真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第七十九話 おかえりなさい

 原武に仮の拠点を定めた。

 李岳は野営の本陣で、全軍の集合を待っていた。兵站線に限界がある以上掃討戦も無尽蔵には出来ない。騎馬隊による追撃は速度と距離が普通ではない分、補給も相当に薄くなる。地理に明るくない匈奴兵に全てを委任するわけにも行かず、李岳は時間を区切っていた。

 その間、李岳は指示統率に忙殺されていた。兵糧の補給、散発的に抵抗してくる一団もいたのでそれへの対応策と、捕虜の扱い、小さな村などが点在する地域なので略奪が起きないように巡回させることであったり、またこの地の村落への慰撫も仕事に含まれていた。

 厳しい徴収を受けたところもあったろう、そこに食料の補給と一年間免税の達しを出すのだ。このあたりまでまだ司隷の行政になるので河南尹である李岳にとって越権というわけではない。

 呼び寄せた李儒も、もう人見知りがどうたらと言い訳出来ないくらいに走り回っている。

「ハァ、ハァ……私は……龍族への……へ、変身を残している……こ、ここからが……地獄だ……」

 彼女が戦死するならここだろうな、と李岳は思った。

 しかし待てども待てども、願っていた知らせは届かなかった。曹操の身柄を拘束した、という知らせである。

(逃げ切ったのか。陳留に戻る道のりは全て封鎖したはずだから、北か南に一度逃れたのかな……史実では董卓軍の徐栄に敗れて落ち延びている。歴史通りというわけか)

 伝令を往復させている側近たちが、ソワソワした目で自分を見ているのが李岳にはよくわかった。あれだけの勝ち戦になぜ喜びの顔を見せないのか、と。李岳が曹操を恐れていることを知っている廖化なども、あれほど兵力を削ればもう何も出来ない、などと安易なことを言う始末だった。

 実際、そう思っても仕方のないような打撃を加えた。これからは兗州攻略になる。ひとつずつ、油断なく城郭を制していけば自然と行き場はなくすはずだ。政治的にも圧倒的に優位である。

 しかしそれを覆すのもまた曹操なのだ、という恐れにも似た思いが李岳からは離れなかった。

 やがて、例のものを掘り出してきた、という報告があったので李岳は目の前に持ってこさせた。ごとり、と置かれた木の杭を暗澹たる気持ちで見た。

 

 ――おそらく拒馬槍の一種だった、かなり改良は加えられているが。

 

 曹操が用いた対騎馬戦の装置である。香留靼の話によると、曹操陣営に迫った直後、いきなり地面から斜めに飛び出してきたとのことだ。直径七寸程度の木の杭が、一基あたりおよそ十五本。大人二人で持てる重量だが、組み合わせを外せばさらに持ち運びは楽だろう。それが計三百基確認された。

 立ち上がり、ぐっと踏んでみた。てこの要領で手前に杭が起き上がってきた。李岳の体重程度ではゆっくりとした作動であったが騎馬の重量であればかなりの速度で動くだろう。

 騎馬隊が何もわからずに突っ込み、仕掛けの板を踏めば、起き上がった杭が土を払いのけ馬の腹に突き刺さるというわけだ。例え刺さらなかったとしても足は絡め取られる。先頭がそろって落馬すれば、後続も皆その巻き添えを食う。軽く土を掘り、設置するだけでいい仕掛けだ。

 これら一式が一昼夜で用意できるはずもない。曹操が李岳を念頭に置いて用意させていたのは間違いなかった。それをこの撤退戦で仕掛けてきた。後方の部隊が設置したのか、伏兵となった張貘が仕掛けたのかはわからないが、とにかく決戦地となった丘陵に撤退戦を行いながら逆転の手を用意していた。

 その瞬間のことを思い出して、李岳は背筋を震わせた。騎馬隊を崩して曹操は敵中突破を決断してきた。突撃を敢行した騎馬隊は容易に方向転換を図れない、鮭が激流を昇っていくように曹操は騎馬隊の波をかき分け、李岳の本陣に迫ろうとした。あの時、呂布も張遼も、華雄も赫昭も、誰も李岳の側にはいなかった。そこまでも読んでいたとしたら、真の意味で天才的だ、という感想しか漏れてこない。

