歓迎すべき夢をありがとう   作:琥珀兎

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 当分このプロデューサーは嫌な人かなーって。


第二話:誰でもない誰かに戻る

 新たなプロデューサーが入社し、765プロ事務所で簡潔どころか不足しているとまで思える自己紹介を終え立ち去った後の事務所では、一人の少女が怒気を隠すことなくむしろまき散らすように声を荒げていた。

 

「どうしてあいつが戻ってくるのよッ! 冗談じゃないわ!」

 

 言うまでもなくそれはあの場において唯一、敵愾心を露わにしていた水瀬伊織だった。

 彼女は突然舞い戻ってきたあのプロデューサーが気に入らないらしく、この場に残り事情を知るただ一人の事務員に向かって噛みついていた。当然、比喩ではあるが彼女の勢いは今にも行動に移さんばかりだった。

 

「そ、それはね伊織ちゃん、彼が戻ってきたのは社長たっての事であって、あたしも詳しくは知らないのよ」

「なによそれ、じゃああいつは社長がわざわざ出張って、とっ捕まえて引っ張って来たって事!?」

「一応、そう言う事になるのかしら」

 

 これまでも伊織が癇癪を起こすことは少なくなかった。というよりむしろ多いと言ってもいい。しかし、これほどまでに怒りを露わにしたことは滅多になかった。

 彼女とて一人のアイドル。一般人よりも早く社会へと出た事もあってか、人一倍大人な面も持っているそれらをかなぐり捨てるなど滅多になかった。

 持ち前の気の強さもあってか、冷静さを取っ払った伊織の詰め寄り方は尋常ではない。基本的に穏やかで平和主義な性格である小鳥も、これには参ってしまったのか霞んだ苦笑いを浮かべながらやり過ごそうとしていた。その目尻にはうっすらと涙さえ覗える。

 

「で、でもそんなに彼が嫌なの伊織ちゃん?」

「当然に決まってるじゃない! 小鳥も知らないわけじゃないでしょ、あいつの汚いやり口を!」

 

 忘れもしない、忘れられるわけがない。

 己に言い聞かせるように声のトーンを落として呟く伊織。

 何がそこまで彼女を駆り立てるのか、気になった他のアイドル面々はそれを聞こうか聞くまいか悩んでいる様子だった。が、彼女たちの中で事情を知らず、かつ能天気で今の伊織を突く事が出来るのは一人しか居なかった。

 

「ねぇ、でこちゃん」

「でこちゃん言うなって言ってんでしょ! なによ美希ッ!」

 

 腰まで伸びるウェーブした金髪の少女、星井美希がいつもと変わらぬマイペースな声色で呼びかけると、フリスビーを投げられた犬のように勢いよく伊織が振り向いた。矛先が美希へと向いたことで解放された小鳥が安堵の息を吐いていたのが、やけに印象的であった。

 

「なんでそんなに怒ってるの? あの新しい人がでこちゃんに何か悪いコトしたの?」

 

 確信とも言える質問の矢が伊織を射抜いた。

 何故そこまで感情的になるのか聞きたくはあったが、なにもそこまで一直線に言って欲しくはなかった。

 表情が固まったまま背中に冷たい何かが流れるのを、まるで他人事のように感じながら彼――もう一人の男性プロデューサーである赤羽根は、どうか伊織のかんしゃく玉が更に炸裂しない事を祈るしかなかった。

 

「それはっ……」

「それは、なんなの?」

 

 てっきり勢いそのままに暴露するのだろうと思った伊織だが、彼女は美希の追求を前にしてその威勢を萎めていった。しおらしく肩を窄める伊織は難しい表情で考えるように俯いてしまう。

 

「ねぇねぇ、新しい人と何があったの?」

 

 止せばいいのに美希はさらに伊織に向かって好奇心の槍を突き立てる。

 伊織が何を悩んでいるのかはわからない。しかし、彼女はあの新しいプロデューサーを嫌悪しているのは間違いない。なのにその理由は話したくはない。

 過去に何があったのか考えさせられる問題ではあるが、彼は社長たっての願いによって戻ってきた人材だ。色々と寛容な社長ではあるが、越えてはならない一線は弁えている筈。そんな社長がわざわざ連れてきただけの人間を、赤羽根はそう易々と疑えなかった。というのも彼がどうしてこうも前向きに考えるのかと言うと、伊織以外の二人……つまりは小鳥ともう一人、秋月律子が新しいプロデューサーの出戻りに表立って反対していないからである。

 だから、伊織には言えない何かがあるのだと好意的に解釈し、赤羽根は二人の間に立つことにした。

 

「そこまでにしておけ美希、伊織が困ってるだろ」

「むぅ~、ハニーはでこちゃんの味方するつもりなの?」

「味方とか敵って話じゃないだろ。仮にそうだとしても、俺は765プロの……つまりどっちの味方でもある」

「屁理屈なの」

 

 膨れっ面で唇を突き出す美希はそう言いつつも、さほど興味があるわけではないのかそれ以上の追求をすることは無かった。単に気になっただけ、なのだろう。彼女としては聞けようが、聞けまいがどちらでも良かったのかもしれない。

 美希が目的を失いふらふらとソファーへと向かうのを、それまで伊織が喚いていたのに珍しく静観していた律子が止める。

 

「コラ美希、そっちいかないの。これから仕事なんだから、間違っても寝るんじゃないわよ」

「き、気のせいなの。律子、さんの考え過ぎだって思うな」

 

 理知的な律子の眼鏡が美希を捉えて光る。

 アイドルとしてだけでなくプロデューサー業も兼任している彼女は、当然アイドル達のスケジュールを把握している。

 

「今日は美希と真、それと貴音の三人一緒だから先に下に降りてなさい」

「わかったの」

「では、参りましょう」

「うう、なんでまたボクだけ……」

 

 三人の中で一人落ち込んだ様子で肩を落とすボーイッシュな少女だけ、外へと向かう足取りが重い。

 彼女がこうして不本意そうに落ち込む姿は、事務所内の面子には珍しくもない光景だ。

 というのも、

 

「真はそんなに嫌か? 今日の仕事」

「だって、今日の仕事って雑誌モデルの仕事なのに……ボクだけ男性誌じゃないですか。そりゃ仕事ですから嫌だとは言いませんけど、それでも納得出来ませんよ」

 

 などと赤羽根の質問に下唇を出して拗ねる菊地真は十分に女性的で可愛らしいと、少なくとも赤羽根にはそう思えた。

 

「大丈夫、真はどんな格好をしても十分に可愛らしい女の子だぞ」

「そっ、そうですか……えっへへ、それじゃあ行ってきまーす!」

「いくらなんでも単純だぞ……」

 

 掌を返して照れたように微笑み外へと向かう真の背を見送って、半開きになった口から漏れた言葉は呆れか、はたまた彼女の単純さへの悲哀か。日焼けした見るからに活発そうな我那覇響は呟き、肩に乗るペットのハムスターのハム蔵と頷き合った。

