マルガレーテ《完結》   作:日々あとむ

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映画、県内どころか隣でもやってなくて見に行く暇ありません(憤怒)!!

■前回のあらすじ

アインズ「ほーれこれが欲しいかー(巻物ぴらぴら)」
レイナース「くやしい! でも(ry」
 


The Evil God Ⅲ

 

 

 ――そして、彼らが隠し通路を抜けた先にその六人は待っていた。

 

「――――陽動かよ」

 

 クレマンティーヌは舌打ちする。隠し通路の先に待ち構えていた六人は誰もが首にアダマンタイトのプレートをぶら下げている。つまりは冒険者――それも準英雄級と名高い連中だ。

 

「……クライムを殺したのは、やはり貴方ね」

 

 その中のリーダー格と思しき女が、クレマンティーヌの姿を見て眉を顰める。その瞳には怒りが宿っているが、クレマンティーヌにとっては意味不明の呟きだ。

 だが……理由は察せられる。

 

「あははー。この中に知り合いのプレートでもあったりしちゃったぁ?」

 

 クレマンティーヌの軽装鎧には、今まで殺してきた冒険者達の記念品のプレートが打ち込まれている。おそらく、その中に友人か恋人でもいるのだろう。嘲笑すれば、憤怒の形相に女の表情が変わる。いや、リーダー格の女だけではない。女かどうか疑問の筋肉達磨――その女の表情も憤怒の形相を作っている。その中で表情が変わらないのは四人。

 仮面をつけているため表情が分からない魔法詠唱者(マジック・キャスター)らしき存在。双子なのだろう同じ顔の無表情の忍者の女二人。そして……その中で場違いにも感じる唯一の()

 

(……こいつは、ちょっと毛色が違う)

 

 クレマンティーヌは内心で眉を顰める。この男だけは、他の面子とは温度差があった。何が、とは言わないがクレマンティーヌは長年の経験でそれを看破する。

 

「それにしても……蒼の薔薇がこんなところで何の用なのさー?」

 

 男は知らないが、他の女達は間違いなく元王国のアダマンタイト級冒険者チーム蒼の薔薇だ。噂によると、別のアダマンタイト級冒険者チーム――漆黒と合流したとか聞いたが。

 

(……ってことは、こいつが漆黒かな?)

 

 クレマンティーヌは男の姿を油断なく確認する。名前までは知らないが、確かあの元同僚であるカジットの起こしたエ・ランテルの事件を解決した男二人のチームだとか。その内の一人だろう。もう一人はどこにいったのか考え――霊廟に突入した方だと思い当たる。

 

(あっちが正解だったかー……残念)

 

 まあ、この連中は別に突破出来ないほどじゃない。三人で協力すれば、アダマンタイト級の冒険者チームと言えど逃亡する事は可能だろう。クレマンティーヌがかつて所属していた法国の特殊部隊――風花聖典の情報では、王国でまともにクレマンティーヌと戦える戦士は五人――その内の一人は引退し、二人は既に死亡している(・・・・・・・・)。残ったのはこの目の前にいる蒼の薔薇のガガーランと、もう一人は行方不明だ。

 そして、クレマンティーヌには自信がある。自分に勝てる戦士など、法国にしか存在しない(・・・・・・・・・・)、と。あの神人――先祖還りの二人のみだ、と。

 

「…………」

 

 ――ただ、さすがに。その自分とまともに勝負出来る戦士の最後の一人がこの場にいるとなると、クレマンティーヌでも厳しいものがあるが。

 

 男は腰に帯びている刀に手をかけながら、クレマンティーヌから見ても隙が無い。……もはやその時点で、この男が何者であるか明白だ。

 おそらくクレマンティーヌとまともに戦士として戦う事が出来る最後の一人――ブレイン・アングラウスだろう。

 

(人数差で厳しいものがあるか……後ろの奴がどこまで出来るか、だねー)

 

 クレマンティーヌは部下の神官を思う。こいつがクレマンティーヌが前衛を一人始末するまで、どこまで耐えられるかが勝負の分かれ目になるだろう。

 だが――

 

「なあ、アンタ」

 

 男が、口を開いた。クレマンティーヌを見て。そんな男にクレマンティーヌではなく、仲間であるはずの蒼の薔薇こそが驚く。

 

「ブレイン?」

 

 男――やはり彼のブレイン・アングラウスであったらしい――が、仲間を無視してクレマンティーヌのみを見て告げる。

 

「どうだ? 俺と、一対一(タイマン)で戦ってみないか?」

 

「――はあ?」

 

「ブ、ブレイン!?」

 

 さしものクレマンティーヌもその言葉には驚くしかない。しかしブレインは気にする様子がなかった。

 

「俺は昔から、強い戦士には目が無くてな。こういうのを見ると、どうしても戦いたいと願ってやまない。――性分、なんだろうな。ガゼフに勝つために、いつだって、常に強い相手と戦い勝利してきた」

 

 だからきっと、これからもそうし続ける。ブレインはそう告げた。

 

「んー……」

 

 クレマンティーヌは悩む素振りを見せながら、内心でニヤリと笑う。願ってもいない提案だ。

 彼女達は自分達の関係をどう思っているのか知らないが、はっきり言って自分達の仲間意識は薄い。せいぜい、神官に教主に対する忠誠心があるくらいで、自分は勿論同僚もおそらく、死ぬぐらいなら見切りをつけるタイプだ。

 ブレインの提案はクレマンティーヌにとっては天啓に等しい。何故なら、労せずしてこの場から逃げられるのだから。クレマンティーヌにとってはブレインを殺してこの場から離れる方が、チーム戦をするより逃亡出来る確率が高い。

 

「いーよいーよ、おっけー。じゃあアッチで殺し合おっかー」

 

 クレマンティーヌがそう告げると、ブレインは嬉しそうに顔を歪めた。二人が歩き出すと、蒼の薔薇のリーダー格と思しき女が不安そうな顔でブレインの背中に声をかけた。

 

「ブレイン……」

 

「そっちは任せたぞ」

 

 人数差のせいか、蒼の薔薇の勝利を欠片も疑っていないらしい。それもそうだ。同僚と神官が生き残れる確率は低い。クレマンティーヌがどれほど早くブレインとの決着をつけられるか、その速度に全てはかかっている。でなければジリ貧で二人は捕らえられるだろう。――もっとも、クレマンティーヌにはもう関係のない話だが。

 助ける義理などない。それが分かっている同僚は少し恨みがましい目でクレマンティーヌを見つめ、鼻を鳴らすがすぐに自分の事に集中し始めた。神官もこっそりアンデッド召喚の詠唱を始めようとしている。

 

「……万が一があったら、必ず蘇生させますから」

 

「必要ない」

 

「え?」

 

 女の言葉を、ブレインは否定する。その言葉に、この場の全員――クレマンティーヌさえ驚いた。

 

「俺に復活魔法は必要ない。人生は一度きりだからこそ、輝いていると俺は思っている。だから悪いな、万が一があったらアインズに謝っといてくれ」

 

「――――」

 

 呆然とする彼女達を放って、クレマンティーヌとブレインはその場を離れる。歩きながらクレマンティーヌは鼻で笑った。

 

「いやーん、かっこいいー。人生は一度きり、だなんてすっごく素敵な一言じゃん。神官やアンデッドには耳が痛いんじゃないかなー」

 

「ハッ――心にも無いことをよく吠える……」

 

 ブレインの言葉に、クレマンティーヌはケラケラと笑った。その通りだ。人生は一度きりだからこそ輝く――そんな言葉は負け犬(・・・)の戯言だろう。

 ああ――つまり、お前は現実に耐えきれなかっただけの、単なる負け犬だろうとクレマンティーヌは笑った。

 だってそうだろう。辛くても、苦しくても、生きてさえいれば幸せになるチャンスは必ずあるのだ。死ねばそんなチャンスはゼロでしかない。それが現実に耐えられなかった負け犬以外の何なのか。()逃避(・・)以外の何だと言う。

 

 ――勿論、この思考はクレマンティーヌの人格と、法国の教育あってのものである。

 

 法国では、復活魔法を使える者が複数存在する。そんな国の暗部(・・)にどっぷり浸かっていた者の一人こそクレマンティーヌだ。クレマンティーヌにとって、『死』は本当に身近なもので、そしてそこまで重いモノではなかったのである。死んだらそこで終わり――という一般的教育を、思想を受けてないのだ。生まれた時から法国の深部に浸かる事が確定していた彼女達――神人の血統にとって、『死』とは現象の一つである。

