「ミルキ、家に帰ったよ。分かる?」
昏々と眠り続けるミルキからの返事はない。瞳を固く閉じて、無表情に横たわっている。
空港でボクの
無駄と分かっていても、思わず右手の精孔を自分の手で塞いでみたりもした。ボクの行為を
母さん達には、ましてや父さんには決して見せられない無様さだ。
青白いミルキの頬に手を添えた。
なんて冷たい。昨日は苦しそうで……汗ばんでさえいたのに。今朝はまるで人形みたいだ。こういう顔には馴染みがある。
そう――これは
ミルキの傍は死のにおいに充ちている。それは刻一刻と濃度を増して、イルミを激しく攻め立てた。
僅かに上下する胸で、呼吸をしていることは分かっている。まだ、生きている。だが、ほとんど棺桶に片足を突っ込んでいる人間の顔だ。9歳の頃からゾルディックの家業を手伝ってきた自分だ。人が死ぬとどんな顔になるのか散々見てきた。だから分かる。ボクにはミルキの死相が見える。
ミルキの目を見たいな、と思う。あの好奇心に輝くきらきらとした瞳が見たい。自分を見つけると、嬉しそうに笑って駆け寄るあの顔が無性に見たかった。だが現実は、ただただ表情を失くして横たわっているだけだ。無機質な管がミルキの四肢から伸びて、寝室に置かれた医療機器へと繋がっている。注入される点滴や酸素が、僅かにミルキを延命させているのだ。
いつの頃からだろうか。同じ色を持ちながら、ミルキの双眸はきっと自分とは違う世界を見ているのだろうと気付いていた。同じものを見ても感じ方が違う。イルミにとっては何の感想も抱かない些末な事に顔を綻ばせる妹を見て、何とも言えない不可思議な気持ちに陥ったものだった。小さい頃はよく分からなかったが、今なら何となく分かる。あれはミルキへの『羨望』だったり、認識を共有できない『淋しさ』だったのかもしれない。
目の奥に突如として違和感を覚える。
ボクはミルキの頬から手を離すと、自分の目を手の平で覆った。じくじくと目が疼く。両目の奥が熱い。
――タイムリミットだ。
ボクはミルキの傍から離れると、寝室の扉をそっと閉めた。
向かうのは自分の私室。窓もカーテンも全部閉め切って、ボクは暫く籠ることになる。最初は目に異物が入った時のような僅かな不快感。無視できる程度のものだ。
だがこれは序章に過ぎない。
ああ、そろそろだ。例のアレがやって来る。
私室のベッドの上に身体を投げ出し、ボクはその時を待つ。目を中心に
自分で自分を操作した後は、その反動が大体1日遅れでやってくる。発作みたいなものだ。主症状は頭痛と吐き気。2時間程度頭の中を散々に引っ掻き回された後、突如として痛みが消失する。だがこれで終わりじゃない。30分から1時間後には頭痛が再来するのだ。要はこの繰り返しで、症状自体が無くなるのは少なくとも24時間を要する。
この頭痛には自分の持っている肉体操作の技術は通用しない。拷問の訓練で培ってきた痛みへの耐性もまるで効かなくなる。多分、視神経への直接的な痛みだからだろう。
流石にボクでも、神経そのものへの刺激を無視することはできない。最初の内はまるで針金で目をぶすぶすと刺されるような感じだが、最終的には指で眼球を抉り出されるようなそれへと変わる。
だが、今回は比較的マシと言えばマシだ。感情だけでなく肉体の操作までしていれば、身体を酷使した反動も痛みとして追加される。
「……ぐっ……!」
――来た。
唇を噛み締めても喉の奥から声が漏れる。
「かっ、は……ううーーーーっ‼︎」
シーツを
痛い、痛い、痛い‼︎
あまりの痛さに頭髪を掻き毟り、引き千切る。ベッドの上に黒い髪がバラバラと散った。脂汗とも冷や汗ともつかないものがだらだらと流れ、手足が引き攣る。胎児のように身を丸くして痛みに耐えようとするが、効果があるようには思えなかった。
だが、今回ばかりはこの痛みも歓迎だ。
ミルキの肩に、自分の
ミルキは何だってあんな馬鹿な事をしたのだろう。自分を殺そうとした人間を庇おうなど、およそゾルディックとしての価値観からは逸脱している。――分からない、分からない。ミルキの事となると、ボクは本当に分からない事ばかりだ。
分からないけれど、これだけは分かる。ミルキを失いそうになっている今、ボクはボクのしてしまった行動に激しく後悔している。誰ひとりミルキを傷付けたボクを責めない、罰しない。ゾルディック家では弱さは罪だ。ミルキは弱い。だからボクの
