真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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八十六話の直後の話です。
司馬懿の話、と見せかけてちょっと違う。


幕間 それが私にできること

 作戦会議が終わった室内では、しばらく重い重い沈黙が続いた。

 守勢は終わりだ、これからは攻勢を取るぞ――そう意気込むには十分な方針が示された、にも関わらず誰もが居づらく気まずい空気になった。司馬懿はうつむき内省に浸るだけ――ああ小人の浅はかさよ! 重責を担えると勘違いして舞い上がったか仲達――極力顔に表情を出すまいとして(事実その目論見は成功していた)沈黙を守っていた司馬懿だが、その内心は動揺で転覆しかねない程に嵐であった。

 その孤独と自戒の沈黙を打ち破ったのは張遼であった。いつの間にやら司馬懿の隣に立ち、その肩をポンと叩いたのである。張遼は口の端を歪め、その犬歯を見せびらかすように司馬懿に顔を寄せた。

「っしゃ。ほな行こか」

「……行くとは」

「一つしかあらへんやろ」

 その瞳のギラつきに、司馬懿は己が拒否できる状況にないということを即座に理解せざるを得なかった。

 ヒヒヒ、と笑って張遼は言った。

「飲み会でんがな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 張遼が予約していたのは洛陽でも比較的下町の路地にある一軒の酒家であった。一度に二十人も入れば精一杯な広さで、元より貸し切りにしてくれと連絡を回していた。洛陽で張遼が常連として通いつめている店の一つである。戦乱の中で材料の調達が難しくなった折、永家を通して融通を利かせたことがきっかけで馴染み以上に親しくなった。

 昼過ぎという飲むにはやや早い時刻、漢の重鎮がぞろぞろと目抜き通りを行く様は珍妙極まった。

 もちろん護衛として永家の者が周囲にへばりついていたのは言うまでもない。しかし、張遼、華雄を始めとした李岳軍きっての猛者、さらには呂布まで擁したこの陣営に喧嘩を売るには兵五百でもまだ足りない。時折董卓に対しての応援や歓声が沸き起こる中――そしてその度に、えぅ、と恥ずかしくて俯く董卓――丞相府飲み会御一行は宴席へとたどり着いた。

 戸をくぐりながら、勝手知ったるとばかりに張遼は店主に声をかけた。

「おいちゃーん、世話んなるでー。言うといた通り適当に料理だしてぇな……うい、ほなみんな入り! 今日のお代はもち冬至にツケやから安心して食べ放題飲み放題してってや!」

 なんでお前が偉そうなんだ、と華雄のツッコミを気にもとめずに、張遼はタダ酒の嬉しさに肩で風を切って先頭を進んだ。

 通されたのは奥の座敷である。冷菜たちは既に賓客の来店を心待ちにしていたようで、山海の珍味が卓上ところ狭しと並んでいた。

「席順はみんな適当でええな、官位とか固いことはいいっこなしの無礼講でいこうやないか。よっしゃ、なに飲む? 初めはみんな生でええか?」

 生とはあくまで火入れをしていない酒を指す。昨今の洛陽では最初の一杯は生を飲む、というのが風流とされている。

「あ、私は酒精なしで……」

「なぁんや月! こういう時は一杯くらい飲まなあかんでぇ!」

「えぅ……」

「ちょっと! 月に無理やり飲まさないでよ!」

「おっ、ほな代わりに詠が飲むんやな? ええ根性キメとるなぁ。よっしゃよっしゃ、ほなそれでいこ!」

「馬鹿そんなことは一言も」

「おーっしゃやろやろ! 連合戦勝利の祝い酒と丁原様あらため高順様の復帰と新人の歓迎会と今年ももう終わりやから忘年会も、なんもかんもごっちゃ混ぜの飲み会のはじまりやー! かんぱーい! ひゃー、くそうめー!」

 神速の張遼、面目躍如である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 飲み会は万事順調に崩壊していった。一刻ともたずにへべれけが大半である。

 実はこの中で最も酒豪なのは赫昭であった。こんなところまで鉄壁である。前後不覚になった張遼をおぶって連れ帰ったことも一度や二度ではない。今夜も誰かの面倒を見なければなるまい、とあらかじめ覚悟を決めてきたので、酒もそこそこに控えていた。おかげでこの乱痴気騒ぎを落ち着いて見回すことができた。

