時はわずかに遡る――
公孫賛軍に扮していたと見られる一行は、最初の突撃ですぐにその隊列を瓦解させ散り散りに逃げて行ってしまった。立ち向かおうとした敵勢のほとんどを討ち取り、逃げた者も後方に控えていた予備の連中が追走し余さず捕らえている。廖化はそこで李岳の顔をみた。恐ろしく透き通った瞳は玲瓏とさえ評していいだろうが、その冷たさはまるで怒りの氷だ。
(張燕様とはまた違うな)
自らが仰ぐ頭目、張燕の怒りは炎のようで、口元に酷薄な笑みを浮かべながら殺戮に興じる。その昔、彼女の覇気を真正面から受けたことのある廖化は思い出すだけでも背筋が震えんばかりだったが、目の前にいる李信達という少年の怒りも種類こそ違えど等しく恐ろしく感じられた。
「廖化殿、そいつが起きていては困るんですよ」
捕らえた部隊長と思しき人間を、まるで虫けらを眼差すかのように見下げていた。
「生かしたままで」
廖化は頷き、後ろ手に猿轡まではめられている男の腹に一撃を加えた。男はひどく呻いた後、幾度か痙攣してからピクリとも動かなくなった。半日は目覚めないだろうと思えた。懐をまさぐると竹簡が一つにしまわれていたので李岳に渡し、手の空いたものから死体を端から改めていった。葬るつもりも汚すつもりもないが、調べるに越したことはない。二、三の死体を改めるとその懐から見慣れた黄巾が出てきた。李岳の指示に従って旗や指物、そういった証拠になるものは何でも集めた。一体どうつもりなのだろうか、李岳の思惑はわからなかったが、廖化は黙々と従うことにした。
その後、男を馬の背に乗せて馬群の方へと戻った。李岳を始め、襲撃に参加したものは誰一人かすり傷すら負っていなかった。服や体に浴びた血も全て敵のものだった。全く問題なかった、襲撃は大成功と言っていいだろう。だが廖化が不審に思ったのは、その勝利でもって戦闘を終えても一向に晴れることのない李岳の様子であった。まるで能面のように硬い表情を顔に貼りつけたまま、指示だけを的確に出している。
廖化とは違い、香留靼には李岳の心境がよく理解できた。脳裏には匈奴と鮮卑が干戈を交えた数年前の戦が鮮烈に浮かび上がっていた。
――数万はくだらないおびただしい数の鮮卑が急襲してきたあの戦、古今稀に見る程の多くの死者が累々と大地の隙間を埋めた。その半数をこさえたのは李信達、当時十三にもならぬ少年だった。無謀な突撃を繰り返す鮮卑の戦士の脆弱さを看破し、あえての撤退から誘引を惹起、包囲殲滅からの勝利を導いた。若輩者の意見など誰も聞かぬということさえ察知し、その殿軍をさえも自ら務めた。
その結果は匈奴の大勝利だったが、同時に敗残の鮮卑には悲惨な運命が待ち受けていた。略奪を試みた者が捕まった時、容赦など無い。奴隷としての価値有るものを除き全て殺されていった。老若男女はもちろん問うた――禍根が残るため、子供と女から殺すのだ。
そういった事態になるとは岳には想像出来なかっただろう、彼は生き残るのに必死で、そして自らが知っている人々の生命を守るために賭けに出ただけなのだから。だが戦場に甘えはない、李岳が口を差し挟む余地などないままに戦後処理は終了した。大地一面を覆う死塁を築いて――
あれから人殺しには関わらなくなった、ましてや自らその手を下すなどもっての他と、争いの気配が立ち昇った地域には近づきさえしなくなった。
その李岳が人を斬った、香留靼はその場にはいなかったが逃げ惑う母と子を救うためだったらしいと聞いて合点がいった。
(見過ごせないやつなんだな……あるいは罪滅ぼしか)
黒狐が走り始めた時、無理矢理にでもついていけばよかった、そうすれば自分が手を下し返り血を浴びさせることなどなかったのに。
後悔と無念さで、香留靼は居ても立ってもいられずにとりあえず何か食えと水と干し肉を渡したが、岳は水しか受け取らなかった。何かを食う気分にはならないのだろうが、今じゃなくてもいいと強引に押し付けてしまった。そのまま何も言わずに――何も言えずに――岳の肩を抱いてやる。恐ろしく冷えている、そして震えていた。多分、周りからは異様な目で見られていることだろうが、そんなことは知ったことではなかった。やがて岳はもう大丈夫とばかりに手を振りほどき、そして廖化を呼んだ。
