A:必要ありません。既にもう、揃ってます
Q:くははは、そうかい。なら二度と振り返るなよ
A:はい、それでは……いってきます
そう、これはーーー悪足搔きだ。
「……ぅ?」
肌にざらつく感覚と足元を震え上がらせる冷たさに目覚めた。震える両腕に力を込めて体を起こすと、そこは只の海岸だった。ただの海岸、目に止まる物も人気もない海岸。
痛み頭を押さえながら何が起こったのかをヒッポメネスは思い出す。
「そうだ、僕は……」
追いかけられて、自ら海へ飛び込んだ。
疫病にかかった村民を救い、裏切られた。裏切りは全て黄金の果実に辿り着く。万病を癒す疑似神酒、黄金の果実を砕き、酒と混ぜたあの酒で村人全員を救った。
恩を仇で返される。自らの安全と利益だけを求め、殺しもしたことがない村民が武器を取った。
最初は乗り切れそうだったが自分が胸に矢を食らう事で状況は悪化。アタランテに引っ張られ、崖まで逃げたがーーー
「アタランテ!?」
そうだアタランテだ。最後に見た絶望。矢の雨を背中から受け、事切れた最愛の女性。
妻の姿を求め、海岸を見渡すとアタランテはすぐ見つかった。少し離れた場所で倒れていたのを、ヒッポメネスはすぐに立ち上がり駆け寄った。
思わず顔が綻ぶ。良かった。彼女も無事だ。
彼女を抱き上げて、顔を見てーーー
「え?」
硬直する。顔も体も、周りの空気や波でさえも止まったようだと幻視した。
「ま、待って、だって僕は、無事で…」
自分の体を触り、無事なことを確認する。矢を受けた足や胸に傷はない。若干痛むが問題ない。
おかしい。胸を矢で貫かれ、無事に生き延びる人がいる筈がない。自分が例え海神の孫だとしてもーーー
そうして気づく。自分が“海神の孫”だということを。
己の魔力が高まるのは何処だ?
最も得意な魔術は何だ?
属性は? 原初は?
全てーーー海に由来する。
だから不思議ではないことに気づいた。
「あ、あぁっ…」
海に包まれることで無意識に魔力が高まり、傷が修復されるのも。
致命傷だった心臓も、一矢程度ならば治癒されても。
何の問題もなかったことに気づく。
「あぁ…!」
だが、アタランテに血筋の恩恵はない。
彼女は神に祝福された英雄。月の女神による祝福を受けた、純潔の契りを交わした女傑。
“ただ”の人間で、誰よりも輝いた人間。
ただの人間は、矢の雨を受けて生きていられない。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」
響く、響く。何処までも遥か遠く、天の上にあるとされる
「お願いします!
「彼女に罪は無い! 彼女は愛されたかっただけだ! 全て僕が悪いんです! 彼女を絶望に叩き落としたぼくが悪いんです!!」
「お願いしますお願いします!
「僕の魂なら幾らでも捧げます! 永劫の闇に閉ざされたっていい! 彼女が笑って、幸せになるなら如何なる責め苦も受け入れます! どうか、だからぁ!!」
「見ているのでしょう
「彼女は貴女に捧げた! 今も尚それは変わりありません! だからどうかご慈悲を、祝福を彼女に与えてください!!」
「
「
「誰でもいい、誰でもいいんです!! 僕じゃない、彼女に生きる権利を、彼女に祝福を与えてください…お願いします、お願いします…」
「お願いします……どうか、何でもしますから……」
「……………アタランテぇぇぇぇぇぇぇ!!!」
懇願も慟哭も応える者はいない。亡骸を抱いて泣き続ける。ずっと、ずっと、三日三晩泣き叫んで、応えるものは誰もいない。
喉から血を吐き、流した涙は乾いて皮膚がひび割れても、叫び続ける。
それでも、死から免れなかった。
認めなくても、ヒッポメネスだって分かっている。
純潔の狩人は、死んだ。
■ ■ ■ ■ ■
アタランテが死んで一週間。
ヒッポメネスは一週間の間、自分が何をしたのか覚えていない。
とりあえず、墓を作ったことは間違いない。嫌で嫌で、仕方なかったけど。亡骸をあのままにしておくのだけは避けたかった。
後は、食べれる物を集めて、死なない程度には食べたと思う。自分の周りには食べ物の残骸が散らばっているのだから間違いと思う。
他は知らない。何もしてないと思う。墓の前で蹲り、ただ眺めていた。
自分の今までの行為を後悔しながら。
何が言葉無しで愛を伝えるだ。馬鹿らしい。本当に馬鹿らしい。
あの徒競走で後悔して、彼女を幸せにしようと必死だった。言葉は信じられないだろうからと言い訳して、ずっと本音を隠して隣にいた。
最悪だ。死んだほうがいいほど醜悪な男がいる。
人間は言葉で歴史を紡いできた。言葉を形に残す為に文字を生み出し、学び、言い伝えてきた。
魔術を習得する自分が言葉の重みを知っている癖に、獣に劣る手段をずっと選んできた。
本当に彼女を愛しているなら、言葉にするべきだった。嘘だと否定され、嫌悪され、拒絶されてもみっともなく何度だって話すべきだった。
自らの汚い部分を開き、知ってもらうべきだった。人が当たり前にしてきた事から逃げた。
人を怠り、獣に逃げた自分には本当にお似合いの結末だ。
愛する者を失い、生き続けている内は永遠と後悔に悩み続ける。
天罰か? 女神への感謝を忘れた自分への仕打ちか?
…いや、止めよう。神の所為ではない。
巡り回った行いが今になって精算されているだけだ。それに気づくと、このまま喉を掻き毟りたくなる。
結局、悪いのは自分だけなのだから。もし八つ当たりできる者がいたのならば彼は復讐に取り憑かれ、死ぬまで暴れ続けただろう。だが都合のいい相手はいない。このまま自殺を考えたところで。
いた、復讐できる相手が。
アタランテの温情を、疫病から救いたいという願いを踏み躙り、恩を仇で返した村人達が。
心の奥で醜い濁った黒い感情が渦巻く。怒りが沸々と浮き彫りになり歯軋りになって現れはじめる。
そうだ。いた、殺していい相手が、復讐に身を燃やせる連中がいた。
ヒッポメネスを止める者はいない。引き止める者も、囁く者も。神さえも止めることはない。
自分と同じに海辺に流れ着いていた小剣と槍を拾い、ゆっくりと歩き始めた。
爛々と燃える復讐の色を魂に染め、凄惨な光景を頭に思い浮かべながら。
○ ○ ○ ○ ○
嘗て歩いた道をよく覚えている。前に歩いた時はアタランテと一緒だった。だが彼女はもういない。その事がヒッポメネスの苛立ちを刺激する。もうすぐ着く村の連中はどうしているだろうか。幸せか、それとも不幸の最中か? どうでもいい、幸せなら絶望に叩き落とす。 不幸ならば地獄に送る。違いなどない。ただ、殺意だけが彼を支配する。男も女も関係ない。顔を合わせた瞬間、首を胴体から斬り飛ばす。
見えてきた村の風景に自然と手に力が入る。槍か剣か。歩みが早くなり、ヒッポメネスが村に入った瞬間。
誰もいなかった。
畑も空き、家の中から一切生活音が聞こえてこない。村人が去った村だと判断すべきか。
ヒッポメネスは脱力した。どういう理由でいないのか知らない。だが、探し出す。そう思い、踵を返し。
村の入り口に少年が立っていた。
その少年の顔を覚えている。最初に遭遇した病に冒された幼き男子。アタランテに助けを請い、村人の為に尽力を尽くそうとしたキッカケ。
そして、アタランテを殺そうと矢を放ち、自分の心臓を貫いた者。
叫び、剣を構えた。今まで滾らせていたものが弾け飛んだ。一歩で魔力を回し、二歩目で飛んだ。
確実に殺す為、地面へと押し付け剣の切っ先を頭へと向ける。
「お前の親達は何処へ行ったあ!!!」
ここで殺さなかったのはまだ理性が残っていたからか。問われた少年は恐怖に怯えながらもヒッポメネスの問いに答えた。
ーーーほ、他の村で、略奪しにいきましたっ。
そうかと納得し、剣を両手で握りしめ天へと持ち上げる。
あの畜生共は他の村で略奪に向かった。アタランテの命を奪って尚、さらに欲しがっていることに復讐心がさらに燃え滾る。
この少年を殺してから、向かおう。
逡巡などない。ヒッポメネスは顔を青くして歯の奥をカチカチと鳴らす少年を見下した。言葉などかける手間も価値もない。
何の気概なく、剣を振り下ろした。
『子供達が健やかに育ち、親に愛される未来の為だ。後悔などない。どんな罰だろうが、受け入れようとも』
振り下ろした剣は少年の顔の横へと深く突き刺さった。
「どうして…」
少年は剣とヒッポメネスを交互に見る。なぜ殺さないのか、何で助かったのか怯えながらも疑問を抱いたのだろう。だが、ヒッポメネスはそんな少年の気持ちなど知ったことではない。
突き刺す瞬間に思い出す、愛しき声が脳裏に蘇ったから。
「どうして邪魔をするんだ……!」
殺したい。憎み、怒り、どうしようもないほど恨んでいる。呪っていると言ってもいい、そんな少年を殺そうとしたのに、戒めのように彼女の声が心を縛る。
「こんな仕打ちでも君は許せたのかい!? アタランテ!!」
何処に叫ぼうとも返事が来るわけないのに、そう叫ばなければならなかった。そうしなければ、どうしたらいいのか分からないんだ。
ーーーご、ごめんなさい
自分が押さえつけている少年の震える声に、ヒッポメネスは恨みがましく見下ろした。
ーーー助けてく、くれたのにあんなことしてごめんなさい。お姉さんやお兄さんにも、感謝しているのに…ごめんなさい、ごめんなさい!
謝罪の言葉に眉を顰める。今更、そんな言葉に絆されるわけでもない。殺意は未だに続いている。その減らず口を八つ裂きにしたい。
ーーーごめん…なさい。ごめんな、さい。
でもーーーできない。何処までも憎いのに、恨んでいるのに。殺せなかった。剣を持つ手が血で滲むほど握りしめる。口の端から血が垂れ落ちるまで嚙みしめる。泣きたくなんかないのにーーー涙が落ちる。
『子が親に愛される。そんな当たり前の循環があればよかったのに』
その言葉がずっと頭に浮かんで、もう、何もできなかった。
「…親達は、全員行ったのか」
ーーー…はい。
諦めた。この少年をどれだけ恨み、憎もうとも殺せなかった。してしまえば、心の何処かが決定的に壊れてしまうのを感じて、ヒッポメネスは諦めた。
どうでもいい。どうでもよくなってしまったから、とりあえず少年に村の現状を尋ねた。
アタランテと自分を襲った大人の村民達は他の村の物資を奪うため、武器を持って出て行ってしまったらしい。
黄金の林檎を混ぜた酒を飲んだ者は全員力が湧き上がり、不死身になったと少年は語る。
肌を傷つけようとも傷はたちまち治り、どれだけ走ろうと息切れすることがない。まるで神になったようだと村人は目を血走っていた。
そんな事実、誇張だろうと流しながら少年に案内され、村で一番大きい家へと案内される。
家の中には村の子供達が寄って集っており、ヒッポメネスの姿を見ると足元に抱きついてきた。
子供達は覚えている。アタランテとヒッポメネスが病気を治してくれたことを、村を助けてくれたことを覚えていた。
小さな口から紡がれる、ありがとうの言葉。それさえもヒッポメネスは流しながら少年に尋ねた。
「大人達が最後に帰ってきたのは?」
ーーーお兄さん達が、海に消えてからすぐ、出立しました。
大体一週間も帰っていない。大人達は子供達を放って全員で他の村を襲いにいっている。
もしヒッポメネスがアタランテを失っていなければその事実に憤慨しただろう。今のヒッポメネスはそうは思わず、ならもう少し待てば帰ってくるだろうと考えた。
子供は殺せない。なら、帰ってきた時大人達を殺そう。
そう考えて、ヒッポメネスは子供しかいない村に滞在し始めた。
そして、ヒッポメネスにとって些細で、重大な数十日が始まった。
○ ○ ○ ○ ○
村に滞在して三日目。
子供達がヒッポメネスの元へ集まってきた。何事か胡乱げに見つめると口を揃えて、お腹すいた、と言ってきた。一瞬惚けたが、少年を見てみると申し訳なさそうに頭を下げた。
この少年は子供達の中で一番年齢が高い。大人達がいない現状、少年が子供達の面倒を見ていた。
今まで家に残っていた食べ物で食い繋いできたがそれも尽きたらしい。他の子供達は親が出かけたとしか知らない。
つまり、大人であるヒッポメネスに食べ物を求めに来たのだ。
最初は突っぱねてやろうと考えた。村にいる間は森に出向き自分で食糧を確保してきた。分け与える必要などない。
なのだがーーー
村に滞在して七日目。
年齢が高い子供達を集め、狩りを教えることにした。なぜ自分一人が子供達の食糧を集めなければならないのか。
別に猪を刈る必要などない。罠で小動物だけを狙えばいいのだ。
アタランテから教わり習得した狩りの技術を子供達に教えた。
村に滞在して十五日目
子供達に料理を教えた。だが誰も覚えないし、食べない。なぜだ。
村に滞在して二十二日目
村の穀物を狙って獣が村に現れ始めた。結局、自分が動くことになる。獣を狩ってついでに子供達に毛皮を与える。
村の周りに魔術を編み込んだ柵を作り、囲っていく。丁度いい暇つぶしだが、子供達が魔術を教えてとせがんでくる。正直鬱陶しい。
村に滞在して三十日目。
「……どういうことだ?」
流石に遅い、遅すぎる。三十日も村を離れるのは異常事態だ。
いや、最初からおかしかった。ヒッポメネスはアタランテを失った失意から思考を放棄していたが、村を襲いにいくのに女まで出る必要はない。
男だけでいいのに、女まで出るのはおかしすぎる。
ヒッポメネスは少年に問い質すが少年は分からないとまともな答えはない。
いや、そもそもこの少年に聞くのは酷だ。彼はヒッポメネスが来るまでその身一つで子供達を守っていた。本来なら彼こそがこの事実を問いたいのだろう。
「…他の村はどちらの方角にあるんだい?」
ようやく、ヒッポメネスは重い腰をあげた。
■ ■ ■ ■ ■
名もなき羅刹の世界。
光など無い、深淵の重み。
ーーーいわゆる、地獄というものだった。
「こ、れは……」
ヒッポメネスが目にしたのは、まず屍の山だった。腹から裂けられ臓物を垂れ流す死体、首から上が無く服さえも取り除かれた女の屍、弄ばれ苦痛の表情で朽ち果てていた骸。
村の中の家畜や木々、建物など全てに火が付けられて炭化した生黒い背景とそれを引き立たせる地面に転がる血肉の赤。
そんな地獄の一端が、小さな村で起こっていた。いや、終わっていたというべきなのかもしれない。
村を出て、近くの村まで半日という時間をかけてやってきた時には腐臭と汚臭の匂いが嗅覚を激しく刺激した。
ヒッポメネス死屍累々となっていた隣村の中を歩き、家の中まで確認したが生きている者など一人もいなかった。
なにがあった。
広く見渡すと食物や穀物、酒といった物は足元にばら撒かれ、まるで
その宴の周囲には村人であっただろう無惨な骸達が転がっている。
状況証拠というやつなのだろう。語る言葉無くとも、遺した跡が何を行っていたのか分かる。
老人、青年、若人、淑女、子供
老若男女問わず、殺されている。
酒を呑み、食物を食い散らかしながら、
「…ぅっ!」
咄嗟に口を押さえた。その有り様が脳裏に鮮明に映しだされ、想像できるだけ酷たらしい諸行が目の奥で再現された。
吐き気を催し、食道に今朝食べた物が込み上げる。吐くことこそなかったが、胸に後味の悪い感触が残り気持ち悪さに酔う。
「なんで、こんな…」
こんな真似ができるのか。なんでこんな事を行ったのか。
ヒッポメネスは知っている。長閑な村を黒く悍ましい地獄へと変えた悪魔の正体を、知っている。
なのに、これはどうなんだ? あの日、あの時救った時から彼らはただの人ではなく恩知らずの愚か者へと変貌した。
ヒッポメネスは忘れない。忘れるはずがない。あの連中は、僕達をーーー!!
