真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第九話 決闘と真名

 ――時は戻り、琢郡の街。

 

「縄を解け」

 楼班は渦巻く嵐の中心で溢れ出る殺気を懸命にこらえながら口にした。

 だが平静さを装うとしたために声は音の低きを流れ、その殺意と怒りをいや増して余人に伝えた。

「公孫賛……我が名は楼班。その者は私の母様を殺した……張純の身柄をよこせ……縛られたまま撫で殺すことはしない……武器を持て……武器を持って向かって来い……!」

 公孫賛は立ち上がると進みでた。見れば李岳は跪き平伏している。

「成り行き上とはいえ楼班殿の安否を伏せましたこと、お許し下さい。真実を申しますと、楼班殿は襲撃から逃れご覧の通り御無事でした。が……御母堂が身代わりとなられ凶刃のため、御命を……」

 再び風が巻き起こり、楼班の青い髪が逆立ち熱波を吹いた。公孫賛も初めて会うのだが彼女の姿は伝え聞く烏桓の王族の姿そのままであった。

(……ご息女は無事だったが、単于の妻君が死んでいるのか……)

 楼班についての情報、話を上手く進めるためにあえて誤魔化したのだろうと思うと怒りはわかなかったが、それよりも公孫賛は困惑で狼狽しかけていた。

 怒りに燃える楼班の前で縛り上げられたまま恐怖に震えている張純――自白した通り憎しみをもって烏桓を迫害し、しかもそれを自らの責任ではなく公孫軍に扮し狼藉を働いたことになる、それに対して公孫賛は容赦するつもりはない。さらには叛乱を誘発しかねない愚挙、烏桓族の長である単于の娘、楼班を害しようとした。それには失敗したようだが楼班の母を殺したということ……容赦の余地はないだろう。

 楼班は張純を解き放ち武器を渡せと――つまり決闘を望んでいる。武人として生きてきた公孫賛にはその気持ちが痛いほど理解でき、気持ちとしても同情している。だが果たしてそれを許可して良いのか、今の公孫賛は一人の武人ではなく郡の太守として判断しなくてはならず、板挟みの中で決心が付かない。

 跪いたままの李岳が膝立ちで一歩進み出て、顔を伏せたまま言上した。

「恐れながら、誇り高き烏桓族を一方的に害し、その誇りの結晶たる単于の姫をかどわかそうとした罪はあまりに大きく、それに飽きたらず楼班殿の母親、つまり単于の妻君を殺害した浅はかさに弁護の余地はありません」

「わ、私は指示してない、わ、私じゃない」

 張純の喚き声に李岳は一顧だにせずに言葉を続けた。

「烏桓族のしきたりに、女系への攻撃は徹底的な報復をもってこれを贖うというものがあります。それが単于のご家族ともなれば一族全てを挙げた猛烈なものとなるでしょう……楼班殿は御母堂の仇をその手で討つことができれば決して戦火を広げるつもりはないとおっしゃっております」

「……まことか?」

 公孫賛の問いに答えたのは岳ではなく楼班だった。

「うむ。我が烏桓の誇りにかけて誓おう」

 公孫賛の目には楼班が嘘を言っているようには思えなかった。ひとたび誓えば決して違えぬという証のごとき黒い瞳――烏丸の瞳――が公孫賛に決断を迫っている。

 このままでは烏桓族の叛乱は不可避だ、楼班の申し出は大きな譲歩といえるだろう。実行犯との決闘をするだけでそれを済ませるというのだ、破格と言えた。しかも見た目から齢は十五を超えないような少女が単身現れ母親の仇を討とうとするその心意気は、民族や血統を問わず高潔で瑕疵などない。

