そして世界は華ひらく   作:中嶋リョク

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書き溜めなし、ぶっつけ本番で書いていきます。
需要は追わない。あくまで自己満足の結果。


序幕[ミルキ16歳]
[1]ミルキ・ゾルディックの場合


 ゾルディック家の家業は暗殺だ。

 そんなことは、パドキア共和国では3歳の子どもだって知っている。むずがる子どもは「泣き止まないとゾル家が来ちゃうよ」と言って宥められ、いたずらっ子は、「そんな子にはゾル家が来るよ!」と脅される。もはや子どもを宥め叱る時の常套句と化しているのだ。

 勿論、実際にゾルディックの面々が出張って来ることなどない。だからこそ親は安心してゾルディックの名を口にする。地元デントラ地区では観光業に一役かっていることもあり、名家として愛されていると言っていい。

 

 また、ゾルディックには実業家・投資家としての顔もある。とはいえ、表立ってゾルディックの名を出している訳ではないのでこちらはほとんど知られていない。実際、経営に携わっているのは、ゾルディックの遠縁にあたる親戚達で、実はゾルディック姓さえ名乗っていない。企業たるもの、イメージ戦略が大事なのだ。文字通り泣く子も黙る「ゾルディック」の名前はマイナスにしかならないだろう。

 

 経営内容は、病院、ホテル、飲食チェーン店など、なかなか多岐に渡っているが、イル兄さまは「結局本業含めてサービス業だよね」という身も蓋もない括り方をしてくれた。

 

 ああ、何だか脱線してしまったようだ。結局、何が言いたいかというと、セレブリティな一面を持つ我が家として避けて通れないものがある。

 

 パーティーだ。

 

 パーティーと一口に言っても、婚約披露もあれば、企業創立何十年記念ってやつもあるし、季節折々の定例的なものもある。

 金持ちの道楽と馬鹿にすることなかれ。一見時間と金の浪費にしか見えないかもしれないが、社交の場である。人と新たなコネクションを結ぶもよし、下世話な味付けをされた噂の中から有益な情報を拾うもよし。

 

 実際、企業同士の契約の3割程度はこういった場で成立する。子女の将来の相手を見付ける手段としては更に有用だ。

 

『ミルキ様』

 

 右耳に仕込まされたイヤホンから、聞き慣れた執事の声を拾う。一見して耳の縁を覆うタイプの耳環(みみかざり)にしか見えない。

 

「何? ゴトー」

 

『先程から、飲食物を咀嚼する音しか聞こえませんが』

 

「うん、このテリーヌはなかなかだよね」

 

『ミルキ様』

 

「…………」

 

『お仕事ですよ』

 

「うん……分かってるよ」

 

『それから“絶”はお止め下さい』

 

 ゴトーの言葉にきゅっと唇を噛む。

 

「……でもさ、オーラ垂れ流した途端、ナンパが酷い。煩わしい」

 

『ミルキ様』

 

「……分かった」

 

 ミルキは小さく溜め息をつくと、敏腕執事の意に従った。“絶”を解き、アオザイ風のドレスの裾を整える。そう、ドレスだ。大事な所だからもう一度言う。

 ドレスだ。

 

 ミルキ・ゾルディック。

 暗殺一家ゾルディック家、長女。16歳。

 転生者。

 

 これが偽らざる今のミルキのスペックだった。

 

 

 

――――――

 

 

 

『赤子の時から継続した記憶がある』

『赤子らしくない振る舞いに周囲の大人が訝しむ』

 

 転生ものの小説によくある設定だが――そんなことは不可能だ。事実、私がそうだった。赤子ってのは、より動物的な存在なんだろう。生存本能全開で、乳を吸い、排泄し、泣き、眠る。そこに『我思う』といった自我の芽生えが介在する余地などない。そもそも、大脳新皮質が未発達なのだ。頭の中は、革命的なシナプスの構築作業に忙しい。

 

 少し昔の話をしたいと思う。

 

 所謂、物心が付く頃合いというものだろう。私は間もなく4歳になろうとしていた。

 

 ――あれ? 私って、あのミルキだよね?

