真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第八十五話 酸棗の会

 いつ雪がちらつき始めてもおかしくない。そのせいか、厳しい頭痛が毎夜曹操を襲った。

 反董卓連合軍に加わり、洛陽を目指して進撃を目論んだが祀水関で完膚なきまでに叩きのめされた。曹操自身も生きるか死ぬかの瀬戸際を駆け抜け、ほんの数刻の差で救援部隊に助けられた。

 命からがら死地を脱した曹操であったが、その後は休む間もなかった。李岳軍の動向に全神経を傾けながらも、逃げ惑う兵たちを一人でも多く助けるために昼夜の別なく部隊を走らせた。戦乱に乗じて不逞を働こうとする野盗への警戒、裏切りや内乱への手当ても猶予を許されなかった。

 不思議な話であるが、連合参加前より支配地域は四倍に膨れ上がっている。陳留を本拠地としていた曹操と、東平を拠点としていた張貘が、それぞれ濮陽、定陶を攻略し合流したのだ。表向きは各都市の郡太守や県令たちからの要請に基づいたものである。兗州の支配者であった劉岱の死亡によって庇護を失ったがためにこぞって助けを求めてきたのだ。

 曹操は自らがあくまで『繋ぎ』としてだけ期待されていることも知っていた。反董卓連合軍を打ち破った李岳が、強兵を用いて東方への再制圧に乗り出すのは誰の目にも明らかだったからである。各都市の有力者は少なくとも年内のうちは賊の手から守ってくれればいい、という程度の思惑しか持っていなかった。李岳がやってくれば楯突く気はない、情勢如何によっては籠城している城内から内応して功を立てよう、とさえ考えている輩もいたほどだ。

 とにかく曹操がまずやらなければならないことは締め付けであった。李岳が本腰を入れて東方遠征に赴くのであれば、冬が明けてからと予想された。しかし自分なら年内に濮陽から定陶は落とすために動く。機動力に優れた騎馬隊は李岳軍の骨子だ、電撃作戦は十分にありえるだろう、と。

 その状況が、長安陥落の一報により一変した。

 益州から出陣していた劉焉軍が、大散関で朱儁を殺害し、そのまま長安を制圧したのである。一時は潼関まで落として洛陽へと肉薄するのではないかと思われたが、丞相府の開府と軍の再編を断行した董卓に対して動けず、山間部に一足早い降雪が始まったことも相まって膠着状態に陥った。

 兎にも角にも、当初は圧倒的な董卓、李岳軍にどう対抗するかという戦略方針が瞬く間に変わってしまった。劉焉と劉虞がほとんど同時に帝位を僭称し、情勢は未だ混迷の渦中。天下の趨勢は杳として知れず。

 曹操に一通の書簡が届いたのは、そんなある日のことであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「もう間もなくですね〜」

 程昱ののんびりとした報告に、曹操は頷きだけを返した。背後には二千の軍勢が付き従っている。戦後に再編した兵たちだが動きは悪くない。敗戦した軍に参加しようと決めてやって来た新兵たちだ、士気の高さが実力を補っていた。

 しかし、あらゆる意味で精細を欠いていた。

 祀水関での敗戦からこちら、曹操の表情は暗く淀んでいたが、あの手紙を受け取ってからそれはさらに顕著になっている。

 仕事が滞っているのではない。内政も軍事も、君臣共に寝る間も惜しんで成果を挙げている。野盗の集団がのべ三度現れたが、どれも一蹴し殲滅した。四郡の経営も連携もかなりの充実を見せている。青州の黄巾賊に押し出されるように、泰山郡はじめ、兗州東部からの流民もかなり雪崩れ込んでおり、その受入は難事ではあるものの、反面合力でもあった。

 だが曹操自身も、陣営の皆もどこか暗かった。

 未だ幼く、この先が楽しみであった天真爛漫な少女がいない。許緒――いつでも明るく、陣営に活気を与えてくれていた少女。この曹孟徳を生かすために失った者はあまりに大きく取り返しが付かないものだった。失って初めて気づくものだ、何事も。全ては遅すぎる。全ては自分の無能さが撒いた種だった。

 二千の部隊は滞りなく西進した。参謀には程昱を、護衛に典韋を連れてきている。荀彧は今の曹操軍の状態を見れば業務から外せない。夏侯惇と郭嘉は青州方面に釘づけだ。夏侯淵は四郡の抑えに濮陽を任せている。楽進と于禁は練兵にかかりきりであり、李典は未だ負傷から立ち直れずにいた。