 感極まったように趙雲が立ち上がると――見事! と声を挙げた。

「仇討ちの覚悟あっ晴れ! 伯珪殿、ここは決闘を許可するべきでしょう」

「ま、待たれよ! 仮に事実だとしても張純殿を黙って引き渡してよいものか。ここは一度日を置いて裁可を上位に諮るべきではありませんか」

「ほほう。そして戦乱に興じるか。なんとも悠長な意見」

 趙雲が声を大にして楼班を支持しそれに多くの武官も追随したが、対して何人かの文官が慎重意見を主張した。公孫賛には両方の気持ちがわかる――仮にも張純は中山相であり皇帝の印綬を下賜された正式な官位を持つ者だ。非があったとしても異民族にその首を差し出すような真似を許可することは、同じ身分である琢郡太守としては肯んじがたい、権限も曖昧だった。

 だがそれが最後の命綱と気づいたのだろう、張純までもが大声で喚きはじめた。

「そうだ、幽州様だ! 幽州様に取次ぎを! 公孫賛、貴様に一体何の権利がある!」

 幽州様、幽州様をお呼びしろ。

 張純の浅ましい響きが部屋内に木霊し、彼を擁護しようとした文官でさえ眉を顰めるほどの浅ましさを露呈した。

 喧々諤々の議論が部屋を飛び交った。誇りと信義、責任と権限。相反する二つの概念がそれぞれ正当性をもってぶつかり合う。誰が正しいかはわからない、だがそのどちらかを選ばなくてはならない。公孫賛は一人一人の顔を順繰りに見回して――楼班の姿を認めて固まった。死さえも恐れぬ決意の瞳。公孫賛の心は決まった。

「静まれ!」

 途端に室内は静寂を取り戻した。公孫賛は喘いでは立ち尽くしている張純に向かって言った。

「中山張純殿。相の身でありながら我ら公孫軍に扮し常日頃烏桓を攻撃し、あまつさえ丘力居大人のご息女、桜班殿一行を襲い、その身柄を手に入れ内乱を起こそうと企てたに相違ないな」

「ち、違う……お、俺は張純じゃない……お、俺は……」

「見苦しい!」

 ひぃ、と情けない声を上げて張純はその場にへたり込んだ。公孫賛は続いて楼班に声をかけたが、その響きは張純へのものとは違い微かに優しかった。

「楼班殿。まずは御母堂の不幸まことに残念に思う。この公孫賛、烏桓に対して隔意はないが相互に謂れ無き誤解が芽生えるよう画策した陰謀があったようだ……」

「承知している」

「決闘が望みか」

「応」

「貴方が勝てば叛乱は」

「二言はない」

「――承知した。前の庭に篝火をたく。双方武器を持て! 只今より決闘を執り行う! これは決定だ!」

 はっ、と居並ぶ文官と武官が頭を垂れた。座で前を向いているのは楼班と、呆然と虚脱した張純だけだった。

 太守が決定を下せばそれに異論を立てるものなどいるはずがない。一同は揃って戸を出ると月夜に照らされた前庭へ向かった。広間には責任者の公孫賛、第三者の李岳、そして当事者の片方である張純が残された。決闘の前にはその主旨を詳細に記した証文を残し当事者の血判を押すのが誤解を招かないよい方法とされている。

 だが張純はしきりに首を振り、幽州様を呼べ、幽州様に裁可を、と何度も声を荒らげた。が、やがて李岳がその顔に酷く残忍な笑みを浮かべると、うろたえる張純の耳元に近づき囁いた。

「どうにも貴方はまだよく理解していないようですね、まだ命が助かるとでも?」

「ば、馬鹿な。我は太守だ、中山相だ! なにが決闘だ! 皇帝陛下の印を以って任じられた位階の者だぞ! 天意に背く気か! ど、道理に反するだろう! せめて幽州様の御判断を仰ぐべきであろうが!」

「いざとなればそう言えと、幽州刺史様に言い含められましたか?」

 その言葉を聞いた途端張純の顔は蒼白になり、歯の根がガチガチと音を鳴らした。張純だけではない、公孫賛も唖然とし声を失った。

 

