碧く揺らめく外典にて   作:つぎはぎ

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貴女は正しい。しかし、正しさは何時だって間違える。





眠り子達に歌と名を

“赤”のアーチャー(アタランテ)!?」

 

  アタランテは弓に矢を番え、狙いをジャンヌへと定めた。睨みは険しく、獣でさえ怯んでしまう眼光は、子供達を引きつけた。

  矢の先がジャンヌへと向けられていることで自分達の救い主だと思ったのだろう。そしてジャンヌは目にした。その救い主の腕には黒い何かが蠢いている。

 

「アーチャー…!その腕は! 何をやっているのです“赤”のアーチャー! その子達がどの様な存在だと…!」

 

「黙れ! 貴様こそ、何をやろうとした!子供達だぞ!彼らは子供であり、無害な霊にしかすぎん!悪ですらない!犠牲者だ!世界の機構に挟み潰された憐れむべき魂だ!それをどうして殺す!?」

 

  アタランテが持つ弓と矢は強い意志の証明だ。この世界は切り裂きジャックの内部であり、幻影にすぎない。いくら矢を放とうとも、ジャンヌとアタランテに決着はつかないだろう。

  アタランテの言葉には同情の想いが乗せられている。それゆえに事実から目を背いている。

  だからジャンヌは、アタランテに隣立つヒッポメネス(黒のバーサーカー)へと睨みつける。

 

「貴方も、彼女と同意見なのですか?バーサーカー」

 

「・・・・・」

 

  ヒッポメネスは答えず、ただ現れた時と変わらず俯いていた。

  何かに囚われているように、何も反応を示さず佇んでいるようであった。

  だが、やがてヒッポメネスは口を開いた。

 

「…ルーラー、君でもこの子達を救うことはできないのかな」

 

「できません」

 

  ルーラーの答えは酷く、冷血にも思えた。

 

「貴方も分かっているのでしょう。この子供達はジャック・ザ・リッパーに取り組まれてしまった。その魂を救うことはできないのです」

 

「聖女の君でも、か」

 

「ええ、私にはーーーできない」

 

  ひゅんと、矢が飛ぶ。突き刺さったのはジャンヌの足元である石畳。石畳は砕け、破片が散った。

 

「何を言うか!救うことが聖女の役割であろう!オルレアンの乙女、戦場で剣を抜かなかったのはその為だろう!殺さず、その手を血まみれにせぬようーーー」

 

「ーーーそう思いますか、“赤”のアーチャー」

 

  まるで刃のようだった。鋭く、研ぎ澄まされた言葉がアタランテの言葉を両断した。

 

「剣を使わなかったから、私の手が血に塗れてない?()()()。ーーー私はあの戦いに加担した。戦うと決めた。その瞬間から血に塗れたも同然です。甘く見ないでください。彼女たちを滅ぼすことに、躊躇いなどない!」

 

  一瞬、呆気にとられたがアタランテは怒りが込み上げる。

 

「ならば貴様は聖女などではない!!」

 

「そうです。私は聖女ではありません」

 

  否定。聖女自身がそう否定した。

 

「皆、私が聖女と呼ぶ。けれど他ならぬ私だけはそう思ったことは一度としてないのです」

 

  まさか、否定されるとは思わなかったのだろう。聖女自身が聖女ではないと言い切ることなど、想像しなかった。そして、聖女たる彼女ならばこの子たちを救うことができると考えていた。

  そして、アタランテはもう一つの可能性に賭けた。

 

「ならば…!聖杯による救済を行うのみだ!」

 

  シロウによる第三魔法の発動。魂の物質化を全人類に展開させる。それにより死の恐怖を取り除き、根本的な争いの元を断ち切ることで得られる人類の救済がシロウの目的だ。

  これならばジャック・ザ・リッパーがいたことも、生み出された背景、過程も消え去る。

  子供達が切り裂きジャックに取り込まれたことも無くなるだろう。

  ゆえに、子供達もこの地獄から抜け出せる。子供達は救済されるーーー

 

 

 

「できないよ。アタランテ」

 

 

 

  だが、それさえも否定される。

 

「…なに?」

 

  否定したのは聖女でないと言う聖女ではなく、彼女の横に立ち、今まで黙っていたヒッポメネスだった。

 

「なにを…言っている」

 

「できない。できないんだアタランテ」

 

