夕暮れに赤く染まる街並み。
長い影を道に落として、一人の少女が歩いている。
美樹さやかだ。
いつものような、元気に溢れすぎている姿ではない。
視線を下に落とし、漂うように力なく、ひどくゆっくりと足を進めている。
あれほどまでに美しい音楽を奏でるソレントに、かつて地上を滅ぼそうとした過去があったなんて。
正義の戦士を体現する存在と思っていたジークフリートが、
たとえ仲間の仇であったにせよ、すでに改心したソレントや、彼を守ろうとした自分にまで拳を向けようとしたなんて。
そして、巴マミ。
憧れの魔法少女。
魔法少女になれて、やっとその傍らに立てると思っていたのに。
彼女ははるか先、神闘士たちの域まで歩み去ってしまっていたなんて。
いくつもの出来事に、彼女の心は押し潰されていた。
恭介と話がしたい。
何もかも忘れて、恭介と過ごす幸福に身をゆだねたい。
彼女の足は、無意識のうちに恭介の病院へと向かっていた。
ようやく病院のすぐ近くまで来たさやかの足が止まる。
視線の先、病院から出てくる一人の少女。
見覚えのある少女。
幼い頃からいつも一緒に過ごしてきた、自分の親友。
軋んでいた心に、決定的な楔が撃ち込まれる。
「あぁ、そういうこと、だったんだね。。」
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天まで届くような巨大な滝。
中国、五老峰、音に聞こえた廬山の大瀑布。
滝を望む高台へと続く小道を歩く、少年と少女の姿があった。
轟音と水煙に覆い尽くされた道を、ゆっくりとした足取りで、時折まるでためらうように足を止めながらも歩んでいる。
細身ながらも屈強な少年。小柄ながらも凛とした少女。
高台には、一人の老人が座している。
微動だにせず、ただひたすらに瞑想を続けている。
廬山の瀑布の威容も、老人が放つ圧倒的な気の前ではそよ風のようだ。
老人にゆっくりと近づく、二人。
老人の眉がかすかに動く。
数日前から日本に懐かしい小宇宙が現れたことに、気が付いてはいた。
長い生の中で、片時も忘れたことのない、忘れられるわけのない、大切な存在。
「あぁ、そういうこと、だったのじゃな…」
「童虎! ずいぶんと縮んたんじないか?」
「テンマ、そういうお前は昔と何も変わらんではないか」
はるか243年前、毎日のように聞いていた声が耳に飛び込んでくる。
かたや、前聖戦から243年の時を生き続けた自分。
かたや、前聖戦で時の止まった少年。
平静を保とうとしても、高ぶる感情は抑えきれない。
「童虎、243年もの永きにわたる過酷な務め、ありがとうございます…」
聞き覚えのある声がまた聞こえてくる。
前聖戦、ハーデスを追って空の彼方へ去っていった彼女たち。
まるで昨日のことのように、その光景が鮮明に浮かぶ。
堰を切ったように溢れだす感情。
深い皺の刻まれた頬をつたう、一筋の涙。
「おぉ… 我々の女神よ…」
老人は、顔をあげ、目の前で膝をついて自分を見つめている少女へと視線を移す。
「なんともったいなきお言葉。これまで保てたのは、貴方さまから託されたからこそ。それに、聖域で230年にわたって教皇の務めを果たしたシオンに比べれば…」
「あなたたち二人にばかり、重荷を背負わせてしまいましたね」
「貴方さまがハーデスから守り、この時代に繋げた地上。その先を貴方さまに見て頂けて、これほど嬉しきことはありませぬ。シオンもきっと喜んでいることでしょう。それに、聖域にはシオンや当代の聖闘士たち、そして傍らでは紫龍たちが私を支えてくれておりました」
「紫龍…龍座の青銅聖闘士、彼がそうなのですね。頼もしい立派な聖闘士に育ちましたね」
「なんの、…………」
「そういえば…………」
243年間秘めてきた語り尽くせぬ想い。
これから先、歩みを止めることになる自分達の意思を継いでくれた聖闘士への想い。
語り合う3人の声が、五老峰にいつまでも響いていた。
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「わかってたんだ、なんとなく」
見舞いにいく度に必ず病室にあった、高級でしかも恭介への気配りが感じられる見舞いの品々。
恭介に関わる人達の中で、それが出来るのは。
さやかは、くるりと向き直って病院に背を向ける。
「音楽のことよくわからないくせにCD持ってちょくちょく見舞いに来る、幼馴染ってだけのうるさい女の子と、英才教育で音楽のことちゃんとわかってて、おしとやかで可愛いお嬢さま。はじめから勝負になんてならなかったんだよね、あたしと仁美じゃ」
