真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第八十一話 我が名は

 ――およそ六十数年後。

 

 それはそれは壮大な葬列であった。国に住まう全ての人民がこの街に結集したのではないかと思えるほどの人垣であった。事実、北は幽州、南は益州からも人がやって来ているという。

 太傅・司馬懿の死。

 この国を支え続けて来た重鎮の死に、盛大な国葬でもって人々は報いている。

 陳寿はその葬列を、酒家の二階から眺めていた。かれこれ一刻はこうしている、手元には書き上げたばかりの『祀水関の戦い』が、修正の端書きのために半ば朱色のままひらひらと風に泳いでいる。店員が怪訝そうに気配を窺っているのを見咎めて、さてもお代わりをねだられているのかと察して若干十八歳の才気煥発な栗毛の少女は、もう一瓶頼んだ。

「お客さん、いい加減にしておくれ」

「はれ?」

 店員は陳寿の読みとは違い呆れ顔である。

「いつまでこんなとこで呑んでんだい!」

「え。説教されてる。なんでだろ、お金ならありますよ」

「んなことは当たり前の話さ!あたしが聞いてんのはね、太傅様のお葬式にいつになったら行くのか、ってことさ!」

 ああ、と陳寿は察した。なるほど、この店主もあの葬列に参加したいのか。無粋な酔客の相手をしてる暇などない、ということか。陳寿は思わず笑ってしまった。この世は物好きばかりだ、よく出向きたくなるな、と……あのような茶番に。

「私ゃ行きませんよ」

「行かない!?冗談!」

「本気です。私は司馬閣下のお言いつけを反故にするほど肝が座っていないもので」

 瞬間、店主が眼の色を変えた。陳寿の身なりを上から下まで眺めた後、一点、冠に小さく垂れ下がる官位を示す帯に目を留めた。

「……もしや、貴方さんはお偉いさん?」

「木っ端役人ですよ」

 

 ――陳寿は興味なさげにうそぶいたが、彼女の官位は治書侍御史である。木っ端役人など笑い話にもならない大嘘である。司馬懿は生前史書の編纂を重要視し、二十人からなる特務班を作らせていた。治書侍御史である陳寿はその班の長であり、国母とさえ謳われた司馬懿の側近中の側近の一人であった。

 

「そんな木っ端役人様が一体全体どうしてこんなところで……」

 店主の言葉に陳寿は怒りを思い出し拳を震わせ始めた。

「……閣下は身罷られる前、決して盛大な葬式など行ってはならぬとおっしゃっていた。それをあの高柔(コウジュウ)のクソババア、催し物にしくさりやがって……!」

 新たに置かれたおかわりの一本を一気に飲み干し、げふーい、と陳寿は下品極まるげっぷを漏らした。

 高柔は司馬懿の影の右腕とも言える女で、かなりの高齢になるが未だに辣腕を振るって政敵を震え上がらせている。目的のためには手段を問わない司馬懿の冷酷さを体現している人間だった。司馬懿の遺言を反故にしてでも国の権威を高めようというのは、しかしある意味、司馬懿らしい最後を演出しているとも言えた。

 司馬懿……自らを見出し、支えでもあったあの人はもういないと思うと、陳寿は胸が締め付けられるようであった。

「太傅様はどんなお方だったんかねぇ」

 これはおまけだ、ともう一本持ってきた店主がニヤリと笑った。代金として司馬懿の話をしろというわけだろうか。あるいは葬儀に参列できない腹いせというわけだろうか。

 陳寿はもう一つの杯を頼んだ。それは司馬懿に捧げる一杯であった。陳寿は自分の杯を飲み干すと、一つ一つ記憶の筋を思い出しては呟いた。

「ご老齢を感じさせない矍鑠たる方で、もうめっちゃ賢いし知らないことないし何でも教えてくれるし、綺麗で立ち居振る舞いも美しくて、特に純白の長髪を背中に流してたってらっしゃる後ろ姿ったらもう!」

