鎮守府の床屋   作:おかぴ1129

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7.最後の客

 俺は提督さんに無理を言って、川内に死化粧を施した。川内をバーバーちょもらんまに運び、球磨に頼んで川内の服を着替えさせてもらった。その後散髪台のソファに座らせ、限界までリクライニングを倒す。そして顔をキレイに拭いてやり、顔についた傷を化粧で隠して、頬にチークを塗ってやった。

 

「……よし」

 

 化粧が終わった川内の顔は、本当に穏やかだ。血色もよく見える。今にもあくびしながら起きてきそうなほどに……よく見たら胸が上下して寝息が聞こえてきそうなほどに、キレイになっていた。

 

「……なんなら起きてもいいぞ川内。いま起きたら夜戦も付き合ってやる」

 

 俺としてはかなりの大サービスをふりまいたつもりなのだが、やはり川内の耳には届かなかったようで……彼女が起きて『やーせーんー!!!』と大騒ぎすることはなかった。あの、暗闇でも眩しく光るフラッシュライトのような笑顔を彼女が見せることは、もうない。

 

 カランカランという音が鳴り、球磨が店内に入ってきた。他のみんなと川内をどう葬るかの話し合いをしてきたそうだ。

 

「終わったクマ?」

「んー」

 

 球磨は俺の隣に来て、川内の顔を覗きこんだ。

 

「……なんか信じられないクマ」

「何がだよ」

「川内、寝てるだけみたいクマ。張り倒せば起きそうだクマ」

「気持ちはわかるけどな。寝かせといてやれ」

 

 口をとがらせ、悔しそうにアホ毛をぐにぐにと動かしながら、球磨は川内のそばまで歩いてくると、彼女の頭を優しく撫で始めた。川内が息を引き取った直後の動揺した球磨の姿は、もうなかった。

 

「川内、どうするか決めたか?」

「水葬にするクマ。海なら、みんないるから」

 

――だってみんなと行かなきゃ。みんなが待ってるから

 

 フと、夢の中で無表情な球磨が呟いた一言を思い出した。『待ってるみんな』って死んだ奴らか? 待ってるってどういうことだよ。待ってるわけないだろうが。妙なことを俺に吹き込むな。

 

「……そか」

「……せんだーい。お別れだクマ。先にみんなのとこに行ってるクマー……フラッシュライトみたいな眩しい笑顔ももう見れないクマね……」

 

 化粧する前、球磨が服を着替えさせるときに一瞬川内の横っ腹が見えたが、肌が白くてキレイだった。背中もきっと同じように真っ白でキレイな肌だったろうに……何も出来なくてすまん川内。出来れば背中の傷もキレイに隠してやりたかったが……

 

「ちょっとごめんな川内」

 

 一応川内にことわりを入れ、肩の那珂ちゃん探照灯のスイッチを入れてみる。血をキレイに洗い落とした那珂ちゃん探照灯は、俺がスイッチを入れると無事に光った。よかった。壊れてはないようだ。

 

 次に、右足に取り付けられた神通の探照灯のスイッチを入れる。こちらも問題なく光った。

 

「よし。これならまた夜戦が出来るな」

「よかったクマ。……せんだーい。またバリバリ夜戦が出来るクマよー?」

 

 球磨が川内の頭を優しく撫でながら、そう呼びかけた。その姿は、川内の返事を待つかのように見えた。

 

 不意にカランカランとドアが開き、北上が入ってきた。北上もいつもと変わらないようには見えるが、目が少し赤い。俺の見てないところで、川内の死を悼んでいたようだ。

 

「球磨姉、終わった?」

「さっき終わったクマ。そっちの準備は出来たクマ?」

「出来たよー。……あ、ハル」

「んー?」

「さっき提督が呼んでたよ? 川内の水葬は私たちに任せて、執務室に行って」

「んー。分かった」

 

 未だに川内の頭を撫でている球磨のそばに行き、俺も右手で川内の頭を撫でた。サラサラでストレートな髪の感触が心地いい。髪もカットしてやりたかったな……

 

「川内、これでお別れだな。暁ちゃんによろしく言っといてくれ」

 

