一月は行く、二月は逃げる、三月は去る。そしてやってくるのは戦の季節である。
積雪も川と溶け、青々とした草が大地を覆い茂る頃、李岳軍は孟津より南方を目指して渡河した。滞りなく全軍が渡り終えると、一度東に折れ曲がり陽人城に入城する。陽人城はすなわち豫州である。潁陽を経由して昆陽から堵陽に至るまで行軍は迅速を極めた。まるで冬眠していた獣が、突如空腹に目覚めて一目散に獲物を目指すように、騎馬隊を主力とした軍勢はすみやかに荊州の北端へと侵入した。
兵站は三ヶ月分しか維持できない量であったが、陳宮の尽力がその空隙を埋めるであろうことは誰も疑わなかった。
また、荊州北部の領民は李岳による白波賊討伐で厚く恩恵を賜っていたがために、李岳軍進駐に反意などあろうはずもなく、軍勢は万事全て滞りなく街路を進んだ。李岳軍総勢三万のうち、一万二千が先行していた。先鋒は張遼、高順、そして徐庶である。騎馬主体の機動部隊は限りなく速やかに進軍を果たす。李岳を含む、呂布、華雄と徐晃の部隊を主力とした本隊から半日ほど先行しながら、以って穏便に慰撫に務めた。
――目指すは南陽の中心都市である
荊州は長江の流れを中心に南北に別れた広大な土地である。そのうち北荊を代表する二大都市が襄陽と宛である。宛城を中心とした南陽郡は光武帝が本拠地とした城郭でもあり、衰亡ありとて未だ全土に名を轟かす大都市。一郡としては最も多くの戸数を誇る重要拠点である。
洛陽から八百里の地点であるが、近年も袁家の庇護の下で繁栄を享受してきたがために、人材物資その両面で荊州の屋台骨に相違ない。
同年初頭に劉表は賊討伐を名目として襄陽から宛城へ兵力の増派を行った。董卓政権との交渉が決裂したために防衛力を強化したのだというのが真相である。全国に同盟を広げ、また広大な荊州を支配する劉表にとって、敵軍を誘引して長期戦に持ち込むことが肝要となる。宛城増強は当然の選択であった。
他方、三方を敵対勢力に囲まれた李岳にとっては短期決戦が命題となる。寡兵を二分して、張遼に先行を許したのは野戦での決戦を誘起せしめる思惑である。よって先制攻撃は随意であるという委任を張遼に与えていた。精兵と驍将。その二つを信頼しているがゆえの委任であった。
――果たして李岳の読み通り、荊州軍は宛城から一日の距離にある平野にて、防衛戦の構えを取っていた。
「さて、どないしたもんかな」
張遼の声に高順は平然と答えた。
「まぁ当たらない理由はないだろう」
「そうですわな。相手の数はうっとこの倍くらい?」
徐庶は即答した。
「斥候の報告ではおよそ二万。左右二軍に分けて数を活かそうという構えです。歩兵主体ですが弓兵をかなり備えている模様。どうやらこちらが二手に分かれて進んできているのをきっちり調べているようですね。合流する前に各個撃破してしまおうというところでしょうか」
「徐庶っち、いっちゃんスカッとする勝ち方教えてぇや」
騎馬主体の一万二千で当たるには分は悪いだろう。だが劉表までもを射程に入れた遠征である以上、のんびりと本隊の到着を待つのは消極的すぎる。精強な騎馬隊で急戦を用いる。李岳軍の基本戦術は一切がそれに依拠している。徐庶もまた即戦を提案する。
「本隊の合流を待たずにあの陣を瞬く間に粉砕し、そのまま城も攻略してしまいましょう」
ニタァ、と張遼は得も言えぬ笑みを浮かべた。
「なかなかよう分かってる軍師さんやで」