 ……クレマンティーヌとて、自分の思想が特異なものであるという自覚はある。しかし、彼女の邪悪な人格が、その認識を軽視させる。

 特別(・・)なのは気分がいい(・・・・・)他人を見下せる(・・・・・・・)のは最高だ(・・・)。だからお前達の思想は負け犬(・・・)である。

 

 そんな邪悪な考えが、吐き気を催す歪さが、彼女の表情から透けて見える。

 

「さて、そんじゃいきますよー」

 

 ある程度離れた場所で止まり、二人は向き合う。そして互いに名乗る事もせずにクレマンティーヌは自らの武装であるスティレットを片手だけ(・・・・)抜き、ブレインは刀の柄に手をかけた。

 そう、名乗りは上げない。表情さえ互いに激変している。クレマンティーヌもブレインも、どちらも油断なく互いの挙動を見据えて動かない。隙を見せる要素は一切省く。

 どちらも分かっているのだ。相手は対人特化――人間をこそ最も殺すのに適したヒトガタの獣であると。しかもその性根は真っ当ではない。生きるために何でもやる生き汚さがある。実力さえ互いに伯仲している事に気がついているから、名乗りを上げる事は隙を作る事に等しいと本能で理解していた。

 

 故に、互いに名乗り上げる事はなく――。

 あらゆる機能を、殺人行為にのみ用いる。

 

「――――」

 

 両者は共に種類は違えど武器を構えて無言。『行く』と言いながらも前進せず。油断なく相手を見据えるのみ。

 ――当然である。共に対人特化の前衛戦士、それも技量系。戦闘スタイルの似通った両者だから、相手が何を狙っているかも分かるし――何より、達人同士の決闘とは間合いの競い合いにして呼吸の読み合い。身体能力に圧倒的差が無いかぎり、何よりも呼吸の読み合いにこそ比重が置かれる。生半可な攻撃や武技の発動なぞ、即座にそれに合わせた返し技(カウンター)が叩き込まれるのがオチだろう。

 派手な武技の応酬・アクションはゲームやアニメ、漫画や小説だけの特権である。現実の技量系近接戦士の決闘とは、かくも地味なものなのだ。

 

 故に、互いに全神経を相手に集中させ――相手の一挙手一投足を見逃さぬよう見つめ続ける。

 

「――――」

 

 クレマンティーヌから見たブレインは刀使い。それも居合切りを得意とするのは間違いないだろう。武器の長さ・鞘の有無より考えて、おそらくは剣速は間違いなくブレインが上。間合いの違いから、間違いなくクレマンティーヌのスティレットが相手に届く前に、ブレインの刀が鞘奔り始める。

 クレマンティーヌがしなくてはならないのは、そのブレインの居合切りのタイミングを外す事。自らが軽装である事を鑑みて、武技を使用しないかぎりどこを斬られてもそのまま切断されるだろう。よって、剣先が最高速に到達する前に接近するか、あるいは振り抜かれて無防備になった後に自分の間合いに踏み込む必要がある。

 スティレットに込められた奥の手は不要。そのためのスイッチを入れる動作が余分であり、ブレインに致命的な隙を晒してしまう。

 

 隙を窺う。相手の挙動を見逃さないよう――。

 

「――――っ」

 

 ブレインの重心が僅かに傾く。それに合わせて動きそうになる体を全身全霊で押さえつけ、踏み込もうとする足を押し留める。

 ブレインは――そのままクレマンティーヌまで踏み込まない。やはり誘い(ブラフ)――クレマンティーヌに先手をわざと打たせ、そのまま返し技(カウンター)で切り捨てるつもりであったか、あるいは先手を譲り逆に返し技(カウンター)を打ち込もうとするクレマンティーヌの出鼻を挫く意図があったのだろう。

 

(だが――耐えきった……!!)

 

 誘い技(フェイント)を完全に見切り、呼吸を乱さなかった。むしろ見切られたブレインの方が逆に呼吸を乱された事だろう。この隙を逃さず、ブレインが心身を立て直す前に勝負を仕掛ける。

 

「――――」

 

 クレマンティーヌは片手に持つスティレットの切っ先を、ゆるりと動かし――その誘い技(フェイント)に反応しないブレインを見ても動きを止めず――ブレインの眉間に合わせるように尖端を突きつける。

 

「――――ッ」

 

 ブレインの内心が乱れたのが、クレマンティーヌには手に取るように分かった。……そう、わざわざ片手一本だけスティレットを抜いたのはこのためである。

 

 尖端というものは、神経に負担がかかるものなのである。自分の指先を眉間に突きつけ、そこに視線を合わせると分かるが視界の狭まり方と脳への圧迫感は途轍もない。

 ましてや生死に関わるこの状況――ブレインの感じる圧迫感は尋常ではないだろう。その心身にかかる負担はいずれ、ブレインを自壊させる。

 

 そして――

 

()った――!)

 

 クレマンティーヌはこっそりともう片方の手を背後にやり、腰から音もなく抜き取っていたもう一本のスティレットを抜き放った。

 

「――――ぐ」

「――――ッ、ァ」

 

 同時、弾かれたように再びお互い間合いを離す。

 

(畜生が……武技か!)

 

 クレマンティーヌが勝利を確信した瞬間、ブレインの喉笛に隠し抜き放ったスティレットが刺さる前に、ブレインが信じられない超反応で腰を落とした。結果、クレマンティーヌの必殺は外される事になる。

 ……人体で最も固い部位とは頭部。頭蓋骨の固さは生半可な突進力では刃先を逸らす事さえ可能だ。そこにブレインの超絶技能が合わさり、スティレットの切っ先はズラされた。

 必殺を躱されたクレマンティーヌだが、当然回避するために体勢を崩したブレインも必殺の機会を逃している。スティレットが主武装のクレマンティーヌにとってはクロスレンジこそが最適な間合いであるが、刀剣使いのブレインはショートレンジこそが最適な間合いである。ほぼ肉薄状態での戦闘はブレインにとっては歓迎出来る間合いではない。クロスレンジという超至近距離では、充分な剣速は得られない。よって、ブレインは攻撃を躱した瞬間クレマンティーヌの腹を蹴り飛ばした。その刹那の攻防の内に、スティレットの仕込みを発動させる暇はない。

 

 ……尤も、ブレインが間合いを離すために放った蹴りは、クレマンティーヌにとって大した痛手ではない。ブレインは何等かの武技でクレマンティーヌの攻撃を察知したようだが、その一呼吸がクレマンティーヌにも武技の発動を許した。〈不落要塞〉の前では、蹴り程度のダメージなぞ皆無に等しい。

 

 だが……クレマンティーヌは考えを改める。ブレインは、何等かの知覚武技を持っている。クレマンティーヌの隠し武器を察知したとは、つまりそういう事だ。不意打ちは通用しない。

 

 つまり――正面から、確実に。分かっていても反応出来ない攻撃を仕掛ける必要がある。

 

「――――」

 

 クレマンティーヌの内心は舌打ちをしたい気分であった。先程の状況を鑑みるに、おそらく知覚武技は空間系。どの程度の距離まで察するか知らないが、それは重要ではない。問題は範囲が空間というところであり、互いが近接の白兵戦特化という事である。

 これは、クレマンティーヌが間合いの競り合いでは勝てない(・・・・)という事を意味する。

 

 戦闘とは、如何に自分の間合いで戦い、相手の間合いを外すかの勝負だ。戦士だろうが魔法詠唱者(マジック・キャスター)だろうが、これは変わらない。間合いの競り合いこそが勝負の要である。

 その最重要項目を相手に抑えられた。その知覚武技には何らかのペナルティがあるとか、発動条件があるとか――そんなものは関係が無い。間合いの競り合いに勝てないという事実こそが、今のクレマンティーヌに圧倒的不利を齎す。

 咄嗟の判断が必ず後手に回る、というのはそれだけ致命的なのだ。

 そしてこういった状況の場合、必ず相手に先手を譲り、後の先を制す――返し技(カウンター)を叩き込む事こそが正解なのであるが、それは出来ない。ブレインの構えはまたしても居合切り――即ち待ち(・・)の姿勢だ。精神に負荷をかけて先手を打たせようにも、時間が無いのはクレマンティーヌの方である。もたもたしていると、蒼の薔薇が合流してしまう。一騎打ちに手出しする事はなくとも、クレマンティーヌを逃がすはずが無い。