(心配させちゃったかな……いや別に大したことない、ほんと)
香留靼の気遣いに、岳はありがたさとほんのわずかな煩わしさを感じていた。だがここで思い悩んでも仕方がないと、気を取り直して救出した少女の方へ向かった。
柔らかい芝生の上に寝かされた少女は、浅く早い呼吸を繰り返して、何かから逃げ惑うようにもがいている。病だろうかと思ったが熱はない。
「こいつは、しびれ薬を盛られていますな」
横から手を伸ばして少女の耳もとや首元を確かめてから廖化が言った。
「しびれ薬? 誰かに盛られたっていうのか」
「そんなにきついものではありませんが、半日は役立たずになる。最初はもっと大げさに荒い呼吸だったはずでさ、けどこれだけ呼吸が浅くなれば快復は間近でしょう」
耳の裏に赤い斑点ができるのがこの薬の特徴だ、と廖化が言うので岳も手を伸ばして見てみた。確かに小さなニキビのようなもの幾つか出ているが、なるほどそれも大きくなく消えかかっているものもある。半刻程で目覚めるという廖化の言葉に岳は頷いた、が――そこでようやく、岳は少女の普通でない出で立ちに気付いた。
(……耳、尖ってる)
自分が持ち上げ裏返した耳は長く横に突きでており、もちろんだが普通の市井で見かけることはない。
さらによく見てみれば耳だけではなく、髪は空を溶かしたような青色、肌も白磁のように透き通った美しさ、およそこの大陸のものとは思えないほどだった。
「ん? こいつは烏桓だな」
覗き込んだ香留靼が言った。
「烏桓? 俺だって会ったことあるけど、こんな人見たことないよ」
「部族の全員がそうというわけじゃあないが、王族は確かこんな姿をしていると聞いたことがある。他にはいねえはずだ、間違いねえ。なんせ馬鹿の俺が覚えてるくらいだからな」
香留靼の冗談に思わず笑ってしまったが、岳はこれが笑えない事態だとすぐに察知した。
烏桓の王族――つまり王である単于に連なる者が公孫賛軍に巧妙に偽装した何者かに襲われ、拉致されかけたのだ。
もうここは琢郡と言っていい、粗末なものであれ偽装が見破られることはないだろう。おそらく烏桓の一行は人足を雇っていたはずだ、荷物の割に死体が少ない。彼らは殺されずに逃がされた。そして逃げ込んだ町で吹聴することを期待されている。岳は少女が腰に下げていた得物を預かると、微に入り細に入りあらためた。この時代、この国では間違っても見ることがない特異な形をした刺突剣だった。
(サーベル? レイピア? どっちだっけ……)
だがどちらにしろ美しい装飾、他に見たことのない加工、そして湖面を波立たせたような目を見張る壮麗な刃紋。平民やただの腕達者が持つものではない、香留靼の説明の真実味がいよいよ増した。
続いて岳は敵兵からの拾得物を全て目の前に並べさせた。公孫の旗、黄巾、統一された武装――そして首魁と思われる人物が懐に持っていた竹簡。
竹簡にはただ一文だけが記されていた。
『烏桓の出立は正午 街道を西 中山殿迄』
岳は内心呆れて昏倒している男に目を向けた。なるほど確かに間抜けな顔をしている、このような証拠になりそうなものを後生大事にいつまでも懐に隠し持っているとは。しかも宛名まで記された致命的な代物だ。
中山殿。中山郡の相といえば張純という男だったはず――岳は記憶の中に埋もれかけていた『三国志』の知識をさらい出した。確か異民族と結んで乱を起こした人物で、公孫賛と対決しながら落ちぶれていった……
(くそ、マイナーすぎるって。完全にうろ覚えだ……)
とはいえうろ覚えであっても引き出せた情報は大きい。岳は驚きから興奮を抑えるのに大変苦労しなければならなくなった。立ち上がるとグルグルと周りを歩き出し――そうかそうか、なるほどな、そういう理屈か――と呟いてはうんうん唸り始めた。廖化やその手下は怪訝な目で彼を見たが、香留靼だけはどこかほっとしたような表情で「始まったよいつもの癖」と肩を竦めた。
岳の脳内では急速に一つの仮説が組み上がっていった。
史実では、公孫賛は北方の異民族と強固に対立し、幽州において内憂外患に見舞われていた。それに対して他の諸侯は友好政策を取って異民族とは穏便に済ませていた。
だが、果たしてそうだろうか?
