真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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幕間 狂人の太鼓は右府にて響く

 雪の多い一月であった。幸か不幸か、降雪のために軍事行動は妨げられ、白銀の世界を踏み荒らす軍靴の行進はどの勢力においても控えられた。

 この数年を過ごしたのと同じように、李岳は忙殺の日々であった。劉弁が即位し二年目の治世。天下の大半が皇帝に造反し大戦が繰り広げられ、勝利をしたものの支配地域を激減させ、二人も偽帝の即位を許した先の一年。偽帝の打倒と国土の回復は時の政権にとって急務かつ必須であった。

 董卓が開設した丞相府は、初め抜擢した直属の者だけが詰めるいかにも急造の組織という体たらくで、どこの馬の骨ともわからぬ匈奴やら長安の果てやらの出身者ばかりで構成されていたものだから、周囲の名家名族は『馬小屋』とあだ名し存分に馬鹿にする始末であった。しかし馬良と馬謖を筆頭とした馬家五常、司馬家は次女の懿に続いて朗、孚、馗、恂、進、通、敏の司馬八達など、押しも押されもせぬ名門が集ったことも相まり、新年の祝賀を待って参与する者が瞬く間に増えメキメキとその規模を拡張させた。

 事ここに至って『馬小屋』などと馬鹿にできるはずもない。董卓丞相府は洛陽の主権を完全に掌握し、以前にもまして俊敏な機動力と、重厚な実行力を兼ね備えた無駄のない政権機構となった。

 丞相府は初め小さな一室で全てが事足りていたが、あれよあれよと手狭になり、やがて宮殿の西側に位置する広大な一室を借り受けることと相成った。なぜそのような部屋が使い道なく放棄されていたかというと、先の洛陽大火の際、乱に乗じて何者かに十常侍が誅殺された事件の現場だったからである。

 宮殿の中で血にまみれるなど穢らわしいということで持て余していたところを、李岳はこれはいいとばかりにドカドカと設備を運び込ませたのである。

 西側とは、北に御座する天子から見れば右手に見下ろす席となる。董卓丞相府は間を置かずに『右府』とあだ名されることとなったが、またそれは董卓自身を指す言葉にも転じていった、とは陳寿の記述に()る。

 

 ――事件はその右府にて起きた。その日は司馬八達が初めて揃い踏みで参内する日であった。

 

