真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第九十三話 荊州攻略戦決着

 濡れ手で粟のような話であるが、李岳は水軍を入手した。江夏からやってきた黄忠、文聘はその移動手段に当然のように軍船を用いていた。朝陽の戦いに際し、樊城から下流十里に位置する小さな漁村に軍船二万人分を逗留させたままだったという。黄忠が云うところ、朝陽の戦いで不利になれば樊城に撤退する予定だった。軍船はもしもの時に江夏へ撤退するためにそのままにしてあった、と。

 蔡瑁、張允という都督を失った荊州水軍は正面対決に挑む程の気概はもう持ち得なかった。李岳は樊城を大胆にも無視し、自身も楼船に乗り込み襄陽を目指し南下した。快速の蒙衝(もうしょう)船は漢水を下り襄陽から脱出したと見られる一団を追わせる。

 元の軍勢約三万に、帰るところを失った江夏の残存一万余りを丸々接収した李岳軍陸水部隊に劉表は頑なな籠城を選択する他なかったが、さりとて漢水を挟んで樊城をも備える襄陽城は未だに堅固。正攻法では未だ厳しい出血が予想された。

 李岳が襄陽の劉表に交渉を持ちかけたのはそのような折りであった。

 襄陽の府、宮城に立てこもったさしもの劉表も、大陸最強の陸軍と、勝手知ったる荊州水軍に完全に包囲されたとあっては、李岳が寄越した和平交渉の卓に着座することに否やはなかった。

 

 ――包囲軍は高順、黄忠、文聘、霍峻を残し、呂布、張遼、徐庶、そして十余名の護衛を引き連れ李岳は治府に臨んだ。

 

 正面、玉座に座るは巨魁・劉表。

 豪族を従え荊州を伐り獲りおよそ十年。学府を揃え街を整え、長江流域に百都市あれど、そのうち最も見事な都市造営を行ったとして襄陽は全土に名を馳せた。その稀代の大都市に作り上げた野心家こそがこの男である。

 今や敗戦濃厚な籠城の将とはいえ、その威容は未だいささかも失われてはいないが、表情にははっきりと憔悴の色が浮かんでいた。

「劉表である」

「李岳です」

 目が合う。李岳が微笑んだままでいるので、劉表はわずかに落ち着かないようだ。

「……まさか二月とかからずにここまで押し迫られるとは思わなかった。侮ったのであろうな」

「戦は時の運とも申します。荊州兵はよく戦いました。弱卒などではなかった」

「そう言ってもらえるとありがたいが、勝負はまだこれからと言ったところだ。結論は早い」

 鷹揚な態度であるが、単なる苦し紛れとまでは言えない。しかし追い詰められているのも事実。劉表が期待した長安に駐留している劉焉軍の動きも鈍く、孤立無援であることは否めないであろう。

「……和平交渉だと伺っている」

「そうですね」

「正直に申す。言葉の意味を捉えかねている」

 でしょうね、と李岳は繰り返し頷いた。

「降伏勧告ではなく和平交渉、その意味はなにか? といったところですか」

「隠しはせぬ」

 その時、立ち控えていた幕僚から怒声が響いた。

「我らは決して屈さぬ! 侮辱ならやめていただこう!」

「やめよ、蒯越」

 李岳は目を細めた。蒯越といえば荊州の中でも隆盛を誇る大家である。劉表に最も貢献した一族でもあった。

「殿! 我ら自らの命なぞ惜しくなどありませぬ! この者は殿が無様な命乞いをすると思いそれを待っているのです! そのような真似は必要ありませぬ、今ここで我ら諸共討ち死にしたとて悔いはなく」

「控えろ」

 李岳が言うと、呂布が方天画戟の柄でドンと床を叩いた。ミシリ、と石畳に穴が空いている。

「命を捨てるのならば勝手にしてください。だが貴方は官吏でしょう。その職務は天下泰平のために君子を導き民を富ますことではないのですか。増上慢もそこまでにしてもらいましょうか」