鮮卑の強烈な攻撃力、機動力を最も身近に感じて骨身に染みているのは間違いなく公孫賛だ。その彼が領内の不穏分子まで刺激するようなことをするだろうか? 敵愾心に煽られて憎しみに駆り立てられたのだと言われたらそうかもしれないと言えるが、そのような人物が仮にも幽州を実効支配し『北方の雄』とまで謳われるだろうか?
黒山の砦で張燕と話した時の違和感が、岳の頭の中で自然な形に落着していった。
(因果が逆転だったんだ)
異民族を攻撃したから叛乱が起きたんじゃない。叛乱が起きたから異民族を攻撃せざるを得なくなったのだ。
公孫賛は鮮卑の攻撃を抑え、その鍛え抜かれた騎馬隊でもって今度は南進に転じようとした。実際史実では何度も何度も袁紹を攻撃している。下手をすれば打ち破りかねない程の攻撃力を持っていただろう、なにせほとんど一勢力で異民族の侵入に耐えてきたのだ。半端な代物ではない。
その戦力の集中運用を阻むために領内の異民族を煽りたてた。公孫賛がその鎮圧に向かえば今度は鮮卑の攻撃をそそのかす――公孫賛からすれば内憂外患どころではない、まさに三正面作戦を強いられているようなものだ、せめて領内の安定だけでも一刻も早く成し遂げんとして、鎮圧は過酷なものになっただろうという想像は容易い。
公孫賛を翻弄させるための手引きを受けた一枚目の札が、張純というわけだ。あそこで昏倒している男が張純本人かどうかはさておき関わり合ってるのは間違い無いだろう。おだてられたか物や官位に釣られたか、いずれにせよろくでもない理由で指図に従っているのだろう。
裏から糸を引いていた人物が一体誰か、岳はこの時代の勢力図を頭に思い浮かべながらその名前を挙げていった。順当にいけば袁紹だろう。だが――と李岳は首を振った。断言できない、なにせ蛇の道は蛇とばかりに油断のならない群雄が割拠したのがこの時代だ。誰もが背中に刃を隠し持って平然と握手を求めてくる。しかも問題は相当に組織的なことだ、この竹簡には一行が止まった宿まで全て把握しており、さらに少女にだけ狙いを定めて薬を盛ったことを推察させる。諜報を専門とした集団が動いているのは明白だ。
とにかく、ここにある材料をまとめて推理するとこうなる。
――公孫賛の台頭を望まない者が利害の一致する張純という男を操って、徴発した元黄巾兵を公孫賛軍に見せかけたのち、幽州領内の烏桓族を締め付ける。烏桓の不満が溜まった頃合いを見て、烏桓の王族の一行を襲って叛乱を決起させる。
(……こんなところか。けどいずれにせよ情報が少なすぎる。あくまで推測の域を出ないしな)
熱中してきた考えを一度棚に置いてから、香留靼から受け取った水を一口含んだ。あるいは公孫賛は史実通りの人間なのかも知れない、果断で勇壮な将軍だが、異民族排斥に積極的な傲慢さも持ち合わせている――馬を頼んだこととて戦力増強のためにと臥薪嘗胆くらいの気持ちで臨んでいる可能性だってあるのだ。これ以上は会ってからでないと判断できない。
(ま、俺なんかが判断したところで何の影響力もないんだからどうでもいいんだけど。ただ乗りかかった船というか、首を突っ込んじゃったしな……)
折も悪く、最後の決定的な瞬間に岳は偶然居合わせた。そしてその計画の総仕上げといえる部分を阻害し、粉砕してしまった。これからの身の振り方で否が応でも陰謀に巻き込まれる可能性がある。爆弾の導火線は李岳のすぐそばで火花を散らしているのだ。最も容易く回避する術としては、この少女も縛り上げた男も切り捨てて何事もなかったかのように旅を続けることだが、岳は検討すらしなかった。