 ――幽州刺史! 中華全土十三州の内、その一つを統括することを皇帝より印綬を以って任された人である。十一の郡を領し備えた城塞は九十、統べる民草は二百万に至らんとする幽州の頂点である。

 

 現在の幽州刺史は一時の断絶はあれど数百年続いている偉大な漢朝、その太祖である劉邦の血と姓を受け継ぐ宗室の一人であり気質清冽なることを以ってあらゆる群雄を凌駕し、あるいは今上皇帝をも凌ぐ聖人と謳われる名高き名士――姓は劉、名は虞。字は伯安。逆賊王莽の醜行により一度は汚された漢の威信を、再びあまねく光として天地にもたらした偉大なる中興の祖『光武帝』の末裔であった。

「な」

 色を失った張純は腰を抜かしたようにへたり込むと何かから逃げるように後退りを始めた。だがそれを逃すまいと李岳は背後に回りこんで再び耳元に囁く。

「劉虞様が本当に貴方を助けてくれると信じておいでで?」

「なぜ、なぜ」

「名声を失えば糾合するものがいる。これは道理です。ですが、失礼ながら貴方のような小物が『白馬将軍』の美名の受け皿になるだなんて到底無理でしょう。司空様から袖にされるようなお方がたったお一人で烏桓の大人への陰謀を練れるだなんて、誰も信じませんよ。貴方は担がれたんです、張純殿。劉虞様はきっと貴方にお味方することはございますまい。まぁ御自らの美談を増やすために涙の一つは流されるかも知れませんが」

「そんな……そんな……き、貴様、何者だ……?」

「さあ、今から死に行く貴方がそれを問うてどうします。貴方こそ、何者です?」

「私……私は……」

「貴方が生き残る道はただ一つ。剣をとって楼班様に打ち勝つこと……それだけです」

 うつろな瞳でうわ言を呟くばかりの張純、その手を取って李岳は血判書に押捺させた。公孫賛が一声かけると屈強な兵士が二人やってきて、連行されていくように張純は歩かされていった。虚ろな響きで『私は張純じゃない、張純じゃない』と漏れ聞こえた。

 公孫賛は一体何から問いただせばいいのかと李岳を見やったが、言葉を発する前に入れ替わり楼班が現れた。楼班の前で陰謀の真相が幽州刺史に端を発するかもしれない、と告げるのはまずい。この真相は機密もいいところだ、事の漏洩は公孫賛の身を危うくするだろう。しれっとした顔の李岳が憎たらしく、公孫賛は舌打ちをこらえるのに多大な労力を用いた。

 楼班は躊躇うことなく指を傷つけ捺印した。すぐさま踵を返そうとした楼班を公孫賛は呼び止めた。彼女にはまだ一つ保証が足りていない。

「……楼班殿。決闘を前に一つ聞いておきたい。貴方が敗れた場合はどうするのだ。貴方の骸を烏桓に渡して単于が納得するとはとてもじゃないが思えないぞ。血判も偽装と疑われては意味が無い」

「問題ない――李岳殿、こちらへ」

 顔を伏せたままであった李岳が驚いて立ち上がった。楼班は一度コクリと頷くと、歩み寄った李岳に向けて言った。

「李岳殿……烏桓の王族に字はないが、真名はあるのだ。王族は自分の伴侶となる者と血縁以外、余程のことがなければ真名を預けることはない……どれほどの拷問を受けようともだ。その真名をそなたに預けよう。もし私が破れて果てた場合、ことのあらましと交わした盟約を単于にお伝えして欲しい。私の真名を出せば絶対に信じてくれるはずだ」

