✳︎彼は静かに煙草を咥える✳︎
いつだったか、あの子が私に向かってこう言った。
”ずるいですか?
本物が欲しくて
本音から逃げることは”
あまりに甘く、子供じみた事を言うから、それまで抱いていた私の彼への印象が全て崩れ落ちた。
春風にふわりと浮かぶ彼の髪は優しく揺れ、見え隠れする潤んだ瞳からはいつもの強気な姿勢はつゆほど感じられない。
キミじゃないみたい。
私の興味を唆るのは、そんなキミじゃないんだよ。
その時から、私の興味は完全に消え失せた。
ガラガラと音を鳴らして。
”…残念だなぁ。キミには期待してたんだけど”
その時の私の目は、誰に向けるものよりも冷たい視線だっただろう。
もう、会う事もない。
私のおもちゃが一つ無くなっただけ。
”…っ”
彼は私に何かを言い掛けたが、そっと口を閉じて黙り込む。
……何も言い返さないんだね。
これで本当にサヨナラだ。
メリットとデメリットでしか人の良し悪しを評価しない私にとって、彼に付いた落第を表す大きなバッテンはお別れを意味する。
それなのに、心のどこかに小さな隙間が空いたような気がしてしまうのはなぜだろう。
沢山のおもちゃが一つ無くなっただけなのに。
”……じゃあね、比企谷くん”
………☆
大学の研究室で迎える昼下がり。
窓から差し込む日差しの暖かさに気を緩まされたのか、私ともあろう者が研究室のソファーで軽くうたた寝をしてしまったようだ。
自席で電源が入れっぱなしとなっているPCはスリープモードとなり画面を黒く映し出す。
「…っんー」
大きく腕を上に上げ、キュッと背筋を伸ばすと新鮮な空気が身体中に充満した。
可愛いおへそが見え隠れしているけど、残念ながらこの部屋には私以外の学生は居ない。
窓から外を見渡すも、ビルの隙間からしか顔を覗かせない青い空が虚しく私を見つめ返すだけ。
気分が落ちている。
懐かしい夢を見てしまったから。
「…はぁ。論文の続きやらなきゃ」
頭をクリアにするように、私はPCデスクに向かいスリープモードを解放するためにEnterキーを叩く。
小粋な音を立てて弾かれたソレは、命令に背くこと無くうたた寝をする前まで起動していたソフトを立ち上げた。
大学4回生の6月、周りの学生が就職活動に勤しむ中で呑気に卒業論文の作成に時間を割けるのは私を含めて数名もいないだろう。
私の人生は生まれた時から決まっている。
良家の元で丁寧に育てられ、手の掛かる可愛い妹に構いながら明るく育った私は父の会社に跡取りとして入社することが決まっているから。
「…楽な人生じゃない。お金も名誉も顔も、全てがチート級なんだから」
自虐がふわりと研究室に浮かび上がる。
……自虐?
自慢でしょ……。
……はぁ。
と、私のため息が運気を逃してしまったのか、1人で占領していた研究室にノックの音が響き渡った。
「やぁ、やっぱり居たんだね。陽乃さん」
「あら、丸岡くん」
緩いパーマと茶髪を頭に乗せた男の子が扉から顔を覗かせる。
嫌らしく嵌められた小指の指輪がこの男の底を主張しているようだ。
「陽乃さん、もう卒論作ってんの?」
「まねー。丸岡くんも?」
「いや、俺はココに来れば陽乃さんが居るかなぁって思ってさ」
居るかなぁって……、鍵の貸し出した記録を見りゃ直ぐに分かるでしょ。
本当に、同じゼミにこいつが居ることに腹が立つ。
研究室の扉をノックする所がうざったいわ。
蹴り破ってこいっての。
「今夜は暇?良いバーを知ってるんだけど一緒にどう?」
女々しく伸びた髪が腹立たしい。
私の逆鱗をヤスリで逆撫でするこいつの態度に、私は思わず毒を吐いてしまいそうだ。
……でも、それを理性が押し止める。
「…そだねー。あまり遅くは無理だけど」
こいつのことは無下に出来ない。
父の会社の取引先の息子であるから。
そんな理由さえ無ければ人生の奈落に突き落としているところだけど。
丸岡との付き合いは将来に必ず役立つから。
「わかった。それならまた迎えに来るから」
ニコっと笑いその場を後にする丸岡を見送り、私は先ほどよりも深いため息を吐く。
羨ましいよ雪乃ちゃん。
私もほんの少しの自由が欲しい。
我儘を言える立場が。
窮地を助けてくれる大切な人が……。
何度目かのため息を吐いた後、私はPCの電源を消し、資料を鞄に仕舞う。
私は彼女達と違うんだ。
黙って下を向けば手を差し伸ばしてくれる彼が居る彼女とは。
何も出来ないのに心の本音を彼にさらけ出せる彼女とは。
……私は違う。
……………
………
…
.