 初めは典韋の随伴を却下しようとしたが、てこでも動きそうになかった。今は黙々と陣列に付き従っている。冷たい風が吹きすさぶ行軍である、典韋が着込んだ上着には、背に『悪』の一文字が刺繍されていた。その体躯に似合わぬ怪力を以って古の英雄『悪来』に例えられる典韋。許緒を失った分、自らが奮い立たねばと思っているのだろう。彼女の笑顔が消えたこともまた、陣営の静けさの要因だった。

 何の問題もなく西進した。領内を見て回ることも含めてゆっくりした旅程にした。疲労はない。さらに一日置いて進むと、約束の場所、陳留郡酸棗県に辿り着いた。北に延津、東に烏巣を望む町である。言わずもがな、反董卓連合軍の集結地点であった。曹操の支配領域の西側の限界地点と言える。ここから先は、司隷河内郡――李岳の領域だ。

「先に準備しちゃいましょうか、それともお待ちします?」

「こちらの方が準備が多いのだから、はじめましょう。琉流」

「はい、華琳様……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 張遼と赫昭が最後まで付き従おうとして往生した。李岳は二人に山積みになってる仕事を暗唱して黙らせた後、祀水関を出発した。散々に破壊された要塞だが、全力で補修にとりかかっている。とはいえ元通りになるまでは二年はかかるだろう。

 東への旅は穏やかなものだった。呂布と司馬懿を伴って、随伴は二千騎である。各県城への視察も兼ねているので公務である。県令が意味もなく豪奢な接待を持ち掛けてくるか、あるいは李岳を疎ましく思ってくるか、住民の状態は、街道の整備は――実際に赴けば知るところは数限りなくある。ほとんど旅などとは無縁であったらしい司馬懿は一つ一つに目を輝かせて記録していたが、呂布は対照的にさしたる興味を見せることなく李岳の側にピタリとついて離れなかった。

 本来、最精鋭を伴ってここにやって来るはずだった。少なくとも二万。それだけあれば陳留は確実に孤立させることが出来た。曹操は張貘を頼って北東へ逃げるだろう。袁紹の勢力圏に近づけば近づくほど無力化出来たはずだ。

 兗州を制覇した後は徐州、青州と周囲から攻め、公孫賛軍との二正面作戦を強いた後に間隙を突き、公孫賛の白馬義従を劉虞の本拠地へ、李岳の騎馬隊を袁紹の本拠地・鄴城に急行突破させる――

「あっいってっ!」

 李岳は馬上で思いっきりのけぞり頭に手を当てた。何か硬いものが高速で衝突したような痛みだ。思い当たる節は一つしかない。

「れ、恋っ!?」

 呂布は右拳を握りしめたまま、李岳をじっと見ていた。フン、と鼻を鳴らして「もう大丈夫」となぜだか恩着せがましかった。

「邪念」

「……へっ?」

「追い払った」

 頭を撫でながら、李岳は呂布が言わんとするところが何となく見えてきた。なるほど、未練が顔に浮かんでいたか。過去をですらなく、自分に都合のいい失われた未来を思って汲々とするのは確かに邪念だ。コブが出来る程に痛かったが、勉強代ということだろう。

 ありがとう、と呂布に礼を言おうとしたが、それは叶わなかった。司馬懿が食って掛かっていたのである。

「呂奉先殿、いま何をなさった」

「……お前には関係ない」

「冬至様に関係することは私にも関係する。何をなさったかと聞いている」

「お前には関係ない」

「それしかいうことがないのですか、呂奉先殿。主君を殴っておいて」

「お前には関係ない」

「……っ!」

「はいはいそれまで! はいはいそれまで!」

 李岳が間に入ってもまだ収まりつかないようで、二人は睨み合っている。

 呂布と司馬懿が合わない。これが李岳には予想外だった。もちろん予想しようもなかったが、自分の身内は全員和気あいあい出来るだろう、という漠然とした信仰があった。

 二人が相容れない理由が全く思いつかない李岳。まぁいずれほぐれるだろう、と思いながら先を急いだ。

 約束の場所は、原武と酸棗のちょうど中間地点である。以前ここに来た時は撤退する反董卓連合軍に追撃を加える時であった。見渡すかぎりに戦乱の痕跡はないが、茂みや森の中をよく探せばまだ何かは見つかるだろう。