 さてその日、参内を表明していた者たちがとうとう登庁してきた。ズラリ並んだ背の高い乙女たち。うんざり極まるという顔で紹介を始めたのは何を隠そう司馬仲達。

 董卓と李岳はもちろん、右府重鎮たちを前にして、司馬懿は居並ぶ七人の皆を、あまり気の進まぬ顔で紹介した。

「それでは我が姉妹をご紹介いたします」

 気色ばんでる妹を押しのけて、笑顔を浮かべて前に出たのは司馬懿によく似た長身の美女。似ぬは豊かな胸回りと細い瞳。朗々と美しい声音を響かせて乙女は名乗りを上げた。

「姓は司馬、名は朗。字は伯達、真名は睦月でございます。お恥ずかしくも司馬家の長姉でございます……妹ともどもお見知り置きを。うふふ」

 彼女の横に並ぶのは英邁と名高い八達姉妹。右から左に姉から妹の順で相違ない。

 李岳を支える天才、賢狼の二つ名を戴いた司馬懿はあらためて頭を下げた。

「司馬、仲達にございます」

 中背短髪真っ赤な瞳の乙女が続く。三女の司馬孚(シバフ)である。

「孚。叔達。弥生。多分私は三人目だと思う」 

 溌剌たる栗毛は四女司馬馗(シバキ)、意気軒昂。

「字は季達! 卯月でいいよ! よろしく! 如月姉様がお世話になってます!」

 眼鏡をかけたおかっぱ頭はいかにも古風である。五女の司馬恂(シバジュン)は書を小脇に抱えたまま頭を下げた。

「字は顕達であるからよろしくお頼み申す。自分も真名でお呼びいただければ幸い。皐月でございます」

 おっとり垂れ目の三つ編み娘は司馬進(シバシン)。声の調子も温和である。

「司馬進はねぇ、字は恵達でねぇ、真名はねぇ、水無月なんだよぉ」 

 綺羅びやかなかんざしを挿した結い上げ娘は静かに誇った。七女の司馬通(シバツウ)。洛陽の男子からは八達でも最も麗美と名高い。

「ご紹介にあずかりまして、わたくし司馬通でございます。字は雅達でございますわ。真名は文月、と申しますの。素敵でしょう? でもですね、お姉様方に比べればわたくしなんて路傍の石のようなものですのよ……え、そんなことない? おほほ、あらやだ」 

 末娘の司馬敏(シバビン)は、未だ幼く小柄であるが、若さすなわち活力の証だとばかりに元気いっぱい体を動かす。

「葉月はね! 葉月はね! 司馬敏で、字は幼達って言うんだけど、子どもじゃないからね! そこんとこよろしくなんだからね!」

 全員が八人八様の挨拶を終えると、司馬朗が居並んだ全員を誇るようにして笑った。

「うふふ。はい、というわけで全員揃いましたので……せーの……」

 

 ――みんな八人司馬揃ってキャー司馬合わせろって八達!

 

 姉妹がそれぞれ自らが最も格好いいと思える姿勢を示した。決まった、とばかりにぐいっと腕まくりをしている姉妹の面々を前にして、司馬懿は呆れ顔を両手で覆うのみ。呆気に取られて言葉も出ない董卓以下重鎮たち。

 交渉の朗、軍事の懿、事務の孚、経済の馗、文学の恂、謀略の進、儀礼の通、土木の敏。それぞれ精通した分野を違えているが、それぞれが各分野の秀才と謳われている……それが芝居がかった滑稽な催しを持ち込んで現れるとは思わず、皆唖然となった。目が点になった皆を前にして、あらおかしいわね、と司馬朗は首を傾げる。

「ウケなかったわ。どうしてかしら、弥生ちゃん」

「どういう顔をすればいいかわからない」

「関西の方はこういう時『なんでやねん!』と一斉にツッコんで盛り上がると聞いていたのだけれど……」(※関西とはあくまで洛陽以西にある函谷関より西方の地域を指す)

「やはりここは天井に金物でもぶら下げ、我々の頭部に命中させるくらいの思い切りが必要だったのではないでしょうか、睦月姉上」

「でも丸見えじゃないかしら皐月ちゃん」

「楽しかったー! ねぇもう一回しようよもう一回!」

 やんややんやと盛り上がる姉妹たちに、とうとう司馬懿は声を荒らげて制止に乗りでた。

「姉上! お前たちも! 皆様のご面前ですよ!」

「困らせちゃったわ。でもね如月ちゃん、私たちはちゃんとご挨拶したかっただけなの……みんな職を辞してやって来たのです。冗談なんかでは来てないのですよ」

 そう言うと司馬朗以下はそれまでのふざけた態度をあらため、董卓と李岳の前に並ぶと膝をつき礼を示した。 

「丞相閣下、貴女様がその小さなお体で宮廷で戦い続けていた時、一目散に危難を救うべく馳せ参じるべきでしたのに、指をくわえて見ていただけの我が司馬家をお許し下さい」

「あ、頭をお上げください」

「恐れいります」

 しかし司馬朗は軽く面を上げただけで、着いた膝も組んだ腕も解かなかった。

「丞相閣下、そして将軍閣下。愚かで不出来な我が妹、司馬懿をお許し下さい。そしてその何倍にも無知蒙昧な私と妹たちをお許し下さい」

 司馬懿もまた目を白黒させている。丞相府に挨拶に出向くと聞いた時は世間話の一つでもして終わるとでも思ったのだが――

「妹――懿はその知の鋭さのためにしばしば愚かな判断をいたします。国の行く末を悟った気になり、世に出ぬことを考え、また将軍閣下のご訪問を二度にわたってお断りするなどと。ですがその司馬懿の情勢判断、知略、軍略に対する洞察を、私たち姉妹では国家のために尽くすよう改めさせることはできませなんだ。ですが閣下、貴方のご決断と戦いが妹の人生に光を与えました」