 完全に飲み食いに走ってる呂布と陳宮、そして李確に郭祀。四人の周りには空いた皿が山と積まれ、これはそういう勝負なのだと言わんばかりにお代わりの連呼が止まない。やはり包帯をほどきもせずに器用に飲食にいそしむ郭祀の仕草は一見の価値在りだった。

 高順と華雄、徐晃に徐庶の四人はほろ酔い気分で武術談義に花を咲かせていた。あと半刻もすれば木剣片手に打ち合いでも始めかねない。時折漏れ聞こえてくる李岳の昔話については赫昭も耳をそばだてて一つ残らず聞き漏らすまいとしたが。

 賈駆は小休止といったところか、横になったまま董卓に介抱されている。李儒は部屋の隅で居心地悪そうに膝を抱えながら「現実充実、略して現充どもめ……」と何やら呪詛をこぼしているが意味はわからない。だがおそらくそう遠くない未来に徐晃に捕獲されるであろう。

 おしなべて皆楽しそうであったが、赫昭は席の一角から目を離せなかった。張遼と司馬懿である。李岳から厳しく叱責を受けたばかりの司馬懿と、それを慰めるようにあっけらかんと笑う張遼は傍目からどう見てもかみ合っていなかったが、一歩も引かぬとべったりと彼女から離れない。

 張遼は司馬懿を慰めるつもりでいるのだろうが、どうにも逆効果な気がしてきた赫昭である。というわけで赫昭もまた先ほどから張遼の反対側から司馬懿の隣に席を移していた。

「まぁ飲もうや、あんたそれお茶やろ?お姉ちゃんにはわかるで!」

「私の姉は司馬朗ただ一人」

「わかっとるがなー。ツッコミ待ちやんかー。てな、ほんまアレやな、めっちゃそんな気分ちゃうって顔してんな」

「それ以外の表情に見えたら私は貴女の正気を疑います」

「ギャハハ! 酔っぱらい掴まえて正気もクソもあるかいな!」

「……皮肉も通じませんか」

「堅物やなぁ。ま、そんなんやから冬至のバカタレに説教もらうねん」

「主君を、悪くいうなどと!」

「ほえ? 主君?」

 クワッと憤った司馬懿に対して目が点の張遼。なるほどな、と赫昭は思った。司馬懿は同じなのだ、自分とよく似ている。

 李岳は主君である――張遼はその言葉に心底を首を傾げ、言葉を続けた。

「冬至が主君? おーい、そんなこと思ってるやつこん中におるか?」

 呼びかけに談笑が止まったが、真っ先に答えたのは横になって唸っていた賈駆。

「いないわよ馬鹿。そもそも月の方が位が高いのよ、なに言ってんの馬鹿。丞相を前にして河南尹を主君とか本当やめて」

「え、詠ちゃん……わ、私と冬至くんはそんな上とか下じゃなくて……」

「そうッスそうッス! 丞相の方が偉いんす!」

 李確が大仰に頷く向かいで、いやそもそも、と徐庶が続いた。

「我々がかしずくのはただ陛下にのみ、が正しいでしょう」

「おう、言うではないか珠悠」

「あ、はい、母さま……えへへ」

 部屋の隅でうずくまっていただけの李儒も立ち上がり吠えた。

「卑怯な罠で安息の地である永久(とこしえ)の闇から引きずり出し、呪詛の契約により我を不当に使役するあの者は、いずれ復活される邪龍様の一番最初の生贄にするのだ、ただそれだけなのだ……」

 李儒の言う『永久の闇』というのは、つまり自分がひきこもっていた自室の隅っこなのだが、そうすると邪龍様とやらも李岳の肩を持つのではないかと思われた。

 宴席は各個バラバラに繰り広げられていたようなものだったが、この話題を皮切りに話は一つに収斂していった。

上司への愚痴である。

「まんず、李岳の旦那も困ったもんだで」

「まぁ冬至があんな風に怒るんは序の口やろ?」

「そうですね」

「全然へっちゃら」

「ですですなのです」

 そろそろ回復してきたらしい、賈駆が拳を握って熱弁を振るった。

「わかりにくいのよあいつ! 本当相変わらずなんだから!」

「おう、詠。この前やってたアレやったれ、アレ」

「いやよ……丁原、じゃなくて高順様もいらっしゃるのよ……」

「私のことなら気にするな、賈文和殿。愚息の不出来を殊更かばうつもりはない」

「はぁ……」

 コホンと咳払いをすると、賈駆は李岳がいつもそうするように、左腕は胸の前で組み、右手で顎先を撫で、そしてニタァと笑った。

「『なるほど……それでは、覚悟はいいですね?』」

 張遼が口に含んでいた酒を吹き出した。陳宮が口に含んでいた米粒をぶちまけ、徐庶がバターンと倒れ込んだ。董卓までもがププ、と笑いをこらえきれない有様。その声はまるきり李岳と瓜二つ。とんだ一芸である。