 この場で宿敵と会う約束をした。

 さらに進むと、少し小高い丘に陣幕があった。曹操の旗がひらめいている。焚き火に机、胡床まで備えてある。かなり前から来ていたようだ。

 李岳は自らが約束した通り、護衛一人と文官一人……つまり呂布と司馬懿だけを連れて陣へと向かった。呂布は大荷物を背負っているが苦にはしてないようだ。

 出迎えは頭に人形を載せた風変わりな少女であったが、彼女は程昱と名乗った。なるほど、と内心つぶやきつつ李岳は丁重に挨拶を返した。

 導かれる先には曹操がいた。改めてみると、本当に少女である。だが李岳はこの少女に何度も喉元に刃を突きつけられていた。

 周りくどい挨拶を交わし合う気にはなれなかった。書簡に記した通り、預かっているものを返しにきたのだ。

「これをお返ししたい」

 呂布が風呂敷に包まれていた荷を下ろした。非常に重量のある鉄球である――単騎で李岳軍を食い止め続けていた許緒の武器であった。

 これとほとんど同じ寸法の薄い円筒と、一人で二つ振り回しながら追撃部隊に甚大な被害を加え、その命尽きるまで戦い続けたと聞いている。李岳は許緒の亡骸はその地に埋葬したが、この鉄球だけは回収を命じていた。

 鉄球に手を当て、曹操は小さく呟いた。李岳の耳には聞こえなかったが、おかえりなさい、と言ってるような気がした。

「琉流、こちらに来なさい……李岳、紹介するわ。この者の名は典韋。この鉄球の持ち主だった許緒の、無二の親友よ」

 年端もいかない小さな女の子であった。しかしその名を李岳はもちろん知っていた。史実においても、怪力を以って名を知られた曹操麾下の武人である。呂布がわずかに緊張した様子で李岳の前に出た。つまりこの少女も、史実に勝るとも劣らない武人だということなのだろう。

 典韋は鉄球を見ると、こらえきれなくなってすがりついた。その小さな体は鉄球に隠れて見えなくなっているが、空気の震えが少女の涙を李岳に見せた。見たくはない光景だったが、李岳は目をそらさなかった。

 やがて、目を赤らめた典韋がひょっこりと姿を見せると、李岳に申し出た。

「李岳さん……季衣は別れる時、美味しいお料理作って待ってて、って言いました。あの子は食べるのが大好きだったから。季衣の大好物だった豚の丸焼き焼いて待っててって。餃子も……」

 典韋が目配せする先には子豚が丸々一頭いた。下ごしらえは済んでるようだ。腹にコメやら野菜やらが入ってるのがわかる。調理道具も一揃い置いていた。

「季衣はもう、私の料理を食べられません。だから代わりに、この料理を食べてもらえませんか。餃子も茹でます。全部だなんて言いません。でも、一緒に食べて欲しいんです」

 曹操が言葉を続けた。

「李岳、何の話だと思うかもしれないけれど、これは私からもお願いするわ。会談の席に食事が供される、それだけだと思ってくれれば良い」

 李岳は頷き着座した。

「わかった。ご相伴にあずかります」

「ではしばらくお待ち下さい」

 典韋はペコリと頭を下げて席から離れていった。李岳がチラリと目線を向けると、それを察した司馬懿と呂布も手伝うために歩いて行った。曹操もまた程昱を典韋の元へとやった。

「ちょっと待つことになるけれど」

「それは構わない」

「あっそ。じゃ、飲みましょうか」

 向い合って着座した曹操が、いつの間にか酒の入った壺と杯を持っていた。

「ちなみにこれ自作なの。なかなかの出来よ。いける口なんでしょう? 洛陽に来たばかりの頃、散々酒宴を開いていたのは有名だったもの」

「酒は好きだよ。けどあの酒宴は……半分苦行みたいなもんだったからな」

「油断させるために悪評を撒いてたのでしょう」

「だから大して楽しくはなかった。殺されるかもしれないと思ってたら、何でも出来るもんだと思い知った」

「酔いに負けて口を滑らせる心配はなかったのかしら」

「刃を首に当てられていると思うんだ。そうすれば大抵反吐しか出ない」

「顔に笑顔を浮かべて?」

「こつがあるのさ。後でどうお仕置きするか考えるんだ。だんだん機嫌が上向いてくる」

 曹操はその時初めて笑い、李岳に杯を渡した。二つともに並々と注ぎ、曹操は目をつむって呟いた。

「戦士たちに」

 李岳も続いて瞑目し、一息であおった。美味い酒だった。だがどこか苦い。もう少し飲まねば口惜しさばかりが舌の上に残るだろう。二杯目は李岳が注いだ。二人とも、もう一息であおることはなかった。