ソレントと恭介の会話についていけなかった、あの時。
見たこともないくらい興奮して楽しそうだった恭介と、疎外感で居場所がなくなっていくようだった自分。
魔法少女になったのも、恭介を守りたかったから…
恭介にとって特別な存在になれるかも、という気持ちも、全くなかったわけではない。
幼い頃からこれまで、恭介と刻んできたたくさんの思い出。
まるで昨日のことのように、その光景が鮮明に浮かぶ。
堰を切ったように溢れだす感情。
細かく震える頬をつたう、一筋の涙。
「ずっと好きだった、あたしの恭介…」
恋人になれたらきっとこんな感じかな、と思い描いていた二人の将来の姿が、ありふれた幼馴染という色で塗りつぶされていく。
黙っていたら感情で押し潰されてしまいそうで、訳も分からず叫びたくなる。
そんな衝動を必死で抑え込むと、頬を手の甲で拭う。
「うん、誰よりもお似合いの二人だよね。元気がとりえの幼馴染キャラは、めいっぱい二人を応援してあげなきゃ」
夕映えの中、志筑仁美に気づかれないよう、さやかはその場を後にした。
仁美の足取りがやけに重いことに、気づくこともなく。
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「えぇ、わかっていたのですわ」
志筑仁美は、力なく空を見上げる。
さやかが恭介の病室を頻繁に訪れていることは知っていた。
そして、恭介に対するさやかの恋慕も。
わかっていたけれど。
それでも好きになってしまったのだ。
思春期の少女にとって、恋は人生の全て。
ひとたび恋心が芽生えれば、他の事なんて考えられなくなってしまう。
さやかの気持ちはわかっている。わかっているけれど、自分だって。
さやかの邪魔はしたくない。でも自分だって幸せになりたい。
幸せになってもいいはずなのだ。
誰にも言えない葛藤を抱えながら、仁美もまた恭介のもとに通っていた。
恭介のことをずっと好きだったのはさやかだ。
ならば、やはり先に告白のチャンスを得るのはさやかであるべきだ。
でも、もしそのまま二人が付き合うことになったら。
勝負に出ることすらできずに自分の恋は終わってしまう。
残されるのは、どうしようもなく惨めな自分。
恭介は間もなく退院する。
学校生活や音楽活動が再び始まり、色々なことが一気に動き出すだろう。
しばらくは落ち着かない日々が続くだろう、ならば…
明日、恭介への告白をさやかに提案しよう。
もしかすると、恋心を秘めて恭介と話ができるのは、今日が最後になるかもしれない。
そんな思いを胸に、仁美は恭介の病室を訪れた。
恭介はいつになく元気だった。
やっと退院できる。また音楽に打ち込むことができる。
そんな希望が恭介の心を高ぶらせていたのだろう。
病院でのソレントの演奏会、その後のソレントやジュリアンとの面会。
タガが外れたように、ここしばらくの出来事を恭介は興奮気味に仁美に話し続けた。
素晴らしいフルートを、"さやかと"聞いたこと。
ジュリアンとソレントの演奏旅行譚を、"さやかと"わくわくしながら聞いたこと。
よほどの音楽通でなければ知らないような数十年前のモノラル演奏のCDを、"さやかが"見つけてきてくれたこと。
さやかが。
さやかが。
さやかと。
恭介が何かに心躍らせたとき、そこにはいつも"さやか"が居たのだ。
恭介にとってさやかは、すでに当然の如く隣に寄り添っている存在なのだ。
自分の居場所なんて、そこにはなかったのだ。
「私の恋、始まることさえ許してもらえなかったのですね」
そこから先のことは何も覚えていない。
とにかく精一杯の笑顔をつくり、恭介に気取られぬよう普段通りに振る舞って、いつも通りに病室を後にした。
小道をわたる爽やかな風。深紅に燃える美しい夕映え。
しかし仁美の心にそれらは届くことはなかった。
夕陽が道に落とす仁美の長い影。
日没とともに広がる闇のように、心の奥底に潜んでいた陰が少しずつ仁美の心を侵食し始めていた。
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その翌日。
「アテナ、お待ち申し上げておりましたぞ」
城戸沙織邸に戻ってきたサーシャとテンマをハクレイが出迎える。
「ちょっと用事…とのことでしたが。滝巡り、楽しめましたかな?」
「っ!」
こっそり五老峰を訪れていたこと。ハクレイにはすっかりバレていたようだ。
「まぁ、我々がこちらに来ていることはあ奴も気づいていたでしょう。これまでの240年、ねぎらってやりたいという気持ち、わからぬではありませぬ」