 俺の左手を球磨が掴んだ。その手には力がこもってなくて、悲しみとか郷愁とか不安とか……そういう繊細な感情がイヤというほど伝わってきた。俺は球磨の手を強く握り、その不安を出来るだけ打ち消してやろうとしたが……俺にそんなことが出来ただろうか。

 

「じゃあな川内。また会おうな。次はお前の姉妹の紹介をしてくれよ」

 

 後のことを球磨たちに任せ、俺は店を出た。俺は、川内の力になれただろうか。『せめて逝く時はキレイに』と思って川内の死化粧をしたが、それは果たして、川内にとってうれしいことだったのだろうか……疑問は尽きない。

 

 執務室に向かう途中、海を見た。今日の天気は曇りだが、海は凪で波も静か。川内とビス子が亡くなったこと以外は、いつもの、穏やかな鎮守府と変わらない。

 

「……なんでいつも通りなんだよ」

 

 これが、夢の中の時みたいに海が真っ赤に染まっていたり、大嵐で海が大荒れだったりすれば、まだ終末感が漂っていたのに……これじゃあいつもの鎮守府じゃないか。いつもの、いつも通り終わって、いつも通りの明日がやってくる、いつも通りの鎮守府じゃないか……

 

 少し足を伸ばして、加古の昼寝ポイントに向かった。さすがに今日は加古もここにはいない。灯台を見下ろすと、加古と北上、そして球磨の三人が、川内の遺体をボートに乗せて出発していくのが見えた。すぐそばの海域に川内を葬るという話だった。

 

 四人の姿を昼寝ポイントから見送った後、俺は改めて執務室に向かった。執務室の前に到着し、ドアをノックする。いつもと変わらない日常。

 

「とんとん。提督さん、ハルです」

「入ってくれ」

 

 提督さんの許可を経て、執務室の中に入る。執務室内には、険しい顔をした提督さんが、一人で自身の席に座っていた。隼鷹はいない。川内が命がけで伝えてくれた情報を元に、周囲の索敵をしているようだ。

 

「敵はどうです? 来てるんですか?」

「まだ到着まで時間はあるが、隼鷹がかなりの数の艦隊を確認した。こっちにまっすぐ向かってきているあたり、ここに来るのは確実だろう」

「……やっぱり、ここを狙ってるんすか」

「恐らくは。ビス子が相当に足止めしてくれたようだ」

「ビス子……」

 

 提督さんの話によると、恐らく前回の合同作戦の報復だろうという話だった。この鎮守府は、前回の合同夜戦作戦に参加した鎮守府の中でも、比較的作戦海域に近い。もしあの作戦の報復に出るとすれば、戦力も乏しく、地理的にも最も近いこの鎮守府を自分も狙う……と提督さんは言っていた。

 

「SOSは送らないんですか」

「送った。援軍が到着するまで鎮守府を死守し、何としても持ちこたえろとの命令だ」

「いつ到着するんすかその援軍は……」

「速やかに出撃準備に入る……だそうだ」

「なんでしょうか……説得力、ないっすね」

「俺もそう思うよ」

 

 俺はもちろん、提督さんも笑わない。以前に提督さんから聞いた話だと、この鎮守府は、軍からしてみれば優先度の低い鎮守府だったはず……だから資材も回してもらえず、経費もほとんど認められず、こんなにボロボロになるまで追い込まれても、何も援助がない状態だったはずた。

 

 だとすれば、提督さんが言う通り、その援軍も期待できないのではないだろうか……。

 

「ハル」

「はい」

「この鎮守府の責任者として、キミに命令する」

「はい」

 

 次のセリフは、俺が今まで接してきた、朗らかで人当たりのいい、優しい提督さんとは思えないほどの、厳しい口調だった。

 

「灯台のそばに小舟を準備させた。それに乗って市街地に行け。井上さんが待っている。そしてそのままこの鎮守府から出て行け」

「はい?」

「聞こえなかったか? 出て行け。そして顔を見せるな」

 

 ……いやだ。俺は最期までここでみんなと一緒にいたい。

 

「前にも言ったはずです。却下です」

「ダメだ。出て行け。復唱しろ」

「断ります。おれは軍人じゃない。あんたの命令に従う義務はない」

「軍人でなくともこの鎮守府のメンバーである以上、俺の命令には従う義務がある。さっさと復唱しろ。そしたら出て行け」

 