 やがてパチリパチリと火の音がして、肉を焼く何ともいえない匂いが漂ってきた。既に飲んでいることに気を回したのか、典韋が火の通った端の肉を削いで持ってきた。とろけた脂と、しっかりとした肉の味が美味かった。二人共無言で食べ、呑んだ。気づいた時には二本目の徳利に手を伸ばしていた。

「歌いましょうか」

 不意に曹操が呟いた。それにしては浮かない顔をしていた。かすかに顔を赤らめているが、意識は全く揺らぐことはないようだ。いや、反吐が出そうな気分でいるのかもしれない。

 曹操は立ち上がると、その美しい金の髪を揺らせながら詩を詠んだ。

 

 ――酒を飲むなら歌わなきゃ、たかが人生のほんの束の間。

 朝露が溶けるように儚い人生、苦しみばかり残して日は過ぎ行く。

 怒りも悲しも決して離れず、思いが去ることもない。

 ではこの憂いはどうすれば? 酒を、ただ酒を……

 青々としたあの袖を思えば、私の心はいつでも悠々と穏やか――

 

「詩は好きじゃないのかしら」

 唐突に詩を終わらせ、曹操は着座した。手酌で酒を注いではあおる。

「いや、素養がないんだ」

「この詩には、きっと続きがある。詠んだ本人が言うのもなんだけど。その続きを詠むには、まだまだ足りないものだらけなのでしょう」

 李岳は何も言えなかった。曹操の言葉は曹操自身に向いているのだろうと思えたから。

「李岳、貴方も詠みなさい」

「素養がないと言ったろ」

「それでも今は、詠みなさい」

 酒を飲み、束の間黙ったあとに李岳は首を振った。

「自作じゃなければ」

「盗作?」

「本当に不勉強で、わからないんだ。ただこの詩だけは、昔聞いて……よく覚えてる」

「それで結構よ」

 曹操は立って詠んだが、李岳は座ったまま歌った。

 

 ――この杯をどうか。

 溢れんばかりのこの酒をどうか飲み干してくれ。

 花咲けば風と雨がつきもののように、

 人生にもまた、別れがつきまとうものだから――

 

 まるで余韻を楽しむように何度か頷いた後、曹操は二つの杯に酒を注いだ。

「作者の名前はあえては聞かないわ……そう、人生には別ればかり。別れこそ人生。出会えば別れる。当たり前の話ね。でもなぜ胸をかきむしられるのかしら?」

「わからない。わからないから、飲むしかないんだろう」

「そうね……李岳。いまこの場だけ、真名を交換しない?」

「曹操……」

「別れればもう二度と呼び合わない。それが条件。どう? 人生、という感じでしょう」

 それはすなわち、心の奥底の言葉、全てを打ち明ける会談にするということだろう。その後、酒のように飲み干してしまい、もう二度と口からは出てこない。

「冬至だ」

「華琳よ……焼けたようね」

 典韋が丸焼きになった子豚を大皿に載せて運んできた。呂布は鍋一杯の茹でた餃子を持っている。司馬懿と程昱が食器を持ってきているが、なんとも珍妙な風情だった。

 曹操から申し出たので、呂布と典韋も、司馬懿も程昱も共に食事の席についた。典韋の料理の腕は見事の一語で、李岳は浅はかな褒め言葉を何度も我慢しなければならなかった。

「お味はいかがですか」

「とても美味しいです、典韋殿」

 典韋は笑顔を見せず、そうですか、と返すだけだった。

 黙々と食事を続け、またしばらく酒杯を重ねた後、食後の茶に移った。典韋が暖をとっている焚き火に薪をくべた。

 李岳はようやく話を切り出す気になった。懐から一巻の書を取り出し、曹操に渡した。

「華琳、兗州牧に任じるとの書だ」

「頂戴するわ、冬至」

 真名を呼び合った二人に司馬懿、程昱、呂布に典韋の全員が目を剥いたが、書を受け取った曹操に驚いている様子はなかった。事前の話では会談したい、とだけしか伝えていなかったのだが全て見抜かれてしまっているのだろう。

