うちの妹を一言で言い表すなら「変」という言葉が一番しっくり来る。
うん、うちの妹は変だ。これに尽きる。
妹といっても、ボクのすぐ下の妹になる。
最近妹が増えたので、ややこしいが……ボクにとって「妹」というのはやはりミルキを指すのだ。なにせ、キルアが生まれるまでの7年間、ボクにとってただ一人のきょうだいだった。アルカが生まれるまでの8年間、ただ一人の妹だった。まだ小さいアルカを見ると、どうしてもミルキが小さかった頃を思い出して共通項がないか探してしまう。
それくらい、ミルキはボクの中では揺るぎなく「妹」だ。
ミルキの存在を意識したのは、ボクがゾルディック家の長男として生を受けてから4年目、母さんが妊娠した頃まで遡る。物心ついてからずっと一人だったから「妹ができる」と聞いても実感など湧くはずもなく、日に日に大きくなる母さんの腹に得体の知れない気持ちの悪ささえ感じたものだ。
父さんも母さんも嬉しそうにしていたから、ゾルディック家にとって喜ばしいことなのは分かったが、それが自分にとって喜ばしいことだとはとても思えなかった。
家族が増えるということは今までの家族のバランスが崩れるということだ。増えていくベビーグッズや、整えられていくベビールームの周りには浮き足立った空気があって、落ち着かない。
ボクはきょうだいのいない生活に馴染んでいたから、屋敷内の、このそわそわとした空気感を歓迎してはいなかった。寧ろ、「妹」をこの落ち着いた日々を掻き回すであろう異分子とさえ見なしていたように思う。ただ、生来感情を表に出すことをしなかったボクの気持ちなど、周囲は分かっていなかったに違いない。「妹」は、母さんの腹の中で過不足なく育ち、誕生の時を迎えた。生まれて数十分後、母さんの傍らに眠る赤ん坊を見ても、やはり実感など湧かなかった。
父さんや母さんに促されて抱っこを強要された時は、正直勘弁してもらいたいとさえ思ったぐらいだ。小さくてぐにゃぐにゃしていて掴み所のない物体を腕に乗せられて、ボクは途方に暮れるという気持ちを知った。なんだかジャガイモのスープみたいな匂いがするし、赤くて腫れぼったい顔は不細工だ。
何より、少し力を入れれば壊しそうなこのぐにゃぐにゃの扱いをどうして良いか分からない。ボクでさえこうなのだから、父さんや母さんは細心の注意を払って触れていた。それなのに嬉しそうだ。
「イルミ、お前の名前の最後の字をとって、ミルキと名付けた」
父さんにそう言われて、初めて衝撃を受ける。思えば現金というか、まあただ単に幼かった故だろう。自分の名前の一部をとって名付けられたと聞いた瞬間、ボクにとってミルキは家族となった。自分の名前を分けたのだ。血を分け、名を分けた存在は、もはや自分の一部といってもいい。自分の一部ならば疎ましく思う理由などない。自分でも不思議なくらい納得し、ボクはミルキを妹として受け入れた。
ミルキは実に平凡な幼児だった。世間的に言えば
ミルキは、毒への耐性はゆっくりながら着々と身に付けていた。しかし、身体能力のポテンシャルはいまいちぱっとしない。6ヶ月で歩くとか、1歳で岩を持ち上げるとか、ゾルディックに有りがちなエピソードは一切なかった。
そんなミルキを見て、母さんは随分落胆していたように思う。可愛くないわけではないが、ミルキの事になると「才能がない」が口癖だった。反対に、父さんはミルキの平凡さを苦笑で済ませていた。今にして思うと、「娘」というだけで可愛かったのだろう。ミルキとボクは容姿が似ていたが、より似ていたのは母さんだった。結婚理由が「キキョウの顔が好みだった」と言って憚らない父さんにとって、母さん似のミルキは無条件で愛せたようだ。
ただし、頭は良かった。教えたことは何でも直ぐに理解したし、熱心に教えた覚えもないのに文字や数学の概念を身につけた。2歳の頃には新聞レベルの読み書きと、大学入試程度の数学は解けていたように思う。ミルキがとりわけ興味を示したのはPCを初めとする電子機器全般で、しょっちゅう分解しては遊んでいた。自作のCPUを組み上げたのは、確か3歳だったと思う。
ゾルディック家は、長い年月をかけて作り上げられた遺伝子の奇跡だ。まるで作物や動物を品種改良するように突然変異同士を掛け合わせて肉体に特化した一族が作られた。にもかかわらず、ミルキの才能は頭脳の明晰さに随分と天秤が傾いてしまったようだった。ある意味、これも突然変異と言えなくもない。
だが、残念ながらミルキの頭脳的才能は正しく評価されなかった。当たり前だ。ミルキを評価するには……その才能を認めるには、同じような天才でないと分からない部分が多すぎた。キルアのように、暗殺者としての才能を早くから見抜けたのは、父さん達もまた暗殺者として一流だったからだ。
