真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第九十一話 朝陽の戦い

 こんなに容易く接近を許すなんて! ――黄忠は叫びだしそうになるのを懸命にこらえた。一万騎を超える強力な騎馬隊。それをどう押しとどめるかが黄忠と、彼女が率いる江夏兵団二万名の役目であった。

 騎馬隊による高速機動はそれだけでも脅威だが、前後と横の動きを不規則に混ぜあわせれば弓手の狙いはほとんど定まらなくなる。だから弓隊の半分を前後の動き、もう半分を左右の動きだけに対応するように徹底していた。その作戦は功を奏し、暫くの間は騎馬隊を押しとどめていたのだが……

「黄忠将軍! 前衛、二段目まで突破されました!」

 伝令の絶叫がこだまする。前方の弓手と歩兵隊は四段の構えだ、それがあっという間に半分までもが崩壊している。

 李岳軍は元から歩兵隊を主力と考えていた。こちらが騎馬隊を警戒していることを十分に知った上で、それらを囮に使った。行っては戻る騎馬隊に右往左往しているうちに、歩兵隊が真正面から殴りこんできたのである。

 翻る旗は『華』と『徐』である。華雄と徐晃。董卓麾下でその名を轟かせる古強者と、連合戦で敵将の首を自ら上げた新進気鋭の将である。まともに相対すれば一方的に押し切られるだろうと思い、弓手への指示を正面に振り分ければすかさず騎馬隊が翻り襲ってきた。今や黄忠隊は正面と左右の騎馬隊から半包囲の状態に堕し、なぶり殺しにされている。

「文聘、霍峻将軍が前進してきます!」

 文聘と霍峻、それぞれ七千の歩兵でこちらの側面を覆うように前進してきた。騎馬隊を正面から押し返し、そのまま華雄と徐晃を包囲しようという動きだ。

 支援はありがたいが、友軍の動きが遅い。蔡瑁と張允ももっと早くに指示を出せたはずだ。黄忠は唇を噛んだが、襄陽常駐の将が江夏を下に見ているのは元から知っていたことでもある。蔡瑁らからすれば、不甲斐ないと映っているだろう。

 そもそも本当なら全軍で攻め寄せてくるべきだ。練度で劣っているということは局地戦で不利ということである。ならば全軍で押し包んで混戦にしてしまったほうがまだしも良い。しかしその決断が蔡瑁にはできない。

 全軍を余さず躍動させている李岳軍との対比は明らかだった。

「左右と連動せよ! 正面に支援、兵力はこちらが多いのです、多対一で当たりなさい!」

 懸命に叫びながら、黄忠はギリリと奥歯を噛んだ。

 

 

 

 

 

 

 

「ケーッケッケッケ」

 張遼は笑い声を上げながら反転した。六千騎は一糸乱れず張遼の後に続く。

 敵の前衛は相当に散らかした。耐え切れずに前進してきた左右両軍が騎馬隊の狙いである。反転したのは追い散らしていると敵に思わせるためだ。徐庶の指示通りでもある。

 後方を見れば、勢い込んで駆け込んでくる荊州兵が数多――容易く釣れた。

「っしゃあ! 行くで張遼隊! 食べ放題の飲み放題や!」

 体を倒し、急角度で回頭した。外からなら容易く見えるが隊列を乱さずに機動転回するのは血を吐くような調練を繰り返したからである。このような動きが可能なのは、李岳軍を除けば馬超の勢力ぐらいだろう。

 後退から外側へ迂回した。そのまま半円を描いて伸び切った敵の中腹に食らいつく。偃月刀を振り回せば血飛沫が張遼を濡らす。そのまま突進を敢行した。伸び切った敵陣は横からの突撃に極めて弱い。当然、右翼の高順も同じ動きである。常勝必殺の戦法――騎馬隊による高速機動を用いた左右同時の吶喊である。

「張遼が来た、張遼が来たで! 道はあけんでええ、自分で切り開くよってな――!」

 押しとどめようとしてくる兵を突っ切り、さらに中央の黄忠隊に雪崩れ込んだ。精強な弓兵を揃えているというが、ここまで肉薄すればその利点はない。張遼は撫で斬るばかり。さらに至近での騎射を散々に浴びせかけながら、やはり左翼から突入してきた高順とすれ違う。目配せをして高らかに笑った。守るための戦いではない、これこそが騎馬隊の真骨頂! 蹴散らし、追い払い、誰もこの疾風を遮ること能わず!