 

 その頃ハマっていたルービックキューブを回す手をぴたりと止め、愕然とする。少し前から感じていた小さな違和感に、答えを突きつけられた瞬間だった。

 まるで稲妻のように脳内を電気信号が駆け巡り、唐突に理解する。あらゆる事がすとんと腑に落ちた。理解した途端、震えが走る。

 

「ミルキ?」

 

 こてんと小首を傾げるのは、5歳離れた兄だ。そう、あのイルミ・ゾルディック。

 

「兄さま……」

 

「何? 抱っこ?」

 

 こくんと頷くと、ひょいと抱き上げられる。ふわりとゴシック調のドレスが広がった。例えようのない不安感から、イルミの首にぎゅっとしがみつく。よしよしと背を撫でる手が優しくて、ミルキは詰めていた息を吐いた。

 

 イルミは優しい兄だ。

 無表情ではあるし、既に暗殺業を手伝っているが、家族を害することはない。むしろ、歳の離れたミルキの面倒をよく見ていた。子守りをしたことがある人なら分かると思うが、子守りは精神力と体力がガリガリと削られる……兎に角大変な重労働だ。

 当時、およそ9歳の子どもとは思えない辛抱強さでイルミはミルキの相手をしてくれていた。

 

 この面倒見の良さに歪んだベクトルが加味されるようになるのは、キルアが生まれてからという事になるが、そちらについては機会があればまた語りたいと思う。

 

 兎も角、自分に前世の記憶らしい物があり、現在生きている世界がかつての出版物の世界に酷似しているという事実は、4歳の子どもにとってはかなり衝撃的だった。実際、この日を境に3日ほど塞ぎこんだし、浮上して後も私は何かと物思いに耽るようになった。

 周囲は私を「そのような癖のある子ども」と認識してくれ、私が返事もせず黙りこくっている時は放っておいてくれた。

 

 私を度々悩ませた問題。

 それは、果たしてこの世界で自分にはどれ程の自由があるのか、ということだった。

 ゾルディック家に生まれた時点で自由もへったくれもないのは分かっているが、思考を放棄する事が出来なかった。多分、このミルキ・ゾルディックという身体の知能指数が高かったせいかもしれない。

 『HUNTER×HUNTER』に酷似している世界の、限りなくゾルディック家の次男に酷似した立場の私。そう、「酷似」であって「同じ」ではない。これが非常に恐ろしかった。

 

 間違いなく男だった原作のミルキ・ゾルディックが、 女であり、転生者である事実。

 原作との解離はこれだけ? それともまだある? この違いは未来にどれほどの影響を与える? それとも与えない? ――影響があるとして、修正力は働くのか? 私自身の選択の余地は? 転生していることを他者に話すことで何らかのペナルティは生じるか? 生じるとしてそれは何?

 

 思考は続く、思考は拡がる。思考は、組み立てられる――多面的に、並列的に。実証し得るもの、実証し得ないこと。ひとつの思考が枝葉を作り、成長しあるいは枝葉ごと枯れ落ちる。

 

 そして、私はこの世界での在り方を模索し続ける事になる。

 

 

 

――――――

 

 

 

「大体、結婚相手見つけて来いって、これ無理ゲーでしょ」

 

 ひとりごちて、ミルキは煌びやかなパーティー会場を見回した。

 

 パドキア共和国の名士の子女の集まり――所謂社交界デビューというやつだ。下は14歳から上は20歳までの若い男女が御披露目される。誰も彼もオーラは垂れ流し、能力の欠片さえ感じない。当たり前だ。彼ら彼女らはハイソサイエティではあるが、ごく普通の一般人に過ぎないのだから。

 たまに見掛ける能力者は明らかに会場のSPで、やっぱり念能力者っていうものは、そこら辺にごろごろ落ちているものじゃない。

 

 今回の社交界デビューにあたり、父シルバとの会話を思い出す。

 

 

 

「お前、やっぱりうちの仕事は嫌か」

 

 父の言葉に、胸がツキンと痛む。仕事帰りだろう父は、衣服こそ汚れてなかったが僅かな血臭を纏っていた。

 

「父さま達が嫌なわけじゃないよ」

 

 少しぶっきらぼうな物言いになってしまったが、シルバは気にした風もなく頷く。

 

「それは分かっている」

 

 腕組みして、暫く何か思案している様子だったが、にやりと口角を上げた。思わず一歩後退(あとずさ)る。あ、これは碌なことじゃないな、とミルキは経験則から学んでいた。

 

「殺しが無理なら、お前にはいつか家を出て貰わねばならん。これは以前話したな」

 

「はい」

 

「じゃあ、家を出るのにどんな形がある?」

 

「……父さま?」

 

 以前、この話をした時に、ミルキの希望は伝えてある。ゾルディック姓を捨てること、ハッキング技能を生かしてゾルディック専用の情報屋になること。やっていることは、今と何らかわりないのが少々情けないが、お互いのリスクを考慮すれば最良だと思っている。