 クラリとくるね、と陳寿は頬を上気させた。

「お休みなんてほとんどない人だったけど、でも動物がお好きで……嘘か本当か、宮廷には猫が住み着いているらしくて、よく仕事の合間に愛でてらしたとか」

「へえ! そりゃ下々にはわからない話だ」

 話し始めるとキリがない。陳寿は一度見聞きしたことは絶対に忘れない、という特技があった。だから初めに会った時から別れの瞬間まで、司馬懿がどんな表情でどんな声音だったかも全て覚えている。

 やがて語り終える頃、すっかり夕暮れ時が迫ってきていた。陳寿はそろそろお暇します、と代金を支払い立ち上がった。

「いや、お代はいいさ。たんまりいい話を聞けたからね」

「いえいえ、ちゃんと払います。どうしてもというなら、質問に答えてもらってよろしいでしょうか」

 なんだい? と首を傾げた店主に陳寿は一つ――高柔のババアは気に喰わないけど、ま、私も大差ない裏切り者かな。太傅閣下のご遺言を反故にしようとしているんだから――と念じて聞いた。

「お年はいくつ?」

「今年で四十だけど」

「李岳、という名はご存知?」

「李岳?」

 女将は束の間考えた後に首を振った。

「いや、ないねぇ」

「そ。ありがと」

 机の上に少し色を付けて代金を置くと、陳寿は店の外へと出た。葬列は今もまだ長く長く列を流しながら悲嘆と感謝を空に届け続けている。それに背を向け陳寿は町の外へと向かった。夕焼けが赤々と陳寿の全身を濡らした。ふとこぼれてきた涙をすくい取りながら、陳寿は一つの決心を下していた。

 

 ――司馬懿は生前何でも教えてくれた。戦乱での苦労や富んでいく国の有様、そして未来……ただ一つのことを除いて。李岳という男については決して教えてはくれなかったのだ。

 

 姓は李、名は岳。字は信達。名前しかわからないその人は、全くといっていいほど人の口に上らなくなっていた。だがしかし、その人は実在したのだと陳寿は断言できた。数千にも及ぶ聞き取り調査と報告書を読みあさった結果、巧妙に隠蔽されてはいるものの、その名前がかすかに浮かび上がってくるのだ。

「李岳……」

 彼の存在はある時を境にパタリとその名は途絶えたように思う。途中で失脚したか、あるいは不都合があったか。まるで緘口令を強いたとでもいうような徹底ぶりだったが、陳寿はとうとう六十年近く前の祀水関の戦いで戦った、という老人の証言を突き止めた。李岳はいたのだ、やはり。そしてもう一人、南方は越から現れた証人からも、不可思議な名前が伝えられている。

 司馬懿はきっと李岳という人を史に含めるべきではないと考えた。それがどういう理由かはわからないが、陳寿の歴史を編むという欲求は司馬懿の意志を半ば超越しつつあった。陳寿が、なぜ質素な葬式をお望みなのかと問うたことがある。司馬懿は一言だけ、真の功労者は私ではないから、と答えた。あの方より高く弔われるわけにはいかない、と。

 皆まで言わずとも陳寿にはわかった、歴史を編纂するという仕事についていた陳寿だからこそわかった。司馬懿が言う真の功労者とは、李岳なのだと。

「ごめんなさい、私、やっぱ調べます……書きます! だって我慢できないもの。閣下もきっと、心の何処かでは李岳という人の名前を残したいと思ったんですよね、だから私にだけ気付くようにかすかに仄めかした……」

 司馬懿にとって李岳はかけがいのない人だったのだ。だからあんなにも歴史を重んじているのに隠蔽をはかった。だが、それでもなお、陳寿は司馬懿の左腕として、その決心を打ち砕いてでも書かなくてはならないと思った。

「この国の歴史を書き記すのに、司馬仲達を完璧に記述できないなんて、そんなの嘘だもの」

 司馬懿が初めてその名を歴史に刻んだ瞬間に、李岳もその場にいたのだと陳寿は確信していたから。

「ですよね、如月(きさらぎ)様!」

 陳寿は涙を拭い、師の面影を――歴史を追うことを人生の務めだと誓った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――時は戻り、洛陽。

 

