真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第八十三話 老将死す、約束は守られず

「これより大散関を突破する」

 厳顔の一言に法正を除いた全員が不可解そうな表情を見せた。張任、呉班、呉懿、そして魏延がである。朝、出撃を前にした軍議の席であった。厳顔は再び全員を見回して繰り返した。

「諸将にはそれに備えて動いてもらいたい」

「ご質問、よろしいでしょうか」

「うむ」

 張任がいかめしい具足姿に槍を持ったままの出で立ちで聞いた。巴蜀で生まれた生え抜きの将軍である。元々貧しい家柄の者だったが、劉焉が益州牧として入蜀してから抜擢され今の地位になった。主には並々ならぬ恩義を感じているだろう。

「総大将の言、重く響きまするが、単に意気込みを述べられているようには思えませぬ。あの難関を失陥せしめる根拠があるというのでしょうか」

 呉懿、呉班が後に続いた。

「それがしにはそのような手が思い浮かびませぬ」

「失礼ながら右に同じく」

 二人は元々兗州の生まれ育ちである。幼い頃に父を失い、劉焉から援助を受けて生き延びてきた経緯があるので、この二人もまた絶対の忠義を持っている。兄弟というわけではなく、族子のようだが絆は深くて強い。

 魏延だけが、まるでこれが絶対の信頼を寄せている証だとばかりに口を閉じ、じっとこちらを見つめていた。

 厳顔は四人の武人らしい顔つきを束の間見つめた後、コクリと一つ頷いた。

「お主達には黙っておったことがある。法正、良いな?」

 法正は目も合わせずに頭痛に耐えるようにブツブツと承諾を呟いた。心ここにあらずという風であるが、豪天砲の作動とその後の戦場の推移について幾重にも状況を想定し続けているのだろう。

「極秘に作っておった攻城兵器がある。それを使えば大散関は攻略できるだろうというかなりの見込みがある」

 張任の目に驚きが色となって浮かんだ。呉懿と呉班は怪訝そうに目配せしあっている。

「今まで黙っていたこと謝ろう。しかし作戦上隠しておかねばならなかった。輸送にも整備にも難があってな、しかも雨天での運用は難しいと来た。やむを得なんだ」

「見込みというのはどれほどのものですか」

「まず、成る。張任、これがあったからお館様も此度の出兵を決断なされたのじゃ」

 張任が三度目を見開き、そしてむぅと唸った。

「総大将の決断とあらば、後は身命を賭すのみです」

「同じく」

 呉懿と呉班の声に突き動かされるように、張任もまた覚悟を決めたように頷いた。

「必勝の策、お伺いしたく存じます。何なりとご指示下さい」

 厳顔は頷き、法正を呼んだ。ようやく下らない茶番劇が終わったか、という表情を露骨に表に出しながら作戦の説明を始めた。張任がその法正の仕草に眉をひそめたことに気づいたのは厳顔だけだった。

 だがその不信も、法正の説明が終わった頃には霧散していた。勝利を疑うこと無く、必ずや主である劉焉に勝利の報告を出来るだろうと皆が声を揃えた。

 益州の将は皆、掛け値なしに劉焉に心酔している。厳顔もまた軍人として飼い殺しにされていたところを劉焉に救われた、と思っている。流民としてあてどもなくやってきた者たちを、東州兵として再編したのもまた劉焉である。その恩義に対する忠誠心こそが益州の力の根源でもあった。

 

 ――劉焉が入蜀する前、益州を支配していたのは郤倹(げきけん)という男であった。

 

 益州刺史である郤倹はお世辞にも優れた人物とは言いがたかった、私利私欲を満たすことを躊躇わず、耳に聞こえのよいことばかり言う者を側に置き、厳しく注意をうながす者を遠ざけ時には処刑した。

 そのような状況の中で厳顔は大きな政治などには期待せず、ただ一個の武人としてのみ力を鍛え少なくとも自らの任地である巴郡の領民たちだけは幸せにしてやろう、とだけ勤めていた。

 その折にやって来たのが劉焉であった。

 当時、馬相という賊が反乱し益州を暴れまわっていたのだが、その反乱の規模は凄まじく、とうとう郤倹を殺害するまでにいたった。これを鎮圧するために賈龍という男を支援したのが劉焉である。厳顔もまた乱鎮圧に乗り出した一人だったが、劉焉の出現によって益州は見る間に安定していった。牧として就任した当時、誰もが劉焉を救世主のように崇めそして彼の言い分に従った。厳顔自身もまた、乱鎮圧の際の功績を認められて劉焉に引き上げられた者の一人であった。

