真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第八十四話 司馬懿の策

 董卓派の動きは早かった。

 司馬家の全面支持を受け、賈駆はそれまで握り続けていた政治的力学の全てを解放させた。董卓は決して名家名門を軽んじるつもりはない、むしろ宦官を中心とした勢力に対抗するものとして清流派士人の協力を求めているものである、と声を大にして訴えて回ったのである。貸しも恩義も圧力も、今まで温存していたあらゆる手練手管を用いて、賈文和は漢朝中枢の重鎮であるということを実力でもって周囲に示したのである。

 元より体を張って洛陽を死守した李岳の功績は民草に至るまで知るところである。匈奴に続いてこの洛陽を守ったのは二度目。個々に多少の反感はあれど、扇動されていなければ李岳や董卓を拒む者は少なかった。それまでは決して門を開くこともなかった者も、司馬家が派閥に加わったという事実の前にはかすかな氷解を見せたのである。

 さらに董卓は宦官による名門名族への弾圧事件である『党錮の禁』で不名誉を被った人々への補償に乗り出した。これが『董卓は宦官に成り代わっただけ』という風聞を完全に打ち崩し、それまで協力を拒んでいた文官を懐柔する端緒になった。同じ轍は踏まぬ、と異論を放った孔融に対しても完全にお咎めなしとしたこともその名声を確たるものとした。馬家の宝玉と名高い馬良と馬謖を含む『馬家五常』も協力姿勢を明確に打ち出すまでとなったのである。

 

 ――事ここにいたり、十分に政治的背景を伴ったとして董卓陣営は先の大戦における論功行賞に踏み切った。それは同時に二名の偽帝に対する宣戦布告の場でもあった。

 

 朝議の場にはやはり数多の武官、文官、名家名族が並んでいた。

 儀礼上の前置きは短かった。前に立った天子自らが事実上の非常事態宣言を布告したのである。

『曰く、不遜を働いた劉焉、劉虞両名とその一味を反乱軍と断定し、討つべし』

『曰く、両名に付き従う者たちは皆、同じく極刑に処す』

『曰く、反乱軍討伐命令に従わぬ者はいかなる理由があってもこれを許さぬ』

『曰く、討伐の総責任者を董卓と定める』

 名を呼ばれた董卓は恭しく御下命を拝受した。天子は続けた。司空の地位を返上し、丞相位を復活させその位にただちに着くべし、と。董卓はその場で伏し拝み二度辞去したが、天子の言葉は強く繰り返されとうとう三度目の叩頭で丞相位を戴いた。董卓はその日より臣下の身分ではこの国の頂点に君臨することになるのであるが、靴を履いての拝殿、佩剣は頑なに辞去し、同時に三公の廃止も等しく拒み、丞相位の任期を三年と区切り、その執政に瑕疵があれば辞する、と述べ周囲を驚かせた。

 丞相位に任ぜられた董卓は即座に挙国一致が必要であると訴え、あらゆる才ある者と、あらゆる志ある者は洛陽に集えと語りし、そしてここに開府を宣言した。後任の司空には賈駆が任命され、李岳には一切の言及がないまま河南尹への留任が決まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「茶でもどうですか?」

 ふっ、と司馬懿は笑って頷いた。初めて会った時の仕返しというわけだろうか。李岳は手ずから茶を淹れると司馬懿に差し出した。しばらくそれを飲みながら無言で過ごした。もう半ば冬である。青銅で出来た火鉢が静かに温もりを広めている。北国育ちの李岳にとってはまだ大したことないだろうが、洛陽近郊で育った司馬懿にとってはもう体を震わせる時期だ。

 茶をすすり、司馬懿はまずは小さく詫びた。

「遅くなり申し訳ありません」

「何がかな?」

「戦勝のお祝いが。まことにおめでとうございます」

 李岳は目をパチクリさせたが、やがて小さな溜め息を返した。

「とっくにそんな気分じゃないよ……あの戦は負けた、という結論になってるからな」

「宮殿での弁舌をもう一度やれ、とうながしておられるのでしょうか」

「そういうわけじゃない」

「勝たれました。だから私はここにいるのです」

 司馬懿は真っ直ぐ李岳の目を見て言った。李岳よりも背が高いので見下ろす形だが、なぜか司馬懿の方が気圧されそうになる。

 この小さな男が、いまこの国を支えている――

 勝ったと告げたが、李岳は答えなかった。そのまま立ち上がり火鉢の方に向かった。炭を足すその背中を見ながら、司馬懿はこの小さな少年――そう、まだ二十にもなっていない!――の成そうとしている仕事の巨大さに危うく眩暈を覚えそうになった。