「――よろしいのですか」

「ああ、そなただから頼むんだ」

「……はっ」

「私は」

 すっと小さく息を吸い込むと、楼班は白い頬にわずかに紅をさし、だが一つの照れも憂いもなく、これ以上の誇らしい宣言はないのだとばかりに笑顔で告げた。

「私は楼班。真名は……美兎(ミト)……」

 李岳はこれ以上神聖なものはないとばかりに大きく頭を垂れた。そして再び楼班の顔を見ると自らの名を口にした。

「姓は李、名は岳。字は信達。真名は冬至」

「冬至……頼んだぞ」

「はい……ご武運を」

 他の誰にも口を挟めぬ厳かな雰囲気が、心温かい柔らかな空気が二人を包んでいた。真名を交わすやり取りは誰にも邪魔立てすることのできない神聖な儀式だ。公孫賛は烏桓の王女が勝つだろうと思ってはいたが、二人の姿を見るに予想ではなく願望として、彼女の勝利を信じた。

 三人は居並んで急拵えの闘場へ向かった。

 周囲四方に明かりを灯し、月光の輝きも相まって明かりは申し分ない。周囲を取り巻いた公孫賛の手勢の誰もが息を飲み密かに興奮していた。決闘の両者が向かい合う。楼班は自らの得物一本で仁王立ちし、張純は並べられた武器からおずおずと槍を選んでは穂先を向けた。両者の準備が整ったのを確認して公孫賛は宣言した。

「この決闘、琢郡太守、公孫伯珪が立ち会いを務める! はじめよ!」

 銅鑼などない、公孫賛の声と一陣の風が二人を駆け抜けたのが合図の全てだ。

 両者は二間の距離を取って相対した。

 楼班は刺突剣を眼前に立て、決闘は始まったというのに瞳を閉じて母との思い出を反芻した。些細な生活の全てが色鮮やかに浮かび上がり、その日々が今にでも再開しそうな錯覚に囚われる。だがそれは夢に相違なく、現実において母は楼班を庇い討たれ、声なき骸と化した。

 

 それを指図した者が眼前に控えている。屈辱を雪ぐは今この時をおいて他にない――!

 

 半身になり右手を前に突き出した構えはこの大陸において異様な戦型であったが、刺突剣を扱うには至高の型であり、ピタリと標的を目指して動かない切っ先はたゆまぬ鍛錬の結晶だった。一方対する張純。槍を構えてはいるが戦意も闘志も皆目見えず、突きつけられた剣先と殺気に飲まれ、怯懦と恐怖から槍の穂先はフラフラと揺れ動いていた。恐慌状態の逆上から発生する混乱した殺気だけが散らかっていた。

 対峙は楼班の開眼でもって終焉を迎えた。

 まるで何かから逃げ出すように繰り出された張純の槍。二度三度と振り回されるが楼班は一歩引いては横に避けるを繰り返し、いずれも紙一重で躱した。間合いは圧倒的に槍が長く、こうして振り回し続けていれば楼班の踏み込みは躊躇われるかと思われたが、彼女は一縷の逡巡も挟むことなく敢然と間合いに踏み込んだ。

 霊剣『大精霊』は疾風の加護を存分に発揮した。燃える怒りの楼班の背中を押す。

 地を蹴り抜いて張純に迫った楼班の速度は肉眼が捉える限界に肉薄した。『大精霊』が巻き起こす風の渦に従って剣先は螺旋の動きを描いた。白銀の渦は張純の槍を容易く跳ね上げ、楼班は速度もそのままに懐に侵入した。

「ハァッ――!」

 絶叫が響き渡ったとき、既に少女は駆け抜けていた。

 終わってみれば一瞬の交叉――攻撃を受けた張純さえ微動だにせず立ち尽くしており、ただ位置が入れ替わっただけかのように思えたが……跳ね飛ばされ宙に舞った槍が地に落ちカラカラと音を立てた瞬間、張純は全身から血が噴きだし呻き声をあげることさえなく倒れ伏した。その壮絶な有様に絶命を疑うものは誰一人いなかった。

 飛び込み繰り出した連突はその数二十二。眉間、心の臓、水月を始め全身のあらゆる急所を正確に貫き通し、死は一度ばかりではなく突いた数だけ殺し直していると思わせるほどであった。