幸か不幸か、父さんに溺愛されていたミルキは知識欲を制限されることはなく、ミルキは求めるままに貪欲に、学ぶ場を与えられた。数学者の教師も、物理学の専門家も、父さんにとっては、ミルキに玩具を与える感覚に近かったかもしれない。
当然、ミルキだって暗殺者となるべく幼い頃からの訓練は欠かさなかった。基礎体力の強化は勿論、拷問訓練、格闘術、潜入の為の知識など、暗殺者に必要な事はボクと同じように教育された。心配していたよりそつなくこなすミルキの様子に母さんはほっとしたみたいだった。群を抜いて良くもないが、絶望的というレベルでもない。中の下、あるいは下の上といった所で、このまま成長すれば、仕事の中でも比較的容易なものなら任せられるかもしれない。我が家にはそんな安堵が広がっていた。
だが、そうはならなかった。
ミルキが8つになり、訓練が実践を想定したものにシフトチェンジすると雲行きが悪くなった。
――兎に角、動けない。下手すれば止まる。どんくさいとかいうレベルではない。お話にならないのだ。家の実践レベルの訓練は、怪我は当たり前で下手すれば重症を負う。それだけの緊迫感がないと身に付けられないものがあるからだ。動きに迷いがあると、相手をする方も堪らない。まさかミルキをそのまま殺す訳にもいかず、突然動きが鈍くなるミルキを庇って怪我をする執事が続出した。そうして、ミルキはますます縮こまった。完全な悪循環だ。
ボクもこの時期に一度、ミルキを半殺しにするつもりで相手をしたことがあるから、その訓練のやりにくさはよく分かる。
「ねえ、さっきわざと隙を作ってあげたのに、なんで攻撃しなかったの?」
ミルキの蹴りを宙にひるがえって避けながら問う。念も習得していないミルキの手刀が決まったからと言って、ボクの首が千切れ飛ぶわけはないが、それでも闘う人間ならばあの隙は見逃してはならない。ミルキは『攻撃出来るチャンスをわざと避けた』のだ。ボクは地面に手を着き、左足を軸にしてミルキの顔面に蹴りを入れる。ほら、ボクの質問に動揺したのか反応が遅れた。余裕で避けられた筈なのに、ギリギリだ。――分からない、分からない。ミルキが理解出来ない。
バランスを崩したミルキの首もとを軽く掌で押してそのまま地面に叩きつける。右手をビキビキと変形させて心臓に向かって振り下ろした。ミルキがギリギリ避けられるだろう速度とあたれば間違いなく死ぬ威力で。しかし――ミルキはただボクを見て固まっているだけだった。
間に合わない。ミルキが死ぬ。
咄嗟に首もとを押さえていた手をミルキの心臓の前に広げた。予想した衝撃を左掌に受ける。手のひらを貫通した右手の威力は、右手中指の第二関節を越えたあたりで左手に吸収された。指を素早く引き抜き、着衣を脱いで左手に巻く。肉体操作で出血は抑えているが、念のためだ。
ミルキは未だ固まったまま、呆然とボクを見上げていた。なるほど、と思う。ミルキは駄目だ。闘えない。原因は分からない。――分からない、分からない。
「あ……兄……さま……」
蒼白な顔でミルキが起き上がる。
ボクは溜め息をつくと、ミルキから背を向けて歩き出した。
「間違えて自分の手刺しちゃった。治療してくるから、ついてこなくていい」
ミルキの視線を背中に感じながら思う。父さんはミルキのこの状態をどれだけ把握しているのだろうか。今、ゾルディック家は麒麟児であるキルアの存在にスポットライトが当たっている。アルカも生まれたばかりだし、正直期待値が低いミルキは忘れられている。今のうちに状況を打破しないと。
これがミルキが8歳、ボクが13歳の頃の出来事だ。当時は、どうにかしてミルキを暗殺者にしなければとそればかり考えていたように思う。頭は良いが、お世辞にも「もの」になるとは思えない妹を何とかしてやるのが兄の務めだと思っていたからだ。思えば、ボクはミルキの価値について随分な読み間違いをしていた。
ミルキの真価は、その類稀な頭脳にあると気付いたのはミルキが9歳の時だった。いや、「気付いた」というのは語弊がある。気付かされた、と言うべきか。
「兄さま、兄さま」
ミルキが、廊下の角から走り寄る。
上下を白いつなぎ、首にゴーグルを着けっぱなしな所を見ると、また自室に籠って何やら製作していたようだ。メイドが丹精している長い黒髪は、高い位置で無造作に括られている。母さんが見たら発狂しそうな格好だ。この頃になると、性能のいい爆弾やら、小型通信機やら、プロテクト機能のあるマイクロチップやらをミルキが自作して、現場でも幾つか採用されるようになっていた。
