新社会「イクシーズ」―最弱最低(マイナスニトウリュウ)な俺― 作:里奈方路灯
「ぬうう、客人をこんな薄い布団に寝かせるとは随分と失礼だな貴様。吾輩もベッドで寝たいぞ」
寝室にて、フローリングの床に敷かれた携帯用簡易睡眠セットに文句を言うアルト。
「暇人と違って俺は明日も仕事なんだ、少なくとも安らかに眠れる環境が良い。なあに、それも熱帯雨林の蔦のベッドやサバンナの土製の家屋で寝るよりはよっぽど快適だろう。人類を有難がって寝るといい」
イオリ・ドラクロアは寝巻きのタンクトップに着替え、自分のふかふかのベッドに潜り込んでいる。天井から吊るされたぼんぼり照明のスイッチは、丁度イオリがベッドから体を起こした所にある。最適の位置。イオリはそれを引っ張ると、豆電球だけ点灯している状態にした。
「あっ!貴様!もう寝るのか!?まだここからがパジャマパーティーだろう!」
「社会人は色々と大変なんだ。じゃあな、お休み」
そして、イオリはスイッチをもう一回引っ張り、最後の電球を消した。後は、真っ暗。
「ちぃっ……社会の歯車め」
「そりゃ結構。夜魔の軍人イオリ・ドラクロアも大罪王ロイ・アルカードももう居ないのさ。今の俺は只のイクシーズに住んでるサラリーマン、イオリ・ドラクロアだ……」
まるで突き放すようなその言葉を最後に、イオリは調息じみて寝息を立てる……。
「……そうか」
しかし、その言葉に、暗い部屋の中でアルトはひっそりと優しい笑みを浮かべたのだった――
――ふと、本当に、ふと。イオリは目を覚ます。
暗い天井、カーテン越しに隙間から薄く入り込んでくる月の光。なんの事は無い。まだ夜――
いや。居ないな。
人の気配が居ないことを察し、ベッドから下を除いた。居ない。鴉魔アルトは捲れた布団を置いて何処かへ行っていた。
壁掛けの時計に目をやると深夜一時……。まあいい。三時までに寝れば十分寝れるだろう。しょうがない、とイオリはベッドから体を起こす。
一枚、黒色の
静寂な常闇の中、イオリが行ったのは意識のコンセントレイション。只でさえ常に張り詰めた神経を、さらに尖らせるように研ぎ澄まさせた。
五感+第六感の全てを解放、38年間積み上げてきた「
そして五秒程、直ぐに答えが出た。真上だ。そこに「邪神」が居るのが分かった。ベランダに通ずる窓に手をかける。……やはり、開いている。鍵がかかっていない。ここから出たな。
「屋上だな……」
イオリはベランダに出ると、手すりに足をかけ、上に出っ張ったレンガの壁に手を伸ばした。レンガ造り故の、壁の起伏。接合部に指をかけ、そしてそれをもう一回、もう一回と続けていく。後は足が手すりから離れ、するするとヤモリのように壁を登って行き、屋上に到達。
「おう。来たのか」
「呼ばれた気がしてな」
このマンションの屋上にはなんの変哲も無い、貯水タンクと接続の為のパイプ、電波を受信するアンテナが設置され、床には排水機構があるだけという、シンプルな屋上だった。そこでアルトはパイプが埋め込まれた大きめの出っ張りに腰をかけて、ビールを飲んでいた。……それ俺のじゃないか。
アルトはすすす、と掛けていた小さい尻を動かすと、出っ張りをぱしぱしと叩いた。座れ、という事か。
「ん」
つられて腰をかけたイオリにアルトは銀色のビールを渡してきた。それも未開封……コイツどんだけ冷蔵庫からくすねてきたんだ。まあいい、乗ってやろうじゃないか。プルタブを開け、一口。……最高だ。
「なあ。今は楽しいか」
「ああ。まあまあな」
「ふふ、それはよい」
アルトは空を見上げた。さっきはあんなに赤かった月……今は真上に上って、燦然と白い光を放っている。それは、冬の済んだ空の中で、イクシーズなんて都会でも街中に確かに届いていて。
「実はな、その……なんだ」
「なんだ?」
少し、声を潜めるアルト。その様子は、まるで普通の人間のように。しおらしさを感じた。
「私は、お前が此処に居る事を知って来たんだ」
「だろうな」
グビり、とイオリはビールを飲んだ。それは予測できなかった事じゃない。
「……驚かんのだな」
「別に。この世に偶然なんてものはない。あるのは必然……「運命」だけだ」
「運命を信じて偶然は信じない……納得いかんな」
「現実しか見ないんだ俺は。夢は見ないんだ、合理主義でな」
グビり。アルトがビールを飲んだ。
「そうか。まあ、その……あれだ。私はお前が此処までやって来た経緯を知っている」
「……「叢雲」、だな?お前が「イクシーズ」「教会」とそう密接になっている訳もあるまい」
「脳筋に見えてそういうところは勘が鋭いな、貴様。まあ良い。過去の事など取るに足りん。お前はお前が生きていく為に今日まで生きてきたんだ。ならその全ては間違いじゃない。それが例え、「大罪王」等と呼ばれようと――」
「ははっ。「生きてきた」、か」