失神できないくらいの激痛に、ボクは自分の頭をベッドボードに打ち付けた。何度も何度も打ち付けると、血が流れて少しだけすっきりする。――ああ、そうだ。もしもミルキの目が覚めたのなら、ボクの
ボクは気分が良くなって、声を出して笑った。愉快で痛くて、思い切り大声で笑ってやった。
――――――
「なに、コレ」
何度目かの発作と痛みの消失を繰り返し、最終的に失神出来たのだろう。意識の浮上とともに、すぐ目の前に転がった女の頭部を確認する。
知らない顔だ。
女の首には背骨と脊髄の一部、それから内臓が植物の根のようについていた。人間の頭部を胴体から引っこ抜くとこういう風になるのは経験から知っていた。目だけ動かして胴体を探す。
胴体は、ベッドから数メートル離れた場所に落ちていた。身体にはボクの
女の頭部から流れ出た血液がベッドに大きな染みを作っていて、それは横たわるイルミの胸の辺りまで達していた。既に血が乾いていて、シーツが固まっている。べりべりと頬をシーツから引き剥がしながら起き上る。イルミのベッドは、もう使用できるような状態になかった。ベッドボードは割れているし、ベッドマットは裂けてぐちゃぐちゃだ。部屋全体も人間の臓物の臭いが酷い。
日付つきの時計を確認すると、そろそろ
ああ、そうだ。ミルキは。ミルキに会いに行こう。
ふらりと立ち上がった所で背後を振り返る。
「父さん」
「腑抜けたな。いつ気がつくかと思ったぞ」
父が、壁にもたれながら腕組みをしてこちらを見ていた。父の言葉に何も返せない。絶をしているとはいえ、同じ部屋にいて気が付かないなんて。
「イルミ、仕事だ」
「……しごと?」
一瞬父が何を言っているのか分からずに聞き返す。……仕事? 今、仕事って言った?
「――嫌だ」
考えるより先に口をついて出た言葉に、自分でびっくりする。父はボクの言葉にぴくりと眉を動かす。組んでいた腕を解くと、壁から離れてベッドサイドに佇むボクへ右手を伸ばした。ああ、殴られるなと思いながら一連の動作を眺める。
「バカ野郎」
父はくしゃりとボクの頭を掻き回すと、そのまま後頭部を掴んで胸に抱きこんだ。予想外で、ボクはぱちぱちと瞬きを繰り返す。
「あの……ちょっと、何……?」
居心地の悪さに
ミルキじゃあるまいし、父さんにこんな風に扱われた記憶がボクにはなかった。
「本当なら殴り倒して懲罰房行きだ」
父さんは溜め息をついて、 もう一度だけ乱暴に頭を撫でてからボクを離した。
「――分かっていたつもりだったんだが。お前にとってのミルキの重みを俺は見誤っていたようだ。……最近は、予想外なことばかり起きるな」
ボクはまたぱしりと瞬きをする。父に撫でられた頭に手を遣って、ごわごわと血で固まった自分の髪を確認した。こういう時の気持ちを何というのか。兎に角落ち着かなかったが悪い気分ではない。
「イルミ」
父さんには、既にいつもの鋭い目が戻っていた。いつもの、ボクに向ける視線だ。
「仕事と言ったが、依頼主がいるものじゃない。ジンからの情報でミルキが命を狙われていた可能性が高まった。だが、どこからどこまでが意図されたものなのか分からない。敵の正体も目的も不明だ。お前は急ぎミルキを拐ったジョセ・ヴァーシと接触しろ」
「――父さん、それってどういうこと?」
ジンからの電話で端を発した一連の情報を父さんから聞く。愕然とした。ああ、そうか、ボクは失敗したのか。ボクの行動はミルキを危うくするだけじゃなく、ゾルディックに必要な情報を得る機会をひとつ失わせた。これは、懲罰房どころの騒ぎではない。
「イルミ、仕事だ」
再度父がボクに告げる。ボクは静かに頷いた。この仕事は暗殺者として汚名返上をする最後の機会だ。
「それから――ツボネを貸してやる。強行軍になるが、飛行船より往復に時間がかからない。少なくともお前が戻るまで、ミルキを死なせないと約束しよう」
「――よくツボネが了承したね」
執事は家族からの命令には基本服従だが、いくつか例外がある。家族内での序列があるように、執事にも暗黙の序列が存在するのだ。
執事候補生は養成所を終えると正執事について見習いとなる。見習いと正執事との間には海溝よりも深い溝があるが、正執事と直属の執事にも同じような溝がある。家族直属の執事は、ゾルディック家の者より実力が上であることが多い。それは、場合によって当主や直属の主の命令で家族を拘束しなければならないからだ。