「ぞ、増上慢だと」

「ええ、全く自分勝手です。蒯異度殿……こちらに来て頂けますか?」

 蒯越は顔を紅潮させ、李岳の元に進み出た。

 荊州の豪族の内でも大派閥を形勢する蒯家。劉表による荊州制圧において最も功績を積んだ辣腕の者である。さすがに劣勢の憂鬱など毛ほども見せず、呂布の威圧にも屈せず、さあ殺すなら殺してみろとばかりに傲然と李岳の前に立った。

 とうとうここで血が流れるか……議場には憂鬱と絶望と悲哀がないまぜになったが、李岳が懐から取り出したのは一巻の巻物であった。立ち上がり、それを蒯越に渡す。

「読み上げられよ」

 訝しげな表情を見せた蒯越であったが、その装丁の見事さに驚き、さらに開いて目を丸くした。朕より始まる一文! 紛うことなき勅書である。

「……これを、読めと」

「私はこれをお聞かせするために来たようなものです」

 困り果てた顔の蒯越は、助けを求めるように劉表を見た。劉表は静かに頷き、それを待って蒯越は書を朗読した。

「朕、暁を覚えず、夕を見ず――」

 

『朕は近頃朝日も夕暮れも見ておりません。それは物憂い気持ちで床から上がれず、また夕日の眩しさがあまりに胸を痛めるからです。

 母である、偉大な先帝が身罷られ一年、喪に服すことさえなく朕は鬼哭さえままなりません。それというのも、朕が天子の身でありながら天下の動乱を治めることが出来ずにいるからです。

 朕が信任した董卓はよく働きましたが、それを不服として諸侯は妹の劉協を戴き、兵を挙げ洛陽を目指しました。戦は半年を数え、民の苦しみはいかばかりであったでしょうか。

 兵は退けましたが、次いで劉焉、劉虞の二人が皇帝を名乗り、やはり心安まることはありませんでした。皇室に名を連ねるお二人は言わば叔父、叔母でありますが、帝位を欲して僭称するとは思いもしませんでした。それもまた朕の不徳と物憂く思います。

 朕は平和と太平を望みますが、そのために身を粉にする臣下の労苦に報いることさえ出来ずにおります。先祖を思い恥を知り、民を思い涙する日々です。

 臣下の皆はどうか勇知を捧げ、万事遂げて頂きたく思います。朕もまた毎日欠かすことなく瑞兆を願い蒼天に祈りを捧げます』

 

 蒯越はとうとうこの勅書を最後まで読み上げることが出来なかった。その場に崩折れ落涙し、嗚咽は決して言葉とならなかったからである。途中からは李岳自身が読み上げた。居並ぶ幕僚たちもまた滂沱の涙。未だ二十に到底満たぬ幼い帝の不憫な想いは、一度は漢の天下に忠誠を誓った臣たちの心を強く揺さぶった。

「おいたわしいとは思いませぬか、皆様方」

 李岳はしかし劉表にのみ視線を注いでいた。劉表は流石に頑として表情に乱れはなかった。

「李岳殿。我もまた漢の臣。陛下の御心を慮れば深甚の至り。ゆえにこそ、李岳殿が兵をこちらに向け、今まさに武力で襄陽を包囲したことに大いに疑問に思う」

「と、申しますと?」

「荊州は未だかつて陛下に矛を向けたことはありませんぞ」

 幕僚の顔を見回すと、どうも劉表の言い分を鵜呑みにしている者もいるようであった。李岳は思う。劉表と幕僚との間を切り裂くことが、おそらく肝要となるだろう。

「ご冗談を。牧は洛陽目掛けて兵を向けたではありませんか」

「あれは陛下の身を案じての措置。交戦に至ったのも不運な誤解の結果であると考える」

「全ては行き違いであった、と?」

「左様」

 ふむ、と頷き李岳は勅書を丸めて戻した。それを掲げながら言う。

「この勅書は、董丞相が賜り、私に預けられました。丞相府では偽帝二名を倒さねばならぬと結論に至っております。が、同時にその即位を助けた者もまた朝敵であるとしました……荊州殿の名前も挙がっております」