 長安陥落の話は瞬く間に洛陽城内に広がった。

 戦勝の祝いは嘘のように消え去り、再び暗鬱とした淀んだ空気が流れるようになった。名家名族の間では李岳が採用した戦略に対する非難まで公然と飛び出てくる始末で、引いては董卓が権力を握っていることがそもそもの元凶であるという風聞まで飛び交った。

 同時に益州牧の劉焉、さらには幽州の劉虞が皇帝を名乗ったという知らせまで入ってきた。その知らせがもたらした衝撃は、初め誰も正確に理解することが出来なかった。が、じわり、と人々の間に天下国家の土台が揺らいでいる、という猛烈な不安を呼び起こした。

 皇帝の元には、董卓と李岳による情勢の説明と弁解が必要だという上奏が相次いで差し出され、宮廷前の広場に伏して拝み奉る数百人の官僚たちが声を合わせて天地と洛陽のためであると合唱した。

 この事態を重くみた皇帝劉弁は――実際は官僚の言い分を断りきれず――董卓と李岳に対する査問を認めることになったのである。

 査問の朝を李岳は一睡もできないまま迎えた。

 李岳だけではない、情報を整理するために奔走した参謀陣はここ数日まともに床にも就けていないだろう。

 居間には既に呼び寄せた全員が揃っていた。賈駆、陳宮、張燕、李儒、そして徐庶である。 

「泣いても笑っても今から朝廷に向かう。最後にもう一度だけ情報を整理しよう」

 差し出された茶に手さえ付けず、李岳は聞いた。張燕はいつものような軽口を叩かず、至極端的に答えた。

「間違いなく長安は陥落している。朱儁軍が打ち破られたのも本当だ。身元確かな行商からの情報だ。朱儁の生死は不明。長安を占領した益州劉焉軍はさらに弘農を狙って動き出す、ともっぱらの噂だ」

 腕を組み、李岳は溜め息を吐きそうになるのをこらえた。感傷に浸っている暇はない。西の戦線が崩壊したということは、東を攻略するというこれまで立てた全ての戦略が瓦解したことと同義だ、早急な立て直しが迫られている。絶望感に浸るのはもう済ませた。

「朱儁どのの安否を早急に確認してくれ」

「急ぐ」 

「ねね、兵糧の備蓄の状態は」

「は、はっきり申し上げて……厳しい、のです」

 陳宮は立ち上がると、洛陽を中心に東西南北の四方、さらにそれぞれを二つに分けて計八の地域の税収の状態と備蓄の量を(そら)んじた。

「……この通り、時節柄今はまだ秋の入りで刈り入れが済んでいないのが大半なのです……戸籍に則って増減を計算することもまだ半ばでありますし、徴収するにしても、あまり乱暴すぎると……」

 後顧の憂いに繋がる、というのだろう。

「備蓄に関しても、兗州方面に戦力を集中させていたために一度こちらに戻さなくてはならないのです。ある程度は手配しましたが……兗州攻略は断念せざるを得ないのです……」

 そもそも厳しい兵糧で大戦を乗り切った後に突如出兵出来るか、と問う方に無理がある。

「今すぐ即応部隊を出撃させるとして、最大でどれだけの規模を維持できる?」

「二万の兵が二ヶ月」

 極限までかき集めての数だろう、陳宮は本当に自らの食さえ断ってまでもその量を確保するに違いない。しかし少なかった。到底まともな戦線を維持するには足りない。手元に揃っている材料の乏しさに、頭がクラクラして思考力が鈍ったような気になった。念入りに土台を確かめ積み上げてきたものが、一度の風で全て崩れてしまったかのような錯覚を覚えた。

「詠、宮中ではどんな感じかな」

「長安遷都論が巻き返しを図ってるわ」

 李岳は思わず笑ってしまった。長安に遷都? 今から皇帝を僭称した益州の劉焉にこれは何かの間違いだ、とでも言うつもりなのだろうか。

「笑い事じゃなく、本気なのよ……長安に遷都していれば敵に奪われることもなかった、って連中は本気で信じてる」

「凄まじい結果論だな。洛陽を捨てれば負けてたぞ」

「そういう理屈は通じない連中なのよ」

「で、具体的には?」

「戦時の最中に反乱を煽り捕縛された楊彪、楊修らを釈放せよと……彼らは大軍略に従って行動していたのであった反逆者ではなく、むしろその功績を讃えられるべきであると」

「面白い冗談だ」

「ボクもさすがに呆れた」

 名家たちの政治的な反撃が大規模なものになりつつある。奴らは、あるいは長安陥落を喜んでいるのかもしれない。どこまで勢力を拡大しているのか不透明だが、渾身の力で押し返そうとしているのはわかった。