「迷わず当たるべし。敵の思惑はこうです。李岳の先鋒は一万二千、もし挑んでくるなら数の利で押し切ろう。ためらうようならじわじわと時間を稼ぎながら後退し、宛城で籠城に持ち込む……城内には少なく見積もっても本隊の他に五千は守備兵がいるでしょう。しっかりと籠城されれば手間です」
「のっけから全軍でぶつかる? やっぱここは高順様と二手に分けた方がええと思うねんな。前みたいに騎馬隊二手でズタズタにしてまりましょか」
「それですが、お願いがあります」
ん? という振り向いた張遼に、徐庶は真摯に願った。
「この徐元直に先陣を頂戴したい」
張遼は訝しげに首を傾げた。
「戦闘に参加するっちゅーこと? なんや、どしたんや、思いつめた顔して。あんた軍師やろ? なんも別に危ない目に遭わんでもええやん」
「一つ、お伝えしなくてはならないことがあります」
「珠悠」
「言わせてください」
高順を押しのけて徐庶は言った。
「以前私は、大きな嘘を吐きました。その嘘は、私が」
そこで一度言葉に詰まったが、徐庶は泣くことはなく再び前を向いた。
「自らを慰めるために、多くの人を悲しませるものでした。あってはならないことをしました。万死に値すると言ってもいい詐欺でした」
高順と李岳との不自然な関係を、誰も強いて問いただしはしなかった。なぜ死んだはずの丁原が生きていたのか。どうして名を変えて戻ってきたのか。
なぜ徐庶は単福と名乗り、丁原を弔ったと嘘を言ったのか。
皆、あえて問いただしはしなかった。だからこそ、徐庶にはけじめが必要だった。
「私は、許されたい。これも身勝手な話ですが、私は、自らが身命を賭し償いたいのです。私が傷つけた人のために戦いたい。そうしてようやく、前を向けると思うのです」
この決断はずっと考えていた。徐庶は腰帯に差している短剣『睡虎剣』をそっと撫でた。嘘つきは皆に受け入れられた。だが許されるかどうかは別だった。そしてその許す主体には、自分自身も含まれている。
自分を許したい。長い時間をかけて一つずつ。そのためには、きっと戦う必要があるのだ。
「軍師という大任を承り、私はここに来ました。ですが、後ろでのうのうと口先だけで兵を動かしたくはないのです。それは、嘘だと思うからです。なにもずっと戦場にいるというわけではありません。ですが、これは私の初陣です。私も兄上や、母上のように、死ぬか生きるかの場で、血を浴び、血を流さなくてはならないと思うのです」
張遼の返答は早かった。ハッ、と笑って肩掛けを翻した。
「任せた」
「張遼殿」
「霞でええで」
「しゅ、珠悠です!」
「先鋒は珠悠と高順様。後詰めはウチ。それでいこ」
「張文遠」
「はいな?」
「私も真名でよい。桂だ」
「――へへ。うっすうっす! ほな、そんな感じで!」
張遼は嬉しそうに偃月刀を振り回し、部隊のおよそ半数を引き連れて離れていった。徐庶と高順は約五千を連れて先行する。劉表軍は数の利を活かすために丘陵地の博望坡ではなく、平地での布陣を選択している。
いよいよという距離になってきた。こちらは先鋒の一万二千をさらに二手に分けている。本隊の七千は張遼が機を見て動かすだろう。敵は二万である。つまり、先鋒だけ見れば一対四の戦力差である。
震えが来た。徐庶はこの時わずかに失禁した。少で多にぶつかる恐怖がこれほどとは思わなかった。しかしそれを恥ずかしいとは思わなかった。ちゃんと恐怖を感じることが出来る。これからは自分が軍師として指図すれば、こうして死の恐怖に怯えながら剣を振るう兵を地獄に突き落とすことになるのだ。その恐怖を身をもって知ることは、絶対に外せないことだと思った。