 彼は老齢ながら牧に就任するや否や信じられない程に精力的に働き、政治の不正を正し、私利私欲を肥やしていた官吏を廃し、勝手気ままな豪族を排除した。

 生き場所を与えられたと思った者は少なくない。誰もが身を粉にして働き、そして次第に劉焉の言葉に異論を持たなくなっていった。長安を目指すという言葉が出た時も、誰もが一様に喝采を上げたものだった。

 

 ――だが厳顔は知らない。郤倹を廃し自らの入蜀を容易くするために馬相を煽ったのも、馬相を鎮圧するために賈龍を支援したことも、その真相に気づいた賈龍が非業の最期を遂げたことも、厳顔はまだ知らなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 功曹とは人事権を担う役職である。長官の下に付き人材の配置を指示するのであるが、通常その土地の出身者から選出され上流と下流の折衝も含めて広い裁量を認められている。ところが参軍の功曹となるとこれが曖昧な位置になる。人事権をちらつかせて万事上手いことやれ、と朱儁からほとんど明言された時は唖然としたが、現場の武官なりの配慮だということはしばらくして気づいた。

 急ごしらえの遠征軍では横の連帯が弱い上に連絡の齟齬が起きやすい。人事権という直接の力を持つ者が指示を下す方があらゆる意味で流動性を損なわないのだ。有り体に言えば何でも屋である。とにかく雑務を滞らせるな、ということなので鍾遙も張既も特段の制約を受けることもなく存分に辣腕をふるうことが出来たが、それはすなわち軍事行動の全ての事務作業に携わることを意味し、つまり激務に苛まれたということと同義である。

 元々体力に自信のない鍾遙であったが、それでも軍に従い長征に随行し、日々あらゆる雑務と格闘できたのは(ひとえ)に張既の存在があったからであった。彼女は決して明言しなかったが、どうも寒門(貧しい家柄)の生まれであるとして冷遇されて来たようだ。そのような彼女の目には、名門でも名家でもないというのに国の頂点に座し、国を守るために戦い続ける董卓と李岳は相当に魅力的に映ったという。

「おはようございます鍾遙様、本日の武具兵糧の目録をお持ちいたしました」

「あ、これは、お疲れ様です、張既殿」

 襟巻きから真っ白な息をこぼしながら張既はにこりと笑う。

 鍾遙の真名は碧堂というが、それを伝える気にはどうしてもなれなかった。勇気がない、意気地なしめと自分を苛む思いがあるのと同時に、安々と真名を交換するなど男児のすることではない、これで良いのだという慰めが同居し続けていた。字ではなく姓名で呼び合うことで、鍾遙の中では親しくなれたぞ、という折り合いが付いていた。

 が、しかしやはりもう少し親しくなりたかったのが偽らざる思いであった。

「ところで張既殿、私たちはそれぞれ同輩であって、上下の別なく任に当たっているのであって……そのようにかしこまられると、それがしも恐縮して大変……その、やりにくいのです」

「ですが、長幼の序というものもありますし、そも鍾遙様は元々県令であられましたし」

「う、うむ……で、あるが、しかし……」

 ええい、歯切れの悪い! 鍾遙、貴様は本当に男子なのか! ……内心の叱咤が効果を出すよりも、張既が口を開くのが早かった。

「はい、では鍾遙さん、とお呼びしてもよろしいでしょうか?」

「え、うん、うむ、それなら」

「けど、私だけ歩み寄るというのも不公平ですよね? 鍾遙さんも呼び方を変えてくださいな。張既、と呼び捨てで結構ですから」

「そ、そそ、それだけは無理でございます! い、今まで通り……張既殿、で……」

「ふふふ、わかりました。鍾遙様は……じゃなかった、鍾遙さんは本当に紳士的な殿方ですね」

 いやあそれほどでも、などと出来る限りの仏頂面で答えながら、鍾遙の内心はまるで天に舞い上がるような気分であったのは言うまでもない。また一つ親しくなることが出来た、本当に喜ばしいことだ! いや、しかし単なる同僚なのだ、ええい愚か者め、自重せよ……