 司馬朗の細い瞳に光がよぎり、李岳を射抜くように注がれた。

「三度拙宅にお越し頂いたその労、万倍にして我ら姉妹は報いるでしょう。そして証明いたします。将軍閣下の見る目が、この国の誰よりも優れ正しかったことを」

 李岳は立ち上がると、司馬朗の手を取って立ち上がらせた。なるほど、この人も只者ではない。司馬八達がただの語呂合わせのあだ名などではないということが李岳にはよくわかった。血族を侮り辱めれば、牙は容易く御者を血塗れにするだろう。

「皆様の真名をありがたく頂戴し、私もまた冬至という真名を司馬八達の皆様と分かち合いたく思います」

「ありがたき幸せ。我ら姉妹は一心同体。閣下が知の獣、賢狼と名付けられた司馬懿の眷属。その牙、その爪はいささか丸みを帯びれども、当然姉妹皆に備わっております。将軍閣下、丞相閣下、どうか安んじて司馬家の全てをお使いあそばされませ」

 お見事、と誰かが一声挙げたのが皮切りであった。議場には万雷の拍手が鳴り響き、新たな政府参与を喜びで出迎えた。李岳もまた本心から喜び両手を広げて迎えた。司馬朗が冗談半分で口説き文句はなんだったのですかと聞き、司馬懿が慌て、司馬進があられもない下品な冗談をおっとり口調のまま口走らせ、司馬馗が鼻血を吹き出し、司馬恂は手元の帳面に何やら筆を走らせる――

 笑いの絶えない喧騒がいよいよと成った時、ふと伝令が現れた。兵卒は云う、宮殿の表に不審な人物がやって来て訪問を知らせている、と。身なりも風体も奇矯そのもの、あるいは狂人のそれとも思えるが、孔融の紹介状を携えているために無下には追い返せぬ。

 兵卒が口にした訪問者の名を耳にした途端、李岳は驚き、次いでにんまりと笑い、その方は確かに賓客である、丁重に奥へと招じ入れるようにと命じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――禰衡(デイコウ)。字は正平。青州平原郡般県の人。

 

 青州から洛陽に戦乱を逃れて身を寄せていた彼女は、役職を与えればこなせぬことはなく、名のある才人を並べても抜きん出て優れた仕事をこなした。しかしその性、豪胆、奇矯、奇怪、傲慢、壮烈……総じて天下無敵であった。彼女の舌鋒は身分も官位も問わずに鋭く貫き、人物評も辛辣に辛辣を重ねるもので大概の者は疎ましく思い避けて通った。しかし彼女にまつわる逸話や噂は枚挙に暇がなく、上洛して一月経った頃には既に知らぬ者などないほど評判が立った。

 その人物評に本気で怒り、怒鳴りこむ者も後を絶たなかったが、その度に孔融や楊修といった名門の中の名門の者が場をとりなし事なきを得た。禰衡は有力な名家の価値を重んじよく説いたからである。

 そして痛烈な批判や腹が捩れるような皮肉は、もっぱら権力者にその矛先を向けるのが世の習いである。禰衡の鋭利な持論も、主な標的は董卓や李岳であるとして散々に発言を繰り返していたのが、孔融たちにはそれがたまらなく面白かったのである。

 

 ――そしてとうとう名門の謀略家たちは禰衡に囁いた。どうかしら、李岳を直接訪ねてみては、と。

 

「なんぞ今日は丞相府に司馬八達が揃い踏みと聞きますわ。禰衡さん、貴方は誘われまして?」

 孔融の問いに、禰衡は手入れなどしたことなさそうなざんばら髪を左右に揺らした。

「いや、私は誘われてはいないな」

「そう、申し訳ないですわ」

「何が申し訳ないというのだ」

「都では司馬家の長女、司馬朗殿が天下で最も優秀な者であると噂されていて、とうとう丞相府にお招きを戴いたらしいのです。今日ちょうど参内しているらしいわ。貴女もこのようなところではなく、早くに司馬家へ挨拶へ行けば取り立ててもらえたであろうに」

