新社会「イクシーズ」―最弱最低(マイナスニトウリュウ)な俺―   作:里奈方路灯

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「もうじきに決着が着くみたい。今日って夜の御終いだ」

 地下繁華街の果て、「地平線の泉」。公園の真ん中には噴水が、そして円を描くような形状の広場。地下のギリギリ、地上と海の狭間。海の一帯を見渡すパノラマの窓から、肘を窓枠について「統括管理局(データベース)人類主席(じんるいしゅせき)」逢坂緑は夜明け寸前の紫色の海を視ていた。

「そうですか」

 バーテンダースーツに身を包んだ青年「平清盛」は、背後から彼女に相槌を打つ。そう、もうすぐ夜明けだ。全てが丸く収まるのだ。

 それは、彼の願い。卑屈な少年の、せめてもの狙い。

「モチのロンだけど、君には一切罪が無いようにしておくよ。私をここまで守ってくれた勇敢な男の子だってね」

「それは、ありがとうございます。僕は貴方さえ無事であれば、なんでもいいんですけれど」

 彼が、そう答えた次の時には。緑は振り返り、彼の体を抱いていた。両腕で彼の身体を抱き込み、その顔を胸に抱きしめ。

「……え?」

 突然の事。彼にはそれが視えていたが、対処がわからなかった。

「うん、良い顔だ。可愛げのある顔立ちだが、目付きが悪い。笑うようにするとモテるぞ少年」

 仄かな暖かさ、ふわりとした優しさ。彼は、その心地に「安らぎ」を感じた。

「本当に良い男だよ、全く。私がマトモだったら放っておかなかった。真実の愛とは幽霊のようなものだと言う、なぜなら誰もがそれを口にするが、誰も見たことが無いかららしい」

 それも、束の間――

「君は愛を視たことがあるかしら?」

――緑はその華奢な体で、彼の肉体を窓の外に放り投げた。

 瞬時、反応出来るはずもなく。有るはずの窓は、その瞬間には無かった。彼は能力の「目」で認識する、理解した、消えゆく電磁波の欠片から、それが「電磁フィールド」の窓だったことに。なら、彼女が解除したんだろう。

 無いはずの筋力。そんな筋肉、彼女の体には備わっていない――否。有り得るとするならば、例えば、筋肉を電磁操作して……?

 何よりの不可解は、彼女が。なぜそんな行動に出たのか、だった。故に彼は、対応出来なかった。

「頑張って泳げば海岸線に着く。すぐ近くに海浜公園がある、良い子はもうすぐおはようの時間だ。悪い夢から覚めて、普通に過ごすといい」

「ま、待って……!貴方は――」

 直ぐに分かった。彼女は、全てを。

「この物語のフィクサーは一人で充分。その方が悲劇だろう?」

 わざとらしく、右手の人差し指を立てて。

 全てを、理解(わか)っていたのだと。

「さよならだ、岡本光輝くん。せめて、君が、目が醒めた後に――」

――悲しんでくれたなら。

 直ぐに閉じられた窓の向こうで、聞こえなくなった筈の彼女の声が、彼女の唇がそう言った気がして。

 バーテンダースーツの男、岡本光輝は黒い海に飲み込まれた。


エモーショナル・バウンサー~エンディング~

「こっちであってんのかよ?」

 

 走る五人組。シャイン・ジェネシスがいまにも息を切らしそうな苦しい顔で、必死に呟く。

 

「合っている。統括管理局からのマップ通りだ。お前は土地勘を鍛えたほうがいい」

 

 その中で戦陣を切るイワコフ・ナナイ。迷い無い瞳で、息の一つも切らさず走る。そして、それに涼しい顔で着いて行く浅野深之介。エリザベス・ロドリゲスは足に骨の擬鎧(ぎがい)を装備して難なく走っていた。

 

「いや、あんだけの情報で分かるナナイさんが大概だから」

 

 尚、夜千代も着いて行くのが精一杯ではあるが、息が切れるという事は無い。足に雷の加速装置を着けていた。

 

「……お前らズりぃもん……」

 

『そのすぐ先から逢坂緑主席の反応があります。そのまま向かってください』

 

 シャインが泣き言を言うと、耳元のインカムから管制塔のオペレーターからの指示が聞こえた。なるほど、問題無し。

 

「わかったよ、行きゃいんだろ行きゃ!」

 

 そして五人は、その広場へと足を踏み入れる――

 

――統括管理局、管制塔。そこでは複数人のオペレーターと、そして、一人。和装を身にまとった赤髪の少女……それは見た目だけで、中身はもっといった女性が。

 