 鍾遙はウキウキとした気持ちを押し殺しながら渡された竹簡に目を通した。なるほど、かなり減りは早いが想定内だ。だが念の為に長安に補給を早めるように馬を飛ばせば十分だろう、いや、そうこうする内に益州兵は撤退するかもしれないのだから予定通りで構わないだろうか? なに、益州軍とて相当に兵站に苦労しながらもここまで来ているのだ、さぞや飢えに苦しみつつ脱走兵の量にでも頭を悩ませているに違いない……

 

 ――そこまで考えた時、鍾遙はピタリと動きを止めた。

 

「ど、どうしたんですか鍾遙さん?」

「……おかしい」

「え、何か数字に間違いが」

「いや、そうではない、そうではないのだ……」

 鍾遙は答えが出るのを待つまでもなく、考えながら足早に朱儁の元へと向かった。張既が不安そうに後ろを付き従いながら、不意に真剣味を帯びた鍾遙の後ろ姿に頬を赤らめていることなど気づきもしない。

 朱儁は城壁の上にいた。鍾遙は足早に駆け寄ると、挨拶もそこそこに自らの疑問を打ち明けた。

「将軍、敵は戦力を欺瞞しております」

 朱儁がひび割れた顔を歪めて鍾遙を睨みつけた。普段であれば腰を抜かしてしまいそうな迫力であるが、頭を働かせている時の鍾遙はそのようなことに物怖じする気を完全に失ってしまう。まくし立てていた。

「ここに我らの兵糧、物資の目録がございます。ここに記されている数字は我ら文官が切り詰め切り詰め、なんとか確保している量です。長安からの補給は問題無いとはいえかなりの長距離となりますので……我らとて余裕のある兵站線ではないのです。ならば益州軍は? 将軍は散々に彼奴らの兵站線を乱しその補給を寸断してきました。我らはそろそろ飢えと渇きに押され撤退するものだと思っておりました」

「違うのか?」

「晴天であれば!」

 既に晴れ渡った空を指さしながら、鍾遙は声を荒らげた。

「長雨です! この周辺一帯に降り注いだ長雨は、山間部に川を作り、橋を押し流し、泥濘を敷き詰めます! 悪天候の中、過酷な蜀の桟道を通ってこの遠征軍の補給を維持することなど不可能なのです! 奴らは本当ならとっくに飢えている!」

 朱儁が鍾遙から目を背け、関のあちら側に顔を向けた。

「敵には協力者がいます。漢中、あるいは荊州が補給を担っているのは間違いありません。伏兵か背後に回りこむ戦力があるのやも……何やら嫌な予感がいたします」

 フン、と朱儁は鼻で笑い、顎をくいっと傾けて前方を示した。

「だがもう遅いようだ。見よ」

「なんと……」

 城壁に張り付いた鍾遙が見たものは、様々な攻城兵器を連れた益州軍の姿であった。

 巨大な蛇が眠りから目覚めたように、陣地という穴蔵から獲物を求めてさまうように動き始めた……

 さて、報告を待つまでもなく朱儁もまた益州の動向に疑問を浮かべていたところだった。鍾遙の言葉がその勘の裏付けをしてくれたというところである。

 この関を目掛けて進軍してくる長蛇の列。吐く息を白く滲ませながら、朱儁はありったけの資材を持ってくるように伝えた。備蓄はかなり残しているが、今日ここで全てを吐き出すつもりでかかったほうがいい、と長年戦場を渡り歩いてきた彼女の直感が訴えてきた。木石に油に矢。この要塞は難攻不落、と舐めてかかって敗れ去っていった者など無数にいる。今その教訓を活かすべきだ。

 恐らく総攻撃だろう、今までと動きの重さが違った。何が何でも、という気迫が朝露をはねのけて震動しているかのようだ。

「敵のことはまずはよい。こちらの備蓄は万全だな?」

「は、はっ」

 答えているが鍾遙は気もそぞろのようで、進軍してくる巴蜀の軍勢に目が釘付けになっている。緊張しているのかこの寒い中で汗を浮かべていた。隣にいる張既の方が涼しい顔をしている。