 ふざけんな提督さん。そんなもん却下だ。どんな状況であれ、出て行くという選択肢はない。おれは最期までこの鎮守府にいる。

 

「んなもん糞食らえだ。復唱だ? ふざけんな。俺は軍人じゃない。じい様の代から床屋だ。床屋の俺に、あんたの命令を聞く義理はない」

「……ここは戦場になる。市街地にも避難勧告を出した。今市街地は避難が始まってるはずだ。お前も一緒に避難しろハル」

「お断りです。ここは俺の家だ。俺の仲間がいる。家族と言える奴らがいる。提督さん。あんたもその一人だ。離れたくないんだよ俺は。最期までみんなと一緒に」

 

 不意に、少量の火薬が弾けたような、『パン』という乾いた破裂音が鳴り響いた。足元を見ると、縁が焼け焦げた小さな穴が床に開いている。

 

 火薬のような匂いが鼻をついた。提督さんが拳銃を俺の足元に向けていて、その拳銃の銃口から煙が上がっていた。

 

「……もう一度言うぞ。この鎮守府から出て行け」

「……」

「次にまた却下だとか言い出したら、容赦なく撃つ」

「……却下ですよ。いくら拳銃向けられてもね。床屋を見くびんな」

 

 提督さんは、今まで見たことないような恐ろしい眼差しで、俺を睨みつけていた。だが俺も引かない。しばらくの時間、おれと提督さんは互いを睨み合っていた。提督さんの拳銃は終始カタカタと震えながらも俺を狙いすましていたが……

 

「やっぱこんなんじゃ避難してくれないかー……柄じゃないしなー……」

 

 ついぞ俺にその銃弾が届くことはなかった。提督さんは、自分の机に拳銃を置いた。

 

「ハル……」

「はい」

 

 提督さんは静かに席を立ち、俺のそばまで来ると、俺の肩に手を置いた。その顔にさっきまでの厳しさはなく、どちらかというと、わがままを言う自身の息子に困り果てた、一人の父親のような顔をしていた。

 

「どうあっても出て行ってはくれないか?」

「当たり前です」

「なぁ……親友として頼む。出て行ってくれないか?」

「……なんでだよ提督さん。親友だったら俺のわがまま聞いてくれてもいいだろ」

「……親友なら、俺のわがまま聞いてくれてもいいだろ?」

「……」

 

 俺の肩を掴む提督さんの手に力が入った。

 

「……なぁハル、聞いてくれ。俺達は軍人だ。俺はもちろん、隼鷹や球磨……艦娘たちも、軍人だ」

「……」

「俺達の仕事はな。戦うことじゃなくて、守ることだ。自分が守りたいものを確実に守ることが仕事だ」

「……守ればいい。俺のことも守ればいいだろ。俺のそばで守ればいいだろ」

「ダメだ。それは確実じゃない。それではお前は、戦いに巻き込まれる可能性がある。そうなれば、俺達はハルを守れなかったことになる」

「……だったら確実に守れよ……」

「分かってる。だからお前には、出て行って欲しいんだ。俺達に、ハルを確実に守らせて欲しいんだ」

 

 言葉の端々に、提督さんの覚悟が見え隠れしていた。俺は提督さんの優しさを含んだ覚悟と気迫に、涙が抑えられなくなっていた。

 

「頼む。出て行ってくれ。俺達にハルを守らせてくれ。俺達の気持ちを汲んでくれ」

「……提督さん、なんで逃げないんだ?! とんでもない数の敵が押し寄せてきてる……こっちの戦力はまるでない……援軍も来ない……逃げればいいだろ!!」

「……それじゃあみんなを守ることは出来ない。ビス子が命がけで艦隊を足止めした意味がない。川内が命がけでそのことを知らせてくれた意味がない」

「ビス子や川内はあんたたちに死んでほしくないから命がけで知らせたんじゃないのかよ?! だったら逃げろよ!!」

「ダメだよ。まだ市街地の避難が終わってないし、なにより俺達がここで逃げたら、戦火は市街地まで及ぶ。市街地も守るのが、俺達の仕事だ」

 

 今更ながら気付いた。俺の肩を掴む提督さんの手は震えていた。本当はきっと、提督さんも怖いんだ。俺や市街地を命がけで守る決意をしている提督さんでも、やはり怖いんだ……