 黄忠の部隊を貫通すると、そのまま出口目指して速度を上げた。敵右翼は健気にも張遼の前方を塞ごうと陣を形成している。ひらりひらりと飛んできた矢を払いのけながら張遼は左に進路を変えた――そこに敵将の旗を認めたからである。

「土産まで持たせてくれるんかい、太っ腹やなあ!」

 ありがたく頂戴、と張遼は偃月刀を振りぬいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「張遼将軍、敵将韓嵩を討ち取った模様!」

 徐庶が興奮気味に伝えてきたが、李岳は至極冷静に頷きを返すだけであった。

 全く問題がなかった。荊州兵はこの戦場においてもまだ戦力の逐次投入を唯一無二の信条だとでもいうような用兵を見せている。前衛、左右両軍を順番に繰り出しているのだ。それに対してこちらは歩兵と騎馬隊を連携し、敵の一部を集中的に攻撃し、形成を崩した後に強兵で横腹を突き破ることを徹底している。兵力差はあるが、戦力差としてはこちらが上だ。

 指揮官を失い、散々に突き崩された敵左翼はあわや浮足立つというところだったが、中央の黄忠が吸収、再編したようだ。中々の手腕である。彼女が全軍の指揮官であればもう少し手こずっただろう。

「蔡瑁まで取れるかな?」

 李岳が聞くと、徐庶は馬の背に立ち上って敵陣の様子を見た。蔡瑁にわずかなりとも根性があれば踏みとどまるだろう。怖気づけばとっくに逃げ出している。だが李岳の読みが正しければ――

「どうやら、蔡瑁は後退して様子を見るようです」

「よし」

 主君の癖は部下にも伝達する。主の思考方法をなぞることがすなわち評価の規準ともなりうるからだ。だから勇猛な者の下では武将が評価を受け、智者の下では文官が育つ。優柔不断な者の下でもそれは同じだ。

 李岳もまた黒狐の背に立ち(鼻息で不満を露わにしているが)戦況を見た。前衛と後衛に完璧に分かれている劉表軍に対し、こちらは全軍が柔軟に動いて攻撃力を集中させている。未だしぶとく持ちこたえているのは黄忠と、そして高順が相手にしている文聘であった。韓嵩とは違い、文聘は未だ持ち崩さずに陣形を堅持している。正史でも名を馳せる名将だけはある。

「高順殿に無理をするなと伝えよ。敵将文聘はかなり手強い」

 李岳が言うとすぐさま旗と銅鑼が振られた。高順は厳しく攻め立てていたが、距離を置いて騎射に徹する動きに変じた。

 矢をかいくぐり、前衛を破り、左右から騎馬隊で切り裂いた。敵将を討ち取り相当な出血も強いている。このまま一息つきたいところではあるが、敵に混乱を落ち着かせる余裕を与える程愚かなことはない。畳み掛ける時はいちどきで勝負を決するべきだ。

「本隊を動かしますか?」

 李岳が何を言う前に徐庶が意を汲んでいた。岳は笑って、徐庶の頭をくしゃくしゃと撫でた。

「予備を投入するならここだろう。問題は宛城から連れてきた兵たちの気概だな」

「勝ち戦なら役に立ちます」

「なら、使おう。例の伏兵の使いどころは俺が決める」

「ご無理はなさらず」

 徐庶が意気込んで采配を振るう。出した指示は華雄と徐晃に『束の間、息切れる程猛攻を加えよ』である。

 

 

 

 

 

 

 

「だあらっしゃ! うおらっしゃ!」

 唸り声を上げて血路を切り開いていく華雄の姿は頼もしいの一言に尽きる。徐晃はたった一人で兵百人分の働きを見せる戦士を、仰ぎ見るようなつもりで、同じ武器である戦斧を振るった。

「徐晃将軍! 本営より伝達です!」

「はい、どうぞ!」

「束の間、息が切れるほどに猛攻を仕掛けよ、であります」

 徐晃はゴクリと息を飲んだ。李岳はここで勝敗を決しようとしている!