「珠悠、貴様の合図で行く」
「合図、ですか」
高順はニヤリと笑った。
「好きに吼えろ」
頷いて、徐庶は後ろを振り向いた。兵たちはみんな徐庶を見ていた。屈強な男女たちである。徐庶の二倍も三倍も目方がありそうだ。あちらからすれば豆粒のようなものだろう、大丈夫かよ、とばかりにニヤつく者さえいてもおかしくない。并州から付き従ってきた、李岳に心酔している者も多い。
好きに吠える。確かに必要だが、徐庶はもう一つ工夫が必要だと思った。
――自分は舐められている。
高順はまだしも、腕も素性も定か成らぬ小娘が、李岳の妹だと急に現れ先陣を切る。ずっと付き従ってきた古強者たちには納得が行かないだろう。大事な初戦だ、本当なら李岳本人や張遼と共に駆けたかったはずだ。
塗り替える必要がある。徐庶は彼我戦力の差をほぼ完全に把握していたが、それでも侮ってはいなかった。ここで団結しなくてはもしものことがありうるし、それに――自分だって、舐められっぱなしは気に食わない。
「あの、皆さん……合わせて声を出して下さい」
徐庶の呼びかけに、兵たちの反応は鈍かった。徐庶は繰り返した。
「あ、相槌です……わからなかったら、あの、おー、でいいです」
「貴様ら! 復唱せよと言っている! 軍師殿に合わせて声を出せ! 上官命令だ!」
さすがに高順の引き締めには皆機敏であった。
もう後戻り出来ない。
徐庶は息を吸い込むと、声がひっくり返るのも構わずに絶叫した。
「荊州兵は腰抜けだ!」
いきなりの言葉に笑いがあったが、返事はあった。応。徐庶は構わず続けた。
「劉表は根性なしだ!」
やはり笑いもあったが、しかし一度目より声が揃っていた。見れば高順も声を張りあげていた。
「我が騎馬隊は怖いもの知らずだ!」
一度目、二度目の比ではなかった。隊の全員が声をあげているように思えた。
「この部隊に腰抜けはいるか!?」
「我らの大将の名前を言ってみろ!」
李岳、李岳!
「腰抜けの親玉は誰だ!」
劉表、劉表!
「勝つのはどっちだ!」
我ら、我ら、李岳軍!
「李岳軍は最強だ!」
大地が震える程であった。応、応! 李岳軍に敵うものなし!
「最高の大将が作った、恐れ知らずの騎馬隊が、根性なしの荊州兵に負けるもんか! 我々は勝つ! あいつらを蹴散らし、李岳将軍にご満足いただく! とっと襄陽まで行って劉表の馬鹿に吠え面かかせてやる! 次の相手は卑怯者の益州兵で、その次はボンクラの袁紹だ! 最後に待ってるのは生意気なチビの曹操で、そいつら全部ぶっ飛ばして李岳軍が地上最強! 劉表なんざただの前座だ、一息に蹴散らすぞ! お通夜してんじゃねぇんだ、テメエら腹から声だしてみろ!」
槍が、剣が天に突き上げられ、興奮は馬にも飛び火し、もはや士気は戦勝のそれ。
「我が名は徐庶……司馬徽先生より『睡虎』の号を戴いた軍師徐庶である! そして李岳将軍の義妹にして貴様らの戦友だ! 今から義兄の代わりに荊州のヘタレに根性入れてやるぞ! お前ら全員つべこべ言わずに付いてこい!」
轟く返事に背中を蹴飛ばされたかのように徐庶は飛び出した。前を向いた瞬間緊張が緩んで涙が出た。ひぃ、と自分で悲鳴を上げてしまった。隣では高順が愉快愉快、と満面の笑みで爆笑し、槍を振り回して吠え声を上げている。『高』と『徐』の旗が翻った。
万策用意しているが初撃はまともだ。一度力任せにぶつかる。荊州兵に目にもの見せるのだ、気迫だけで縮み上がらせてやる。