「不本意極まる」

「つまり、申し開きがあるということですな」

 劉表は頷きながら流石に怪訝な表情を見せた。

 李岳は今一度袖から新たな書を取り出した。それは襄陽を前にした幕舎の中で、徐庶とともに作成した劉表への通告書であった。

「和平の条件を申し渡す。荊州殿は直ちに兵を解き門を開かれよ。そして印璽を差し出し洛陽へ出向して頂く。そして陛下の門前で逆賊ではないと正しくご説明頂こう。縛にはつけぬ、御車にてお送りしましょう。また幕僚の皆様方に置かれましても兵権を私の預かりとさせていただき、十日の謹慎を命じる」

 どよめきが議場を覆った。処置としては不可解なまでに寛大極まる、という様子である。誰も明確な処分はせず、劉表にさえ釈明の機会を与えるというものだ。

 劉表もまた疑念を露わに問う。

「……荊州の施政に穴を開けるわけにはいかぬが」

「拒めば翻意ありとして連行せざるを得ませんな。これは勅命に従っての判断です。抵抗されるようならこちらも考えねばなりません……考える余地はないと思いますが」

「だが、情勢は一挙に不安になったのだ、河南尹殿によってな。江夏も奪われた。さらに兵権を留め置かれ、主もいないとなれば賊の思う通りになるではないか」

「我が軍が逗留します。問題はありますまい。元いた兵より強いのです、治安はむしろ落ち着く」

「……和平交渉だと伺った、これでは交渉の余地などないではないのかな」

「寛大な処置でしょうが」

 嫌ならば! と李岳は改めて告げた。

「総力を上げてここを攻め落とすことになります……勅書を朗読までしました、これを拒めば朝敵であると断じて徹底的にやらせて頂きます。降伏は受け付けませぬし縛に付いたとて翻意を問うことはありません。ここに居並ぶ幕僚の方々、皆一族の権威ある方々でしょうが、その親族まで咎が及ぶは明白」

「その程度の脅しは聞かんぞ。樊城には未だ我が水軍は健在。襄陽とてまともに攻め寄せれば二ヶ月は持つ。江陵からの援軍が届けば貴殿とてただでは済まぬ」

「全てを賭けて戦いますか」

「偽帝劉焉。その長安に居留する軍団が洛陽へ矛を向けんと蠢いているのは承知の通り。我々がここで相争っている間に彼奴めが洛陽目掛けて走りだすは必定。貴殿は誤ったのだ。憶測の果てにこの荊州を攻めるのではなく、まず長安の賊を討つべきであった。陛下に忠誠を誓っている臣と内乱をしている場合ではないぞ」

 あれほど気圧されていた劉表の家臣団も、主の堂々たる言に自信を取り戻したのか、力強く頷く者ばかりとなった。

 劉表はまるで幼子を諭すように続けた。

「矛を収めて洛陽に戻られよ。そなたが任じられている河南の領地にな。今なら我らも追撃はせぬ。それこそがこの劉表が提示する和平案である」

 なるほど、と李岳はとうとうここで笑った。

 こうものらりくらりと責任の所在を不明にして、天下を乱していたのかと。

 唾棄すべきである。嫌悪も相まり李岳の哄笑はひとしきり続いた。側に控える徐庶が不安げに張遼と目配せをする始末。存外に短気のある飛将軍が、極端な決断を選択するのではないかと不安になったのだ。

 しかし李岳は未だ冷静であった。劉表にとっても最も残酷な提案をしなくてはならなくなったのが、おかしくて仕方なかっただけである。

「……何がそうも笑えるのか」

「いえね、どちらの言い分が正しいのか、それで悩んだのです」

「どちらの、だと?」

「ええ。およそ真逆の証言を先日耳にしたものですから」

 李岳は微笑みを絶やさぬまま劉表に告げた。

「つい三日前になりますか……襄陽から不審な舟が出港したと連絡を受けたのでこれを昨夜捕縛しました。なんと乗船されていたのは劉表殿の正室である蔡夫人、そしてご嫡男の劉琮殿でした」

 

 ――この時初めて、劉表は表情を歪めて立ち上がった。

 