岳は横たわっている少女に目を向けた。息はもう平静に戻りつつあり、かすかに瞼が震えている。目尻に涙。そろそろ目覚めるだろう。
内心、爆弾に例えたことを少女に詫びた。岳は少女が目覚めた後の処遇を周りの全員にきつく言い含めて、静かに時がすぎるのを待った。
目覚めた少女は当然ながら暴れた。自分たちを襲った一行だと勘違いし、野盗だ、公孫賛のごとき匹夫の手下め、などと散々に喚いた。確かに前者に関しては二人を除いて盗賊であることは間違いなく、さらに公孫賛まで荷を届ける最中なのだから後者もあながち大外れというわけではない。全員困ったような顔をする他なかった。
さらには縛り上げられている賊の指揮官を見るや否や羅刹のごとき覇気を放ちながら、今にも殴殺せんと跳びかかった。
それを押しとどめたのは岳だった。
「お鎮まりください」
岳は跪き礼を取った。
「貴様! 卑しき野盗の分際で! 私に触れるな!」
少女の拳が岳の頬にしたたかに打ち付けられた。身構えもしていなかった岳は直撃して仰向けに倒れこんだが、再び身を起こすと同じ姿勢をとった。
「お鎮まりください……李、名を岳。字を信達と申します。并州雁門郡の生まれ、匈奴の父、漢人の母から生まれししがない狩人でございます――お鎮まりください」
「うるさい! 貴様の出自など知ったことか!」
拳は再び打ち付けられた。倒れこんだ岳を蹴り飛ばし、今度は馬乗りになって少女は殴り続ける。五発、六発。口の中が血であふれたが、岳は殴られるままになっていた。そして少女の息が切れ、喘ぐように離れると、よろよろと腰を上げて再び元の姿勢に戻って同じ言葉を口にした――お鎮まりください、と。
「なんだ、貴様は! 何なんだ!」
少女はやがて困惑したように辺りを見回した。五十程の数の男たちが少し離れた所でこちらを見ている。間違いなく眼前の男の仲間のはずが、自分が一方的に打擲する様を助けもせずにただ黙って見守っている。
「……李、岳と申します……」
少女の体重は軽く膂力はたかが知れている。それでも自らの手が傷つくことさえ厭わずに振るった怒りの拳だ、李岳と名乗った男の顔にはいくつもの痣ができていた。
「そんなこと、そんなことは……」
「お鎮まりください……」
少女はとうとうその場に立ちすくみ沈黙した。両手に滲んだ傷も気に留めないまま、荒い呼吸が静かなため息に変わるまで、何かをこらえるかのように俯いた。
四半刻、あたりを不思議な沈黙が支配した。夕焼けが迫る山の中、あたりは開けているが時折鳥の鳴き声が聞こえる他に音はない。茜色に染められた二つの人影はまるで石像のように黙然と向かいあい続けた。
やがて、少女は一際大きなため息を吐いてから、冷静さを取り戻した声で語りかけた。
「楼班。烏桓山の生まれ、誇り高き単于、丘力居の娘」
「恐れ入ります」
王族どころか、単于の娘――岳は内心陰謀の深淵に手を突っ込んだ感触を覚えて戦慄した。まさに叛乱を煽ろうとしていた――それも幽州全てを灰燼に帰さんとするほどの。
少女の瞳に不意に恐怖の色が宿り、頼りなさげに周囲を見回してはその漆黒の瞳を不安で淀ませ始めた。
震える唇からか細い声が漏れる。
「……母様は」
岳は一度目をつむり深呼吸をしたあと、立ち上がり先導した。
廖化や香留靼が付いて来ようとするのを手で制した。夕焼け空に一陣の風が吹く。常緑の木だけが葉音を鳴らす。坂道を行く二人に言葉はなかった。岳が歩き、その後ろを楼班と名乗った少女が付いていくだけだった。宵闇の気配がする。だが少女の顔に差した陰は決してその暗がりのためではなかった。