 

「よっし、これで資料は全部揃ったな。こっちもそろそろ行くぞー、みんな準備は出来てるか?」

 

 赤羽根プロデューサーがデスクでファイルを纏め、三人のアイドルの顔を窺う。

 

「もっちろん! 兄ちゃんに言われなくてもバリバリお仕事しちゃうよっ!」

「ばっちしですー!」

「自分も行けるぞ。今日も完璧にこなしてみせるさー!」

 

 双海真美、高槻やよい、我那覇響の三人が元気よく返事をした。

 赤羽根を中心に横並びになって事務所を出て行く。

 

「残ったみんなも、各自スケジュールの見間違いに気をつけてな」

「間違えに気をつけるのはあんたの方でしょ」

「ぐっ……痛い所を」

 

 気を使って注意を促したつもりが、伊織によって余計なひと言であったと痛感させられながら苦い顔で赤羽根は事務所を出て行った。

 六人のアイドルと一人のプロデューサーが出て行った後、律子もまた資料を纏めて席を立とうとしていた。いつになく真剣味を帯びた彼女の視線は茫洋として焦点が合っていない。

 

「……複雑ですか?」

「小鳥さん……。いえ、ただ少し……どんな顔して話せばいいのかって思って」

 

 自嘲気味に薄く笑う律子は資料を入れたカバンを肩に掛ける。

 彼がこの事務所に再び足を踏み入れた、という事実を目の当たりにして律子は瞠若していた。それ故か、話しかけるタイミングも掴めぬまま彼は足早に事務所から出て行ってしまった。その背中が、律子には逃げているようにも見えたのは気のせいだろうか。

 

「あの人には酷い事をしたと思います」

「でも彼は、そう思ってないかもしれないわよ。私にはそう見えましたけど」

「私がそう思っている以上、これは変わりません。なるべく早く、あの人とは話しておきたい所です」

 

 キッ、と顔を上げて律子は前を向く。

 決意の炎が灯った彼女の顔は、もうプロデューサーとしての頼りがいのある顔になっていた。

 

「それじゃあ下で待たせてるので、行ってきます。後はよろしくおねがいします小鳥さん」

「ええ、いってらっしゃい」

 

 仕事へ向かう律子を見送り、小鳥は給湯室へと向かう。単純な根気と集中力を要求される事務作業には欠かせないコーヒーを淹れる為に。

 

「あらみんな、どうかしたの? 仲良く集まって」

「あ、あのっ……」

 

 萩原雪歩が顔を出した小鳥に意味深な視線を送っていたのが気になって問う。

 給湯室には臍を曲げた伊織を除いて五人のアイドルが、中央の小さなテーブルに集まっていた。いつもと変わらぬ千早以外の表情を見るからに、彼女たちも知りたいのだろう。そう小鳥には見えた。

 

「新しく来たプロデューサーさんが、質問なら小鳥さんにしろって言ってましたけど、どんな人なんですか?

 伊織があんなに嫌ってると……思いたくないんですけど、そういう人なのかなって」

 

 明るい笑顔がチャームポイントの天海春香が難しそうに眉を寄せ上げる。

 他のメンバーも同意見なのか、静かに小鳥の答えを待っている。その中、意外な人物が口を開いた。

 

「わ、私は、そんな悪い人には……思えなかったです」

「雪歩ちゃん」

「お茶の味を褒めてくれた時の、あの人――プロデューサーは顔は怖かったけど、優しい声でした」

 

 たった一言か二言交わしただけでそこまで思えるとは。男性恐怖症の雪歩がここまで彼を積極的に擁護するような言動をとるとは、小鳥も思わず驚きで声が詰まってしまった。

 でも、彼女の意見を否定する気にはなれない。

 

「そうね雪歩ちゃんの言うとおり、彼は悪い人ではないわ……ただ途轍もなく不器用なだけで」

 

 二年経っても変わらぬ一貫した態度を思い出して、小鳥はそう言ってほほ笑んだ。

 

 

 ※

 

 

 衝撃の発表を終えた劇場にて、プロデューサーは劇場内にある事務所兼談話室の隅の一角、作業机の前に座っていた。

 アイドルたちはスケジュール通りにダンスやボーカル、ヴィジュアルなどのレッスンを受けにレッスン場に行っている。なにしろ彼の登場は確証が無かった為、時間が空いているわけではないのだ。それでも全員が突然の招集に対応出来たのは、彼女たちが新人アイドルだからだろう。

 淀みない慣れた指使いでパソコンのキーボードを叩き続けるプロデューサーは考える。

 彼女たちを売り出すにはまだ情報が足りない。顔とプロフィールに書かれた以外の事しか、彼はまだ知らない。売り出す人間が誰よりも知らなくては話にならない、と彼女たちに言った以上このままにはしておけない。そうでなくても、彼の性格上絶対に出来ない。

 マウスをクリックしてとあるフォルダを開く。中にあるのは彼女たちアイドルの、これまで公演してきた全てステージの動画ファイル。それを一から再生して見ていく。

 

「なるほどこれは……」

 

 譫言のように呟いてマウスを動かす。動画の再生時間は全体の三割にも届かないで閉じられた。

 徐に抽斗を漁りフラッシュメモリを見つけると、それを差し込みデータをコピーし始めた。ここにあるパソコンはデスクトップ型なので持ち歩きが出来ないのだ。

 必要なデータを全てコピーしながら残り時間を見て、彼は懐から携帯電話を取ると、アドレス帳に再び登録された高木社長に電話を掛けた。

 

『どうかしたかね?』

 

 数回のコールで出た社長は平時と変わらぬゆったりとした声音で答えた。

 背景音に聞こえる屋外の雑音と彼の話し方から、今は一人だと彼は判じる。

 

「劇場の定例ライブ。これを無期限の公演中止にさせていただきたいのですが、よろしいでしょうか」

『流石に判断が早いねえ君は。一応、理由を訊きたいのだが?』

「彼女たちは未熟です。現状、この定例ライブが劇場の延命処置でしかない以上、やるだけ無駄だと判断しました」

 

 自社の劇場とはいえ一度の建設費だけで支払いが終わるわけではない。

 税金やガス・水道・光熱費等、寮という側面も持つこの劇場は建っているだけで金を喰う。加えてアイドル全員とレッスン講師への人件費も鑑みれば、その額は馬鹿にならない。

 

『君の言うとおり定例ライブが現状では一番の収入になっている。それを取り止めて他に充てがあるのかね?』

「……仮に定例ライブを止めたとして、どれだけ持ちますか?」

『二回分。それが限界だ』

「分かりました。それまでに売り物になるようにします」

 

 二回分……今月と来月の末に予定されていたライブの二回という事。つまりは実質三ヶ月を切っている事になる。

 普通ならこのようなリスクの大きい割に、リターンに期待出来ない大博打を打つわけがない。しかし電話口から聞こえる社長の声に怯んだ様子はなかった。

 