「この劉表を、家族を盾に脅すか!」

「嘘ではありませんよ? 蔡瑁都督が直接確認されたので間違いありません」

「貴様! 二人を何とした!」

 震える程の怒りであるが、李岳の笑みを絶やすにはいささか弱かった。

「脱出を試みたのは和平交渉を提案する前です。攻囲される前に脱出しようとするのは敵性行動と判断してもおかしくはありますまい」

「まさか」

 李岳は笑顔で首を振った。

「……もちろんご無事ですよ。こちらの聴取にも至極素直に応じておられます。樊城も襄陽も未だ定かならず、この交渉もどれほどかかるかわかりませぬから、長旅となりますが宛城の方に向かわれております。大丈夫、厳重な護衛がついております。この国最強の騎馬隊がね」

 李岳の言葉に嘘はない。嘘はないからこそ、劉表は青ざめ沈黙した。

「不憫なのは蔡夫人です。戦場の毒気に当てられたのか、ありもしないことをおっしゃる。北方からの手紙が都度飛んできてはよからぬことを書いていた、とかなんとか……曰く、劉焉と劉虞に協力すべし。曰く、洛陽陥落の後は劉表殿を正統の後継とする亡命政府を設立する。曰く、亡命政府においては蔡瑁殿を大将軍とし他の豪族の粛清を図る」

 一文ごとに座にいる幕僚のざわめきが大きくなっていった。亡命政府。粛清……それぞれの単語が何度も繰り返され、次第に劉表を問い詰めるように広がっていった。

「やめよ! そのような、世迷い言は!」

 流石に巨人劉表。怒号には十分な迫力が込められ、疑心暗鬼の幕僚たちとて再び表情を引き締めるほどであったが――しかし李岳は、不思議そうに首をかしげるばかり。

「ですから、ありもしないことをおっしゃっていると申したではありませんか」

「虚言を申すか、貴様!」

「虚言を述べているのは奥方ですよ。嫌ですねぇ」

「おのれ!」

 一段一段と階段を降りてくる劉表の目は血走っており、正気を失いつつあるようにさえ思えた。呂布と張遼が一歩前に出てきたが、李岳は退けた。

「戦地を脱出されたご婦人が、敵軍に捕捉され混乱しただけでしょう? 何をそんなに取り乱されますか」

「貴様のそのような策略には乗らぬぞ! 私は、私はこの荊州を作り替えた劉景升! そのような流言が通じると思うたか!」

「奥方曰く、劉琦殿を廃し、劉琮殿を皇太子として指名するのが劉表殿と奥方の共通の思いであった」

「やめよ!」

「帝位に即位すればそのドサクサに紛れて成す事が出来る。楚荊を中心とした王朝を支えるのは、もちろん蔡一族を中心とする」

「やめぬか、痴れ者が!」

「それには蒯一族が邪魔だった。最も強く皇室への敬意もあり、蔡一族の支配に強行に反発するのが目に見えていたから」

「この、貴様」

「――それを田疇から提案され、呑んだ。奥方様が差し出された、これがその書状です」

 懐から取り出した三枚目の書簡こそ、動かぬ証拠であった。

 我が子の将来を大事に思うた蔡夫人が、これが約束の書状だと、何があっても決して反故にさせぬためにと、夢を託してお守り代わりに肌身離さず持っていたものである。

 捕らえた劉琮の無事を約束する代わりに、李岳が取り上げたものであった。

 劉表はとうとうその場に膝をつき、うなだれた。李岳は劉表の家臣に書状を回覧させてから、劉表の肩に手をやり囁いた。

「荊州殿、この地の経営は心配召されるな。それよりもまず、洛陽で陛下にお詫びすべきです。臣下としては当然のことでしょう? 陛下にご不安をかけたこともまた罪ですが、流石に死罪とまではおっしゃらないはず。功績多大な『知の巨人』なのですから。荊州牧の地位は取り上げになるかもしれませんが、なに、私も取り成します。封号についてもご心配召されるな……全ては単なる、世迷い言だったのですから」

 