 皮肉なものだ、と李岳は内心おかしくて仕方なかった。史実では董卓が強行した長安への遷都だというのに、今この場ではそれを必死に食い止めようとしている。

「論功行賞の用意をしていたのに、全てお破産ね」

「いっそクビにしてくれって気分だけど、逃げるには背負ってる荷物が多すぎるからな……珠悠(シュユ)、軍略家として君の見解を聞きたい」

 徐庶が小さく頷いた。ある意味これがこの少女にとって初めての仕事となる。無茶極まる要求だろうが、力を示してもらう必要がある、今ここは確かに戦場の最前線にも勝る鉄火場なのだ。

 賈駆、陳宮、李儒に張燕。皆の目が品定めをするように徐庶に注がれた。軍師は至極冷静に答えた。

「まず、落ち着いた方がよろしいでしょう」

「わかった、落ち着こう……で?」

 李岳の軽口に徐庶はクスリと笑って続ける。

「大変結構。さて、まず兵力の再編を行うべきでしょう。兗州攻略の軍略は立て直しを迫られました。張遼将軍らも一度洛陽に呼び寄せた方がよろしいかと存じます。并州刺史の張楊どのもです。慌てず騒がず、兵糧と装備、そして兵馬を全て数として把握するのが肝要でしょう」

「随分のんきに聞こえるよ」

「弘農はすぐには落ちますまい。敵もすぐには動けません」

 

 ――全員の顔が見合わされた。

 

「長安を陥落させた……そこまでは事実でしょう。ですがあのような大規模な都市をすぐに掌握しまとめ上げることが可能でしょうか? まず無理です。荒れ果てたとはいえ旧都長安。三十万以上の人が住まうこの街を一月やそこらで安定させることが可能でしょうか? 巴蜀の軍勢とて数ヶ月の間、兵站を寸断されながら戦ってきたのです。長安で補給しなければ無理です」

「強硬に徴発すればどう?」

 賈駆が聞く。

「長安の治安が乱れることを覚悟して、でしょうか。なくはないです。が、背後には涼州もいるのです。馬騰を筆頭した勢力はこの洛陽に忠誠を誓っているわけではないですが、益州のよそ者が大きな顔をすることもまた喜ばないでしょう。益州兵を率いる厳顔が隙を見せれば後背を突きかねません。曖昧な根拠で出兵して手こずることがあればせっかくの勝利に水を差すことになります。それに皇帝即位を宣言した後に儀式さえおざなりであればまず間違いなく信を落とします」

 徐庶の言葉ひとつひとつ李岳に染み入った。自分では冷静さを取り戻したつもりのはずが、あるいは当然の推理とも言える徐庶の見解に全く思い至らなかった。自覚している以上に冷静さを欠いている……

「なら、長安から東の弘農への出兵は虚報だと」

「長安付近の諸都市に威圧をかけるために小規模な出撃ならありえましょうが……あるいは、こちらの動員兵力を判断するための知らせなのかもしれません。どちらにしろ、この洛陽をもぬけの殻にするわけにはいかないでしょう」

 洛陽の力を測るため、か。慌てて出兵していれば間隙を突いて急襲してくる勢力もいるかもしれない、ということだろう。それを狙っているのがどこかは言うまでもない。南の荊州だ。

 ゾクリ、と李岳は背筋を震わせた。まだ自分の思考が情報処理に追随できていない、圧倒的な現実に対応できていないということを知った。連合相手の勝利で脳が麻痺したか? 起きろ、今ここは死線である。

「さしあたり早馬を飛ばし、弘農の太守どのに守りを固めよ、さらに西にある潼関を死守せよとお伝えするが良いと思われます。渭水と峡谷に囲まれ、攻めは難く守りに易き天下の要害です。もちろん洛陽からの増派は必要でしょうが、すぐに兵力が足りないということはないはずです。弘農と連携して守備兵を増員し、兵糧物資を雪で塞がれる前に運び込みましょう」