後ろで茂みが揺れた。
「!!」
一応と武装していた小剣を構えると同時に振り返る。茂みから出てきたのは、一人の男だった。
何処にでもいそうな、村民の出で立ち。それならばヒッポメネスとて彼に向けて剣を構えないが、彼は構えを解かない。
男の服は血で染められていた。
何の血なのか。獣の血か? いや、そんなものではない。なぜ、今ヒッポメネスはそれは断言できるのか?
男の手には、短剣とーーー切断された
「ああ、ああ!!」
男は嬉しそうに顔を綻ばせる。その顔には人の良さそうなものとか陽気そうなとかそういうものは一切なくーーーひたすらに欲と狂気に彩られた表情で塗りたくられていた。
「いた、いたいたいたいたいたいたぁ!!」
手に持っていたーーー頭部を投げ捨てて、男は手に持った短剣を素人らしい構えともならない構えをして突撃してきた。
「黄金の、林檎ォ!! 俺の、不老不死ィ!!」
その男の顔をーーー覚えている。
その男は、誰よりもヒッポメネスとアタランテに感謝していた男だった。二人の手を取り、何度も頭を下げ、二人を救世主だと称え、救ってくれたことを感謝していた。
息子を救ってくれてありがとう、村を救ってくれてありがとう、と褒め称えた。
なのにーーーこの男は、裏切った。
自分の息子に矢を撃てと叱咤していた。その男の顔を忘れる筈がない。
ヒッポメネスがアタランテを失う原因となった、あの村で
「貴様ああああああああああああああっっっ!!!!」
怨嗟の叫びを上げて、小剣を叩きつけるように落とした。それは技ではない、ただ力任せに斬りつけた殺意だけの一撃。
血飛沫が舞う。
男の肩にめり込んだ剣は激しく血を吹き出し、地面と木々とヒッポメネスを赤く染め上げた。
常人ならば苦悶の叫びと共に倒れ無様に転び回るほどの激痛が襲う。ヒッポメネスはそれを期待した。この者には苦痛だけでは足りない。もっと絶望に叩きつけないと気が晴れない。それほどまでに憎く、黒い炎が心中で渦巻いていた。
なのに
「くひゃ、ひゃひゃひゃ!!」
「な…!?」
嗤っていた。口元からよだれを垂れ流し、気持ち悪い笑みを浮かべていた。
痛みなど感じてないのか、小剣が右肩から心臓近くまでにめり込んでいるというのにそんなものを目に入っていなかった。
「寄越せぇ!!」
「くっ!?」
短剣を真っ直ぐ繰り出すのを、ギリギリで避けた。頬に鋭い熱が走るが、それを無視してヒッポメネスは短剣を持つ男の手首を掴む、捻り上げた。
骨と筋繊維がミチミチと悲鳴をあげ、へし折れる寸前まで健を痛めつける。それでも。
「はな、せぇ!!」
「…らあ!!」
痛覚を無視し、抗うのを目にして腕を捻る。
軽く感じる音と決定的な衝撃が手の平から伝わった。男の腕は骨が折れ、まともに短剣を握れないほどに痛みがするはずだ。
「どうなっている…!?」
笑みが途絶えることはなかった。
小剣が胸にまで斬り込まれ、片腕もへし折られたのにも関わらず、男は狂った様子で笑い続ける。
気味が悪く、肩から剣を抜いて蹴り飛ばした。数歩ほどの距離が開き、肩から血を撒き散らす男の容姿を再び観察し、ヒッポメネスの目は見開いた。
じゅうじゅうと、傷口から沸騰するように泡が溢れていた。
粘着質な音と沸き立つ赤い煙。
その異様な光景の中心は狂気の男だった。肩の傷口からぼたぼたとドス黒い赤い泡が噴き出ては溢れ、やがて無くなったと思ったらーーー傷口は無くなっていた。
「な、んだ。それはーーー」
「黄金の、林檎」
男の口から溢れた言葉は、ヒッポメネスの疑問に応えた。
「黄金の林檎の、ちから、素晴らしい! 私達は、今まで、こんなすごい力をかんじたことは、なかった。溢れる活力、尋常ならざる力、痛みを忘れさせ、胸の奥底から出てくる願いを、なんでも叶えられ、る!
こんな、片田舎でずっと農作もつをしなくても、王族に頭を下げ、て、戦にでなくても、われわれは、オリンポスの神々のよ、うに、力で、全てを、支配できる!!」
酔ったように、途切れ途切れで告げられる妄言。何処を見ているのか、目の焦点もあっていない。
「お前達の、お陰だ!われわれは、不老不死! 神々と同じとなっ、た!!だから、だからだから、我々を苦しめる神々へ反逆する!力で証明する! 力を力を力を、不老不死を俺に寄越せぇ!!」
その様に叫き散らし、肩も腕も完全に元に戻った状態で、男は突進してした。手には短剣は握られておらず、完全なる素手だ。首を締めようているのか、殴り殺そうとしているのか。
でも、そんなことを一切ヒッポメネスは気にしなかった。
いや、気にかける必要もなかった。
「ーーーーー」
叫びは止まった。
それは一瞬の事だった。
ただ単純に、ヒッポメネスは持っていた小剣を横へ薙いだ。
薙いだのは男の首だった。体から切り離された首は、ポトリと地面へ転げ落ちた。脳を無くした胴体は何が起こったのか、暫く立ち尽くしたがーーー何も行動を起こせず、静かに倒れた。
脳を無くせば動けないのは当然だ。怪物と呼ばれた幻想種でも、頭を無くせば動くことはありえない。例外はあるだろう、それこそ
でも、これは人間だ。
あの異様な肉体修復の光景は黄金の林檎の力だろう。
食べれば不老不死に、欠片は病を払い、傷を癒す。
そんな
ーーーこれを使いなさい。しかし、覚えておきなさい。これは栄華の灯火なれど災禍の種。求め、懇願するものこそを与えますが、誠実なき者には悲劇を送るでしょう。
ーーーゆえに…間違えてはなりません。己を、想いを、過ちを。何よりも人を間違えてはなりません。
ーーー貴方にこれを与えるのは、ええ、きっと。貴方がそういう人なのだと期待しているからよ。
これは、慈悲深き女神より贈られた言葉。
自身の弱さに憎み、嘆いたときに賜われた果実と共に与えられた忠告だった。
今になってようやくその言葉の意味がよく理解できた。そういうことだ。そういうことだったのだ。
これは神々の秘宝。神々の試練や恩恵といったものではない、分かりやすい程に形にされた刃である。
刃は持ち主を選ばない。
刃は斬る相手を選ばない。
刃は、持ち主でさえも斬る。
怪物を殺さない。奇跡を呼び起こさない。王にしない。
強き欲は身を滅ぼさせる。我が身でさえも、果ては隣人さえも破滅させる。人の欲望とは鍛え抜かれた鋼鉄よりも鋭く、毒よりも浸透し、千の知恵を狂わせる。
そんな欲望を武器としたものこそがーーー黄金の林檎だ。
だから黄金の林檎は持ち主を選ばない、その身を喉に通すべき者を選ぶ。
不老不死の裏側に隠された、人の本性を増長させ狂わせる神々の罰をーーーヒッポメネスはようやく理解した。
「あ、あはは…」
足元が無くなってるような感覚がする。大地が波打ち、空が落ちてくるような酩酊感。立つのも精一杯な、歪みが彼の頭をひしめかせた。
「ああ、そうか、そうなのか…」
頭の中で何度も繰り返され、想起させられ、結論を押しつけられ、何度も拒絶する。
ちがう、違う違う違う違う。そんなわけがない、ありえない。
おぼつかない足並みで何とか立ち上がっていたが、遂には尻餅をついてしまった。
「違う、違う。そんなわけが、あるはずない」
おもむろに髪を引っ掻き回した。頭に浮かぶ結論を否定したくて、咄嗟にとれた行動だった。
男の返り血によって髪が重く濡れ、手の平も、顔も体中血塗れだとヒッポメネスはやっと気づく。
蒸せ返る血の匂いが酷く気持ち悪い。さっさとこの場から離れたい。
ヒッポメネスは立ち上がって、村から去ろうとした。
したのにーーー
「ーーーぁあ」
ソレは、男が出てきた茂みの奥にあった。
茂みの奥は薄暗く、目を凝らさなければ何があるのか分からないが少なくとも目に痛いほどの
「そん、な…」
ヒッポメネスは重い足取りで茂みを両手で開いた。
ソレは、
だが、死体はそれだけではなかった。
死体となった女はーーー殺される前は、幸せだったのかもしれない。
良き夫と出会い、愛し、幸せな生活を享受していたのだと、そんな想像が目に浮かぶことができる。
何故そんなことが、会ったことも、話したこともない彼は分かってしまうのか?そんな想像ができるのか?
女の死体の周りには、一人の男と三人の子供がいた。
男は必死に戦ったのか全身が痣と血で染められていたが、最後には首を絞められたのか首元には手の跡が残っていた。
そして、三人の子供達はーーーその男と死体となった女の顔立ちとよく似ている。
そんな子供達も皆、無惨にも、朽ち果てていた。重なりながら、怯えながら、助けと救いを求めるようにして、物言わぬ骸となっていた。
体が崩れ、地面に両膝をついた。
『お前達の、お陰だ!』
そんな言葉が、耳に残る。
今まで、必死に否定したかったことが避けられないほどに大きくなった。
「あ、う、あぁ…」
全ての原点に振り返れば、それはもう抗えない。
何が彼らを掻き立てた? 何故彼らはこの様な行動を起こさせた?
国の片隅にひっそりと住んでいた筈だった村民がこんな残虐極まりない行為に何故及んだのか。
元々そんなこと起こすつもりもなかった。
胸に秘めた願い。安楽で安定で、苦労もない満ち足りた日々。そんな願いを誰が否定できるのか。万人が抱く、休息を誰も否定できる筈がない。
タガが外れてしまっただけだった。
願いが増幅し、不満が濁り、怒りが弾けた。
その時にはすでに自制などできなかった。膨れ上がった願いは本来の形を失い、醜く変わり果ててしまった。
安寧など、程遠いーーー欲望へと。
願いを濁らせたのは何だ?
安寧を変えたのは何だ?