「順調じゃあ無いか。流石はイクシーズの者達よ、優秀だな」

 

 ソファに座りご満悦。凶獄煉禍が楽しそうに笑っていた。

 

 宙に手を漂わせ、ふわふわと揺らし、そして、握り込む。

 

「全ての運命は、私の物だ。私が司る……緑よ、よくやった。私の片腕よ」

 

 彼女の手の中には全てがある。イクシーズの権限、統括管理局、人類主席。その全て――

 

――カタカタ、と橙色のレンガが敷き詰められた広場に足を鳴らして入る五人。辺りには街灯の明かりが少し、円形の広場の中央には噴水。今はもう忘れ去られた地下繁華街の中で尚機関が運転しているようで、水が湧き出ている。

 

「おいおい、とっくの昔に作られた場所にしちゃまだ小奇麗じゃんか――」

 

 ガシャン。

 

「――おっと!」

 

 五人の内最後に広場に入ったシャインが辺りを見渡して感想を言うと、後ろで何かが閉まる音がした。振り返ってみると、其処には大きめの通路を塞ぐほどのガラス張りのドアがあった。見事に閉まっている。

 

「……こんなもんあったのか?おい、管制塔。此処で――」

 

『――……。』

 

 シャインがインカムを使って管制塔に語りかけるが、応答がない。

 

「通信障害のようだ」

 

「チッ、ここまで来て……いや、電波が届かなくなったか」

 

 深之介が冷静にそう答えたが、まあ、無理も無いか。ただでさえ使われてない地下の最新部、そこまでくりゃあ電子機器の電波も届かない事もあるだろう、と。

 そして、再度。辺りを見渡した。ここが最新部なら、彼女が居るはずだ。囚われの姫君、逢坂緑。

 

「そろそろ来るとは思っていたけど、待っていたわ。ありがとう、みんな。任務達成ね」

 

 声の方向。広場の奥で佇む、白衣の女性。背後には窓、そして東雲。僅かな明かりが、まるで後光のように彼女を照らしていく。少しずつ、外から明かりが舞い込んできた。

 そう、少し特殊な立地。この場所は地下だというのに、外の景色に臨むのだ。その大窓を区切りにして。

 

「おっし、センセ!さあ、帰ろうぜ」

 

 シャインが喜び、緑に声をかけてその足を踏み出す。これで任務完了。世は全て事も無し。

 

 ザシュン!!

 

「ったぁ!!?」

 

 そんな内心をかき消されるかのようないきなりの出来事にシャイン、のけぞってレンガ造りの床に尻餅を打つ。凄く痛い。いったい何事だと目を見開いて改めて思考すると、目の前の床には、「光の剣」が突き刺さっていた。

 

 これはシャインの能力だ。シャインが自分の能力で突き刺したわけじゃない。だとするなら、誰が……?答えは一つだった。

 

「おい夜千代!てめ……」

 

「ま、いやっ、待っただ!待ったを掛けるッッ!!」

 

 シャインが振り向くと、其処には残った四人の中で、一人。剣を投げた後の動作で固まっていた黒咲夜千代が居た。どう考えてもこの状況、彼女が投げたとしか考えれない。

 シャイン、直ぐに立ち上がり、夜千代の目を見る。凄く動揺して――怯えた目。おかしい。普段の彼女のふてぶてしさからは、とても想像が付かないぐらい。

 

「待っただ……?エンディングはすぐソコだ。エンドロールをじっくりみたいっつっても、ポーズぁ効かねぇ。うっかりスキップしそうになったか?それとも、だ」

 

 シャインは茶色の前髪を掻き上げて、夜千代の目をじっくり見る。ガンを飛ばすように。

 

「佐之の「シンパシー」か?……いや、そりゃ無えか。アイツは死んだ。能力の影響も消し飛んだ」

 

 佐之・R・ミュンヒハウゼンの影響が残っているなら、この奇行も有り得るだろう。しかし、それは無い。だって、アイツの亡骸は確かにあったのだから。事実、シャイン達は信者へのシンパシーが消えた事を確かめた上でここまで来た。

 

「そう……アイツは死んだ……死んだんだ……なのにオカしいじゃねえかよ……なあ、人類主席(・・・・)サマ……緑さんよ……!!」

 

「ほう」

 

 一方的に、ただ怯えた様子の夜千代に対して、緑は笑顔で相槌を打った。

 

「なんで貴女の魂は無色(・・)なんだよ……ッッ!!」

 

「……ふぅん?」

 

 緑は笑ったままだ。笑ったまま、五人の方へと歩き出す。

 

「あ?夜千代、お前何言って」

 

「魂はッ!!」

 