 ――劉表はその日にて李岳の申し出を受諾し、襄陽城は無血にて開城した。こうして荊州攻略戦は決着したのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 洛陽を出立して二ヶ月で李岳は荊州の鎮圧を成したが、その後さらに一月滞在した。荊州における政治体制の抜本的な改革が必要だったからである。

 まず荊州の長を牧ではなく軍権のない刺史に戻すとの勅令を、劉琦への任免とともに取り寄せた。軍権を各豪族主体のものへと戻したのである。

 蔡瑁、蒯越をそれぞれ第二軍団、第三軍団の長に据えて形成する。荊州の長はこれもまたこの地の名門豪族陳家の夫人の嫡子、劉琦。主力となる第一軍団は、最も精兵を集めるものとして文聘を軍団長に据えた。

 劉表の政策とは真逆に、蔡、蒯、陳の各豪族を縦割りにしてしまう。反目が発生し連携も損なうだろうが、それぞれは強固にまとまるだろう。本来は劉表はじめ多くの者を処断する予定だったが、江夏に陣取る孫家が弱体化した荊州を伐り獲りに動きかねなかった――そのための李岳の『妥協』であった。

 鉄槌で叩き潰すように一から始めるのではなく、行政の内側から荊州の政治を作り替えてしまおうという目論見である。時間はかかるが、情勢が変化した以上やむを得ない。ただ永家による監視体制も同時に構築し、謀反の動きあれば今度こそ徹底的に取り潰す態勢は即座に整えた。

 漢水が繋ぐ襄陽と江陵の南北線はまさに生命線とも言える。劉表を取り潰した以上、夷陵から上流の益州とは敵対状態になったと言って間違いない。さらに江夏の孫権が狙うのも江陵から以南の南荊であると予測される。今までの穏やかな学府だけではなく、精強な水軍を兼ね備えた港湾基地に作り変える必要があるのだ。

 そのためにも事務、謀略、土木に長けた司馬孚、司馬進、司馬敏と、司馬八達のうち三人を呼び寄せた。徐庶を通じて司馬徽に諮り、人材の積極的な活用を願い出た。豪族がいがみ合っている内に生え抜きを揃え、気付いた時には実権を奪い去っているというのが理想である。逆に洛陽へと向かって人材供給をすることにもなるだろう。

 そしてさらに新野、宛とそれぞれに視察を兼ねた逗留を経て、洛陽へ帰還を果たしたのは出撃から四ヶ月が経ってからだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 入城した李岳を盛大に迎え入れる洛陽の民たちは、これが我らの定期的な祝祭なのだとばかりに最早手慣れる有り様であった。例にも増して趣向を凝らした様々な作り物。今回は南で船団を得たということで船を模した巨大なハリボテまで飛び出した。どこから伝わったのか、呂布と黄忠の一騎討ちも既に伝わっているようで、巨大な人形の操り場を再現する者まで現れた。

 

 ――それら全てを程々の笑顔でやり過ごし、李岳は参内した。

 