やがてその場所に着くと、岳は袖で顔を隠したまま一歩下がった。日はとうとう山際にさしかかり、明かりは幾ばくもない。だが彼女は木々の枝葉が開けた隙間の真下に寝かされており、その姿は鮮やかに照らしだされていた。
――仰向けに寝ていた。彼女は岳の手によって清潔さを回復させられていたが、そこに命はなく、青白い肌は血の通いが失せたことを突きつけている。
楼班はしばらくそのまま自らの母親を見下ろしたあと、跪き、全身で覆いかぶさって鬼哭した。
やがて訪れた宵闇が二人の姿を隠したが、慟哭はいつまでもいつまでも山間に木霊した。
宵闇の中、焚き火を囲んでいた。陽が落ちると暗くなるまでは早い。元の場所に戻ったときには既に野営の準備は整っていた。
岳は今宵の夕食の支度をあらかた済ませると、所在無さげに座っていた楼班の隣に座った。
「お返しいたします」
楼班の母親の埋葬を終えると、岳は彼女の腰の物を返却した。楼班は束の間ためらったあとそれを受け取り腰帯に差した。
「……そなた達は何者だ」
「私たちは貴方が襲撃を受けているところ、偶然居合わせたものです。公孫賛の旗を掲げた者たちが非道を働くのを見過ごせませんでした」
「……やはり、あのとき私を助けたのはそなたか」
「意識がございましたか」
「いや、薄ぼんやりとだけだが……母様に抱えられたのは確かに覚えている。その後、ちらりとそなたの顔を見たような気がした」
楼班はまるで夢の中で起きたかのような出来事を反芻した。
――全身に感じる母のぬくもり、その胸から伝わる狼狽と恐怖、襲い来る凶刃……そして突如現れた、騎馬にまたがった御仁。刀を振ると敵は一撃で四散し、自分と母とを救ってくれた――
悲劇が夢ならばどんなによかっただろう、その夢が正しかったならば母は死なずに済んだのだ。楼班は口惜しさに唇を噛み締め、溢れ出そうになる涙をこらえた。
「……不甲斐ない。今朝から何故だか体が動かなくなった……そうでなければあのような者共、私一人ででも殲滅できたものを……!」
岳は束の間迷ったが、しびれ薬のことはまだ伏せておくことにした。おそらく今それを告げられても少女は混乱するばかりだろう。解くべき誤解は他にある、いらぬ回り道をしては収拾がつかなくなる。
「そなたらには申し訳ないことをした……李岳殿。助けていただいたというのに敵と思い込んでつらく当たってしまった……恩人に仇なすなどと許されることではない」
「お気になさらず。致し方ないことです」
そう言って岳は笑った。不意に見せた笑顔に楼班はうろたえた、落ち着いた物腰から年上と思い込んでいたが、ともするとそれほど離れていないのかも知れない。だがまだ気を緩めることはできない、元より目的を果たすまで安堵する暇はないと肝に銘じていたが、楼班の中にはまだ納得できなことがあった。
「だけどわからない……なぜ我が母様の仇討ちを邪魔するんだ」
岳の背後、木に括りつけられてうなだれている男を睨みつけながら聞いた。
「……これは陰謀です。あの者だけの考えで動いたのではありますまい。それを突き止めなければなりませぬ……」
「そうか、そうだな……公孫賛め……許せぬ」
「……いかがなさるおつもりでしょうか」
「決まっておろう! 母様の仇を取る! 何としてでも公孫賛の首級をあげる! 公孫の一族全て根絶やしにしてくれる!」