元々あった人々の欲望をーーー増幅させたのは
黄金の林檎だ。
その黄金の林檎により人々が暴走した結果、人は死に、親は死に、子は死に、争いは広がった。
そして、アタランテはーーー死んだ。
つまり、アタランテを殺した原因はーーー
「ぼく、だったのか?」
それを間近に直視してしまえば、もうダメだった。
違う。違うんだ僕のせいじゃない僕はただ、アタランテの悲しみをこんなことになるなんて微塵もアタランテが死んだのはあれは奴らが救った、救ってやってごめんなさい僕のせいだダメだ違う僕のせいじゃごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい何も考えなくて力がなくてただ彼女の後ろを追うだけで救うつもりなんてなかった彼女の悲しみをぬぐいたかっただけで彼等のことなんて、何も考えてなくて、殺したい、奴らを、僕を、僕をーーー殺したい
虚ろに、何もない空間に呟く姿は痛々しいのだろう。目から涙がーーー血の涙が流れては、唇は消え去りそうな大きさで怨嗟を呟く。
結局、また間違えた。
あの時、愛した者を傷つけた時自身の愚かさを悟ったというのに、また間違えた。最初は一人だった、なのに次は失いたくなかった人と、その人が守りたかった人々を失った。
なんという愚物。自らの価値が路傍の石ころより軽い物だと本当に悟った。その瞬間に、体は動いていた。
手には、血に濡れた剣がある。その剣の切っ先が自分に向いていたのに、ヒッポメネスはまるで水面を眺めているようだった。刃が自分に迫るのに躊躇いがなく、恐怖もない。
むしろ、ああ、ようやく死ぬのかこの愚か者めと思う。
刃が喉元へと迫る。喉を貫き、死ぬまであと瞬きもいらない時間だろう。
ーーーこれで、僕は…。
「ダメ!!!」
自分の手に、複数の小さな手が飛びついたのをヒッポメネスは見た。
「なにを、するんだい…?」
手だけではない。腰や胸に腕に、幾つもの小さな塊が飛びついてきた。
その者達はーーー置いてきた村の子供たちだった。
あの村の、アタランテが救おうとして裏切られ、そしてヒッポメネスが壊した村の子供たちだ。
子供たちは自害しようとしたヒッポメネスを止めようと動かないように抱きついてきたのだった。
「何をしているんですか!?」
「うるさい、頼むから何もしないでくれ」
その村の最も年長の少年が焦ったように怒鳴る。ヒッポメネスはその少年を一瞥するも、関係ないと再び喉に突きたてようとした刃を自分に引き寄せた。
「だ、めぇ!」「待ってよヒッポメネスさん!」「剣を取って!」「うぐぅ…!」
少年、少女、まだ十にも満たない年齢の子ども達が弱い力で必死に止めようとした。ヒッポメネスはそれを鬱陶しく、払おうと腕を振った。
「きゃっ!」「こんのぉ!」
振るった瞬間に払いのけられる子もいたが、新たな子供や負けじと飛びかかる子どもがいた。
「離せ」
「離しません!」
ヒッポメネスの腕を、手に持った剣を奪おう少年が抗う。
「離してくれ」
「あなたが死のうとしなければ、離れます!!」
十数人の子ども達が必死に、飛びつき体が動かない。やろうと思えばヒッポメネスとて彼等を薙ぎ払い、自害できるだろう。だが、彼はただ死にたいだけだった。
「死なせてくれ」
「死なせません!」
楽になりたくて、苦悩から解き放たれかった。嫌悪感に苛まれ、思考することこそ煩わしくて眠りたかった。闇に飲まれれば何も考えずに済む。
抗うという思考すら湧かないほど無気力に、死にたかったのだ。
「僕は君の父を殺した」
「……っ!」
少年の手が止まる。
その瞬間だった。手に込められていた力はなくなり、剣を喉元へと突き立てる隙ができたのは。
そうして、ヒッポメネスは躊躇いも気負いもなく、刃を引き寄せーーー
「ごめんなさい!」
後ろから聞こえてきた幼い声と衝撃に、視界が暗転した。
■ ■ ■ ■ ■
「……ここは?」
ヒッポメネスが見たのは、何処かで見たことのあるような屋内の天井だった。
後頭部に感じる鈍痛が少々痛むが問題はない。ふと頭の後ろに手を伸ばそうとして、やたら両手が窮屈なことに気づく。
両手には枷の代わりなのだろうか、縄が幾重に巻きついていた。やたら何度も縛ったのかそこそこの重さとなっており、指が広げられないくらいに窮屈だ。
なんでこんなことに…、少しだけ思い出そうとして、ああ。
「僕の、せいだったんだ…」
黄金の林檎という神々の秘宝、その本当の力は不老不死だけではなく、人の奥底にある願い欲望を増幅させる肉体ではなく精神へ作用する武具。
それが村人達の心へ突き立ち、欲望を暴走させ、狂気へと走らせた。
病から救おうとした結果が、逆に彼等を畜生に貶めた。そして、守りたく愛していた女性を死へと導いてしまった。
「は、はは…」
もう笑いが込み上げる。なんて無様なんだろう。
彼女の為、彼女の幸せと謳っておきながら彼女を殺す要因を作ってしまうとは。
これで夫としての役目を果たすことも、償いも、己の思いを伝えることもできない。
残されてしまった余分な命。自らの矮小さに手が震える。
あれだけ憎く、殺そうとした村人も今では首を垂れて謝りたい、許しを請いたい。
自分の所為で穏やかな暮らしを壊した。彼等に破滅と狂気を与えてしまった。
そして、無関係だった人々の平穏を壊してしまった。
全て、自分の所為で。
「あ…」
顔を上げると、家の玄関に水瓶を持った最年長の少年が立っていた。目覚めたヒッポメネスの顔を見ると少しだけ顔を歪ませ、そして顔を伏せた。
「起きたの、ですね…」
「…ああ」
「すいません。起きて、自害しないようにと…」
「舌を噛めば、死ねるよ」
少年ははっと顔を上げたが、ヒッポメネスは縛られた両手を上げて制した。
「…思えば、君達はなぜあの村にいたんだ」
隣村に行く時、ヒッポメネスは絶対に来るなと子供達に告げて出て行った。ただ単純にあの時は村の大人達がいたら皆殺しにするつもりだったので、子供達が邪魔になると思いそう留めたのだ。
「…みんな、あなたのことが心配だったので」
「……僕を、ね」
「あなたはみんなにご飯や狩りの仕方を教えてくれたり、獣除けの柵を作ってくれたから懐いているんです」
鼻で笑うのを抑えた。懐く? 縋っているの間違いではないだろうか。
頼る大人がいなくなり、寂しく、不安になったから前に手を差し伸べた自分がいたから寄り添ってるだけだとヒッポメネスは思った。
「で、みんなであの村にということか」
「………は、い。っぅぷ」
少年の顔は一気に青くなった。両手で口を塞ぎ、胃から込み上げてくるものを抑えた。
土色に変わりかけた顔が元の顔色に戻るのを待ち、ヒッポメネスは聞いた。
「落ち着いた?」
「…はぃ」
「子供達もアレを見たのか」
「……いえ、僕が先に入って、目に入らないように迂回させました」
「そうか」
短く息を吐いた。
あの地獄の光景は、見るに耐えなかった。ヒッポメネスでさえ吐き気が込み上げたのだ。
凄惨に辱められた骸の山は見なくてもいい類のものだ。子供も大人も関係なく、いたぶられて捨てられた光景など忘れられるならば忘れたいだろう。
「そうか。そうだったのか…で、僕をどうするつもりだ」
「…死なないでくれたら、とりあえず」
「殺さないのか」
少年の肩を揺れたのを見逃さない。
「大体、なんで大人達があんなことをしたのか考えれば分かるだろう。僕があの酒で病を治してから、大人達がおかしくなった。ならば大人達があんな行動をしたのも…君の父上が死ぬことになったのも「違います」」
肩が震え、拳を膝の上で握り、顔を俯かせる少年ははっきりとヒッポメネスの言葉を遮って告げる。
「違います。絶対に、違います」
「何が違うんだい。僕が何もしなければよかった。何もしなければ、あんな悲劇起こらなかった。だから全てーーー」
「違います!!」
跳ね上がるように立ち上がり、少年はヒッポメネスを睨んだ。目尻には涙が浮かび上がり、涙が溢れ落ちないように唇を噛み締める。
「何もしてくれなければ、ぼく達は死んでました!! だから、悪いのは、ぼく達なんです!! お父さん達が、あんなことをしなければあんなことは、あんなことは!!」
「何もしなければ、アタランテは死ななかった」
必死に叫ぶ少年とは裏腹に、ヒッポメネスは無気力に愛しき人の名を口にする。
ヒッポメネスにとって、アタランテこそが全てだった。罪なき人々が死んだことに罪悪感はある。救った人々を狂気に貶めた罪を感じている。だがそれよりも、彼にとって大事だったのはーーーアタランテだった。
「最初からそうだ。僕に勇気があれば、彼女だってもう少し幸せになれたかもしれない。今回のことだって、僕に力があれば全て救えたのかもしれない。全て僕が、僕が上手くやれていればアタランテは、死ぬことはなかっーーー」
ぺちん。
不意に、頬に衝撃が走った。
「もう、やめてください…」
見るに耐えない、そんな目で少年はヒッポメネスを見ていた。叩き終えた手の平はゆっくりと降りて、少年は頭を振る。
「悪いのは僕達で、あなたは悪くないんです。僕が矢を撃たなければ、お父さん達を止めていれば…何もなかったんです。だから、そんなこと言うのはやめてください」
それだけ言って、少年は机の上に乱暴に水瓶を置いて玄関から去っていった。
頬を叩かれたヒッポメネスはしばらく死んだように放心し、正気に戻ったのはそれから数分以上要した。
■ ■ ■ ■ ■
ーーーヒッポメネス
ーーー起きろヒッポメネス
ーーー朝だ。いい加減起きないか
ーーー本日はどちらへ向かう
ーーー何? また海に向かうというのか
ーーー嫌いではないが、私は山が良い
ーーー魚はいい加減飽きる。そろそろ鹿が恋しくなる
ーーーふふっ、そう嫌な顔をするでない。汝は罠か、寝床でも作ってくれ
ーーー役に立たないかだと? …まあ、汝は下手くそだし、獲物を逃すからな。狩りにおいては足手まといは否定できぬな
ーーーそう落ち込むな。狩りは、と言ってるだろう。
ーーー飯は見るに堪えないが、狩りから帰った時に用意してくれているというのは存外安心できる
ーーー分担だよ。私が狩り、汝が夕餉を作る
ーーーそれだけだ。お前がやれることをやってくれる。それだけで、安心できるものもあるということだ
ーーーそれでは行ってくる
ーーー頼むぞ、ヒッポメネス
■ ■ ■ ■ ■
ああ、懐かしい。とても懐かしくて、腹の中心が重い。
夢の中だけならば、再びアタランテと会える。
微睡みの中、ヒッポメネスの瞼の裏に彼女が現れた。少年と子供達により両手が塞がれて、ヒッポメネスは惰眠を貪るしかやることがなかった。
自害を防ごうとする少年少女が交代でヒッポメネスを覗きに来ている。今では自害することが億劫となっている現状、無駄なことかもしれないが子供達は防ごうと多忙の中見張り役を頑張っていた。
そんな子供達を胡乱に見つめ、ヒッポメネスは瞼を閉じる。そんな日々が数日も続いている。
今日もまたヒッポメネスは瞼を閉じようとした。アタランテと会うために、夢の中に潜ろうとしてーーー
本当に腹が重いことに気づいた。
「すー…、すー…」
気づけば、女の子が腹を枕にして寝ていた。
齢はまだ3歳から5歳ぐらいだろうか。年端もいかない少女がいつの間にかヒッポメネスの近くで、というよりも枕にして寝ていたのだ。
「……えぇ」
なんと言えばよいのか、ヒッポメネスも詰まってしまう。というより、この子はなんでここにいるのだろうか。
ヒッポメネスにはこの子の顔に覚えがある。
確かこの村で最も幼い子だった。村で流行っていた病には遅くから罹り、運良く悪化する前に治療できた娘だったはず。
「…だれか、いないの?」
小声で人を呼ぶ。しかし、少女を起こさないと気遣った声量では誰にも届かなかった。
時間帯は空に太陽が昇った頃合いだから、他の子供達は畑仕事が集団で狩りにでかけているのかもしれない。つまり、彼らが帰ってくるまでヒッポメネスはこの子の面倒を見なくてはならない。
「はぁ」
腹に頭を置いているから迂闊に動くことはできない。ヒッポメネスは上半身を動かすこともできず、ただ寝転んで天井を見上げる。
「……何も、できなかったよ」
夢の中で彼女が告げた言葉を思い出し、呟く。
やれることは何もなく、やったことは彼女を死に追いやった。
「は、はは…」
ヒッポメネスは再び、瞼を閉じた。惰眠に安寧を求めて、心地よい過去へ浸ろうとした。
「ぅ、うぁ…」
……だと言うのに、間が悪いとはこういう事なのだろう。
「起きたのかい?」
「ぅ、ぅう〜」
少女が目を覚ました。少女は目を擦りながら体を起こすと、ヒッポメネスも体を起こせた。寝ぼけ眼のせいかヒッポメネスに反応しない。
とにかくやっといなくなってくれると思い、ヒッポメネスは安堵のため息を吐いた。
「はい!」
「え?」
突然少女が差し出してきた。両手の上には赤くて丸い物体。何処に置いていたのだろうか、前触れもなく現れたそれにヒッポメネスは固まった。
「これあげる!」
きっと少女は単なる厚意でヒッポメネスにソレを持ってきたのだろう。しかし、ヒッポメネスは寝ていた。少女は恐らく起きるのを持っていたら自分も眠くなってしまい、寝てしまったのだ。
だからこそ少女は屈託のない眩しい笑顔で、ソレを差し出してきたのだ。
「リンゴ、か」
黄金ではない、真っ赤なリンゴ。ただの果実で、アタランテが好きだった食べ物。
「えへへ」
「…ああ、ありがとう」
ヒッポメネスはソレを素直に受け取った。内心では複雑な感情が渦巻いており、あまり目にしたくないというのが素直な気持ちだったのだが。
縛られた両手で受け取り、どうしたものかと考えているとすぐ隣に少女が座り込み、期待の眼差しで見上げてきた。
…食べて感想を聞かせてほしいということだろうか。
「…あむ」
シャリ、と小気味よい音が屋内に響く。
噛み締めるごとに果肉から果汁が溢れて、リンゴの甘さが口腔内に広がった。
懐かしい。
最後にリンゴを食べたのはいつだったのだろうか。
すぐに咀嚼、嚥下し次の一口へと移った。
食べていくごとに止まらなくなる。自分はこれほどリンゴが好きだったのだろうか?
アタランテが好きでよく食べる姿を見ていたが、自分はあの婚姻の出来事からリンゴを食べることを避けていた。彼女はあまり気にしていなさそうに見えたが、自分がリンゴを手に持った時僅かに顔が曇ったのを見て、自粛したのを思い出した。
ああ、懐かしい。
「ねえ」
リンゴを半分食べ終えた時、横の少女が手を伸ばした。手の行き先はヒッポメネスの顔。
少女の小さい手がヒッポメネスの頬に近づきーーー
「なんで泣いてるの?」
「…え?」
咄嗟に頬に触れると、涙が流れていた。頬を沿い、顎をなぞって床へと滴り落ちる。
気づかぬうちに、多くの涙を流していたようだ。
情緒不安定かと自身に言い聞かせ涙を拭うが、すぐに涙が零れ落ちた。
「なんだよ、これ。哀しくないのに、なんで…。意味がわからないよ」
拭っても拭っても涙が流れる。やがて苛立ち両手で擦ろうとした時、手にあったリンゴが床へ落ちた。
「…あ」
「はい」
縄で縛られた両手で拾おうとしたが、先に少女が拾ってくれた。
半月型になったリンゴは床に落ちたせいで少し土で汚れてしまった。そんなリンゴをただ眺め、落ちてくる涙をもう一度拭い、ヒッポメネスは理解する。
「やっと、追いついたのか」
郷愁にも似た感情。始まりの象徴たるリンゴを目にし、哀しみがようやく届いたのだ。
彼女を失った原因が自分だと理解し、絶望し、心が渇き、虚ろになっていた。惰眠を貪ることで空いた胸は時間を止めていたが、過去へ振り返ることがきっかけで再び涙が込み上げてきた。
「涸れたと思っていたのに、まだあったんだ」
泣き崩れ、神に縋ったあの日から一ヶ月以上経つ。涙は涸れ、これ以上心が壊れることも渇くこともないと思っていたのに、それでも流れる雫もあったのだと。
「大丈夫?」
「…ああ、大丈夫だよ」
涙が流れるだけ。それ以上は何もなかった。搔きむしるほどの激情も、嘆き叫ぶために震える喉も今はない。
ただ淡々と、壊れているように自分が思えた。全て失い、熱情も冷淡もない。ただあるがままに虚無。
つまり、何も躍動しないのだ。
全てを捧げるはずだった彼女はおらず、伝えたかった言葉も彷徨って見失い、叫び続けても届かない。
「…そうか」
今ならば、どんな酷いことでも躊躇いなく口にできそうだ。それが例え己の生き様を拒絶することも。彼女の理想を貶める言葉ですら躊躇いがない。
だからなのか、今までの道程を思い出し、ドス黒い影ができる。
細やかな日常や忘れてしまった悲劇、押さえ込んでいた苦しみや叫びたいほどの喜びの記憶も、黒く黒く、穢れていく。
あのどす黒いものは何なのか、染まって見えなくなっていくものは何なのか。
分からないではなく、考えたくないのだろう。
記憶を翳らせていく正体は分かる。だが、己の記憶を穢す正体を
その行動の正体をーーー意味を口にしてしまえば、また死にたくなる。
いや、もともと死にたいのだ。今死なないのは絶望したくないから。死のうとすれば胸の奥深くに塞ぎ込んだものが溢れ、アタランテを失った嘆きより濃い絶望が彼の魂を殺すだろう。だから、死なないのだ。
リンゴを傍へ起き、目を閉じる。このまま再び眠りへつきたい。黒く染まっていく記憶だがそれでもいい。いまはただ、何もーーー
ガシャン!!