 

 それでも提督さんは、震える手で俺を力づけ、自身に鞭打って立ち向かおうとしている。命を投げ捨てて、自分の仕事をしようとしている。

 

 そう考えると、確実に生きることが出来る選択肢があるのに、『ココに残る』と駄々をこねている自分が情けなくなってきた。俺に何か出来ることがないか考えたが……俺にできることなぞ何もなかった。俺は所詮、床屋でしかなかった。

 

「……俺は……何かできる事はないんすか……この鎮守府のために」

「逃げてくれ。そして生き延びてくれ」

 

 俺の肩から手を離し、提督さんは自分の机に戻って引き出しを開けた。そしてその引き出しから写真を一枚取り出し、それを俺に見せてくれた。1番楽しかった瞬間を切り取った写真だった。

 

「……これを」

「これは……秋祭りの時の……?」

「ああ。ここに来てくれた記念に、持って行ってくれ」

 

 写真には、おれがここに来た時のままのみんなが、元気に写っていた。暁ちゃんとビス子、川内も元気な姿を見せていた。ほんの数週間前のことのはずなのに、もうずいぶん昔のことのように感じた。

 

「……いやだ。あんたが持っててくれ。こんな最期の頼みみたいなことするな」

「頼むよ」

「……いやだ!!」

 

 いやだ。受け取れない。受け取りたくない。受け取ったら、この鎮守府での生活が思い出になってしまう。いやだ。これからもここでみんなと過ごしたいのに、これじゃあ一生の宝物になってしまう。日常のままにしておきたいんだ。

 

 一向に受け取ろうとしない俺を見かねて、提督さんは俺の懐のポケットに写真を入れてくれた。この鎮守府での生活が、思い出になってしまった。一生の宝物になってしまった。俺の鎮守府での生活は、たった今終わってしまった。バーバーちょもらんまは今日、閉店する。

 

「……分かった。俺は出て行く。でも提督さんも約束してください」

「何をだ?」

「絶対に生き延びて下さい。スイートハニー隼鷹と一緒に、生き延びて平和な世界で暮らして下さい」

 

 人と話をしていると、『それはウソだ』とすぐに見破れる言葉がある。たとえば母親にイタズラが見つかった時、『怒らないから本当のことを言いなさい』と言われる。子供心にこの言葉は、すぐにウソだと分かる。

 

「……ああ。約束する。必ず生き延びるよ。そしたら今度は、球磨も入れて四人で酒でも飲もう。四人で、月を眺めて波の音を聞きながら、うまい酒飲もう」

 

 俺は提督さんのこの言葉を、すぐに嘘だと見破ってしまった。でもそれが提督さんに伝わらないよう、努めて安心した素振りを見せた。

 

「……やっと今日、タメ口で話してくれたな。ありがとう。うれしかったよ」

 

 執務室を出る寸前に聞いた、この提督さんの感謝のセリフが、俺が聞いた提督さんの最期の声だった。こんなことで感謝してくれるような人なら、もっと早くタメ口をきけばよかった。そのことが、俺の中で小さな後悔として残った。

 

 その後、荷物をまとめるためにおれは一度店に戻った。いくら早急に避難といっても、最低限持っていかなければならないものもある。まずはじい様から受け継いだカミソリ。そして球磨がずっと店の中で過剰な湿気を供給していた霧吹き。

 

「……そうだ。シザーバッグとハサミ……」

 

 シザーバッグを忘れないようにバッグ入れようとして、以前に球磨が描いたイラストが目に入った。俺が初めて球磨のアホ毛の処理にチャレンジして失敗したその日から、妖怪アホ毛女は時間を見つけては、俺のシザーバッグに一人また一人と、この鎮守府のメンバーの似顔絵を描き足していった。

 

 急いで準備しなきゃいけないというのに、妙に懐かしい気持ちが再燃して、俺はシザーバッグのイラストを眺めた。俺のシザーバッグには、球磨を筆頭に北上や隼鷹、加古……そしてビス子や川内、暁ちゃんの似顔絵が描かれている。俺がここに来て間もない頃の、俺が知っているメンバー全員が、この中に揃っていた。

 