 調べによれば統率して間もない兗州兵や徐州兵も多くいたという、その掌握まで含めて李岳の想像を超える用兵だった。

(於夫羅と戦った時の俺のように、曹操は俺の首だけを狙っていたというわけか……)

 伏兵を読んで勝ったと思った。その勝利を信じた多幸感で判断力を鈍らせる瞬間を曹操は狙ってきていたのだ。自分の首に手をやった。ヒヤリと冷たい感覚が抜けそうもない。

 

 ――しばらく立てずに座っていたが、匈奴が帰還してきたという知らせを受けて李岳は腰を上げた。

 

 返り血で顔を真っ赤にさせた卒羅宇が笑顔で戻ってきた。

「漢にも手強いやつばかりだな、岳よ」

「叔父上」

 香留靼に兵の指揮を任せて抜け出してきたのだという。話題はやはり曹操の仕掛けた兵器に収斂した。

「敵の罠を見抜けませんでした、私のせいです」

「勝ち戦だと思い油断したのはこちらの落ち度だ。元より指揮を分けていたのだからな」

「しかし」

「大半が馬の被害だ、曹操とやらの仕掛けには驚いたが、急ごしらえだったので大半が落馬で実際の被害は二千もない。案ずるな。フン、まるで負け戦のような顔ではないか? 大勝利なのだぞ、誇れ! 総大将!」

 匈奴にとって馬とはどういう存在か、十分に知っている李岳にとって卒羅宇の言葉はあまり気休めにはならなかった。

 卒羅宇の言うとおり、被害実数の把握にはまだしばらくかかるだろうが、匈奴で三千、李岳軍で二千というところだろう。しかしざっと見て敵兵は二万人以上は討ち取っている、数だけ見れば大戦果だったが敵の首魁の大半は逃した。統帥としての責任は決して小さくない。

「迂回路を進んでいた別働隊についてだが、先ほど醢落(シュウラク)から知らせが入った」

「どうなりましたか!」

「心配するな、勝った。半数近くは討ったようだ、こちらの被害もほとんどない。だが妙な一軍がかなりの奮闘をして将は取り逃がしたようだ。名前は」

「……劉備、ですか?」

 驚いたように目を丸くした卒羅宇だったが、言葉を続けた。

「うむ。特に関羽と張飛という二人が、震えるほどの武人だったと聞いたわ。袁紹、劉虞といった主たる面々も逃げ切ったようだ。こちらは地の利もなくてな、兵站も持たんので引き返させたが」

「十分です」

 答えたが、取り逃がしてしまった責任は大きい、と忸怩たる思いでいた。自らの責任である。

 同時にふと、匈奴兵運用の限界に気づいた。

 兵馬両面での兵站を確保するのが相当に難しいのだ。史上、さんざんに繰り返されてきた匈奴の攻撃力と機動力は、馬の運用とその身軽さにある。兵站と補給をほとんど現地での略奪に頼るからこそ実現できる戦略なのだ。しかしこの漢では絶対に略奪は許すことは出来ない。である以上、匈奴にも通常の兵站作戦が必要となる。匈奴の強さを殺すことにもなるが、どうしようもない二律背反なのだ。

 匈奴を二手に分けたのが失敗だったか。初めから全軍合わせて用いていれば……いや、結局全兵を同時に指揮することなど出来ないし戦場は無制限に広大な原野でもなかった。別働隊を出していなければ袁紹や劉虞を無傷で返すことになる。長駆してきた匈奴兵に死を覚悟して突撃させるのも、これから先の外交のことを考えれば出来なかった。

 つまり、これ以上匈奴の戦士は使えない。この一戦だけの動員という約束だからだ。動員できたとしても、限定的な局面になっていくだろう。

 しかし宣伝は大いにさせてもらう。いつでも助太刀にくると。群雄たちにとっては相当に脅威だろう。抑止力は実戦部隊を目の前にズラリと揃えることだけが全てではないのだ。

 やがて袁術軍の接近を伝える伝令がやってきた。本隊を三里の距離に置き、輿(こし)が出てきたとのことだ。

「通してくれ」

 寝返った軍勢に対してどういう対応をすればいいのか、廖化でさえ少し持て余しているようだった。迷うことはない、堂々と会えばいい。

 かなりの武装兵を護衛として連れたまま袁術はやってきた。目を丸くする程に驚いたのだが、本当に年端もいかぬ少女であった。その隣には白い制服を着込んだ女が甲斐甲斐しく世話をしている。これが張勲だろう、と思った。