「ぎゃーっははは! 似とる! あーうっとしわー! その口元の笑みうっとしー! ヒーッヒッヒッヒ!」

「『霞、いけるか』」

「待つのです! 大変なのです! 高順殿がお酒を吹き出しているのです! びちゃびちゃなのです!」

「やるな、賈文和」

「かっこつけたかて様になってませんて! ひっくり返ってんのに! ……はぁー、おもろ。涙出てきた。あー、せやからな、司馬懿っち。冬至がほんまにブチ切れこいた時は、あんな風にやらしーく笑うんや。あん時のアレはまだ序の口や、気にしたらあかんで」

 大盛り上がりの一座であるが、黙念と俯いている者が一人だけいた。言うまでもない、司馬懿である。張遼の呼びかけにも全く反応しない。

 赫昭は何やら不吉を予感し、司馬懿に声をかけ外へと誘った。ちょっとばかり外の空気を吸わないか、と言えばすっくと急ぐように出て行った。スラリと背が高く、流れるような美しい髪が後ろを歩く赫昭からはよく見えた。全身傷だらけ、武人として生きてきた己との差は体躯一つとってこれほど違う。

 ああ、と赫昭は思った。なんと美しい娘なのだろう。全身からにじみ出る才、それに裏打ちされた自信。名家の誇り、堂々とそれを利用しつつも笠に着ぬ美徳、全て自分にはないものだ……

 こっそりと後ろから呂布が付いてきているのに気づきながらも、赫昭は無論そのことは口に出さずに司馬懿と外へ出た。店には庭に面した縁側のような席もあり、そこに二人で腰をかけた。

「ご不満かな、司馬懿殿」

「と、申されますと?」

「皆が李岳将軍に馴れ馴れしいので」

 司馬懿は眉一つ動かすことなく反論した。

「いちいち詮索はいたしませんが、高順様は冬至様のお母上とお伺いしています。ご母堂が楽しそうにしておられるのに、家臣がなぜ諫言できましょう」

 それとも、と司馬懿は付け加えた。

「赫昭殿、貴女も冬至様の臣下気取りはおかしい、とお叱りになるつもりですか?」

「いや、自分はあの方の臣下だと思ってる」

 意外な返答に、司馬懿は初めて赫昭に感情のこもった表情を見せた。

「自分はただの兵卒に過ぎなかった。雑兵と言ってもいい。最前線で揉まれるだけの兵士だ。雁門関の戦いで冬至様に抜擢されたのだが、そうでなければどこで野垂れ死んでいたのか知れない。表には出さないが、自分は冬至様に最後まで臣従すると決めている。たとえどのようなご決断をされてもだ」

「それが、例えば……この洛陽で、既存の価値観を壊す重大な決断であってもですか」

 赫昭は答えず、ただ司馬懿を見た。

 お忘れください――司馬懿はそう呟き、赫昭は頷いた。

「自分から言えるのは一つだけだ。気楽にやろう、ということ。冬至様もそれを望んでおられる。自分はあの人の忠実な臣下でありたいし、だが同時に友でもありたいと思ってる。幕僚に集ったのも気のいいやつらばかりだ。明るく楽しい……絶体絶命の窮地であるからこそ、そうであることが大切だと思う」

 不意に、赫昭はこの司馬懿の賢明さを見くびっていたことに気付いた。

 おそらくこの乙女は、幕僚の誰よりも洛陽が置かれている――いや、この国が危急存亡の時を迎えていることを明確に察知している。それに対する危機感、焦燥感は普通ではないのだろう。李岳からの期待も重なり、

 毎晩李岳の邸宅に通い、献策と情勢分析をしているという。羨ましくないと言えば嘘になるが、物と同じように人には適材適所という理屈がある。武将として存分に戦うことが、万言を交わし合うよりも李岳のためになるならば、その選択をためらうことはない。

