そして世界は華ひらく   作:中嶋リョク

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子どもに対する暴力表現が少しあります。


[4]ミルキ・ゾルディックの場合(3)

 狂ったような笑い声を聞きながら、しなる革鞭を身体に受ける。ミルキは腕の中の柔らかい感触を壊さないように胸に掻き抱いた。爪が剥がれ、指も幾つか折れているから、手の感覚はとうにおかしい。ちゃんと抱けているのか自信はない。

 腕の中の赤子ははじめから火がついたように泣いている。名前も知らない赤ん坊だ。でも、もう嫌だった。もう見たくない。これが弱さなら、自分は弱くていい。――事実、こんなに弱いのだから。

 鞭は容赦なく無防備な背中を打ち続ける。

 

「痛い? ねぇ、痛いよねぇ? 痛いって言えよぉっ!」

 

 振り下ろされる度に胸の詰まる痛みが熱さに変わり、ミルキは苦悶の表情を漆喰の地面に押し付けて隠した。痛がれば、こいつが悦ぶだけだと嫌になる程教え込まされたのだから。

 

「……っ!」

 

 何度目かに振り下ろされた刹那、皮膚が剥がれて血が飛び散る。

 

「アハハハハッ!! いいねぇっ! 綺麗だよぉ、ミルキ様」

 

 皮が剥がれて露出した場所を狙って、鞭は再び振り下ろされた。チカチカと目の前を紅い火花が明滅する。

 父さまは来ない。兄さまも来ない。自分が耐えられるのもそう長くはない。もう限界なんてとうに越えていた。自死してしまおうかと何度も思った。今なお生きていること自体、信じられない。

 腕の中の赤子はまだ温かい。生きている、生きている。

 

 ああ――でも……もう……。

 

 ミルキが諦めた数瞬後、轟音と共に天井が崩れ、風圧に運ばれた石礫が頬を叩いた。

巻き上がる砂煙の中、人影がゆらりと揺れて消える。

 

……父……さま……?

 

 父ではなかった。砂漠の民を彷彿とさせる格好。顔はよく見えない。いつの間にか目前に現れた人物にミルキはただ瞠目する。ミルキと男との間に滑り込んだ(くだん)の人物は、部屋の様子を一瞥して、ふるりと肩を揺らした。

 

「この、どぐされ野郎がぁっ!!!」

 

 掌底突き一発。

 

 たったそれだけで、ミルキをいたぶり続けたあの男が、地面に沈んだ。

 

 

 

――――――

 

 

 

【1990年、パドキア共和国デントラ地区ゾルディック邸】

 

「みるねぇちゃ、おいかけっこー」

 

 ふわふわと銀髪を揺らしながら、キルアが逃げる。ちゃんと追いかけて来てくれてるか、時々ちらちらと後ろを振り返る様子が……かわいすぎだ。

 

「キルアー、山の中には入っちゃダメだってば」

 

 およそ2歳児とは思えない身体能力で木の枝に飛び乗るキルア。森の奥に跳躍しようとしていた所を後ろから捕まえる。屋敷の園庭内は兎も角として、ククルーマウンテンの裾野に広がる樹海はそれなりに危険な生物の宝庫だ。

 

「きゃははは~」

 

 幼児特有の大爆笑をしながら、くるりと振り返ったキルアが首にぎゅうと抱きついてきた。ぷにっとふくらんだほっぺたがミルキの首筋に引っ付いて、その感触に目を細める。今は7歳差に物を言わせて、余裕で相手が出来ているが……純粋な身体能力ならあと数年で追い越されるかもしれない。

 

「もっかい。みるねぇちゃ」

 

「うーん、そろそろゴトーが呼びに来るからね」

 

 遊んでいるように見えるが――事実キルアにとってこれは遊びだ――実はれっきとした訓練の一環である。間もなく3歳になろうとしているキルアのポテンシャルは凄まじく、キルアの成長と共に館内での期待は(いや)が上にも高まり続けている。母さまは傍目でも分かる程、教育ママへとシフトチェンジした。彼女の名誉の為に言っておくが、キルアが生まれるまでは今ほどトリッキーでは無かったのだ。