「りょ、了解です! 長槍隊! 吶喊します!」

 叫ぶと、徐晃は先頭に立ち、敵軍深くへの浸透を目指した。

 徐晃が率いる長槍隊は、李岳が発案した新装備に身を包んだ実験部隊である。常識的な長さを外れ、その柄の長さは倍では利かない。この長さが単純だが強力な武器になっており、相手を接近させずに一方的に相手を圧倒することが出来る。組み立て式になっており行軍にも支障がない。

 先頭でその突入を指揮しながら、徐晃はすれ違った華雄と目を合わせた。

「華雄さん!」

「応、徐晃! 私も負けんぞ!」

 大旋風のように斧を振り回す華雄を見て、やっぱりこの人は最強の武人だ、と徐晃はなぜだか誇らしくなった。それほどに戦場の華雄は生き生きとしていた。窮屈な防衛戦ではなく、攻撃においてこそこの人は最大限の力を発揮する――

 

 ――華雄。まさに李岳軍の突撃隊長、面目躍如の活躍であった。二度の屈辱を経て、慢心から解き放たれた彼女は、日々過酷なまでの鍛錬を己に課し、とうとう己の上限だと勝手に決めつけていた武力の限界を突破し、一個の武人として更なる飛躍の時にあった。

 

 うおおお、と雄叫びを上げて突っ込んでいた華雄。得物である『金剛爆斧』を振り上げると、渾身の力で敵陣に叩き込んだ。爆音と共に跳ね上がる敵兵と土塊。しかし華雄の突進は止まらない。

 一撃必殺であった武神豪撃。華雄の鍛えに鍛えた膂力でもって撃ち放つ最強の一撃は、しかし洛陽では太史慈に、祀水関では張飛にも通じなかった。己が最強であるという誇りを傷つけられ、あわや膝を屈しかねなかった華雄を支えたのは、やはりそれでも武人の意地であった。

 最強の一撃が通らなかった――ならばどうするか。

 華雄の出した答えは簡単極まるものであった。

 一度では止められる最強の一撃ならば、相手を薙ぎ倒すまで何度も撃ちまくれば良いのである。

「いくぞ、荊州兵! これが新たに身につけた我が奥義――武神豪連撃だ!」

 全ての力を解き放って振るわれていた必殺の一撃を、回転の理を用いて十度も二十度も繰り出す新たな必殺技である。

 放てば全身が痺れて隙も多かった全力の必殺技を、連撃として昇華した華雄の体力はもちろん以前の比ではない。並みの陣営であればもはや彼女一人で圧倒することさえ出来ると思わせる。

 だがそれは、必殺の一撃という武人の夢と誉れをないがしろにするものではなかった。以前の全力に余力が生まれたことを意味するものでもある。

 突風の渦と化し、前進制圧を体現しながら、華雄は新たな必殺技の予感を全身に感じていた。武神豪連撃はその仮の姿でしかない。

 たゆまぬ鍛錬が開かせた新たな可能性。

 これまでの視野が窮屈だったとさえ思える程の光。

 華雄は戦場の血飛沫の中で予感した。どんな相手も薙ぎ払う、真実あるべき己の力を。

 すなわち『超武神豪撃』誕生の予感。

 

 ――その様子を見ながら、また刺激を受けている武人もいた。

 

「まるで猪だな」

 高順は前のめりになって突入していく華雄を見てそう呟いた。侮辱の言葉ではなかった。猪の牙は全てを薙ぎ払い、踏み潰し、後に続く味方の盾となるのであろう。まさに猪突猛進。確かに我が強いきらいがあるが、李岳が華雄を重用する理由が高順にはよく理解できた。

 本陣を見ると悠然と前進を始めている。兵数で劣っているこちらだが、既に戦況では圧倒していた。ここで一挙に決着をつけようという動きであろう。

 高順は前方を見た。敵将文聘は李岳の指示にある通り侮り難い将である。黄忠と二人で連携する以上簡単には打ち崩せない。

「ならば、狙うはそこではない、というわけだ」

 高順は自らに教示をくれた幼い新たな娘の言葉を思い出し、槍を振るって迂回を指示した。

 長幼の序も何も、見るべきは才と知。そして勇。学ぶべき事は尽きぬ。老境とは言うまいが、壮年を半ばも過ぎて高順は自らに新たな力が宿るのを感じた。

 それは『丁原』であった頃にはなかったものでもある。

 敵陣攻略の勘――『陥陣営』としての開眼である。

 