「兄さま、今からお仕事でしょ?」
屈んで、とジェスチャーされてミルキの目線に合わせる。ボクは14歳を迎えてから急激に背が伸び出した。ボクとミルキの身長差はこの頃が最大だったように思う。
「これ、試作品なの。試してくれないかな」
ミルキが手のひらに乗せて差し出したのは、銀色の
「これ、何? どう使うの?」
尋ねると、ミルキは嬉しそうに目を輝かせた。
「小型通信機の改良型なの。以前のものより60%の小型化に成功したんだよ。これなら装飾品に見えるでしょ。こっちの
「隣の赤いのは?」
「ルビーのスイッチは、なんと私の携帯に繋がります。出来れば直接性能を確かめたくて」
仕事中に電話を掛けろ、ということらしい。
「……赤、要らないでしょ。ミルキの番号ボクの携帯に登録してるし」
「うわ、そういうこと言っちゃうんだ。これはね、携帯が繋がりにくいエリアでも繋がるように改良してるの! はあ……大変だったんだけどなー……」
ボクの言葉に、ミルキはショックを受けたのか、大袈裟に嘆いてみせる。どうせ徹夜続きで製作したのだろう。寝てないせいなのか少しテンションが高い。
「まあ、いいや。使ってみるから着けてよ」
「えっ……、うん!」
ミルキが着けやすいように髪を耳に掛けると、ぱちんと小さい音が右耳で鳴った。腕輪は自分で左手首に装着する。
「じゃ、行ってくる」
「気を付けて。行ってらっしゃい」
この時は、このミルキの試作品で命拾いする事になるとは夢にも思っていなかった。
――――――
「イルミ様、ダメです! こう短時間で暗号を変えられては、解読する時間がありません!」
悲痛な叫び声を上げるのは、ゾルディック家情報部門の若い執事だ。執事がPCを接続しているのは放射能用核シェルターを思わせる頑丈な扉で、事実、地下に作られたこの部屋は核シェルターとして機能できるだけのものを備えていた。ただし、この部屋の中にこそ爆弾がある。外からの脅威を防ぐ目的ではなく、内側の爆発が外に影響しないためのものだろう。
後日分かった事だが、ターゲットがこの地下研究所にいるという情報は、ターゲット自身が流したデマだった。間抜けなことに、そのデマにこちらが踊らされた形になる。デマの中には幾つかの真実が織り交ぜてあったため、うちの情報部門も騙されたのだろう。
真実の中には、「地下研究所の扉を開けるには暗証番号の解読が必要だ」という情報もあった。事実、この部屋に入る為に連れてきた執事はきちんと仕事をこなしてくれた。だがこれは罠だった。
PC画面上に示されている爆発までの時間は残り20分。暗号はどうやら5分おきに変更されるようで、こんな短時間ではPCでの計算に全然時間が足りないらしい。
壁に山と積まれた爆薬の量を見上げる。これだけの爆薬、堅をしたとしても多分防ぎきれない。ボクは死ぬ。
ふと、無性にミルキの声が聞きたくなって携帯を開く――圏外だ。その時カシャン、と腕輪が鳴って、そう言えばと迷わず赤い宝石を押した。程なく、ミルキの眠そうな声が
「兄さま…? お仕事終ったの……?」
「いいや。ミルキの声が聞きたくなって電話した」
「え……っ? あ、これ、私が作った通信機からだ!」
「電話しろ、と言ったくせに眠るとか」
「ご、ごめんなさい」
知らず、口角が上がる。最後に声が聞けて良かった。
「実は、帰れそうにない。今核シェルターに閉じ込められてて脱出を試みてるけど、暗号の書き換えが早すぎて家の情報部門のスペシャリストでも解読が不可能みたい。あと18分で爆発する」
「爆発、したら……兄さま……」
「多分、死ぬ」
「……書き換えまでの時間は?」
「5分」
「5分……。PC上に解読の為の数字が出てる筈だけど、桁数はいくつかな」
ミルキの質問に首を傾げる。
床に座ってPCにかじりついている執事に尋ねた。
「解読の桁数は?」
「えっ……、あ、はい、――10進法で174桁です」
「ミルキ」
「大丈夫、聞こえてた。10進法で174桁なら2進法で576桁か。5分……。兄さま、私、やってみる。次の暗号の切り替えが来たら、数字の羅列を教えて」
ミルキの言葉を執事に伝えると、執事は微妙な顔をしていたが、静かに頷いた。
「間もなく残り時間15分です。暗号の切り替えになります。5秒前…3、2…出ます!――188198812920607963838697239461650439807163563379417382700763356422988859715234665485319060606504743045317388011303396716199692321205734031879550656996221305168759307650257059――以上!」