 一方キルアは、幼児期特有のイヤイヤをすることはあるけれども、まだまだ素直な可愛い時期。皆の期待と愛情を一身に受けすくすくと成長中だ。

 私も自分の訓練の合間にこうして構いにやってくる。キルアの体力作りという名目の「触れ合いタイム」が楽しくてたまらない。いやー、癒される。

 

「ね、もっかい」

 

 大きな猫目で見上げられると、「いいよ」と頷いてしまいそうになるがぐっと我慢する。この後キルアはイルミとの訓練が控えているし、私も座学がある。

 

「遊びはお仕舞い、また明日ね」

 

 ぷう、と不満気に膨れたほっぺを指で突っつくと、ぷしゅっと空気が鳴ってキルアと一緒にくすくすと笑った。

 

「10時のおやつにしよっか」

 

 おやつ、の言葉にキルアがぱっと反応する。やっぱり子どもはお菓子が好きだ。

キルアを抱っこしたまま、5メートル下の地面に着地して、テラスまで戻る。テラスに設けたパーゴラの下で、お茶の用意をしているゴトーと、既にカップを啜っているイル兄さま。おやつを目にした途端、腕から飛び降りて駆け出すキルアを見送り、私は穏やかな時間を噛み締めた。

 

 

「珍しいね、兄さまが一緒にキルアのおやつに付き合うなんて」

 

 今日の茶葉はキームン。アイジエン大陸から取り寄せた紅茶だ。マイルドで上品な味わいが特徴で、ミルキの好きな茶葉のひとつだ。ミルクティー向けではないが、キルアのカップにはミルクと蜂蜜がたっぷり入れてある。私と兄さまはストレートで頂く。これが一番美味しい。ゴトーの淹れてくれたお茶はとりわけ格別で、流石の腕前に「凄く美味しいよ」と告げる。ゴトーはその場で恭しく一礼した。

 キルアは先ほどから夢中になって、スコーンを頬ばっている。口の回りはクロテッドクリームだらけだ。イルミ兄さまはそんなキルアの様子を一瞥すると、カップをソーサに置いた。

 

「今日は、ミルキと話がしたかったからね」

 

 ぎくりとする。少し改まった感じのこの切り出し方。なんだろう、嫌な予感しかしない。

 

「まだ、精孔開いてないんだって?」

 

「う……ハイ」

 

「もう、瞑想で開こうとするの止めなよ」

 

 すう……と背中に手をあてがわれる。

 

「ボクが起こそうか?」

 

 ハイ、なんてうっかり言えばこの場で抉じ開けられそうな怖さがある。最悪、無理やり起こされるとしても、ゼノお祖父さまか父さまにお願いしたい。

 

「ねぇ、妹に下法を試そうとするのはどうなのかな……」

 

 イルミの手を押し戻して、拒絶する。

 瞑想を始めて早ひと月。取り敢えず精孔が開く気配はない。意外というか、基本的にゾルディック家では念はゆっくり起こす。

 原作では、確かウィングの弟子のズシが3ヶ月で精孔が開いている。10万人にひとりと言われる才能のズシでさえそうなのだ。私が今一ヶ月かかろうと、そう目くじらを立てる事でもないと思う……。

 

「ちなみに、兄さまはどれくらいで開いたの?」

 

「10日だったかな。纒はその日のうちに」

 

 もう嫌だ、このゾルディッククオリティー……。原作のミルキが腐った理由が何となく分かる。優秀な兄に、才能溢れる弟。あの巨漢も、もしかしたら極度のストレスから来る過食だったりして。

 

 イルミ兄さまが、突然こんな事を言い出したのには、我が家の特殊な事情が関係している。

 