 火鉢に炭を足した李岳が、再び着座するのを待って司馬懿は切り出した。

「攻勢を取られましたね」

「異論がある?」

「まさか。しかし丞相府とは、考えておりませんでした」

「陣容はまだ決まってないけどね」

 丞相。そして開府。

 董卓は先の戦いにおける論功行賞の際、帝から、この国の頂点でありながらも長らく用いられることのなかった役職である『丞相位』を授けられ、そして同時に府を開いた。開府は独自の権限で任官でき、組織を成すことを宣言したということだ。

「この仕組み……政体と言ってもいいでしょうか。いつ頃からお考えに?」

 束の間考えて、李岳は答えた。

「洛陽が燃えた日があるだろう」

「陳留王殿下が拉致されたあの日ですか? ……そうですか、連合戦の前から」

「あの時に月と……董卓と組んだ。あの夜からいずれこうすると決めていた。血塗れの階段を共に登ろう、とね。階段を登り切った先には、やはり血塗れの椅子があった。不快極まる話だ。俺に出来るのは代わりに血を浴びることくらいだな」

 唖然とする思いだ。李岳は、未来を見通しているかのような己の力量を自覚しているのだろうか? 司馬懿はしばらくその瞳を、えぐるほどに見つめたが、ただ寝不足からなる(くま)しか見えない。

 司馬懿の視線を糾弾だととったのか、李岳が弁明を始めた。

「正直に言って、董卓には悪いことをしていると思っている。この国を平定する過程で、もっとマシな状態で椅子を用意するつもりだった。今のこれはまるで背水の陣だな。これらは本来、国家の平定後に行うべき改革だった。今これを成すのは追い詰められているからだと断言していい。二人の皇帝が立ったが、やつらは邪道で洛陽が当然正統だ、また開明でもある、という宣伝がいま必要になった」

「それが丞相府……」

「今のところは軍事に特化した府になるだろう。というかそうする。三公を残したのは権力の集中を防ぐためだな。形骸化しているが、三公には本来の軍事、行政、司法について各職務の専門家を任命し、丞相府への諮問機関としての役割を担わせるべきだと考えている。軍権は認めない」

 司馬懿は溜め息を我慢しなかった。この男は……この男は何者なのだろう?

 いま李岳が語っているのは、明らかに宗室はもちろん、儒家や宦官などの貴族階級、または功を上げた武官による官位の独占などを明確に否定し、文官による管理と制限を施政に持ち込むというものだ。

 しかも任期付きである。これはつまり、見えにくいが明らかに――文官による統制を限界として設定しつつ、はっきりとした実力主義を国の礎にしようとしている。

「……だから、冬至さまは自らの官位が上がるのをよしとしないのですね」

「如月ってさ、実際どんだけ頭いいの? なんか一言二言話すと全部見抜かれる気がするんだけど。参るよ本気で」

「それはこちらの言葉です。いつの間にこんな大それたことを考えられたのですか」

「いやまぁ、ぼちぼちと。いずれは匈奴の有力者も府に据えたいと思うけどね、外交官ってやつだな。こちらからも匈奴に派遣する。物心両面での交流さ。戦も減るだろう」

「参ります、本気で」

 司馬懿は自分が恥ずかしくなった、この国の行く末などとうにわかっているのだ、と拗ねていた以前の自分を――

「冬至さま。貴方はこの国を変えるつもりなのですね。そのために北からやって来られた」

「乗りかかった舟さ」

「漕ぎだしたのは貴方では?」

「穴だらけだからな、放っておいたら沈没しかねなかった」

「沈みかけた舟の補修をし、水を汲み出し、再び進もうとされてるのですね」

「ああ」

「ものには寿命があり、舟もまた買い替えたり作り替えたりすることが出来ます。補修ばかり繰り返していては、肝心の漁も旅もままなりません」

「舟ならな」

「そうですね。ですが通底するものもあるでしょう」

「もちろんあるだろうさ。大きくすることも立派にすることも出来る。長く使えば使うほど愛着もわく。だからもちろん、穴が空いたから換えるっていうのは、あまり良くないと思うな。ま、俺、山の出だけど」