 

 よって、クレマンティーヌが行うべきは先手必勝――間合いの競り合いで勝てない状況から、先手を打たなくてはならないという圧倒的不利な行動を要求された。

 

 〈疾風走破〉、〈超回避〉、〈能力向上〉、〈能力超向上〉――。

 

 幸い、ブレインに蹴り飛ばされた事により間合いは最初より離れている。そのため、武技を発動する余地があった。クレマンティーヌは立て続けに武技を発動していく。

 

 クレマンティーヌは身を屈めた。四足の獣のように――獲物に飛びかかる寸前の、肉食獣の如く。

 そして――地を蹴った。

 

 ブレインもまた同時に(・・・・・・・・・・)

 

「――――」

 

 そんなブレインの行動に理性が“待った”をかける。だが、クレマンティーヌは駆けた。ブレインは未だ刀を鞘から抜かず――神速の抜刀術を狙っているが、それさえ踏破すると心に決めた。

 クレマンティーヌの行動を支えたのは自らの力に対する自負――対人戦士としての経験値である。

 法国の暗部――漆黒聖典に所属していた自負が、脳裏を過ぎる神人という化け物達の影が、クレマンティーヌにその選択を選ばせる。

 

 だが――互いに距離を縮める内に、クレマンティーヌは戦慄した。警報が脳裏で脳を叩きつけるように響く。

 

 二人の距離の縮まり方が、おかしい。

 

 

 

 ――誰が知ろう。今ブレインが行っているこの移動歩法こそ、かつてアインズの世界――アインズの国で武士と呼ばれる者達の一部が身に着けていた歩法技術であるなどと。

 

 ……〈縮地〉、と呼ばれる武技がある。帝国のワーカーの一人、とある天才剣士が持つ歩法武技であるが、それは足を動かす事なく移動する事が可能という。

 

 だが、とある異世界。日本と呼ばれる国でかつて剣術家達が身に着けた技術は違う。それは瞬間移動でもなければ、武技でもなく――。

 足捌きによる(・・・・・・)歩法の組み合わせであったという。

 

 すり足移動により動作を読ませない『縮地法』を始めとした、複数の歩法の組み合わせ。それを歩幅を自在に変動させる事で相手に間合いを測らせない。そう――間合いを制する事こそ、戦闘の極意。

 十メートルの間合いを一足で詰める事も可能なれば、それを五歩、六歩と変える事も可能。歩幅が一定で無い事――最早何者も間合いを読む事出来ず。

 

 是ぞ、足捌きの極意――縮地なり。

 

 

 

 ――ブレインは天才剣士である。そして、クレマンティーヌは知らぬ事であるが、ブレインは毎日のように怪物と立ち合いをしていた。通常攻撃が一撃必殺、身体能力の圧倒的な怪物――アインズと。

 相手が圧倒的な身体能力を誇る場合、生半可な技術は通用しない。ましてやそれが技術に理解があるなど、絶望的だ。一部の帝国民では当たり前(・・・・)の認識だが、ブレインは王国民。魔物染みた圧倒的身体能力に、技術理解のある怪物と戦う経験などほぼ無かったであろう。

 そんなブレインが、アインズと模擬戦を行う内に身に着けた技術こそがこの縮地――歩幅を自在に変化させ、相手に間合い把握のタイミングを測らせない、武技でもなければ特殊技術(スキル)でもない――ブレインの天性のセンスと弛まぬ努力が奇しくも習得を可能とした、純粋な技術である。

 

 通常の武技のように精神力を必要とせず、誰でも使える『歩幅の変動』――ああ。やはりブレイン・アングラウスこそ剣の達人――まさに剣聖(ケンセイ)であった。

 

 

 

 ――鞘奔る。決して抜かせてはならない神速の抜刀が、クレマンティーヌの首を斬り落とさんと人間の知覚能力の限界を振り切り、闇夜に銀の光を煌かせた。

 

 〈領域〉、〈神閃〉――絶対必中と神速の一刀。秘剣――虎落笛。

 

「な、め、る――なァッ!!」

 

 だが、腐ってもクレマンティーヌは表社会最強であるあのガゼフを上回る戦士――縮地による間合いの幻惑を、そして知覚さえ振り切った必中必殺の神速の抜刀を、長年の経験が生み出した勘と、天性のセンスで見破ってみせる。

 

 〈不落要塞〉――スティレットの先と刀の刀身が合わさる。感知絶対不可・視覚不可能攻撃をクレマンティーヌは勘とセンスだけで見えないままに見破り、攻撃と合わせた。そしてクレマンティーヌはそのままスティレットを横に薙ぎ、刀身を切り払う。

 

 その切り払いによって、ブレインの体勢が刀の重さで崩れる。連携技ではない一撃必殺は、何らかの方法で対処された時こそが致命的になる。右手で振り抜かれた刀は最早完全に振り切られ、クレマンティーヌの眼前に無防備な胸部が晒された。

 

 即ち、詰みである。

 

 〈流水加速〉――神経を加速させ、攻撃速度を上昇させる。ブレインの抜刀と比べるとぬるい速度であるが、しかしそれで十分過ぎるのだ。技硬直の後の隙はそれほどまでに致命的である。

 

「――――」

 

 だが、その時確かにクレマンティーヌの耳に空気が切り裂く音が届いた。

 

 あり得ない。

 あり得ない。

 あり得ない。

 

 だが、本能が告げている。戦士としての勘がクレマンティーヌに疑問を投げかける。――先程の切り払い、妙に軽くなかったか、と。

 幾ら振り抜く必要があったとはいえ――まるで自分から、回転するように反発が少なかったようではないか、と。

 

「――――」

 

 ひゅうひゅう、空気を切り裂く音が。ブレインを見る。見た。――――無い。無い。無い。

 

 ()は、どこだ(・・・)

 

「――――」

 

 〈即応反射〉、〈神閃〉――攻撃後の崩れた体勢を戻し、神速の抜刀。相手に刀身を切り払われた反動を利用し高速回転、左手に握った鞘を頸部に叩きつけ、頸椎を圧し折る……!

 

 〈不落要塞〉や〈要塞〉は、発動タイミングが非常にシビアな武技だ。絶対防御と呼んでいい物理防御力を誇るが、反面それを狙ったタイミングで発動出来る尋常ならざる見切り力が必要となる。

 無論、クレマンティーヌの見切りは天才的である。それは先の攻防だけで見て取れるだろう。知覚不可能な攻撃を勘だけで合わせる――という事さえまず生半可な天才では不可能だ。しかしそれを見事合わせ、そして〈不落要塞〉まで発動させて完璧に防ぎきり返し技(カウンター)を放つなど、あのガゼフでさえ不可能だったはずだ。

 だが、クレマンティーヌはそれを成した。彼女は腐っても元とはいえ人類最強の組織漆黒聖典の一員。表社会で有名な剣士達なぞ、例え装備品の格が当時より落ちていようと問題にならない。

 

 ――しかし、目の前の男は天才剣士ブレイン・アングラウス。秀才の努力をする天才であり、片時も剣の事を忘れた事がない、剣を振るう事だけが人生であった男である。

 彼はガゼフに敗北して以来、常に努力し続けた。上には上がいる事を学び、しかしそれに否を唱え、常に前へ前へと進み続けた。

 その人生を、井の中の蛙と蔑む事は可能だろう。少なくともクレマンティーヌはそう言っていい。自分でも絶対に勝てない、法国の秘奥たる神人達。彼らと比べれば(ぷれいやー)の血が入っていないお前なぞ塵屑だと。どれだけ努力しようと決して届かない高みはあるのだ。血筋も、才能も無敵な奴らになんか勝てはしない。お前が最強になる日は絶対に来ない――したり顔で、下卑た顔で蔑む事も可能なのだ。

 だが――その努力を否定する事だけは、誰にも出来ない。

 

 心が折れた戦士と、未だ前へと進み続ける戦士――どちらが上等かなど、論ずる必要なぞ無いだろう。

 クレマンティーヌの心はとっくの昔に折れている。お利巧にも諦めてしまった人間が、前へ前へと諦めず進み続ける人間(ブレイン)に勝てるはずなぞ無いのである。

 

 例え、必殺の一撃をいなされたとしても――ガゼフに一度敗北し、その敗北を糧に立ち上がったブレインにとって、それはわざわざ心が折れるほどの衝撃なぞ齎さない。

 ブレインは必殺の一撃――秘剣・虎落笛を躱された瞬間――衝撃を受けた刹那の内に心を奮い立たせ、当たり前のようにその天性のセンスに従ってあり得ない追撃を放った。

 

(く、そ、が……!)