.
「それじゃあ、乾杯」
「かんぱーい」
銀座の一角に構える静かなバーは、学生にも良く知れ渡る人気なバーだ。
良いバーってココかい。
って突っ込むのはマスターに悪いか。
敷居も値段もそれほど高くないものの、出されるバーは彩り豊かで名工な物ばかりである。
今まで来たことはなかったけど、居心地の良さと緩やかに流れるジャズが暖かい。
「おいしいね。陽乃さんはどのカクテルが好き?」
……君が隣に居なければどれだけ気を許せたことか。
「あんまりカクテルって飲まないの。丸岡くんが飲んでいる物はどんな味なの?」
なんて、当たり障りの無い返答でその場をやり過ごす。
白い髭を生やしたマスターはお客にあまり干渉しようとしないようで、どこを見つめるわけでもなく視線を動かさない。
ふわりと。
どこか懐かしい太陽の香り。
それと同時に、ニコチンを含んだ白い煙が私と丸岡くんの前を素通りしていく。
その煙の出し主はカウンター席の端っこに座り、コクリと生ビールが注がれたグラスを傾けていた。
黒いフレームのメガネが顔の半分程を隠している。
カッコいい大人だなぁ……。
……。
その人を見つめてしまっていたことが悪かったのだろう。
丸岡は何を勘違いしたか、彼に向かって話しかけていた。
「あの、煙がこっちまで来てるんですけど」
「…あぁ、悪い。気をつけるよ」
気をつけるよ、と言ったそばから新たな煙草を咥え直す。
しなやかに煙草を挟む指には何の装飾も嵌められておらず、どこか清潔で温和な……、優しい印象を抱かせた。
「…変な奴。…ごめんね、陽乃さん。あんな奴が居たんじゃ落ち着いて飲めないよね」
少し大き目に発声されたその言葉は、少々の棘を煙草の彼に向けるように。
「場所、変えようか」
「……先に帰ってて」
「え?」
「先に帰っててって言ったの」
「ど、どうしたの?陽乃さん」
「……外に迎えが来てるの。男の人と夜遊びしてたなんてバレたらお母さんに怒られちゃう」
「え、本当?」
扉の外に慌てて視線を移す丸岡の耳元に、私はそっと顔を近づけ囁いた。
「うん。……だから、この続きは…。今度ね」
その後、どこか身体を舐め回すような下品な視線を送られつつ、丸岡は陽気にその場を去っていった。
バカで扱いやすいけど、彼の相手は私を非常に疲れさせる。
それでも、予定通りに退散させることが出来たのだから気を取り直そう。
「マスター、私にもビールを」
長年の勘か、それを注文されると分かっていたかのように、マスターの手によってグラスには手早くビールが注がれていく。
そして、その泡が縁にたどり着いたグラスが煙草の彼の隣にそっと置かれた。
やり手なマスターだこと。
「隣、良いですか?」
「……?まぁ、別に…」
心の底から温めてくれるような静かな声が、私の思い出を駆け巡る。
やっぱり、懐かしい……。
「ココには良く来られるんですか?」
「…偶に。つぅか…」
「?」
彼は私に顔を向けることもなく、また新たな煙草を咥えて火を付けた。
煙草の先から登る煙は空調によるものか、それとも彼が気を使ってか、私の元には漂わない。
一つ、煙を吸い出すと、彼は灰皿にソレを置きメガネをそっと外した。
見覚えのある横顔が、思い出の中からいくつも溢れる。
そして、彼は小さく私に呟くのだ。
「何してんすか?雪ノ下さん」
✳︎揺れる心に手を伸ばす✳︎
泡の残る口元を指で拭き取りながら、相変わらずの瞳を身に付けた彼が目の前に現れた。
途端に身体が強張るのを感じるが、私は直ぐに”いつもの私”を貼り付ける。
太陽の香りは彼が原因か。
ほのかに感じた懐かしさの香りに、ドキドキとする動機が静まらないのなぜだろう。
「…久しぶりだね、比企谷くん」
「そうですね」
「少し、声が低くなったんじゃない?」
「自分では分かりませんが…」