  そう言ってヒッポメネスは片膝をついた。彼は近くにいた“黒”のアサシンの姿、つまりアサシンの代表格となった少女へと手を伸ばした。

  伸ばされた手に戸惑いつつも、少女は差し出された手を握り返した。

  それはただ嬉しかっただけかもしれない。今まで差し伸ばさたことがなかっただけから意味もなく握ってしまったのだ。

  だが、それは最悪の結果を現してしまった。

 

「…え?」

 

  それは少女だったのかもしれない。もしくは、他の子供達だったのかもしれない。

 

  少女が触れたヒッポメネスの手は、黒く汚染されていく。

 

「バーサーカー!!」

 

  ルーラーが叫ぶと同時に、少女は咄嗟に手を離した。だが、ヒッポメネスの手は黒く蠢き、悍ましい怨念により侵食されてしまっていた。

 

「魂を物質化させることは、今までの積み重ねを無かったことにできるわけではない。歴史は無くなるだろう。逸話も、伝説も、英雄譚も消え去るだけだ。だが、魂は違う」

 

  魂は蓄積された記憶でもある。発露した感情の種類でもある。あらゆる価値観で得られた哲学でもある。それが魂だ。

  いくら死を取り無くそうとも、生きていた頃の、刻み込まれた業と罪が無くなるわけがない。

 

「この子たちに罪はない。悪意もない。ただ、飲み込まれてしまっただけなんだろう。このジャック・ザ・リッパーの悪夢の中に」

 

  それだけだった。それだけでここまで変質してしまったのだ。無垢なる魂は悪意により、人を悪意に導く憎悪を生んだ。憎悪に染めるその性質は触れるだけで、同胞を生み出してしまう。

 

  全人類の魂が物質化しようとも、子供達は災厄を振りまく。それがこれが子供たちが背負うこととなってしまった業。

 

  この業はシロウによる救いでは消し去ることはできない。魂の在り方を変えることと魂の物質化は、両立しない。

 

  ヒッポメネスは振り離された少女の手を再び掴んだ。掴んだ掌から汚染は進み、ヒッポメネスの手は手首まで黒く変貌する。

 

「ーーーごめん」

 

  ただ、頭を下げた。頭を下げている間にも、怨念が彼の内部へと入り込んでいる。英霊である高位の存在ならば、この程度の怨念は念じる程度で消し飛ばせることができる。それこそやろうと思えば念じるだけで汚染など起こらなかっただろう。でもそれは実際起きていなかった。

  その方法を取らないのはきっと、ヒッポメネスが彼女を受け入れているから。

  穢れてしまった無垢なる魂達を、彼は侮蔑も忌避もなく認めているのだろう。だから、言葉にしなくてはならなかった。

 

「これが、君達なんだ。もう…救われないんだ」

 

  ただいるだけで害を及ぼす。どれだけ悪意が無くても善意に溢れても、彼女達は…いるだけで人々に拒否される。本当に救われない。言葉にするのも憚かる程に報われなかった。

 

「ふざけるな」

 

  無慈悲に聞こえる突き落としの言葉に、小さく反応する声がある。その声は震えていた。非情で無情な真実に、狩人が叫んだ。

 

「ふざけるな、ふざけるなヒッポメネス!!」

 

  アタランテは弓を投げ捨て、ヒッポメネスを掴みかかった。彼女の顔は憤怒に染まり、彼が言った言葉に責めかかった。

 

「救われないだと!?そんなことがあっていいものか!!ただ産まれてきただけで否定され、親に見放され、挙句には世界からも否定されるだと!?そんなことがあっていいはずがなかろう!!」

 

  そう、あっていいはずがない。そんなものがあってしまったら、彼女が求める理想は根本から否定されてしまう。

  認められる筈がない。それを知っていてもなお、彼女を知る彼は覆す。

 

「だがそれはあってしまった。()()()()()()()()()()アタランテ」

 

  目の前に広がるそれこそがこれだとヒッポメネスは真実を突きつけた。アタランテとて先程その地獄の一端を味わわされた。選択さえも選ばさせてくれない、終わりなき巡りを見てしまった。

  アタランテは言葉が詰まる。それでも、彼女が認められる筈がない。

 

「認めていいはずがなかろう!お前もあの聖女も同じなのか!この子達を…見離すのか!!」

 

  ヒッポメネスがアタランテを否定した時から黙して様子を見守っていたジャンヌは、アタランテの背中が今までと違い、とても小さく見えてしまった。

  見下しているわけでも、忌避しているからでもない。アタランテの姿が、とても寂しそうに見えたからだった。

  ヒッポメネスに対して怒りをぶつけているだけではなくーーーそれは、お前だけは味方であってほしかったと、信じたくなかったようにも見えてしまったから。

 