「恋殿もどうかな、こちらに」

 赫昭が言うと、柱の後ろでらしくなくモジモジしていた呂布がひょっこりと顔を出した。司馬懿が意外そうな顔をしたが、呂布も司馬懿と話してみてもいいと思ってる、それだけだ。ただ毎晩李岳と長い時間話しているから嫉妬(という自覚があるとして)しているだけに過ぎない。

「恋は、別に」

「そうだな。じゃあ、飲むだけにしようか」

 赫昭は酒瓶と杯をしれっと取り出した。注がれた司馬懿が波々とたゆたう酒の動きとにらめっこをする。

「飲めぬのか? 無理はしないほうがいい。ただ、冬至様はああ見えて飲兵衛だ。ある程度付き合いができた方がいいのではないか?」

 その一言が契機だったのだろう。司馬懿は杯をじっと見つめた後、ぐいっと一気に干した。

「何ほどのことがあるもんですか。このくらい」

「恋も」

「よし、飲むか」

 三人は夕暮れに差し掛かりつつ有る洛陽の空を眺めながら、カツン、と杯をかち合わせて戦闘開始を宣言した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そんなわけであります」

 赫昭の報告に、李岳は珍しい呆れ顔になった。じっと報告書に落としていた目をこちらに向けて、最近かけるようになった眼鏡のままため息一つ。

「それで? 昼から夜までぶっ潰れるまで飲み続けたわけか」

「はっ」

 赫昭は礼を返したが、隣で立っている呂布はヒックヒックとしゃっくりをするだけで返答をしない。司馬懿に至っては呂布の背中で意識不明である。時折もがもがと何かを言ってるが到底明瞭には程遠い。

「ま、楽しむのはいいことだ。昼間は如月にも強くあたったものだからね。みんなで慰めてくれたんだろう」

「ただ酒を楽しんだだけです」

「そういうことにしておこう。如月と恋は仲直り出来たかな」

「ご本人にお聞きになった方がいいかと」

「恋?」

「如月、もう友達」

「そう。良かった。これで心配が減ったよ」

「……あン?」

「なんでそこで凄む……」

 ウイー! と絵に描いたような酔っぱらいの声を漏らしながら、呂布は李岳にツカツカと近寄ると(背中で寝ている司馬懿の首がガクガク揺れている)突如として涙目になる。

「冬至、来なかった。冬至、来なかった……」

「いや、仕事があってね」

「また、恋を置いてどこかに行く……」

「恋」

 ヒック、ヒックと怪しい吐息を漏らしながら、呂布が李岳に恨み節をこぼしかけるのが目に見えた。

 赫昭は、そこまでだ、とその肩を優しく叩き、家の奥へと誘った。

「恋殿、もうお休みになられるがよかろう。悪いが如月殿にも寝台を貸してやってくれぬか? 明日また、冬至様とお話されるがいい」

「……ん。冬至、どこにも行かない?」

 潤んだ瞳を赫昭がそっと拭ってやった。鼻水も拭ってやった。

 李岳は眼鏡を外し、優しく声をかけた。

「ああ。どこにも行かない。おやすみ、恋」

「……寝る」

 あくびをこぼして呂布は司馬懿を背負ったままふらふらと歩き出した。ムニャムニャしていた司馬懿が突如叫びだす。

「天地開闢! 日月は光を重ね! とうとう君主に出会った! ついに力を奮える時!」

 賢者は酔いつぶれた挙句の寝言まで詩が飛び出るのか。喚くように歌い続ける司馬懿を背負ったまま、呂布は自室へと引き上げていった。

 李岳の再びのため息。

「……全く、下手な詩だよ。あれだけは曹操には遠く及ばないな」

「曹操は詩が上手かったのですか」

「ああ。そして戦争が上手い。悲劇だな。ま、詩を歌えもしないのだから、俺はもっとひどいことになるけど」

 呟きながら、李岳は机の上の書類を片付け始めた。彼に休む間などない。会議の後、何やら人と会ってるという話は聞いたが、それからはずっと書類との格闘だったのだろう。今この人を抜きにしてこの洛陽は回らない。

 李岳という男の影響力は直接皇帝に繋がっており、さらに洛陽の中の経済、治安、軍、隅々にまで行き渡っている。全国の群雄の情報や人材の配置まで余さず全て一度は彼の元に集まる。