 夜千代が手の形を銃にした。ゆっくりと、ナメクジの速さで歩み寄る緑にそれを向ける。明らかな敵意。

 

「人間の欲望を映す……!どんな人間にだろうと、少なからず(カラー)があんだ!シャインさんが黒と黄色混ざってるみてーに、普通の人間は姿形(カタチ)が見えやがる……!」

 

「それで?」

 

「緑さんのも色があった!ピンクと黄色と青と色々混ざった、フツーの人間の色だった……。でも今のそれは、その……」

 

 夜千代はその言葉を、喉の奥から、捻り出すように叫んだ。

 

「月の信者と、おんなじ色してやがんだッッッ!!!」

 

 その言葉に。夜千代が叫んだ、その言霊に。この場の空気が、凍りついたような気がした。

 

「それはつまり……「人間」の色じゃない……!!」

 

「……君が何を言いたいかいまいち分かりかねるが?」

 

「よーするに、だ。アンタ、怪しいぜ?」

 

 夜千代を庇うように、ミシェルがその前に立った。首をコキリ、と鳴らしゆらり立つ姿は傍から見て戦闘態勢のように。

 

「最初っからどうもきなっくせー話だったんだよ。破られるはずの無い管理棟が破られた。包囲網を抜けられた。地下繁華街へと逃げ込まれた。なぜ天下の統括管理局が出し抜かれる。挙句の果てにはクローンだ?ありゃ、CIAでもトップクラスの機密だぜ?それをなぜ、佐之の手にあるか。どっから持って来た?」

 

「おい、ミシェル……!それ以上は」

 

「良い子ちゃんは黙ってな。世の中にゃ叩きつけなきゃいけねー事実がある」

 

 今度はストップを掛ける側になったシャインを置いてミシェルは続ける。

 

「お前だよ、逢坂緑。手引きしたろ、何の取引だ?」

 

 言っちゃオシマイ。そういう話だ。考えれば、逢坂緑は「胡散臭すぎる」のだ。それは、傍から見て。同じ組織の人間では、それを言えない。情があるから。関係があるから。「仲良くしたい」、普通だったらそう思うだろう。

 

 夜千代のそれを皮切りに、ミシェルはぶちまけた。

 

「40点」

 

 進める足を止めた緑。一番近いシャインとの距離、僅か5メートル。

 

「嘘だと言ってくれ……」

 

 シャインは、信じたいような、疑いを僅かに含んだような苦い表情で、緑を見る。緑は、それを目にもかけない。

 

「論より証拠だ。方程式が合っていても解が無ければ数学のテストではペケだぞ?君の解答(QED)はそれまでかね?」

 

「例えば、こういうのはどうだ」

 

 深之介が、ズボンのポケットから試験管を取り出した。中には緑色の液体が入っている。

 

「これの中身を統括管理局に分析してもらったらいい。恐らく佐之のクローンに使われたものと同じ物だ。その中身がどれだけ重要な物か分かるだろう。それに指紋も良い。佐之が持っていた物だが、まあ、彼女のも見つかるだろう」

 

――賭け。これは半ば、賭けに近い。

 

 今、突発的に頭の中で浮かんだ「理想論」。それだけを、競馬の3連複を当てるように能書きで綴っただけだ。

 

 後は、伸るか反るか。

 

「……ツキが落ちたな」

 

 緑は窓の外を見た。其処にはもう、朝日が昇り始めていた。夜明けだ。

 

「いいよ。70点!!及第点をあげよう」

 

 緑は右手を天へとかかげ、そして指パッチンを鳴らすと同時に肩と水平になるように下ろした。

 

「私が全ての根源だ」

 

「――」

 

 瞬時、ノータイム。この時を待っていたと言わんばかりに碧眼金髪の少女が地を駆けた。

 時速150キロのストレートのような動きから即斜めへ角度を切り、そして死角の場所から緑に掴みかかる。

 そして、その掴みを「知っていた」かのようにステップで躱され、その場に緑は居ない。取った筈の死角を取り返される形でナナイは緑に投げられ地面へと突っ伏した。

 

――馬鹿な!?