コトン、とグラスが置かれると、彼はカウンターに置いていた眼鏡をケースに仕舞いバッグに入れた。
「眼鏡…。掛けてなかったよね?」
「大学の講義室は広すぎるんですよ」
…大学に通ってるんだ。
と、そんなことも知らないのかと言われてもおかしくないほどに、私は彼のことを知らないのだ。
それも当然か。
あの日、雪乃ちゃん達の卒業の日に、私は彼を拒絶したのだから。
「さっきは連れがごめんね。気分悪くした?」
「してないですよ。ただ…」
「…?…ただ?」
彼は私に見向きもしない。
ココで出会ったことは偶然にすぎないものだが、ココで彼に言われた言葉は必然だった。
それほどまでに、彼に言われた言葉は確信を突かれていたんだ。
「……つまらなくなりましたね。雪ノ下さん」
「っ!」
ガタンっ。
と、私は思わずその場から立ち上がってしまう。
”いつもの私”は剥がれ落ちている。
動揺を隠せない瞳がバーの店内を泳いでいた。
つまらない?
この私が?
それはあの日に彼へ言った事への意趣返しか。
それとも先ほどの私を見た彼の本音か。
そんなことを考えられないくらいに、彼の言葉は私を動揺させた。
「……。帰る。じゃあね」
「……」
慌ててダウンと鞄を小脇に抱える姿はどれだけ惨めであっただろう。
それさえも彼の視界には入ることはなく、ただただ煙草を咥えてグラスを持ち上げるだけ。
慌てていたのがいけなかった。
椅子の背もたれに引っかかった鞄が宙で逆さになり、中に入れていた物が全て落とされる。
惨めだ。
惨めすぎる。
「……っ」
すると、煙草を吸っていた彼が自らの足下に落ちた一枚の資料を拾い上げた。
「…遺伝子組み換えによる花色の生成……。卒業研究…」
「…返して」
彼はその資料と私を見比べると、腑に落ちぬ様子でそれを私に返す。
「…意外ですね。もっとコテコテな卒業研究をしているのかと思いました」
「……っ」
「遺伝子…。雪ノ下さんが本当にやりたいことってソレなんじゃないですか?」
「…何も知らない癖に、知ったような事を言わないでくれるかな」
「……今のあなたは出会った頃の雪ノ下を見てるようです」
「うるさい!」
「本音を、隠すのはズルいんじゃなかったんですか?」
「っ…」
このバーで会って数分、彼は私の何を理解したと言うのだろう。
先ほどから私の心の柔らかい所を突くように、彼は冷めた目で私を見続けた。
「……。不自由さも自由に代えていた雪ノ下さんは…、格好良かったんですけどね」
キミが私の何を知っているの?
雪ノ下家の長女に産まれた私を。
自由に振る舞う妹を持った私を。
比企谷くんは救ってくれなかったじゃない。
「……私も、もういい大人だよ?好きな事ばかりをして生きていけないの」
「親の手元を離れるまで、子供は子供のままですよ」
「それなら、私はいつまで経っても子供だね」
そんな私を見て、彼は煙を口から吐きながら立ち上がる。
背も、大きくなったんだね。
高校生の頃は同じくらいだった身長も、今は彼の方が少し高い。
「我儘をココでくらい言ってみては?あいにく、俺もマスターも友人は少ない方ですから広まる心配はありませんよ?」
指に挟んだ煙草は煙をゆらゆらと。
友人なんて、キミには居ないじゃない。
「…キミの言う通り。私はずっとずっと我儘でありたい。我を通して好きに振舞いたい」
「…はい」
「やりたい事が……、あるの」
そっと、彼は優しくソレを受け止めてくれるはずだ。
だから、お母さんにもお父さんにも言わなかった事を伝えることができる。
「私……、お花屋さんになりたいの!」
「…!?」
「お嫁さんにもなりたい!!っ、娘と、…っ、お花を飾って素敵なお店を作りたい!!」
「!?」
陽乃さん主人公。
三浦もどこかで出したいなぁ。
あといろはすも。