 仲間になれ。李岳はそう言った。だから司馬懿は、あくまで仲間なのである、共にこの国と帝に仕える仲間。

 司馬懿は一度、何かを言いたそうな目で李岳を見つめたが、それを喉のあたりで押し込めたまま小さく頷いた。頷いたのか、諦めてうなだれたのか、李岳には判別はつかなかっただろうけど。

 しばらく茶を飲んだ。言葉にしてはいけないものが、ふっと出てきてしまいそうな予感がしたので、仲間になったばかりだというのに人となりを理解し合うような会話は出来なかった。この人とはずっとこのままかもしれない、と司馬懿はふと不安にかられた。

 司馬懿は茶菓子を小さくポリポリとかじりながら、そういえば、と思い出したように言った。

「あの議場で、私が司馬家を代表して出てこなければどうするつもりだったのですか。かなり不利なようにお見受けしますが」

「粛清になった」

 司馬懿は驚くこともなくコクリと頷いた。

 もしあの場で儒家が主導権を奪取していれば、李岳は後日にでも嫌疑をかけ粛清に乗り出すつもりであったろう。楊彪を締め上げればどうとでも証拠が出てくるのは火を見るより明らかだからだ。しかしそうなればかなりの規模の弾圧になったはずで、政情不安を消し去るためには数年かかっていた可能性もある。そして同時に、それは董卓が魔王として君臨することになることも意味した。

 この国の混乱の有り様を前にして、一刻の猶予もないからだ。

「あいつらは夢にも思ってないだろうな、面目潰されたとしか思ってないんだろうが、実は命を助けられていたということに」

「儒家を延命させたのではないか、とも思っています」

「絶やしてもいいことないなら捨て置くさ。正直、あいつらにかまけている時間も余裕もないからな。まぁもう監視下に置いてるけど」

 二人の目は自然と一箇所に向いた。部屋に貼り付けているこの国の地図である。

 儒家の改革も官僚機構の整備も、本腰を入れるにはあまりに時間が足りない。

「悩んでる」

「これからのことですか?」

 まるで言い訳だな、と前置きしてから李岳はいった。

「祀水関の戦いに勝った後は東方制圧に乗り出すつもりだった。兗州、徐州、豫州、青州を平定して冀州の袁紹に対して、幽州の公孫賛と連合した上で挟撃するという絵図面までは描いてた」

「問題なかったでしょう」

「成ればね」

 もう一度地図を見た。その戦略は全て瓦解し、今は三方を敵に囲まれ何をどうすればいいか一から考えなくてはならないところまで押し込まれている。それも全ては益州軍が朱儁を打ち破り、長安を占拠したためである。そして帝位を僭称した劉焉と劉虞。

 長安の回復は急務だ。そのためにはあらゆる資源を投下する価値があるだろう。だが同時に荊州の劉表を野放しにすることは出来ない。幸い袁術が拠点としていた南陽郡はそのまま掌握することが可能だが、海千山千の劉表が黙ってみているとも思えない。長安の失陥も劉表の兵站支援があったから成し得たに違いないのだ。

 その長安奪取と対荊州戦線に手間取っていれば、袁紹はさらに強大になるだろう。元より声望の高かった劉虞を後ろで支える形だ、幽州との力も併合しやすくなる。

 そうなれば公孫賛が孤立することになる。仮に平定されてしまえば、幽、冀の両州合わせて十五万の兵力が動員可能だという試算が出ている。そうなれば青州と徐州の併呑も容易い。兗州も持つまい。単独勢力で三十万近い動員が現実味を帯びてくるのだ。

 西と南を相手取りつつ、強大になっていく東に備えるという戦略を立てる必要に迫られている。

「お答えする前に一つ。私は一体どのような立ち位置になるのでしょう。それ如何によっては答え方が変わってきます」

「官位の上下で助言の質が変わる、と?」

「私の官位は時間の問題です」

 李岳が面白そうに目を丸くしたが、何が面白かったのか司馬懿にはわからなかった。

「ですが今はまだ私は何者でもありません。これから自分がどこにどう関わっていくのかもわかっていません。で、あるのならば発言の責任が問われることになります。出来もしないことを言いたくありませんし、関われないことには慎重になります」