「だいぶ苦しいようね」

「長安が落ちた。考えてなかったのが正直なところだ」

「おかげで、私は助かったのかしら」

「そうなるな」

 不思議なものだった。相互に命を狙っていた二人が、敵意も殺意もなく酒を酌み交わしあっている。

「荊州を獲り、後顧の憂いをなくして長安に攻め込む。その間に劉虞と麗羽にのびのびされると厳しいのでなんとかしてくれ、というところかしら?」

「そのとおりだ」

「私は兗州を獲り、徐州を制覇し青州の黄巾賊を潰すわ」

「俺は荊州を叩き、京兆尹から益州勢を殲滅する」

「そして手を取り合い南下してくる北方の覇者に立ち向かう……」

 美しいわね、と曹操は嘆息した。

「そちら、間に合うの? 一筋縄ではいかないでしょう」

「間に合わせる」

「いえ、不満はない、妥当な線よ。公孫賛は持つまい。南下してくるなら二十万を超える。単独勢力ではとても太刀打ち出来ない。こちらは精々双方合わせて十万に届きもしないでしょう」

「反董卓連合軍を相手にするよりマシさ」

「笑わせるわね……麗羽はよく知ってる。あの娘だけなら造作もないけれど、劉虞が不気味ね。そして黄巾軍本隊」

「勝つしかない。勝って押し返す。それだけが」

「生きる道、ね」

 典韋が都度都度肉を切り分け全員の皿を満たした。呂布が遠慮なしに食いまくっているので分配は偏っていたが、そうでなければこの量はなくなる見込みもなかっただろう。曹操が一口一口、箸を口に運びながら話を続けた。

「麗羽と劉虞を撃退した後は、冀州以北の奪い合いということになるわね」

「ああ」

「この書には兗州しか書いてない。ということは、兗州以外は返せと後で言うってわけね」

「そこで返さないであろう君と、決戦する」

「救いようのない馬鹿ね、私たち。二人ともよ」

 全て見透かされている。全て見透かされた上で、二人ともこの案に乗るしかない。

 司馬懿が言う『大』の戦略で必要な同盟相手は、曹孟徳であった。この英雄と組まない限り、漢王朝の命脈は持たないと司馬懿は断言したのである。漢王朝を最も打破すべきと考えているこの英雄と。

 しかし、それでもという思いが李岳の中にあった。本当に争い続けなければならない二人なのか。殺し合いの螺旋から降りることは出来ないのか? どちらかは必ず死ななければならないのか? ――そんなわけはない、と胸に溜め込み続けていた思いが不意にあふれた。

「……まだ間に合うさ。華琳、漢の重鎮としてやり直さないか」

 無粋なことを言うな、とばかりに曹操が顔をしかめた。

「無駄よ冬至。私はもう決めたの」

「戦乱を拡大することをか」

「戦乱の全てに勝利すること。そしてこの国を刷新すること」

「何の意味がある、自分が頂点に君臨することに何の意味があるというんだ?」

「何もないわね。今、劉弁が皇帝位にいることと同じく、何の意味もない」

「また多くの人が死ぬんだぞ?」

 曹操の声が、怒気をはらみ始めた。

「貴方も殺す側でしょう、お互いに正義を掲げているのだから一方的に責めるな。私は自ら戦に出ているが、本意でない者を引きずり出したりはしない。皆、この国に疲れている。見なさい! 劉岱、劉遙、劉表、劉焉に劉虞! この国の頂点に君臨した血は既に腐っている! その下でこそより多くの人が死んでいるのよ! その支配に納得出来ず、立ち上がった者たちに対して、人が死ぬからやめろなどと、それは座して死ねというようなものよ! 人命が尊いというのなら、冬至! 貴方こそ今すぐこの私に従いなさい、そして劉姓による支配を終わらせるのよ」

「馬鹿な。では華琳、お前が新たな王、新たな皇帝になったらその問題は解決するというのか? 曹孟徳は天才だ、この時代では誰よりも優れた能力の持ち主だろう。だがお前の子もそうなのか? そのまた子も? ……違う! だったら問題の本質は全く変わらないということになる! 曹姓が新たな愚劣さを表す記号になるに過ぎない! 大事なのは仕組みだ。皇帝は権威として残し、その実権は時代の有力者が握る。それを仕組みとして残すんだ。世の人は、人のまま政府の高みを目指し、政策を決め、世に奉仕するんだ」