「なんじゃ、もうちょっと催事を楽しんでくるかと思うたのに」

 皇帝はなぜか不満そうに李岳を見た。

「申し訳ありません。ですが一刻も早く陛下にご報告せねばと思いまして」

「そのように急がなくてもよいのに……」

「陛下、陛下の玉顔の御口元に付いているのは、もしや市井の出店で売っていた肉まんのタレでは……」

「はうううっ!?」

 あわわわ、と慌てて口元を拭いだした皇帝劉弁だが、はたとその動きを止めてワナワナと震え出した。

「り、李岳! どこにもタレなぞ付いておらぬではないか!? 貴様、朕をたばかったか!」

「最初に嘘をいったの陛下でしょ」

「うぬぬぬ! なんという不忠者じゃ……」

「お腹一杯召し上がれましたか?」

「この天子をからかうかあ! ええい李岳! 貴様に罰を与える!」

「ええええ……ちょっと勘弁してください。申し訳ありません。ごめんなさい」

「ならぬ。許さぬ。勘弁せぬ。罰として貴様は今日から前将軍じゃ」

 李岳はキョトンとしてしまったが、ポリポリと頬をかきながら微妙な返事を切り出した。

「あー、陛下」

「ならんぞ」

「ですが」

「許さぬ」

「どうしても?」

「勘弁せぬ」

 問答は終わりだ、と劉弁は、ん、とぞんざいな仕草で前将軍の任命を示す印璽を渡してきた。

 以前執金吾であった李岳が、流石にこれほどの軍功を上げて未だ河南尹の地位は低すぎるというのは理解できる。上が出世しなければ下も上がれないのだ。しかし個人の思いとしては、今となっては注目を浴びるだけであまりありがたいことではなかった。だが劉弁としてはどうしても表彰したい想いもあるのだろう。実務としては、軍政改革の骨子が未だ定まっていないので、自身の出世はその後に回したかったのだが、もう断れるような雰囲気ではなかった。

「……拝命いたします」

「これからも良く仕えるように」

「おめでとうございます」

 そう言って現れたのは劉協であった。いつもの可憐で、しかし慎ましい笑顔を浮かべながら、李岳に戦勝と出世の祝いの品だと瑠璃の玉を授けた。何気なく渡されたが、家一軒二軒の話しでは済まぬほどに途轍もない価値があるもので、やはり李岳は固辞しようとしたが、後ろに控える太史慈が有無を言わせぬ迫力であるから、李岳はもちろん笑顔で拝受した。

 その後、こっそり持ち込んでいた屋台出店の料理を取り出し、目を輝かせる二人の天上人と一緒に、他愛もない食事を楽しんだ。

 

 ――そして夕暮れを前に李岳は久しぶりの自宅へと戻った。

 

 洛陽の街は未だに祝勝の大騒ぎのまっただ中であったが、こういう騒ぎは大体の場合、途中から主役がいなくなった方が皆楽しいのである。李岳の在不在は関係なく、酒食に歌舞が入り乱れ、街を上げての大祭となっていた。

「ただいまーっと……おー、張々! 久しぶり」

 飛びかかってきた犬の張々、猫に馬、鳥たちに一度は舐められつつかれながら、李岳は懐かしの我が家の玄関をまたいだ。誰かいるだろうか。今日は見慣れた顔にはほとんど会うことはなかった。正式な参内は後日なので、董卓や賈駆ともその時になれば顔を合わすだろう。他の皆は仕事が山積しているのでまだ府内だろうか?

 帰ってきたのだ、という自覚が休息な安楽さを誘い、珍しく日のある内に寝てしまうか、と思ったその時だった。

「おかえりなさいませ」

「っうっお!」

 突然真横でささやかれた声に李岳は腰を抜かすほどに慌てた。司馬懿がえらく暗い目で李岳を見据えているのだ。

「い、いるならいるって言えよ! うわー、本当びっくりした。なに、伏兵ごっこ?」

 李岳のつまらない冗談に、司馬懿はなぜだかクスリと笑った。

「ふふふ、ごっこ……ごっこですか。ごっこならどれだけ良いでしょうね……いえ私は信じておりますが……しかし伏兵……確かにこれは伏兵、奇襲の類」

「え、なに。なんだ。なにかあったのか」

「そう。きっと何かあったのでしょう。今日はそれをとっくりとお聞かせ願いたく……さぁこちらへ」

 薄暗くなり始めた廊下を、異様な雰囲気の司馬懿に導かれながら、李岳は自宅だというのにおっかなびっくり進んだ。李岳の胸を恐怖が覆った。この先に進んではならぬと全身が訴えていたが、しかし時折首だけで振り返っては、李岳がそこにいるのを確かめ、にたぁと笑う司馬懿があまりに恐ろしく、李岳は黙って付いていくしかなかった。