「許さない」

「そういうわけで、え、は?」

 今度は司馬懿が目を丸くする番だった。

 李岳はにっこり笑って、首をかしげながら繰り返した。

「だーめ」

「だ、だめ、ですか……」

「君は丞相府の中でも適当な下級官吏に任命される。多分記録を司る記室督だろう。あの議場で俺を支持したから出世、抜擢されたとなってはご機嫌取りに押しかけられて大変なことになりそうだからな。下級官吏とはいえ最初だけで、とっとと頭角を現して欲しいところだけど、これは、ま、昼の顔だな。そして夜には俺の秘書として働いてもらう。基本的に毎日ここに顔をだすこと」

「夜……秘書……」

「休みは適当に相談しよう」

 なるほど、これがこの男か――司馬懿はなぜこれほどの実力者であるというのに、未だ妻帯していないのかということにようやく思い至った。

 うら若き乙女に毎晩自宅に通え、などと、よくも言えたものだと司馬懿は内心呆れ返った。自分自身も疎い方ではあるが、それにしてもひどい。もちろん色事に悩みを割り振る時間など無い、と言えばそれまでだろうが、思いが至るかどうかとは全くの別問題である。

 道のりは中々遠そうだ。司馬懿の口元には自然と笑みがこぼれた。

「かしこまりました。助言役、ということですね」

「ああ。俺が成すことの全てを理解するのが君の仕事だ。最も薄汚れたことも、最も不遜なことも全てに関わることになる。できるか?」

 そこには何もないというのに、肩に何かがおかれた気がした。

 ズシリと、肋骨が軋みを上げる程の重さだった。李岳は変わらずに笑っている。

 司馬懿は答えた。

「――仲間になる、と約束しました。私は貴方との賭けに負けました。賭け金をお納めください」

「……賭けはもう二度とやりたくないな、次やれば負けそうな気がするよ……と言いたいところだけど、どうもそうはならなそうだ。如月、俺と一緒に負けた方が幸せな博打に乗り続けてもらうことになる」

「どうやらとんでもなく法外な口車に乗せられてしまったようですね」

「火の車にならないように、せいぜいお互い頑張ろうか……さて、では初仕事だ司馬仲達。今の情勢について君の考えを聞かせてくれ」

 コクリと頷き、司馬懿は立ち上がると地図の前に立った。よく見ると地図には無数の書き込みがあり、乱暴に消されたり上書きされているところもあった。これが一枚目ではないだろう。いくつの夜をこの男は悩んで過ごしたのだろうか。

 李岳の苦悩の軌跡を前にして、司馬懿の中に火が灯った。戸惑いもあったが心地良くもあった。家で逼塞してるだけでは味わえなかった感覚だろう。司馬懿は静かに、だが朗々と語った。

「手段をまずご説明します。一方を攻め、一方を乱し、一方と組むべきでしょう。なぜならば……」

 

 ――洛陽はいま最悪の位置にある。東には大都市を擁した最大勢力である袁紹・劉虞連合が、南には虎視眈々とこちらを狙う荊州の劉表が、西には長安を陥落させて勢いに乗る劉焉が。その全てを同時に相手取るのは無理だ。ならば連携を崩し各個撃破にするしかない。時はない。冬が明ければすぐに出兵となるだろう。

 

「冬が明けてすぐとなれば、兵力は五万がいいところだな。場所にもよるが、直接の兵站だけを考えると作戦行動は三ヶ月が限界と考えていい」

「南陽を取ればさらに延伸できるでしょう」

「……なるほど、南か。年明けの儀で劉表も反乱の一派に与したと糾弾し洛陽での弁明を要求しよう。飲むわけ無いけどな。となれば荊州刺史の地位を剥奪し、代わりを据える。それに抵抗したという名目で攻め寄せる……こんなとこか」

 司馬懿は頷いた。李岳も想定していたのだろう、その目に驚きはなかった。しかしこれはあくまで表面的な話である。

「出来るならば完膚なきまでに潰したいですね。江陵を落として劉表の首を取るのが上。荊州南部に排除するのが中。最低でも襄陽を取る、これが下の成果と考えられるとよろしいでしょう。とりあえず長江流域をこちらで押さえ込みます」