仮に逆鱗に触れられた龍が気焔を吐くのなら、おそらくこうだ――そう思わせるほど楼班の怒りは天を衝かんばかりだった。幼い龍だがその牙は見間違えること無く鋭い。
「李岳殿。お恥ずかしい限りだが、ご助力を頼めないだろうか。私は今一人だ。荷も銭もない。旅を続けることは叶わぬ。公孫賛を討つには烏桓山まで戻り挙兵する必要があるが……そこまで辿りつけるかすら覚束ない。不甲斐ない限りだが何卒……」
楼班はほんの少しためらったあと、岳の隣に腰を落ち着け直してその手を取った。手は緊張と恐怖で震えていたが、意志と覚悟がそれを上回った。
さらに頭を下げようとする楼班を岳はおやめ下さい、と声をかけて制した。少女は恐らく誇り高く、傲慢とも言える性格だったのではないか、と岳は考えた。異民族の首長とその血縁は絶対的な権威とそれに伴った権力を持つ。誰かに頭を下げたり媚びへつらうことなど天地が返ってもありえない。
だが目の前の少女は恩人とはいえ一商人に頭を下げようとした。その強さが、悲しかった。
「せっかくお助けした人を見捨てることは、自分の行いにすら背くことです。喜んでご助力差し上げます。ですが……」
「なんだろう」
褒美か、見返りは何が欲しい――その言葉を楼班はぎりぎりで飲み込んだ。このような生死に関わるやり取り、交渉などは未経験であったが、それだけは決して口にしてはならないと――李岳の真摯な瞳を見て思った。
岳は接収した公孫賛軍と思しき者共が携えていた旗を取り出してその場で広げた。訝しげな楼班に一語ずつはっきりと伝わるように岳は述べた。
「この旗、一見公孫賛将軍のもののようですが、あまりに出来が悪い。おそらく適当に拵えた贋作でしょう。公孫賛軍の仕業と見せかけるための」
「……え?」
「公孫賛将軍は無関係の可能性があります」
動揺に、楼班はその場で立ち上がり激した。
「だが、我らの中では公孫賛の悪名を聞かない日はない! やつは烏桓を迫害し一方的に攻撃している!」
「存じております」
「……そ、それすら偽物だというのか?」
「……わかりません。あるいは楼班様のおっしゃる通り公孫賛殿は正道を顧みない悪人、ということもあるでしょう……」
「つ、つまり……どういうこと?」
「ご自分の目でお確かめになってはいかがでしょう」
岳の口から、明日公孫賛軍に馬を引き渡す用意があるということ、公孫賛本人には会えないだろうが、その幕僚と話すことでも真偽を確かめることは可能であること、そして首謀者を連れているので利用価値があるということ、その諸々が告げられた。
「そして鍵となるのがあの男です。裏で糸を引いている者を定めます。必ずや真相を明らかにします。御母堂の仇を討たれるのは何卒お待ちください」
「真相が暴かれた後は、仇を討てるんだな?」
「この命に替えても」
「仇を取りたいんだ……そして知りたい。母様がなぜ死ななくてはいけなかったのか……」
「必ずや。ではその段取りをお伝えします」
岳は香留靼と廖化を呼んで、楼班と合わせて四人で車座になった。香留靼はすぐに腹を抱えて笑い始めた。
「ひでえ顔だな、岳。ははは! 男前になったぞ!」
香留靼が手を叩いて喜べば喜ぶほど反比例するように楼班の肩が縮こまっていった。
「……うう、申し訳ない……」
「いや! お気になさらず! ええ、まずは紹介します。いま笑ってる馬鹿が香留靼です。匈奴の生まれです。そして隣が黒山賊の廖化殿」
貶されたというのに香留靼は胸を張って喜び、廖化は黙って首肯するだけ。楼班は目が点になった。
(なぜ匈奴と、そして黒山賊? え? やっぱり危ないやつら?)