『良いだろう、君を信じよう。中止を許可する』

「ありがとうございます。したがって告知の為に劇場HPの編集を行いたいのですが、IDとパスワードはご存じですか?」

『それなら音無くんに訊いてくれた方が早いだろう。なにぶん、私は機械にそれほど強いわけではなくてねすまない』

「いえ、わかりました。では失礼します」

 

 電話を切って携帯を机の上に置き、プロデューサーは肩を回してコリをほぐした。

 これで社長の許可は貰った。後は小鳥に電話をして報告と質問するだけだ。

 手に届く範囲に設置された電話を取り短縮ボタンの一を押すと、すぐさま765プロの事務所へとコールされる。

 耳元に聞こえる電子音は二回で止まった。

 

『はい、765プロです』

「765ライブシアター担当プロデューサーですが、取り急ぎ伺いたい事と報告があるのですが、お時間大丈夫でしょうか?」

『ええ大丈夫ですよ、どうかしました?』

 

 午前中に会って話した時とは違う仕事用の小鳥の声を耳にしながら、プロデューサーは頭の中で予め組み立てていた事柄を言葉に変えた。

 

「まず報告です。無事挨拶を終え、彼女たちの現状を見たところ未だステージに立たせるに至らないと判断しました。よって劇場での定例ライブは無期限の開催中止とさせていただきたい。

 その為に、当劇場のHPにて告知をしたいので管理者のIDとパスワードを伺いたいのですが」

『え、ちょ、ちょっと待って下さい、中止ってライブの中止っ?』

 

 電話越しに小鳥が明らかに動揺しているのが聞き取れた。

 デスクにぶつかる音や、それによって崩れ落ちたのだろうファイルの束が雪崩となって落ちる映像がプロデューサーの脳裏に再生された。受話器から離れたのか、彼女の悲哀の泣き言が若干遠くなって聞こえる。

 が、彼はそんな事情は顧みない。仕事ではなく私事であるなら考慮する余地もない。

 

「そう言いました。幸い、今はライブが終わって間もないので、チケットの発券等もされていない筈。なので怪我をしない内に告知をしたいのですが、いかがでしょう」

『そんなの、あたしの一存で決めらないわよぉ。社長に訊かないと――』

「既に社長の許可は得ています』

『ね、根回しが早いわね』

 

 動揺のあまり口調が仕事からプライベートに変わりつつある小鳥が声を震わせる。

 

『……わかりました。社長の許可があるなら私に断る権利はないですから。

 今から言うのでメモの準備は良いですか?』

「必要ありません、形に残すと漏れる可能性があるので、暗記します」

『そうね、出来るならそっちの方が良いと思います。では――』

 

 二十台前半でも通用するような若々しい小鳥の声がIDとパスワードを伝える。

 桁数はそれほど多くなかったので、彼はさして苦も無く簡単に暗記する事が出来た。

 

「わかりました。ありがとうございます」

『アイドルたちと、仲良くね』

「俺には必要ありません」

 

 電話を切ってすぐに聞き出したIDとパスワードを入力していく。簡素なフォントの文字列が埋められていくのを眺めながら、右手が何かを探して空中を彷徨う。

 数秒して彼の意識がハッとなった。

 

「そうか、コーヒーを入れてくれる人はここに居ないんだった」

 

 たった数時間の内に、自分が思った以上にプロデューサーとしての勘を取り戻し始めているのを実感し、思わず恥じ入ってしまった。睡眠不足なのだろうか。思えば昨晩、社長が訪れてから眠った記憶が無い。色々な準備に追われ、そんな暇も無かった。

 昔なら徹夜など当たり前だったのだが、この二年間離れていた事もあって鈍っているのだろう。

 ここは765プロの事務所ではない。加えてここには自分一人だけなので、コーヒーを差し入れしてくれる人もいないなどという、甘えた考えが過ぎった事がどうしようもなく情けなくて恥ずかしい。

“こんな所、見られていたら彼女たちに甘く見られる。それだけは絶対にあってはならない”

 深く息を吐いてコーヒーを淹れようと思い立ち上がろう――とした時、彼の右後方から良い香りのする湯気を立ち昇らせるマグカップが机の上に置かれた。

 

「はい、コーヒー。欲しかったんですよね?プロデューサー」

「……レッスンはどうした馬場」

 

 完全に油断していたせいか、プロデューサーの声はいつも以上に固いものになっていた。

 なぜ気がつかなかった。コーヒーがあるという事は、ここの給湯器で作ったという事。お湯を沸かすなら火を使う、使えば音がするし何よりコーヒーを淹れていれば途中で香りに気がつく筈。

 様々な推測が頭を巡るが、差し入れをしてきた馬場このみは彼の思いやりの欠片もない言葉を気にした様子もなく腰に手を当てて僅かに上体を反らした。

 

「どうしたもこうしたも、もう私のは終わりましたよ」

「そうか、もうそんな時間か」

 

 思った以上に時間をかけてしまっていたらしい。

 気を引き締める意味も込めて彼は眉間を揉んで、このみが淹れたコーヒーのマグカップを取った。近づけると確かに分かる香りが鼻を通り抜ける。何故、これに気がつけなかった。

 

「で、このコーヒーはどこから持ってきた?」

「なんか職務質問をする警察官みたいな口ぶりね。単に私の魔法瓶に入ってたのを入れて持ってきただけよ」

「何故、魔法瓶に入れてくる? コーヒーならここにもあるだろう」

「別に深い意味はないわ。最近アイリッシュウィスキーにはまっててね、それで自宅で残ったコーヒーを入れて持ってきただけよ」

 

 彼女の証言を聞いて納得がいった。魔法瓶に入れていたのなら、音も無く香りも密封されている為、気がつくまでの時間に置く事が可能だ。しかし――。

 彼はマグカップに鼻を近づける。漂ってくる香りは、お世辞にも良いとは言えなかった。

 

「なるほどそういう理由か、しかし馬場、一つ言っておくことがある」

「な、なに……お姉さんの気の利いた大人の心遣いにときめいちゃったのかしら?」

 

 言動と外見がかけ離れているこのみは流し目をプロデューサーに送った。

 本人はこれでセクシーさを出しているつもりなのだろう。彼女のプロフィールの備考欄にもこのような事を仄めかす文章があった。

 だが、今は関係がない。

 

「次からコーヒーを魔法瓶に入れる時はアイスにするか、少し冷ましてからにした方が良い。淹れたてを注いでは酸化して味も香りも格段に落ちる」

「そ、そうなの? どうりで家で飲む時と味が違うわけだわ……」

「それと、俺は君より年上だ」

 

 プロデューサーの補足説明に、このみの目が見開かれた。

 彼女は身を乗り出して近づき横に伸びた口を開く。どう見ても傍からは奇妙な光景にしか見えなかった。

 

「嘘ぉっ!? 背が低いから一つ下ぐらいかと思ってたわ」

「君に言われたくはない」

 