 

「どんな形があるかと聞いている」

 

「……独立と……結婚……」

 

 まさかという思いで口にする。猛禽類を思わせる父の目がすう、と細くなった。

 

「そうだな。独立にも色々あるが、俺は持ち株会社のひとつをミルキに任せるのも有りだと思っていた――そう、嫌な顔をするな。あとは……多分お前は意識的に除外していたんだろうが、一番穏便なのが結婚だ。ゾルディックの歴史の中でも前例は多々ある」

 

「父さま、私結婚なんて……まだ、16歳だよ?」

 

 それより、21歳のイルミを忘れてないか、とは言える雰囲気ではない。

 

「そうか? 俺とキキョウが出会ったのはキキョウが16の頃で、18にはイルミを産んでいたぞ」

 

 わあ、こんな身近に前例が。はらはらしながら父の次の言葉を待つ。

 

「ふむ……。もうすぐ、お前の社交界デビューだったな。いい機会だから、結婚相手でも見つけて来い」

 

「はあっ?!」

 

「名家の子女が集まるんだ。結婚相手は経済力があるに越したことはない。出来れば念能力者にしとけよ」

 

「ちょっ……!」

 

「ん? 里帰りに旦那を実家に連れて帰れないと困るだろう? 最低でもうちの門が開けられる位だな」

 

 嫌だ! 無理だ! 絶対に!

 

「父さま、無理だよ!」

 

「仕事だ、ミルキ。頑張れよ」

 

 太く笑んで去っていくシルバを呆然と見送る。

 

 こうして、私の社交界デビュー兼パートナー探しは仕事として決定された。ゾルディック家の一員として、家長の決定は絶対だ。ゴトーというお目付け役(監視員)までつけられた。因みに、エスコート役はイルミ兄さまだが、「俺の仕事はここまで。ミルキに張り付いてても意味ないでしょ?」と、さっさと離れて行ってしまった。

 

 そりゃ、いきなり見合いをしろとか、選択の余地なく婚約者を連れて来られるなんてのも困るが、自力で探して来いというのは随分乱暴な話じゃなかろうか。仕事柄、引きこもり体質の私にとってはハードルが高過ぎる。

 

 

「ああら、珍しい人がいるわね。もうお帰りかと思っていたわ」

 

 聞き覚えのある声が掛けられる。

 

 ああ、そうそう。絶を解くと、こういう事態も予想されるんだった。面倒臭いなあ、とちらりとその人物を見遣る。

 

「ごきげんよう、ナタリア嬢」

 

 取り巻き――全て男だが――を引き連れ、大胆なカットのドレスに身を包んだ派手な娘は、ミルキの挨拶にふんと鼻を鳴らす。頭の動きに合わせて結い上げた見事な銀髪が揺れた。

 

「あんたなんてどうでも良いのよ。ねぇ、イルミ様は何処かしら?」

 

 わあ、相変わらず。どうでもいいなら放っておけばいいだろうに。

 毎度のことながら苦笑しか浮かばない。ナタリア・ブランチェスカ。病院経営の一族の娘で、ゾルディック家の遠縁にあたる。身内であり、同い年でもあるため、内々の集まりでは偶に顔を合わせる程度の知り合いだが――御覧の通り、私に対する態度が随分と粗い。

 

 親戚達がゾルディック家に取る態度として多いのは、畏怖交じりの敬意だ。暗殺を生業とし、自分達の経営する事業の大株主でもあるゾルディックに対しては妥当な所だろう。

 しかし、このナタリアという娘は、小さい頃からミルキにだけ敵意剥き出しだった。そこに、馬鹿にした態度が追加されるようになったのは、明らかにあの事件からだろう。あの事が親戚連中にどう伝わっているのか知らないが、ナタリアは独自の解釈をしたようだ。すなわち『ミルキ・ゾルディックは自分より下位の人間だ』と。

 

「ねぇ、ナタリア。此方のレディと友達かい? 紹介してよ」

 

 取り巻きの一人が口を開く。皆一様に見てくれだけはそこそこ整っているが、へらへらとした態度は、初対面の相手に対するものじゃない。ああ、もうこれからの展開が分かりやす過ぎて溜め息しか出ないよ。

 ナタリアは、さも心外そうに唇を尖らせた。

 

「まさか。友達なんかじゃないわ。親同士がちょっと知り合いなだけよ」

 

「へえー、そうなんだ。……だったら良いよね? 僕、今夜はこの娘にしようかなー」

 