 南陽郡の太守と河南尹。汝南袁氏の名門と出自も怪しい匈奴の混血。反乱軍から寝返った将と勅命により防衛を命じられた指揮官――序列を判断するにはいささか複雑すぎた。張勲もどうしましょ、とこちらを試すように首をかしげている。李岳は苦笑して胡床を用意させた。とりあえず今ここでは対等の立場である。

「指揮官の李岳です」

「余が袁術なのじゃ!」

「ご足労痛み入ります。お座りください」

「苦しゅうないのじゃ!」

 キャッキャ、と嬉しがって袁術は胡床に座り、李岳も腰を下ろした。張勲はそばで立ったまま控えているが、李岳はそちらから目を離さなかった。

「此度の助力、ありがとうございました」

「うむ!」

「機の読み方、本当にお見事です」

「うむ! うむ!」

 褒められたり感謝されればとりあえず頷いておけ、とでも言われているのだろう。袁術は大きく首を縦に振るだけだった。

 袁術が裏切るかどうか、実は最後の段階までわからなかった。色よい返事はあったとしても、本当に実行するかどうかは極めて未知数だった。

 結果的に見れば袁術軍の寝返りが完全に戦況を決定づけた。おそらく匈奴の誘引が発覚した時点でこちらへの寝返りを決めてはいたのだろう。問題はいつ決行するかということだったが、彼女たちが選んだのは激戦の最中に双方の兵力が損耗した時点で決定的な局面に踊り出ることだった――殴り飛ばしたくなるような身勝手さだが、笑い出したくなるような手際の良さでもあった。

「さて、これからのことなのですが」

「それについては七乃に任せておる!」

 ズッ、と張勲が一歩前に出て頭を下げた。顔には隙のない笑顔が貼り付いている。実質袁術軍の全てを差配している女だった。

「此度は大儀でございました」

「李信達さまも本当にお疲れ様でした」

「一つお伺いしたいのですが。陳留王殿下について」

 張勲はしばらく李岳の目をじっと見た後に、にこりと笑って答えた。

「ご無事ですわ。夜半に陣の外にお連れしました。もう間もなくこちらへ到着されることでしょう」

 ふぅ、と李岳は安堵の息を吐いた。張勲には元々、こちらの勝ち目が大きいようなら付け、その際には陳留王の身柄を必ず確保しろ、と伝えてあった。作戦の最も重要なところを策謀で決着付けられたのは本当に大きい。

 それを踏まえた上で、戦況の優勢、太史慈の寝返りという条件を一つずつ解除していった、というのが李岳の戦略立案の順序だった。

「素晴らしいです。袁公路どののご功績は非常に大きいと思います」

「で、ございますよねー」

「陛下からもきっと恩賞があられるでしょう」

「うんうん、そうでございましょう」

「私に何かお伝えできることがあれば」

 単刀直入に切り出した。張勲はもう少しこの下らないやり取りを続けたかったようで、拙速を咎めるような視線を向けてきたが気分を害したというわけではなく、極めて機嫌がいいからふざけているだけのようだ。

「あらぁん、そんな。まるで対価を所望する真似なんて出来ませんわ。聡明なる美羽さま……袁公路さまは陳留王殿下の苦境をお救いになることと、天子さまへの忠誠を貫徹することだけをお考えになられていただけですわ。そうですよね、美羽さま?」