「揚州の袁術はこちらに協力姿勢を打てる」

「では江夏に圧力をかけさせましょう。難敵である黄祖を釘付けに出来ます……水上戦になれば手こずります。これは騎馬隊の電撃作戦になりますが、期待してもよろしいでしょうか」

「――ハハッ」

 李岳は吹き出し、やがて笑顔の余韻を残したまま司馬懿に言った。

「騎馬隊の実力を疑われるのは不本意だな。まぁ確かに守戦ばっかりだったから……面白いものを見せてあげるよ。自信はある」

「……なるほど。では、心配しません。編成は……」

「俺が出る」

 司馬懿が何かを言おうとしたのを、李岳は手を振って黙らせてきた。

「俺が出る。麾下に呂布、張遼、高順、徐晃。軍師には徐庶。どうかな?」

「……は。問題なかろうかと」

 反董卓連合軍との戦いぶりを記した戦闘記録は全て見た。どの将がどのように働いたか、敵はどう動いたか、李岳の命令により日付ごとに全てを記したものだ。どの将も作戦行動に不足はない。いや、過剰といってもいいだろう。

 自身が出撃するのも、取り囲む全ての敵に威圧を加えるのが表向きの目的なのだろうが、司馬懿には本当はもう一つの理由の方が重要な気がしていた。つまり荊州は、李岳の鬱憤晴らしの標的になったのかもしれない。

「申し上げたように、軍事行動としてはまずは荊州を叩きます。が、これは長安を快復するための手段でしかないのです。実際の戦闘は戦略に則って行われるべきで、一つ一つに理由があります。荊州攻略は大中小、の小です」

「長安が中、だな」

「はい」

 京兆尹から涼州の地図を望むと、李岳は引き出しからすぐに取り出してきた。そこにも無数に数字や覚え書きが書き込まれている。李岳の思考の後をなぞると、やはり長安を直接の武力で攻略するのはかなり難しいというのがわかった。

「朱儁殿の敗因は」

「待て」

 李岳の声は司馬懿を驚かせるほどに力がこもっていた。

「朱儁将軍の敗責を問うような物言いは今後禁じる。負けたのは俺だ」

「……わかりました。長安での敗因は、と言い換えます」

「如月、頑固だってよく言われるだろ」

「似たもの同士ということでしょう。話を続けます」

 

 ――大散関が突破され、長安が陥落した原因は単に戦場での動き方というだけではない。朱儁軍に参じていた鍾遙と張既の報告を司馬懿は読んだが、確かに攻城兵器の脅威は大きいだろうが、最も大きな問題は荊州の支援だった。これがなければ益州兵はとっくに撤退していたのだから。

 

「荊州と益州の連携を考えなかったことが大散関での敗因です。まず、ここを断ちます。そして長安を孤立させる。料理はそこからです」

「まず荊州を叩き、長安を孤立させる、か……なるほど」

「荊州が落ちれば涼州も動向を変えるでしょう。劉焉は祀水関から洛陽は必ず陥落すると馬騰と韓遂に説明したはずです。ところが洛陽は凌いだ。しかも短期間で荊州を取り潰したとなれば……翻意を考えるには十分です」

「蜀の桟道も落とすか?」

「当然。漢中にも働きかけるべきでしょう。長安内部への工作も必要ですが」

「よし、やろう」

 言葉にしたことがすぐ動き始める。司馬懿は身震いを禁じられなかった。国を動かし、歴史を動かす醍醐味がこの緊張と動悸か――

 長安への工作活動の案を司馬懿は言いかけたが、李岳が先んじた。

「暗殺を考えている」

 寒いのに冷や汗が滲んだ。私は賭け金を納めたのだ、と司馬懿は内心呟いた。

「……標的は」

「優先順位としてはまず劉焉の四人の子。そして法正。工作員を送りこむ手筈はもう整えている。如月、永家をしってるか?」

「それはもちろん。この洛陽にも大店を置く大商家でしょう」

「あれは俺が作った」

 まさか、という思いで見つめたが李岳の瞳は微動だにしなかった。

「今の店主はお飾りで、本当の主は張燕だ。黒山賊の手練が全国を回って情報収集に動いている。商家の大半はただの商人として働き符牒を運んでいるだけだが、当然、それ相応の仕事をこなせるものもいる。今度の会合には張燕と李儒も呼ぶ。謀略にはおいては張燕が実行で計画は李儒が担当だ。長安では大規模な破壊工作になるだろう。流言、寝返り工作、放火に暗殺……荊州が片付くまでには丸裸にしてやる。李確と郭祀も動かす、あの二人は長安をよく知ってるからな……如月、俺が怖いか?」