「手配しよう」

「あと朱儁軍がどのように敗れたかということも、可能な限り情報収集すべきでしょう。逃亡兵を一人でも多く確保すべきです。大散関は難攻不落の要塞です。そこを陥落させたということは、よほど強力な破城兵器か、あるいは内応の者がいたのではないかと思われます。敵は巧妙です」

「張燕」

「すぐに」

「とりあえず今のところは、この程度のことしか申し上げられません」

 ぺこりと頭を下げて徐庶は着座した。しれっとしたものだったが、賈駆も陳宮も李儒も目を見開いて徐庶を見た。さすがは司馬徽門下で諸葛亮、鳳統に次いで第三位。『睡れる虎』と評されたことだけはある。あるいは史実ではありえなかったその号が、目の前にいる少女が史実よりもなお優れた智謀を持っているのではないかと李岳に思わせた。

 それからしばらく兵力再編の相談をした。大戦後の投降兵の数の確認さえまだ出来ていない、陳宮が官僚を指揮してそれに当たる、とだけ決まった。

 李岳は窓の外の日の傾きを見た。

「……時間だな。行こうか詠」

「気が滅入るわね」

「兄上……ご武運を、とあえて申し上げておきます」

「ま、がんばってくるさ」

 李儒とは目だけが合った。

 居残りを任せて李岳は宮廷に向かった。董卓はもう既に到着しているだろう。

 宮中こそがもう一つの戦場である。ここで勝たなければ先はない。この国の有力者たちを味方につけることが出来なければ次の出兵どころの騒ぎではない。また武力を背景としては恐怖政治も絶対に避けなくてはならない。

 朝廷に出向いた李岳は、董卓と賈駆の後に続いて広間に足を踏み入れた。お前ら普段どこでなにをしていた、と思わず突っ込んでしまいたくなる程に議場には人がいた。ズラリと居並んだ洛陽の名士、その数は二百を超える。洛陽中の注目が集まる場であった。

 古式に則り礼を捧げ、三人は用意された場への着座を許された。

「司空どの、此度の騒乱につきまして是非ともお伺いしたくご足労頂きました次第でございます」

「はい」

 一挙手一投足、まばたき一つさえあるいは非難に値するとばかりに数百の眼光が立ち上がった三人を睨めつけた。

 天子の一声あれば制圧することが出来る、という生易しい局面ではない。新たな皇帝が立った以上、彼らが皇帝の無頼に愛想をつかせば大挙して他の勢力に与しかねない。横暴に振る舞うことは出来ないのだ。董卓、賈駆、そして李岳の三人でここは乗り切らなくてはならない。殴り合いの舌戦である。

 

 ――李岳はまず一歩踏み出すと、祀水関の戦いの経緯を説明した。陳留王を拉致した一味が笑止千万な檄文を流して決起をそそのかしたこと。それを察知した李岳が河南を平定するという名目で軍団を組織し関を固めたこと。先制攻撃し、防衛戦に移り、匈奴の協力を得て徹底的に追撃戦を行なったこと。

 

 控えめに言っても、それは説得力に満ちた説明であった。

 だがそんなことは御構いなしとばかりに名家名族の者たちは吠え、猛った。李岳を指弾し、董卓をなじった。

 天の時を失ったがためにこの窮状を招いたのだと、無用な反発を呼び起こし帝位への野心を焚きつけた、幼い帝に取り入り、道理をねじ伏せ、不当な出世を試み、反論は弾圧し、武力を背景にあるべき漢の姿を捻じ曲げた! これからどうするというのか、二人の偽帝に対して戦になるぞ、勝てるのか、兵力は、協力者は、兵糧は!