「うむ、七乃の言うとおりなのじゃ!」

「でもどうしてもとおっしゃるなら、そうですねぇ……美羽さまの苦境を慮っていただければこれ以上の喜びはありませんわ」

 金、土地、地位、権力。何を要求してくるだろう、と李岳は一瞬身構えた。だが張勲の要望はそれらを全て上回った。

「お言葉、でしょうか」

 いいように意表を突かれてしまった、と李岳は唇を噛みたくなった。

「……お言葉、ですか」

「ええ、皇帝陛下から直接お慰みいただけるのなら、それに優る恩賞はないと袁術さまはお考えなのです。そうですよね?」

「うーん、強いて言えば蜂蜜が欲しいかのう」

「お、おほほ。このようなご冗談を申されるくらい本気です」

 コホン、と咳払いをして張勲は袁術の言葉をかき消した。しかし李岳は嫌な予感がして仕方なかった。

「本当にお言葉だけで良い、と?」

「ええ。お言葉だけで結構です……さすが汝南袁氏の頭領である、というお言葉さえいただければ」

 

 ――それが狙いだったか。

 

「なるほど……」

「ええ」

 李岳は少しの間まぶたをつむり指で揉んだ。そうくるか、と。

「……なにぶん、私も一介の将に過ぎませんし、陛下のお心、お言葉を勝手にあれこれ申し上げるのは憚られますので」

「はい。董卓さまに是非ご相談いただけたらと思います」

「……お約束します。ところで陣中のご見学はいかがですか? 匈奴の騎馬隊など滅多に見られるものではないでしょう。いかがです、袁術さま?」

「匈奴とはなんじゃ?」

「馬をたくさん持ってらっしゃる北の民族ですよ」

「おおお、馬か! たくさんたくさんのお馬なら見てみたいぞ!」

「案内させます」

 袁術と張勲が離れていったのを待って廖化がやってきた。李岳の考えがわからないようで首を傾げている。

「何をそんなに迷ってらっしゃるんで。たかが言葉でしょう」

「たかが言葉、されど言葉だよ」

「ただほど高いものはない、ってことですか? 貸しが怖いということで?」

 いや、と李岳は首を振った。これはそういう見えない信義を切り結んだ、というわけではない。もっと直接的な効果を袁術は期待している。

「袁術が汝南袁氏の頭領だと皇帝が認めれば、今まで日和見を決めていた名士寄りの者たちがそちらになびくだろう。袁紹からの離反も考えられる」

「なるほど、それで」

「袁紹が怒る」

 それはもう、とてつもないほどの怒りだろう。袁家の頭領であるということは彼女の最大の力の源であり、誇りでもあるのだから。

「袁紹が怒る……」

「そう、しかもその怒りは袁術ではなく、俺に向く」

 袁術が自ら申し込んできたことだが、そんなことを表沙汰にすることなど出来ない。外から見れば李岳と董卓が袁術を持ち上げ帝に言わせた、と映るだろう。袁術は謙遜した様子一つ見せれば全ての言い訳が付く。

「袁家の力はもらう。責任はそちらで負え、というわけだ。袁術は元々南陽から離脱して揚州入りを企てていた。袁家の威光を全て集めた上で領地替えの申し出をすれば中央は断れない、と思っているんだろう。事実そうさ」

「なんつうあこぎなやつらだ」

「ははは。盗賊にそう言わせるんだから大したもんだよな……揚州での経営も初めは手こずるだろう、山越族への対応もあるだろうからな。その間に袁紹とこっちとの間で争いが起きて、双方消耗すれば御の字というわけさ」

 一筋縄ではいかないやつらばかりだ、と李岳は頭を抱えたくなった。

 

 ――袁術。確かに史実や演技では無様に敗北を喫する尊大な愚か者として描かれる人物だが、そこまで無能とは李岳は思わなかった。『仲』という国を一つ立ち上げ、僭称とはいえ皇帝にまで成り上がった人物だ。意外なまでに内部の結束も固く、領地経営も悪くはなかったという説もある。正史などから見れば完全に逆賊の立場になるので、相当貶められて描写されているということも考えられるからだ。油断できる相手だなんて到底思えない。

 

「……いっそ飲み込んでしまった方がいい、か?」

 李岳は廖化との話を切り上げると袁術の元へ向かった。歳相応にはしゃいでいる少女の隣で見守る張勲の姿は慈悲深い母のようだった。李岳の接近に気づくと、その『母』の笑顔から『策略家』の狡猾極まる表情に変わっていった。