 先程の男とは別の男が軽口を叩き、周囲から下卑た笑いが起こった。ミルキは僅かに眉をひそめる。舐め回すような男達の視線が不快で、手にした扇をパラリと開く。

 

「あら、私は別に止めないけど――いいのかしら? この子、これでもゾルディックなのよ?」

 

 その瞬間、明らかに取り巻き連中の態度が変わる。

 しん、と静まりかえり慌てたように数歩後退った。顔面蒼白になる者、好奇の目を向ける者――予想していた展開だ。

 ほほほ、とナタリアの笑いが響く。

 

「怖がらなくて大丈夫よ。この子は、ゾルディックのみそっかすなんだから。私達に指一本手出し出来ないわ。ねぇ、そうでしょうミルキ」

 

 ナタリアの赤い唇が弧を描く。こんなにあからさまで分かりやすい敵意を向けられると、なんかもう見事というか、逆に怒りも湧いて来ない。

 

「兄さまに会いたいなら、あちらへどうぞ。少なくとも此方側じゃない。それでは皆さまご機嫌よう」

 

 パチリと扇を閉じて一礼する。

 

「ちょっと……ちょっと待ちなさいよ!」

 

 腕に掴み掛かろうとするナタリアをスイとかわす。確かに私はゾルディック家のみそっかすには違いないが、素人の動きをかわせないほどカスでもない。たたらを踏んでバランスを崩したナタリアの胸元に閉じた扇を当てて、支える。

 見ると、取り巻きどもはどいつもこいつも呆けた顔でポカンと口を開けていた。

 

「ナタリア嬢は、お酒が過ぎたようですね。介抱して差し上げて」

 

 淡々と言うと、支えられたナタリアの顔に朱が登る。

 

「な、何よっ! 落ちこぼれの癖に、なんであんたなんかがゾルディックなのよ!」

 

 えぇー、そんなこと言われても。何で私がゾルディックなのかなんて、こっちが聞きたいくらいだ。自嘲気味の笑いは、果たしてナタリアには真っ直ぐ受け止められなかったらしい。たわわな胸までわなわなと揺らしながら、凶悪な目付きで睨みつける。

 

「小馬鹿にしてっ! あんたっていっつもそうよね。何であんたがイルミ様の妹なのよ! イルミ様には私みたいな華やかな人間こそ相応しいのよ!」

 

 おいおい……。もう、大興奮過ぎて自分でも何言ってるのか分かんないんだろうなー。突っ込み所が有りすぎて、もう、ね?

 え? 何? ナタリアさんてば、ゾルディックに生まれたかったの? それともイルミと結婚したいの? 色々はしょりすぎて、まるで私と兄さまが禁断の愛を育んでいるように聞こえるんですけど。言葉は正しく選ぼうよ。

 

 主にナタリアの声が大きいせいで、先程からちらちらと周囲から注目され始めていた。この状況は好ましくない。第一、イヤホンの向こう側にいるゴトーの精神状態を思うとさっさと終わらせるべきだ。忠義厚い我が家の執事殿は、ゾルディック家への誹謗を許せない。今頃青筋立てて怒りに震えている事だろう。

 

「ナタリア」

 

 少しだけ殺気を込めてナタリアの耳許に話しかける。具体的には、僅かに“練”をした状態だ。精孔でも開いたら面倒だから、ほんの少しだけ。それでも一般人には威圧感で苦しく感じるかもしれない。

 

「私も貴女もここでは家を背負っている。ここは、いつもの内々の集まりではないのよ。ブランチェスカの名に泥を塗る気がないならもうおよしなさい」

 

 ナタリアは、冷や汗を流してこくこくと頷く。急に体調が悪くなった理由が解らず混乱しているようだった。それとも、ゾルディック家お得意の毒でも仕込まれたとでも思っているのかもしれない。ナタリアが了承した所で練は直ぐに解いた。

 ふらふらとした足取りで、それでも取り巻き達に支えられながら立ち去ろうとするナタリア。ミルキはやれやれと息をついた。

 

 が、状況はこの後激変する。大変、悪い意味で。

 

 

「あれー? ナタリア、どうしたの?」

 

 暢気な声がミルキのすぐ後ろから聞こえた。ミルキは硬直する。直前まで全く気配を感じなかったのだ。

 ミルキを追い越し際、男はちらりと視線を寄越し、 黒い瞳を一瞬すがめた。男にしては大振りの蒼いピアスに既視感を覚える。スーツにはややそぐわない額のバンダナ、黒い髪。一連の動きをスローモーションのように見送る。