「曹の血が腐ったのならまた除かれればよい、その時代の最も優れた血が取って代わるだけよ、何の未練もないわ。それに、実権のない皇帝ですって? 貴方こそ自分が何を言ってるのかわかってるのかしら。ただ権威のみで何も決められない皇帝? 傀儡を認めろというの? 意志を奪われた人間が、果たして本当に生きていると言えるの? ……ハッ、お笑い草ね。傲慢は貴方の方だわ。まさか後世に至るまで全ての時代の争い事を無くしたいとでもいうの? なら方法は簡単、今すぐ神にでもなるがいい。その神の後釜を巡っていずれまた争いが起こるのは目に見えているけど」

「争いを無くせるかどうかと、無くすために行動するか否かは別問題だ。その理屈で言うなら華琳、お前が戦うことだって無意味だろう。無意味なことのために兵を戦わせているのならその方が傲慢だ。出来ることは少ないが、それでも信じて人は世代をつなぐんだ」

「そう、だからこそ私は戦っている、この世を変えるために! 出自でも家系でもなく、人が能力に基いて正しく評価される社会に作り変えるべし……それが、私が祖先より受け取ったこの時代での答えよ!」

「それがなぜ覇道を進むことになる! 政府の中で仕組みを一つ一つ変えていけばいいだろう!」

「この劉姓が治める漢を打ち倒さねば、その理想は描けないからよ!」

 お互いの吐息が真っ白に塗り込められ、視界が度々遮られた。見ればいつの間にか雪がちらついていた。雪はお互いのまつげの辺りからしっとりと濡らした。見れば陽も落ち始めていた。気温も下がっている。しかし、この体の震えは寒さからではなかった。

「冬至。私を従わせるには完全に打ち破るしかないわ。完全に、もはやどうしようもないくらいに、屈服させてみなさい」

「その時は、乱世の奸雄ではなく、治世の能臣として俺の元に来るか」

「私に要求するのならば冬至、貴方もまた誓うべきね……貴方を完全に打ち破り、私が勝利した時、私に従いなさい。この曹孟徳の右腕として、乱世を塗り替える覇道に全力を以って最後まで付き合うのよ」

「……誓おう」

「誓うわ」

 曹操は言い切ると、立ち上がり外套を翻した。

「次に会うのは対袁紹劉虞軍の本陣ね」

「死ぬなよ」

「さらば、李岳」

「また会おう、曹操」

 去り行く背中を李岳は見送った。典韋が何か言いたそうにこちらに見返りをしたが、慌てた様子で戻っていった。程昱は振り向く様子さえ見せない。曹操の号令に従い、兵たちは規律正しく東へ去っていった。

「冬至様、お体が冷えます」

 呂布が馬を引いてくる間、司馬懿が上着を持ってきた。李岳は聞いた。

「どうだった、如月。曹操を見た感想は?」

「運命的なものを感じました」

 李岳は苦笑を我慢できなかった。

「冬至様ではなく、あの曹操殿と最初に会っていれば、今日私は全く逆の席に付いていたかもしれません」

「あんな傑物に今になって出会った。運命を感じる?」

「先に冬至様に出会った。そのことに運命を感じるのです」

 息を吸い、吐いた。李岳もまた運命を感じた。曹操を容易く殺すことなど出来ない。どちらが勝つか、全力で戦い合う運命にあるのだろう。

 呂布が赤兎馬と李岳の黒馬を引いてきた。それにまたがり、李岳はもう一度東を見た。もう草原は白くなり始め、緑の方がまばらであった。

「洛陽に戻る。帰路は全速だ。如月、遅れるなよ」

 黒狐が雄叫びを上げ、雪を蹴立てて走り始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 帰り道、曹操は程昱に漏らした。

「風、私はあの男に勝ちたいわ」

 男は嫌いだった。皆が皆薄汚く、下卑たもののように思えた。しかし李岳からはその薄汚さを感じなかった。皮肉なものである、まともかと思える男は生涯の敵なのだ。

「独善と言われても、往生際が悪いと言われてもいい。私はあの男に勝ちたい。そうでなければこの天下に覇を唱える資格はない……いえ、逆ね。あの男を打ち砕く者こそ、天下に覇を唱える資格を得るのよ」