 二人は吐息が触れ合うほどの距離にまで近づいた。

「中央の権力を欲しがるかと思ったよ」

「勘弁してください。海千山千の政治闘争なんて真っ平ごめんですわ」

「勝ちあがりそうだけどね」

「か・い・か・ぶ・り……ですわ。うふふ」

「一度だけ言う。中央に来ないか。袁術どのには十分な、安全な地位をお約束する。決して危険な目には合わせない」

 張勲は少し驚いたようだったが、李岳は本気だった。張勲の手腕は単なる同盟相手よりも味方として囲い込んだ方がいい。袁術を害する理由など李岳には欠片もないのだから上手にあしらえば済む。裏切りが怖いのは確かだが、こちらが勝ち続けている限りは側を離れないだろう、野心ではなく損益で旗色を選ぶ女だからだ、張勲は。

「それは、口説いてらっしゃるんですか?」

「まぁ、そうなる」

「ちょっとだけときめいちゃいましたよ」

 袖にされたな、と李岳は苦笑いを浮かべた。張勲は人のことなど全く信用していないのだ、袁術のためにならなさそうなことは考慮する必要すらもない、というほど。

「……私は洛陽が安全だとは思えないのです。まだまだ戦乱が起きるでしょうし。漢帝国が本当に盤石ならね、まだ考える余地はあったというものですが……しかし袁紹さんがいます。次は単独兵力でやって来るでしょう。北方四州を完全に手中に治め、大兵力を興して南下を始める……その矛先はまず洛陽。どうするおつもりで?」

「また打ち払うしかないな」

「あら怖い」

 張勲は馬と戯れている袁術を愛しそうに眺めながら続けた。

「こんな怖い目を何度も美羽さまに遭わせるわけには行きません。揚州を取ります」

「南陽はどうする」

「お好きにどうぞです」

 馬に乗り、はしゃいでいる袁術に向かって手を振りながら、笑顔とは全く裏腹な言葉を投げた。

「劉遙はそろそろこちらへ到着します。全身ボコボコにしてしまいましたのでまともな状態とは言えませんしまだ意識もありませんが、命に別状はないようです。劉岱は私が手を下す前に荀彧さんが始末した様子。遺体が見つかれば僥倖というところでしょう」

「そうか」

 感情が冷えていた。その顔を見た時、どういう行動に自分が出るか、あまり想像出来なかった。

「……疑われたくなかったので劉岱の身柄を求めはしませんでしたけど、仕方ないんですからねー? わかってください。そんなに殺気を向けちゃ、めっ、です」

「怒ってない」

「貴方も大変なのですね」

 組むなら袁術だ、と李岳は思い始めていた。これから先、袁術がどういう成長を遂げるかによるが、張勲とは馬が合う気がした。信頼も信用も出来ないが――だから一手間だけ助力を差し出すことにした。

「余計な忠告を二つしておく」

「お聞きするだけなら」

「孫権に気をつけろ」

 張勲の目が鋭く光った。

「孫策の後釜には彼が座るだろう。油断するな」

「……随分と情報通ですね、さすが。ですけど一つだけ訂正を。孫権は女ですよ?」

「失礼した……揚州は、呉は彼女たちの地盤だ。決起を目論めば同調する者も多数いる。飼い犬だと思うな、中から食い殺されるぞ」

「二つ目は?」

「間違っても帝位に就こうなどと思うなよ」

 あはっ、と張勲は耐えられなかったように吹き出した。

「帝位って! 揚州で建国するとでも言うんですか? さすがにそこまでは考えてませんでしたよ、うふふ。だったら私は大将軍ですかねぇ〜」

「戯言だったかな」

「ええ。ま、伝国の玉璽とかが手元にあればわかりませんでしたけど、さすがにちょっと突拍子もないです」

「――なら、いいんだ」

「お言葉の件、違えなきよう」

「約束する」

 七乃、飽きたのじゃ。かえろ? ――遠くで袁術が手を振っているのを見て、張勲は駆け引きではない本当の笑顔を見せた。

「はーい! 戻りましょう――李岳さん、貴方のこと嫌いじゃないですよ。貴方との交渉はすごく……楽しいです」

「俺は貴女が怖い」

「今のところは『俺も嫌いじゃないぜ』の一択でしょうに」

「殿下が到着されるまで一緒にお待ちください。殿下も袁術どのに一言お伝えしたいはずですから」

「そういう疑り深いところも、嫌いじゃないです」

 小走りに駆け寄ってきた袁術を抱き上げ、張勲は武装兵の元へ消えていった。

 よほどのめぐり合わせがあればまた会うこともあるだろう、と思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 劉協が到着する前に現れたのは、掃討戦に臨んでいた前線の兵たちであった。