外から聞こえてきた破砕音に、眠りは妨げられた。
■ ■ ■ ■ ■
ぼく達は置いて行かれた。
あの日、あの時、死を克服したという大人達は村へ略奪しに行くといって去っていった。
ぼくは必死に止めたことを覚えている。
だめだ、そんなことしちゃいけない、村で実りを耕そう。
あの疫病が広がる前はみんなもっと穏やかだった。
父さんと母さん。村の大人達と子供達。知り合い達と野山を駆けながら暮らしてきた幸せな日々は病により崩れた。
次々と苦しみながら息を止める疫病。誰もが治療法を探すも分からなく、薬師を探しに行く前にみんな死にかけた。
母さんが死にそうになるのをぼくは見ていられなかった。痛く、苦しいけど父さん達と比べてぼくはまだ大丈夫だったから森へ行って精がつくものを探した。
でも、採れたのは僅か。どれも食べれそうになく、一口で終わってしまいそうなのや、そもそも食べられるのか分からないものばかり。
だめだ、だめだ。分からない、どうしよう。
あやふやになっている頭で必死に考えたけど、分からない。どうしたらいい、どうしたらみんなが助かるんだろう。
ぼくは考えて、考えながら森を出た。
そして、人を見つけた。
綺麗な女の人と優しそうな男の人。
どんな人か分からない。旅の人なのかもしれない。もしかしたら疫病が流行っているから去ろうとしているのかもしれない。
でも、ぼくは言った。
「助けて」
あの日から数十日も経っている。
ぼく達は救われた。あの日あった人たちのおかげで病から救われた。
みんなみんな助かった。本当に覚えている。母さんは死んでしまったけど、父さんは助かった。
多くの人が救われて、笑っていた。あの二人は、ぼくにとって英雄だった。
純潔の狩人に、女神に認められた男。
あの黄金の林檎で作ったお酒でみんな救われた。感謝しているし、忘れもしない。
子供達だってあの優しい二人のことを慕っている。
でも、大人達は違った。
大人達はあの人達が去っていった数日後変わってしまっていた。しきりに二人の姿を探し始めた。
口を揃えて、黄金の林檎、不死身と呟く姿が見られてきた。
父さんも例外じゃなかった。母さんの墓を掘り終わった後に農作業もせず、ただ弓と矢を持って二人が去った道を探りに行っていた。
なんで? なんでそんなに怖い顔であの人達を探すの?
子供達みんなそう聞くと大人達はこう答えた。
『不死身になれる。もっと不死身になって、お前達を楽させることができる』
そう言ってくれた父さん達の目は、ぼく達を見ていなかったと今になって気づく。
ぼく達を、あの人達を見つけた。たまたまだった。大人達が子供達も使おうと言い出し、使い慣れていない弓矢や剣を持たせて村から出ようとした時、あの人達は現れた。
誰かの矢があの人の足を貫いた。
そこからみんな襲いかかった。子供達は怯えて後ろに立ち、ぼくもなんでこうなったのか分からず眺めていた。
あの人達は強く、傷ついていても大人達を圧倒していた。このままだと村の人達は負けてしまう。
ーーーそうなった方がいい
心の何処かでそう思った。
なんで命の恩人を殺そうと、強奪しようとしているのだろうか。
あれだけ感謝していたのに、あんな目で見れるのだろう。
そんな疑問を浮かべていたら、父さんに無理矢理手を引かれ、叱咤された。
撃て! 撃つんだ■■■■■!
叩かれた。たくさん叩かれた。ぼくは父さんの言う通り弓を構えた。
矢を力の限り引き、指を離した。どうせ当たらない。習ったばっかの矢で当たるはずがない。
だけど、ぼくが放った矢はーーーあの人の胸を貫いた。
「お、おじさん」
ぼくの前には牧師のおじさんがいた。
下の年齢の子供達はぼくの後ろにいた。みんなそれぞれ震えながら、おじさんを見ている。
あの優しかったおじさん。羊の肉を食べさせてくれたり、遊んでくれた牧師のおじさん。
でも優しかった面影はなく、目が血走ったおじさんが今、剣を持って村へ帰ってきた。
「林檎は、どこだ? あの男はどこに、いる?」
ゆっくりとした口調だったおじさんはいない。
すぐにそれを理解できた。
今ならば分かる。なんでおじさんが、父さんが、村の大人達がみんな、おかしくなったのか。
みんなあのリンゴを求めている。不老不死を求め、好き勝手暴れて、人を殺している。
「いない! ここにはいないよ!」
「嘘つ、け!! 聞いた! あの男がこちらへやってきたと、すれ違ったと、旅の者に、聞いた!」
ーーーその服の返り血は、その旅人のものなのか?
言葉にしなかったのは、聞いても無駄だったからだ。ぼく達を見ていない、おじさんが気にしているのはあの人の事を知っているぼく達だ。
「お、おじさん。お父さんは、何処? お母さんは何処にいるの?」
背中に隠れていたぼくより年が一個低い女の子が問いた。おじさんはぐらりと頭が落ちそうなぐらいに首を傾げた。
「お、父さん? お前のお父さんと、お母さん? 何処にいるか、いや、誰だったけな? みんなみんな、村で楽しく遊んでいる、よ。この前は、そうだ、仲良く村娘と遊んでいたなぁ。肌が綺麗でほしいとか、髪が綺麗だからほしいと言って、剣でーーー」
「もういい!!!」
叫んだ!できるだけでも大きな声で遮った。
みんな震えている。隣村の悲惨な光景を見せないようにしたけど、完全には無理だったのかもしれない。
子供達は何処かで父さん達がしでかした事を理解しているのだろう。
それでも、それでも大人達の口から聞きたくなかった!
「もういいよおじさん! 黄金の林檎なんていらない! あんなもの必要ない! だから帰ってきてよ! みんな待っているんだ! みんなおじさん達の事を待っているんだ! 黄金とか、楽させたいとかどうでもいい! あんな酷いことしないで、帰ってきてよ!!」
帰ってきてほしかったのは本心だった。
父さんは酷いことを、それ以上のことをしたのは分かっている。
首を切り落とされていたのは、あの人がやったのだろう。父さんは帰ってこない。母さんも死に、僕は一人になった。
でも、後ろにいる子供達は違う。みんな親がいるのだ。あの疫病でぼくと同じく親がいなくなった子もいるけど、まだ村のみんながいる。
だから帰ってきてくれたら、帰ってきてくれたならまたみんなで…!
「いや、必要ない」
「え?」
「来、い。みんなの元へ、案内し、よう」
おじさんがぼく達へと手を伸ばす。
村の大人達の元へと連れて行ってくれるのだろう。
でも。
「……? …なん、で。後ろへ下がる」
みんな、一歩後ろへ下がった。
十数人もいたのにみんな一斉に後ろへ下がった。
「い、いやだ」
誰かが呟いた。後ろへ振り返れない状況だが、誰を特定するかなどどうでもいい。なぜならば、それを皮切りにみんなが叫んだ。
「いやだ! 行きたくないよ!」
「お父さんが、かえってきてよぅ!」
「あ、あっち行って…!」
「来るな! 村から出てけ!」
「帰って、帰ってよ!!」
怖い。その気持ちがいっぱいだった。
父さんが村から出て行った日、大人達が消え去る時に見た大人達の顔は、怖かった。
ただただ怖くて声をかけれず、震えて家の中で待っていた。隣の村へ穀物を奪いに行くというのを黙って見ていた。何もできず、毛布に包まっていた。
あの時と同じように、おじさんの顔が怖い。ついて行ったら、どうなるのか。
「なぜだ? お父さん達は、待っているぞ? みんな、みんな強くなった、誰に、も負けな、いし、天罰だって喰らわない。私達は最強、だ。もう、病も恐れな、い。神も怖くな、い。私達は、もう」
「違う!!」
それは、絶対違う。
あれは最強なんじゃない。あんな酷いことを平然とやってのける人が最強の訳がない。
「父さんやおじさん達は、助けられただけだ!! あの人達に…ヒッポメネスさんやアタランテさんに助けられただけなんだ!! それが、ただ、身体が強くなっただけで最強なんてあるはずがない!」
そうだ。本当に強いのは、あの二人だ。
ぼくは覚えている。
アタランテさんが必死に獣を狩って、ぼく達に食べ物を運んできてくれたことを。
ヒッポメネスさんが病を治そうと、魔術を一晩中使ってくれたことを。
そして、病を治ったぼく達を優しい眼差しで見つめてくれていた二人の顔を、ぼくは知っている。
「だから、行かない! 絶対に行くもんか! おじさん達はぼく達の知っているおじさん達じゃない! みんな、もう、化け物だ!!」
ーーー父さん。
死んでいた時、ヒッポメネスさんに殺されたと知った時。ぼくはヒッポメネスさんを恨みました。
とても憎くて、子供の一人に頭を殴られたあの人を、殺したいと少し思いました。
だけど、だけど、それはきっとヒッポメネスさんだって同じなんだ。
ぼく達がこうなったのは全てぼく達のせいだ。
本来死ぬはずだったぼく達に生きる希望を与えてくれて、その恩を仇として返しても、ぼく達に狩りや生きる術を教えてくれた、ヒッポメネスさん。
大好きなアタランテさんを殺されたというのに、ぼく達を恨んでいるはずなのに、殺したいと思っているはずなのに、それでも子供達に術を教えてくれる、あの人の目は
アタランテさんのように、優しかったことをぼくは覚えている。
だから行けない。もう、あの人達の元へとは帰れない。
「村は、ぼくが守る。だから、帰れ! ぼく達はぼく達で、生きていく!!」
たとえ苦しくても、嫌なことがあってもぼく達は父さん達のようにはなりたくない。
あの人達の想いを裏切ることも、人の命を踏みにじるようなことも絶対にしたくない。
だからぼくは、みんなと生きていく。
「…そう、か」
おじさんは残念そうに首を振った。
とても残念そうに、ため息をつきながらーーー剣を構えた。
「そう、か。なら、いら、ないな。悪い、子は、いらない。黄金の林檎をよこ、せ。黄金の林檎があればいい、黄金の林檎を、よこせえええええええええええええええええええええええええええ!!!」
足が立ち止まる。
剣を振り回しながら突撃する姿が怖くて、怯んでしまった。あんな大口叩いたのに、情けない。
後ろにいる子供達も同じだった。みんなぼくについてきてくれるのか、反対の言葉はなかった。
どうしようどうしようどうしよう! このままじゃみんな殺されてしまう。
なんとか抗ってみようと、ぼくは前へ飛び込もうとした。
その時、近くの家の扉からーーー碧い髪色の男が飛び出した。
■ ■ ■ ■ ■
「
気付いたら、詠唱を終えて手に巻きつけられていた縄を力づくで引きちぎった。
空いた両手の具合を確かめて、足元で外の様子を恐々と眺めていた少女へと目線を向ける。
「…そこにいて」
少女は一拍置いて、頷いた。
それを確かめた瞬間、僕は、外へと飛び出した。
目に映るのは、血塗れで剣を振り回しながら走る男と、子供達を守ろうと両手を広げ庇う体勢をとる少年がいた。
「
一気に飛び込み、距離を殺す。
魔力の推進で一足で少年達の前へと降り立つ。
「ヒッポメネス、さん」
振り返らない。
ヒッポメネスは何も答えず、前へ進んだ。
「いた! いたいたいたいたいた!! 黄金の林檎! 私達が、不老不死となる、ために必要な、黄金の林檎があるべがば」
破砕音が、鳴り響く。
拳を振り上げ顎を破砕する。話す為に必要な口が半壊し、男は呂律が回らない。
次に破壊するのは剣を持つ腕。ヒッポメネスは男の膝に足を蹴り落とし、無理矢理姿勢を崩させた。倒れた瞬間に腕を取り、絡め、捻り、腕を破壊する。
骨が砕ける音が鳴り響く。並の人間なら絶叫し、戦士ならば苦悶の声を漏らす激痛に男は悲鳴の一つ漏らさず、今でも血走った目で黄金の林檎を求め、ヒッポメネスへと迫っている。
そんな男にヒッポメネスは、何の感情も抱かず、男が持っていた剣を手から奪った。
「あべばぶば、ひゃはあらうあ、ばべばばぶ」
一、二、三。剣閃が男の身体に走り、折られていない腕、両脚の健から血が飛び出した。
「あべは、へは?」
痛みを感じてない。予め分かっていることだ。
だからこそヒッポメネスは健を切り、動けなくした。
殺すのは簡単だ。首を切り落とす、もしくは心臓を潰す。確証はないが、人体に置いて必要な臓器を破壊すれば、殺せる。如何に黄金の林檎の恩恵があっても人である限り、死なないわけがない。
「へははふは! あばへば───」
グキリ。
静寂が響いた。
男の首はぐるりと一周し、情けない感じに下へと垂れた。あれほど叫き散らかしていたのにも関わらず、男の口から二度と騒音が放たれることはない。
「あ、の…」
少年と子供達はヒッポメネスの背中に不安な視線を送る。子供達の耳にも音が響いたが、子供達の目にはヒッポメネスの背中しか映らず何があったのか分からないのだろう。少年以外は。
「…いのか」
「え?」
「君は、僕を殺したくないのか。君の父親を、村の大人達をここまで変えてしまった、僕を…殺したくないのか」
ヒッポメネスの問いに、少年は俯き息を呑む。
何かに耐えるように俯き、やがて顔を上げた。
「何も…思わないわけじゃないです。父さんはあんなことをしたから、ああなるのは、多分、そうなるべきだったと今は思います。だから、ぼくはあなたを殺すことなんてできないし、絶対だめなんだと思います。それに、父さん達がああなったのは、ヒッポメネスさんのせいじゃありません。ヒッポメネスさんはぼく達を助けてくれました。だから…ありがとうございます、そして、ごめんなさい」
深く、頭を下げた。少年は腰を最大限曲げて、謝罪した。後ろにいた子供達もそれに倣い、ヒッポメネスに対して頭を下げて「ありがとう」と呟いた。
「───やめてくれ」
「え?」
「…なんでもない。この人の墓を掘る、だから、手伝ってくれ」
遺体となった男の亡骸を抱え、ヒッポメネスは歩み始めた。少年は慌ててヒッポメネスの横へ走り、ヒッポメネスの顔を見上げたのだが。
「あの」
「・・・・・」
ヒッポメネスは応えない、振り返らない。
少年が見たヒッポメネスの横顔は───とても死んでしまいそうなぐらい、焦燥していた。
■ ■ ■ ■ ■
───翁様、翁様!
───どうなされましたかな、ヒッポメネス
───またお祖父様が海のことを教えてくれました!なんと、人の体は砂浜の砂より小さな粒がいっぱい集まってできているんです!
───ほほ、それはそれは。珍妙なことですな
───嘘じゃありません! 血も肉も骨も、目に見えないぐらい小さな粒々でできているんです! ってお祖父様が教えてくれましたよ!
───ええ、ええ、落ち着きなさいませ。大海神様が嘘を申すはずがない。分かっておいでます。ですが、それを鵜呑みにするのも早計というもの。大海神様はそう言っておられませんでしたかな?
───…言ってました。
───よろしい。では、本当かどうか見てみましょうか。
───え?
───大海神様が言っておられたことが正しいか。教わった術で見てみましょう。なに、あのお方の孫息子たるあなたなら造作もないことでしょう。
───はい!!
