真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第七十七話 末路

 父の名は劉輿といった。劉岱が四歳の頃に彼は言った。

「お前は宗室なのだ。孝廉までは心配するな、洛陽で数年宮仕えだが終われば太守だ。それまではじっとしておけ」

 孝廉とは、文字通り父母を敬う孝、そして品行が清廉であることをいい、その土地その土地の名士を推挙する『郷挙里選』という制度の根拠である。この孝廉に推挙されることは出世の第一歩とされていた。

 だがその「良き子」であることの推挙を親である劉輿のさじ加減ひとつでどうとでもなるということ自体が、制度の腐敗を象徴しており、劉岱の人生自体が個人の意志や徳などとはかけ離れたところで判定されてしまうということを端的に示した。

 父の言葉を聞き、劉岱は己の能力を疑い、そして生き方さえ決まっているのかという諦念を抱え込むことに至ったのである。

 劉岱の日々は既に管理されており、朝から寝起きまで召使いという名の監視が侍り全てを指図した。一度武芸の修練に嫌気が差し、仮病を使って一日をふいにしようとした(それは劉岱による初めての反逆であった)のだが、昼を過ぎてから壮大な人数が庭先で祈祷を行っているのを見て劉岱は自分の心が冷め切ったのを感じた。父も母も、太守とその妻、という責任から病気になるわけにはいかず、こうして大金を用いて祈祷を手配したのだろうが、劉岱の期待はそういうことではなかった。

 劉遙に至っては、劉岱より資質が低いと父から見限られたためか、様々な伝説が付け足されることになった。さらわれた叔父を単騎で救いだした。私利私欲を満たしていた官吏を罷免した……ただ推挙するだけではなく、推挙の根拠を不審がらせてもいけないという父・劉輿の周到な段取りは、その背景に全て権力と金をちらつかせたものであった。叔父の救出も狂言であれば私腹を肥やした官吏を追放したのは、単にその上位により多大な賄賂を積んだからに過ぎない。

 結果、劉岱と劉遙を推挙したのは平原の陶丘洪という人物だった。人物鑑定では許劭と並ぶ名人と目されている人物だった。彼は云う。

「若し明君をして公山を前に用いらしめ、後に正礼を擢けば、所謂長塗に二龍を御し、千里に騏驥を騁す、亦た可からずや」

 その日から兄弟は『二龍』とあだ名された。金で買われた龍などいるものか、と劉岱は内心くさしたが、既にその頃には自分の境遇自体を当然と思う素地は整ってしまっていた。

 劉という一族がこの大陸を支配するようになり既に四百年。その権威を高めるための……否、その権威を維持し、確認するためだけの要員の一人が己なのだ、と劉岱は悟っていった。皇帝になれない劉姓に定められた役割……

『将来は刺史になるのだ』

 太守で出世の道を閉ざされた父・劉輿の口癖がそれであった。

 その頃から劉岱と劉遙による陰惨な遊戯は苛烈さを増していく。初めは小動物であったが、やがて罪人、そして身寄りのない者たちに対して残酷な仕打ちを繰り返していく。権力と金さえあれば揉み消すのは容易かった。痛み、屈辱、性、そして死……一夜の間に一個の人間が迸らせる絶望の叫びは劉岱の心を慰めた。

 表向きは善良な為政者として振る舞い、淡々と勤めにありながら夜は時折陰惨に振る舞う。劉岱はこのまま人生の終焉を迎えるのだろう、と半死半生の思いで日々を過ごしていた……顔色の悪い男が訪ねてくるまでは。

「……戦乱に興じませぬか」

 徳人として北方で名を馳せる、同じ宗室の劉虞の使いであった男、名は田疇。劉岱の退屈を見抜いたかのようにボソボソと陰謀を語った男。

 田疇が示した計略は劉岱の人生にまさかの彩りをもたらすものであった。それが例え極彩色の脳漿と鮮血に塗れたものだったとしても、無色透明な人生のまま終わるよりはよほど楽しげであったから。