「はい」

「それを忘れるな」

「かしこまりました」

 

 ――李岳の言うとおり、司馬懿は胸に恐怖を刻み込み、同時に信頼も刻んだ。

 

 永家という巨大な諜報集団については後日改める必要があるだろう。しかしその実力を持ってすれば長安での謀略戦は予想以上に優勢に進むかもしれない。が、それだけでは片手落ちであることを思い出した。

「新兵器についても対策が必要でしょう」

 鍾遙と張既の話を丁寧に聞きとった。他にも生きて帰って来た兵たち複数から聞き取りを行った。蜀が用意した新たな攻城兵器は、相当の技術に裏打ちされた新たな機構であると思われた。実物を見ていない以上司馬懿にも断言は難しかったが。

「とりあえず、雨に弱いということはわかりました」

「ああ。鍾遙と張既は本当によく生きて帰って来た。朱儁将軍は最後に、本当に大事な仕事をしたよ……あの二人が生きて帰ってこなかったら手の打ちようがなかった」

「対抗策は既にある、と?」

「ああ。驚いたけど、ものさえわかればこの俺には通じない。潼関には赫昭を送り込む。問題はない」

 不意に、李岳がとても怒っていることに司馬懿は今更ながら気づいた。笑っているのだ。

「厳顔と法正にはこれ以上ないほど後悔させてやる。あいつらはやってはならないことをした、絶望をくれてやる、精々味わうことだ」

 茶のお代わりいるよな、と李岳が立ち上がった。助かった、と司馬懿は思った。そうでなければ恐怖で窒息していただろう。

 注ぎたされた茶の湯気を眺めながら司馬懿は考えをまとめた。小、中と来た。荊州も長安も全ては大に対応するための事前の準備という位置づけである。李岳が何事もなかったように茶をすすりながら呟いた。

「残るは大……つまり東、だな。袁紹と劉虞の連合が北方を平定し、南下するまでに荊州と長安を潰す必要があるわけか……というか、そこに対応するために中があり、その前段階として小がある。さすが、司馬仲達」

「いえ……」

「時間との勝負だな」

「このままでは間に合わないでしょう」

「どうすればいい?」

 司馬懿は李岳が不機嫌になると思っていたが、そんなことは全く気にしないという風で対策に移っていた。自分が李岳を侮っていたことを恥じ、司馬懿は続けた。

「南を攻め、西は乱します。東とはある勢力と連合を組む必要があるでしょう」

「同盟相手を支援し、劉虞袁紹同盟の力を削ぐわけか。それでこちらが平定するまでの時間稼ぎにする、と。となると公孫賛と烏桓だな。やりようによっては幽州をもぎ取ることも出来るかも知れない。陛下から幽州牧の地位を与えると言えばかなり説得力あるだろうな。早速動こう」

 公孫賛どのはすごくいい人なんだよ、と李岳は初めて歳相応の表情を見せた。内心には怒りや不安、恐れが渦巻いているだろうが、こういう笑顔が本来のこの人のありようなのだろうと思えた。

 今からこの人の表情を曇らせることになるかもしれないと思うと司馬懿は胸が締め付けられた。

「公孫賛どのだけでは荷が重うございます」

「同盟相手は多いほどいい。誰に声をかけるべきかな」

 

 ――司馬懿は一人、名を挙げた。李岳はその名を聞いた瞬間、指一本動かさなくなった。

 

 司馬懿は初めて李岳から敵意を感じた。司馬懿はいま諫言(かんげん)を行った。愚昧であれば遠ざけられるだろう、卑劣漢なら斬られてもおかしくない。

 李岳の敵意は司馬懿に向いているわけではなかった。具体的な個人でもなく、過去でもなく……強いていうなら、運命に対して敵意を向けているように思えた。

 沈黙は永遠に思えた。朝が来るまで、李岳は全く動かなかった。





【挿絵表示】

※2016.3.7追加

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