新社会「イクシーズ」―最弱最低(マイナスニトウリュウ)な俺―   作:里奈方路灯

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シオリ・ドラクロア

 イオリ・ドラクロアは目を覚ます。いつものようにカーテン越しの窓から薄明かりの東雲が差すベッドの上で、半覚醒の脳で上体を起こした。

 

 そう、もう朝だ。いつも通りの朝、今日も社会人として世の為人の為とコンプライアンスじみた騙し文句を謳い、自分の自分による自分の為の世界生活を送ろうじゃないか。死んだ筈の生命の少しでもの抵抗、それは「自己の正当化」に他ならない。正しいとして生きる事が自分のエゴを満たすのだ。

 

 さて。一日を始める為の一歩を踏み出そうとするがしかして、何やら窮屈。

 

「むぅ~~ん、霞はもう()めんのだぁ~~……」

 

 気が付けば、イオリの腹部に腕を回してくっついているアルト。下の客用布団から抜け出し、俺のベッドに潜り込んでいるではないか。

 

 その寝惚けた頭部を掴んで引っペがし(少し重いな)、地面に投げ捨てる。ぞむっ、と床に敷かれた薄布団に鈍い音が鳴った。

 

「ぐぉっ!?」

 

「……お前、太ったか?少しは働け」

 

 いつもアルトの頭を持ち上げる感覚とは全く違う。さてはまだ、体が起きていないのか。

 

「いたた……乱暴だな、貴様!」

 

「今更気付いたのならいささか間抜けだな」

 

 そして腕を組み、むにゅ。おかしな感覚に気付く。

 

 ……むにゅ?何?太ったのは俺の方か?馬鹿言え。

 

 例えば、寝ているときに自信の体重で自分の腕を圧迫したとしよう。起きた時に腕の感覚が無くなり、自分の腕がまるで他人の物かのように感じる現象がある。血がうまく通っていないと、まるでそんな奇妙な体感をする……。上から生暖かく重く柔らかい物が降ってきた時は半覚醒時の脳回転もあって、軽くホラーだ。

 

 それかと思ったが、違う。いつもとは違えど、これは自分の感触だ。一体、何が……?

 

 イオリは冗談めいて自分の胸に手を当てて考えようとして、再びむにゅり。ふにゅふにゅ。何かがおかしい。……クッション?ビーズクッション?

 

「ぬ?……!?貴様、誰だ!?」

 

 アルトが此方の方を指差し、まるで阿呆のような事を抜かすでないか。この家の主の顔を忘れたらしい。

 

「俺?俺はイオリ・ドラクロアに決まっているだろう」

 

「いや、お前……あ、っぽいが……そうか、貴様!!」

 

「?あ……あ゛あ゛?」

 

 そこで、イオリは一つの違和感に気付いた。

 

 そう、発した筈の聞き慣れぬ声。鈍く低く響く男前のヴォイスで無く、少し高めで、かつ渋さを残した……そう、ハスキーボイスのような。

 

「……?俺……!?」

 

 喉に手を当てる。加湿と暖房はしっかりしている筈だ、風邪とかじゃあない。なにより、その喉。出っ張りが無い……。喉仏が無いのだ。顔が青ざめたのが直ぐに分かった。

 

 顔に手を当てる。太くない。骨格が、ほっそりとしてスマートに……?

 

 頭……輪郭をなぞり、あれ、俺こんなに髪の毛伸びてたっけ!?

 

 胸……まるで、それはグラビアを飾る美しい女のように膨らんでいて。

 

 股間。何よりもその物打(ブッダ)──自慢の仏陀(ぶっだ)が如き「霊剣」が無くなり、代わりに妙に柔らかい渓谷が形成されていた。遥か遠き地、クスコ王国の初代国王はManqu Qhapaq(素晴らしき礎)の意を持つ者……そんな今考えるべきでは無い知識が脳裏を通り過ぎる。空中都市「マチュ・ピチュ」、再度死ぬ迄には訪れたいものだ。

 

 では無い。否否否否否。それは在り得ない。現実逃避している場合か。

 

「……アルト、今の俺は何に見える?」

 

「うむ。紛う事なき女の子じゃな」

 

 女の子という言葉がアルトの口から発せられた瞬間、イオリドラクロアはアルトの顔面にその手でいつも通りにアイアン・クローを決めた。

 

「元に戻せッ!今回ばかりは我慢ならん!!上の口を塞いでやっても足りんというのなら下の口も塞いでやろうかぁぁぁぁ!!?」

 

「あだだだだ……いや、いつもより痛くないぞぞぞぞぞぞぞ!???」

 

 その一言に、イオリはいつもの手加減をやめた。アルトの頭蓋が軋む感触がする。ちぃっ、女の体ではこうも勝手が違うものか!

 

「あがが、待て!やめてイオリ!?これは多分、「天邪鬼」のフィールドのせいだ!吾輩を殺すと治せんくなる!」

 

 そこでイオリは手を離すと、ポロっとアルトが地面に転がった。掌が小さくなっている、握力も低くなっている……。今の体では全力が出せない。本来の力だったら握りつぶしてもおかしくは無い程の力の込め方だ。いや、流石にそこまではしないが。

 

「……成る程。じゃあ今すぐ治せ」

 

「ごめん、それ無理☆魔力が足りひん」

 

 イオリがベッドの上から飛び込みのローリング・ソバットをアルトの延髄に決めた。随分と鋭い蹴りだ、身が軽くなったから見事にクリーンヒットしたろう。男の時の重さは無いがな――

 

――統括管理局玄関、並び立つ二人。黒スーツの若い男女が、その場に凛として立っていた。

 

 ……とは言うが、男の方。歌川鶻弌弐弎代は訝しげに女の方を見ている。まあ、それもその筈ではあるが。

 

「えっと、今日はイオリ君のシフトの日だけど……」

 

「悪いな、今日は兄は風邪で休みだ。代わりに俺……じゃなく?いや、……(おれ)(おれ)。妹のシオリ・ドラクロアが担当を努めよう。上にも話を通してある」

 

 という設定。今の吾の名はシオリ・ドラクロアという名前のイオリ・ドラクロアの妹だ。無理は……無いだろう?