 うむ、と頷き朱儁は強く鍾遙の肩を叩いた。

「血が疼くか? よし、いっちょ前線で気張ってみるか! おい、槍を持ってきてやれ!」

「はっ、は? ご、ご冗談を!」

「張既、お前もこの男の武者働きを見てみたかろう」

「そうですね、きっとご立派であろうと思います」

 鍾遙は朱儁と張既を交互に凝視しながら今にも零れ落ちそうなくらいに目を見開いた。うふふ、と張既がこらえきれずに笑った。

「鍾遙さん、からかわれてるんですよ」

「へぇっ!? は、は、はぁあ……しゅ、朱儁将軍……ご冗談が過ぎます……」

「なに、冗談なものか。そなたの武勇があれば百人力だろうが。しかし、ま、今はまだ貴様の一騎当千に頼るほど困ってはおらぬ。その時が来たらでよい。鍾遙、敵には策がある。それを見ぬいたこと見事。ここを凌いだ後に対策を立案するぞ。そなたも軍議に加われ」

「微力を尽くします」

 朱儁は城壁の石垣に手をやった。敵の接近に奮起するように、かすかに振動している。

 長雨の後の嘘のような青空を、一本二本と矢が横切り始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「察したかのう」

 厳顔の呟きは誰の耳にも届かないと思っていたが、魏延だけには聞こえたようでクルリとこちらを振り向いた。

「桔梗様、察したって」

「今までにない強烈な反攻であろうが。朱儁め、こちらに普通ではない備えがあるとどこかで見抜いたのだろう」

「まさか」

 そんなわけない、と魏延は苦笑いを浮かべた。確かに豪天砲の存在を看破されたとは厳顔も考えていない。だが朱儁は何かを感じ取った――益州軍に秘策あり。それを発揮させてはならぬ、ここで完膚なきまでに叩いてしまおう――という意志を明確に感じる。

「予定を繰り上げるぞ、法正」

「予定は絶対だ!」

 地図を睨み続けていた法正が、馬鹿なことを言うなとばかりに顔を歪めて叫んだ。

「絶対なのは予定ではない。結果じゃ。ここで押せるだけ押す。そうでなければ豪天砲も近づけまい」

「だが!」

「戦場には戦場の理屈がある」

 法正自身も、曖昧模糊としながらも自軍が思う通りに展開できていないということには感づいていたのだろう。やはり親指の爪を噛みながらであったが渋々頷いた。

 厳顔は幕舎から出ると前線へ向かった。魏延がピタリとついてくる。まず呉懿、呉班に要塞への梯子かけをさらに強めろと命じた。張任にも予備を投入せよと命じる。さすがに武人である、法正のように御託を並べてくることはなかった。

 しばらく総力戦の様相を呈した。要塞にかけられる梯子は一時には十を超えたが、その全てが外され燃やされた。かなりの損害が出ているが、蜀兵はよく頑張っていた。一人二人死ぬのを目撃する度に厳顔は自分の魂の火に薪がくべられるような思いになった。

「衝車部隊、全隊突撃」

 張任がなんと先頭に立って要塞へと突っ込んでいった。丸太を削って作り上げた、鉄門を破壊するための衝車が猛烈な勢いで突撃を敢行した。その押し手を狙うために要塞からは矢が雨のように降り注ぐ。衝車部隊の内のほとんどが辿りつけずに失速するか、辿りついても何の効果も与えることが出来なかった。

 だが、それもまた計画の通りであった。厳顔は自らの出番が近づいてくるのを感じた。魏延を付き従えて衝車の一台に乗り込んだ。

 張任が無理押しとも言える程に攻勢を連呼していた。呉懿と呉班が負けじと押し迫る。しかし要塞はびくともしない。大散関の前では衝車が二台、三台と燃えていた。あえて燃えやすくなるように油を積んでいるので、黒煙は大散関全面を覆うほどであった。

「さて、伸るか反るか、よな」

 黒煙が十分に視界を遮ったであろうことを見てとって厳顔は片手を上げた。衝車に偽装した、自らと豪天砲を積んだ荷車がギシリと音を立てた。掛け声を繰り返して兵は荷車を押す。厳顔は豪天砲を構えたまま微動だにしなかった。魏延がすぐ後ろにいる。矢が飛び込んでくる。すぐ隣りの兵が頭蓋を穿たれ死んだ。厳顔は動かなかった。荷車だけが動き始めた。

 押せ、押せ、という兵達の声が聴こえる。後ろを振り向かなくても、法正が血走った目で睨んでいるのがよくわかった。呉懿の隣を、張任の隣を通り過ぎた。もう最前線を突破し、突き進むまでである。

 厳顔は携えていた手拭いを口元に当てた。濛々と黒煙を上げる烈火の戦場を突き進む。一人、二人と倒れ伏していくのがわかった。が、車輪は止まらない。時折がたんと跳ねながら、もう荷車は止まらない、誰にも止めることが出来ない。