「なら、どうするつもりなんだアタランテ。仮に君がこの子達を生き返らせたとしよう、なんらかの方法で魂の性質を正しく浄化できたとしよう。…なら、次は?」

 

  その問いにアタランテの答えは既に決まっていた。

 

「守り、愛する!この子達は私が守らなけらばならない者達だ!この子達が親を求めるのならば、私が母となる!!」

 

  「無理だ」

 

  無碍なくそれを言い切った。ヒッポメネスの表情はアサシンと対峙したルーラーと同じ表情のようだった。あらゆる思いを断ち切り、信念の元に突き進むと決意してしまった者の、それだった。

  見たことのない初めて見せる伴侶の顔に、アタランテは動揺する。ヒッポメネスは彼女の手を掴み、引き寄せた。互いの息がかかるほどの近距離、虚偽も誤魔化しも許さないヒッポメネスの瞳がアタランテへと突き刺さる。

 

「君には、できない」

 

  決定事項だと言わんヒッポメネスの言動にアタランテは牙を剥いて反論した。

 

「無理ではない!捨てられたこの子達の気持ちならば私は理解できる!この子達に、生きる喜びを伝えることができる!」

 

「それが違うんだ」

 

  冷たさなど一切ない。温もりもない。無感情でも昂ぶっているわけでもない。ヒッポメネスはただ彼女の瞳から逸らさず、刻むように告げている。

 

「子供達が望むのは庇護さ。愛による庇護。母の腹の中にいる安心感、外界の影響を受けない、絶対の領域だ」

 

  愛を欲しているのは確かなのだろう。彼女達は一度も与えられなかったものを求め、怨霊になりながらも求め続けている。

 

「君の愛は暖かい。暖かいが、その温もりはやがて違う誰かへと与えなくてはならない。彼らは与えたくないんだ。ただずっと、与えられ続けたいんだ」

 

  アタランテの愛は、やがて希望となる日光のような慈愛だった。

  父が子に向ける愛は勇ましさ。知勇に優れ、力強くあれと願う様は頼もしかった。

  母が子に向ける愛は慈しみ。優しくあれ、大きく育てと願う様は憧れた。

  これこそが愛なのだと確信していた。この大いなる想いこそが無情な世界で必要なものなのだと信じていた。しかし愛はそんなに寛容じゃない。

 

「でもね、愛はそんなに綺麗なものじゃないんだよ」

 

  曰く、

 

「愛は独占だ」

 

  曰く、

 

「愛は渇望だ」

 

  曰く、

 

「愛は裏切りだ」

 

  そう語るヒッポメネスは何処を見ているのだろうか。直視しているのはアタランテの瞳だ。しかし、アタランテの内側か、それともアタランテの背景か。どちらにしよ、彼はいま彼女を否定している。

 

「君の愛は等しい。固執できない愛に、人は離れていくことしかできないんだ」

 

  ヒッポメネスは視線をズラした。自然とアタランテの視線も彼がズラした方向へと向けられた。

  子供達がこちらを見ていた。ヒッポメネスの手を握った少女、アタランテの背中へと隠れた少年達。その子供達の目は、等しく暗闇に沈んでいた。

 

「この子達は()()()()()()()()()。でも()()()()()()()()()()()()()()()()

 

  そして、再びヒッポメネスとアタランテの視線が重なった。

 

「君が与える愛は同情に成り下がる。同情は温もりになれない」

 

  それがヒッポメネスの言葉。これがヒッポメネスが聖杯戦争に出た理由の一つ。アタランテの欠点だった。

  彼女の想いは何一つ間違いはない。子供達が親に愛されることに何一つ間違いはないのだ。だが、アタランテに一つ間違いがあるとしたらアタランテの愛は、全ての子供達に向けられていること。全てを救う彼女の手段は未だ平等という一つしかなかった。

  その一つの手段は、ジャック・ザ・リッパーを救うにはあまりにも致命的すぎていた。

 

「…なら」

 

  弱々しく、潰れそうな声だった。しかし、次には大きく変わる。

 

「ならばどうすればいい!私はこの子たちを救いたい!!救わなければ私は私を否定してしまう!!この子たちを…どうやったら助けれるんだ!」

 

  怒りか、嘆きか。それすらアタランテには分からない。もう分からなくなってしまった。

  受け入れ難く、そして見えなくしてしまったものを引きずり出されてしまった。

  それをした張本人はただ、彼女の言葉を受け止め続けた。

 