 呂布はじめ張遼や赫昭、皆、無事である。李岳は心の底から大きな溜め息を吐いた。

 単に討ち取った敵兵を戦果とするなら前代未聞、多大である。数ヶ月耐え忍んだ鬱憤を炸裂させた兵達の気迫は、そこそこの抵抗などあって無きかの如く蹴散らしたという。

 だが喜ばしいことばかりではない。李岳は各将たちを連れ陣幕の中に入り、そして名を呼んだ――華雄の。

「弁解を聞こう」

 返り血を無数に浴びた歴戦の戦士、華雄。紫がかった灰色の髪も半分が赤く染まっていた。全身が沸騰しているかのように血煙から立ち上っている程に未だ戦意が充実していた。

 ドスン、と金剛爆斧を地に立てると、華雄は躊躇いなく答えた。

「そんなものはない」

「ない?」

「ああ、ない。私は曹操を追った。退却の銅鑼も聞こえていた。頭に血が上ってな、無視した」

 激昂しているわけでも拗ねているようでもなかった。華雄なりに考えて判断した、というところだろうか。ということは今から己がどういうことを伝えられるかもおよそ分かっているだろう、と李岳は思った。

 華雄の突撃が戦況を大きく劣勢に導いた、と李岳は考えていない。どちらにしろ総攻撃に転じていただろう。その機が早まったかどうかの違いでしかない。

「華雄どの、貴女が前線の維持に『努めていれば』被害は減ったかも知れないし、冷静な目で『見ていれば』罠を見抜けたかも知れない、そして曹操を捕えることが『出来たかも』しれない」

「旦那、それはいくらなんでも」

「黙っていろ廖化。そういう『たら』『れば』『かも』を前線の兵たちに押し付けないために、軍規というものがあるんだ。指揮作戦を担った俺が、実行部隊に責任を押し付けるのを防ぐために。わかるか?」

「……は」

「他に意見は? ……そうか、ならば。」

 くどくどと小言を並べる気はなかったし反対意見はもうないように思えた。しかし――

「お待ちくださぁい!」

 李岳の言葉を遮ったのは徐晃だった。小さい体を投げ出し、李岳の前に膝をつき叫んだ。

「お待ちください! 出過ぎた真似をしてすみません! お話を聞いて下さい!」

「何の話を聞く?」

「華雄さんは、華雄さんはひどいことを言われて、それで許せなくて! だから!」

 目を細めると、徐晃は怯えたようにビクリと体を震わせた。恐ろしいだろうな、この俺が――怒っているから。昔からそうだったけれど、ここしばらくは怒った時すぐに分かると皆いう。李岳自身は『本当にそうか?』とあまり皆の言葉を信じていなかった、こんなにもちゃんと笑顔を浮かべているというのに――

「何を言われても動じない冷静さが将には求められる、ましてや退却の銅鑼だ。命令には絶対に従え、例外はない、と言ったことも忘れてはいないだろう?」

「わかってます、わかってますけど……けど!」

「ええい、もうやめろ!」

 しびれを切らした華雄が李岳より声を先に荒げたが――

「やめなくていい」

 その声をさらに制して前に出たのは赫昭だった。やはり血まみれである。今回の作戦で一番疲労が大きかった一人だ。

「自分も証人です、冬至さま」

「沙羅。お前までもか?」

「お聞き下さい。夏侯淵はここで申し上げるのもはばかられる程の侮辱を華雄どのに投げました。華雄どのはそれに耐えられました、兵たちもです。本当によく我慢しておられました」

 徐晃が場をはばからずに涙を流しながら、泣き声のように続けた。

「私のところからも聞こえました……華雄さんはずっと我慢していたんです、武に生きる将に対してひどい侮辱の言葉もありました、けど華雄さんは我慢して、我慢して……でも絶対に我慢できない一言があって!」