 懐の中に手を突っ込んだ。懐には、さっき提督さんから譲り受けた秋祭りの時の写真が入っている。このシザーバッグと写真は、絶対に持ち帰らなくてはならないものだ。俺がここに来た証だから。素晴らしい仲間と共にこの鎮守府で、床屋として充実した日々を過ごしてきた証なのだから。

 

 感傷に浸っていると、カランカランという音が鳴り、店の入口が開いた。

 

「ハルー」

「おう。妖怪アホ毛女」

 

 入り口に立っていたのは、妖怪アホ毛女だった。

 

「髪を切って欲しいクマ」

「……ん?」

「髪を切ってシャンプーして、耳掃除して欲しいクマ」

 

 俺は覚えている。バーバーちょもらんまではじめてシャンプーをしたのは、この妖怪アホ毛女だった。暁ちゃん、加古と共にこの店の立ち上げを手伝ってくれ、そのお礼にシャンプーしてあげたのが、このバーバーちょもらんまの華麗な歴史のはじまりだったんだ。

 

「……最初の客が最後の客かー」

「んふふー。そうクマ」

 

 俺の返事を待たず、球磨は散髪台に座った。俺は球磨が落書きしたシザーバッグを腰に回し、キャスター付きの椅子に座って球磨の背後に回る。

 

「で、妖怪アホ毛女。今日はどうする?」

「ハルのセンスで整えるクマ」

「了解した。アホ毛は?」

「任せるクマっ」

「シャンプーと耳掃除も?」

「全部やるクマっ」

 

 了解した。このバーバーちょもらんまの最後の客だ。いっちょ気合を入れてやったろうじゃないか。

 

 まず最初に、球磨の髪をシャンプーする。シャンプー台で仰向けにし、顔をタオルで隠し、湯加減を見て髪を洗ってやる。

 

「球磨ー」

「クマ?」

「どこかかゆいところはありませんかお客様ー?」

「左足の裏の親指の付け根から5ミリほど下がったとこあたりが痒いクマ」

「分かってると思うが却下だ」

「……たく。最後まで融通の効かない床屋だクマっ」

「言ってろ妖怪足の裏女」

 

 シャンプーが終わったら、毛先の傷んだ部分をカットしてやる。霧吹きでアホ毛をほんのりと湿らせ、ハサミを入れてみた。

 

――さくっ

 

 あの時と同じ感触が俺のハサミに走ったが、その直後、後ろ髪の一部がアホ毛と化してびよんと立ち上がり、自身の存在を周囲にアピールしていた。

 

「……最後まで切れなかったな」

「ぷぷーっ。球磨のアホ毛を切ろうなどとは片腹痛いクマっ」

「うるせー妖怪アホ毛女」

「クマクマっ」

 

 引き続き、球磨の毛先を整えていく。静かな店内には、ハサミを動かすちょきちょきという音が鳴り響いている。いつも以上に静かな店内だ。

 

 いつもこの店内は賑やかだった。客の数こそ少なかったが、毎日のように北上が長ソファに寝転がってマンガを読みふけり、加古が空いた散髪台を倒して眠りこけていた。ドアが開いたかと思えば暁ちゃんとビス子が『一人前のレディー!!』と誇らしげに声を上げ、夜になれば酒をかついで隼鷹がやってくる。夜十時を過ぎれば川内が『やせーん!!!』と騒ぎたて、この店が静かになることはなかった。毎日が賑やかで、俺は毎日みんなに振り回されていた。

 

「なー。球磨?」

「クマ?」

「楽しかったな。バーバーちょもらんま」

「そうクマね」

 

 特にこの球磨というやつは、おれを終始振り回し続けた。常に霧吹きを片手に店内を歩きまわっては俺と店に過剰に湿度を供給し続け、俺のボケと妄想に必要以上に激しいツッコミを入れ、大掃除をサボりたいが為に営利誘拐まがいのことをしでかし、初対面から何度も俺の腹にコークスクリューパンチを突き刺した妖怪アホ毛女。

 

 そして、肝試しの時は俺を守ってくれた。暁ちゃんが亡くなった時は、みんなをフォローし、俺の前でだけ泣いた。合同作戦の時は、勘違いして早とちりした俺を抱きとめ、涙を拭いてくれた。

 