 

 

 

 

 

 

 

「あー、こりゃいかん」

 高台から眺めていた魯粛が天を仰ぎみた。荊州兵の無残な有り様を愉悦として楽しむ陰惨な趣味は持っていないからである。

 荊州兵がことさら弱兵だとは思わない。特に前衛にいる黄忠と文聘は名の知れた将で、その率いる兵が無能だとはとても思わない。

 強いて瑕疵を見つけるならば、蔡瑁の用兵であろう。だが彼は全く無謀な指揮ぶりを見せているわけでもない。矢を放って騎馬隊を遠ざけ、前衛を当たらせた後に両翼を動かし、機を見て本隊で圧力をかける――多く兵を揃えた側の指揮としては常道とも言える。

 それを我が物顔で打ち砕く李岳軍が圧倒的なのだ。

 騎馬隊を警戒されていると見るや、それを陽動として使い、強力な歩兵隊による突撃を敢行する。接近戦に持ち込んだ後は両翼の騎馬隊を使って前衛に攻撃を集中させる。動き出した荊州の両翼に対してはさらに騎馬隊で分断し、交差させることによって混乱を誘起する。統制を失い始めたところで本隊が決定機に畳み掛ける――

 全体としては寡兵であっても、部分的には数の利を発揮させたのだ。部分的に勝つ。その繰り返しを行い戦況の不利を覆す。己の強味で相手の弱味を突く。丸裸にしてしまったところで募兵を用いる。

 名将、精兵を揃え、死地を乗り越えた歴戦の凄み。げに恐ろしきは未だ李岳軍勢に余力が見られることでもある。

 およそ同数の兵力であれば、この軍勢に勝つことは相当な難事であろう。

 

 ――難題だ、こりゃ。

 

 隣で言葉を失い真っ青になっている伊籍の口癖を真似ながら、魯粛は考えを巡らせた。

 魯粛は己らが独立のための駒として考えていた李岳軍という代物が、決して侮ってはならない『化け物』であることを改めて思い知ったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 蔡瑁が怖気づいた。前線への突入要望を一蹴し、後退して再編するという決断を下したようだ。

 黄忠に届いた命令は、あと一刻踏みとどまれ、である。

「出来るわけが……!」

 それ以上いうことは軍人、武人である己の全てを否定することになる。その愚かな有り様をこれほど恨んだことはない。江夏から連れてきた兵たちは今まさに襄陽を忠心とした政治闘争の生贄となり死する運命となった。いや、蔡瑁とて助かるかどうかはわからない。命令通り一刻もの間李岳の追撃を押しとどめることができれば其れでいいが、容易く打ち破られれば勝勢に乗じた騎馬隊の猛追を受けることになる。全土の勇者を集めた連合軍が散々に討ち滅ぼされたあの猛追をしのげるとはとても思えない。

 この一戦は荊州の命運をかけた一戦だった。そのことを自覚していたのは、おそらく李岳ただ一人だったのだろう。

「李岳軍本隊、支えきれません!」

「前衛崩壊、逃亡兵多数!」

「霍峻将軍負傷、生け捕られた模様」

「御味方本隊は既に後退の態勢!」

「敵本隊より騎馬隊突出、先頭は呂布! こちらに迫ってきます!」

 黄忠は汗にまみれながららしからぬ叫びを上げた。

 既に敗戦は明らかだ。こうなった以上後退し、陣営を立て直し、傷を最小限に抑えなければならない。しかしただ無様に後退すれば追撃を無残に浴び続けることになる。一度は全軍で押し込まなければならないのは明白である。

 それを蔡瑁は拒否し、後退を始めている。前衛は千々に乱れ統制は崩壊しつつあるというのに。

 突撃を敢行してくる歩兵隊の威力は手に負えない上に、友軍を率いる文聘が高順という将の騎馬隊に釘付けにされている。決して無理攻めはせず、さりとて隙を見せれば蹂躙されかねない……その巧妙な用兵は文聘を防戦一方にさせていた。

 高順など、今まで聞いたこともない将だ。恐るべきは張遼と思っていた黄忠はじめ荊州の将を嘲笑うかのような戦いぶりである。

 後手、後手、後手である。

 戦うなら戦う、逃げるなら逃げる。それをはっきりさせないから前衛の兵たちだけがいたずらに損耗を強いられた。黄忠の目算では既に三千は討ち取られている。その被害が全体ではなく、一部に集中していることを考えれば戦線は崩壊していると言っていい。その立て直しを放棄して本隊だけ後退すれば混乱を助長するだけだ、統制のとれた敵軍に対して目を塞いで立ち向かうのと何が違う?