「教えろヒッポメネス!お前は()()()も子供達を救ってみせた!お前ならばこの子たちを救えるのではないか!?どうなのだヒッポメネス!!」

 

「救えないよアタランテ」

 

  彼の答えは決まっていた。この地獄を見た時からやるべきことは同じだった。

 

「生きようと足掻いて進む者は救えるかもしれない。だけど、戻ろうと立ち止まる者を僕達は救えない」

 

  絶句による静寂が続いた。手段がない、方法がない、やれることは既にない。

  アタランテは考える。魔術と無縁だったが、自らの手でできることがないかと考える。しかし、答えが出る前に答えを決めた者達がいた。

 

「ありがとう」

 

  ポツリと、呟かれる細々とした声にアタランテは顔を上げた。

 

「ありがとう」

「たすけてくれようとしてくれて」「うれしかった」

「でも、もういいよ」「ありがとう」

「ほんとうに」「ありがとう」

 

  後ろから横から続いた声達はやがて彼女の背後から前へ、ジャンヌの元へと歩き始めた。子供達が自ら聖女の元へと進みだした。

 

「…まて、待ってくれ!」

 

  アタランテが子供達を引き止めようと腕を伸ばすが、それをヒッポメネスが遮った。彼女を引き止めるために抱きしめて、子供達の元に行かせないよう防ぐ。

 

「離せ!離してヒッポメネス!」

 

  ヒッポメネスは答えなかった。ただ逃さないように腕に力を込めて、彼女を引き止める。

  子供達はジャンヌの元へ辿り着くと、ふと疑問をぶつけた。

 

「わたしたち、どこへいくのかな?」

 

「あなたたちは主がいるべき場所に、そこはあなた達が在るべき場所です」

 

「そっか」

 

  ジャンヌは静かに、そして厳かに聖句を紡ぎ始めた。

 

  ーーー渇いた魂を満ち足らし、飢えた魂を良き物で満たす

 

「わたしたちをころして、へいきなの?」

 

  唇を強く噛み締めた。噛み締めた唇から血が流れる。

 

「それでも。それでも、私たちは前へ進まなければならないのです」

 

  その言葉で、子供達の顔には恐怖は無くなった。受け入れ、聖女による救済を静かに聴き留める。

  一人一人、静かに存在が消滅していく。その消滅は何の含みもない、消滅。サーヴァントとしての二度目の生は消え去り、子供達はこの世界の摂理から外れていく。

  その光景を必死に止めようと抗うアタランテだが、ヒッポメネスがそれを許さなかった。力の差はアタランテの方が上の筈だった。しかし、ここは切り裂きジャックの世界。子供達の意思を尊重するヒッポメネスは動けて、意思に反するアタランテは動けない。

 

「ねえ」

 

  消え去る子供達のなかに、一人だけ二人の元に残った子供がいた。“黒”のアサシンの姿をした、子供達の代表格の少女だった。

 

「おにいちゃんは、かなしくないの?」

 

  背中越しに問われた質問に、ヒッポメネスは振り返らず答えた。

 

「ーーーごめん」

 

  言葉と共に、アタランテの頬に冷たい何かが沿った。触れてみるとそれは濡れていた。アタランテは顔を上げて、ヒッポメネスの顔を見るとーーー

 

「そっか。ないてくれるんだ」

 

  表情は見えない。だけど、分かってしまった。この青年は、私たちの為に泣いてくれるのだと。

  身勝手な話である。子供達を殺さなければならないと告げて、それに手を下したのにも関わらず、悲しんでいる。

  悲しむのも、哀しむのも許されないくせに涙を流す。

 

それが、少女にとって嬉しく思えてしまった。

 

  少女は手を伸ばし、ヒッポメネスの手に触れた。触れた先から彼の手は子供達の怨念に侵食されていく。しかし、少女が伸ばした手を彼は握り返した。それぐらいしか彼はできなかったから。

 

「うん、あったかい」

 

「…ごめん」

 

「いいよ、こうしなきゃだめなんだから」

 

「…ごめんね」

 

「そういってくれるだけで、じゅうぶんだよ」

 

  ああ、と少女は空を見上げた。霧と雲により星が隠された空には光は届かない。こんな暗闇のなかで小さな命達は尽きてきた。なのにーーー僅かな雲の隙間から星が覗いた。

 

「しにたくないな」

 