 気がついたら、こいつは常に俺の隣にいた。どれだけ大暴れして大怪我しても、俺の隣に帰ってきた。そのアホ毛をうにうにと動かしながら、俺の手を取り、俺と一緒に歩いてくれていた。俺が油断した時には、こいつは妖怪浴衣女や妖怪ハニカミ女に変身して、俺に核ミサイル級のダメージを与えてきた。

 

 いつも俺の目の届くところにいて、一番俺の目を引く笑顔で、俺の手を取り、引っ張って、振り回していた。

 

 いつまでも振り回していて欲しかった。こいつに手を引っぱられ、困らせられ、ツッコミを入れられ……そして隣で笑っていて欲しかった。一緒にいたかった。

 

「なー。球磨?」

「クマ?」

「やっぱりお前も戦うのか?」

「そうクマね」

「逃げないのか?」

「うん」

「なんでだよ。死ぬかも知れないだろ?」

「……」

「俺の隣にいてくれよ。お前が一緒にいないとつまんないよ」

「……球磨も、ずっとハルの隣にいたいクマ。ハルの隣で笑っていたいクマ」

 

 そっか。俺の片思いじゃなかったんだな。安心した。よかった。

 

「でもダメクマ。逃げたくないクマ」

「どうしてだよ?」

「球磨はみんなを守りたいんだクマ」

「みんなって?」

「北上、隼鷹、加古、提督……市街地のみんな、川内が助けたミアとリリー……」

「……そうだな。みんな大切だな」

「それにみんなの思い出が詰まった鎮守府……」

「……」

「あと、バーバーちょもらんまとハル」

 

 球磨らしい返答に、恥ずかしいような嬉しいような、複雑な感情を抱いてしまう。でも悪い気はしない。

 

 知ってるか? あの肝試しの時、お前が単装砲を構える音が、めちゃくちゃ心強かったんだぞ? お前のぬくもりが、どれだけ俺に勇気をくれたことか……あの日お前が俺におぶさってなかったら、神社を見つけた時に社に突撃なんて突拍子もないこと出来なかったんだぜ?

 

「うるせー。お前に守られんでも力強く生きていけるわ」

「安心したクマ。その調子で元気で生きていくクマよ?」

「黙れ妖怪アホ毛女。なに最期の別れみたいな事言ってんだ。お前も一緒に決まってるだろ」

「……」

「こっちは惚れた女と一緒に生きていきたいんだよ」

「……うん」

 

 最期にもう一度、アホ毛にハサミを入れた。さくっという手応えと共に切られたアホ毛は地に落ちたが……

 

「……やっぱダメか」

「んふふー。修行が足りんクマっ」

 

 やっぱり新しいアホ毛がびよんと立ち上がった。俺とアホ毛の戦いもこれで終わり。結果は全敗という散々な結果だった。床屋としては恥ずべきことだが、なぜか俺はアホ毛に最期まで勝てなかったことにホッとした。

 

 カットはこれで終了。最後に耳掃除をしてやる。

 

「ほら。早くこっちこい」

「クマっ」

 

 惚れた女の耳を、膝枕で丁寧に掃除してやる。少しだけ涙で視界が滲んだが、努めて視界が歪まないように気をつけながら耳掃除を続けた。

 

「……ハル?」

「んー?」

「泣いてるクマ?」

「アホ。ローションこぼしたんだよ」

 

 両耳が終わり、ローションでキレイにしたところで終わり。最後のお客様。お疲れさまでしたー。

 

「クマ……」

「終わったぞー」

「クマっ」

 

 球磨は俺の膝から身体を起こし、そのまま俺の右隣に座った。こいつはいつも、こうやって俺の隣にいてくれた。

 

「ハル」

「ん?」

 

 球磨が左手で俺の右手を強く握った。その手は少しカタカタと震えているように感じた。

 

「ちょっとだけ……抱きついていいクマ?」

「……俺も、球磨を抱きしめていいか?」

「うん」

 

 球磨の返事が終わる前に、球磨の身体を抱き寄せて思いっきりキツく抱きしめた。

 

「……痛いクマ」

「……だったら離れろよ」

「……ヤだクマ」

 

 球磨もまた、俺の首に手を回し、おれを思いっきり抱き寄せていた。

 