 自分よりも二十cmは下であろうこのみに年下呼ばわりされるのは不本意極まりない。冷静に考えてどこをどう見ればそう見えるのか、彼は理由を訊こうとして……意味の無い事だと思いなおして止める事にした。

 

「こ、このセクシーなこのみお姉さんに向かって……」

 

 平静を保つプロデューサーと違って、このみは彼の言葉が気に障ったのか眉根を寄せ身体を震わせている。

 シバリングのように震えるこのみを、いつもの眠いのか睨んでいるのか判別がつかない眼差しで観察しながら結末を待つ。――と、彼女は何を思ったのか深く吐息をついてかぶりを振った。

 

「ま、良いわ年上なら敬語で話したほうが良いのかしら?」

「俺に敬語は必要ない。敬う必要もない。ただ俺の言うとおりに行動してくれればそれでいい」

 

 必要なのは効率とそれに見合う実力。だからこそいま彼はスタートラインに立たせる為に行動している。

 

「なら好きにさせてもらうわね、でもプロデューサーの言い方……他の子には誤解されるから気をつけた方が良いわよ。

 私は年長者だから良いけど、ここにはお子ちゃまもいるんだから」

 

 長話をするつもりなのか、このみは長テーブルの椅子をプロデューサーのデスクまで持ってきて座った。彼女が入り込んだ事によって、この空間が事務所ではなく放課後の教室に見えてきてしまう。

 

「俺を相手に逃げるならこの先残っても意味がない」

「そうじゃなくてー、嫌われちゃうわよって事を言ってるのよお姉さんは」

「そんな事を考えてどうする。アイドルに嫌われようと、俺の仕事は変わらない。好かれたくて俺はここに来たわけじゃないんだ、勘違いをするな」

 

 今の彼はバーテンダーではない、プロデューサーだ。これがバーテンダーであれば、このみにとっておきのアイリッシュコーヒーでも作って、彼女の話に耳を傾けて会話を持続させたであろう。

 だが今は違う。彼の思うプロデューサー像に、甘えは不用。むしろ足枷にしかならない。

 

「プロデューサーって、捻くれてるって言われない?」

 

 プロデューサーの一貫して壁を作る態度に呆れ果てたのか、半眼で片側の口端を吊り上げるこのみはそう問うと、両手を股の前に置いて前かがみになった。凹凸の少ない平坦な胸板が斜面のように傾く。

 

「言われた事ないな」

「嘘でしょー、絶対言われた事あると思うわ」

 

 このみの追求を聞き流しながらプロデューサーはタイピングをし続けていた。レイアウトを指定し、文章を打ち込みHPのトップに載せる。一目見てわかる場所に置かれた公演中止の文字は、全体の雰囲気を損なわぬデザインに仕上げられていた。

 

「……本当に中止になるのね」

 

 プロデューサーの横から顔を出してこのみがモニターを覗き込んだ。

 

「必要な事だ。今の君たちには――」

「ああ、いいわよ説明しなくても……分かってるから。ステージに立つにはまだ早いって言いたいんですよね」

「有り体に言えばそうだ」

 

 プロデューサーがマウスを何度かクリックすると、今度はデスクの横に置いてあった印刷機が音を立てて稼働し始めた。

 出来る事なら、これを今日中に終わらせたい。時間はもう残り少ない。

 次々と印刷されていく用紙を眺めながら、このみが淹れ劣化したコーヒーを流し込む。元バーテンダーとしては許されない味だが、今や違う職業。これに関して口煩く言うつもりはなかった。

 

「いいですよ別に、不味いなら飲まなくたって」

 

 ただ彼の表情が険しいものになっていたらしく、目敏く見ていたこのみの眉が下がっていく。

 ここに居たのが自分ではなくもう一人の男性プロデューサーであれば、なにか気の利いた慰めでも彼女にしただろうが、生憎と現実は違う。アイドルの精神ケアもプロデューサーの仕事と言われるかもしれないが、そうした結果にこちらを信頼されては……。

 

「次から淹れなくていい。自分で飲む分は自分で淹れる」

「……そう、余計な事したみたいね、ごめんなさい」

 

 悲観するようなこのみの謝罪を聞いてプロデューサーは安心する。

 これでいい、好意的な心象は今後の妨げに、それも致命的な罠となって彼女自身の道に張り巡らされてしまう。自分が好かれればどんな結末が待っているのか知っている彼は遠ざける。経験と歴史が言っているのだから。

 椅子の足が床を擦る音が聞こえる。横目に盗み見れば、このみが席を立ち椅子を元の位置にもどそうとしていた。もう一緒にも居たくないのだろう――それでいい。

 腕時計で時間を確認する。どうやら、今度は予定通りに終わったようだ。

 

「そろそろ全員のレッスンが終わる。そしたらここに集合するよう伝えるように」

「……わかったわ」

 

 軽い扉が重苦しい音を引きずって閉まりこのみが居なくなる。

 最後の彼女の言葉、口調こそ変わらぬが彼我の間に乗り越えようのない心の離隔を思い知らされる固い声だった。閉じられた扉が音を立てないように配慮されていたのは、彼女が自称するオトナとしての矜持だろうか。

 改めてプロデューサーは印刷された用紙の束を持って考える。

 何故、社長はこんなやり方しか出来ない自分を態々呼び戻すのだろう。現時点で考えている案が成功すれば、間違いなくシアターの存続は今のような自転車操業ではなくなるだろう。仕事を取ってくるのは苦ではない。他人の隙間に入り込み付け込む術には自信があるのだから。しかし……。

“客とアイドルを相手にするのじゃ訳が違う。随分と分の悪いギャンブルに乗せられた気分になるが、選んだのは自分だ”

 手首に巻いた腕時計に触れる。彼女はついぞ気がつかなかったが、これは彼の過ちを形にした物。罪と罰の象徴。

 戒めに巻いたソレがやけに重く感じながら、プロデューサーはアイドルたちが集まるのを待ち続けた。

 

 

 見立て通り、然程時間も掛からずに彼女たちアイドルは事務所兼談話室に集まった。

 流石に三十七人も集まると手狭だ。シアターが大きいとはいえ、この部屋まで規格外に広い間取りと言うわけではない故、その人口密度に熱気すら感じる。現に彼女たちはレッスンを終えたばかりでシャワーも浴びていないので体温も上昇している。

 どうして浴びてこないのか、と思った所で彼女たちがプロデューサーに懐く印象が、思った以上に上手く嵌ってくれているのだろうと考え至った。

 

「手短に済まそう、これから聞く事を良く聞け」

 

 雰囲気が重い。息苦しさはまるで山頂にでも居るかのようだ。

 

「通達の通り公演は中止、これは社長も許可を出した。よって当劇場HPにもその旨は更新済みだ。

 そして俺が仕事を持って来ない以上、君たちはレッスンをする他にやれる事はない。つまり今の君らは――アイドルではなく誰でもない一般人に戻ったという事になる」

 