  愚策だ。涙を流すと未練を残す。悲しんでしまうと後悔が残るはず。

  だからジャンヌは鉄の殻を作り、悲しみも涙も見せなかった。

  しかしヒッポメネスは鉄の殻を作ることもできず、悲しみも涙も見せてしまった。

 

  少女は思う。

 

  こうやって泣いてくれる人がいた。

 

  私たちを助けようと必死に叫ぶ人がいた。

 

  助けたいけど、こうするしかなかった人がいた。

 

  みんな違ったけど、みんな私たちの幸せを願ってくれた人なんだろうと。

  だから、意味はないかもしれないけど願ってみよう。

 

「おにいちゃん、さいごのおねがいきいて」

 

「…なんだい?」

 

「わたしに、なまえをちょうだい」

 

  それだけはほしかった。意味はないけど、誰でもないなんて寂しすぎる。せめて、自分が誰だったのか。切り裂きジャックに取り込まれた誰だったのかを覚えて消えたい。そんな願いだった。

 

「アステル、でどうかな?」

 

「どういういみ?」

 

「星、という意味だよ」

 

  雲の隙間から一つだけ見えた星。数多の星の海から、この地獄に届いた光。ヒッポメネスも見上げていたのだ。どうすることもできない澱みの中で唯一見出せた光を。そんな光を、彼女へと贈る。

 

「あすてる、わたしはあすてる」

 

  確かめるように名前を繰り返し、少女ーーーアステルはこの地獄で、最後まで救おうとしてくれた人を見た。とても泣きそうで、青年の腕のなかで抗う儚げな女の人を。

 

「おねえちゃん。わたしはあすてる。あすてるだよ」

 

「…アステル」

 

  ヒッポメネスの腕の中でアタランテは手を伸ばした。必死に、必死に彼女を守ろうと腕の中で温めようと足掻いた。しかし、それは少女から拒んだ。

 

「だめ」

 

  救おうとしたアタランテの手は彼女の体へと届かない。しかし、少女はアタランテへと微笑んだ。

 

「わたしだけここにいたらじごくはおわらないよ。わたしも、みんなといかなきゃ」

 

  気がつけば、アステル以外の子供達は消滅していた。等しく誰もが帰るべき場所へと聖女は送り届けた。最後の旅人は決まっている。故にジャンヌは静かにそこに佇み、経緯を見守る。

 

「だめだ。行ってはだめだ。お前達は救われなくては、幸せにならなくてはだめなんだ。お前達が認められなくては、全ての子供達が報われない。認めていい筈がない、こんなことは…」

 

「でも、すてきななまえはつけてくれなかった」

 

  救われなかった、報われなかった少女の名前はアステル。母に捨てられ、生きることさえ否定された少女にとって唯一肯定された名前はーーーマスターと過ごした短き日々と同等の価値を持てた。

 

「だから、いいの。わたしのなまえ、おぼえていて」

 

  救われないと報われないと彼女は理解した。幼き子供達に無情を突きつける有様は決して誉められない。しかし誰かがしなければならない。誰かがその役目を担わなければならない。

 

  その役目は、幸か不幸か二人いた。

 

「ルーラー」

 

「はい」

 

「頼む。悉く一切なく、終わらせてくれ」

 

  聖女は厳かに首肯した。

  そうして少女は歩き出した。最後を締めくくるべく、終わりへと。

 

「っ! …っ!!」

 

「・・・・・」

 

  腕が解かれることはない。必死に最後まで彼女を救おうとする者は間違えていない。誰かを救う事は尊く、非難されること自体が可笑しい。でも、いまのアタランテにはできることはなかったのだ。

 

「ねえ、せいじょさま」

 

「なんですかアステル」

 

「ううん、なんでもない」

 

  此処にいる人たちから認めて貰えた。それで覚悟は決まった。

  僅かに振り返り、こちらに涙を流しながら手を伸ばすアタランテと振り返らず背中を見せるヒッポメネスを見た。

 

「ばいばい。なきむしなおにいちゃんをゆるしてあげてね、やさしいおねえちゃん」

 

  笑みを浮かべて目を瞑る。アステルの額に細い指先が触れるのが分かった。そして、微かに震えているのが分かった。

  足元から消えていく。もう、生き返ることもここにいる事もない。けれどーーー

 

「おやすみなさい」

 

  なんて、安らかなんだろう。

 

  そうして切り裂きジャックは、子供達は、アステルは消えた。

  世界に未だ謎と恐怖を残す殺人鬼は、消滅したのだった。

 

 

 




さようなら。いつか、その日まで。



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