 舌鋒鋭く糾弾は続いた。その全てに李岳と賈駆は理路整然と回答を続けたが、非常の時であるということを理由にして押し切るならば法も理もいらぬ、という名家は声を大にする。

 李岳は冷静に発言の主を追っていた。名家名族の全てが反李岳、反董卓ではないということはすぐにわかった。大半は事の成り行きを見守ろうというところだろう。最も強硬な反対派はどうやら儒家のようであった。孔融の息のかかった者が複数声を荒らげている。

 

 ――姓は孔、名は融。字は文挙。かの偉大な孔子から二十世に当たる直系の子孫である。名文家と名高く引きも切らぬ人望の持ち主で、彼女の元に人が集まらない日はないという。

 

 齢四十そこそこのひどく痩せた女性である。頬にそばかすがあるが、柔和な笑みとあいまっていた。

 孔融の名は太史慈を調べている内に永家の者が挙げている。元々、この孔融の元に太史慈は仕えていたのだ。その後幽州に寄った際にその身柄を引き渡している。太史慈から裏をとっているが、孔融からは特別不当な扱いを受けたことはなかったという。劉岱との間でどのような会話がなされたかはわからない。しかも場所は幽州だ、劉虞の仲立ちがあったと考える方が自然だろう。議論には積極的には加わらず、悠然と事態の推移を見守るように穏やかに笑っているだけだった。

 さて、と李岳は考えた。正直に言えば押されている。誠実に回答し、虚偽もない。回答責任は十分に果たしていると考えていたが、それだけでは動かないのが人の情だ。しかも元々李岳や董卓に反感を抱いている名家名族である。

(帝の声を借りるか? あるいは武力に訴える……厳しいな、そうなれば)

 東は袁紹と曹操、南は劉表、西は劉焉。全てが敵に取り囲まれている中で、政治的不安要素を払拭できないとなれば勝ち目は相当に薄くなる。武力を背景に一挙に制圧することももちろん可能だが、そうなればもちろん少なくない混乱を生むし、新たに立った二人の皇帝に即位の根拠を与えてしまうだろう。

 李岳の心にかすかに絶望が手を伸ばしてきたが、なんとか振り払い前を向いた。こんな後ろで震えていることしか出来ない奴らに言いくるめられるために戦ったわけではない。兵たちも死んだわけじゃない! ここで持ち堪えなくて何の将か。

 李岳は毅然と声を上げた。

「皆様のご不満は重々お聞きしました。我が身の不明を恥じるばかりです。ですのでどうか代案をお示しいただければと思います。いまこの苦境をどう乗り切るか。民心を安寧に導き、天子様のお心をどうお慰めするか。そのお考えをどうかお示しいただければと思うのです」

 その声を待っていたかのように、ようやく現れたのが孔融である。李岳は一歩退くと、その目を正面から見た。

「孔文挙と申します」

「李信達と申します」

「此度の戦、まことにご苦労多かったことと思います」

 孔融はまず李岳を小さく労った。たかがそれだけのことだというのに、あたりからは寛大な心だ、と褒めそやす声が渦巻いた。

「代案、ということをお問いのようで」

「お持ちなのでしょうか?」

「愚案ですが」

 さすが、さすが、という声を制して孔融は続けた。

「和平を結ぶ、というのはいかがでしょうか」

 どよめきが起きた。李岳は眉をひそめて続きを促した。

「和平、と申しますと。まさか孔文挙さまは二人の偽帝に一分の理があるとでも?」

「理はあるでしょう」

 李岳の反論を、まだ続きがあるとばかりに孔融は抑えた。

「誤解なさいますな。あくまで、彼、彼女らなりの理です。当然この偉大なる漢を統べる陛下に弓引く事などどのような理屈であろうと正当化されるものではありません。この場合の理というのは、あくまで新たな二人の帝を押し上げた理、でございます……帝といいましても支持者がいなければ登れませぬ。では何をもって支持するのか? それはこの荒れに荒れた世情でございましょう! それこそが二名の理」

 おおお、とどよめきが議場に満ちた。李岳は熱弁を振るう孔融から目を離してどよめきが起きている名家名族の中の人影を一人ずつ確認した。李岳は歯を食いしばった。

「この世の惨状は皆様御存知の通り。実りは一定せず、私腹を肥やす官吏は絶えず、それを抑える力を中央は失い、跳梁跋扈する群雄の野心を挫く力も失った。これも偏に陛下に仕える臣らの力不足によるものでしょう。劉焉さまも劉虞さまもその民の声に押されたのではないかな? お二人とも英邁であられ、為政者としても名高く、野心と申しましても無謀なことをされる御仁ではありませぬ」