ああ…なんと懐かしき郷愁の夢なのだろうか。
まだ幼き頃、神殿の守り手である老人と過ごした日々。世界の広さ、美しさ、醜さ、強かさを知らず、祖父への尊敬と海の恵みと亡き両親の教えのみで構成させられていた小さな揺り籠の中で生きていた日常を思い出した。
既にいなくなった妻以外の夢など、いつ振りだろうか。目尻に涙が溜まることのない、懐かしさに心が潤う眠りの合間など本当に久方ぶりだ。
あの頃は波の満ち引きと潮風の音が子守唄だった。空から降り注ぐ暖かな日光が毛布で、寝床が若草。なんと安らげた幼少期だったのだろうと、今ならそう思える。
耳に響く波の音など、今にも故郷の神殿近くではないか。鼻につく潮の香りもあの頃と同じで………
「……夢、なのか?」
目を開き、体を起こす。
───目の前には、故郷の海があった。
ヒッポメネスは記憶を遡らせる。
あの林檎の魔性に取り憑かれた男を殺し、墓を掘って埋めた後、自分はすぐに眠りについた。
少年やヒッポメネスの近くにいた少女はヒッポメネスに何か言いたそうだったが、それを全て無視して夢の世界へと落ちた。はずだったのに、目の前の広がる碧の光景に驚愕し、そして落ち着いた。
「…これもまた、夢か」
明晰夢というやつなのだろうと、ヒッポメネスは結論が出付けた。
それ以外ありえない。少年達が気づかずここに運び込むことなど不可能だし、そもそもヒッポメネスの故郷など知らない。ゆえに夢。夢に理由も根拠も必要ない、全て都合が良くできているもの。それがはっきり近くできているだけで、他に変わりない。
此度もまた、都合がいい夢を見ているだけだ。
「……ああ、夢なんだな。これも、全ても」
「かもしれませんの」
咄嗟に立ち上がり、距離を取り構える。
気づかなかった。気配もなにも感じず、気づいたら後ろにいた。武具も一つもないが、ヒッポメネスは拳を握り後ろに立っていたものの姿を捉え。
「…………え?」
握った拳が緩んだ。前にいたの顔が皺くちゃで何十年という永き時を生きたことが分かる、老人の姿があった。ただの老人ならヒッポメネスは拳を緩めることも、瞠目し体が硬直することもなかっただろう。しかし。
「ほほ、懐かしく顔を見てみればこれは酷い。まだ亡者もマシな顔をしておりますぞヒッポメネス?」
「翁…様?」
後ろにいたのは、数年も前に亡くなった筈の育て親の翁だった。
「ほほ、少しは背丈も大きくなりましたかな? 儂が亡くなって随分と経ってますからのう」
「背丈は変わらないよ。翁様が亡くなってから…うん、数年ぐらいだよ」
「ああ、特に経っておりませんでしたな。これは失敬失敬」
これは何なのだろうか。
ヒッポメネスは横に座り、何一つ気にする様子もなく語りかけてくる翁を見てそう思わずにはいられなかった。
頭部の髪は全て抜け落ち、顎や口周りに生えた長く白い髭。老いて痩せた腕や足だが仕草がやけに軽快に思えるその老人は、祖父である大海神が幼少の頃育ての親として任せた翁本人である。
子供の頃は亡くなった両親の代わりに世話をし、多くの知識を祖父と共に教えてくれた師匠のような存在だ。
数年前に衰弱死し、この世を去ったからヒッポメネスは故郷を出てアタランテと会った。
つまり翁が亡くなったからこそヒッポメネスはアタランテと出会うようになったのだ。
大幅な解釈だが、そのきっかけの張本人が目の前にはいて語りかけてくる。何の冗談だと思うのだが。
「何を惚けておられるのかな? ボケるのはまだ早いですぞ?」
「いや、うん。死人と話すとなると、それはこうなると思うんだけど」
「ほほ、夢で常識など。貴方自身、夢だと申されたではありませんか。ならばこういう都合がいい夢なのでしょうな」
そうなのか?
夢だと決めつけるには生々しすぎるような気もする。
…だが、まあ。
「そういうもの、なのかなぁ…」
「そうそう、そんなこともある。人生そんなもんですぞ」
「そうかぁ…」
流されているような感じもあったが、それでいいと思えた。
あまりに唐突だが、心の何処かで臨んでいたかのような懐かしさにどうでもよくなった。
夢ならば、夢でいい。この再会が今はとても幸福に思えた。
「うん、そうだよね。そういうもんだよね」
「ほほほほほ、相変わらずですなぁ」
「うるさいなぁ」
そうやって笑う。こんなやりとりはいつ振りだったのだろうか。
「そういえば、覚えておいでですかな? 貴方がまだ歳が十にも満たない頃。大海神の三叉槍を真似た下手くそな木の槍を持って、海へ潜ったのはいいのですが波に三叉槍が流されて儂に『お祖父様が怒った!』と泣きついたことを」
「いやぁ、やっぱりお祖父様の象徴で遊んだのはまずかったかなぁって思ってさ。というか本当にいつの話だよそれ」
「まあまあ、後は…ほれ。隣の村に遊びにいった時のことでしたかな? 儂が目を離すといつの間にか村の男児達との大喧嘩をしていて止めに行ったこと。あの時の喧嘩の原因を聞くと、まあ、流石大海神様の孫息子。まさか村一番可愛いという娘に…」
「あー、やめてやめて。あの時は結局何もなくてあちらの誤解だったじゃないか」
「…まあ、そうですなー、そういうことにしておきますかなー」
「え? なにやめてよ、僕何もしてないよ!? なんでそんな目で見るの!?」
「ほほほほほ」
「は、はははっ」
そんな会話にヒッポメネスは安らいだ。
懐かしき人と会話する。それだけで鬱屈した顔も晴れてきた。
なんで翁が現れたのかなどどうでもよくなった。今が楽しい。だから今はとても気が楽になっていて。
「───やはり、顔が優れませんな」
「え?」
そんな気に、なっていた
「ほれ」
翁がどこからともなく差し出したのは、水が入った桶だった。変哲な、使うためだけに作り出されただけの桶。その中に入っている水を覗き込むと、自分の顔が映った。
自分の顔を見て───亡者かと思った。
まともに食事を摂っていなかったからか頬は瘦せこけ、色がやたら青白い。目元の隈は真っ黒で、やたら目が獣のように獰猛だ。髪も整っていなく不清潔で、頬に手を伸ばした指先の爪もひび割れている。
さっきまで昔話で楽しんでいたから少しは顔色もまともだと思っていたのだが、そんなことはない。
「口調こそ笑っていたものの、顔は何一つ、笑っておりませんでしたなぁ」
面と向かって話していた翁は、そう告げる。
嘘などないだろう。ここで嘘を言う意味もないし、ヒッポメネス自身もそう
「…うん、そうだったのかな」
「やれやれ、夢に化けてでたというのにこの始末ですかなヒッポメネス」
「……ごめん」
「ふむ、忘れられませんか。かの狩人殿のことを」
返事は無言だった。唇を強く噛みしめ、力なく俯向く姿は言葉など必要ない以上に雄弁だった。
愚問なのだろう。翁が、いや、万民がそれを問うのは無意味なほどに、その問いの答えは決まっていた。
翁は禿頭を撫でながら、横に座るヒッポメネスへと問いを投げた。
「儂は会ったことがない貴方の妻のことをよう知りません。教えて貰っても、よいですかな?」
「今は、勘弁してよ」
「今ですか? なら、次ならば語ってくるのですかな」
無言、だった。
「ほう、次もダメ。ならば次の次は?」
無言。
「ダメですか。ふむ、ならば次の次の次。いや、長期的に見て十日後の夢で構いませんかな?」
無言。
「これは頑固。ならば貴方が語りたい時で、でどうですかな?」
これに対しての答えも無言、だった。
その態度に、姿勢に、空白に、翁は変わらなかった。ただ、ヒッポメネスの横へ座りながらもまっすぐ海を見ていた。
気が付けば、海は黒く澄んでいた。空は夜空、浮かぶはずだった月は淀んだ雲で隠され、灯り無き深淵が砂浜の先に佇んでいた。
それにヒッポメネスは気づいていないのか、それとも気づこうとしないのか。頭を下げて、耐えるように震えていた。
そんなヒッポメネスに、翁ははっきり告げた。
「違う女を愛してみては?」
一瞬だけヒッポメネスの肩が揺れた。
「既にいなくなった女にいつまでも固執したところで何も変わらまい。それならば新たな妻を娶り、子を成した方が幾分有意義ではありませんかな?」
「やめてくれ」
「彼女は最後まで貴方を理解せず、また貴方も理解しきれなかった。調和がずれた…いや、互いに見て見ぬ振りをし続けましたな。貴方はそれに甘んじ、彼女はそれを良しとした。何か残したならば彼女に縋り付くことも理解できるでしょうが、彼女は何も残していない。今更何を期待しているのですか。彼女は所詮貴方にとって
「黙れ!!」
苛立ちが止まらない。そんな感情を隠さず、ヒッポメネスは立ち上がり翁を激情に任したまま見下ろした。
「あなたに何がわかる!! 知ったような口でベラベラと彼女を語り、僕を語るなよ!! あなたなんかにアタランテの何が───」
「分からないから、語れと申しておりますぞ」
しかし翁は動じない。怒声によって震えた空気をものともせず、飄々な雰囲気で怒りを流す。翁の理知に溢れた瞳が大きく欠けたヒッポメネスを見定めている。
「語る言葉がないからこそ、儂は貴方の先を語りましょうぞ。惰眠に沈み、夢現に目を反らす貴方を導くこそが我が使命。これは最も幼き頃の貴方が大海神に請い願ったことですぞ」
「…っ!!」
両親を失ったヒッポメネスは海に直々に願った。導いてくれと、道を照らしてくれと。
「ゆえに、大海神に名を下された儂が語りましょうや。いつまでもくだらぬ妄想に浸る軟弱極まりない
そう言い切り、翁は立ち上がった。そのままヒッポメネスの横を通って砂浜を歩き出す。
「さて、まずは忘れなさい。それが最初の課題ですぞ。それが終わった後は故郷に帰り、元の生活に戻りなさい。海に教えを学び、魚を取って腹を膨らませ、父の遺言に従い武を鍛えるのですぞ。その後は」
途中で翁は足を止めた。いつも通りなら、翁が知っている彼ならば、自分の後ろをついてくる足音が聞こえるはずなのに聞こえない。後ろを振り返ると、ヒッポメネスがいた。しかし、ずっとその場に動かず立ち尽くすだけだった。
「何をしておられるのかな? ヒッポメネス」
「・・・・・」
「来なさい。貴方の人生をやり直しましょうぞ。安心なされい。次は間違えぬよう、しっかりと導いてみせましょう。貴方が愚かだと悟った部分も含めて、儂が教えましょうぞ」
不動のヒッポメネスの背中に優しく語りかける翁だが、彼は動かなかった。
夜の海から流れてくる冷たい風波は二人の間を通り抜ける。空は相変わらず曇り、鈍重な重みは心を浮かせない。
沈黙の時はいつまで続くのか、永劫かと思われた時。
「最初は怖かった、とっても怖かった」
ヒッポメネスは口を開いた。
「あの死体の山。敗者に差別なく与えられた死に、冷酷な女性だと情けなく震えたよ。でも、彼女の姿を見た瞬間に恐怖は吹き飛んだ。
何がそこまで僕の心を塗り潰したのかを僕自身が語り尽くせないほどに、僕は彼女に一目惚れしたんだ。
彼女を知りたい。彼女に知ってほしい。彼女が…ほしい。そんな心の内を秘めて接して、恥と拒絶に恐れ、結果として僕は彼女の夫になったけど、ダメだった」
語り告げるのは始まり。邂逅と顛末。
彼と彼女の物語の口火は切られた。しかし、その後の結末は長くは続かなかった。
「夫として、幸せにしようとした。彼女が望むものを揃え、彼女の理想を叶えようと奔走した。言葉を尽くさず、生き方で示そうとしたけど…そんなことで心が伝わるはずがない。ただ無為に時間が流れたよ。彼女を一方的に理解したつもりで、僕は隠し続けてきた。
隠し続け、逃げ続け、見つめ続け……彼女を失った」
失われ続ける幼い命の前に、彼は立ち上がった。かつて偶然にも目をつけられ、与えられた秘宝を砕き、彼女以外に分け与えることにより悲劇を終結させた。
あの時の選択を後悔している。なぜあの時そうしてしまったのか。もっとマシな方法がなかったのか。違う方法ならば───アタランテは死なずに済んだのかもしれない。
「何も残らなかった。僕は生き延びてしまい、彼女は過去へ置いて行かれた。泣き伏せ、叫び続けても救いの手は無く、存在意義さえなくなった。
何をすればいい、何が彼女の為になる? そう考え続けた先に、僕は復讐を選んだ」
待っていたのは、子供だけだった。
力も無く、知恵も足らず、独り立ちするには脆すぎる命達。
そんな子供達でも良かった。己の心の燻りを、空白を、嘆きを埋めてくれるのなら子供達だとしても───そんな暗く澱んだ心が存在していた。
「でもさ、無理だったよ」
「どうしてですかな?」
「失ったのは彼女だった。でも、失った空白もまた彼女だった」
失くしたものは永遠に取り戻せない。あるのは空白。空いてしまった虚無は永遠に埋まることがないだろう。
しかし、虚無は無意味ではない。そこにあった事実が明白にあった。
「できた空白が彼女を呼び起こす。澱んだ僕を繋ぎ止める。あのままでよかったのに、それでもいけないと囁き続ける。あの時僕は───初めて彼女を憎んだ」
なんで復讐の化身にさせてくれない、渇望のまま獣にしてくれない。なんでなんでなんで!!
既におらず、身勝手に、最低に彼女を恨んでいた。
「だからこそ、絶望した」
彼女を失った原因は自分にある。
良かれと思って、彼女を救いたくて、彼女の理想のためにと行ったことは全て、過ちとなって彼女を殺した。
黄金の林檎の魔性により心から変質した村民による暴動は元を辿れば、全て持ち主であった自分自身。
悪意は無くとも結果が全てを決めてしまい、彼女を殺してしまった。
幸せな家族も、復讐として殺そうとした子供の親も、逆恨みしてしまったアタランテも、全て自分の所為で狂ってしまった。
死にたかった。死んで地獄の炎に焼かれ魂の根から消え去りたかった。
厚顔無恥なヒッポメネスという男を、己の手で殺したかった。
「でも、生きている」
あの子供達に生かされている。
なぜ、なんで生かすのか。
必死になって止められて、手を拘束させてまでも生かそうとする子供達の意思が理解できず、思考を放棄した。
甘い夢に、悲劇の前の暖かな日常に浸り、全てのことを忘れたくなった。
誰かに苦しめられ、裁かれるのを望んだ。
「そうして、此処にいる」
「……なるほど、それが貴方が語る妻の話ですかな?」
「いや、これは僕の話だ」
そうして、ようやく彼は振り返る。
翁の前に立って、正面からかつて導いてくれた恩師の前に堂々と立った。
顔には一筋の涙を流しながら。
「ごめん、ありがとう。夢に出てきてくれて、叱ってくれてありがとう」
「ふむ、儂はただ幼少の時と同様に導こうとしただけだったのじゃがのぅ」
白い髭を撫でながら、翁はただヒッポメネスを正視する。
彼の言葉を待つ。彼が語ったのは己の生き様。恥じ続けた、器の小さな男の昔話。
「ああ、クソ、だめだ。あなたに厳しい言葉で突きつけられ、怒りでようやく頭が冴えた。そうだ、そうだよなぁ。クソ、クソクソクソ!!」
落ち着いた様子を見せた矢先、髪を掻き毟りだす。ひたすら乱暴に搔きまわし、痛みに意識を引っ張られずに彼は叫ぶ。
「ああ、クソ!! 何が分かるかだチクショウ!!! 何も分かっていなかったのは
気づけば、雲は晴れていた。
真夜中の砂浜には光が差し伸ばされ、幾万数多の星々と孤高にして清廉な月が姿を現し、ヒッポメネスと翁を見守っていた。
「好きだった! 大好きだった!! だから僕はアタランテに全てを捧げる───ふざけるな!!