 厳顔は自らを覆っていた布を剥ぎ取り、豪天砲を構えた。黒煙が不意に吹き飛び、大散関が丸見えになった。朱儁とはっきり目が合ったのがわかった。が、もう全ては遅いのだ。

 荷車が大散関の正面門扉に激突し、粉々に砕け散った。その刹那に厳顔は豪天砲を構えたまま頭から突っ込んでいった。巨大な鉄塊の先端に備えてあった刀剣が、真っ直ぐ門扉の隙間に突き刺さり、ねじ込まれた。

 一瞬、静けさに覆われた。厳顔は息を呑んだ。撃鉄を引いた。何も起きなかった。しかしそれは束の間であった。機巧は作動した。厳顔の背中を『力』が走り抜け、ガクンと首を前後に激しく揺さぶった。弾かれた鉄杭が飛び出すのを、ありえるはずがないというのに、その全てを厳顔は己の目がしっかと収めたと思った。

 爆音とともに束の間意識が飛んだ。刹那であったが、厳顔の意識は真っ白な世界に飛び込み、そして戻ってきた。戻ってきた時、大散関は()いていた。いつまでも響くような、おおお、という唸りを上げて巨大な要塞は啼いていた。それは断末魔でもあった。

 突き破られた鉄門の隙間が、立ち込めていた黒煙を飲み込み続けていた。

 厳顔の目に、影を貫く一条の光が差し込んできていた。

「大散関、敗れたり!」

 魏延の絶叫が耳に心地よかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 何かが起きた。何かはわからないがそれは起きた。そして門が破られた。わかっているのはそれだけだった。

 考えるより先に口と体が動いていた。

「鍾遙、張既! 今すぐ長安へ戻れい!」

 何事かを言おうとした鍾遙の頬を張り飛ばした。張既が強く頷いているのを見て朱儁は壁から飛び降りた。不変不抜と信じていた大散関の正門が破られるなど考えていなかった、兵など最低限しか控えていない。

 既に益州軍は雪崩を打って駆け込んできていた。負け。二文字が浮かんだ。死に場所、というのが次に浮かんだ言葉であった。それを打ち消し、朱儁は全軍を鼓舞した。この程度の危難は未だかつて何度もあったのだ。

 朱符が偶然下にいたようだった。押し寄せてくる敵兵に驚いた表情が朱儁にはよく見えた。その顔にはすかさず闘志と怒りが真っ赤になって浮かんだが、一呼吸を置くこともなくその首に矢が突き立った。血を吹き出しながらなおも抜剣しようとしたが、たちまちに数十の矢が射込まれもはや元の有り様さえわからぬ程になってしまった。

 まだ四十である。ろくな死に場所を与えてやれなかった母を許せ、と詫びた。

 城壁の上の兵も今やほとんどいない、蜀兵は勝ち鬨を上げながら死をも恐れずに押しまくってきた。それに対し、背に担いでいた巨剣・赤骨を大上段に担ぎ上げ、飛び降りると同時に振り下ろした。我先にと飛び込んできた蜀兵が粉微塵に吹き飛ぶのが見えた。一気に血を浴び朱儁は昂揚した。雄叫びは峡谷に響く程。

「我が朱儁だ! 益州の弱兵が跳ね返りおって!」

 まばらに集った兵たちが朱儁の姿を認めた途端、一斉に気勢を上げた。即席の陣地を組んだ。朱儁が先頭になって突っ込んだ。侵入されているのは未だ五百。門は完全にこじ開けられているが押し返せないことはないはずだ。

 ここが破られれば長安は危機に陥る。そうなれば洛陽は絶体絶命の窮地になるだろう。

 李岳の顔が思い浮かんだ――あの小僧! 貴様を殴り飛ばすことを諦めたわけではないぞ。大口叩いて無様に負けたとなれば瑪瑙に笑われるわ、陛下にも申し開きが出来ない――朱儁はその白髪を逆立てる程の気合を迸らせた。

 赤骨を盾に、矢を避けながら朱儁は敵兵に雪崩れ込んだ。敵兵も必死である、後から後から湧いて出てくる様は洪水を手で食い止めようとしているかのように思えるほどだった。朱皓が混戦に持ち込むために騎馬隊で突っ込んできた。精々三百だったがそれでも敵兵の勢いを束の間遮断しかけた。