 楼班はまぶたを閉じて、仇の死を捧げるかのように天を仰いだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 決着ののち、夜半に李岳は公孫賛の私室に訪れていた。男女の密会という醜聞が起こればつまらなかったが、どうしても余人を交えず話したいということで公孫賛が無理やり招いていた。卓を挟んで座り酒を酌み交わした。宴の最中に沙汰が起こったので食事はお預けだったのだ、二人してしばらく遅い夕餉に興じてから公孫賛は話を切り出した。

「楼班殿はよくお休みかな」

「別室なのでわかりかねますが、決闘の後気を失うかのようにお休みになられましたからね。朝まで目を覚ますことはないでしょう」

「そうか……李岳殿、ところで今日のことだが」

「はい」

「私はきっと貴方に感謝しなければならないのだろうな、いやきっとそうなのでしょう」

「……私は何もしておりませんよ」

 功績を元に金や地位をねだってもいい、要求して当然なのだが李岳はおくびにも出さなかった。

「内乱を回避してくれた。この功は大きい。もし李岳殿が張純を捕えていなければ陰謀によって幽州はことごとくが荒らされつくしただろう」

「将軍のご決断あったればこそです。決闘までの差配、ご英断お見事でした」

「……あれで良かったのだろうか」

「わかりません……ですがこれ以外の解決は、少し胸糞が悪いでしょうね」

「……うん! それには全く同意する!」

 二人して笑いながらもう一献酌み交わした。このあとの細かい段取りを李岳は聞いた。張純の遺体は礼を以って埋葬されるとのことだ、その死に至った要因は聞こえにはよくないが、武器を携え決闘に臨んだ者にはそれ相応に遇する礼がある。空いた中山相の地位については中央朝廷に諮る必要があるが、当然刺史への通達も避けては通れない。

「幽州殿のことだが……」

「カマをかけただけのつもりだったのですが、あっさり吐き出しましたね」

「そんな余裕はなかったんだろう……けど、青天の霹靂とはこのことだ。いつから気づいてた?」

「すぐにおかしいと思いました。今回の陰謀、張純殿の器量では少し無理がある。裏に誰かがいるのは間違いないとは思っていました。誰が、というのがわかりませんでしたが……劉虞様の名を出したのは、まぁやたらと幽州様と言ってたからですね。大体中山郡は冀州の領内です。本当なら冀州刺史の名前を上げるほうが自然です。なるほど、窮すれば最後は黒幕に頼るのかな、と。当たっても八卦外れても八卦の気持ちでしたが」

 最後の最後、張純がヘマさえしなければ到底わからない陰謀のからくりだった。冀州の相が幽州の刺史とつながっているなどとは確かに思いつきにくい。劉虞の美名を考えればなおさらだった。

「……聞いて嬉しい真相ではない。怒りよりもまず疲れが先にくるよ」

「厄介なことですね」

 そう言うと饅頭をぱくりと口にした。李岳は小柄の割に意外と健啖で見ている限りに気分はいいが、今この時ばかりは他人ごとのように話す李岳に公孫賛はむっとした。

「ちょっと、もうちょっと何かないのか? 貴方だって当事者なんだぞ」

「さて……ですがすぐに危険が押し寄せるということはないでしょう」

「そうだろうか」

 ただ呑気なばかりではなく推論があるらしく、公孫賛が促すと李岳は卓上に広げられた幽州の地図を指さしながら言った。

「刺史と言いましても兵権はなく征伐のために動員令をかけるということもないでしょう。ただ……中央では昨今の情勢不安を憂慮し刺史ではなく、兵権をもたせた州牧の地位を再び作るという噂もございます。仮に現幽州刺史が牧へと位を上げた場合、保有兵力はどれほどになるか。琢、広陽、代、上谷、漁陽、北平、遼西、玄菟、楽浪、遼東、そして遼東に属する近傍国が幽州の構成ですが、その軍権を一気に手に入れることになります。北平以東は豪族の力が強くどれほど徴兵に協力するかは疑問ですが……とはいえ、即時動員できる数は五万を下りますまい」