 この男は喋る度に動揺させなければ気が済まないのか。そう思わんばかりにアイドルたちがざわめき始める。

 それもそうだろう、ライブは無し、担当プロデューサーが付いた以上彼が仕事を持ってくるがそれも無ければ……ここは単なるアイドルを夢見る巨大な養成所に意味合いを落としてしまう。

 必然、脅迫めいたプロデューサーの説明に黙っていられるわけもない。

 

「ふふ、随分と底意地の悪いプロデューサーさんですわね~。そんな事を仰って、私たちをどうしたいんでしょうか~?」

 

 口を挿んだのは、慈母のような聖人の微笑みを浮かべながら睥睨する天空橋朋花と、

 

「桃子に逆らわないなら、ちょっとぐらいは大目に見てあげようかと思ったけど……お兄ちゃんは桃子をプロデュースするつもりがないって事だね。それなら、いなくてもいいよ」

 

 踏み台に上がって玻璃のような感情を排したような温度の無い視線を向ける周防桃子だった。

 

「おっ、おい止めとけって朋花、相手はプロデューサーだぜ」

「桃子も止しなって、意地張ってそんな事言わなくても」

 

 近くにいた永吉昴と福田のり子が彼女たち二人を制止するが、馬耳東風よろしく彼女らが止まることは無かった。

 プロデューサーは二人を見ながら全体の顔色を窺う。似たような面持ちの人間が数人、面倒そうにしているのが数人、怖がる者、意味を理解出来ていない者や無関心な者と様々だが、彼に好意的な心情を懐く者は見たところ一人も居ない。唯一、判断しかねるのが観察している彼を観察し返している見た目との差異が激しい馬場このみだけ。

 

「天空橋、周防……嫌ならば辞めて結構だ。今の内から恣意的に選り好みする者に仕事を回す程、俺は暇でもお人好しでもない。

 特に周防、君にはわからないか?」

「わからないって、何が? わかってないのはお兄ちゃんの方でしょ、仕事もライブも何もしなくて残っていられる世界じゃないよ」

 

 このシアターに来る以前から桃子は数多くの映画などに出演した経歴をもつベテラン子役であった。この場に居る誰よりも、芸能界を見て知って経験している彼女だからこその意見なのだろう。

 着眼点は悪くない。経験に裏打ちされた度胸と自身は評価に値するだろう。しかし、やはりまだ子供、十一歳という若すぎる年齢では見えるものの高さが足りない。

 

「そうだ、この世界は甘くない。勝者だけが頂点に君臨し、敗者は塵となってその余韻を送りながらに朽ち果てるだけ……それがこの世界。子役として活躍した君はそれを十二分に味わった筈。

 それでもなお、見ないふりを続けるつもりか? それとも俺の過大評価か、存外に年相応の子供だったというわけだ」

「なっ、桃子の方がこの世界では先輩だよ!?」

「君の演技力は確かだ、俺もいくつかの作品を見た事があるのでそこは評価する。しかし、アイドルとして出来損ないの君たちを世に出してやり過ごし続けていられるほど、この世界は寛容ではない」

 

 出来損ない。遠慮のないプロデューサーの言葉に桃子や朋花だけでなく、他のアイドルたちも固まった。

 プロデューサーの説明は続く。

 

「自覚の薄さと生温い覚悟で立つステージを観て、ファンの心が掴めるわけがない。

 だから俺は君たちを、一ヶ月の間でスタートラインまで鍛え上げる」

「つまり、強化合宿と言うわけですか」

 

 厳粛に宣言したプロデューサーに静香の静謐な声が答える。

 

「ここには学生も居る。よって実生活に支障が出ないよう調整はするが、そのぶん土日や祝日は丸々使い切ると思ってくれ。

 幸い明日は土曜日、朝の六時から始めるので、本日は各々が思うように余暇を過ごしてくれて結構。間違っても根を詰めようとして体力を無駄に消耗しないように。以上、解散」

「あっ、あのっ、質問してもいいですか?」

 

 劇場を出る用意をしようとして、矢吹可奈がぎこちない速さで手を上げた。

 

「答えよう。なんだ?」

「……その特訓を乗り越えたら、私は認められるように……見上げるばかりだった憧れの人達に届きますか!?」

 

 彼女はどこか自分の伸び悩みに気がついていたのだろう。プロデューサーに訴えかける双眸には懊悩の光が揺らめいていた。

 プロデューサーは彼女らに対して韜晦するつもりはない。実力を隠したまま従ってくれる程、従順には見えなかったから。だからここで答えられる言葉は一つ。

 

「当然だ。見上げるだけなのは、もう疲れただろ」

「――ハイッ!」

 

 真ん丸に見開いた可奈の双眸が輝きを増し、鮮やかな色彩で彩った。あるいは、彼女の始まりはここからだったのかもしれない。

 

「しかし、乗り越えられなければそれまでだ」

 

 飴と鞭の匙加減を面倒に思いながら、プロデューサーは突き放す様に言い捨てた……のだが、どうにも可奈は彼の言葉を前向きに解釈したのか、爛漫な笑顔でこちらを見ている。

 やり過ぎた――後悔しながら彼は荷物を鞄にまとめて持ち上げた。

 

「プロデューサー、どちらへ?」

「ここでの必要な仕事は終えた。事務所に向かい、そっちで必要な仕事をするだけだ。今日はもう戻らないのでそのつもりで」

 

 琴葉の問いかけに、なるべく簡潔に答えてプロデューサーはその場を後にした。

 彼が居なくなり事務所としての機能を必要としなくなった談話室で、立ち去った彼の背中を視線で追っていたこのみは深く吐息をついた。

 

「やっぱり……捻くれ者じゃないプロデューサー」

 

 やる気に燃える可奈を見て、このみは年相応の包容力ある微笑みを浮かべて歩きだした。

 

 

 ※

 

 

 社用車を走らせたプロデューサーは765プロの事務所があるビルへと到着し、壊れたエレベーターを冷めた目で一瞥すると階段を昇り始めた。静寂が住み着いた階段は、彼の来訪を歓迎するように足音の余韻を長引かせる。

 夕方も終わりに差し掛かり夜を迎えようとしている空の下、ビル内は立地ゆえか、それとも切れた蛍光灯のせいか外よりも薄暗い。足元に生まれた薄い影を見つめていると、どこまでも呑み込まれそうな、そんなありえない想像が鎌首をもたげた。

 寝不足が祟っているのだろうと判じ、プロデューサーは階段を昇り切って事務所の扉を開けた。

 

「戻りました」

「あっ、おかえりなさい」

 

 プロデューサーを迎えたのは緑色のベストを着た事務員の小鳥だった。

 事務所にアイドルの姿はない。社長も仕事をしているのか、それとも帰ったのかは知らないがここには居ない。

 

「秋月とプロデューサーは仕事中ですか?」

「ええ、まだ律子さんは現場で、プロデューサーさんは今の時間だと多分営業中だと思います」

 