僕は幸せになりたかった! 彼女に愛してもらい、共に幸せになりたかった!! それが本音だろうヒッポメネス!!」
全ては、その為だったと振り返り気づく。
婚姻の競争により彼女を傷つけ、大事なものを汚した罪の意識により彼は彼女に人生を捧げた、つもりだった。
「彼女の理想を叶える? 馬鹿馬鹿しい!! そんな戯言を吐く僕が大っ嫌いだ!! 僕がしたのは彼女の顔を曇らせたくなかっただけだ!! 彼女の想いを、願いを受け止めたのは表面だけで、子供達を救う気なんか僕にはなかったんだろう!?」
あの時、黄金の林檎を潰してまで村と子供達を救ったのは単純に悲しむ彼女を見たくなかった。彼女にはずっと笑顔でいてほしかった。ただ、それだけだったからやったことだった。
「僕はアタランテ以外どうでも良かった! アタランテが幸せに、僕も幸せになれるなら彼女の理想なんてどうでもいいと見向きもしなかった!! 人が、国が、神が、世界が死して滅びようとも彼女と笑って生きていけるなら、どうでもいい! 本当にどうでも良かった!!」
なのに、アタランテを失った。
死にたくなった。今までの思慕さえも吹き飛び、魂が抜け落ちた。
彼女を失い、失った原因が自分だと知るも自害できず、ひたすら生きるだけの人間に成り下がってしまった。
夢の中に逃げ込んで、起きれば彼女を思い出し苦悩する。眠りにつく間、ずっと過去から今を振り返り、ふと思い浮かんだことを思い出し、頭を抱えて震えだす。
「……無駄だと思ってしまった。全てが無意味で、挑むことすら愚行なことだと…アタランテの願いを、蔑んでしまった」
祝福の循環。
親が子を愛し、育った子がまた生まれた子を愛する優しい螺旋。
聞くだけならそれはとても祝福され、望まれるべき願いなのだろう。
しかし、それはあまりにも脆い砂上の城だったとヒッポメネスは語ってしまった。
例え自分が生み出した地獄でも、子を殺すことなど容易くなってしまった人間。同じ親だとしても同情なく、無惨な所業を好み、ひたすら繰り返す現実。
それは自分の目の前で起こったことだけなのだろうか?彼女の親である王は、自分の理想と現実の為に娘を物として扱った。神々の秘宝無くとも、人はあそこまで非道になりきれる。
それが世界中に広がり、今も何処かで続いているならその全てに彼女の理想を広がらせ、実現できるものなのか?
ヒッポメネスは一人になってしまった時間で考えてしまった。思考を止めようとしても止められない。何もせず、ただ蹲っているだけならば尚更と───答えを導いてしまった。
そんな理想は、世界に通じないと。
ヒッポメネスはさらに夢へと逃げ込んだ。二人だけの時間に、幸福だったと思える時間を振り返る。そうしていればやがて終わりが迎えに来てくれる。終わりが来たら、考えず、絶望しなくてもいいと。
それでも、希望を見つけてしまった。
「……残っていた。残っていたんだ。彼女が残していたものが」
それは、少し前の現実の話。
全てが蒙昧に白く塗り潰され、意味を見出せなかった時に声が聞こえた。
林檎の魔性に狂った村の男が帰ってきた。既に殺す気も起きず、そのまま見つかれば死ぬるかと思っていた。ただ聞こえる男の欲に塗れた声を聞き流し、目を瞑ろうとしていた。
───いやだ! 行きたくないよ!
───お父さんが、かえってきてよぅ!
───あ、あっち行って…!
───来るな! 村から出てけ!」
───帰って、帰ってよ!!
子供達の叫び声。
驚愕に揺れ、動揺が駆け巡った。
何故だ? 行けばいいだろう。あの村民たちはお前たちを迎えに来た。帰れるんだ。親の元へ、帰れるんだぞ?
───父さんやおじさん達は、助けられただけだ!! あの人達に…ヒッポメネスさんやアタランテさんに助けられただけなんだ!! それが、ただ、身体が強くなっただけで最強なんてあるはずがない!
違う。
僕は助けようとしたんじゃない。アタランテを助けたかっただけなんだ。僕は、お前たちのことなんて。
───だから、行かない! 絶対に行くもんか! おじさん達はぼく達の知っているおじさん達じゃない! みんな、もう、化け物だ!!
───村は、ぼくが守る。だから、帰れ! ぼく達はぼく達で、生きていく!!
強かった。逞しくて、弱々しくありながらも清廉で高潔で、希望に満ち溢れていた。
怖くて寂しいだろう。震えて、安寧と共に穏やかでありたかったはずだろうに。親の元に行き、胸に抱かれていたかったはずの年齢なのに。
ヒッポメネスよりも強く、とても輝かしく生きている。
その声と在り方に
純潔の狩人の在りし日を思い出し───思わず飛び出した。
「生きていた。彼女は目の前にいなくなったけど、彼女が残したものを僕は見てしまって…僕は、彼女の理想を目にした」
彼女の理想を知っていた。子供の祝福と平和。親が子を愛し慈しみ、そしてそれが永遠と続く螺旋。
その理想は何を見て想起したのか。
過去の傷か、同情か、それとも羨望か。どれもあったのかもしれない。どれもアタランテの理想に必要な要素であり、根源だったのかもしれない。
だが、ヒッポメネスは知らなかった。その理想を理解するのに、共感するのに必要だったものを。
子供という、輝きに満ち溢れた可能性と強さをずっと知らずにいた。
誰もが最初は無力だった。歩くこともままならず、手を差し伸ばさなければ吹いて倒れるような弱々しい生き物だった。
しかしアタランテが女神の慈悲で生きれたように、ヒッポメネスが両親の愛と祖父の導きで生きてきたように。
やがて悲劇を繰り返す悲しき宿命を持ち、美しくも儚い閃光のような輝きを放てる生き物が『人』だ。
その人の歩き始めた最初の姿に、アタランテは希望を託せると信じれた。
───二度と自分のような人がいないように
───救われる、光があると知ってほしくて
───愛は、必ず未来を切り開けると
アタランテは子供を救おうと、歩き始めた。
「その理想を、僕は、初めて理解できたんだ…。彼女を失って、ようやく、アタランテを本当に知ることができた。寂しかっただけじゃない、愛してほしかっただけじゃない。彼女は!! 心の底から子供を愛し、救いたかったんだ!! だから彼女は
それは悲しいことなのだろう。
遥か尊き理想は人の手に届かない。
狩人の故郷は
人が傷つかず、誰もが幸せになれるとは限らない。
それを知りながらも彼女は挑むことを選ぶ。
子供が、可能性が、未来が暖かくあることを祈り、正しいことだと理解できたから。
「それを、僕は……蔑んだ」
無意味だと、知りもせず想起した。
理想を上辺で捉え、見向きもしなかったことに彼は子供達を見て、気づき惨めになった。
子供達の前に立つのが恥ずかしい。救われたなんて言ってもらえることすら自分には相応しくない。
大人たちから離れ、自分達で生きていくと決意した君達の方が立派なのだから。
「だから、儂を求めた訳ですか」
ヒッポメネスは頷いた。
己を恥じ、惨めになり、どこまでも小さい男だと思い知らされ、挙句の果てにはアタランテのことすら
現実の己の矮小さに、夢で救いを求めた。
こんな自分になる前の、幼き頃に導いてくれた懐かしき者。
「まったく、まあ、本当に小さな男になりましたなぁ」
翁はそう言いながらも、優しい瞳でヒッポメネスを見た。不甲斐ないながらも可愛い孫を慈しむように、夢に敗れ嘆きふて腐れる情けない息子を慰めるように、ヒッポメネスに手を伸ばす。
手を伸ばされた本人は蹲っていた。叫び、心に溜まっていた者を吐露している内に泣きながら伏せてしまっていた。
大人になったはずなのに、小さく丸まってしまった背中に仕方ないと小さく息を吐きながら、翁はヒッポメネスの頭を落ち着くように撫でた。
「ごめん、ごめんよアタランテ…。何もできなくて、君を救えなくて、君に縋っていただけの男で、ごめん……」
嗚咽を交え、今は亡き最愛の人に詫びた。
理解していなかったのは同じで、互いに理解しようしていなかった。
でも、アタランテ亡き今ヒッポメネスは理解した。とても遅く、取り返しがつかないほど後になってしまったが、アタランテが追っていた光景の一端をヒッポメネスは見れた。
「意味はありました。無駄じゃありませんでした。残ったものがありました。とても眩しくて、あまりにも眩しくて、目が霞んでしまいそうなほどに、大切なものが残りました。
だから、忘れません。他の女を愛せません」
今も、昔も。
「僕はアタランテに惹かれ続けています。命尽きるまで、この恋慕を抱き続けて生きていきます!」
もう導かれるわけにはいかない。
一度挫け、諦めそうになったけれど歩くための足はまだ残っていた。まだ足元が不安定で、倒れてしまいそうだけど、それでも光明は見えた。
「そうですか」
翁は頭を撫でるのを止めた。手はそのまま頭に置き、目線は楽しげに見下ろしている。皺で弛んだ口元の口角を上げて、若々しく笑った。
「なら、最後に聞いておきますが」
翁は懐に手を入れて、あるものを取り出した。
泣き伏せていたヒッポメネスはゆっくりと顔を上げ、懐から出たものを見て瞠目した。
「これは、いりますかな?」
翁の手には、黄金の林檎があった。
アタランテと共に海へ身を投げ出した後、どこへ流れ着いたのか分からなかった黄金の林檎の一つが翁の手のひらに収まっていた。
なぜ、なんでという疑問が押し寄せる。しかし、それはすぐに無くなり自然に黄金の林檎の価値を測る。
女神より賜りし秘宝、あれがあれば何を成すにも助力となる。だが。
「…いえ」
そっと、ヒッポメネスは手で押し返した。
「僕には過ぎた物のようでした。できれば、かの女神に返却と言伝を。『ごめんなさい、ありがとうございました』と」
「やれやれ、無茶な頼みを。老骨には厳しすぎますが、やってみせますかな」
翁の言葉に申し訳なさげに苦笑する。
泣き腫らし、赤く腫れぼったくなった目を一度擦りヒッポメネスは立ち上がろうとした。
だが、立ち上がる寸前に頭に乗せられている手にチカラが加わり、立ち上がれなかった。
「翁様?」
「気が乗りましたからな。恐らく、一生使うことは無さそうですが、貴方に授けましょうや」
頭に乗せられた手には握力が加わる。何事かと思った瞬間───深海が見えた。
深く深く深く、重く広い海の底。そこに圧倒的な存在で君臨してたのは鯨だった。暗闇の中に漂う感覚に体が硬直するが、すぐに目の光景が転じた。
次に見えたのは浅瀬。色鮮やかな小魚の群。海底を彩るサンゴ礁。悠々自適と波に乗るイルカの親子。
また光景が転じる。見えたのは嵐。猛々しく渦を巻き、飲み込んでは破壊を生む。差し込む光は閉じ、薄暗い海中を牛耳るは鮫。
すぐに光景が回転した。次に見えたのは神殿。海の底に沈んだ神殿は神気を淡く放ち、領域というものを生じていた。海の底だというのに建築されたばかりの傷や沁み、風化がないように見えた。
その神殿の奥深く。そこには、海のように蒼い髪を靡かせた男と、矛先が三つに別れた槍が───
「っ!?」
景色は戻っていた。視線は砂浜で、あたりは薄暗い。あの光景から戻ってきたのだろう。
そして、頭に乗せられている手の重力に意識を戻し。
「……あぁ」
思わず、破顔する。
そうか、そうだったのか。ずっと気づかなかった。
頭に乗せられていた手の重力が変わっていた。骨と皮と皺でできたような手だったのに、ごつごつとした深い重みと寛容さを感じられる優しい掌に変わっていた。掌から伝わる温度は人にしては涼しく、穏やかだった。
「そういうことだったんですね」
「まあ、そういうこった」
声も変わっている。嗄れた声は青年のように若々しくはっきりしていて、口調も荒々しくも人懐っこい。
「最初は面倒くさいから適当に任せようとも思ったんだが、偶にはいいだろうと興がのっちまってな。少しばかり姿を変えて、本当に爺さんのようにやってみたんだが…。存外悪くなかったわけさ」
ぐしぐしと乱暴にヒッポメネスの頭は撫でられた。先ほどのと比べると荒々しいが、そういう
「珍しいこともあるもんだ。俺の家系っていうのは大抵女好き。ゼウス然りオリオン然り。にも関わらず女に尽くされるんじゃなくて尽くす。しかも一人の女にな」
「…なら、アタランテはどの女性よりも美しく、気高く、可愛い女性なんです」
「…くはははははっ!! そうか、そうくるか! お前を一度メドゥーサやゴルゴン姉妹と遊ばせてやってみたかったよ!」
そう言うと頭から重力が消えた。
顔を上げると目の前には誰もいなかった。あったのはどこまでも続く浅い黒色の海。空の月は今も煌々と輝き、ヒッポメネスを照らしている。
「これで最後だよ。お前に会うのも、導くのも」
後ろに移動していたが、振り返らなかった。振り返れば去ってしまい、会話が終わってしまいそうだったから。
「…ずっと、そばで見守り続けてくださり感謝します」
「くはははっ、感謝しろよ。こんなこと二度としねえし、やりたくねぇ。悪くなかったが、一度でいいわ。泣き虫小僧の世話とか思いの外疲れる。帰ったら周りの馬鹿どもに何て言われるか分かったもんじゃねえし」
そうして、軽く背中を蹴られた。痛みはない、衝撃はあるけど悪くないような送りの仕方だった。
「じゃあな。メガレウスが息子、我を淵源と是とする大海が系譜、
その声を最後に気配は消えた。振り返って確かめると、砂浜に足跡が残っていた。その足跡は海へと続き、消えていた。
海は不動に揺らぎ続ける。其処には何もかもがあり、そして還るべき場所。二度と会えないと言っていたが、訪れればまた会える。
幼少から今まで、ずっと見守っていてくれた。そしてきっと、これからも見守ってくれている。
「ありがとうございます。偉大なるお祖父様」
そして、海から太陽が昇る。朝の光明がヒッポメネスを包み込み、世界を白へと変えた───
○ ○ ○ ○ ○
其処には地獄が広がっていた。
小さな村が、数十人の来訪者に蹂躙されていた。元の住人は泣き叫びながら逃亡し、ある者は抵抗しようと持った獲物で斬りかかる。
斬りつけられた来訪者は腕で剣を受け止めた。肉が食い込み、血が噴き出す。痛みで泣き叫び、倒れたところを止めを刺そうとしたがーーー来訪者は腕に食い込んだ剣を無視し、住人の首を締め上げた。数十秒の内に空気が遮断され、息絶えた住人を捨て、来訪者は剣を引き抜く。すると傷口は数秒で閉じ、何もなかったような綺麗な肌に戻った。
来訪者達は顔を合わせ、嗤いあう。備蓄を漁り、酒を飲み干す。若い女がいれば髪を掴み、暗がりへと引きずる。そんな当たり前となった事を、当たり前のようにしようとした時ーーー
一人の来訪者の首が飛んだ。
若い女が悲鳴をあげながら逃げるのを耳にし、全員の視線が一人の若者へと集中した。
その者は碧い髪に獅子の耳を生やし、簡易な衣服に身を包んだ者だった。両腕には小剣と槍を待ち、剣には首を斬り飛ばした際の血が付着していた。
来訪者は驚き、笑みを浮かべる。
その若者こそ、自分達を強者へと導いてくれた切っ掛けだからだ。彼の手荷物には、自分達を不死の存在へと変えてくれた黄金の果実がある。
それを奪い、また食べれば次は神になれる。そんな妄想が来訪者全員の思考に塗れていた。
我先に一人が突撃する。斬りつけられようとも傷はすぐ癒える。それが黄金の果実を混ぜた酒を呑んだ際に手に入れた力。例え、斬られようともーーー
また、首が飛ぶ。
沈黙が場を支配し、若者は口を開く。
「お前達が不死? ありえない」
曰く、果実を食べた者が不老不死になれるが、一欠片程度しか口にしていない者は肉体の強化と優れた治癒能力を得るだけ。
そして、なぜ今までそんな勘違いをしていたのか?