徐庶は槍を構え、まっすぐに突き出して行った。先頭の敵兵の顔がよく見え、その喉元に刃が突き刺さるのがはっきりと見えた。隣では高順が三人を宙に跳ね上げ、後続の兵たちが徐庶を守るように飛び出していったが、もう徐庶には混乱の中で何が何だかわからなくなっていた。
最初の激突は様子見のつもりだったが、兵たちの気勢が凄まじく思いの他押し込めた。高順は先頭を指揮して右折すると、混戦から離脱を試みた。荊州兵に騎馬隊は乏しく追撃はない。こちらの被害はほとんどないだろうが、千は討ち取っているようだ。五千で二万相手に上出来である。
「母上! ご無礼仕りました」
「生き延びたか、珠悠」
徐庶の目にもう怯えはなかった。手にしていた槍は穂先がへし折れてしまっているが、その手には返り血がたしかに付いている。束の間であれ戦場で戦った。軍師として生きていく上で、この経験があるかないかで天と地ほどの差があるだろう。
「さて、まだ戦いたいか、軍師殿」
「もうわがままは申しません」
高順は頷いた。徐庶が隣にいたために気が散って仕方がない。軍師はやはり、後ろで指揮しているに限る。
「兵百をつける。離脱せよ」
「はい。母上、その前に一つ」
「策か?」
「他愛もないものです」
徐庶は劉表軍を指さすと、その左半分を示した。
「敵の右翼だけを一方的に攻め立ててください」
「右翼だけ?」
指揮官の牙旗は左翼にある。高順は言葉を返した。
「敵将だけを狙うほうが早くはないか」
「早いかもしれません。ですがこちらにも被害は広がりましょう。我々に必要なのは速度と鮮やかさです。それは戦場のみの計算にあらず。負傷兵が増えればそれの手当てで進軍は遅れます」
「野戦で長期戦になるぞ」
「なりませぬ」
徐庶の声音に揺るぎはなかった。
「当たった時にわかりました。敵軍は未熟ですが、中核はそれでも練度はあります。敵将は自らの周りに練度の高い兵を揃わせ、反対側に弱兵を揃えました」
「その弱兵を狙うか」
「左右両軍の連携はほとんど取れないでしょう。右翼は瓦解し、左翼は逃亡兵を目撃して士気を落とします。そこを張遼殿の本軍と突きます」
張遼もそうだろうが、高順もまた武人の性として、強敵に正面からぶつかる選択をとりがちである。弱兵をまずそぎ落とし、丸裸にしたのちに敵将に突っ込む、という考えは中々浮かばない。面白い、と高順は思った。
「よし、それで行こう」
「霞殿への合図は」
「必要ない。勝手にやるさ。見ておれ」
「いま一つお願いが。指揮官は必ず生け捕りで」
「承った」
一礼すると、徐庶は護衛に囲まれて離脱していった。
高順は槍を掲げた。
「色々あったが、戻ってきた。ま、深くは聞くな」
并州から見知った顔が笑顔で頷いている。長い付き合いの兵もいるだろう。やむを得ぬ選択であったし、悔いもないが、高順は自らが一度は兵を置いて戦場から離れたことを心中詫びた。
高順は馬腹を蹴った。五千の騎馬隊が紡錘から次第に一本の線となっていった。皆、騎射は得手である。高順は敵の弓手が放つ殺気を感じるのを待って、左に馬首を巡らせた。馬上の矢は歩兵のそれより射程が短い。敵の矢をかいくぐるのがまず最初の仕事なのだった。
騎馬隊はわずかの損耗もなく肉薄した。合図と共に放たれた矢は敵の前衛を見事に粉砕した。三度往復した頃には既に逃げ出す兵も現れた。徐庶の読みは的中している、敵将は兵の統率を失いかけていた。
頃合いを見計らって、高順は抜剣を命じた。自らは槍を構える。崩壊した右翼を踏み潰しながら敵本隊に殺到した。同士討ちをためらって矢さえ飛んで来ない。高順は先頭で突っ込むと、二人三人と突き倒していった。