 小鳥はデスクに座ったまま椅子を回し、後方の壁に掛かったホワイトボードのスケジュール表を確認しながら答えた。

 彼も、彼女の視線を追うようにして壁のスケジュール表を確認する。今の時間から少なくともあと三時間は帰ってこないだろう。完全に退社時間を過ぎてしまうが、芸能事務所にはそのような言葉はあってないようなものだ。代わりに午前中はオフなど時間にある程度の自由が効くようになっているだけマシだろう。

 

「そうですか、ではそれまで他の仕事でもして待ちます」

「今日はまだ初日ですから、そんなに根を詰めなくても良いんじゃないですか。過労で倒れちゃったらアイドルたちも心配しますよ」

「いえ、やらなくてはならない事がありますから。彼女たちは休息が必要でも、その分俺が動かなくては道を見失います」

「それをみんなの前で言えれば、不安はないのだけど……ちゃんとみんなとコミュニケーション取れてます?」

 

 初めて彼がここに来た頃を思い出したのか、小鳥は心配そうな面持ちで彼に問いかけた。

 プロデューサーの脳裏に一人の少女が思い浮かぶ。少女とは始めこそ険悪な関係だったが、時間が経過していくにつれ次第と心を開き信頼を預けるに至った。お互いがお互いを高め合う、いつかこの低迷しているランクを上げて、共にトップへと登ろうと。……しかし、それは叶わなかった。

 

「信頼は要りません。良い結果が伴えば、それでアイドルは登れますから」

「……素直じゃないんだから」

 

 嘆息して小鳥が席を立った。

 プロデューサーは彼女を追うことなく、あらかじめ社長によって用意された彼のデスクに座りノートパソコンを開いた。

 あらかじめ劇場のパソコンからコピーしたフラッシュメモリを差し込みフォルダを開く。中には彼が序盤を見て閉じたシアター組アイドルたちのライブ映像が入っていた。数は三つ。今年に入ってから始まったプロジェクトだという事が解る。

 改めて、一から再生していく。

 モニターに映る彼女たちは緊張のほぐれきっていないぎこちない笑みを浮かべている。彼女らのパフォーマンスを見ながら、プロデューサーは劇場の入客数と年齢、男女比を大まかに分けたデータを確認する。総合した数をグラフにすると線は右上に向かず、二回目の公演で下降し、三回目には数は増えも減りもしない。

 ハッキリ言って成否でキッチリ分けるなら、この三回は失敗と言えよう。

 

「はい、どうぞ。それって、あの子たちのライブ映像ですね」

 

 小鳥がマグカップを二つ持って戻ってきた。湯気の立ったそれからはコーヒーの香りが漂っていた。

 一つをプロデューサーの前に置いて、彼女はモニターを覗き込んだ。

 

「ありがとうございます。ええ、よく取れています。撮影者が彼女たちを良く見せようと努力しているのが感じられました」

「うふふ、撮影したのはウチのプロデューサーですよ。……なにぶん予算が無かったので」

 

 通りでアングルに変化を感じられないわけだと、納得のいったプロデューサーは続きを視聴する。

 小鳥の口ぶりからして撮影したプロデューサーというのは男性の方だろう。律子であれば、彼女はプロデューサーと呼ばずに“律子さん”と呼ぶだろうと彼は想像した。

 映像ではそれぞれのソロ曲と全体曲が二曲で、それぞれ開幕と閉幕前に全体曲を持ってくる構成となっていた。

 

「この曲は、全て彼女たちに作られた曲ですか?」

「ソロはそうですけど、全体曲に関しては元々765プロにあった曲のカバーという事になります。全員が一度はステージに立ったとはいえ……そこまでは人手不足で追いつかなくて」

「ではすみませんが、765プロ版権の曲のリストと、そのデータを全ていただけますか?」

 

 使える時間全てを使っても足りるかどうか、知らなくてはならない事が沢山ある。

 二ヶ月後の六月末に行われる定例ライブまでに、彼女たちの為に作らなくてはならない物もある。一ヶ月の間に少なくともスタートラインに届くようにして、それから入客を増やすための仕掛けをし、満を持して立つステージは――失敗で終わらせない。

 時間はそんなに残されていないが、幸い、前プロデューサーの腕が良いのかある程度の土台と楽曲は出来ている。ならば、彼がやるのはどんな事をしても場を整えるというお膳立て。

 

「曲でしたら、えっと確かここに……あ、あったあった。はいどうぞ、これで全部です」

「ありがとうございます」

 

 データを受け取り、リストに目を通す。総人数五十人というだけあって、その数は計り知れない。

 目を皿のようにして側目するプロデューサーは、その中でいくつか見覚えのある曲のタイトルを見つけた。

 

「この曲……まだ残っていたんですね」

「当然です、この三曲が今の伊織ちゃんを作ったといっても過言じゃないですから」

 

 感じ入るような回顧の言葉が彼の耳朶を震わせた。

 気を利かせたつもりなのだろうか、小鳥は彼が差した三曲の内の一曲を再生した。それは彼がアイドル水瀬伊織へと送った、最後の楽曲。

 しっとりとしたバラード調の前奏が流れ、伊織のウィスパーボイスが鼓膜をくすぐる。

 『フタリの記憶』――それがこの曲のタイトル。

 

「撮り直ししていますね、あの時より……」

「上手くなってる、でしょう?」

「まだ曲の全てが見えてない謳い方をしてますけどね」

「あら、それなら君が教えてあげればいいじゃないですか、きっと伊織ちゃんも」

 

 壊れたレコードのように小鳥の言葉がブツ切りになって止まった。背景には未だ、伊織の歌が流れている。

 

「今の俺はシアター担当のプロデューサーです、水瀬の事に関しては今のプロデューサーが教えてくれるでしょう。

 それより、会社の予算や経理のデータを参照しても良いでしょうか、出来る限りフットワークは軽くしておきたいので」

「え、ええわかったわ」

 

 それからプロデューサーと小鳥は会話もそぞろにそれぞれの仕事に集中し始めた。

 キーボードをタッチする音が忙しなく鳴り続け、時折コーヒーを啜っては作業に戻るというサイクルを繰り返していた。プロデューサーの両耳にはイヤホンが付いていることから、同時に楽曲を鑑賞しているのだろう事が分かった。

 シアター組のアイドルたちのソロ曲を余すことなく聞いて行く。レコーディングされた歌は、人の手がある程度加わっているだけあって、ライブよりは上手く聞こえる。何十曲か聞いて行って、とあるアイドルの歌が流れた所で、プロデューサーの意識が歌の方へと傾いて行った。

 流れているのは劇場で去り際に手を上げた少女の声だった。

 決してお世辞にも上手いと言える歌唱力ではない。しかし何故だろう、こんなにも心を打つのはどうしてなのか。

 ――これは化ける。

 プロデューサーは確信を持ってそう思えた。自分の感覚が錆びついていなければ、彼女が正しく成長を遂げた上でこの曲を歌った時……それがトップアイドルへの道を駆けのぼる特急券となるだろう。