 この劉公山は悪だ。しかしこの身に宿った血がそのさだめを運んだならば、数百年続いたこの国の支配の血が溜め込んだ(おり)に相違なし! 名誉だけを伝える血なぞあるものか、悪も乱世も血風も、この魂が受け継いだ汚泥の叫びに他ならぬ。

 いつしか劉岱の心には、血に対する壮絶な嫌悪と、それに相反する絶大な矜持が奇妙に同居し、他者への蔑視と尊大な驕慢さを獲得するに至るのだが、それは年月をかけて積み上げられた分、矜持の蓄積とも言えた。

 

 ――しかしそれが今、李岳と曹操の手により無残に打ち砕かれようとしていた。同時に、劉岱は初めて己が生きるか死ぬかの局面に足を踏み入れてしまっているということを知る。

 

 軍議を抜け出し陣を足早に進みながら、劉岱は田疇を呼んだ。田疇はやはり近くに潜んでいたようで、すぐに現われ目前でかしずいた。

「なんだこの茶番は! こんな屈辱があってたまるか……田疇!」

「は」

「兗州軍を連れて今から出るぞ。とっとと帰るんだ! 曹操め、いくら気負ったところで僕が貸した兵がいなければ何もできないくせに!」

「……ははあ、それはそれは」

 田疇の返答に、気が鋭敏になっていた劉岱はすぐ異変を悟った。

「どうした」

「いえ……ところで、劉遙さまは今いずこに」

「紗紅なら揚州軍の所に向かった。僕達二人、揃ってすぐに軍を離れるからな、人手が足りないんだ。田疇、僕はいまどれほどの兵力を連れ出せる?」

 田疇は頭をかきながらさも困ったように、いやはや、と繰り返した。

「恐らく、誰一人として付き従いますまい」

 田疇は形だけでも悪びれた。

「……聞き間違えたかな? 田疇お前、何を言ってる」

 平に、平に――田疇は顔を隠しながら恭しく劉岱を捧げ奉ったが、声音はひどく冷えていた。

「兗州兵の皆様は陽人の戦い以後、本当に曹操さまに心酔したようなのです。気高く、自信もあり、知と勇に優れ、兵を思いやる心も持つあの美しく覇気ある少女に。兵たちは既に曹孟徳の熱狂に取り込まれてしまったのです。賭けてもよろしい。兗州兵は一人も劉岱様に付き従わないでしょう」

 兵が将に心酔する? 劉岱の人生に欠片も浮かんでこなかった発想だった。それを曹操が成したと言うのか。この劉岱から兵を、人徳だけで略奪したなどと。

「あんな、あんな奴に僕の兵が取り込まれたっていうのか……? お前、何をしてたんだ!」

「曹操さまに兵を預けるというのは、劉岱さまのご発案でしたので」

 田疇の言葉に劉岱は拳をわななかせたが、頭のどこかには確かにその可能性は低くないという理知も働いた。夜陰に紛れて脱出するのだから面倒が起きるのも良くない。朝になればこの二龍の首を挙げて李岳に投降しようと目論む者さえ出かねないのだ。

「だったら青州軍だ! 奴らを連れ出す。まだ数万もいるだろう、田疇、すぐに差配しろ」

「これはまた……中々」

 

 ――劉岱はこの時、初めて田疇にゾッとした。困った困った、と頭をかくその仕草に。

 

「これはこれは、困りました……青州兵を兗州に連れて帰られては、なんとも」

 田疇の目が不敵な光を放ち、劉岱の顔を覗き込むように迫るとクツクツと笑った。

 その顔を劉岱はよく知っていた、自分が今まで何度もしてきたから。

 謀略戦で負けた相手を哀れみ、これから先に待つ不幸があまりに滑稽で笑いを耐えられない顔である。

 田疇は慇懃な態度のまま続けた。

「劉虞さまは袁紹どのと連合を組まれることになります。この死地を脱するためには兵力は必要なわけでして……北の匈奴の別働隊を突破せねばなりませぬし、李岳どのは連合を撃破した足でそのまま兗州制覇に乗り出すでしょう。死兵と化すには惜しいのです」