ボクは執事が口にした数字の羅列に間違いがないか確認しながら聞いていた。執事が数字を読み上げ終えてから右耳から
「解けた! 解読ソフトに入力して! 素数の組み合わせは2つ――398075086424064937397125500550386491199064362342526708406385189575946388957261768583317×472772146107435302536223071973048224632914695302097116459852171130520711256363590397527」
ミルキの告げた数字を執事が入力する。残り時間15秒。PCに数字とアルファベットの羅列が大量に流れたかと思うと、扉から電子音が鳴ってロックが解除された。爆発まで10分と5秒だった。扉のロックは解除されたが爆発のカウントダウンは止まらない。ボクは解除された扉を開け、呆然自失の執事を引き摺り外に出る。扉を閉めると、ガシャンと再ロックされる音が響いた。
ミルキから貰った通信機を使って任務の失敗と帰還の旨を告げる。飛行船の離着陸場所まで移動しなければならないが、例の執事はまだ呆然としていた。
「置いていくよ」
そう告げると漸くノロノロと立ち上がり、「申し訳ございません」と一礼する。
ボクは飛行船へと走りながら再び
「抜け出せた。助かったよ」
ミルキは長く息を吐くと、「……良かった……」と小さく呟いたきり、何も言わなくなった。あんまり長い間沈黙しているので、通信機のバッテリー切れを疑った頃だ。
「兄さま、ごめん……眠くて……切るね……」
ちょっとあんまりな言葉で通話は切れた。
飛行船の離着陸場所に着いた時、遠くで爆発音が鳴り、数拍遅れて衝撃波がビリビリと身体を突き抜けた。衝撃波だけでこの威力だ。あの場にいたら間違いなく死んでいた。
「あのう……ミルキ様は大丈夫でしたか?」
「お前には関係ないよ」
後ろを付いてきていた執事に話しかけられて、ボクは不機嫌に返した。執事は慌てて一礼する。
いや、待て。
「さっきの――どういう意味?」
振り返って執事に聞くと、執事は「なんでもございません」を繰り返す。
「いいから、言いなよ。殺されたいの?」
「――では、申し上げますが……はっきり申し上げてミルキ様は異常です」
執事の言葉に、ボクの殺気が膨れ上がる。執事は一歩後ずさったが言葉を続けた。
「シェルターの暗号は、RSA暗号でした。代表的な公開鍵暗号方式です。昔からある手法ですが、今も広く使われているのには理由があります。セキュリティ上安全性が高いからです」
「うん、それで?」
「イルミ様、61×73は?」
「なに、それ……4453かな」
「そうです。素数同士を掛け合わせることは、2桁3桁なら暗算できる人間は大勢います。しかし、いきなり4453を素因数分解しろと言われた場合難しい。少なくとも61か73のどちらかの素数を知っていないと速やかな解答は得られないでしょう。――RSA暗号を解読するというのは、掛け合わせた後の数、4453だけを足掛かりにして61と73の素数を見付け出すということです」
執事は頭を振る。口元を押さえる手が小刻みに震えていた。
「この暗号は、桁数が上がれば上がるほど難解になります。ミルキ様が解読したのは2進法で576桁、10進法で174桁のとてつもない桁数です。たった5分……いえ、実質3分程で計算できるような代物じゃないのです」
「よく……分からないな」
「ミルキ様がされた3分間の計算は、スーパーコンピューターを並列に繋いで何ヵ月もかけて解答を見付け出すものなんです。解読に何ヵ月もかけては、取り出したい情報の旬は過ぎています。労多くして利益は皆無。それが公開鍵暗号方式の真髄です。それを無意味にしてしまったミルキ様は……異常としか言えません」
ボクはドクンと心臓が脈打つ。
この執事は、最初何を言っていただろう――そう、確か、「ミルキは大丈夫か?」だった。大丈夫かだって?
「膨大な計算を瞬時に処理したのです。ミルキ様の脳への負担は計りしれません。PCで言うなら完全なオーバーワーク。普通なら壊れます」
ミルキとの先程のやり取りを思い出す。奇妙なほど長い沈黙に唐突な通話の終了。
ボクは、携帯を開く。
「ボクだ。ゴトー、ミルキの様子を確認してくれ――そう、至急だ」
RSA暗号の解読部分は、実在するRSAコンテストの過去問から頂きました。