 公孫賛の見立てと近い、彼女自身は六万強に上ると考えていた。

「刺史から牧か……その話は私も耳にしたことがあるぞ……その制度に劉虞殿が指名を受けるという話はまだ聞かないが」

「確実でしょう」

 公孫賛は手のうちようがないように思えた。

 張純を裏から操っていたのが本当に劉虞だとしても証拠はない。証言した張純は死んだのだ、しかもその言葉自体耳にしたのはここにいる二人だけ。他人を信用させるにはあまりに証拠として弱い。公孫賛の心配をよそに李岳は引き続き地図を睨みながら琢郡の周囲をなぞっている。

「ただまぁ、直接的な攻撃は心配しなくてよいでしょうね。領郡を攻めるということはその地域の徴兵を難しくするということでもありますし、何より名声を落とします」

「……つまり、もっといやらしい手が来ると」

「そうですね……さしあたり、中山相も兼務せよとの達しがくるなどでしょうか」

「まさか、それはないだろう。私は張純を見殺しにしたんだぞ」

「だからです」

「……反目を煽るのか」

 理解の早い公孫賛に李岳は笑顔を見せた。公孫賛自身、こんなに察しがよい自分に驚くほどだった。おそらく李岳の話し方が機微に富み、面白く、それに引きずられて自分も集中できているのだろうと思った。

「中山郡の領民の受けはよくないでしょうね。ましてや付き従わなくてはならない官僚達は何を思うか。周囲の人々もそうです。領地欲しさに太守を騙し異民族と結託して討ち取ったという風聞が巻き起こりかねません。そして不満をもった者共が上奏するのは……」

「高潔で名高い幽州刺史……いやもうそのときは牧か……くそ! 烏桓を利用しようとしたのはあちらだぞ!」

「『白馬将軍』の威光を貶めることができるのなら手段は問わないでしょう」

「どうしてそんなにまでする! 刺史に恨まれるような覚えはないぞ……!」

「さあ、そこまでは……」

 地図を見れば見るほど公孫賛の不安は増した。李岳の言うとおり州をまたいでの二郡の統治など経験がない。今も琢郡一つの領地経営に自信を持って臨めているとは言いがたい。公孫賛は暗澹とした気分に襲われ思わずため息を吐いた。

「断れば……」

「無責任であると弾劾される」

 八方塞がりじゃないか、と頭を抱える公孫賛に李岳は一抹の不安もないようなあっけらかんとした声で言った。

「ま、大丈夫です」

「なぜだ、なぜそう言い切れるんだ。私はたかが一郡の太守に過ぎない。動員兵力も三千がいいところで、その半分は義勇兵だ! 勝てる見込みなんて」

「ですが烏桓を味方につけられました」

「あ」

 すとんと憑き物が落ちたように公孫賛の中から焦燥が消えた。

 李岳の余裕はまさにそこに起因していたのだ。烏桓族に常日頃から襲撃を繰り返し、今回王族の姫を拉致せしめんとした上に単于の妻君を殺害した不届き者――張純に対する楼班直々の仇討ちを、太鼓判を押して保証をしたのだ。烏桓における悪評は全くの筋違いであったとして楼班も報告するだろう、公孫賛への印象はこれまでとは真逆のものとなるはずだ。

「公孫賛将軍、優勢なのは貴方の方なのです。琢郡の治安はよく、鮮卑の侵入を防ぎ、領民の評価は高い。『白馬将軍』の異名は伊達ではないのです。中央から招聘されて西涼で沸き起こった乱の鎮圧に参軍せよとのお達し、それは天下に勇名を馳せているというお墨付きに他ならないのです。中山郡の維持も最初は苦労するでしょうがすぐに落ち着くはずです。何ほどのことはない、自信をお持ちください」