楼班の懸念をよそに岳は会議を進めた。
「馬の届け先まであとどのくらいかな」
「……明日の夕方には着くでしょう」
廖化が応える。ここは琢郡にしても町に近い。公孫賛軍の駐屯地までもそれほど離れてはおらず、夕方と言ったが急げば昼にでも到着できる見込みだ。
「良し、じゃあそのまま馬は運ぼう。次回の段取りや交渉もある。おそらく近くにある琢県の町に入るはずだ。付かず離れずついてきてくれ。宴席で一つ粗末な劇を演じよう。舞台役者はあの張純かもしれない男と、楼班様、そして俺。廖化殿には手伝いをしていただきたいのですが……塁が及ぶかもしれません。断っていただいても」
「野盗の身で塁もクソもないでしょう。元々お尋ね者だ。居並ぶ官の者共の前で堂々と遊べるってんなら断る道理はないでしょうよ」
むしろ楽しみだと言わんばかりに廖化は愉快気に口の端を歪めた。
「おいおい、匈奴丸出しの俺はお邪魔虫かよ」
「胡服じゃなあ。着替えて出演するかい?」
「……ま、今回はやめとくよ。見世物は嫌いじゃあないが出るとなりゃ話は別だ。お前はそこんとこ上手くやるだろうがな。名役者だからよ」
「いずれ旅芸人にでもなるか」
「悪くない」
笑いが起こった。そのあとは細かい段取りが告げられた。といっても行き当たりばったりと言ったほうがいい。ほとんどが李岳の機転の依る所となったが、心配なさ気な岳の態度を見ているうちに楼班は上手く行くだろうと信用を寄せ始めていた。
そのとき楼班の鼻が嗅ぎ慣れない臭いに反応した。
「……ところで、なんだか、変な匂いがする」
「ああ、そうですね。そろそろできたかな。まずは腹ごしらえです」
岳は立ち上がり煮立った鍋の蓋を開けた。
(とりあえず今夜はいいものを食おう。辛い時は食べるに限るさ)
岳は出立の際にこれまで自分で収集した様々な植物を荷物に放り込んでいた。
この時代に二度目の生を受けて、岳が困ったのが何より食事だ。何でも気にせず食べたし好き嫌いもないけれど、味の種類が非常に狭い上に全体的に薄い。調味料の類は高価なのだ、塩でさえ手に入れるのに苦労する。
そこで岳が注目したのが香辛料だった。野山の植生は想像以上に多様で、探せば意外なものが見つかった。
(馬芹の種はクミンシード……桂皮はシナモン……月桂樹の葉に、もちろん香菜! こいつは干せばコリアンダーだ!)
カレーである。
うこんはこの時代にまだ伝わっていないのか、あるいは岳が手に入れることが出来なかっただけなのかわからないが、ともかく現時点では入手することができなかった。元々諦めているココナッツミルクの代用としては山羊の乳を用いる。風味は劣るがこの時代の味としては申し分なく上出来だと過去に試してお墨付き。きっと喜んでもらえるだろうと岳は希少なスパイスをふんだんに使った。
――だが。
「……なに、これ」
「え。美味しそうでしょう?」
「……全然」
見れば楼班は鼻を塞ぎあさっての方向を見ながら匂いを避けていた。どれほど嫌なのだろう、尖った耳まで垂れていた。
黒山の男たちも何やら異臭がすると遠巻きに見ていることしかしない。食べる? と器を差し出してみても後退りするだけ。廖化ですらそのでかい背を縮こめて名指されないようにしていた。
「いやおいしいんですって。本当に! 傑作! ほら! ほら!」
一向に食べようとしない、あるいは逃げ出しそうな楼班の目の前で岳は一口食べてみた。口の中に広がる香ばしい薫り、まろやかな舌触り、うさぎの干し肉にまで味は染み渡り……
(あ、いかん。泣きそうだ。壮絶なホームシックになりそう)
「うまいうまい、おいしい……」
半ば涙しながら食べ続ける岳を見て、心が揺れ動いたのか、あるいは恩人の親切に応えなければ申し訳が立たないと思ったのか、一度二度岳を見やってから楼班はおずおずと手を差し出した。それは半ば怖いもの見たさもあったのかもしれない。
「た、食べます!?」
「……一口だけ」
「ええ! ええ! お口に合わなければそれで結構ですんで」
手渡された器には見たこともない黄色い汁が。かすかに肉が浮いているがそれさえ得体のしれないものに見える。それにこの匂い! 初めて嗅ぐにしてもこれほど他に例えようのないものがあるだろうか。だが烏桓に二言はない。ここで逃げれば王女がすたる。ええい、ままよ! とばかりに匙いっぱいのそれを楼班は口に運んだ。周りを囲んでいた黒山の男たちが「おおお」と喚声を上げる。どうでもいいがこいつらは情けなくないのか、と岳は内心毒づく。
パクリ。
食べたそれきり、楼班はしばらく動かなかった。一体どうなったのか――味は、うまいのかまずいのか、そもそも食えるのか、毒ではないのか、死んだ?――遠巻きに見ているだけの情けない男達の興味は今や楼班の体一点に絞られていた。そして――
――ピーン!