 禰衡は憤慨して机を叩いた。

「何を言うか。私は避難してきた我が一族を守った君に感謝しておる。それをさしおいて、豚殺しや酒売りに挨拶など行けるものか」

「司馬朗殿は、ぶ、豚売りですの?」

 禰衡は鼻息あらく答えた。

「務まるかも怪しいな。身内である妹を売って取り入ろうとするのだ、商売の腕だけとっても不味い」

「董卓や李岳はどうですの?」

「君らの足元にも及ばぬ者たちだ。あれらがこの洛陽を牛耳っていることは先祖への恥だな」

 孔融は内心ほくそ笑み、言葉を続けた。

「いやしかし、見て会えば印象も変わるかもしれませんわ。今や董丞相は国家の危難を救うはここしかないと豪語し、あまねく天下の才をひとところに集めようとしている……どうかしら、貴女もまたその才を活かしてみては」

 ふむ、と禰衡は小さく頷いた。

「小人の元で働きたくはないが、その愚かさを一度この目でしっかりと確かめてみるのも興がある。よし、私は李岳の顔を拝んでやるぞ!」

 言えば即、とばかりに席を立ってのっしのっしと歩き出した禰衡を見送る孔融。彼女が背後でニヒヒと笑っているのを禰衡はもちろん知らない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ある者には耳打ちし、ある者は遠ざけて、李岳は来客を待った。丁重に迎え入れるようにと伝えた通り、下級官吏が先導してやってきたのであるが、しかし揃いも揃って困った顔。

 どんな風体のどんな者が現れたのか皆が興味津々の中、果たしてその者はやってきた。顔面を真っ青にする者が後を絶たず、唖然として口を閉じられぬ者が大半であった。

 ずりずり、ずりずり――禰衡は靴を脱ぎ、頭を垂れて膝をついたまま、這いつくばって董卓と李岳の元へ辿りつこうとしているのである。

 それは、身分や礼儀の上下という(くびき)を突破して、時の帝にのみ用いる作法であった。

 さしもの李岳でさえ唖然とした。なるほど、これが……いやはや、と生前の記憶を頼りに『禰衡』という人物の悪口や罵詈雑言を覚悟していたものの、これほどの先制攻撃を用いてくるとはまさか思ってもいなかった。これは改めて覚悟を決めねばとんでもない失態になる……

 禰衡はやがて一座の正面までたどり着くと、変わらぬ姿勢のまま言った。

「丞相閣下におかれましては、ごきげん麗しゅうございます」

 禰衡は平身低頭、頭を床に付けたまま身動きさえ取ろうとしない。さてこれは難題だ、李岳は頭をひねりながら口を開いた。

「禰正平殿、なにゆえそのようなお姿で、どうか面をお上げください」

「丞相閣下におかれましては、ごきげん麗しゅうございます」

 その場にいる全員が驚愕のあまりに目を見開いた――まさか、繰り返すつもりか、三度も!

「……禰正平殿、何卒そのような真似はおやめください。お席をご用意しております」

「丞相閣下におかれましては、ごきげん麗しゅうございます」

 とうとう三度の叩頭を繰り返して禰衡は面を上げた。

 皇帝に対してのみ行うべき最大限の儀礼は、居るもの全てを震撼させた。禰衡は董卓と李岳を合わせて皇帝にも匹敵する権威であるとこの場で宣言したに等しかった。これはこの場できちんと対応せねばあらぬ風聞は渦を巻いて洛陽を、全土を席巻するに違いない。曰く董卓は増長し天子が如き振る舞いをしている、曰く自らが天子の御座を襲わんとしている、曰くそれをとりなす李岳の陰謀――

 李岳は席を立つと、禰衡の前に膝をついて自ら手を取り立たせた。

「禰衡殿、なぜそのようなお戯れをなさいますか。董卓閣下も私も、禰衡殿より生まれ卑しき者です。いや、あえて平等であると申し上げましょう。どうかそのような真似はおやめください」