 

 ――こいつ、強い……。

 

 心臓が早鐘を打ち始め、冷や汗が背中を伝う。

 淀みない綺麗な“纏”をしていた。能力者であることを隠すつもりはないらしい。多分、隠す意味がないからだろう。

 

「クロロ! もう、何処に行っていたのよ」

 

 ナタリアの言葉に、後頭部を強打されたかのような衝撃が走る。ああ、最悪だ……。

 そうではないかと思っていたが、事実を突きつけられて精神力が一気に削りとられた。

 蜘蛛ー幻影旅団ーしかも団長のクロロ・ルシルフル。

 ナタリアの甘えたような声が遠ざかる中、ミルキは耳環(みみかざり)に常備してある緊急事態用のスイッチを作動させ、声を殺して囁いた。

 

「ゴトー、不味いことになった」

 

『……ミルキ様?』

 

 自然と声が震える。

 それほどに蜘蛛の頭は規格外だった。なんだあれは。人外過ぎる。化け物だ。勿論、家にも化け物クラスの念能力者はいるが、あくまで家族だ。命の危険を伴うようなものじゃない。

 

「すぐに帰る。車に私のPCを用意してて。兄さまにも直ぐに知らせて」

 

 イルミは、クロロと対峙しても切り抜けるとは思うが、もしも蜘蛛と複数対峙すれば? いや、寧ろその恐れこそ考慮すべきだ。まさかプライベートでクロロ・ルシルフルがここに? それこそまさかだ。本気にしろ、遊びにしろプライベートでナタリアに近づいたとは考えられない。何かしら目的がある筈だ。

 目的――奴は盗賊だ。何かを盗む為なのは明白。盗む対象がここにあるのか、それとも情報の収集か。――何にしろ、ここは危険だ。離れないと。

 

『ミルキ様、車を裏口にご用意いたしました』

 

「分かった。三十秒で戻る。兄さまは?」

 

『……すぐに合流なさるそうです』

 

「了解」

 

 今更だとは思うが、“絶”をするのは逆効果だ。いきなりまた気配が消えれば、余計な警戒心を抱かれるかもしれない。オーラを垂れ流した状態で、裏口へと急ぐ。私が気を回し過ぎだろうか。だが実際、ニアミスして分かった。彼は――彼ら蜘蛛は、私程度の雑魚、歯牙にもかけないだろう。というのならこんなありがたいこともない。しかし、こちらは弱者だ。強者のお目こぼしを期待していては生き残れない。

 

 

「お嬢さま、こちらは裏口になります。警護の関係上出入りを正面に限定しておりますが」

 

 コの字形の廊下の手前だった。ここを突き抜ければ裏口というところ。数人のSPに制止をかけられた。困り顔のSPに、ミルキは扇で口許を押さえる。

 

「ごめんなさい、少し気分が悪いもので早く帰りたいの。こんなに早く正面から帰ってしまうと外聞が悪くて……。家の者にもこちらに車を用意して貰っているわ」

 

 やっぱり、“絶”で来た方が良かっただろうか。内心で舌打ちする。

 

「そういうご事情なら……しかし、エスコートの方は? ご気分が優れないのにお一人……ですか?」

 

「……エスコートは兄なの。妹を置いてきぼりにして……薄情でしょう? どなたか兄のかわりに車までエスコートして下さると嬉しいのですが」

 

 出来るだけ儚げに見えるように微笑む。

 SPの一人が手を差し出し、その手を取ろうとした所で横から腰を抱かれた。

 

 え?

 

「警護の方々、すみません。その薄情な兄です」

 

 兄さまとは似ても似つかない柔らかな声音が頭上で聞こえる。今、ミルキが一番会いたくない男――クロロ・ルシルフルだった。

 

「ああ、随分顔色が悪い。ごめんね、一人にして…あれ? 震えてる? ……すみません、早く妹を休ませてやりたいので……」

 

 何の疑いもなく、道は開けられる。それどころか、「良かったですね」などと言われてしまう。お前ら全員SP失格だ!

 

「歩いて」

 

 耳許で低く囁かれ、ミルキはただ頷いた。

 

 

 

「どうして嘘なんてつくの」

 

 廊下を歩きながら、口火を切ったのはミルキだった。自分でも意外だったが、今日死ぬのかもしれないなと思うと、疑問を解消したい衝動を抑えられなかったのだ。好奇心は猫をも殺す、とはこのことなのかもしれない。

やけっぱち、とも言う。

 

「君こそ嘘をついてるよね? ――体調が悪いようには見えなかったなあ」

 

 いやいやいや……ただ今体調絶不調ですが。主に貴方のせいで。このだらだら流れている汗が見えていないんだろうか?