 程昱はしばらく答えず、じっと考え込んだ後に言った。

「……一つ、お願いがあるのですが」

 次の言葉は曹操には驚きであった。

「風を軍師の任より解いて頂きたく。そして今後重要な役職にはおつけなさいませぬよう」

 何を言う前に程昱は、珍しく早口で続けた。ずっと考えていたのだろうと思える言葉だった。

「これからはより情報戦が必要となってくるでしょう〜。反董卓連合軍での我が軍の情報力はそこそこだったようですが、あの李岳さんには完全に負けてます。それに北の劉虞さんや袁紹さんにも見劣りしている可能性があります。その専門の部署を作り、任じていただけたらと思うのです。全体の統率は桂花ちゃんが、戦闘では稟ちゃんがいます、誰かが裏方に徹する必要があると前から思ってましたー」

 程昱が言っているのは、これから暗部として動く、ということだ。それは一生陽の目を見ることなく、人から評価されることもなく、陰惨な戦いに身を捧げるということを意味する。

「風」

「何もおっしゃらなくて良いのです」

 程昱はいつものように、穏やかに笑った。

「華琳様は風の以前の名を覚えていらっしゃいますか」

「立。そして昱に改めた」

「日輪をこの手で支えると決めたのです。両手が焼け爛れて炭となり果てることなど、とうに覚悟できているのです」

 おほほ、と口元を隠して冗談めかして言ってるが、その覚悟は十二分に曹操に伝わった。

 勝つことが、この娘に応えることになるのだ、と思った。

「隠密部隊を組織せよ。貴女が責任者よ、風。十日以内に規模と予算を書き記し持ってきなさい」

「かしこまりました〜。華琳様、だいぶ生き生きとしてらっしゃいました」

「寒い思いをさせていたようね……」

「晴れぬ雲間がありましょうか。やまない雨がありましょうか。再び来光せぬ蝕がありましょうか――風だけではなく、みんな華琳様を信じております。寒くなんてないのです。今はとても温かいです……まるで陽の光の中を歩いているよう」

 ふっさりと雪を頭に積もらせながらいうものだから、曹操は思わず泣き笑いをこぼした。

「隠密部隊の名前はもう決めたわ。蝕、とする。風、貴女もまた日輪となる。これから何があっても一心同体よ」

 程昱の雪を払いながら、曹操は前を向いた。頭痛が嘘のように止んでいた。




 今回の話は若干解説が必要だと思いますので以下蛇足。
 タイトルは「鴻門の会」のパロディです。「鴻門の会」とは三国時代から遡ること数百年、項羽と劉邦にまつわる歴史的名シーンなのですが、有名な話なので詳しくはググってください。謝罪に来た劉邦と一悶着あったけどそれを許しちゃう項羽という話なんですが、項羽と劉邦それぞれの在り方と、それに伴って今後の運命が示唆される重要な話ですね。どちらも酒のんで豚肉食ってます。

 歌について。
 まず李岳が詠んだ方。これは于武陵が詠んだ「勧酒」です。この時代から600年近く後代の人ですが、日本で原文と共に井伏鱒二の訳詩が有名ですね。『「サヨナラ」ダケガ人生ダ』のアレです。今話では直訳な書き下しも井伏鱒二訳も避けて、恐縮ながら拙訳です。

 曹操が詠んだのは、まさに史実における曹操自身が詠んだ「短歌行」の前半です。またもや我流の訳、その上に若干の改変を加えました。これも有名なものなので元の作品はググればすぐに出てきます。
 本来の「短歌行」は曹操が目の前に居並ぶ才能豊かな配下を前にして、俺の部下たちサイコー! とまさに悠々とした気持ちで歌う、晴れ晴れとした詩です。曹操の晴れやかな気持ちは後半に至るほどのびのびと謳われるのですが……今作ではぶつぎりです。「華琳」の心情ではここまでしか歌えない。
 どこを改変したかについてですが、元の「短歌行」では「青青子衿」とあるので、青々としているのは本来「衿(えり)」です。ですが李岳伝では「袖」としました。もうピンと来られてる方にとっては本当に蛇足ですが、季衣(許緒)のビジュアルが理由です。
 甚だしい改変でお怒りの方もいらっしゃるかと思いますが、華琳の心を詩に託せたらと思いました。ご寛恕ください。

 最後になりましたが、初めて曹操の詩に触れたのは2015年1月21日にこの世を旅立たれた故・陳舜臣先生の作品でした。
 この場をお借りして、偉大な先生のご冥福をお祈り申し上げます。

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