「高順推参。敵将いずこ」
悲鳴が一層大きくこだましたのは、張遼が本隊を引き連れて突入してきたからである。友軍を引き連れ、
高順と張遼の騎馬隊は、鋭利な二本の牛刀が見事な太刀筋で分厚い肉を容易く断ち割っていくように、荊州兵を四分五裂の細切れにしたあと、敵大将の牙旗へと殺到していった。二万の陣容を誇った宛城駐屯兵は、二刻も持たずに崩壊したのである。
李岳が宛城に入城する頃には全てが片付いていた。
張遼、高順は敵野戦部隊の隊長を生け捕りにすると、徐庶の献策に従いそのまま脅してとって返させたのだ。もちろん率いる兵は張遼隊に入れ替えて……守備兵もその日のうちに決着するとは思っていなかったらしく、何を疑うこともなく開門した。
後は容易い。馬鹿正直に門が開かれるや否や、全兵が突入、高順が城門を占拠、城兵を制圧。張遼が一目散に敵将の下へ駆け込み有無をいわさず降伏させた。民の死者はなく、降伏兵も一万を超えた。徐庶がはりきったお陰で統率と処理もあらかた済んでいる。後で聞いた話だが先鋒で敵兵に突っ込んでいったらしい、そのせいか顔立ちが少し大人びたように李岳には感じられた。先頭に立って敵陣に突っ込んでいったという話を聞いた時は驚いたが――
「流石にアンタの義妹やな!」
と張遼に言われてしまい何も言い返せなくなった。
宛城の住民は思っていたより抵抗なく李岳を受け入れた。どうやら張勲が手回しをしていたようである。さりげない貸しの作り方がやはり上手い。李岳は袁家にゆかりのある者たちの重用をすぐに約束した。
李岳は宛城への逗留をとりあえず十日と定めた。必要ならばさらに十日とどまる。洛陽出立からかなりの強行軍で突き進んできたのもあって疲労もある。周辺の安定もある。ここから南はいよいよ劉表の権力基盤が強固な、まさしく縄張りになる。そのためにも宛一帯の掌握は最重要事項となる。敵の勢力圏で孤立する愚だけは犯せない。
丞相府設立から大きく変化したのが、官僚の登用が進んだということだった。特に従軍に付き従う官吏がありがたい。戦陣における李岳の事務作業のかなりが減り、同時に駐屯事務官として細かい部分での手当てをしてもらえるのがありがたい。
「中間管理職さまさまだな」
そう嘯いた時だった。随伴している永家の者が現れ、一つ報告を入れた。
「
なるほどこう来るか、と李岳は心底驚きながら思った。
――史実において、曹操もまた今日の李岳のように宛城を占領したのだが、その際に宛城の城主であった
張繍はその後、荊州牧劉表の後援を得て曹操を脅かし続ける。対袁紹戦線に全力を注ぎたかった曹操としては、相当な脅威であったし頭痛の種でもあったろう。
張済も張繍もこの城にはいない。だが鄒氏だけがいる。史実では定かではないが、この構造が導き出す必然は一つだ――鄒氏は劉表の手のものである。史実のように曹操ではなく、だが史実のように南下してきた李岳を忙殺するために忍ばせた間者だと見た方がいい。
あるいは史実でさえそうであった可能性もなくはない。劉表はいずれ強大な敵となりうる曹操を警戒し、張済と張繍の一族を曹操暗殺にけしかけるために鄒氏を派遣した。当然賈駆も繋がっていたに違いない。誤算だったのはもちろん曹操暗殺に失敗したこともそうだが、賈駆が劉表と袁紹を見限り曹操に従おうと決めたことだ。敵として対峙したからこそ、曹操の強さを実感したからなのかもしれない。
「存外やるじゃないか、劉表」