その立ち位置がある故に、直属の執事は他の家族よりも直接の主からの指示を優先させる。それより優先されるのが当主による命令だ。
現在直属の執事を持っているのはゼノとシルバだけなので、実質父直属の執事の格が一番上となる。中でもツボネは最古参の執事で、父から一目も二目も置かれていた。当主命令ならばどんな事でもツボネは動くが、基本父さんはツボネに無理強いはしない。そしてボクはツボネに嫌われている。
「今のお前ならいいそうだ」
「――意味が分からないよ」
真剣に受け取ったら馬鹿を見そうで、ボクは思考を閉じた。そのまま真っ直ぐ扉へ向かう。
「待て」
「何? 父さん」
「シャワーぐらい浴びたらどうだ。それから飯も食って行け」
呆れたように父が言う。仕事でも血潮を浴びることなんてないから失念していたが、見下ろした服も両手も血でどろどろだ。「ツボネはレディだからな。綺麗にしていけよ」という父の言葉は聞かなかったことにしよう。
――――――
5時間後、ボクはモローク地区カサブランに居た。
再びこの地を訪れることはないと思っていたが、確かに父さんの言うように最近は予想外のことが起きる。こんなに早くカサブランに来ることになるとは。
ビル風に煽られて、髪がばさばさと頬を打った。水平線に太陽が沈みつつあり、辺りは夜の気配を次第に色濃くしていく。だが経済都市であり観光都市でもあるカサブランにとっては、これからが本番の時間だろう。
眼下には、古い街並みと近代的な都市とが混然一体として広がる。海岸沿いの路地街にはぽつりぽつりとガス灯が燈り始め、中心地ではネオンと車のテールランプが明滅していた。路地壁の街並みを囲うように発展してきた中心地は、他の都市に見られるような整然とした区画整理はされていない。うねうねと続く路地を飲み込むように食い込みながら歪な曲線を描いている。遠くにはオレンジから群青のグラデーションに染まっていく空と海とが見えていた。ボクはただ、瞬きもせず景色をひと撫でする。
――ミルキなら、この景色にどんな感想を抱くのか。
胸に去来したのはミルキのことだ。およそ仕事前には
ボクは背後に控えたツボネをちらりと見遣ってから視線をある建物に固定する。ジョセ・ヴァーシが留置されている警察署だ。ミルキを痛めつけ辱めた男があそこにいる。考えただけで、どろりとした黒い感情が湧き上がりそうになった。それを抑え付けるために両目を閉じる。
――これは仕事、仕事なんだ。いつもの自分にならないと。
もう
跳躍のため、両脚に力を入れようとした時だった。
「いってらっしゃいまし」
ツボネから掛かった声に振り向く。
「お前は行かないの? ――ボクへの監視も仕事の内だろう」
「――ええ。確かにシルバ様から申し付かって御座いますね。ですが、それはあたくしの裁量に任されてもおります」
「ボクが平静でいられないと判断した場合、任務の遂行はツボネに変わる」
「はい、その通りで御座います」
ツボネは
正直、ツボネと闘ってボクに勝ち目はない。何年生きているのかさえ分からないこの化け物は、ボクの遙か先の高みにいる。ツボネはボクに仕えているわけじゃない。ツボネはゾルディックそのものに仕えている。実質ツボネに命令できるのは父さんだけだ。表面的とはいえボクに礼をとるのは、ボクが父さんの息子でありゾルディックの名前を持っているからに過ぎない。
ボクはあの日失敗した。取り返しのつかない失敗だ。父さんの話を聞いて、ボクはボクの失敗がひとつじゃないことに気付かされた。ミルキの命が狙われているとしたら――ひいてはこれがゾルディック全体の問題にまで波及するとしたら、ボクは貴重な証人を殺してしまったことになる。
「ここでボクと別れたら、ボクがジョセ・ヴァーシを殺すのを止められないけど?」
「そうで御座いますね」
「驚いた。そんなにボクを信用してるんだ。知らなかったよ」
嫌味を込めて言ってみる。ツボネはにっこりと笑った。
「信用はしておりませんことよ」
言い切ったツボネをまじまじと見る。白々しく「信用しております」と返されるかと思っていたのに。
「ただ、イルミ様のミルキ様への思いは信用しております。ミルキ様のために最善を尽くされますよう」
ツボネの言葉にぴくりと眉が動く。……だから、この
「ボクは、お前が嫌いだよ」
ほほほ、とツボネが高笑う。再度「いってらっしゃいまし」という言葉を背後に受けて、ボクはビルから跳躍した。