「さあ、こちらへ……」

 連れてこられたのは多くの人が利用できる広間で、常は食堂である。ガラリと戸を開けると、そこには大勢の人がいた。董卓、賈駆、陳宮、徐庶、張遼、呂布、そして……

「あ、ようやくお越しになられましたわね」

「おかえりおとーさま!」

 黄忠と、璃々こと黄叙――

 李岳は天を仰いだ。

「さて一体どういうことか説明をしていただきたく」

「如月、待て、わかった。もうこの状態で大体どういう有り様になってるのか想像は付いた。しかし待て、違うんだ」

「ええわかっております。承知しております。違いますのでしょう、ええ違いますのでしょう……そこな奸智に長けた雌狐が、冬至様をだまくらかし、そして不貞を強要したのだということなのはもちろん承知しておりますとも……しかしやっぱり胸! 胸なのですか!?」

「待て如月脱ぐな! 揉むな! お前酔ってるだろ!」

「と、冬至くん……い、言ってくれてもよかったのに……こんなお子さんがいただなんて……」

「違う待て月。この子は俺の子じゃ」

「お、おとーさま……璃々、おとーさまを、おとーさまって言っちゃダメなの?」

「違う璃々そうじゃない待て泣かないで」

「ボクは別になんだって言いしどうだっていいんだけど、本当こういうのはどうかと思うわ。自分の子どもならちゃんと養って上げる義務があるでしょう。正直見損なったわ。かなり」

「だから詠も待てっつーのに!」

「冬至殿! やることやってたんですねっ。ねねはぶっちゃけ見直しましたぞ!」

「やってねーよ!」

「冬至? あんな? やることやらへんと出来へんねんで? 流石のアンタでも知ってるやろ?」

「知ってはいるけどこの場合は違うだろ霞!」

「兄上……私は年の近い姪が出来て嬉しいのですが……それにしても隠し子というのは……」

「隠してない! いや隠し子じゃない!」

「……やっぱり殺しておけばよかった」

「こらこら武器を持ち出すな恋!」

「あらあらまぁまぁ」

「紫苑! 紫苑、お前一体どういう説明したんだ!」

 凄まじい怒号の嵐の中、李岳は詰め寄る皆を押しのけ元凶と思しき黄忠に詰め寄った。

 黄忠はなぜだか頬を染め、あらー、あらー、と言を左右にはぐらかす。

「いやホント頼むから……本当のことだけちゃんと説明してくれればそれで済む話だろ?」

「わたくしは説明いたしましたよ、ご主人様」

 二度目の雷撃であった。

「ご、ごしゅ、ごしゅごしゅごしゅ……!」

「如月落ち着け、頼む壊れるな」

「おとーさま。璃々もご主人様ってお呼びした方がいーい?」

「ううんしなくていーよ! 頼むからやめてほしいかなぁ!」

 なぜだか、ふぅ、と疲れたようにまぶたを抑え、黄忠は妖艶な仕草で口元を隠しながら告げた。

「もう、ご主人様。わたくしは本当のことしか申し上げていませんわよ? 敵対していた二人ですが、決着がついたその夜に私は裸をお見せし、血と汗にまみれながら私の胸の前で一生懸命に手を動かしてくださった熱い夜……」

「うわあ! 何も間違ってないけど全てが違う! ちゃんと本当のことを言え!」

「あっ、立ちくらみが……」

 全くもって不自然な形で、黄忠は李岳にしだれかかるとその胸を押し付けた。そしてイヤン、と白々しい声を上げる。

「嫌ですわご主人様……そういうのはもっと暗くなってからじゃないと……」

「おとーさまー! 璃々もご一緒するー!」

 

 ――事ここに至り李岳の屋敷は阿鼻叫喚の地獄絵図を呈した。号泣する者、いたたまれず逃げ出す者、武器を取り出し振り回す者……

 

 応戦に横槍、野次と怒号、笑いと涙が交差し、矢尽き刀折れるまで夜通しの大騒ぎ。李岳の屋敷は至るところが破れ最早半壊。それを見物しながら酒を飲み飯を食い、訳もわからず仲良くなったり決闘したりと、因果応報、大山鳴動、死して屍拾う者なし。

 洛陽のお祭り騒ぎに紛れ込み、屋敷の外に見物客が殺到しなかったことだけがせめてもの救いであったろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 七月、李岳荊州を制し洛陽に帰還す。前将軍を拝す。




李岳さんおめでとうございます。賑やかで大変うらやましいですね。

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