 ゾルディック家の子女は、おおよそ10歳前後で精孔が開き、念を覚える。それから数年は主に基礎である四大行の纒、絶、練と応用技をひたすら訓練する日々となる。系統にもよるし、一概には言えないが、発の開発は先送りとなるのが通例だ。何故なら発には人生経験や知識の蓄積が重要で、それが圧倒的に足りてない子どもに発を開発させる行為は致命的だからだ。開発したはいいけれど、考えなしの思いつきのせいでメモリ不足を招いたり、長じるにつれ制約と誓約に齟齬が生じたりする。そんな馬鹿な展開になるよりは、基礎力や応用技を磨き、知識や経験を蓄積した上で発を考えるべきなのだ。急がば回れである。

 ゾルディック家の家業である暗殺もまた、10歳前後で手伝わされる。念の習得が先になることもあれば、その逆もまたしかり。つまりゾルディック家の子女にとって、10歳とは特別なターニングポイントなのだ。

 

 そして、イルミ兄さまが15歳、キルアは間もなく3歳、アルカが2歳、末のカルトはまだ赤ん坊だ。私はというと、そのターニングポイントである10歳を迎えていた。残念ながら、念も習得していなければ家業の手伝いさえしていない。完全な穀潰しである。はっきり言って、私にはゴトーの淹れてくれたF.T.G.F.O.Pランクの紅茶を味わう資格は無いのかもしれない。働かざるもの食うべからずだ。

 なら、家業を手伝えばいいんじゃないか、と簡単に言ってもならない。そもそも単に人を殺したいだけなら三流どころのチンピラにでも頼めばいい話だ。

 うちに持ち込まれる暗殺依頼の大半が、「非常に厄介な殺し」に分類される。うちの料金設定が高いのは、達成難度が高いからだ。つまり、私の実力では門前払いがいいとこである。

 

「仕方ないよ、卑屈になるわけじゃないけど才能ないもの。幸いな事に情報処理だけは得意だから、後方支援に徹するつもり」

 

「ミルキはね、才能がないんじゃないよ。覚悟が足りないんだよ」

 

 無表情ながら溜め息混じりでイルミが呟く。

 

「訓練では動けてるのに、実践ではダメになる。――そんなんじゃ、いざというとき自分さえ守れないよ」

 

「……うん」

 

 覚悟か、と思う。

 イルミの言ってることは正しくもあり間違いでもある。そもそも根本的に価値観が違うのだ。覚悟でどうにかなるものでもない。

 

 転生者であることを思い出して以降、前世の私とミルキである私は違和感なく統合した。いやむしろ、ミルキ・ゾルディックがベースになっていると言ってもいい。というのも、前世の記憶は穴だらけで、曖昧な部分が多かったのだ。思い出せないというより「欠落している」感覚が近い。その欠落に法則性などなく、両親の顔は覚えていないが飼い猫の名前は覚えているといった具合だ。

前世の私という輪郭があやふやではっきりしていなかったからこそ、当時の私は前世の記憶を「知識」として受け入れることができたのだろう。あれだ。読書や映像資料による知識の吸収に限りなく近い。

 

 しかし、ベースとなったのが四歳当時のミルキ・ゾルディックだったのが大問題だった。毒を日常的に摂取し様々な訓練も受けてはいたが、まだ人を殺したことなど無い。ミルキとしての歴史も浅い、経験も足りない。するとどうなるか。幼い子どもだった私は、新しく得た大量の知識をものさしがわりに活用した。思えば馬鹿なことをしたものだ。

 先程前世の記憶の吸収を読書に喩えたが、読書とは追体験に他ならない。例えば本の中に出てくる匂いや味、景色を想像しただけでも、脳内の其々を司る部位が活性化し新しく脳神経が生まれるという。実体験でなくとも、脳内世界では体験したことになるのだ。

 