と耳がはねた。
それからすぐ威勢よく動きを取り戻した楼班は二口三口と次々食べ始めた。そのたびに――ピーン! ピーン!――耳が跳ねる。
誰かがゴクリと唾を飲んだ。
「賊上がりのはずが食べ物一つで情けない」
「されど腹が減った」
「もしかこれはよい薫りやも知れぬ」
「しかし勇み足で毒を平らげるは匹夫の勇ではあるまいか」
とそれぞれに内心は渦巻く葛藤に苦しんでいたが、そうこうしているうちに楼班は器の全てを綺麗に平らげ、許可も取らずにそのまま二杯目を勝手に注いでは食べ始めた。岳は得意である。とうとう辛抱出来ずに黒山の大丈夫たちが我も我もと殺到した。廖化もしれっと器に盛りつけたが、香留靼はとっくに自分の分を取り分けていて悠々と美味を堪能していた。
――そんな有様で、岳がこしらえた料理は瞬く間に皆の胃袋に収まってしまった。
「……ごちそうさまでした」
「はい、お粗末さまでした」
食後の後片付けに入っている岳に楼班は礼を言った。片付けの手伝いをしないのは礼を失しているが、あいにく食べ過ぎて動けそうにない。詫びても岳は嬉しそうに笑うだけだ。
「そこまで喜んでもらえるとは思いませんでした」
「……こんなに美味しいものは初めて食べた」
嘘ではない。まるで未知の味、だというのに間違いなく美味、それでありながら食後にこの全身を行き交う熱はなんだろう。楼班は訝しげに腹をさすった。これはあるいは高名な薬草をさえも凌ぐ温もりではないだろうか、と昔一度処方されたときのことを思い出した。
「李岳殿……その、料理の名前を教えてはもらえないだろうか?」
「な、名前ですか」
困ったのは岳である。『カレー』などという言葉では不審を買うし不自然だ。
何か適当な名前はないかと知恵をひねってみたがどうにも上手くない。
「か……」
「か?」
「じゃなくてその……」
何が困ることがあるのだろうかと楼班は訝しがったが、今まで目の前の男は論理に基づき、あるいは冷徹、されど覚悟と優しさをもって対峙してくれた。それは隙のなさともとれるが、目の前であたふたしている姿を見ると途端に幼く見えた。命の恩人、李信達。この恩をいつか返せる日が来るのだろうか、それとも一期一会に過ぎずもうすぐ会えなくなるのだろうか。胸の内で熱いものが溢れ出そうになったが、楼班は今食べた料理の温かみなのだと思い込んで疑わなかった。
そんなことを目の前の少女が思っているとは露知らずうんうんと悩んでいた岳だが、とうとう天啓を得たと拳を握った。
「……そう! 天竺鍋! 天竺鍋です!」
「天竺鍋……」
「天竺から伝来した鍋料理です! 米に合わせてもよし、挽いたむぎ粉を焼いてつけてもよし!」
思い出せたのがそんなに嬉しいのか、岳は飛び跳ねて名前を連呼している。その姿がおかしくて楼班は微笑んだ。
(うん、やっぱりこうしてみると子供っぽい)
天竺鍋、本当に美味しかった。温かい料理に人とのふれあい。傷ついた心には何よりの癒しとなる――だから彼女は油断をしてしまったのだろう。
「美味しかった……今度作り方も教えて欲しい。みんなにも食べさせてあげたいのです。母様にも」
ハッとしたのは二人同時だった。我慢する間もなく、押しとどめようもない涙がその美しい宝石のような両目からハラハラと流れた。
悲劇は今日のこと、すぐにその心の傷がどうにかなるはずがない。身勝手な横暴は永遠に彼女の心を傷つけた。そして命を――
すがってきた楼班の背中を抱きしめた、楼班は声を押し殺しながら涙を流し続けた。昨日まで隣にいた母はもうどこにもいない。失われた者の大きさ、重さ、そして二度と戻ってはこないのだという絶望が癒えるのはまだまだ先だろう。
「母様……お、お母さん……! 会いたい……!」
歩哨以外は寝静まった夜。楼班が泣きつかれて眠るまで、岳は胸を貸し続けた。