「童虎は喜んでいました。これから先の私が彼に負わせてしまった責務の重さを思えば、せめてこれくらいは…」
そうでしょうそうでしょうと言わんばかりにサーシャが言葉を継ぐ。
「ただしっ!」
「ぴゃっ!」
「我らの時代から生き続けてきた者とみだりに関わることは、歴史そのものを変えてしまうことに繋がりかねませぬ。お忘れになりませぬように」
「…はい」
「さて、お説教はここまでとして。わしらは今日を持って聖域に帰還することとあいなった」
ハクレイは、部屋の中を見渡す。
サーシャとテンマ、デジェル。
城戸沙織と星矢はじめ青銅聖闘士たち。
ジークフリートとミーメ。
そして暁美ほむらと巴マミ。
聖域と、聖域に関係した魔法少女が勢ぞろいしている。
「アテナ、デジェル、テンマ。し残したことは…なさそうですな」
テンマとサーシャは、ここに来ている者たちと、別れの挨拶は一通り済ませていた。
デジェルとほむらも然り。
「私から教えるべきことは、十分に伝えた。君ならばきっとさらに磨きをかけてくれることだろう」
「そうね、あとは魔女との戦いの中で経験を積んでいけば、私の戦いのスタイルとも馴染んでくるとおもうわ…」
サーシャと城戸沙織は二人の様子をチラチラ眺めている。
しかしそこはこの二人のこと。やはり少女たちが期待するような展開にはならないか。
「デジェル、できればあなたにはもう少し残っていて欲しかったのたけれど、あなたをあまり引き留めるわけにもいかないし。戻ったら聖戦、なのよね。どうか、よき戦いを。。」
「大丈夫だ、私に出来ることは全てやりつくすつもりだ。君のこの時代へ平和な地上を繋ぐためにな」
「(瞬、今、「君の」って言ってたよな?「君たち」じゃなくて)」
「(星矢、そこはスルーしなきゃ…二人ともあんな感じだから、本当のところはどうなのかよくわからないけど)」
「(え? 瞬さん、今何か妙なところ、あったかしら?)」
「(マミさん、もしかして星矢よりもにぶ。。いやなんでもないです)」
普通の男女ならともかく、ことその手の感情に疎そうなこの二人。
単に師匠と弟子のような関係なのか? 知らず知らずのうちに何かしら別の感情が発生しているのか?
本人たちですら気づいていないのかも知れない。
「それでは皆、鏡の前に」
ハクレイの声に、皆が現実に引き戻される。
「みなさん、ありがとうございました。たった数日間ではありましたが、魔法少女に関する謎を解き明かすきっかけがいくつも見つかりました。私たちは243年前の聖域に戻りますが、代わりにあちらからまたやってくる手筈となっています。魔法少女の運命が少しでもよきものとなるよう、引き続き彼らと協力してくださいね。それでは…」
鏡から放たれる眩い光に包まれる4人。
光が消えた時、彼らの姿はすでになかった。
「行って、しまいましたね」
城戸沙織がぽつりとつぶやく。
「テンマともっと一緒に戦いたかったなぁ。ペガサスが二人もいるなんて、きっともうないだろうし」
星矢も心なしか寂しそうにしている。
しんみりとした空気が漂うなか、再び鏡が輝きだした。
あたりは眩い光に包まれていく。
果たして今度は誰が来るのか?
やがて光が弱まってくると、そこには3人の男が立っていた。
一人は星矢たちと同い年くらいの少年。
一人は長身の青年。
もう一人は…
「え?ハクレイ?」
城戸沙織が思わず声を上げる。
確かにそこには、ハクレイにそっくりな、一人の老人が立っていた。
「なぜ貴方がそっちに行っておるのだ!」
鏡の向こうからは、かなり慌てた様子のハクレイの声。
では目の前に居るのは?
「今生のアテナ、直接お目にかかるのは初めてですな。私はハクレイの双子の弟でセージと申す者。あちらでは教皇を務めております。こちらの青年は魚座の黄金聖闘士、アルバフィカ。こちらの少年は獅子座の黄金聖闘士、レグルスと申すもの。きっと皆のお役にたちましょう」
「頼もしい援軍、ありがとうございます。ところで、そちらの聖域は聖戦を間近に控えているとのことですが、教皇が聖域を離れてもよいのですか?」
少々心配げな沙織。
「なんの、あちらには我が兄ハクレイが戻りましたので。それに、射手座の黄金聖闘士、シジフォスにも留守を頼んでおります。とりあえず心配はないかと。それに…」
「それに?」
「此度の任務、おそらくこの私でなければ務まりますまい。時間がないのでさっそく本題に入りましょう」
教皇が自ら赴かなければいけない任務とは?
「Walpurgisnacht(ヴァルプルギスナハト)、日本での呼び方は「ワルプルギスの夜」。この中に、ご存じの方は居りませぬかな?」