「村しか襲っていなかったからだろう。武芸も何もない村人を襲っても、反抗もしれたことだしね」
間違っていない。来訪者ーーー元はただの小さな村人達は自分達と同じ弱者しか襲ってこなかった。自分達と同じ、田を耕し自らの糧を得るだけに必死な暮らしをする者たちしか狙っていない。同じ者だからこそ、弱さを知っている。
「さて…率直に言わせてもらうよ。君達を止めさせてもらう。妻の恩を仇としたことは勿論だ。無限の欲に駆られて行った残虐の数々。いずれは名のある英雄が貴方達を始末しにきただろうが、それは譲れない。これは僕から始まった悲劇に他ならない。ならばーーーここで全て終わらせよう」
剣と槍を構えた型は堂に入った。その姿を見て、村人達は悟る。自分達より強いことを。
だが、臆さない。自分たちは無敵だと、不老不死だと今でも信じている。数で掛かれば殺せると、保障のない確信があった。全ては増幅された欲によって思考が破壊されている。
そして、一人の合図で若者にーーーヒッポメネスに村人達は襲いかかった。
ヒッポメネスは躊躇いなく村人達へと槍と剣を振り下ろす。一人、一人葬られ、隙を見た瞬間にヒッポメネスは傷つく。それを好機と前へ出るが、ヒッポメネスは反撃にと瞬時に三人は斬り捨てる。
「舐めるなよ。こんな男でもかの英雄の夫だ」
「我が名はヒッポメネス。海神の血筋にして、純潔の狩人の夫。ーーーこの名を手土産に冥界神へ首を垂れてこい」
腹に突き刺さった剣を抜きながらヒッポメネスは剣と槍を手に取り、立ち向かった。
○ ○ ○ ○ ○
涼しい木陰でのことだった。
木の葉が細やかな風に揺れ、こすれ合って音を生む。土と草の香りが息を吸うだけで肺が満腹になったような錯覚を覚えさせる。
春を過ぎ、夏に近づいた季節は陽光も暑く、肌を焼いてしまう。そんな陽光から身を隠すように一人の老人が地面に座っていた。
顔面は歳に相応しく皺が目立ち、手の指先など枯れ木のように細くなっていた。背丈は小さく、足腰の力が弱くなったのか手に背丈と同じ高さの杖が握られていた。髪も髭も真っ白だが、髪の方は薄っすらと碧の色が混ざっているようにも見える。
老人が座っている正面には、墓があった。
巨木の前に幾つも積まれた石に、石の周りには供物らしき果物や花が添えられている。果物の殆どがリンゴで構成させられており、墓の人物がリンゴが好きだったことが分かる。
そんなリンゴの匂いに溢れた墓の前で、老人は座り込んでいた。
「やぁ…アタランテ」
老人は口を開く。嗄れた声に覇気はなく、しかし耳に残るような温もりに満ちた声音だった。
「ここに来るのも、いつ振りになるのだろうかな? 最近は寝てばかりで、ここに来るのも一苦労になってしまって、いけないなぁ」
墓に語りかける老人は楽しげに笑みを浮かべた。勿論話しかけても声が返ってくるわけなどない。でも老人は構わず墓に話しかけ続けた。
「眠りも浅くなってしまって、朝か夜かも分からない。まったく、老いるっていうのは中々、辛くもあるよ。……はぁ、君の前に来れるのも、後何度になるんだろうねぇ」
老人がこの墓を作ったのは、妻が亡くなってすぐだった。
妻の亡骸をそのままにしておくわけにはいかず、泣きながら、悔やみながら土を掘り、石を積んだ。完成した墓の前に数日も蹲ったことを記憶している。
「…ああ、すまないねぇ。また愚痴をこぼしてしまった。歳を取る度に愚痴が増えてしまっていけない。君も飽き飽きしてるだろう。だから、本題に入ろうか」
老人はーーー老いたヒッポメネスはもう一度、アタランテの墓へと微笑んだ。
「また、あの子達の子供が産まれたよ」
○ ○ ○ ○ ○
「ごめん」
ヒッポメネスは集まった子供達の前で地面に膝をついて、謝罪した。
子供達は突然目覚め、ヒッポメネスに集められた。集められた子供達はヒッポメネスの姿に驚いた。死者のような生気がなく、日が進むことに虚ろとなっていく彼だったのだが次の日、目覚めれば今までの彼はいなかった。
ヒッポメネスは初めて子供達のあった頃の、優しげで何処か抜けてそうな穏やかな青年に戻っていた。
「君たちの親がああなったのは全て僕のせいだ。何の言い訳もできない。とりかえしのつかないことをした」
子供達の間で、困惑が走る。ヒッポメネスは口を開き、何が起こったのか全てを説明しようとした、とき。
「必要ありません」
子供達の中から、いつもの少年が現れた。この村一番の年長でヒッポメネスと大きく関わりがある少年だ。
「みんな、既に知ってます」
「え?」
「僕達だって子供のままじゃありません。何となくでも、理解しているんですよ」
ヒッポメネスが子供達の顔を見渡すと子供達は困惑していたが、それでもはっきりとヒッポメネスの顔を見ていた。そんな子供達の中から一人、少女が出てきた。その少女はヒッポメネスに林檎を届けた幼い少女。
「おかあさんやおとうさんが変わっちゃったのは、わたしたちを助けようとしてくれたからでしょ?」
その言葉が胸に突き刺さる。
そうだ。ヒッポメネスはアタランテの為とは子供達を助けようとした。みんな病から助かったが、代わりに狂気に身を堕とした。今でも多くの村々が被害を受け、血が流されている。多くの骸が生み出されていることに、自然と拳に力が入る。
「うん…」
「わたし、嬉しかったよ」
その少女はにっこりと笑った。太陽な、暖かな笑みだった。
「助けてくれてありがとう。ヒッポメネスおにいちゃん。わたし、今、とっても元気!!」
うさぎのように飛び回る姿に周りの子供達にも笑顔が浮かんだ。
きっと彼女は全てを知っているわけではない。大人達が、父と母がどんな状況なのか。そして、この後この少女の父と母をヒッポメネスが
周りの子供達は分かっている。それは、もうどうしようもないほどに、手遅れになっていることを。
「ヒッポメネスさん」
少年が跳ね回る少女の肩に手を置いて、落ち着かせた。そして子供達の目を一人一人見始める。みんな、苦しそうに顔を歪ませたり、涙を流すのを我慢している。それでも決して目を背けたり、背を向けたりしなかった。
「僕達は決めました。僕達は貴方に要求したいことがあります」
「…なんだい?」
「生きてください」
「…え?」
「生きて、僕達を育ててください」
ヒッポメネスは固まった。予想外とも言える要求に、心身共々硬直した。
「僕達はまだまだ子供です。みんなで生きていくには、足らないものばっかりで難しすぎます。ヒッポメネスさんが寝ている間にやってはみたんですが、どうも大人達のようにはできなかったみたいです」
村を見渡すと畑を耕してみようとしたり、柵を補強しようと頑張ってはみたがあまりにもお粗末すぎて、作業と言えるものにはなっていなかった。
「…ヒッポメネスさんに、こんなことを頼むのはおかしいのかもしれません。あなた達は僕達を助けてくれました。でも、父さん達をああしてしまったのもまたヒッポメネスさん。悪いのは父さん達だけど、それでもあなたが僕達に罪を感じているのなら、僕達が大人になるまで見守ってください」
「……いいのかい?」
僕でいいのか? 恨んでいないのか? 殺したくないのか? そんなごちゃ混ぜな感情を幾つも含ませて放った台詞に、少年はしっかり頷いた。
「はい。…ですが、あなたは? あなたは僕達を、恨んでないんですか?」
───アタランテ。
もっとも美しく、愛おしい狩人。その狩人はこの村が原因で亡くなり、この世を去った。
それを思うと、正直憎い気持ちもある。胸の奥にある黒い炎が燃え上がる。だが。
「…アタランテに、怒られちゃうんだよね」
「え?」
「彼女、子供が大好きなんだ。もし、ぶっちゃったりしたら僕が倍にして殴られる。だから…僕は君達を守らなくちゃいけないんだ」
アタランテはもういない。どれだけ泣き叫んで絶望に塗れようとも、彼女は帰ってこない。
胸の空白は消えない。しかし、その空白が彼女の愛おしさを思い出す。
何も残ったものがなかったわけではない。彼女が救いたいと願った子供達がこの地に残り、僕は彼女が望んだ螺旋を知っている。
ならば、僕はその理想を継ごう。
彼女が愛おしい、彼女が守りたかった者を守りたい、その理想を叶え彼女への手向けとしたい。
とても分かりやすい動機だが、それでもヒッポメネスにとって充分だった。
きっと長い旅になる。まずこの子達を立派に育て、大人にしなければならない。その後はまた旅に出よう。世界を見て、人と語り、愛の数だけ知らなければならない。途方もない旅だ。終わりなんてないのだろう。きっと理想の為、欲張ってもろくでもない終わり方になってしまうかもしれない。
それでも、僕はアタランテの夫だ。これぐらいしないで夫なんて名乗れない。
「───その要求に応えよう。僕はこれより、君たちの親となろう。だけど、一つお願いがあるんだ」
これは単なる願望だ。そうなったらいいな、と。夢見たことだ。もう叶わないことだろうけど、子供ができたんだ。これぐらいなら許されるだろうと、ヒッポメネスは望む。
「アタランテを、『お母さん』と言ってあげてくれないかな?」
○ ○ ○ ○ ○
老いたヒッポメネスは過去を思い出す。
まだ青年だったヒッポメネス。かつてあの村に住んでいた子供達の親を、大人達を歴史から消し去り、ヒッポメネスは子供達の親となるべく奮戦した。
村の田を耕し、獣を狩り、子供達に字を教える。あまりにも忙しい毎日に倒れそうになった数など数えられないほどだった。
やがて数年ほど時が流れると子供達は大人になり自立し、ヒッポメネスの肩の荷はとりあえず降りた。その後、ヒッポメネスは一旦旅に出た。アタランテの願いを叶える為、理想の成就のため方法を探しに出た。
旅のいく先々で戦争、飢餓、疫病と地獄を見たり、遠目で英雄の高らかな凱旋を眺めたりと多くの出来事と遭遇した。時には捨てられた子を拾い育てたり、戦争で孤児となった子供達を引き取り村へ招き入れたり、或いは育ててくれと頼まれて請け負ったりと、永きに渡る年月を子供達と過ごし、親となった子供達の成長を喜んだ。
「ああ、大変だった。本当に大変だったよ」
勿論絶望もあった。助けれなかったことや、手を差し伸べても払われたこと、そもそも救いの方法が見つからなかったこと。幸せと比較すれば悲劇の方が多かったのかもしれない。
それでも、ヒッポメネスはアタランテの理想に挑み続けた。
そして───
「理想に、手は届かなかったよ」
ヒッポメネスは生涯を通して、アタランテの理想を叶えることはできなかった。
「あの子供が大人となり、親となった。純真無垢で、無邪気で、誠実な子供たちだったけど、それでも道を違えてしまったものもいたんだ」
愛し、守り、導いた。そのつもりだったが、大人となった子供の中には過ちを犯してしまったものがいた。
ヒッポメネスが過去に行ってしまった過ちを持ち出して、お前は人殺しだと蔑むものもいた。
また村を出て、英雄になるつもりが悪党となってしまい、処刑されてしまったものもいた。
どうしてこうなったのか、何がいけなかったのか。苦悶に苛まれ、罪を感じ、心にかかる罪悪感で押し潰されそうになった時期もあった。
「子供も人だったということだよね。どれほど無垢であろうとも、やがて、欲を覚えるんだ」
成長は学ぶことだ。
道徳倫理、弱肉強食、嫉妬と傲慢、性差獣欲。
あらゆる知識と経験、それらを重ねていくうちに人は己を形成し、自らを完成させるために求めていく。
人の本能だろう。本能が抑え、社会に生きていくための理性もまた生まれるが、人が本能に抗いきれる訳ではない。
それを嫌悪するものもいるだろう。人という生き物ほど業が深い生き物はいないだろう。ヒッポメネスは少なくともそれを思い知らされた。
成長することこそ子供の本能であり、大人の本能が己を完成させることなど、何度も何度も叩きのめされながら理解させられた。
だからこそ、ヒッポメネスはこう語れる。
「人は、美しいよね」
醜くも、それを受容し進む者も子供達の中にいた。
無秩序を憎み、法を作ろうと村を出て国に仕えにでた者がいた。
多くの弱き者を救おうと武を学び、力を求めた者もいた。
誰かの支えになろうと人を知り、英雄になろうとした者さえいた。
本能に抗い、されど本能と理性を両立し、理性で人の道標となる。
矛盾を孕み、高潔を謳う人の業。これを美しいと言わず何という。
「だから、今になったら分かる。なんで、子供達が
ずっと疑問に思っていたことだった。
自分が変えてしまった村の大人達は林檎の影響により狂ったが、同じ物を口にしながら子供達は一切
心のうちに秘める願いを増幅させ、欲望へと転じさせる魔性と神秘の果実。
当初は林檎を授けてくれた女神の慈悲だと思っていたのだが。
「あれは、確立された己に刺激する」
大人は完成された自我を持つ。己という存在を証明するための本能と理性、記憶と感情を認識できるものこそが自我なのだ。その自我が明確にできているからこそ、人は自らを導ける。
しかし、子供は自我が薄い。まだ個性を明確に捉えきれず、漠然としか己を現せない。だからこそ成長しようとあらゆる刺激を吸収する。
道が定まらず、あやふやで、誰かに手を引かれないと歩けない子供達。
林檎の魔性は光でも闇でもない。誰かを導くための指針でもない。
何者にもなりきれていない
「無敵だよ。まったく、無敵さ」
弱々しくて儚いくせに、大人よりも最強な存在。あんな連中に勝とうとする奴らが馬鹿馬鹿しい。
だから人は彼等を守ろうとする。
命に代えて、己を投げ捨ててまで尽くそうとする。
その背景には幾多の理由があろうとも、可能性の為に人は子供達の為に尽力する。
「だから、君は間違っていなかった」
醜く、美しくなる可能性の塊達が幸せになるための環境と縮図を求め続けた狩人の理想は正しかった。
その理想は万人が求め、知らない誰かが今もなお願い続けている願望だ。
ヒッポメネスは理想に手が届かないと告げた。
当たり前だ。
こんな理想が、たった一人が叶えられるものではない。
万人が望み、叶えるために切磋琢磨し、繋がれていく。
大人から子供へ、その子供から子供へ、過去から未来へ。
血脈だけではなく、絆と願いで紡がれ描かれる人類共通の
この理想は人一人が背負うには遥か遠く、重すぎる。それを彼女は背負おうとした。数多の人々と同じように、背負って歩き出そうとした。
しかし、君は他の人と違う。
君は孤高だ。孤高であるが故に、ひたすら子供達の為に心血を注げる。誰とも交わらないからこそ、理想に駆け続けれる。
だからこそ君は理想の為に理想を裏切れないし、きっと君が知らない地獄に苦しみ続けるだろう。許容できず、しかし理想の為考え続け、流れる時間が全てを解決し、救えなかった命に嘆き続ける。
だから、僕は決めたんだ。
「アタランテ。必ず、君に追いつくよ」
どんな人より俊足だった神域の狩人よ。貴女は既に僕の手の届かない場所へ駆け続けているのだろう。僕を過去にして、見知らぬ未来の種々の為に奉仕し続けているのだろう。
そんな君に、必ず辿り着いてみせる。
話したいんだ。多くのことを君に、語りたいんだ。
君が知らないこと、知りたいこと、僕の事や、僕が生きて出会った人達のこと、美しき愛の話、歪な愛の話、語られなかった英雄譚や、くだらなかった笑い話、理想の答えとなりかけた出来事や、どうあっても覆せなかった地獄の惨劇。
そのどれか一つが君の救いになれば、助けになれば僕は報われる。
君が理想に疲れ、堕ちることを望んだのなら僕はそんな君を受け止めよう。恥じゃない、決して嗤わない。
君が現実に潰れ、それでも君が高く跳ぼうとするのなら僕は踏み台になろう。
それを君に知ってほしい。
君は一人じゃない。決して、孤高である必要なんてない。
僕がいる。みんながいる。未来を守ろうと、未来をより良くしようと子供を救おうとする名も無き勇者達は、君が知らない場所で、今も尚生まれ続けている。
「いつか、そう、いつか何処かで君と再会しよう。その時には、どうか」
───僕の言葉を聞いてくれないかな?