 まるで目の前を覆っていた曇りが晴れたかのように清涼な気分だった。烏桓の協力があれば誰が襲ってきたとてその後背を突くことができる。領内の治安も相当に改善されるだろう。さらに他郡、他州にまで影響力を伸ばすことができる。中山は人口も少なくない、統一した政策を行えば蔵も潤うだろう。

 また一つ饅頭を口に放り込んで美味しそうに咀嚼している、目の前の男をまじまじと見つめた。これほどの洞察、一商人のものではないだろう。いや、そもそも張純を捕縛した時点で市井の者の業ではない。裁定における意志の主張、張純の背景への推理――不意に公孫賛の肌に粟が生じ、背筋を冷たいものが流れた。

 だが同時に疑問もある。なぜこの男はここまで与してくれるのか、味方してくれたのか、ということだった。

「……どうしてそこまで私を信用してくれるんだ? 烏桓族襲撃の件だって、旗が贋作ではなくただ粗雑なだけかもしれないじゃないか。どうしてああまで言い切れたんだ?」

 饅頭をゆっくりと飲み込み、酒で喉を潤してから李岳は答えた。

「はい。七分三分で公孫賛将軍ではないと思っていましたが、正直断言できませんでした。仁義を尊ぶ方という噂は耳にしますが、風聞など何の当てにもならない時代です」

「……じゃあどうして」

「それは……」

「それは?」

 李岳の返答は公孫賛の意から外れるものだった。

「敬語を使われたでしょう」

「え?」

「初めて会った時ですよ。馬をお渡ししたとき。まず公孫賛将軍が直々に足を運んで来た、そのことに驚きました。商人は卑小なものとして侮られるが常の身分です。だというのに太守様でありながら自ら出迎え、あまつさえ礼を失さぬ敬語を使われるなんて――その瞬間に思いました。ああ、違うなって。そのようなお方が異民族排斥を謳って略奪や虐殺を働くなどとは到底思われなかったのです」

 予想外の賞賛の言葉に公孫賛はそうだったかなと記憶を辿ってみたけれど、その後に起きた事件があまりに衝撃的すぎてすぐには思い出すことが出来なかった。やがてどうにも照れてしまい、いやぁ、とあさっての方向を見ながら頭をかいた。

「そ、そうかな? ……あ、いや……そうですかな?」 

「だから、敬語はよろしいのですよ私ごときに」

「いや、そうもいかないでしょう。ぜひとも懇意にしたいのです。馬は必要だ、まだ私は太守になったばかりで治安もままなりません。それにお世話になりました」

「……フフフ。ご心配はないでしょう公孫賛将軍。一郡の太守など貴方様にとってはただの通過点です」

 安易なはげましや激励には思えず、李岳の言葉から一種の確信が伝わってきた。

「……通過点?」

「ええ。きっともっと大きく飛躍できるお方です。一郡の太守にとどまらず、もっと広い土地、多くの民草を導いていけるお方です。ですから、わたくしのような官位すら持たぬものに汲々となさいますな。武人としての大望をお持ちください。大きく羽ばたくために」

「武人としての大望……」

 不思議だった、一つ一つの言葉が胸に染み渡っていく。李岳の言葉は意欲をかきたてる、歩くべき道を指し示してくれる気がする、その道を迷いなく進めばきっと自分は今以上に成長できるだろう! ――公孫賛の胸に爽やかな風が吹いたかのようだった。

 李岳は最後の饅頭をもったいなさげに手に持ちながら、いたずらを思いついた悪ガキのように、意地の悪い笑顔で付け足した。

「それに……将軍はいささか敬語が下手です。入り乱れてしっちゃかめっちゃかになってます」

 狼狽するは公孫賛である。自覚があっただけにお恥ずかしい。

「っっ! も、もうっ! そういうこと、言うなよっ! ……あっ! じゃあ最初に会った時何だか面白そうに私の顔を見てたのは……!」

「ははは、バレちゃいましたか」

「バレちゃいましたかじゃなーい!」

 照れ隠しの怒りに任せて公孫賛は李岳の手から饅頭を奪い去ると、ああっ、と声を上げる彼を尻目に一息で食べてしまった。もぐもぐと口を動かしながらそっぽを向くが、赤く火照った頬はまだしばらく戻りそうにない。だがそれさえおかしいと李岳は笑って言った。