それは、イオリの乾いた笑い。喉が軽く引き攣るのが、自分で分かった。どれだけ生まれ変わろうと、この身は「イオリ・ドラクロア」と「ロイ・アルカード」の業、その咎……全ての罪を、消せない過去を背負って生きている。
「人の命は安い。どんな命も平等に安いのさ。だとしたら――なあ。
「……。」
「聞いても分からんか。だって、俺ですら分からないんだ。安い命を幾らでも屠ってきた。罪なき者まで巻き添えにしてきたんだ。そんな俺の命に今更価値なんて――」
「黙れ」
パンッ。軽い、けれど、重い音が鳴った。イオリは、その一瞬を分かっていて、けれど避けなかった。
アルトが、イオリの頬を叩いたのだ。泣きそうな、少し俯いた顔で。
「それ以上は、黙れ……!」
「……ん。」
バゴンッ!!鈍く、重い音が鳴った。アルトは、その不意の一撃にさぞ驚いただろう。吹っ飛び、地面に尻餅をつき、イオリを信じられないといった揺れた瞳で見る。持っていたビールはその中身を溢し、無残にも床に飲まれていった。
イオリ・ドラクロアが、鴉魔アルトの頬を殴り飛ばしたのだ。
「一発は一発だ。悪いが俺の信条は「女子供に手を出さない」だが「天には唾を吐け」でな……」
ゴキュリ、ゴキュリとイオリは自分のビールを一気に飲み干すと、空になった缶を地面に投げ捨てた。アルミが音を響かせて転がる。
「死に場所だよ。俺は死に場所を求めて彷徨う
「……ああ、そうか。分かった。分かったぞ……!!」
立ち上がったアルト、イオリに跳び込んで両足で渾身のロケットキック。イオリ、仰け反りはするがその身にダメージは無い。
「なんて言うと思ったかバーカ!!それじゃただ拗ねてるだけの餓鬼じゃあないか!お前が生きてきた38年間、そんなにくだらない物だったのか!」
「知るか……知るかよ!」
イオリ、アルトに跳び込んでの胴廻し回転蹴り。顔面に寸分狂い無くクリーンヒット。アルトが弾け飛ぶ。
「300年生きた奴には分からんだろうよ、人間のこの苦しみは!!ならば、捨てるしか無いだろうが!!」
先手で起き上がるアルト、地面に尻を着いたイオリの胸元を掴んだ。その眼を見据える。
「持っていけ!!!」
「っ、何……!?」
瞬時、
「背負ったままでいいだろう、それまでの事をしたんだったら!そして未来へ持っていけ!苦しめ!忘れるな、けれど悔やむな!!お前の生きた証明、其処に全部、詰まってるんだから!!」
「世迷いがかった事を……!!」
「迷って何が悪い!!構わんだろう!?全知全能の神じゃあない、人ならば!迷っていいんだ!!その末の未来を手に入れてやりゃいい!!だから……」
アルト、手を離す。イオリは気圧され、その場に座り込んだ。もう、殴り合う勢いは無かった。
「そんな、悲しい事は言うな……!私は、お前が死んだら悲しいぞ……!」
「……チッ」
そっぽを向くイオリ、しかし。心の何処かで、アルトの声は僅かに届いているかも知れない。それ以上、まるで根負けしたかのように何も言わなかった。きっと、この言葉の意味は理解している……。アルトは少なくとも、そう思った。
……少しばかりの無言。地面に座り込んだイオリにまた、冷たい物が投げ渡された。缶ビールだ。
「……おい、待て」
「待たん。美味い物は存分に楽しめ。動いた後はビールだろう?」
シュカッ、と音が鳴った後、アルトは自分の分のビールを煽った。
「何処から持ってきた……!」
「勘の良い餓鬼は大好きだ。何、貴様ん家の冷蔵庫☆」
テヘペロッ!ウインクと同時に舌を可愛らしく口から溢した300歳の少女は悪気なく誤魔化すように笑った。
瞬時、イオリ・ドラクロアの左手がその可愛らしい顔面を鷲掴みにする!
「お前なぁ!高いんだぞビールは!人の!もんだと思って!幾らでも貪りやがって!!」
「あああ!!痛い痛いイオリ・ドラクロア!?お前っ、これやばいやばい!」
アイアン・クローで掴まれたアルトは宙に浮きながら苦痛の呻きを叫ぶ。
「天には唾を吐けだ!覚悟は出来たか?神でも恨め。「
「あっ、あっ、出ちゃう、何か出ちゃう――」
ミシミシと軋む音と共に悲鳴が月夜の空に響いた。新社会「イクシーズ」、今日もまた平和?なのだろう――
――「雪の降った境内。ふふ。「実に風流」、と言った処ですか」
空に月が登りきった頃。雪の積もった「
水色の袴に、黒色の羽織。そして赤いマフラーを首に巻いた、何の事は無い、場所が神社である事を考えれば違和感の無い服装だろう。ただ、違和感を挙げれば――その男の髪が「ドレッドヘアー」であり、「サングラス」を掛けている事ぐらい、だろうか。
「全く、掃除も大変なのに
男が呟くと、辺り一体が小さな炎の海に染まる。そして、積もった雪が見る見る内に溶けていく。
「「
そして、その言葉を境に炎は一瞬にしてボウッと消え去った。後は、地面を濡らした水だけ。
「因果の歯車は動き出した。さてさて、役者は揃ったのでしょうか?否――まだ。物語はここから。ええ、ここから。結末はまだ分かりません。」
男は言葉を紡ぎながら、
「選ぶのは、彼らですから」