そんな言葉を口にしようとした瞬間、暖かな声達に遮られてしまった。
「おじいちゃ〜ん、帰ろ〜」
「長老ー、まだかぁ?」
「村長ー、死んでませんよね〜?」
声にはあらゆる年齢が集まっていた。幼少の童女、歳若い青年、老いた男。他にも年頃の少女や少年、老女や爺の声も響いてくる。その数々の声達はヒッポメネスを呼んでいた。
「ああ、もう迎えが来てくれたみたいだ。もうちょっと話したかったのになぁ」
僕が死ぬんじゃないのかって心配してくれているみたいだ、と呟きながらヒッポメネスはぎこちなくなった体に鞭を打ち、立ち上がった。
「…君がいなくなった時、僕は死にたいと心の底から思ってしまった。それこそ僕の存在さえなくなればいいって、全ての間違いがなかったことになればって」
ヒッポメネスは僅かに振り返る。そこには陽だまりのように安らげる、帰るべき場所達が待ってくれていた。狩人の夫が一生を賭けて紡いできた絆達が手を振ってくれている。
「虫がいい話だけど、まだ生きなくちゃなぁって思っちゃうよ」
全ての選択肢には大した差はなく、また選んでしまった選択にも大きな意味はない。彼の選択肢が悲劇を招き、愛しき人を失う結果が待っていたとしても、彼が選択した想い自体が『今』を生み出した。
だからこそ、彼は口にしない。口にしてはならない。紡いできた今の命達を否定しない為に、自分は間違っていた、と言うわけにはいかない。
「生きて生きて、生き続ける。僕の命続く限り君が生きた意味を、君が夢見た理想を追い続けよう。僕では届かない、未来の可能性達が理想に追いつくその日の為に」
いずれ、君の理想は叶う。
これから先数千年と続く理想への旅は命から絆へ、絆から歴史となって続いていく。その旅がいつになったら終わるのかは分からない。時には妥協し、諦め、誰かに託し、託された人は更に築かれた歴史の上を闊歩する。
その繰り返し、理想にたどり着く為に続く螺旋の循環は永劫に続く。
けれど、続いて行った先に終わりはいずれ来る。ヒッポメネスはそう信じてやまない。
何十年と続く人生の中で見出した人の可能性が、そう信じさせてくれる。
「じゃあ、アタランテ。いずれまた」
彼は振り返り、彼女の元を去る。後ろで控えてくれているかつて子供だった大人達と、可能性に溢れた子供達の元へ。
何ができるかは分からない。今日もまた考え、躓きながら歩んでいくことになる。老いた身でもできることを、今からやってみよう。
そうして老人は墓の前から消える。この場にはかつて名を馳せた純潔の狩人が眠っている。
狩人への訪問者が来るのは何時なのか。二度とこないのか、それとも驚くほど速くなるのか。
いずれにせよ、老人が再び現れるだろう。その時には口動かぬ骸か、健在か。どうなるのかは分からない。
今日もまた風が吹いた。そよそよと細やかに流れる風は森を揺らす。
木の葉の陰から漏れる陰が木陰を生み、墓を照らす。其処には誰もいない。けれど、誰かはいた。その誰かの為の訪問はあと何回になるのか。
これは既に終わった物語。
故に分かっている。誰かの為の訪問に、訪問者がこの場に足を踏み入れるのはあと───
○ ○ ○ ○ ○
懐かしい、そんな思いとーーー唇に感じる暖かな柔らかみに意識が覚醒する。
微睡みと心地よい痺れが同時にやってきた。形容しがたい感覚を言葉にできない。いや、口にする事ができない。
片頬に髪が触れくすぐったく、片頬と顎には両手が添えられていた。固定された頭部に、押し付けられた唇。そして口腔内に甘酸っぱい固形の物が幾つか転がり、咽頭を通って食道へと落ちる。
口が塞がれていて、漸くヒッポメネスの意識は完全に覚醒する。
甘く、柔らかく、官能的になってしまいそうな……接吻。
暖かな触感ーーー唇が離されて、己の唇を塞いでいた者の正体を知り、言葉にできた。
「……アタランテ」
その狩人の英雄は、名前を呼ばれたと同時に両の瞳から一筋の涙を流させた。涙は頬を沿い、顎に溜まって雫となってヒッポメネスの頬に落ちた。
膝を枕にして頭を置かれている状況。先ほどの接吻と舌で感じた甘味。そして、アタランテの足元に転がっていた
「なあ、ヒッポメネス」
瞳から流れる涙は一筋だけで収まりきれず流れ続ける。それで表情は崩れず、まるで遠い空を眺めているような目で瞳にヒッポメネスを映す。
「夢を見たんだ」
「…どんな夢だい?」
「英雄と呼ぶには大袈裟すぎる、卑怯な男の夢だ」
その男は英雄の子供だった。だが父と母が死に、祖父の好意で翁に育てられた。すくすくと成長し、翁が死んだきっかけで旅に出た。その旅の帰り道、一人の女狩人を目にし一目惚れしてしまった。男は女の背景、思いを知ると幸せにしようと、救おうと考えた。だが、自分には何もできないと悔しくて震えていると、女神が男に助力した。
結果、女は幸せになれず理想へ走り、男は救えずに己を恥じた。恥じた男は口を閉ざし、女の隣に立ち続けることで想いを伝えようと走り出す。
だが、女がそれに気づくことは一生無かった。己が手を伸ばした者に裏切られ、女は男を置いて先に亡くなった。
男は絶望し、泣き叫び、復讐の為にと立ち上がったが結局女の影がいつまでも付いて行き、復讐を成せなかった。そして、男は一人の子供と子供達と過ごし、それがきっかけで女の理想の先を見据えれるようになった。男は子供と共に生きることを選んだ。子供達の親を殺し、罪を背負いながらも理想を追い続け、老いてもなお女の理想の為に未来を見据え続けた。
それがアタランテの見た夢、そしてヒッポメネスが辿ってきた道だ。
ヒッポメネスを生かすためにアタランテが宝具である黄金の林檎を口移しで食べさせた事が発端。
消失しかけのヒッポメネスと消失しかけのアタランテが宝具を用いての口移しによる接触が起こした、バグと同等の確率で起こった記憶の共有、いや、記憶の抵触。
宝具は逸話を昇華させた必殺。逸話は生涯であり、本能そのもの。それを口移しという形であれど、共有したことにより起こった過去の閲覧という奇跡。
アタランテは見てしまった。ヒッポメネスという男が何を思い、どう生きてきたのかを。
「もし、この男の夢が本当ならば…私がこうやって戦っているのは何なのだ。いずれ叶う理想ならば私がこうやって戦っているのは何なんだ? …分からないんだ。分からなくなってきたんだヒッポメネス」
教えてくれ、その叫びを耳にした。ヒッポメネスはただ迷い子となっていた女の頬に手を伸ばし、優しく触れながら答えた。
「意味はあるよアタランテ。僕が見た理想の終わりはあくまで僕が見たものだ。君はまだその理想の終わりを見ていない、その行方を想像できていない、つまり君の理想は尽きていないんだ」
同じ想いを抱こうとも見据えるものは違う。人は同じ人になれないように、同じ理想も結末は違う形で見えてくる。
「僕が見る“君の理想”は決着した。…君はどうなんだいアタランテ? あの夢を見て、君が救おうと手を伸ばした子供達が、君の死んだ後の生き様を見てどう感じた?」
「………眩しかった」
長い沈黙の後に吐き出された言葉は、凝縮された感情を共に吐き出させた。
「親に無情にも捨てられた、それでも自分達の足で立ち上がり、自らが信じた正しさの為に決別を選んだあの子達が眩しくて…嬉しかったのだ」
「そっか」
「ヒッポメネス、私は間違っていたのか? あの子供達に手を伸ばしたことが誤ちだったのだろうか? 汝らに討ち果たされることこそが救いだったのか」
脳裏に過るのはあの殺人鬼の少女。生まれる事も生きる事も望まれず、この世に名前も与えられず歴史から消え去った忌子達。死後も人々の信仰により囚われ、殺人鬼の名の中で苦しみ続けた。
誰かに解き放たなければ永遠に続く地獄、されど解き放たれば帰るべき場所に行き、名も持たず消え去る。
アタランテは救おうとした。例え自らが過ちでも、それが後が無くとも救おうとした。それが救いでは無くとも、救いたかった。
ヒッポメネスははっきりと応える。彼女の疑問に。
「ーーー違う」
その返答は有無を言わせなかった。
「僕が誤ちで、ルーラーも間違っていた。君が正しくて、救うべき魂だった。君は決して、間違っていなかった」
「なら、どうして汝は手を払った。汝は如何してーーー」
一度、目がたじろいで、再びヒッポメネスの目を覗く。
「私を、裏切った」
「君が救いたいのは全ての子供達。愛され続ける者、愛されなかった者。過去と未来、そして今に生きる者達だ。だけど、あの子達を救おうと受け入れてしまえば…彼等の為に今と未来を棄てなくてはいけなくなる」
亡霊に身を傾けさせるということはそういうことだ。怨念を受容してしまえば、周囲に呪いを振りまく。今と未来を潰し、過去へと逆行することを彼は許せなかった。
「僕は僕の為、僕は彼女達を見放した。君が彼女達に向ける愛情も否定し、目の前で葬った。全て、自分の為に君を裏切った」
怒りはーーー自然と沸かなかった。冷血な言葉を吐く男にしては、あまりにも弱々しい顔だったからか、それとも違う理由からか。
あまりにも多くを救う為に手を伸ばす。だが、そこに必然的に救われない者がいたとしよう。その者を救おうとすればするほど多くは救われなくて、いずれは破滅する。それをヒッポメネスは許容できなかった。
自らが理想とするものの為に自らを貶める。結果として、己が傷つこうとも省みなかった。間違っているとしても、守りたい者がいた。
それが自分だと気づき、アタランテの瞳から流れる涙は増えた。
「なん、で。なんでなんだ。なんでそこまでお前は…こんな、こんな進むことしか、踏み止まることもできない、女に……」
ーーー違う。そうじゃない。こんなことが言いたいんじゃない。
産まれてからずっと、捨てられてからずっと望んでいたモノがある。だがそれは生涯において諦めた。自分には必要ないものだと切り捨てたつもりだった。
でも、言ってほしい言葉がずっとあった。
気づけばヒッポメネスの両手はアタランテの頬に添えられていた。小さな力でしっかりと。互いの視線が逃れられないように伸ばされていた。
穏やかな男、でも悪賢くて、卑怯な男。
そんな男は厳かに、静かに、優しく願いを叶える。
「アタランテ。ずっとずっと君を愛している。そして、これからも君を愛し続けます。だからどうか……僕と結婚してくれませんか?」
「なん、だ、それはっ…」
言葉の意味を咀嚼し、全て飲み込んだ時には膨れ上がった感情が膨張し爆発しかけていた。歓喜でも羞恥ではない。もっと高度な何かで、それでもってシンプルな気持ち。それを言葉にできなくて、どうやってこの気持ちを伝えればいい。
「お前は、お前は…っ!」
駄目だ。全て剥ぎ取られてしまいそうだ。纏ってきた風格や培ってきた在り方でさえひっくり返されてしまいそうだった。
「遅くなって、ごめん。ずっと言うべきことだった」
女が流す涙をそっと指の腹で拭い、また流れると拭い続ける。そんな仕草がとても暖かくて、また爆発しそうだ。
「こんな卑怯者の僕だ。きっと、君の夫には相応しくないかもしれない」
でも、それでも彼は先に走り出した愛しき人の影を追い続ける。躓こうとも、倒れ、立ち上がる力が無くなろうとも、這い続ける。
それが彼の存在理由。英霊としての在り方。そして、
「いつか君より早く走ってみせるよ。君の前を走って、いつでも受け止められるように」
これが
満面の笑みで、妻へと微笑みかける。
ーーーああ、もう駄目だ。
抑えつけようとした感情が溢れ出した。破裂しかけた想いが胸から溢れ、泣き声となって爆発し続ける。
その涙には様々な想いが募っている。捨てられた時の寂しい気持ち、誰にも愛してもらえなかった寂しさ、女だからという理由で起こった諍いの孤立感、父に子を産むだけの存在としてしか見てもらえない孤独、子供達を救えなかった怒り、また裏切られた憎しみ。
彼女でさえ自分が何を叫んで、訴えているのか分からない。ひどくみっともなくて、その姿を客観的に見たら情けないと言ってしまうものかもしれない。
だがーーー嬉しかった。こんなにも許容されて、受容されて、甘受されたことが。
アタランテは一つの愛こそが真理なのだと、親の愛こそが唯一の救いなのだと自身の心に枷を付けた。
他の想いは、愛は自分には不要で必要ないものだと暗示していた。そうしなければ、折れてしまうかもしれないから。
ヒッポメネスという存在は鎖として完成されていた。その者があったから、その枷は成立している。故に例外はなく、異例はあってはならない。
だから己の予想外、定義が崩れそうになるたび痛みでーーー頭痛で思考を停止させていた。
それ以上はいけない。壊れてしまう、飛べなくなってしまう。だからこそ痛みは加速し、止まらなかった。
ヒッポメネスは想いの枷が外れ、泣きじゃくるアタランテを抱きしめる。
いつまでもずっと、泣き止むまで、彼女が泣き疲れ寝てしまい、起きるまでずっと彼は彼女を甘受するだろう。
それが一夜超えて、太陽が沈み、月が顔を出そうとも彼は苦しみ続けた彼女を癒し続ける。
生前八十年と三千年。
彼はようやく、彼女を真っ直ぐと見つめあうことができた。
この手の温もりだけでも、意味はある。