 

 頸椎に齎された衝撃に白目を剥き、意識が混濁する。クレマンティーヌはここに敗北を喫した。

 

 

 

 ――そして。

 

「……ふう」

 

 確かな手応えを感じ、鞘で吹き飛ばされた女戦士が地面に投げ出されぴくりともしないのを確認して、ブレインはようやく一息ついた。

 ……恐るべき難敵であった。ガゼフやアインズ以来の強敵である。

 もし仮に、アインズから疲労無効の指輪を貰っていなかったら。ガゼフから戦士の能力を強化する指輪を貰っていなかったら。そして秘剣・虎落笛を躱された衝撃から後一瞬でも立ち直るのが遅かったら――間違いなく、ブレインは死んでいただろう。それほどの、恐るべき強者だったのである。少なくとも、ブレインが知る中でこの女戦士以上の技量の持ち主は存在しない。アインズは勿論、ガゼフやガガーランにかつて蒼の薔薇として遭遇した老婆でさえこの女ほどの技量は持たなかった。まぎれもなく、彼女は最強の敵だった。

 

 ……そう、ブレインがクレマンティーヌから勝ちを拾えた理由は唯一つ。ブレインの方が、クレマンティーヌよりほんの少し心が強かっただけに過ぎない。彼女はブレインの上位互換――相性による瞬殺は防げるかわりに、本来は勝ち目の無い相手だったのだ。

 

 だが、ブレインは勝った。故に――けれど。

 

「あぁ……畜生。勝ちたかったなぁ――」

 

 本当にブレインが勝ちたかった相手には、二度とその手は届かない。剣の勝負を続けるかぎり、ブレインは一生、ガゼフには勝てないのだ。既に冥府へ旅立った相手には、現実を生きるブレインの手は決して届かない。

 この目の前の女より、ガゼフは強かっただろうか。いいや、少なくともブレインの記憶にあるガゼフ・ストロノーフという男は、確実にこの女戦士より弱かった。例えあれから時を経たとしても、この女戦士より強いと言えるかどうか、ブレインは断言出来ない。したくとも、理性の部分で否定していた。おそらく――“対人”という意味では、この女戦士の方が確実に強いだろう、と。

 

 それでも、ブレインはガゼフに勝てない。もうどこにもいない相手には、勝てない。

 きっと――この空虚な隙間を抱えて、これからも自分は生きていく。

 

「は――、はは」

 

 その現実に、ブレインは笑った。この隙間は、どのような強敵を屠ろうとも、これからも埋まる事はないだろうと確信して。

 

「……行くか」

 

 刀身を鞘に収め、ブレインは歩き出す。永遠に埋まらない隙間を抱えたまま、これからも彼は前へ前へと歩き続けるだろう。いつか、その勝利を敗北で粉砕されるその日まで――

 

 

 

 

 

 

 約束の日――レイナースはフールーダを訪ねる名目で魔法省へ来ていた。

 別段、それは不思議な事ではない。この顔の呪いを解くために、何度も訪れた場所であり……定期的にフールーダに声をかけた事もあるからだ。フールーダ自身、この呪われた顔に興味を抱いてもいた。一体、どうやったら解けるのかと。

 そういった過去もあって、レイナースが魔法省を訪ねるのはそれほど不思議ではない。ジルクニフも、そこまで気にはしないだろう。

 レイナースは普段通りに見えるよう努めながら、魔法省に勤める者達に声をかけフールーダのもとへ案内させる。急な来訪……ではなく、既に話が通っているのか、慌てた様子は見られない。

 そして応接室まで案内され――許可を得て応接室のドアを開けたそこに。

 

「ああ――お待ちしてました」

 

 帝国最強の老いた魔術師と、漆黒の戦士がレイナースの来訪を待っていた。

 

 

 

「――さて、それでは始めましょう」

 

 既にフールーダに説明しているのか、アインズはフールーダへと巻物(スクロール)を渡す。フールーダはそれを震える手で受け取り、そして――

 

「――――」

 

「…………もし」

 

 震える手で受け取ったフールーダは、それを開くが使う様子が無い。手はぶるぶると震え、息が乱れている事がレイナースにも分かった。アインズはフールーダへ咎めるような声色で声をかける。

 

「えぇ、はい。分かっております。分かっておりますとも……」

 

 震える声で返事をしたフールーダはそれからまた少し沈黙し――遂に煩悩を振り切ったのか、レイナースへと第六位階魔法〈呪詛除去(リムーブ・カース)〉の巻物(スクロール)を使用した。煌く治癒の光がレイナースに降り注ぎ――光の粒子が空気に溶けるように消えていく。

 レイナースはそっと、自らの顔に手で触れた。するり(・・・)と、柔らかい肌の感触がする。手には何も付着しない。いつもの膿が無い。

 あらゆる治癒・解呪の魔法でも解けなかった呪いの膿が、あり得ない高位魔法によって遂に完治を成し遂げる。

 

「おぉ……」

 

 レイナースの顔を見ていたフールーダが、目を見開いていた。フールーダの瞳に映るレイナースの顔……そこには、最早自分でも覚えていなかった失われたはずの美貌がある。

 

「あ、あぁ……」

 

 レイナースはペタペタと両手で自らの顔に触れる。左右の感触は同じで、そこに何の違和感も無い。違和感が無い事が信じられない。

 間違いなく、彼女の呪いは解けていた。

 

「ふむ……なるほど。非常に興味深い」

 

 レイナースの顔を同じように見つめているアインズが、小さな声で何事か呟いている。

 

職業(クラス)構成に必要なフレーバーも消えるのか……なるほど。しかしバッドステータスが無効化されたわけだが、レベルはどうなっているんだ? カースドナイトの習得レベルは消えてしまったのか? いや、それともそのまま? あるいは別の職業(クラス)に辻褄合わせに入れ替わっている?」

 

 ぶつぶつと呟いているが、レイナースには気にならない。まるで興味が起きない。レイナースは、ひたすら自らの顔の感触を確かめるのに必死だった。フールーダに至っては、燃え尽きた巻物(スクロール)を名残惜し気に見つめていてアインズが何か呟いている事にも気づいていないだろう。

 

「さて……」

 

 パンパン、と手を叩く音にレイナースとフールーダの視線が動く。アインズが手を叩いて注目を集めたのだ。

 

「幾つか質問があるのですが、訊ねても?」

 

「ええ。何でも言って下さい」

 

 レイナースの顔を見つめて告げるアインズに、レイナースは頷く。見えない筈の兜に隠された視線が、レイナースを興味深げに見ている気がして居心地が若干悪い。

 

「魔物に呪われてから、何か変化はありましたか? 日常の変化、ではなく戦闘で。例えば戦っている相手の傷が治り難かったりとか、アイテムを手に持つと勝手に壊れたりとか」

 

 レイナースは少し考えて――首を横に振る。そういった覚えはまるで無かった。レイナースの返答に、アインズは一人納得している。

 

「なるほど。……まあ、本当にカースドナイトなら今身に着けている装備品が壊れるか。いや……習熟レベルが低レベルだから常時発動型特殊技術(パッシブスキル)が発動していない、という事も考えられる。そもそも低レベルで習得出来る職業(クラス)ではないし、俺の知っているカースドナイトとは別という考えも――」

 

 ぶつぶつと小声で何事かを呟いているが――アインズは再びレイナースを見て、そしてフールーダを見た。

 

「アンデッドを一体召喚していただけますか?」

 

「ええ、構いませぬ」

 

 フールーダがスケルトンを一体その場に召喚する。アインズはそれを指差し、レイナースへ告げた。

 

「アレを最大火力で破壊していただけませんか?」

 

「? 別に構いませんけれど……」

 