 誰よりも苦しみ、働いている。だから誰もが任された仕事を軽んじたりはしないのだ。

「しかしひどいな。そんなに飲ませたの?」

「ほどほどに嗜みました」

「そんな話ばかり聞かされて俺はどうしたらいいと思う? けどいつだって段取りのいい沙羅のことだ。もちろん手ぶら、というわけではないんだろう?」

 李岳がそう笑った時には、赫昭は隠し持っていた酒瓶を取り出し、李岳は小さな杯を二つ机から出した。庭には簡単な机と椅子がある。もちろん寒いが構うまい、満月の輝きが赫昭の目を焼くように飛び込んできた――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――以前、張遼に話を切り出したことがある。

 

 それは幾度となく行われている調練での模擬戦の後であった。これからの軍の配置や行動の改善を二人で打ち合わせた後、やはり洛陽の酒家で一献酌み交わしている時である。

 珍しくほろ酔いの気分であった赫昭は、思わずその言葉を口に出していた。

「霞は冬至様が好きか?」

 言った方も言われた方も照れなかった。もやしをシャキシャキと飲み込んでから張遼は答えた。

「好きやな」

 そうか、と赫昭ももやしを噛んだ。シャキシャキ。張遼が酒のお代わりを注文した。

「自分も好きだ」

「色恋で好きなんか?」

「……わからない」

「さよか。難儀やな」

「霞」

「ん?」

 ふと、自分が張遼に恨み言を言おうとしたのに気付いて、赫昭は慌ててお代わりの酒を飲んで言葉を胃袋に戻した。

 李岳軍の槍と盾。まるで双璧のように言われているが実態は違う。赫昭は自らが張遼に大きく劣ると思っていた。だから貴女には自分の気持ちはわからないのだと――そのような愚かなことを口走ろうとしたのだ。

 こんな話は、張遼とでさえ最初と最後であった。二人は間を置かずに兵科の話に話題を移した。張遼にはわだかまりは見えない。器の大きさでも自分は負けている。そんな口惜しさだけが残る酒になった夜だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 グッと一杯目を飲み干してから、李岳は呆れたように笑った。もう夜半を超えている。一日に寝るのは二刻もない、と噂で聞いたことがあるが、到底確かめる気にはならない。ただ目元の隈だけは月に照らされはっきり見える。

「しかし酒を飲んで如月が潰れたか……鬼の霍乱って感じだな」

「お叱り頂いたことが堪えていたようです。初めは打ち解けることさえ不愉快そうでしたが、最後は皆で大宴会でした。真名も交わしてました。もう大丈夫でしょう。」

「一度くらいは叱ることもある。けど二度目はないな。もう彼女を叱ることなんて俺の人生ではないだろうね」

「それほどの信頼ですか」

「沙羅。君もそうだよ」

 不意にそのようなことを言うのはやめて欲しい。赫昭は急いで二つの杯におかわりを注いだ。

「……そういえば、初めてお会いした時はお叱り頂きましたね」

「泣かせたよな。正直焦った」

「うそ」

「ほんとだって! 挙動不審になったんだからな。手に汗びっしょりだったっつーの!」

「……あはは」

「よく頑張ってくれた。あの時も、今も」

 もうだいぶ飲んでいるというのに全く酔えないし、次々と酒は進んでしまうし、困ったものだ。

 じっと李岳の横顔をのぞいてみた。

 背が伸びている。そのことに気付いて赫昭はドキリとした。癖のある髪。瞳は大きく、少し明るい色をしている。顔立ちは幼いと言ってもいい、髭もない。こうしてみるとただの商家の丁稚のようにしか見えない。耳の裏に小さなほくろがあるのを見つけた。まつげが、とても長くて――

「なんかついてる?」

「――あ」

「沙羅?」

「いえ、なにもありません」

 赫昭は誤魔化すようにうつむき、杯に口を付けたがあいにく空だった。多分、李岳は気づかなかった。

「年を越すね」

「……そうですね」

「生きていられた、いいことだ」

 なんとか無事に年を超えられる。それに妙な感慨がある。いつ死んでもおかしくなかった。目の前の人がそれを一つずつ乗り越えさせてくれたのだ、と思う。いや、一緒に乗り越えてきたのだ、と思っても罰当たりではないだろう。