 ああ、と黄忠は歯を食いしばり弓を握った。璃々、と娘の名を呼んだ。血筋は違うが叔父と呼ぶことを許した江夏城主、黄祖の元に預けている最愛の娘の笑顔が脳裏に浮かんだ。会いたいと心から思う、抱きしめ、一緒の床で眠ってあげたい――しかし、眼前に迫るは『李』旗を掲げし敵の本隊であった。

「……覚悟、か」

 くすりと笑い、黄忠は己の得物である颶鵬(ぐほう)を握りしめた。蔡瑁も劉表も、笑うことは容易い。ただ最も愚かなのは自分だったのだろう、と黄忠は思った。一個の武人として戦の只中に踊りでた旧友、厳顔の方がいくらも潔い。手をこまねいている内にただ利用され使い潰されるこの身。

 せめて最期は己が鍛え上げた武の全てを用いて、この戦場にて繚乱せん!

「我が名は黄忠! 曲張比肩と謳われし弓の業、その身をもって味わいなさい!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 この時李岳が率いていた本隊は、宛城からの募兵と元々の軍勢の混成である。李岳は編成ではあえて混ぜた。差別的な扱いを許せば軍団の結束は達し得ない。兵は皆平等であるとの宣言に等しい。

 前進を命じた本隊は盾を構えた重装歩兵を先頭に駆け足で突入した。流石に疲労の色が濃い華雄、徐晃率いる二隊が待ってましたとばかりに左右に別れる。友軍に割って入る形で、未だ無傷の本隊は混戦の中になだれ込んだ。

「降伏勧告は通達した! 蔡瑁将軍はただちにご決断されよ! 剣を捨てれば討たぬ!」

 嘘である。蔡瑁に降伏勧告など届けていない。しかしこの場で剣を捨てれば討たないのは事実であった。荊州の治安を回復するためにやっては来たが、荊州の兵を皆殺しにするために来たのではない。

 こちらに属する荊州出身の者も、降伏しない者が悪い、ということになれば同郷の者との戦いに罪悪感は減じるだろうと思ったまでである。だが案ぜずとも荊州出身の兵はよく戦った。李岳軍の精強さを眼前で拝んで興奮しているようにも思えた。

 練度は高くはないが勝勢に乗じて敵の半数を訳なく追い散らしている。高順が文聘の部隊を引き剥がしているので思った以上に歯ごたえがない。

「兄上」

 徐庶が近寄り報告を上げた。

「彼我死傷者数比、三と一。討ち取った数およそ三千五百。さらに一千ほどが逃亡している模様。敵本隊は後退に入るでしょう……ですが黄忠率いる部隊が頑強に抵抗している模様。このままでは敵本隊を取り逃しかねません」

 徐庶の持つ特別な力の一つに、正確な数読みがある。敵兵力、死者、負傷者、逃亡数、兵糧の日数に行程。大胆不適な軍略を披瀝するというよりも、実数に基づいて必ず勝つ方法を提示する、そういう軍師であった。徹底的に現場の人なのである。そこがまた李岳とウマが合った。