 レイナースは席を立ち、二人が見守る中で自分が使用出来る攻撃用の信仰系魔法、武技を重ねていく。フールーダが何も言わないのだから、別に多少応接室が散らかるくらい構わないのだろう。

 そして――

 

「――ハァッ!」

 

 レイナースは自らが行使出来る最大火力で、スケルトンを斬り伏せた。過剰過ぎる攻撃がスケルトンという低位アンデッドを粉砕し、そのまま床に罅を入れる。

 レイナースは四騎士の中で攻撃力最強の騎士だ。その最大火力は他の三人を上回る。だから――

 

「――――え?」

 

 レイナースは唖然とした。明らかに、自分が予測した結果とは違う結末を描いた現実に。そして呆然としたレイナースにアインズから声がかけられる。

 

「どうでした?」

 

「あ、え……?」

 

「以前と攻撃力に差はありましたか?」

 

「――――」

 

 そう……アインズが告げた言葉通り、レイナースは首を傾げる。明らかに、以前より攻撃力が落ちていたのだ。まるで、呪いが解けたために何か別の物も無くしてしまったように。

 

「……以前より、火力に差がありますわね。今の方が攻撃力が落ちていますわ」

 

「なるほど、なるほど――やはりカースドナイトの職業(クラス)は失われたと見ていいな。だとすると、他に別の職業(クラス)を取得したのか、それともそのまま失われて弱くなったのか……ふむ、興味深い」

 

 ぶつぶつと呟くアインズ。レイナースはフールーダと顔を見合わせた。フールーダもまた、レイナースが弱体化した事に疑問を抱いているのだ。

 

「では、次はこの攻撃を防いでみて貰えませんか。……手加減しますので、防御して下さい」

 

「え?」

 

 アインズは立ち上がると、応接室に何故か用意していたかのようにあった木製の杖を手に取る。そして、困惑するレイナースに向けて杖を振り下ろした。

 

「――――ッ!」

 

 アインズの先程の言葉の内容を覚えていたレイナースは、両腕の手甲でそれを受け止める。……確かに手加減していたのか、覚悟していたほどの痛みは無い。……いや、無さ過ぎる。

 

「…………? 防御力が上がっている?」

 

 レイナースが呆然と感想を告げると、アインズはまたもや一人頷いていた。

 

「――つまり、カースドナイトを失ったことで攻撃力は下がった。しかし、防御力が上がったということは、元々あった職業(クラス)のレベルが代わりに上がったか、あるいは別の職業(クラス)を習得したということだな。……となると、やはり辻褄合わせが起きたと見るべきか。……ティアとティナの件といい、やはりユグドラシルとは職業(クラス)の習得条件が変化しているんだな」

 

「あ……あの?」

 

 先程から何を言っているのか分からず、レイナースは声をかける。しかし、アインズは思考の海に沈んだきり戻って来ない。

 

「呪われた神官戦士、という設定が無くなった以上、カースドナイトの習得レベルは失われる。その代わり、本来習得するはずだった職業(クラス)レベルを得ることになる――と、そう見るのが妥当だな。……ということは、俺の習得している職業(クラス)も変化させられる? 設定さえ遵守すれば――逆に言うと設定から外れた行動を取れば、失って弱くなることもあり得るか? いや、プレイヤーである俺と現地民ではそもそも世界観(ルール)が違う可能性もある――検証が必要だな」

 

 アインズは顔を上げ、再びレイナースを見る。

 

「――――」

 

 ぞわり、と背筋を何かが這った。何か、致命的な失敗を犯した気がする。

 

 ――自分は、そもそもこの漆黒の戦士を頼って呪いを解くべきではなかったのではないか、と。

 

 今更ながらに、レイナースはそう悟った。

 

「……気になることがあると他のことを忘れるのは俺の悪い癖だな、あと独り言も」

 

 長年一人でよく独り言を言っていたせいだろう、とアインズはそう呟いて――

 

「さて、それでは実験(・・)を始めよう」

 

 ――――。

 

 

 

「――ありがとうございました。では、よろしくお願いします」

 

「ええ。こちらからもお礼を言わせて下さいな。……見つけてくれて(・・・・・・・)ありがとうございますわ」

 

 レイナースとフールーダに朗らかに別れを告げ、アインズは魔法省を去る。ある程度進み魔法省を背にしたアインズは、溜息をついた。

 

「はぁ……」

 

 予想以上にキツかった(・・・・・)。レイナースの件は中々に興味深かったが、それでも今感じる疲労に見合ったかと言えば――

 

「いや、間違いなく見合っている」

 

 アインズはそう納得する。そう、これは必要な実験だった。むしろここで分かってよかったと言える。いざと言う時に魔力が足りませんでした、では話にならないのだ。

 ――そう、アインズは彼女達に魔法をかけた。ユグドラシルでは多少のログ操作で済んだ記憶を操作するという魔法――しかし、この現実となった異世界では、魔力の消耗が酷くごっそり(・・・・)といったのだ。今アインズが感じる疲労感は尋常ではない。この異世界に来て初めての感覚だった。まさに、精も根も尽き果てたと言うべき状態である。

 

「まさか、ほんの数日前の記憶を操作するだけでMPが空になる危険性があったとは……」

 

 やはり、慎重に行動しなくてはならないと改めて強く認識する。幾ら気になる事があったからと言って、今後は二度とこのような軽率な真似はするまい。あの巻物(スクロール)を邪神教団で手に入れた物だとか、自分がレイナースとフールーダの間に証人としていただけだったとか、そのような些細な記憶改竄にここまで疲れるのだ。この後重要な戦闘が起きると思うと、この疲労は致命的だ。疲労無効のアンデッドがここまで“疲れた”と思うのだから、間違いない。

 

「やはりある程度魔法の実験はするべきだな。……あのドラゴンは惜しかったか」

 

 この異世界に来た頃に遭遇したグリーンドラゴンを思い出す。アレからはある程度の知識も貰ったが、魔法の実験にも協力(・・)してもらうべきだったかも知れない。今となってはもう遅い。

 

「……まあ、過ぎたことだ。やるべきことはまだある。ホテルに帰るか」

 

 宿で待っているイビルアイ達を思い出し、アインズは足を急がせる。

 

 ……先日の邪神教団の件は、もうアインズ達の出る幕は無い。ジルクニフも相当お冠だ。あの集会に参加していた貴族達は残らず粛清されるだろう。八本指もジルクニフに叩き潰されるに違いない。そして、人事の大異動も起きるに違いなく、帝国も少しばかり忙しくなる。カースドナイトではなくなったレイナースだが、それでも実力はあるのだから職を失う事は無いと思うので、アインズはもう彼らに対しては放っておく事にした。

 

 ――そう、心残りは後一つだけだ。

 

「……ラキュースは、ラナーに会いに行っているはずだったな」

 

 友人の愁いを晴らしたラキュースは、喜び勇んでラナーに会いに行った。アインズはそれを思う。

 

「……そう、友人は大事にするべきだ。友達(・・)とは、掛け替えのないモノ(・・・・・・・・・)なのだから」

 

 アインズ・ウール・ゴウンの友人達を脳裏に描き、アインズは呟いた。

 

 

 

 

 

 

「それじゃあ皆でカンパーイ!!」

 

 ラキュースの満面の笑みに、イビルアイは苦笑する。この場にいるのはかつての蒼の薔薇の面子だけで、アインズやブレインはいない。ラキュースは誘ったらしいのだが、二人共に断られてしまったらしかった。おのれラキュース。ブレインはともかく、アインズくらい誘って欲しい。

 

「童貞の仇も討てたし、あの王女さんの生活も悪いもんじゃないっつうのも分かったからな」

 

「ええ、ええ! 正直、ここの皇帝のことは一生好きになれないだろうけど、でもラナーとクライムが幸せならそれでいいの!!」

 

「元ボス、久々のテンション爆上げ」

 

「鬼元リーダー、羽目外し過ぎて全裸で廊下に転がる事件発生?」

 

「洒落にならん。やめておけお前達」

 

 その想像は洒落にならない。このラキュースのテンションを見ていると、本当に朝に廊下で転がっていそうな気がする。

 

 ……しかし、まあ。ラキュースが笑顔なのは悪くない。トブの大森林の探索中は元気だが、ふとした拍子に暗い顔をしている事がよくあった。ラナーの事が、ずっと尾を引いていたのだろう。