 コの字形の廊下の角を曲がる。裏口が見えた。ああ、あそこから出たい。

 淀みなく進んでいたクロロの足が止まる。

 

「なぜ逃げた?」

 

 口調が変わる。爽やかな好青年然とした柔らかさが削げ落ちて、冷徹な蜘蛛の頭が顔を見せた。なるほど、こういう感じなのか。これは――正直めちゃくちゃ怖い。

 

「……私も少しは念が使える。会場のSP以外で貴方のような得体の知れない念の使い手が居れば当然警戒する」

 

「なるほど、判を押したような模範的な回答だな」

 

「しかも、私はナタリアから嫌われている。制裁があるかもしれない」

 

「制裁、ね。例えばこんな風にか?」

 

 反応できない速度で足を払われる。そのまま口を片手で塞がれて、廊下の壁に後頭部を押し付けられた。

 

「ぐっ……」

 

 もう片方の腕で、首元を締め上げられる。

 

「心配するな。少し聞きたい事があるだけだ」

 

 クロロはそう言うと、塞いでいた手を離し、首を絞めていた腕を緩める。間髪入れず、右手首から滑らせたミルキのナイフを叩き落とした。そのまま手首は拘束される。

 

「ははっ……とんだじゃじゃ馬だな」

 

 目が全然笑っていない。ぞっとして体の力を抜く。抵抗するだけ馬鹿を見そうだ。

 

「年は?」

 

「えっ……」

 

「いくつだ」

 

「16……」

 

「……若すぎるな」

 

 ――何だ、こいつ。

 

 危機的状況にそぐわない感想が生まれる。クロロ・ルシルフルという男は、天才特有の紙一重なんだろうか。ああ、そう言えば、原作でもキルアがこの男の言動にヒキ気味だった場面があった。確か「動機の言語化は好きじゃない」のくだりだったか。

 大体若すぎるって、どういう意味だ。私の見た目と年齢は、そこまで解離していない。「若すぎる」とは、見た目とのギャップに対する感想ではないだろう。じゃあ何だ? 恋愛対象の守備範囲的な意味合いじゃないことは雰囲気から察せられる。

 

「名前は?」

 

「……は?」

 

「お前の、名前だ」

 

 言い含めるような物言いが意外にも真剣で、ミルキは更に混乱する。何だ、これは。

 

「……ミルキ」

 

 呟いた瞬間、男は息をつく。

 目的は分からないが、ミルキの応えが男の望んだ……いや、期待したものではなかったのだろう。失望したような、自嘲気味の笑いが男の口から漏れた。

 

「そんなわけないか…」

 

 クロロの独白。説明する気は一切ないらしい。

 

「お前、母親はいるか?」

 

 ふと思いついたように口にした言葉にミルキは完全に呆けた。

 

「え? いる……います……が……。えっ?」

 

「年は?」

 

「……はあ? はあっ??」

 

「何度も言わせる気か」

 

「40……だけど……」

 

 見た目は十分まだ30代前半のキキョウだが、最近40の大台に乗って、荒れていたことを思い出す。

 

「年増すぎる」

 

 なんじゃそりゃ。

 もう、ダメだ。理解できない。本当に、何しに来たの? この男。もうあれかな? クロロさんの守備範囲は20代と30代でしたってことで理解していた方が幸せなのかな。

 黒の双眸とガチ、と視線が合う。慌てて、ミルキは口を開いた。

 

「姉はいない」

 

 兄はいるけど。

 暫く見詰め合って、クロロがふっ……と笑う。

 

「何か盛大に勘違いしてるようだが……まあ、いい」

 

 拘束していた手首が離された。

 

「行け」

 

 短い言葉に、反射的に出口へと後退する。これって、助かるってこと? 見逃して貰える? 兎に角、気が変わらないうちに早く逃げよう。

 後手でドアのノブを掴んだところで、「待て」と声が掛かった。

 まだ、何か。もう、勘弁してほしい。

 

「母親の出身地は?」

 

 嘘は、見破られるんだろうな、と本能で分かる。嘘を言ったら命はないな、と。だから正直に答えた。

 

「……流星街」

 

 言い捨てて、ドアからするりと逃げる。目の端でクロロが口角を上げて笑っているのが分かった。

 


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