 孔融の声に既に場は熱狂さえ帯び始めた。まずいわよ、と賈駆が袖を引くが李岳は微動だにしなかった。

「そこで和平なのです」

 再び孔融に目を戻した。あくまで穏やかに笑っている。

「ここで再び戦乱となれば、またもや民の生命が散って行きます。そのような不憫なことを天子様が悲しまれぬはずがありませぬ。それに李岳将軍の天禀を持ってしても苦戦は明らか……ここは東西二名の皇帝に和睦を申し入れ、そしてとにかく戦をせぬことを優先すべきではないでしょうか」

「不義を見逃す、ということでしょうか」

 李岳の問いに、とうとう孔融は握りこぶしを振りかざして声を荒らげた。

「何を恐れることがありましょうや! 天の威光が我らの天子様を除いて他の二人を照らすとでも? 不心得ですぞ! 見る目正しき者は偽帝に従わず、この由緒正しき洛陽に集うこと間違いなく……そうなのです、戦をする必要などなし! 天地人すべてが天子様をご加護しておるのです。無用な戦こそが全ての悪! 劉焉さまも劉虞さまも知らぬ仲ではありませぬ。ここはとにかく和平を結び、そして天の威光を競うことによって平穏をもたらさんという策なのです」

 和平だ、今こそ和平を! この漢の地に安寧を――連呼される歓声に怯え、帝が顔を青ざめさせたのがわかったが、その群衆の声を抑えたのもまた孔融であった。

「お控えあれ、天子様の御前ですぞ……さて、いかがでございましょうや。確かに臣は軍略に不案内なれど、こと天の機微を伺うには一日の長ありと自負しております。それに李信達さまは過酷な作戦を遂行されお疲れの様子。その功をねぎらう意味も込めて、ここは新たに天下国家の舵取りを再び董仲穎さまにお預けしてはいかがか? もちろん一郡、いや一州の刺史となる資格は十分。生まれ育たれた并州を治められれば、これはその領民たちも大きく喜ぶことに違いない。故郷に錦を飾られてはいかがかな?」

 次に巻き起こった歓声を、もう孔融は抑えようとは思わなかった。賈駆の顔が青ざめている。董卓に至っては泣き出すのをこらえるのが精一杯のようだった。李岳は大きく一つ溜め息をこぼすと、孔融の目を真っ直ぐ見た。

「なるほど……私はお役御免というわけですか」

「そのような、人聞きの悪い。あくまで和平を試みるだけです。和平が崩れた時には再び将軍の力が必要になるでしょう。その時は飛将軍の力を存分に発揮して軍を号していただければ……」

「……ここに居並ぶ皆様の総意であれば、致し方ありますまい」

 李岳のその言葉にとうとう孔融は、今までと様相を変えて笑った――キャハハ――そして勝利宣言かのように続けたのである。

「殊勝な言葉痛み入りますわ! さあ、これでもまだ李信達さまを支持される方がいらっしゃいましょうや? 異論のある方は前にお進み出られませ!」

 誰もいるはずがないのだ、という笑いがこぼれた後に、あるはずもない声を確かめてやろうとばかりに静謐が場を覆った。李岳は瞳を閉じてその声を待った。場は静かであった。孔融が勝利宣言を謳おうとしたその時であった。

「李岳将軍閣下を支持します」

 

 ――その声は平坦であったが力強く、はっきりと議場を満たした。

 

 李岳はその声の主を迎えるように瞳を開けた。

 声の主は乙女であった。並み居る男たちより背が高く、頭ひとつ抜けていたが故にすぐに皆が道を開けた。乙女は、怜悧を宿した瞳で列した人々を圧するように堂々と歩んだ。冷ややかな風が吹いたような気がした。背まで流れる長い髪が雄々しささえ覚えるように躍動した。