「もういい、やめろと言ってる! ぶん殴るぞ!」

「すみません華雄さん! でもやめません! ……だってぇ! 華雄さんはぁ、自分のことには我慢したのにぃ、冬至さまが馬鹿にされたことを許せなかったんだものぉ!」

 うわぁん、うわぁん――もう言葉を続けられないほどに泣きだした徐晃の肩に手をやり赫昭が続きを言った。

「夏侯淵の言葉はこうです……お前らの主は、母の仇である董卓に媚びへつらい、言いなりになっている根性なし、と」

 

 ――李岳は胸を突かれたような思いになり、思わず顔をしかめた。

 

 隠し事は出来ないな、と思った。どこから話が漏れるかわかったものではないが、相手には劉岱も劉遙もいた、荀彧もいたのだ。戦のさなか、そんな話で盛り上がったりでもしたのだろうか。

「華雄どのが出なければ自分が飛び出していました。罰されるのなら自分もです」

「ひっぐ! う、うう! ……す、すみません! 私もです! 罰して下さい、あそこで飛び出さなかったことの方が、悔しいです……」

「冬至、悪いけどな、ウチかてそれ言われたら我慢ならんかったで」

「情状酌量に一票ッス」

「石椿に乗っかるべ」

「まぁ人情を大事にすんのもな、大事なこって。混戦で銅鑼も聞こえにくかったしな」

「悪魔大総帥としては部下の命令違反は地獄の業火直行だが、主は人間なので許しても良し」

 張遼に李確、郭祀、楊奉や李儒までもが自分も罰せ、と言わんばかりだった。

 と、そこでそれまで黙っていた呂布が陣幕の外に出ていこうとした。

「いうことはない。恋は行く」

「どこへ?」

「ちょっと、夏侯淵殺してくる」

 

 ――呂布を押し留めるのに全員がかりでかなり骨が折れたのは言うまでもない。

 

 一騒動終えた後に李岳は悩み、困った振りをして頭痛をこらえるように顔を覆った――嬉しくて頬が緩んでいることを、隠さなきゃならなかったために。

「……はぁぁぁ。お前ら全員罰したらこれからどうなるんだよ」

「冬至さま。信賞必罰は常なれど……どうか」

「わかったよ、沙羅」

「冬至さま!」

 無理やり顔を戻すと、李岳はわかったわかった、と押し寄せてくる難儀な部下たちをなだめた。

「華雄どのは罰されるだろう。だがそれは、陽人での活躍と、防衛戦での貢献、そして孫策を討ち取った時の働きを賞された後の話になる……何よりこの戦に最後まで付き従ってくれた兵たちを鍛えてくれたのも華雄どのでもある」

「じゃ、じゃあ……」

「将軍に叙されて中央で官位をもらう道は遠のいた、これからも前線で駆けずり回ってもらおう、かな」

 普通なら、出世の道が閉ざされた、というのも十分な罰になるが、そこにいる将全員が歓喜の声を上げた。華雄に出世はふさわしくない、という見解が一致しているのもまぁまぁひどい気がしたが、李岳も想像できないから仕方ない。

 華雄もまた照れているように大きな声を上げた。

「礼はいわん。私は自分の忍耐力がなかったことを恥じるだけだ。あと李岳! 別にお前のために怒ったわけじゃないんだからな!」

「あー、そういうこと言う。華雄どの、私がね、怒ってるのはむしろね、考えなしに死地に飛び込んで自分の身を顧みてないところなんです。貴女に死なれると困るんです。まだまだ頼りにさせてくださいよ」

「な、何だお前! ちょ、調子が狂うだろ……」

「本音です」

 傷だらけの華雄。

 誰よりも戦場で先頭に立ち、ボロボロになりながらも痛みや疲労をおくびにも出さないこの武人に、多くの兵が信頼して命を預けているのも事実なのだ。自分の代わりに怒りを叩きつけてくれている、という思いで華雄の背中を見ていたことに、李岳はふっと気づいた。