 だが、その憂い顔ともおさらばだ。二度と、彼女があのような暗い顔をする事は無い。かつてと同じ、太陽のような満面の笑みで自分達を照らしてくれるだろう。

 そう、これからの自分達の未来は明るいと信じよう。アインズとブレイン、新たな仲間と共に皆が老いるその日までこの輝かしい冒険は続くのだ。イビルアイにとって、その間の冒険譚はきっと忘れられないモノになるに違いない。

 

(ま、まあ。うん。贅沢を言えば……アインズの老後の世話とか、最期とか看取らせて欲しいとか、そういう思いはあるんだが、うん)

 

 アインズの最後の女になれれば、これほど幸福な事は無い。きっと自分にとって忘れられない思い出になる。

 

(そのためには猛アピールだな! もっとこう、スキンシップを多くしてだな)

 

 イビルアイは脳内でアインズに対するこれからの行動を考える。自らの絶望的ぺたん属性を忘れている辺り、実に乙女であった。

 

 そうして悶々とあれこれ考えていたイビルアイは、中心でガヤガヤと騒がしくしているラキュース達の声を聞きながらふと視線をずらす。そこからは星空が見えた。外気を入れるために開け放っていた雨戸である。あまり騒がしくすると嫌がられるだろうと思い、イビルアイは雨戸を閉めるために壁に近寄った。

 

「……うん?」

 

 イビルアイは人間離れした動体視力と夜の闇さえ見通す種族特性によって、それを発見する。漆黒の全身鎧(フル・プレート)……アインズだ。

 

「……?」

 

 イビルアイは首を傾げた。何故、アインズが外にいるのか分からない。周囲を見るが、ブレインがいるわけではない。……男同士で飲みに行くというわけではないらしい。

 だからこそ、イビルアイはますます分からなかった。こんな夜中に、アインズはどこに行くつもりなのだろうか。

 

「…………」

 

 イビルアイはキョロキョロと周囲を無駄に見回し、わざとらしく咳を一つすると騒がしくしている四人を放ってこそこそと部屋を抜け出そうとする。しかし、それを見咎める目敏い女(ガガーラン)

 

「お? イビルアイ、どこに行くんだ?」

 

「……少し、夜風に当たってくるだけだ」

 

 イビルアイはそうガガーランに告げると、これ以上誰かに声をかけられる前に早足で部屋を去って行く。廊下に出て喧噪をドアの向こう側へ封じ込めると、イビルアイは内心で誰かに言い訳するように呟きながら早足で廊下を歩く。

 

(こ、これは断じて尾行ではないぞ……! ……そ、そう! 仲間が怪しい動きをするから、もしや誰かに脅されているのではないかと心配になってだな……! 断じて! そう、だ・ん・じ・て! アインズが私に内緒で女と逢引するのではないかと疑っているわけではない!!)

 

 イビルアイはブツブツと呟きながら、漆黒の戦士を追いかける。不可視化の魔法をかけ、周囲から姿を隠すがアインズには見破られる可能性があるため、更にこそこそと障害物に身を隠しながらアインズの後をつけていく。

 

(どこに向かっているんだ……?)

 

 アインズの後をつけながら、イビルアイは首を傾げる。……確実に、女のもとへ向かっているという風ではない。むしろアインズは繁華街どころか街中を外れていく。暗がりへ、人目を避けるように。

 

「…………」

 

 人目を避けるように歩くアインズに、イビルアイはごくりと喉を鳴らす。イビルアイはアインズの後をつける。街中を外れ――それでも進み、遂にはアインズが辿り着いた場所は――――

 

 

 

 ――夜も更けたという頃なのに、来客があった。不躾な訪問者にそれでも嫌な顔一つせずに、ここへ通すように告げる。従者は嫌な顔をしたが、安心させるように微笑んだ。……彼がそのような事をする人物に見えますか、と。

 従者はその言葉に首を横に振って、困ったような表情を作りながらも自分の言葉に頷いて訪問者を呼んでくる。その、まだいつもと違って不格好な姿を微笑ましく思いながらも頭の中で色々な思考が入り乱れていた。

 だが、幾ら考えても答えは出ない。訊ねた理由(・・・・・)は何となく分かる。だが、どうやって見破られたのか皆目見当もつかなかった。自分はどこか、しくじっただろうか――と。

 

「――ようこそいらっしゃいました」

 

 しかし、訪れた者にそのような様子は見せない。いつも通りの優しい、慈悲深いと見る者に思わせる表情で、ラナーはその男を歓迎した。

 

「アインズ・ウール・ゴウン様」

 

 漆黒の戦士は、夜の闇を引き連れているかのようにゆらりとそこに立っていた――

 

 

 

 

 

 

 数少ない、実家(・・)から持ち込んだお気に入りの茶器を使い、紅茶を振る舞おうとするが止められる。それに嫌な顔を一つ見せず、ラナーは微笑んで茶器の用意を止めてアインズの対面の椅子に座った。実家とは比べるべくもない、けれど一般から見れば高級な若干座り心地の悪い椅子に。

 

「――それで、本日は夜分遅くどのようなご用件でしょうか?」

 

 ラナーの問いに、アインズは少しの無言の後――口を開いた。その声は異様に沈んでいる。

 

「ラナー」

 

「はい」

 

 深い、底の見えない谷間を覗いているようだ、と思った。敬称を略されたとしてもまるで気にならない。

 

「友人は、大切にするべきか?」

 

「――はい、勿論です」

 

 ラナーは微笑みながら答えた。大切だ。友人は大切だ。ラキュースは大切だとも。

 あの女ほど便利な人間は(・・・・・・・・・・・)そういない(・・・・・)

 

 ラナーの微笑みを見ながら、アインズは静かに――ぞっとするほど静かに告げる。

 

「そうか……それがお前の答えか」

 

「ええ、ゴウン様。友人は大切にするべきですわ。私はラキュースを大切に思っています」

 

 こうして今も、便利に使われてくれるから。

 だから――本当に分からない。自分に落ち度は無かったはずだ。断じて、自分はそのような様子は見せなかった。

 けれど――アインズは確信している。ラナーという女は、ラキュースという友人を本当の意味で愛していないのだと。

 それがいつバレたのか……ラナーにはそれが分からない。

 

「ふ――はは――は、は」

 

 アインズはくぐもったように笑い、ラナーはそれを見つめる。微笑みは崩れない。

 

「では――もう一度聞いておこう」

 

 例え目の前にいるのが漆黒の戦士なのではなく、怪しい仮面を被った漆黒のローブを羽織ったナニカ(・・・)に変貌しても、ラナーの微笑みは崩れなかった。

 

「ラナー……お前はラキュースを大切にしているのか? 一般的な意味で? 隣人を愛するように――お前はラキュースを大切にしているのか?」

 

 深淵から這い出てきたような魔術師が、ラナーに問う。ラナーは相変わらず微笑みを浮かべたまま――決して誰にも語る事の無かった真実を口にした。

 

「ええ。大切にしていますわゴウン様――だって、ラキュースは便利でしょう?」

 

 本来口にすべきではない無情な現実を、ラナーは今目の前の魔術師に告げたのだ。懺悔室で神父に懺悔を告げるように、ではなく――世間話をするように気楽に。

 嘘は吐けない。これは恐ろしい生き物だ。嘘を吐くのは非常にまずい事態を呼び込む。ラナーはそんな、唾棄すべき感情でもってようやく真実を口にした。

 

「――昔から、そうだったんです。私に理解出来ることが、どうして他人に理解出来ないのか――と」

 

 ラナーは目の前の魔術師に語る。幼い子供時代。聡明だった――聡明であり過ぎた自分と、愚鈍過ぎる周囲。自分の語る言葉が、他人に理解されない絶望。猿の群れの中で一人生活しているようなおぞましい孤独感。

 だが、ある日彼女は出会ったのだ。可愛い子犬。異様なものを見る目ではない。愛くるしい少女を見る目でもない。色々な感情を捻じ込み、混ぜ込んだような複雑怪奇な感情の持ち主――ラナーにとって、知らない反応を見せるもの。

 即ち、人間である。

 

 ――彼女はその人間の瞳に見つめられて、ようやく息が出来るようになった。

 

 この、醜く劣った生物共の中でも暮らしていけるようになった。

 彼女の世界は、クライムだけで完結した。

 