「本隊は温存したい、江夏の兵は捨て駒、というところか」

「まだ樊城がある、まだ襄陽がある、水軍がある、江陵もある……ここで勝たなくてもいい、と思っているようです。気持ちはわかります」

「俺もわかるよ。人間誰しもが持つ弱い気持ちだ」

 そこを突く。こんなはずじゃなかった、と思わせることが勝機を呼ぶのだ。

「珠悠、張遼隊に追撃の用意を。蔡瑁を追わせる」

「兄上、まずは黄忠に当てるべきです。死力を尽くしかねぬ将です。思わぬ被害はこういう時に発生するもの」

「あの人は降伏する余地がある」

「根拠を」

 李岳の言葉に、実直さを重んじるが故に徐庶は疑念を示した。だがまさか、自分の知っている物語ではそうだった、とはとてもじゃないが口にはできない。

「言いたいことはわかるが……根拠もないわけじゃない。任せてくれ、無理はしないがやってみる価値はある。ダメならダメで諦める。それでどうかな――いいね? よし、恋」

「ん」

 呼ぶと、赤兎馬が隣に寄り添ってきた。黒狐と鼻を寄せあって挨拶している。馬上で呂布は戦況をぼんやりと眺めるばかりである。

 呂布が李岳を見た。まだ上背は呂布のほうが高いのでわずかに見下ろしている。紅の瞳はどこか茫洋としており、戦場に不似合いな穏やかさでもあった。

「俺を黄忠の元まで連れていってくれ。どうにか生け捕りにしたい」

「戦ったらいい?」

「うん」

「わかった」

 少女の穏やかさを、今、李岳は乱した。

 ぼんやりとしていた瞳に火が灯り、メキメキと音を立てて力がみなぎっていくのがわかる。その細腕も胴回りも変わらぬというのに、筋肉と血管が隆起し、心臓から押し出される血流が死と破壊を内包して全身を熱している。

 呂布は無闇に戦わぬ。だが李岳が願えば、呂布は決して嫌とは言わない。その時、李岳はいつも最悪な気分になる。

 何の前触れも見せずに呂布は赤兎馬と共に速度を上げ始めた。李岳は牙旗を従わせて続いた。千の騎兵は、全て雁門関から従ってる兵たちだ。司馬懿が、戯れに黒衣で揃えさせた。威容もまた必要、という言葉に李岳も説得された次第である。

 

 ――漆黒の騎馬隊。死体の山を積み上げ、先頭と同じく皆が真紅に(まみ)れんと欲す。

 

 騎馬隊は李岳軍の本隊を縫うように進んだ。異様な光景に友軍でさえ息を呑んで道を明けた。歓声もない。絶対的な死の象徴があらゆる者に永遠の沈黙を強いる。 

 友軍の領域を抜け、混戦の空間に出た。呂布は方天画戟を低く構え、前を見据えながら言った。

「冬至」

「恋?」

「――来る」

 束の間、空を覆うかのような矢の嵐が襲ってきた。李岳とて弓手の一人である。まさかその矢がたった一人で放たれたものだとは初め到底信じることができなかった。

 ありったけの矢に囲まれて、荊州の驍将・黄漢升はこちらに真っ直ぐ相対していた。戦場には不似合いな色鮮やかな着物に身を包んだ妙齢の美女。弓篭手には何本もの矢が一度に握られている。兵を守るかのように一歩も動かぬ女武者の立ち姿は、李岳がかつて知ったる伝説の武人と確かに符号した。

 戦線は既に崩壊し、左右両方から張遼と高順の騎馬隊が蔡瑁への追撃態勢に入っている。華雄と徐晃の兵は損耗が多く負傷兵の治療と降兵の処理にあたっているが、半刻の内に前進を開始するだろう。それら全てをただの一人で阻止することなどもちろんできない。黄忠はこの場で死ぬ気なのは明白だった。

「黄忠将軍とお見受けする! 無碍には扱わぬ! 降伏されよ!」

 呼びかけに、黄忠は弓を下ろして返答した。

「ご好意痛み入ります。我が兵に罪はなく、我が将に罪があるばかり。どうか兵たちの無事をお約束いただきたい」

「お約束します。将軍もどうか我が軍門に降られよ」

 フッ、と笑って黄忠は小さく首を振った。

「私もまた兵であり将。李岳殿には二度目の敗北ですが、この期に及んでは生き恥をさらすつもりはありません。我もまた武に身命を賭した身の上、情けは御無用に願いたく」

 殺すしか無い、とは思わない。未だ齢三十にもなるまい、死ぬには早過ぎる。

「黄忠将軍! ここで死ぬことに何の大義がありますか! 我が軍勢は決して殺戮や復讐が目的ではありませぬ。再三陛下に歯向かい、天下の乱に乗じようとする荊州牧劉表を危険だと判断したからやってきたまでです。ですが例え劉表が悪辣だとて、その指示に従った将や民たちまでもが責めを等しく負うとは思いませぬ。将軍、どうか武器を収められよ。ご家族もいらっしゃるのではないですか」