「……いてぇ」

「だったら離してもいいクマ?」

「……ヤだ」

「わがままな床屋だクマ」

「うるせぇ」

 

 少しだけ手の力を抜き、球磨の身体を離す。球磨も同じタイミングで力を抜き、ほんの少しだけ離れた。その後、今度は互いに顔を近づけ、唇を静かに触れ合わせた。

 

「ん……」

 

 しばらくそうした後、どちらからともなく唇を離した俺達は、また力を込めて互いの身体を抱きしめる。唇の余韻はしばらく残った後、粉砂糖のようにひんやりと消えた。

 

「……突然なんてことしてくれるクマ」

「うるせー。お前だって受け入れた癖に」

「クマっ……」

「……球磨」

「クマ?」

「俺はお前が好きだ」

「球磨も……ハルが好きだクマ。ハルとずっと一緒にいたいクマ」

「俺もだ。……だから絶対に俺の隣に戻ってこい」

「うん。必ず戻るクマ」

「戻ったら、好きなだけ霧吹きを吹きかけろ。足の裏もかいてやる。……好きなだけキスしてやるから」

「うん」

 

 そうしてしばらくの間、互いに相手の感触を身体に刻み込んだ後、俺達は身体を離した。長ソファから立ち上がり、俺達は手を繋いだまま、入り口のドアを開ける。ドアから離れたところには、すでに鎮守府の残りのメンバーが球磨を待っていた。

 

「球磨姉、散髪終わった?」

 

 みんなの中でただ一人、入り口のそばで待っていた北上が、俺達のそばまで来た。北上は両手両足に魚雷発射管を装着していた。すでに敵艦隊が近くまで来ているのかもしれない。

 

「うん。終わったクマ」

 

 球磨が俺の手を離し、俺と向かい合った。その顔には、さっきのような不安はなく、いつもの妖怪アホ毛女と変わらない笑顔があった。

 

「ハル、ありがとクマ。もうすぐここは大変なことになるから、ハルも早く逃げるクマよ?」

「……分かった。お前たちも、どうか無事で」

「うん。みんなと一緒に、ハルの隣にちゃんと帰るクマ」

「信じてるからな」

「クマクマっ」

「北上」

「んー?」

「お前も必ず戻ってこいよ」

「ハル兄さんの頼みとあらば、この北上さん、きいちゃいましょー」

 

 いつもと変わらない脱力っぷりで、北上がそう答えた。

 

「ハル!! ハロウィンの時はありがと!! 今度はみんなで飲もうぜ!!」

 

 おう。次はみんなで飲めるように、お前が好きなだけかっぱかっぱ飲めるように、樽酒で準備してやるぜ隼鷹。提督さんによろしくな。

 

「あの枕、古鷹の膝枕には負けるけど、いい枕だったよ! ハルと一緒に過ごせて楽しかった! ありがとう!!」

 

 うっせえ妖怪ねぼすけ女。最後みたいなセリフを吐くな。これからもバンバンあの枕で寝てくれなきゃ、俺泣いちゃうからな。

 

「みんな! 今はおれこの場を離れるけど、おれ戻るからな! バーバーちょもらんまに戻るからな!! そしたらみんなのシャンプーしてやるから! みんなのカットしてやるからな!! だから、ちゃんと頑張れよ! 負けんなよ!!!」

「楽しみにしてるクマ!!」

「球磨! そしたら俺の隣にいろよ!!」

「了解だクマ!!!」

 

 皆に最後の挨拶を告げ、俺は提督さんから聞いていた脱出ポイントに向かった。去り際にもう一度だけ振り返った時、俺は最期の戦いに挑む、7人の艦娘の後ろ姿を見た。

 

 鎮守府を脱出した後、おれはモーターボートで市街地に向かった。提督さんが整えてくれた手はずだと、確か市街地で井上さんが待ってくれているはずだ。

 

 市街地の港に到着すると、井上さんがミアを抱きかかえて待ってくれていた。奥さんとリリーはすでに避難済みらしい。

 

「井上さん!」

「提督さんから話は聞いてます! 一緒に避難しましょう!」

 

 井上さんはそういって、俺のボートを港に接岸させる手助けをしてくれた。

 

「うにゃー!!」

「こらミア……なんでハルさんが来た途端に……」

 