 次第に情報が集まり、彼の中でシアターで練習に励む少女たちの姿が鮮明に色づき始めた。

 不意に、瞼が自身の重さに耐えきれずに落ちかける。同時に、首が頭を支える力を瞬間的に失い、額が机にぶつかりそうになったが、寸前の所で耐える事が出来た。

 プロデューサーは波濤のように襲い掛かってくる睡魔を押しのけるべく、新しいコーヒーを淹れて煙草を口に咥える。

 

「煙草は大丈夫で……したよね、たしか」

「大丈夫よ、善澤さんもここに取材に来て吸う時があるから、気にしないで」

「では遠慮なく、失礼します」

 

 眠気を焼き払うように火を灯し、深く肺の奥まで紫煙を吸い込み吐き出す。半日以上ぶりの煙草は新鮮で、一吸いした瞬間、視界が白く明滅した。

 そうして煙草とコーヒーの組み合わせという、非常に体に悪そうな組み合わせを駆使して応急処置をし作業を続ける事数時間。ようやく待ち望んだ足音が聞こえてきた。

 社長からは既に直帰になるという連絡を小鳥が受けているので、彼ということは無いだろう。

 

「ただいま戻りましたー! もうこんな時間、ごめんなさい小鳥さん待たせちゃって」

 

 戻ってきたのは眼鏡をかけて後ろ髪をアップにして、スーツを身に纏っている律子だった。どうやら他のアイドルは時間も時間だし直帰なのか、後について来る人影はなかった。

 律子は階段を駆け上がったのか額に流した汗を拭いながら自分のデスクへと座ろうと向かい、はす向かいに座るプロデューサーと目が合って足が止まった。

 

「あ、プロデューサー殿……おつかれさま、です」

「お疲れ様、随分と慌ただしいな、髪が乱れているぞ」

 

 プロデューサーの指摘に律子の手が髪に触れた。僅かに跳ねた髪の毛を撫でるようにして直す。

 

「す、すみません、気づきませんでした」

「戻って早々ですまないが、シアター組の仕事を取っていたのは君か? だとしたら、出来る限り詳細にどの会社とどのような仕事を請けたのかを訊きたいのだが」

「そうですね、私が取ってきたのですと……じゃなくて、その前に一つ良いですか?」

 

 律子はかぶりを振ってプロデューサーを真っ直ぐに見つめる。眼鏡のレンズ越しに見える怜悧な瞳が彼を映し出す。瞳に映る彼が少し嫌そうな顔をしていたのは、気のせいだろう。

 

「なんだ? あまり長い話だったら先にこっちの質問に答えてくれると助かるが」

「時間は取らせません、ただ一言、言いたいことがあるだけですので」

 

 深呼吸をして律子は右手を胸の前で軽く握る。古くなった金属の軋む音が微かに聞こえた気がした。

 

「……あの時はすみませんでした。知らなかったとはいえ、結果的に……プロデューサー殿を追い出すような形になってしまって」

 

 律子はそう言うと深く頭を下げた。

 謝罪された彼の視界に彼女の後頭部が映り、髪型の違いに年月の経過を嫌でも思い知らされる。

 ――今更なにを言うのだろう、と律子は思っているのだろうか、頭を垂れる彼女の肩は僅かに震えていた。だがその罪悪感は、責任の所在が明らかになっていない虚像へ向けらているのを彼は知っている。……すべてはタイミングが悪かっただけなのだと。

 

「秋月、君が気に病む必要はない。あれは隠し切れなかった俺の責任であり、露見したタイミングが悪かっただけなのだから」

「でもそのせいで貴方は、今も誤解を……」

「なら、水瀬には絶対に言わない事を条件に許す。これでいいだろう? 君にこれ以上頭を下げられては気味が悪くなってくる。慣れない事をするな」

「一応、プロデューサーでもありますから、頭を下げる事には慣れましたよ」

 

 そんな事は知っている。知っているが、自分の知っている秋月律子という女性は事務員兼任のアイドルなのだ。プロデューサーは記憶との乖離に慣れない感覚を懐いた。

 気を紛らわそうと煙草を取り出して火を点ける。

 

「まあいい……それより、そろそろ出て来てくれませんか? いい加減、この間を長引かせるのも不要な疲労を招きますので」

 

 紫煙を天井に向けて吐き出し、視線を給湯室のパーテーションの方へと向ける。すると、そこからバツの悪そうな笑顔と共に人の良さそうな、いかにもな眼鏡を掛けた好青年が姿を見せた。

 

「あはは、気づいてたんですか」

「先程、扉が閉まる音が聞こえましたので。この事務所で盗み聞きはまず無理でしょう、あの立てつけの悪い扉を直さない限り」

「えっ? あら、プロデューサーさん、帰ってきてたんですね」

「ぷ、プロデューサー!? 居るなら居ると、ちゃんと言ってくださいよっ」

 

 さっきの場面を見られたのでは、と悟り羞恥に染まりながら叱責する律子に、彼は後頭部に手を当て謝罪しながら己のデスクの前まで寄る。

 事務所入口からみて手前右が律子で、その隣に小鳥、小鳥の正面にシアター担当プロデューサー、そして彼の隣――つまり律子の正面に今しがた帰って来たプロデューサーの席がある。お互いが向かい合うようにして並ぶ四つのデスクは、長い事一席だけ空席だったが、これでようやくすべてのデスクが埋まったことになる。

 蛍光灯の明かりを反射させる眼鏡の奥で、真摯な瞳が見え隠れするプロデューサーは、新しく来たプロデューサーに向いてその口を開いた。

 

「朝は挨拶しそびれてしまいましたが、初めましてプロデューサーの赤羽根です。これから一緒に、同じプロデューサーとしてよろしくお願いします!」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 

 赤羽根が差し出した右手を掴み、挨拶を交わした。――なるほど、765プロに相応しいプロデューサーだ、と彼は一目見てそう感じ取った。

 

「所で、名前を伺っても? プロデューサーでは、呼び方に不便してしまうので」

 

 二人のプロデューサー、ともう一人居るのだが、彼女はプロデューサーである前にアイドルであるせいか、名前の方が先行して浸透しているので、ここでプロデューサーと呼ばれるのはこの二人だけになる。

 そう考えると確かに赤羽根の弁は最もだ。彼もプロデューサーで己もプロデューサーとなれば、呼ばれた日には同じ苗字の人間が同時に返事をする滑稽な絵が出来上がってしまう。

 だがそれなら――。

 

「俺のが後に入ったので、普通に後輩とでも呼んでいただければそれで良いですよ」

「ですが確かあなたの方が先に入社していたんですよね? でしたら先輩のが正しいですよ」

「いえ、俺は一度ここを去った身ですので」

「でも流石に後輩と呼び捨てるのは、ちょっと」

「先輩で良いんじゃないですか? 君の方が赤羽根プロデューサーさんより年上なんですから、語感としてはそっちのがしっくりきますよ」

 