「――その調子です、堂々と自然体でおられる方がよっぽど魅力的です。戦乱の時代です。これからもっともっと乱れるでしょう。食うか食われるか、蛇蝎の如く付け狙う輩も出てきましょう。周囲の視線を窺うのではなく、公孫賛殿は公孫賛殿らしく振舞われませ」

 李岳の言葉に嘘はないように思える。これだけ確信を持って人を鼓舞できる者がどれほどいるか、誰もが利害を念頭に動いていると思わせる心狭き時代――公孫賛の脳裏には同じ師に教えを仰いだ竹馬の友といえる一人の少女が思い浮かんだ。彼女は元気だろうか。きっとこの男とは気が合うに違いない。お人好しでのん気だが、誰にも譲らぬ固い信念の元に走り続ける少女――

 自分もそうしよう、もう決して迷うまい。公孫賛はそれを新たな信念として胸に刻み込んだ。

「そうか……そうだな! わかった! 私は私らしく生きる! ――改めて、宜しく頼む!」

「こちらこそ、願わくば末永くお付き合い頂けますよう宜しくお願い申しあげまする」

 そうしてしばらく他愛もない話を交わしたあと、李岳は公孫賛の居室を辞して帰っていった。公孫賛は背後の燭台の明かりがかすかにゆらめくのを感じたが、後ろも振り向かずに言った。

「どう思う? 趙子龍」

 趙子龍――趙雲は公孫賛の向かい、先ほどまで李岳が座っていた椅子に腰を下ろすと、断りもせずに杯に酒を注いだ。

 一客将でありながら公孫賛はこの趙雲という女性をよほど信用していた。いつまでも自分の隣に居て欲しい、僚友となってほしいとも思ったが、いつ飄々と姿を消すかもしれない怪しさを趙雲は隠そうともせず、それを押しとどめるのはまさに『雲』にいたずらに手を伸ばすかのような所業に思えた。

「いやはや、只者ではありませんな」

「本当に商人だろうか」

「まさか」

 趙雲の顔には至極愉快と文字で書いてあるかのようだった。

「見当さえ付きませんな。真実を言っているようで巧妙に自分のことは隠している。馬を運んだついでに幽州全域を巻き込むかもしれない陰謀を暴き、烏桓の姫を助け、遺恨を絶つための決闘を演出した……」

「間者とか」

「にしてもお人よしでしょう」

 答えは出ないだろう、あるいは彼は本当のことを言っていたかも知れないのだ。検討の余地も推理の材料もほとんどない。酒を交えての李信達にまつわる二人の会話はやがて尻すぼみとなり、苦笑交じりにお手上げするという形で終わった。あとは飲むばかりだった。深酒になる、そうだろう、だが構わない――二人は心の底から愉快だった。

「ところで、本日のご決断は中々見事でしたな。かっこよかったですぞ」

「お、お前までやめてくれよ……照れるじゃないか」

 フフフ、と趙雲は笑うと、ほろ酔いで染まった頬のまま、立ち上がり公孫賛の手を取った。

「本心にてそう思います。さて伯珪殿。今宵私は貴方に我が真名をお預けしようと思うのですが」

「えっ」

「驚かれることはありますまい。『白馬将軍』の堂々たるところをお目にかかれて今日は良い日でした。是非真名を預けたいと思うほどに、ね」

「子龍……」

「ま、最後まで仕えるかどうかはまだですが」

「そんなことで縛ろうとは思わないさ」

「では」

 二人は厳かに己が魂に記された比類なき誇りの名を交わした。

 真の友が今ここに。

 心からの喜びを胸に、二人は新たに繋がった友情を確かめるように、しずしずとその名を口にし合った。


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