広大な荊州を支配し続けるだけのことはある、侮ってはいけないなと、李岳は勝って兜の緒を締めるという言葉を思い出した。あるいは宛城防衛軍が弱兵だったことも劉表の策略の一環なのかもしれない。全く油断も隙もない。李岳は返事を待っていた永家にようやく答えた。
「会わない。間者の可能性が高い、捕虜として洛陽へ護送する。処遇は全て張燕に一任する」
鄒氏の美貌は相当なものだったという伝説だが、そのような者は会わないに限る。李岳は色仕掛けを決して侮らなかった。男なんて大抵馬鹿だし、そう考えているからといって自分が馬鹿の仲間から外れたわけではないのだ。
しかし劉表は策士だ。この調子で行くならば二手三手と事後策があるのかもしれない。李岳は随伴していた永家の者に命じて、もう一度城内を洗い直せと命じた。そして李岳は地図を見た。徐庶が地理の特徴と各都市の兵力を入念に書き込んだものである。劉表軍が防衛戦を展開する際に予想される進撃図も書き込まれている。
襄陽にたどり着く前にどこかで激突するだろう。史実では劉表は曹操の侵攻の前に病死している。が、この世界では何年も早くにこの荊州が戦場になった。病床に伏し弱気になっている男でもない。おそらくこちらの補給線が伸びきったところで反撃に転じてくるであろうということは、賈駆、司馬懿、徐庶、陳宮、李儒。李岳まで含めて全員の一致した見解だった。
新野。あるいは新野と樊城との間。単なる籠城戦ではなく、一度は大きな野戦になる。そろそろ出撃するであろう長安の益州軍に期待をしているからだ。勝てば良し。負けても疲弊すれば足止めになる。洛陽が陥落すればあとは煮るなり焼くなり望みのまま――劉表が考えるのはその辺りだろう。
弘農には赫昭がいる。後ろには皇甫嵩が控えている。益州が新たに開発し、大散関を撃破した砲の対策は既に授けた。長安には李儒と司馬懿が謀略を試み、李確、郭祀が潜入工作を企画している。長安の背後にいる涼州へは鍾遙と張既が接触に動いた。
静の中に動がある。守りに入っているようで、西部戦線もまたこちらが攻めている。主導権はもう二度と渡すことはない。
「一片の隙も見せずに勝つ。俺を甘く見るなよ」
そう呟き、李岳は地図から目を離して竹簡に視線を落とした。夜も更けてきたがまだ報告書がなくなってはいない。永家の者は既に荊州各都市に潜行し、微細知らせを放ってくる。勝つべくして勝つ。それを徹底するためにあらゆる手段を講じるのが自分の仕事だ。
ただ一つ問題があるとしたら、田疇である。昨年の末、貂蝉と出会って聞いた話が真実であるならば、この先の戦では勝ち目は限りなく薄くなる。思いのままに解決策を導き出す『太平要術の書』が実在するならば、もはやそれは神を相手取ることと変わりはない――ただ一つの隙を除けば。
賭けでもあり、無謀でもある。だが他に解決の糸口もない。しかしどうしても虚しい気持ちになる――
静かな夜。李岳は近頃かけるようになった眼鏡の位置を直して、燭台に油を注ぎ足した。窓から覗く夜空にはひときわ明るい冬の星、天狼星がこちらをじっと監視するように煌めいている。
不意に訪れた凄まじい孤独に、李岳は身を震わせた。
光熹二年。
河南尹、宛城の戦いにて劉表軍を破り南陽を掌握す。騎馬隊は精強、荊州兵は抵抗ままならず。涅陽、棘陽、育陽を戦わず制す。十日のうちに新野に至り、守備兵八千と相対すも軍師徐庶の奇計を用い三日のうちにこれを陥落せしめる。
劉荊州、蔡瑁を都督と定めて兵五万を派す。幕僚に張允、文聘、黄忠、霍峻、韓嵩。
両軍、朝陽にて相まみえる。
年度過ぎたらこっちのもんじゃい。
鄒氏さんさようなら。