 譲歩の応酬、イタチゴッコに発展しかけた所を小鳥の一声が場を平定した。

 

「えっ、年上……なんですかっ?」

 

 意外だと言わんばかりに赤羽根は声を上げた。むしろ何故年下だと思ったのか、彼としてはそっちの方が驚きだった。

 小鳥は驚きを隠せない赤羽根に微笑み頷いた。

 

「確かー、あれから二年だから……二十六歳になるのかしら?」

「はいその通りです。ですからここでは三番目に位置します」

「うぅっ、歳の……歳の話はぁ~!」

 

 社長、小鳥、そしてその下に控えるのが彼という事で三番目。

 年齢の話題を自分から出した小鳥は、己の迂闊さを深く恥じ入って身もだえしていた。

 

「じゃあ尚更年上だと分かった以上、先輩と呼ばせて頂きます」

 

 体育会系なのか? と問いたくなる程ハキハキとした赤羽根の宣言に、彼はもう反対する気はなくなっていた。

 それよりもなによりも、律子が来た時から聞いておきたかった事が後回しになっているのを、いい加減彼は済ませたくて流れを断つように口を挿んだ。

 

「わかりました、それでいいです。

 では少しいいですか? 秋月にも聞いたのですが、シアター組の受けたオーディションや仕事などの詳細を、出来る限り全て教えて欲しいのですが」

「あはい、それなら、えっと確かここらへんに……あった、これに書いてあります」

 

 がさがさと赤羽根は自分のデスクの抽斗を探し、一つの手帳を取り出した。

 シアター組が発足されてからそう経過していないのに、赤羽根が持っている手帳は所々痛んでいて使い込まれた痕が見受けられる。

 

「随分、奔走したようですね」

「えっ?」

「この手帳、三ヶ月程度でここまでページがよれています。それにこの表紙、頻繁に出し入れしてなければここまで色合いが痛むことはありません」

 

 赤羽根から受け取った手帳を手に持って、鑑定士のような手つきと目利きで全てをつまびらかに紐解いていく。この手帳は、今日まで彼が劇場の少女たちを支えてきた努力の結晶と言えるだろう。

 開いたページを流し読みして、今夜の所は後回しだろうと判断して彼は手帳を閉じて顔を上げた。すると赤羽根が呆けたようにしてこちらを見ているのに気がついた。

 

「どうかしましたか?」

「あ、いえっ、なんか探偵みたいだなって思って。凄いですね、手帳一つでそこまでわかるもんなんですか?」

「気にしない方が良いですよプロデューサー。昔からそうでしたから、こっちが知られたくない事まで暴かれちゃいますよ」

 

 律子はそう言って半眼で彼を見据えた。一度謝罪を済ませた事もあってか、気持ちに余裕が出来たのだろう、彼女の発言は昔のように遠慮が無いものになっていた。

 

「そう言う君はそろそろ靴屋に行った方が良い。左足のヒールが消耗しているのか、姿勢が傾いている」

「う……わかってます、次のオフに行こうと思っていたんですよ」

 

 指摘された左足の踵を上げてその消耗ぐあいを確認した律子の声は、痛い所を突かれたように絞り出されていた。

 三人のプロデューサーのやり取りを見ていた小鳥が楽しそうに微笑む。

 

「ふふ、賑やかで楽しそうですね」

 

 微笑ましい光景だと、そう言う小鳥だった。

 だが逆に、プロデューサーとしてはこの空気は歓迎出来るものではなかった。信頼は謂れの無い裏切りへの引換券になるのだと、痛感していたから。

 高木社長は言った、君の力を貸してくれと。

 だからプロデューサーは自分が出来る事をやる。社長には恩と、それ以上の負い目があった。思えば自分の店に顔を見せた時からこうなる事は決まっていたのかもしれない。だとしたら社長も中々に思慮深い人物だ。

 

「そろそろ俺は失礼します」

「上がりですか? でしたら先輩、夕飯がまだでしたらこれからどうですか、音無さんと律子も都合が良ければ」

「いえ、すみませんがそれはまたの機会にでもお願いします。これから帰って車を取りに行かなくてはなりませんので」

「そうですか、それなら仕方ないですね」

 

 765プロにある車は全部で三台。今日の所は社長が主に使っている車を借りたが、毎日使うわけにもいかない。よって彼は自分の所有する車を持ってくる必要があった。

 これから運転する予定がある以上、赤羽根の誘いに参加するわけにはいかない。律子以外は全員成人しているのだから、そんな場でお酒が入らないわけがないのだ。元バーテンダーとして飲酒運転を自らが破るのは決してあってはならないという思いがあった。

 

「それでは、お疲れ様でした」

「お疲れ様です」

 

 三人に挨拶をしてプロデューサーは事務所を後にした。

 残った三人はそれぞれが帰り支度をしながら他愛ない日常会話を繰り広げる。話題は一足先に上がったプロデューサーについてなのは、当然と言えば当然の結果だった。

 

「にしても、思った以上に良い人そうでしたね。伊織があそこまでムキになるから、どんな人なのかと思ってましたよ」

「伊織ちゃんには伊織ちゃんの言い分があるから、きっとそれがどうしても許せないんだと思います」

「言い分……ですか。それってやっぱり、何かあったって事ですよね」

 

 赤羽根の問いかけに、返事代わりに小鳥は目を眇めて散っていく櫻を儚むように微笑んだ。

 

「あまり詮索しない方が良いですよプロデューサー」

「スマン律子、そうだな……なんであっても、今は同じ765プロの仲間なんだから」

「きっと大丈夫です、アイドルとの接し方が物凄く不器用な人ですけど、根は悪い人じゃないので。

 ああ見えて、とっても熱い情熱を持っているんですよ」

 

 小鳥は肩を竦めてそう答え、窓の外に咲く櫻の木を眺めた。

 夜空に覆われ昼間とは様相を一遍させた櫻は、人工的な明かりに照らされ神秘的とも言える胡乱な輝きを放っていた。

 

「彼は桜の木を護る為に、あえて毒になる事を選んだんです」

「毒……ですか?」

「ええ、他の植物に負けないよう考えて考え続けた結果、毒になる事が一番だと思ったんです」

 

 そしてその毒は手を加えると人を寄せ付ける香りを放つ。

 小鳥はそれきり話を続けようとは思っていないのか、一転してどこかへ食事に行こうを言いだした。彼女の意図を察したのだろう律子が話に乗って、プロデューサーに断られた赤羽根も予定が空いているという事で、三人は明かりの消えた事務所を出て、夜空の元を歩き出した。

 中天にかかる下弦の月は、人知れず人々を照らし続けていた。




 ふぎぎぎ、とかムキーとか言わないこのみお姉さんマジオトナセクシー。
 序盤という事もあって桃子の我儘&辛辣度はMAXです。
 「こんなの俺の嫁じゃない!」とかの苦情はその溢れんばかりの愛情でフィルターかけて見てください。

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