 

 そう思ったのは、ナナイだけでは無いだろう。この場でただ一人。逢坂緑を除いては。

 

「君がそう出るのは知っていた。だから、準備しておいた。分かるかな……?」

 

 投げっぱなしの後のナナイを、緑は背を踏んでその場に止めた。ナナイは必死に動こうとするが……。

 

「は、離せ……ッ!」

 

 動けない。動かない。まるで、自分の体が金縛りに合っているみたいに。自分の意思で動けない。

 

「筋肉というのは、電気信号で動くって知っているよね?ならば答えは簡単なのさ。「私が全て操っている」……-10度の雪山でも問題なく動けるシュヴィアタの民でも、流石にこれは効くみたいだね。君の敗因は勝てるはずの相手に慢心してイニシアティブを譲渡した事だ。勝ちたかったら皆で一斉に攻撃すりゃよかった」

 

「ナナイッッ……!なあ、緑さん!冗談にしちゃ度が過ぎるでしょう!?」

 

「まだ寝ぼけてんのかシャイン。ありゃもうお前の知ってるあの人じゃない」

 

「なんだってんだよ……ッ!」

 

 ミシェルがその手を、骸骨をまとわせて緑に向けて。「不吉あれ(オーメン)」、そう言おうとした時だ。

 

 緑がその足で、ナナイの頭を踏みつけた。ゴリッ、と。レンガの床に食い込みそうな音で。

 

「ぐがッッ……」

 

「まあ、待ってよ。スイカ割りにしちゃ、まだ時期が早すぎる。少し、お話しようじゃないか。君達は、私をご機嫌にしてくれるだけでいいんだ。それで彼女を解放するから」

 

 人質。手を出せない。ミシェルはかざしていた手を下ろした。

 

「ケッ」

 

「悪魔的な……ッ!」

 

「ふふ、違うよ夜千代ちゃん。私はね、悪魔に魂を売ったつもりは無い。君の見た色の通り、無色……。偉人で例えるならイエスかムハンマドに近い。良い例えだろう?神のそれだ」

 

 静寂が訪れた。ひとまずの、無音。場が落ち着いた。

 

「話がぶち切られたな……何から話そうかね。そうそう、管理棟の杜撰な管理も。教会戦で私が彼に付いていったアドリブも。地下繁華街が生きていて其処に逃げ込まれたのも。彼のクローンがあんなにも存在していたのも……」

 

 パン!と緑は両の手の平を合わせるように叩き、そして体の横へと広げた。

 

「全て私の「想定内」だ。さて、100点から-30点分の理由は」

 

 煽るような動作の後、緑は考え込むような仕草で右手を顎に当てる。

 

「私はそうなるように物事を「配置」しただけで、手引きなどした訳では無いんだよねぇ……」

 

「あ゛?」

 

 苛立ちを隠せないミシェル。しかし、どういう事だ?

 

「お前が佐之の共謀者だろっつってんだよ!!」

 

「だーかーら、違うんだよっ♥私は、あれやこれを、そこに「置いていた」だけ。何も言ってないの。佐之君はぁ、それを上手く利用したってだけ。きゃー、イシンデンシーン♪」

 

 今度は両手をグーのような形にしてそれで顔を隠すような、ぶりっ子のポーズ。傍から見てそれは狂気を含むような。それが許されるような状況ではないというのに。

 

 本人も飽きたのか、直ぐに素に戻って体勢を楽にした。両の手を白衣のポケットに突っ込む。

 

「……んでさ。偶然に偶然が重なって。私がそういう風に状況を作ったとして。佐之と取引してないのに佐之がそれを全部利用したとしてさ。私は罪に問われるかい?犯罪示唆か?……違うんだよ。ただの不祥事、それだけの話なんだよ」

 

「なら、それでいい。ここまでのを全部、」

 

「あ、君の録音装置は此処に入ってきた時点で壊しておいたから」

 

「――」

 

 ミシェルは直様自分の服に仕込んでおいた小型録音端末を取り出した。手の平にコンパクトに収まるそれのスイッチを押すが、なんと。うんともすんとも言わない。

 

「てっめ……!」

 

「分かっていたさ。全部。そう、私には全部分かっているんだ」

 

 緑の背後には、ついぞ太陽が。海を朝焼けに照らす、オレンジ色の光。そして、彼女の瞳が。同調したかのように、黄金色に光る。

 

「なぜ、何がどうしてそうなるのか。簡単な事、全ての事象が観測出きかつ処理出来るなら、物事というのは得てして結果が決まっている物。かつて物理学の上に君臨した「悪魔の証明(パン・デモニウム)」を、学者達は挙って「ラプラスの悪魔」と称した」

 

「「我々はそうすべきだ、我々はそうするだろう」……ダチが言ってたぜ、そういう事か」

 

 夜千代が口を挟む。その答えに、緑は笑みで返した。

 

「そう。人の行動原理、他人には分からぬが当人なら知っている。どうしてもそうしてしまう(さが)。それら全て理解してしまったのなら、後はもう電卓を叩くまでも無い。私の脳がそうであるように」

 