「私の世界はそれが全て。クライムと私の幸せな生活の役に立つから――ラキュースとは友人関係でいるのです。でなければ、クライムの傍に女なんて一人も近づけたくありませんわ」

 

 ラナーはそう告げて、そして逆にアインズを観察するように見つめる。仮面の奥に隠れる瞳を見つめるように。

 

「――そして、ゴウン様。私はこの場に貴方が訪れたのを不思議に思っていました。この時間帯、この場に一人でやって来る理由を幾つか考えましたが――それでも、一番低いと思った理由を一番高い確率だと思いました。そう悟ったのです」

 

「…………」

 

「貴方は、私の本性を見破ったのだと」

 

「…………」

 

「それを不思議に思っていましたが……その姿を見てようやく分かりました。貴方は戦士などではない。……貴方は、魔法詠唱者(マジック・キャスター)だったのですね」

 

 それも、ただの魔術師ではない。おそらく想像を絶するほどの凄腕だ。その腕前は、間違いなく逸脱者フールーダさえ超えるだろう。

 でなければ、説明がつかないのだ。もし、こうしてラナーの本性を容易く見破るような魔法をフールーダが使えるのだったならば、帝国はもっと巨大で、恐ろしい大帝国であっただろう。

 ――そうでない理由は一つ。フールーダの使う第六位階魔法にはそういった魔法はなく、更に上の位階にその常軌を逸した魔法は存在するのだ。

 そして、目の前の男はそれを使える怪物である――そうでなければ説明が出来ない。ならばこれこそが正解だろう。

 

 ……要するに、運が悪かった。ラナーは交通事故に遭ったようなものである。こんな恐ろしい怪物が、よりにもよって自分の周囲に現れるなんて。

 

「ラナー……『黄金』よ」

 

「はい」

 

「……お前は皇帝を、ラキュースを、あらゆる周囲を利用してこのような事態に収まるように、その悪魔的頭脳で計画した。あの少年が死んだのは偶然でも、その後の展開は何一つお前にとって偶然ではない。お前は最初から――皇帝の動きを、ラキュースの動きを読んだ」

 

「はい」

 

「最初から、お前は帝国に移った八本指の行動を読んでいた。あの邪神教団の存在にも気がついていた。――お前は、知っていながら見過ごしたのだな。自分達には関係の無いモノとして(・・・・・・・・・・・・・・・)

 

「その通りですわ、ゴウン様。クライムが殺されなければ、私は彼らには興味もありませんでした」

 

 そう、ラナーはこの帝国に移り住み、ジルクニフからある程度の状況を教えられた時点で、この帝国に巣食う邪教集団の存在にも気づいていたし、現在自治領となった王国を襲っている絶望にも気づいていた。クライムを殺した犯人も、決してただの通り魔ではない事なぞすぐに気がついた。

 しかし、ラナーは決してそれを悟らせなかった。

 邪教集団に殺される民衆に興味はなく、帝国に巣食う邪悪にも興味は無い。クライムだけが、ラナーの全て。

 

 これが黄金のラナーの正体。彼女は慈悲深い聖女なぞではなく――自らの欲望で人を喰らう魔女だった。

 

 ……きっと、アインズにはラナーの何かに引っかかるモノがあったのだろう。ラナーを魔法で調べると言っても、最初の切っ掛けがなければここまで深く調べようとするまい。ラナーの邪悪な一面を知るまで深くなど。

 

 アインズにはきっと、ラナーの何かが致命的に引っかかったのだ。

 それをラナーは知る事が出来ないと言えば、とても残念だった。これからの参考にしたかったのに。

 

 そして、ラナーの邪悪を知ったアインズは、再び口を開く。

 

「……では、最後に三つだけ質問をしよう。はい(イエス)いいえ(ノー)か、正直に答えるがいい」

 

「……ええ、どうぞ」

 

 ラナーは崩れぬ微笑みで、魔術師を促す。

 

「お前は、多くの命をわざと見過ごしてきた」

 

ええ(イエス)

 

「お前は慈悲深い聖女なぞではなく、あらゆる命を食い散らかす魔女だった」

 

ええ(イエス)

 

「お前は――ここに敗北を喫した」

 

ええ(イエス)――その通りです、ゴウン様。私は貴方という常軌を逸した魔術師に、遂に正体を見破られました」

 

 けれど。

 

「私は敗者です――ですが、貴方も勝者などではない」

 

「――――ほう? 何故だ?」

 

「簡単な話ですわ」

 

 興味深げにラナーを見るアインズに、ラナーは微笑みを崩さない。今までの観察眼。そして、今ここに正体を見せたアインズの様子。以上をもって、ラナーはアインズに告げた。

 

「だって、貴方――」

 

 

 

「――――ぁ」

 

 気づけば、あの魔術師は去っていた。目の前のどこにも、あの魔術師は存在しない。

 

「……どうやら、難は逃れたようね」

 

 アインズが去った事を確信し、思わずそう口から言葉が出るがすぐに口を閉じる。どこで見ているか分からない怪物だ。口は閉じていた方が賢明だろう。

 

 ……元より、アインズがラナーを殺す確率は低いと見ていた。アレはそういった短絡さとは無縁の生き物だ。ラナーの正体を見破り、告げて釘を刺す(・・・・)事くらいはしても、余程の事でもないかぎりはラナーを殺そうとは思わない。

 それよりも、新しい情報の方が大切だ。あの怪物は友情というモノを大切にする生き物。過去に何があったかは知らないが、ラキュースに対する干渉は必要最低限に留めた方がいいだろう。あまりラキュースを利用すると、今度はもっと大きな釘を刺される可能性がある。

 

(まあ、やりようは幾らでもあるのだけれど……)

 

 当然、それに対する策も幾つか思いつくがどれも実行に移すのは躊躇する。どこまでアインズが干渉するか、先にジルクニフで実験した方がいい。ただ、現在ジルクニフも自国の膿み出し(・・・・)で当分忙しいだろうから、しばらくは大人しくする必要がある。

 

 とりあえず、落ち着くために深呼吸を行う。そのタイミングを計ったように、ラナーのもとへ更なる客が訪れた。

 

「……あら?」

 

 その人物を見て、ラナーはいつも通りの優しげな微笑みを浮かべる。先程までの事なぞ頭から放り出した。ノックをしないのはいつもの事なので気にならない。そもそも、ラナーが自分から言った事だ。貴方は、ノックなんてしなくていい――と。

 

「クライム、どうしたのですか?」

 

 ラナーはいつも通り、クライムに笑みを向ける。クライムは、クライムは、クライムは――顔を、伏せて。

 

 

 

 ぞぶり(・・・)と、何かがラナーの腹に突き立てられた。

 

 

 

「――――」

 

 ラナーは呆然と、その感触に自らの体を見下ろす。煌めく銀色の輝きが、傷一つ存在しなかったラナーの腹部にめり込んでいた。そこを中心に、あらゆるものが真っ赤に染まる。

 

「――――」

 

 口から空気が抜ける音がすると同時に、ずるり(・・・)と真っ赤に染まった銀色の刃がラナーの腹部から引き抜かれた。ラナーはその場に糸の切れた操り人形のように座り込み、腹部を反射的に手で押さえる。

 腹から出た出血は、全く止まらなかった。

 ラナーは急激に身体から抜け出ていく血液から視線を逸らして、顔を上げる。そこには――

 

 かつて、雨の日に出会った、あの日の子犬がそこにいた。

 

「――――」

 

 無邪気に尊敬を向ける瞳。異様なものを見る瞳。可愛いものを見る瞳には慣れている。それは凡百の反応で、幼き彼女の心を揺り動かす事は出来ないものだった。

 だが、あの雨の日に出会った子犬は違う――彼が自分に向けたのは嫌悪であり、驚愕であり、愉悦であり、感動――あらゆる人間の要素を備えた、ラナーにとって未知の反応を返す本物の人間そのものだった。

 それが、今。再びラナーの前に顕現している。今となっては失われたはずの、クライムの中から取り除かれたはずの感情が、ラナーの前で剥き出しのままに現れていた。

 

「――――ぁ」

 

 悟る。クライムは、ラナーとアインズの会話を聞いていたに違いない。普段ならばそんな粗相などしないはずのクライムが、何故そのような事をしたのか幾つか理由が浮かび上がるが――そんなものは今更関係無かった。