 

「あっ、はい」

 

 気まずい空気。さて、どうしたものか……。

 

 今のシオリ(イオリ改め)は身の丈に合わないスーツをアルトの「卑屈な万魔殿(リトルパンデモニウム)」で調節し、その身にピッタリ合うようにした。どうやら紡織機能もあるらしく、そろそろアイツの何でも有り感がヤバくなってきている。

 

 セミロング程度の長さの黒い髪に、細めになってしまった顎から首にかけてのライン……もはや、それは只の女子(おなご)のような顔。目付きは以前鋭く、しかし(いか)つい、というよりは凛々しく。正直、自分で見ても良い女だと思う。

 身長は10cm以上も縮んでおり、推定174cm。とはいえ、女としては高めの身長だ。胸囲は、脂肪の分でかくなったか……アルトの感覚で測って86cm。気に食わない。男なのに女の体というのが何よりも気に食わないのだ。これでは良い女を見ても魂で反応出来ないじゃないか。俺の霊剣、カムバック。

 

『なぁに、大丈夫だぞイオリ!今のお前は何処から見ても萌エロ良い女だ!』

 

『夜までに魔力は回復しておけ。さもなくば此処にお前の居場所は無い。最悪現世からさよならする事になる。それはそれは悲しい事だ』

 

『わっ、分かっておるって!』

 

 余裕の無いドスじみた低い女声でアルトを脅し、イオリは低下した腕力故に握りきれない一刀「ワタヌキ」を家に置いて、もう一刀「ドウタヌキ」を右腰に帯びて玄関を出た。

 

 嗚呼、もうなんて最悪な日だ……!

 

 カシャリ。

 

「ん?」

 

「あ、あれ、おかしいな……僕はイオリ君じゃないのになんでこんな事を……?」

 

 イオリは音の鳴った方を向くと、そこではヒフミが自分のスマートフォンを構えて写真を撮っていたではないか。それも、他の誰でもない……位置、視点からして「シオリ・ドラクロア」のをだ。

 

「……フン」

 

 シオリは掻き慣れぬ長い黒髪をわしゃわしゃと撫で、悩むのを諦めたように首をコキっと鳴らすと、ヒフミの方に軽く手を振った。

 

uh()-()oh()ー☆」

 

「お、おっおー……。ははは」

 

 刹那、シオリの赤い瞳と目が逢ったヒフミの視界が青空を仰いだ。

 

「!!?」

 

 後頭部が地面に近付くのが分かる。左手を地面に付いて大地から頭を守り、尻が地に付くより先に右手で大地を捉えて手首を回転、体の自由を残したままヒフミはシオリの方へと地に手を付いた状態で向き直った。足裏がようやく地に着き、これにて全ての動きへ繋げる事が可能になる。

 

 そう、シオリはあの一瞬で、ヒフミがどんな反応をするよりも先に鋭い足払いを行ったのだ。

 

「きっ、君ね……!」

 

 冷や汗が止まらない。それ程の驚異という物を目の前の少女に感じつつ、しかし笑みは、余裕は残してヒフミは牽制をする。

 

「いや、先に仕掛けたのは貴様の方だ。とはいえ、悪かったな。ほれっ、返す」

 

 すると、シオリは自分の手の中にあったそれ……ヒフミが足払いを受けた際に空中へ放ってしまったスマートフォンを投げてヒフミに返した。素直にキャッチする。

 

「あっ、どうも……て、もしかして、あぁーーーっ!」

 

 そう。ヒフミはまさか、と思ってフォトフォルダを確認したが……無い。無いではないか。つい、先程、出来心で撮ってしまったそれ。シオリ・ドラクロアのフォトデータが削除されてしまっていた。

 

 シオリ・ドラクロアの目的。それは、ヒフミによる盗み撮りのデータを削除する事だった。その為に、一瞬の判断でヒフミの体の自由を奪った。意識をわざとあやふやな方へ向けさせてから注意が逸れた根元を刈り取るセットプレイ。

 

「ひ、酷い……これだけの為にここまでやるなんて……」

 

「貴様なら余裕で回避できそうだったからな。少し遊ばせてもらった」

 

 がっくり、と項垂れるヒフミ。出来心とはいえ、確かにそれを、心の底から「いい」と思ってしまって撮った写真なのだ。其処に後悔も未練も無く、それが削除されたゆえ残された「消失感」……一度手に入れた物を失うとは、こんなにも心が響くものなのか。

 

 とはいえ、確かに悪いのはヒフミだ。断りも無しに女性の写真を撮るなど、マナー違反も甚だしい。それだけの魅力があったのは確かだが。

 

「まあ、いーさ……悪いのは僕の方だ。しかし、君。速いね」

 

「ん?ああ。そうだな。吾は確かに」

 

 其処でシオリ……いや、イオリは気付いた。

 

「速いな」

 

 この体にあって、あの体に無い物が一つ。自分の体よりも、もっと凄い可能性。今感じたそれは、あらゆるウルトラCを可能にするイオリ・ドラクロアの肉体を圧倒的に凌駕した「身軽さ」だった。


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