「というわけで華雄どの、これからもこき使うんで、よろしく」

「……すまなかった。一度だけ謝る。命令違反はもうせん」

「はい」

「良かったですね、華雄さん!」

 徐晃の最後の一言が、華雄の忍耐の限界を打ち砕いたようだった。

「うるっさい! ああうるさい! くそ、これ以上話しかけるな、武人に恥をかかせる気か! 私はお前が嫌いなんだ! ……しかし尊敬してもいる、それだけだ! 私の中でその二つは両立するんだ! これ以上ゴチャゴチャ抜かすな!」

 フン、と華雄が首をそむけた時、ようやく弛緩した空気が流れ、ああ、こうしてみんなまた生きて戻ってきたんだな、と思った。作戦目標を達成できなかった、という思いが強く残っていた李岳の心に、じわりと、勝ったんだ、という思いが広がった。

「あ」

 

 ――半年間、全てをなげうって戦いに望んできた。張り詰めていたものがフッと緩んだ瞬間だった。

 

 涙が溢れて来た、感情の昂ぶりを見せないままに、ハラハラと涙がこぼれ落ちてくる。

「うわ、うわわ! 大丈夫か冬至! なんや、どっか痛いんか?」

「冬至さま、まさか手傷を」

「違う、そうじゃない、そうじゃないんだ。なんか感慨深くてね」

 半年だけではない。并州の北での生活から全てが思い浮かんできた。

 呂布との出会い。幽州までの旅。黒山のみんな。出会った烏桓の姫。

 感じ取った動乱の気配。匈奴が巨大な乱を企てていると知った衝撃。呼厨泉との決闘。

 自分に出来ることをする、という覚悟。父との離別。母との再会。

 并州兵だけで匈奴撃退に望んだ雁門関の決戦。あわやの勝利と、洛陽への出立。

 大都会での仮面生活。董卓、賈駆との出会い。

 母の死。

 宮廷への討ち入り。二龍への怒り。この国を乱世に陥らせまいと心に決めたこと。

 反董卓連合への備えの全て。寝る間も惜しんで戦図面を描き、物資を調え、書簡を書き、説得し、兵を鍛え――そしてたった一日たりとも気の休まらなかった防衛戦。

 

 ――その全てが李岳の脳裏に一挙に押し寄せた。この国を守る、歴史を変える。大層な目標をぶち上げたくせにずっと自信がなくて、けれどいつだって虚勢を張っていて、皆に頼らなければ何も出来なかった。いつだって簡単に心乱れて怒りに身を任せそうになり、夜に一人怖気づいて眠れなくなったことだってある。けれど――

 

「ご、ごめん……だ、だめだな……はは、まるで、ら、藍苺じゃないんだからさ……う、くそ、なんで止まらないんだ?」

「冬至……」

 涙の理由なんてわかっていた。そんなものたった一つしかない。

「みんな……ちゃんと俺との約束守ってくれたな……一人も死なずに帰って来てくれて、嬉しいんだ」

 ありがとう、と。

 心配そうに覗きこんでくる一人ひとりの顔が無事ここにあることが嬉しくて、李岳は泣いた。そして同時に、もう一人、ここに居て欲しかったなと心から思ったのだ。

 

 ――母さんがここにいてくれればなあ、きっと、珍しく褒めてくれたに違いないんだ、まぁよくやった、って。もしかしたら本当に頑張ったな、くらい言ってくれるかも知れない。いや、精々これからも精進しろ、程度だろうか……

 

 自分を包む人の輪に温かさを感じながら、同時にぽっかり抜けた穴から寒風を感じるような寂しさも拭い難かった。もう一人ここにいてくれるだけで、こんなすきま風は感じることなかったろうに。

 そう思って、ようやく泣き止もうとした時だった。外から伝令が現れて使者が到着したと告げた。

 李岳の代わりに赫昭が応答した。洛陽から使者など早すぎる、何かの間違いではないかと。

 伝令は答えた、元々使者ではなく、援軍のつもりでやって来たと。だのに途中で勝利したと聞いて、独断で祝勝の使者に切り替えた、と。

 赫昭が聞く。誰か、と。

 伝令は答えた。高順どの、と。

 そして陣幕の入り口が開き、その人は現れた。

 声。李岳の夢寐(むび)のような予想は全て外れた。

 

 ――心の底からお前を誇りに思うよ、愛しい我が子。ただいま。

 




ベタな話が好きや。

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