がり小論文をクリアケースに締まった。
「無くさないようにリュックに締まってくる!」
元気だなぁ。
7時間も机に張り付いてたのに……。
私はもう頭が痛いよ。
「…すみませんね、雪ノ下さん。あいつ、書きたい事は沢山あるらしいんですけどまとめられないんですよ」
「そうみたいだね。でもまぁ、そういう所も可愛いじゃない」
「そうでしょう。自慢の妹です」
「あはは」
比企谷くんは私が小町ちゃんを褒めた事に満足したのか、ゆっくりとリビングの机に散らかしっぱなしになっていた原稿用紙やシャーペンを片付ける。
「…さて、夕飯の支度でもしますか」
「あ、もうそんな時間か…」
あっという間だったなぁ。
あんまり話せてないけど、時間だけは無情に過ぎていってしまったのね。
夕暮れ時の時間はどうしてこんなに寂しくなるの?
熱気に包まれた街も、今は蝉の鳴き声だけを残して暑い夏を忘れさせる。
「雪ノ下さん。何か食べたい物とかあります?」
もっと。
心を弾ませる言葉を私に頂戴。
「え?」
「夕飯、一緒に食べるでしょ?」
夏の暑さが和らぐこの時間に、改めて再燃する私の心はどこまでも正直だ。
一緒に居たいと言葉にできないのに、優しい言葉を掛けられると心は喜んでしまう。
ねぇ、雪乃ちゃん。
お姉ちゃんにも、少しだけ我儘を分けてちょうだい。
「……」
「……?」
頬の暑さにあわてながらも、私は冷静さを取り繕いながら彼に笑いかける。
「…うん。一緒に食べよ!」
彼は静かに頷いて、不自然に私から目を背けた。
照れてるのかな。
照れててくれたら嬉しいな。
赤くなる彼の耳は夕焼けに照らされているからだろうか。
「ねぇ、比企谷くん」
私はそっと彼の背中を抱きしめる。
同じくらいの身長だったのに、この2年でこんなに大きくなったんだね。
抱き締めるというよりも、彼の背中に抱き着く形になっているのは気のせいか。
「どうやって、私を助けてくれるの?」