「何をおっしゃいます。閣下らはこの国でもっとも強大な権力を持っていらっしゃる。それは皇帝陛下にも匹敵するほどです。しからば、陛下に捧げるべき儀礼を閣下にも捧げるのは当然の道理ではありますまいか」

「それは事実を違えてらっしゃる。董丞相は自らの任期を区切られましたし、私もまた河南尹の身に過ぎません。いつ戦場で果てるとも知れぬ前線の者です。どうかそのような真似はおやめください」

 李岳がここまでへりくだると、流石に続けられぬと禰衡は身を翻して立ち上がった。ふむ、と今度は傲慢極まる眼差しで辺りを睥睨する。常人であればその豹変ぶりだけで気勢を削がれ、あるいは憤慨するであろう。しかし李岳は変わらず笑顔で――本当に心の底から喜んでいるとは誰も知るまい――禰衡を案内した。

「しかしここが噂の丞相府ですか、なるほど宮殿の一角をお借りしているだけあって内装は見事。いやはや天下の奇才英才が集うのに相応しいと言えましょう」

「まさしく、天下の英才が集まっていると言えます」

「果たしてそうですかな?」

 禰衡はぐるり議場を回った後、再び居並ぶ将たちを前にして、一人ずつ()めつけた。

 

 ――そしてまさに撫で斬りとばかりに全員を右から左で快刀乱麻、こき下ろしていったのである!

 

 司馬懿を指して言う。

「豚売りの妹は鶏でも売るのか?」

 陳宮を指して言う。

「貴様は犬の散歩がお似合いだ」

 高順を指して言う。

「墓守でもしておけ」

 呂布を指して言う。

「ただの大食らいだな」

 賈駆を指して言う。

「お茶汲みが天職ではないか?」

 董卓を指して言う。

「茶呑みを洗う下女である」

 他に並んだ者たちには、もはやかける言葉さえ無駄であるとばかりに鼻息を鳴らして終わった。

「残りは寝食に没頭しているだけの凡人に過ぎぬな」

 痛快であり鮮やかである、だがあまりにも非礼に過ぎた! 事前に、何があっても一言たりとも反論するなと李岳が申し伝えておかなかったならば、どのような大騒ぎになったか知れたものではない。顔を真っ赤にして耐え忍んでいる者も一人や二人ではなかった。

「やはりこちらは噂通り『馬小屋』と呼ぶ方が相応しいようだ。今はまだ糞尿の匂いはせぬが、そう遠くないうちに鼻をつままねば歩けなくなるかも知れぬ。厠の場所も作法も知らぬ者ばかり集まるから馬扱いされるのだ」

 禰衡は一言も反論の出ない幕僚を、物足りぬとばかりに鼻で笑った。

 李岳は禰衡から目を離さぬまま始終聞き入れると、やはり笑顔を浮かべて用意した席を示した。

「なるほど、お席にお着きください……ご心配なく、馬糞は先ほど掃除しました」

 面食らったのは禰衡である、ここまでこきおろしてまだ怒らぬとは――見くびっていたか? それとも予想を下回る愚か者か……

 場を失い着座を承諾した禰衡に、李岳はさて、と促した。

「一人、お忘れではいらっしゃいませんか」

「さて? 何をかな?」

「私です。禰衡殿。私のご職業をお当ていただきたい」

 ほう、と禰衡は顎に手を当てた。なるほど、我が身への中傷を煽り、無礼討ちにでもしようという魂胆であろうか? なるほど、よかろう! この宮殿で抜剣するような真似を、危急の時でもないというのに再びできるか――禰衡にとっては己の生き死にでさえ滑稽の種であった。

「なるほど、ではお答えいたしましょう。将軍閣下、貴方は匈奴の生まれ育ちだとお伺いしております」

「はい、間違いありません」

「孝廉に推挙されたことは?」

「未だかつてございません」

「匈奴の者は生まれた時から馬に乗り、獣を狩り、畜を遊ばせ糧を得ると伺っておりますが」

「正しゅうございます」

「はてさて、それを職と言えますか?」

 李岳はニコリと微笑んで言った。

「人によりけりでございましょう」

「では、そうは言えぬと考える者を非難もできますまい」

「然り」

「将軍閣下、貴方は山奥で山羊でも飼ってるのが分相応というものではありますまいかな?」

 