 孔融が正面から睨みつけ、そして問い質した。

「そなた、今一度申されよ」

「李岳将軍閣下を支持する、と申しました」

 寸分の迷いもない回答であった。孔融は自らが丁寧に作り上げた段取りを粉々にぶち壊された屈辱に、口の端を歪め頬を真っ赤にしていた。

「何の道理があって和平案に反対する……申してみよ!」

「和平案など唾棄すべき最も愚かな案であるからです」

 乙女の平静な声は、興奮を巻き起こす孔融の論調に冷水を浴びせる。

「偽帝に一定の譲歩を見せるなどもっての外。間を置けば置くほど彼奴らはあらぬ風聞を流布し、陛下を侮辱し力を集めようとするでしょう。あらゆる手段をもってそれを打破せねばなりませぬ。西方戦線においても李岳将軍閣下の落ち度など臣には欠片も見えませぬ。勝敗は兵家の常。朱儁将軍の犠牲を悼むことはあれどそれを李岳将軍の瑕疵にするなど理に適いませぬ」

「では最善だったと申すか!」

「最善どころか、常人の(わざ)ではありませぬ」

 おお、とどよめきが議場に満ちた。場の空気が変わったことに気づいた孔融が何をか話そうとするも、乙女の弁舌は異論を付け加える隙を全く与えない。

「李岳将軍は敵の挙動を読み、備え、結果三倍にもなる数の不利を覆しこの洛陽を守り通しました。これは史にも残る偉業です。同じことをこの場にいる誰ができますか。そも、今この天に仇なしているのは不敬にも帝位を僭称した輩とそれを支え、そそのかした者たちです。やつらと堂々と干戈を交えて退けた李岳将軍を糾弾するのは全く納得がいきませぬ」

「そのことはもう述べた通りである! 不毛な戦いが民を苦しめ結果長安を失うことになった! 洛陽を守るためとはいえまずは和平を検討するべきだったのだ!」

「陛下の妹君、陳留王殿下が(かどわ)かされているというのにですか」

 うっ、と声に詰まった孔融だが、まるで喘ぐように反論を続けた。

「だからこそ万一のことがあったら何とする! 貴女は議論を聞いておられたのか? その無思慮な振る舞いで家名に疵が付くとは思われぬのか、お父上はなんと思われるか!?」

「誇りに思うでしょう」

 とうとう孔融は一歩あとずさり、乙女の姿を上から下まで見回し、そして聞いた。

「……そなたは、一体! 名乗られよ!」

 乙女は――知の狼はその名をとうとう世に吠えた。 

「姓は司馬、名は懿、字は仲達」

 

 ――その名乗りに場はどよめきに包まれた。司馬懿……司馬家の次女! 名高き八達の中で最優と言われたあの司馬仲達!

 

「し、司馬仲達どの、それは司馬家の総意と承ってよろしいか! 家門の命運がかかっているとご理解いただいてますか!」

「もちろんです」

 孔融の声に司馬懿は全てをはねのけるように、やはり見下すような目を向けながら言う。

「司馬家を侮られては困ります。この懿の決断に賛同せぬほど親子姉妹の絆は浅くありませぬ。この程度で命脈尽きるならそれまでのこと。父も姉妹も甘んじて死ぬだけです」

「ぐ……」

 李岳は微笑み推移を見守った。司馬懿は頑なに李岳の目を見ようとはしなかったが、その頬と耳のあたりが緊張からか紅潮しているのが見て取れた。

 司馬懿の登場は議場の趨勢を完全に塗り替えた。孔融の家名はあの孔子に繋がる者としてもちろん知らぬ者などいないが、同じく司馬懿の名もまたこの中で知らぬ者はいなかった。名門名高き温州司馬家……殷王司馬卭から十二世を数える今代に至るまで、無数の官位を歴任してきた実力をもって成す漢の大黒柱の一族である。

 そして今、世に初めて出ようとする彼女の一声は、論敵の喉笛を噛み砕き、降り注いだ血を浴びて鮮烈な印象をあまねく人々にもたらしたのである。

 何一つ反論の出なくなった場で、司馬懿はその場に片膝をつくと厳かに頭を垂れて言った。

「李岳将軍閣下、この身この魂の全てをもって閣下にお仕えいたします。我が名は司馬懿……如月と、真名でお呼びください」




メリー・クリスマス。素敵な軍師を貴方に。

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