 私が幼い頃からしていたことは、読書と同じような効果を生み、繰り返す事で強化されてしまった。その強化されたものには、前世の倫理観も含まれる。

 結果、私は人を殺せないゾルディックとなった。まだこの致命的な欠陥は、家族にはバレていないと思う。なにせ、弱いもので仕事を任せられるレベルに達してないのだ。しかも、今ゾルディック家は稀代の天才児――キルアの出現に湧きに湧いている。さらに、キルア以降次々に生まれる妹や弟に、家族も使用人達も手をとられている。

 色々ぱっとしない落ちこぼれの2番目である私のことを皆が忘れているうちに、情報処理担当としての地位を確立してしまおうというのが私の目論見だ。――キルアを隠れ蓑にしている後ろめたさはあるけれども。

 

 

「わあ、キルア……顔中、凄いよ?」

 

 クリームだらけになった顔をお絞りで拭ってやる。手もべたべただから指の間も丁寧に綺麗にしてやった。

 イルミ兄さまは無言で席を立つと、キルアを肩へ抱え上げる。嬉しそうなキルアの声がテラスに響いた。

 

「キル、腹ごなしの闘いごっこの時間だよ」

 

 私も座学に行かないと。

 イルミ兄さまに少ししゃがんで貰い、キルアのほっぺにキスを送る。キルアからは私の唇に可愛いキスのお返しをくれた。濃厚なクロテッドクリームの香りがした。

 

 

――この人生プランが波風なく達成されると能天気に考えていた時期の事だ。イルミ兄さまが言っていた言葉の意味を、私は酷い形で思い知る事になる。

 

 

 

 

――――――

 

 

 

 

 今日は朝から館内が浮き足だっていた。

 

 7月7日。キルアの3歳の誕生日である。

 

 ここパドキア共和国では、3歳の誕生日を盛大に祝う習慣があり、一般的な家庭でも、親戚や知人を招待して大々的に祝う。日本で言う所の七五三のようなものだろうか。規模は遥かに上回るが。一般家庭でさえ式場を押さえて祝う所もあるのだ。況んやゾルディックをや、である。

 屋敷の使用人達は何日も前からその準備に追われ、当日である今日は、半ば殺気立つほど忙殺されている。

 

 私もドレスに着替えてメイドに髪を整えて貰った。私の髪は、母さまの趣味で腰まで伸ばしている。これを結い上げてもらうとしたらひと仕事だ。この忙しい中メイドの手を煩わせるのも忍びなく、髪はサイドを編み込んで生花を飾ってお仕舞いにして貰った。主役はあくまでキルアなのだから私が派手に着飾ったって仕方ない。

 

 自室の椅子に腰掛けて足をぶらぶらしていると、控え目にノックの音がした。

 

「ミルキ様、お時間です。お迎えに上がりました」

 

 あれ? と思う。あまり聞いた事がない声だった。扉を開けて入室してきた執事が一礼する。眼鏡を掛けた灰色の髪の男だった。ゴトーも背が高いが、この執事も随分と長身だ。

 

「……見ない顔だね。ゴトーはどうしたの?」

 

 私の人見知りスキルは、執事や使用人に対してもいかんなく発揮される。新顔の執事は、困ったように微笑んだ。

 

「招待客の方々のお世話の方に。……申し訳ありません」

 

「そう……仕方ないね」

 

 椅子から立ち上がる。

 別にゴトーは私専属という訳ではない。本来はゼノお祖父さまの直属で、私達孫に貸し出されている形だ。

 化粧台に置いておいたキルアへのプレゼントを抱える。この日の為にキルアに用意しておいた自作のゲーム機だ。まだキルアは3歳だから複雑なゲームは出来ない。内容はごくごく単純なものだけれど、生来の凝り性のせいで細かいところまで作り込んだ自信作だ。動体視力の訓練にも使えるから、母さまも悪い顔はしないはず。

 

「では、ご案内致します」

 

 執事は慇懃に一礼し、私の手を取った。

 ぐ、と思わぬ力を加えられて驚いて顔を上げる。口角を歪ませた執事の顔を記憶の最後に、私の意識はブラックアウトした。


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