 ――さすがにこの言葉にはたまらぬのか、呂布を含んだ幾人かが隠し得ぬ殺気をゆらめかせた。

 

 李岳が先んじて笑い声を上げていなければ、やはり非難の声は怒号となって出ていたに違いない。李岳はニコニコと笑顔を浮かべたまま、座している人々の前を練り歩きまるで禰衡に紹介するかのように語った。

「禰衡殿、貴女が看破した皆の職業や身分、実は全て正鵠を射ているのでございます。心の底から敬服申し上げる」

 何をいう? 禰衡は思案したが検討も付かぬ。媚びか阿りか、しかし一言もなく認めたならば、それは礼儀をわきまえているというのを超えて卑賤であり怯懦である。

 しかし李岳は堂々たる仕草で言うのであった。

「そこの鶏売りは私に天下の行く末を指し示して頂きました。世の闇を払う鶏鳴を吠えたというところでございましょう。名を再びお教えしましょう、司馬懿です」

 司馬懿は立ち上がるとその長身をたおやかに折り曲げ禰衡に礼を示した。

「犬の散歩が好きな小娘は、まさに愛犬と戯れているのが相応の年頃です。その時間さえ奪って仕事に没頭しているのは天下の混迷と私の不明のいたすところです。しかし彼女は既に数万の浮浪の民、洛陽の治安、安心して行き帰る商道など、枚挙に暇がありませぬ」

 エヘン、と胸を張って陳宮は袍の裾をつまんでお辞儀した。

「高順殿が守る墓は倒れ伏した百の(ともがら)で、屠った敵兵幾万のものである。世間に背を向け生き死にを論評するだけの者とは気骨が違うと言えるでしょう」

 高順は額に浮き上がっている傷口を小さくなぞり、禰衡を無表情で眺める。

「呂布殿の大飯喰らいの大飯喰らいぶりは実際困ったものなのですが」

 笑いながら、しかし、と李岳は続けた。

「千の兵を倒し、万の兵を退かせるもののふであります。大飯だけを喰らっていれば幸せな者とは一味ちがう」

 呂布は微動だにせず禰衡の方さえ見ていない。しかしその身体に充実している気を見紛う者はいないだろう。

「賈駆殿の淹れる茶はこれが意外にうまい。今度ご相伴に与られてはいかがですかな――冗談などではなくね――しかしたかが茶汲み娘が嘘でもこの国の頂点の一角、三公に立てるとお思いなどと、禰衡殿もお考えになってはいらっしゃらないでしょう。差し出された茶をただ飲むだけ。世の混迷に目を向けず、日常に汲々たる者がこの世の大半なのですから」

 賈駆は眼鏡の位置を直しながら、興味ないとばかりに書簡の続きを読んでいる。やたらと大きな音を立てて茶を啜ったのはあえてであろう。

「董卓殿に至ってはまさに下女です。しかし仕えるはただこの漢に君臨する皇帝陛下のみ。二君に仕える愚か者ども、偽帝に媚びへつらう売国奴に比してなんと気高い下女か。それを笑うのもよし。しかし、まずは下女よりなお卑しい者どもへ怒り、また天下の人のなさに憂うのが先でございましょう」

 はうう、えうう、と声をこぼしながら、董卓は何度も謝るように禰衡に頭を下げた。

 

 ――さて、と李岳は続けた。

 

「私に至っては確かに匈奴の生まれであり、并州の北では山羊飼いでありました……そのまま生きられたらなんと幸せであったでしょう! ですが今は乱世、陛下に忠信を捧げる者ならば無論戦いの場に身を投じるのが当然の心得です」

 李岳はじっと禰衡の目を見た。ただの戯言使いであれば既に怯えているであろうが、禰衡もさるもの、微動だにせず李岳の視線を受け止めている。

「禰衡殿。私たちが身に余る大任を預かり、その非才が故に未だ陛下の心を安んじ奉るを成し得ず、民の安寧を守れていないのは百も承知。我らより戦い、我らより考え、動き、そして死せる者がいるのならばいつでも代わりの者を寄越すがよろしかろう。ですがその身を惜しんで嘲笑うだけの虚言を繰っているであるならば、禰衡殿、祖先の霊が嘆き悲しむことは請け合いましょう」