 なぜかミアが、俺の姿を見るたびに暴れ始めた。抱きかかえる井上さんの手をねこぱんちでぽんぽんと叩き、なんとかして地面に降りようとごそごそと動いている。

 

「……やっぱ嫌われてるんですかね、俺」

「いや決してそんなことは……こらッ!」

 

 ついにミアは井上さんの手から飛び出し、トコトコと俺の方に向かって歩いてきた。なぜか井上さんの手から飛び出た瞬間、ミアは静かになった。

 

「?」

「どうした?」

 

 ミアが俺の足元まで来た。俺が片膝をついてしゃがみ、ミアに手を出した途端……

 

「う……」

 

 ミアは俺の膝から肩に飛び乗り、俺の頭にぽすっと優しく前足を乗せてくれた。

 

「……」

「にゃ」

「うう……」

「ハルさん?」

 

 ミアの優しいねこぱんちの感触が胸を優しく駆け抜け、我慢していた俺の心を決壊させた。

 

「うう……うあああ……みんな……みんなぁ……」

「にゃー……」

「ハルさん……」

 

 ちくしょう……なんでこんな終わり方なんだ……俺の今までの人生の中で1番輝いてた時間のはずなのに……なんでこんな終わり方なんだ……

 

 俺があの場所を離れるときは、もっと優しさに満ち溢れた瞬間になるはずだったのに……バーバーちょもらんまが閉店するときは、きっと『寂しくなるねー』『でもまた鎮守府においでよ』『ハル、元気で!!』と笑顔に溢れたみんなに見守られ、優しく祝福された瞬間になるはずだろう……断じてこんな……こんな絶望に塗れた終わり方になるだなんて認めたくなかった。

 

「みんな……ごめん……俺だけ逃げて……」

「にゃ……」

「提督さん……隼鷹……加古……北上ぃ……どうか……どうか無事で……」

 

 ミアが俺の顔に頬ずりしてくれた。そのぬくもりは俺を元気づけ、励まそうとしているように感じた。

 

 あの場にみんなを残してしまった後悔が、ここに来て爆発した。みんなを強引に連れて来ればよかった……提督さんのお願いを無視してあの場に残ればよかった……みんなに守られるだけじゃなくて、俺も店を守ればよかった……みんなと一緒に楽しく過ごす毎日を守ればよかった……みんなの隣にいればよかった。

 

 球磨が隣にいない……それがこんなにも心細くて寒いと思わなかった。あの時……別れ間際の時、強引に連れて来ればよかった。もしくは、強引にあの場に残ればよかった。……どっちでもいい。みんなと一緒にいられるのなら……球磨の隣にいられるのなら、それでよかった。

 

「球磨……球磨ぁ……!!」

 

 ……だが、どれだけ後悔してももう遅い。俺はみんなを置いて逃げてしまった。俺の鎮守府の生活は終わってしまった。楽しい日々は思い出になってしまった。球磨の隣から離れてしまった。

 

 だからせめて……せめてみんな生き延びてくれ。暁ちゃんやビス子、川内のように俺の前からいなくならないでくれ。生き延びて、また俺に元気な姿を見せてくれ。俺に髪を切らせてくれ。『足の裏がかゆい』と言って俺を困らせてくれみんな……。

 

 球磨、絶対に生き延びて俺の隣に帰ってきてくれ。腹パンしてもいい。アホ毛が切れなくてもいい。霧吹きも許す。だから俺の元に戻ってきてくれ。俺の隣からいなくならないでくれ。俺と一緒にいてくれ。ずっと一緒にいさせてくれ。さっきの続きをさせてくれ。

 

「ちくしょう……なんでだ……なんでこんな終わり方なんだ……!!」

「ハルさん……」

「戻ってこいよ……!! みんな戻れ……つまんねーよ……一人だと寒いんだよ……」

「にゃ……」

「こいよ球磨……寒いよ……」

 

 一刻も早くその場から逃げなければいけないというのに、俺は暫くの間、まったく動くことが出来なかった。ただその場で、ひたすらにみんなの名前を呼びながら、泣きじゃくることしか出来なかった。

 

 それが、鎮守府の床屋ばーばーちょもらんまの最終営業日になった。鎮守府はその日、壊滅した。

 

 

 


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