 

 そう、確かなものは一つだけ――――クライムはあの日の感情を取り戻し、今も震える手で、ラナーを刺し殺したという事だけだ。

 

「――――」

 

 『黄金』なんて嘘だった。彼女はそんな綺麗な生き物では無かった。彼女はもっとおぞましい、恐ろしい生き物だった。あの日見た太陽は、太陽なんかじゃなかった。

 ラナーがクライムにかけた魔法は、呆気なく消えてしまったのだ。

 

 ……果たして、この時クライムの中に渦巻いていた感情は何なのか。果たすべき義務を放棄していた王女。嘘で塗り固められた虚像の女。あらゆるモノを自分と愛する男のために見捨て、利用してきた魔女。

 それを前にしたクライムの中に渦巻いていたモノは、果たして何であったのだろうか。アインズのような優れた魔法詠唱者(マジック・キャスター)ではないラナーに、正確なところは分からない。

 

 ただ、クライムはその事実に耐えられなかった。それを前にして改めるように告げられる心の強さも、それから目を逸らして盲目に生きていく心の弱さも、どちらもクライムは持っていなかった。

 彼は、愛する女の本性が化け物であった事実にも、自分なんかのために多くの命が失われた事実にも耐えられない。そう――彼は当たり前に、人間(・・)だった。

 

 ラナーの本性を知って、それでも二人で生きていこうと思えるほど――クライムの心は強くも、弱くもなかったのだ。

 

「――――」

 

 だが、そんな事はラナーにはどうでもよかった。

 だって、今、目の前にあるのだ。

 あの雨の日に見た、彼女が焦がれた複雑怪奇な感情の瞳。嫌悪が、驚愕が、愉悦が、感動が――――思慕(・・)が込められた、あの日見た人間が、目の前にいる。

 その事実の前に――愛する男に刺し殺された程度の痛みなぞ、一体何の苦痛があるというのだろう。

 

「――クライム」

 

 ラナーは瞳を細める。太陽を目にしたように、焦がれるように。

 世界で最も美しく、最も手の届かない光へ。彼女は血濡れの手を伸ばして――――

 

 

 

 ――――そして、黄金の女は血の海に沈んだまま二度と動かなくなった。

 

 彼女が目を覚ます事は二度と無いだろう。彼女の生命力では死者蘇生の魔法に耐えられない。当たり前に灰となって消えていく。

 だから、その女が目を覚ます事は二度と無い。

 

「…………」

 

 その凶行を成した男は、呆然と自分の両手を見る。そこには震える手があり、血濡れの刃物が握られていた。

 

「……は、はは」

 

 乾いた笑いが漏れる。何かが瞳から溢れ、両頬を濡らすが気にならない。それは、きっと自分が抱いてはいけない感情だから。

 

「……ぐっ……う、うぅ……」

 

 吐き気を催しながらも、クライムは震える手に力を込めた。まだ、最後の仕事が残っている。

 

「――――」

 

 血濡れの刃を見ながら、クライムは色々な事を思い出す。あの雨の日、彼女と出会った時を。それからの苦難と、それでも輝かしかった王城での生活を。楽しかった、まだ何も知らず幸せだったあの日々を。

 だが、それも今日で終わりだ。

 自分と彼女のために失われた、多くの命に贖罪を。さあ――二人の罪を清算する時がやって来た。

 

「――――」

 

 クライムは自らの首に刃を当てる。一度、深呼吸をして――未だ愛する女を視界に収めた。それでも美しいと思える、黄金の女を。

 

 それを最期まで視界に収めたまま、クライムは両手に力を込めて一気に横へ振り抜いた(・・・・・)

 

 

 

 

 

 

「…………」

 

「……おい、ラキュースはどうしたんだ」

 

 顔を伏せて消沈した様子のラキュースを見たブレインが、アインズに訊ねる。アインズは「いや……」と言いにくそうに言葉を濁さざるを得なかった。

 ガガーランやティアとティナが、ニヤニヤしながらラキュースの姿を見ている。

 

 ――ラナーの元から宿泊施設へ帰って来た時にアインズが見たのは、廊下で酒瓶を抱えて寝言を呟いているあられもない(・・・・・・)姿のラキュースであった。

 

(完全に酔っ払いだったなーあれは)

 

 揺さぶっても全く起きないため、仕方なく抱えて彼女達のいる部屋へ向かい――ドアの開く音で起きた彼女達はラキュースと彼女を抱えたアインズを見て――爆笑した。

 おそらく、他の三人も酒が入っていたのだろう。それで遠慮なく大笑いしたに違いない。……結果。朝、目を覚ましたラキュースはずっとあの様子だ。

 

 ……昨晩の彼女達の酒宴は、きっと心配が晴れた反動でもあるのだろう。アインズはそんなラキュースの様子に複雑な感情を禁じ得ない。

 

 ――始まりは、些細なものだった。簡単な疑問だった。

 アインズは友情を大切にしている。今でも、アインズ・ウール・ゴウンの思い出を宝のように思っている。

 だからアインズは疑問だったのだ。――黄金のラナー。慈悲深く、友情に篤いその女が、どうしてラキュースを死地に向かわせるような事をするのかと。

 クライムを蘇生するように頼む。これは分かる。だが――犯人を見つけろとはどういう事だ。もしかすると、その犯人はラキュースよりも強く、ラキュースも殺されるかも知れないのに。

 ラキュースの強さを信頼していた、と言えば聞こえはいい。だが、彼女達がしきりに「ラナーは天才だ」と褒めていた言葉が頭から離れず――アインズは少しの罪悪感と共に、ラナーの様子を覗き見た。

 

 そうしてラナーの様子を覗き見たアインズが目にしたのは――鏡の前で笑顔の練習をしている、異様な女の姿だった。

 

 そこから、アインズはラナーの様子を徹底的に探った。たった一人だけの時の行動を。クライムの前で早変わりする異常な姿を。ラナーという女のおかしさを見続けた。

 

 ……そして、昨晩あの女はアインズの前で本性を見せた。アインズの前で演技をする不利を悟ったのか、何なのか――正確な所は分からないが、ラナーはアインズに告白したのだ。

 

「――――」

 

 その時、ラナーから指摘されたある事実を思い出し、アインズは不快感を覚える。あの女は、確かに凄まじい慧眼の持ち主であったと、そう思い起こして――

 

「――――」

 

「……イビルアイ」

 

 背後から、どすっとアインズにぶつかってきた衝撃に、アインズは立ち止まって背後を見る。そこにはイビルアイが小さな体躯でアインズの背中に張り付いていた。

 

「どうした?」

 

 アインズはそんなイビルアイを不思議に思い、訊ねるがイビルアイは何も言わない。ただ、アインズの背中に張り付いているだけだ。

 強く。強く――まるで暖かさを分けるように。アンデッドの体を冷たい鎧に押し付けている。

 

「アインズ……今、楽しいか?」

 

 イビルアイは仮面の顔を見上げて、アインズを見つめる。アインズはイビルアイの様子に首を傾げながら――朗らかに、確信をもって言えた。

 

「ああ――楽しいとも」

 

 この冒険が。この未知が。アインズは楽しい。それは決して嘘なんかではない。イビルアイ、ブレイン、ラキュースにガガーラン。ティアとティナ。仲間達との冒険は――確かに輝いているのだと、アインズは確信をもって告げられるのだ。

 

 そのアインズの言葉を聞いて、イビルアイは笑った。仮面で見えないが、アインズはそう思ったのだ。

 

「そうか――。きっと、もっと、ずっと楽しくなる」

 

 イビルアイの言葉に、アインズは頷く。

 

「ああ、そうだな――」

 

 きっと、これからもっと楽しくなる。この日々は、輝いているのだと。アインズもまた、(ヘルム)で覆われた顔で笑った。

 

「さあ、エ・ランテルへ戻ろうか」

 

「ああ!」

 

 ラキュース達が急に立ち止まって距離の開いたアインズとイビルアイを待つために、立ち止まっている。その四人に手を振って、二人は朝陽を背に待っている仲間達の姿を追った。

 

 

 

 

 




 
ブレイン「双龍閃とか言った奴、屋上」

アインズ「邪神教団とか怖いですわー」
ラナー「ですわー」
ジルクニフ「これやるわ(つ鏡)」
 

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