 その言葉、どこまで信じていいのだろうか。信じてしまったのなら、人は、運命を崇拝しなければいけなくなる。「占い」「予言」「未来視」etc――未来を知る権利を、持てるとしたら。それを、人と呼んでいいのだろうか。

 

「私の脳は進化(イクシード)した。電磁波を操る能力により、力はシュヴィアタを超え。処理能力はスパコンなんて比じゃ無い。これはもう神の領域だよ……!はははっ!!「完全なるセカヰ(パーフェクト・ヘヴン)」だ!!私はこれを、こう呼ぼうと思う!あははははははは!!!」

 

 けたたましく、馬鹿のように高笑いをする緑。左手でその顔を抑え、ただ、狂ったかのように笑った。

 

「っっっはーー……。ねぇ。私の人生で一番楽しかった話を聞きたいかい?」

 

 その問いには、誰も答えない。五人全員、その結末を見届けるしかない状況だ。

 

 おかしくなった、彼女の。そうするしか、ないのだ。

 

「ありゃ、夏休みだったかなぁ。高校の時ね。外に遊びに行ったんだよ。友達とね。そしたらさぁ、近所の家からさぁ、犬が出てきたんだ。黒色の。芝みたいなやつ。其処の家、家電を頼んだみたいでね。販売店のトラックが止まっていてね。玄関を開けてたんだろうねぇ。可愛くってさぁ、でも、遊びに行く途中だから、手だけ振って、遊びに行ったんだよ。忘れもしない、16の夏。八月だったよ。あははっ、暑い熱い……」

 

 念入りにじっくりと思い出すように語る緑。その表情は、まるで無邪気な少女のようにも。

 

「友達と遊んでね。お家に帰ったの。夕方だった。そしたらさ、どうなったと思う?え、その犬だよぉ。あははっ。其処の家の玄関に人が集まっててさぁ、どうしたってさぁ、犬、小道出て、車に轢かれて……さぁ、死んでたってさぁーーー!!!っげはははははははは……えはっ、えはっ。死ぬ、笑い死ぬ……」

 

 本当に、それがさぞ、可笑しかったのだろう。腹の奥から嗤う緑。其処に普段の知的で愛らしい彼女の姿は無く、話を聞いているシャインと夜千代はなんとも言えない表情で俯き、ミシェルは呆れ顔で、深之介は無表情で。

 

 ひーっ、ひーっ、と笑いが収まる頃には、緑はその目尻に浮かんだ小粒の涙を左手で拭っていた。

 

「ようするに、私が言いたいのはね、こんな糞みたいな管理社会の中で最も楽しかった出来事ってのが、「呆気ない死」だったんだよ。些細な、すれ違いによる死だ。生き物は簡単に死ぬ、例えば、さっきまでの話は、「犬をしっかり鎖で繋いでおけば死ななかった」んだよ。そう、簡単に死ぬ。命ってのは安くてねぇ。イクシーズの中で、しかしそれは外よりも少ないんだ。監視されてるからねぇ……」

 

「当たり前だろう。その為のイクシーズだ」

 

 此処で深之介が言葉を挟む。勿論、緑にはそれが判っていた。

 

「それは君が楽園にたどり着いた側だからさ。っていうか、此処に居る私以外みんなそう。シャイン君も、ミシェルちゃんも、ナナイちゃんも、深之介くんも、そして――夜千代ちゃん。君もさ」

 

 それは、意図的に仕組まれたのだろうか。それとも、初めから決まっていた結果――「神のみぞ知る」のか。

 

「“人は秩序を作るが、秩序は人を作らない”……よく言ったものだよねぇ。神が創った世界の中で人は産まれるが、人が造った世界の中では悪魔が産まれ生る。あー、やだやだ」

 

 さっきまで踏んでいたナナイから降りると、緑は後ろの窓へと歩き出した。ナナイはまだ動けない。

 

「さて、じゃあ、そろそろ行こうかな。ねえ、君達」

 

 緑は太陽を背に、眩しい光の中でにっこりと笑った。その光で、彼女の姿は上手く見えず、

 

「夏恋ちゃんにさ、伝えといてよ。「殺したいほど愛してた♥」って」

 

 かろうじてポケットの中から取り出した右手を、こめかみに添えた事だけが分かった――

 

――「GPS機能復旧、通信OK」

 

「ようやくか」

 

 オペレーターの声に安堵する煉禍。少しだけ焦ったが、何も問題無かろう。煉禍は優雅に赤ワインの入ったグラスを口に近付け――

 

「――逢坂緑主席、信号喪失(シグナルロスト)

 

「は?――」

 

 そして地面に落とされたグラスは、割れたガラスの破片と共に赤い液体を地面へと飛び散らせた。


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