 いつの間にやら、李岳の隣には董卓が立ち、呂布が立ち、そして陳宮が、司馬懿が立っていた。全ての者が黙ってただ李岳の横と後ろに立ち禰衡を見た。付け足す言葉も差し引く言葉もないとして、皆、李岳に全てを預けていた。

 禰衡はじっと李岳の目を見ると、フンと振り返り数歩後ずさった。そしてジロリと議場の端を睨みつけると、ツカツカとそちらへ歩いて行く。

 そこには架台に取り付けられた巨大な太鼓があり、禰衡はそれをやおら議場の中央へと引きずり出すと上着をバッと脱ぎ捨て肌を晒した。真っ白な肌が眩しく、さらしを巻いてはいるものの女子としてはあられもない。いや宮殿であることを考えれば無作法もいいところである。そしてまた、太鼓叩きは卑しい身分の者が務める職であるともされていた。

 (バチ)をくるくると回し、音を立てて掴み直すと、禰衡はドン、と一度太鼓を叩いた。口元には滑稽ではなく、それを超えた洒脱な笑みが浮かんでいた。

「将軍閣下。この禰衡、蒙を啓かれ候。天下に人は多くあれど、その働きが未だ足らざるを重々承知。某もまた一人の太鼓叩きに過ぎぬ身の上。天下のため人のためと言いながら私欲にばかり目を向ける愚か者は掃いて捨てるほどあり、しかしこの『馬小屋』に身をやつしてまで働こうとする者のなんと少ないことか! 未熟ながらこの禰衡の腕前をご披露したく存じます」

 ドン、カッ――試し打ちの時点で既にその技量が伝わる。禰衡は白い肌を真っ赤に紅潮させ、節をつけて歌いながら撥を踊らせた。

「ええい、遠からんものは音に聞け、近くば寄って目にも見よ! ここが天下を舵取る丞相府! 臭い臭い馬小屋なれど、悪党蹴散らす騎馬の群れ! 出陣太鼓の響きを聞かば、天下のためにと右府に駆けい!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――禰衡の帰りを今か今かと待っていた孔融は、どうじゃったどうじゃったとその労を伺った途端、禰衡自身に怠慢と傲慢と未熟と非力を喝破され、詰問され、散々にどやしつけられたという。呆気に取られた孔融であったが、即座に禰衡を不義理者となじり一切の支援を断った。

 

 世の者は孔融による禰衡への仕打ちを何ともみっともない、先祖の顔に泥を塗ったとして散々な噂を繰り返し、やがて孔融の家に訪れる者は途絶えてしまった。

 一方、禰衡は家を失い文無しで洛陽の町に放り出されたが、家を失ったまま呵々大笑して時に軒先で、時に酒家で雨露をしのぎながら日々を過ごした。相変わらず天下の人を虚仮にしながら――もちろんそれは『馬小屋』の人も含まれた――しかし董卓も李岳も一向に禰衡を非難しようとせず、ありがたい諫言であるとして受け止め、時にまた太鼓を披露してくれと呼ぶことさえあった。その度に李岳は見事であるとして金を与え、禰衡は受け取った金で馬具を買い右府に届けたという。

 そうして禰衡は街の人に愛され、招かれては争い、追い出されては招かれ、そして愛され続けた。彼女は終生人を易々と褒めることはなかったが、教えを請う者には繰り返し二つの言葉を述べ続けたという。

「世はおしなべて人でなし。せめて天下を綱引く馬となれ」




李岳も作者も禰衡のファン。

この人をご出演させることができて大変嬉しくまた恐縮です。しかしどう脚色しても史実が最も圧倒的で最強なので、何しても蛇足になるというか、本当マジ暴れん坊。
なんかディオゲネスっぽくなっちゃいましたけど思えば似てるよな、となんとなく。

幕間ターン終わり。次回から戦乱へ。

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