 日付を耳にしたために、赫昭の脳裏には今後の日程が立ち現れ、思わず報告するような口調になってしまった。

「年明けすぐに防衛戦の訓練、物資の輸送に入ります。一月の内には函谷関に入城したく思います」

「新年を祝う暇もないかもしれない。すまない」

「忙しい方がいいです。別れが惜しくなりますから」

 そう、年が明ければ別れがある。今日の宴会で盛大に騒いだのも皆の脳裏にそれがあるからだ。

 年明け、荊州を目指す遠征軍は南に向かい川を渡り、南陽への入城を目指す。赫昭は別働隊を率いて西だ。少ない兵をさらに分け、勝勢盛んな敵に当たる。練度に自信があるとはいえ、荊州は盤石な土地であり、長安は新たな皇帝を打ちたて朱儁も破り血気盛ん。東に至っては仮初めのほぼ丸裸、同盟に託しての出兵である。いつなんどき変事が起きてもおかしくはない。

「冬至様、次にお会い出来るのはいつでしょうか」

 李岳は簡単には答えなかった。

 赫昭にはわかっていた、少なくとも一年。下手をすれば五年は離れ離れになるかもしれない。長安方面作戦軍は長安を奪還するまで容易に軍務から離れることはできまい。李儒、李確、郭祀が主となって内部工作をするということだが、それがどの段階で成功するかも未知数だし、長安包囲作戦に発展することもありえる。そうなれば東方作戦を指揮するであろう李岳とは数百里を挟んでずっと背中を向け合うことになる。対袁紹の戦線にも参陣できない可能性は高い。

 長安を破ればそのまま入城することになる。袁紹に勝てばそのまま北方安定に乗り出す。李岳との距離は離れていくばかりだろう。いつ会えるか、五年という見積りが正しいのか。

 しかし、全ては生きていれば、の話だ。武人であるのだから当然死ぬこともありえる。

 自分も。李岳も。

「武力による長安侵攻になれば、皇甫嵩将軍にも前線に出てもらう。ま、断っても絶対についてこようとするだろうけどね。朱儁将軍の仇討ちとのことだ。きっと助けになってくれる」

「はい」

 いま言わなければ、もう二度と伝えられない言葉があるかも知れない。

 思いが、突如として切羽詰まって胸で暴れた。赫昭は過去例にない動揺に駆られた。

「あの、冬至様」

「ん?」

 李岳が小首を傾げてこっちを向いた。赫昭の喉がひりついた。

「冬至様。自分、自分は」

 貴方のことが――

「どうした?」

「自分は、わ、私は」

 グッと掌を握りこんだ。汗が滲んでいる。それを開いてみると、傷だらけの肌がのぞいた。

 女。女である自分を拾えばどうなるだろう。李岳はどうするだろう。

 李岳は、戦わせてくれるだろうか。

 天啓のように落ちてきた閃きは、赫昭にまるで未来を予見させるかのような予測を与えた。

 李岳はきっと、自分を慮るようになるだろう。ねぎらいを超えた配慮を与え、死なないようにする――いや、きっと自分を殺せなくなる。死ねと、自分のために死ねと言えなくなる。

 それは、李岳を守り続けるという赫昭の決意を、より強く辱めるものだった。

「沙羅?」

 小首を傾げた李岳に、赫昭は大口を笑って返した。ハッハッハ――あまり人前で大きく笑わない赫昭である。李岳は驚いて目を丸くした。

 譲って成るものか、と赫昭は思った。一番美しくあることも、賢くあることも、疾きことも強きことも、近くでいることさえも必要ない。喜び手放そう。

 だが、どれだけ地を這い泥を飲もうとも、この人を守り続けるという栄誉だけは手放せない。それだけあればいい、それだけが誇りなのだ。どれだけ遠くにいようとも、この人を守ることができるのならば――

「冬至様、私はきっと、貴方を守り続けてみせます」

「お、おう」

「自分は、幸せものです!」

 カッ、と足元を揃えると、それはそれは見事に胸を張って赫昭は笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 年が明け一月も過ぎゆく頃、南方制圧軍に先駆け、赫昭を筆頭とした長安方面作戦軍はまずは函谷関を目指して洛陽の西から出陣した。大兵を催し奸計を巡らせ、朱儁を打ち取り長安を奪った益州軍へ向けての出陣である。

 まさに西の要として戦列を率いる赫昭。天険の要害を拠点にして防衛戦に勤しむのが任務だとは言え、それが容易いなどとは誰にも思えない。その兵数はあまりにも頼りなく映った。それがまさに洛陽の限界でもあり、また李岳の信頼の裏返しとも言えた。

 対劉焉戦線の最前線に向かう将と兵たち。皇帝直々に威西将軍の号を戴いた赫昭の背中に、しかし不安はない。

 

 その日は快晴だったと、陳寿は記すのみである――




赫昭はかっこいい人。

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