 李岳はずっと黄忠の目を話しながら見ていた。一言一言を区切りながらその表情を伺っていたが、大義でも皇帝でもなく、黄忠は家族という言葉に表情を固くしたのをはっきりと見て取った。

「将軍、どうか短慮はおやめなさい。降伏した兵を処罰することはありません、将も同じく、もちろんその家族も民もです! 今ならまだきっと全てが間に合います、将軍!」

 黄忠は震え、涙を一滴こぼした。その涙は触れてもいない、間近で見てもいないというのに、諦めや安堵ではなく、惜別と闘志を込めた熱い涙だということが李岳にはわかってしまった。

 黄忠は愛惜を力に変えて、ここに最後の戦いに臨もうとしている。

「……一矢報いることこそが、将の道と見つけたり!」

 絶叫は一閃の気合を纏い、戦場を木霊し李岳の耳朶を叩いた。それは不惜身命の叫び、この世の全てへの別離の声であった。李岳の目からもはっきりと、気迫が蒸気のように黄忠の体から立ち昇っているがわかる。生と死の狭間で、武人は最強を手中に収めることがある。黄忠は前人未到の静けさと気迫を溶け合わせ、矢をつがえてこちらを眼差した。

「冬至、さがれ。あいつ強い。生け捕れるかはわからない。ダメなら殺す」

 李岳は頷いた。弓手の腕だけとっても自分では全くかなわないのはよくわかる。それが生命の全てを振り絞って立ち向かおうとしているのだ。侮らざるべき敵である。

「出来るならでいい。大事なのはお前だ」

「知ってる。バカ」

「頼んだ」

 一瞬棹立ちになり、赤兎馬は駆け出した。呂布は弧を描き、海洋の渦が中心に吸い込まれるのと同じ軌道で黄忠へ接近した。正面から突き進めば馬の首が邪魔になって方天画戟を存分に振るえないからだ。

 黄忠は無闇の連射を謹んだ。一矢、一矢に戦略があった。赤兎馬の後ろ足の蹄を狙うなどという、あり得ないことさえ平然と達成しそうになった。それを戟で防いだ呂布が等しく規格外だっただけである。

 呂布が半里の間を肉薄するまでどれほどの時間だったろう。呂布と赤兎馬の体はいつの間にやら痣と浅傷だらけになっているのが見えた。黄忠は二本の矢を同時に放ち、一本を赤兎馬の体に、もう一本を敢えて地に放ち石礫で以って敵騎兵に打撃を与えているのだ。

 李岳は自らも弓を持ち、兵に指示を下した。恐れが胸に広がったのだ。呂布の眉間に矢が突き立つ幻影がまぶたの裏にありありと浮かび、手が震えた。一度でも矢がまっすぐにかすれば、もう黄忠への射撃指示を出すと決めた。喉がカラカラに乾いているのを知る。

 呂布が馬首を変えたのはその時だった。真っ直ぐ最短距離へと変じ黄忠に突っ込んだ。黄忠の目が燃えるように煌めく。矢は鷹の悲鳴にも似た音を立てて放たれた。赤兎馬が飛ぶ。矢は地面に突き立っていた。さらに二本目の矢が空を狙った。陽を背にした人馬一体の影から、呂布は分かたれ飛んだ。黄忠は陽光をその目にまともに浴びたが、まぶたを微動だにせずそして迫り来る呂布を恐れもしなかった。

 解き放たれた矢は、真っ直ぐ呂布の顔面に吸い込まれた。呂布の頭部が不吉な震動で前後した。李岳には黄忠の笑みがはっきりと見えた。その笑顔は血飛沫で染まり、陽光を浴びてキラキラと輝いている。

 振り下ろされた方天画戟が、黄忠の左肩から腰まで真紅の閃光を描いていた。黄忠は静かにその場に膝をついた。

 崩折れる黄忠を見下ろしながら、呂布はくわえていた矢を地に吐き捨てていた。

 朝陽の戦い、決着の瞬間であった。


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