 まだいける。そう思った時だった。死の気配が朱儁を襲った。

 咄嗟にしゃがみこんだのは数十年に渡る戦場の勘としか言いようがない。唸り声を轟かせて巨大な鉄塊が朱儁の頭上を殴った。

「ちぃっ! 外した!」

 深く息を吐いて朱儁は一度距離を取った。目の前の武人が自分の頭蓋目がけて振り回した得物は、赤骨と瓜二つな巨大さを誇っている。まだ若い。せいぜい二十かそこらに違いない。沸騰し、煮え滾るような闘志があられもなく溢れ出ていた。

「名乗りな」

「魏延! 字は文長! お前が朱儁だな? その首、頂く!」

「やってみろ、小童(こわっぱ)!」

 朱儁の挑発に魏延は容易く乗った。こめかみに青筋を立てながら、大上段に振り下ろしてきた。朱儁はそれをまともに受けず、剣を寝かせて右に踏み込んだ。構わんとばかりに地を殴りつけた魏延の一撃は、無数の石つぶてを朱儁に撃ちこんだ。肩と頬に一発ずつ打撃を受けたが、構わず横薙ぎに払った。巻き起こる砂埃に惑わされることなく、魏延は朱儁の剣に追随して防いでいる。

 強い、と同時に甘いと察した。武器の練達に見劣りがある。ここで討つ。益州軍の様子を見るに腕の立つ、名の知れた将に違いない。ここで討ち取れば形勢逆転の契機となる。

 つばぜり合いを嫌がる魏延を朱儁は許さなかった。柔軟に力を出し入れし、至近距離から離れなかった。膂力に勝る魏延が次第に苛立ち、息を弾ませ始めるのがわかった。老練であることを恥などとは思わない、戦は常に勝たねばならない。そのために巴蜀は武力を欺瞞し、新兵器を用いた。それを朱儁は決して汚いとは思わなかった。

 だから死ね――体勢を崩しきった朱儁。赤骨を振り上げた時、疾風のごとく迫った影があった。

 巨大な鉄……魏延の得物よりも、朱儁の武器よりも巨大な鉄の塊が、その先端にくわえ込んだ刃を朱儁の腹に突き刺していた。

 紫がかった銀色の髪が朱儁の前でなびいた。花の香を嗅いだ気がした。死の予感は存外に雅である。

「一騎打ちに割り込む無礼、許されよ」

「貴様は?」

「厳顔」

「これが、門を破った代物か」

「左様」

「応。やれ」

「……おさらば!」

 全身を真っ二つにするような衝撃だった。厳顔の姿が突如小さくなった。感覚が死んでいるだけで、自分の体が後方に派手に吹き飛んだというのはすぐにわかった。真っ二つにするような、ではなく、自分の体が文字通りほとんど二つに分かれてしまっていることに朱儁は思い至った。既に指一本動かせなかった。理屈はわからないが、巨大な杭が自分の体を串刺しにし、石壁に(はりつけ)にしている。

 即死がもたらす永遠の闇、それが訪れる最後の刹那、生が死に染まり切る最後の閃光の一瞬、朱儁は帝を思った。哀れな少女の無事を願い、それに資することの出来ぬ己の非力を嘆いた。

 李岳、殴るのは勘弁してやる、だからあの子を泣かせるな。瑪瑙、すまん――

 それが朱公偉の、脳裏を横切る最後の想いであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――大散関を突破し、その日のうちに総大将・朱儁と副将の朱符を討ち取った益州軍は、大将を失い統制の取れなくなった官軍三万あまりを斬殺せしめた。留まることなく、速やかに京兆尹一帯の制圧にかかり、最短で長安への道を辿る。朱皓が賢明な防戦を見せるが、降兵を用いて城内の内応と混乱を惹起(じゃっき)させ、やはり爆音とともに西方への要害・安定門を突破した。

 執拗で徹底した追撃戦、速やかな進軍、長安の掌握、決して妨害に出ることのなかった涼州勢力――全ては軍略家・法正の差配であったという。

 これにより、益州牧劉焉の支配地は益州から巴郡、漢中を包囲し峡谷を超え、京兆尹から潼関の手前までの広大な土地となり、涼州の馬騰との同盟を含めれば漢帝国の西半分に及ぶこととなった。




お疲れ様でした。
退場のスピードが上がってるのは気のせいじゃない。
そして艦これが不安。

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