「お前に青州軍の指揮権はない! アレを動かせるのはこの陣営で僕一人のはずだ!」

 劉岱は田疇の余裕を崩したく、知を働かせ論破せしめんと試みた。しかしやはり心当たりのある表情が――懸命に悪あがきを試みる愚か者に捧げる憐憫の表情が!――田疇の顔から消え去ることはなかった。

「いえいえ、そんなことはないのです。青州兵の掌握は可能です」

「そんなことはない? お前が作ったんだろうが! この天下蟲毒の計に直接関わる者と、黄巾の娘たち以外には決して従わぬ軍勢だと……その中にあって貴様は軍の指揮には一切関わっていないじゃないか」

「左様」

 そこでようやく、劉岱は田疇の隣に佇む小柄な少女に気づいた。眼鏡をかけた短い髪の乙女は、まるで侍女のように田疇の隣に立っていたが、その人物の正体はまさに隣で余裕を持って首肯している田疇の態度が示している。

「貴様……」

 眼鏡の少女は困ったか、あるいは呆れたがために眼鏡の位置を直しながらやれやれと首を振った。

「……田疇さん。このために私を連れてきたというわけ?」

「ああ、いや、ま、それは、念の為と申しますか、お怒りになられると大変、私も困りまして」

「……はぁ。まぁいいです。ええと、そんなわけで、劉岱さん。青州軍は一度北に動かしますので……人公将軍・張梁の名の下に」

 黄巾軍の頂点に位置する三姉妹の末妹、張梁――田疇の隣にチラチラとうろついていたのを劉岱は陣中で見たことがあったが、まさかこの女がそうだとは、露ほどにも思わなかった。田疇は何重にも保険をかけ、あらゆる事態を想定して黄巾最高位の一角を連れてきていた……

 フッ、と劉岱の肩から何か重いものがこぼれ落ちたという気がした。ずっとぶら下げていた荷物を下ろしたという感じに近い。なぜだか悪い気分ではないのだ。

「なるほど、謀られた、ってわけか」

「汗顔の至りでございます」

「これが負けか……フン! 曹操の馬鹿め、僕だって負けることの意味ぐらいわかるさ」

 屈辱と憤怒は収まりようもなかったが、気分が悪いというわけではなかった。田疇は眉根を寄せて、何かを惜しむように首を振ったが慰めの言葉は投げなかった。それこそが劉岱が最も嫌悪するものであると知っているからだろう。

「正直に申しまして、私は宮殿で暗闘に勤しむお二人の姿が嫌いではありませんでした……行いはひどいものでしたが、生き生きとしており、才気煥発、さすが二龍と謳われるだけあると思ったものです」

「表舞台に出たのが間違いだった、と?」

「才覚にも向き不向きがあるということなのでしょう。李岳どのを早くに殺すべきでしたね、今となっては遅い話ですが」

「あいつは、洛陽で馬鹿な振りが上手かった」

「洛陽からの脱出劇、胸が高鳴りました」

「楽しかったな。お前は顔を真っ青にしてた」

「火付けが激しすぎました、服も冠も焦げたのですから……」

 李岳。

 この男のために計画は挫かれたのだな、と劉岱はあらためて思った。匈奴をそそのかし、北方から洛陽を取り囲んで今の漢王朝の中枢を木っ端微塵に破壊した後に四方を包んで皆殺し。その後、各地の有力者の野心を煽り、この漢を四分五裂させるよう企み……天下蟲毒の計の序章が成らなかったのも、この男がどこから現れて匈奴を食い止めたからだ。

 田疇には何やら気宇壮大な世直し論があるようだったが、劉岱は派手なことができれば何でもよかった。人死にの数だけ巨大な事件を起こせたと思うだけである。その計画を頓挫させたのが李岳であり、同時にこの連合をもって挙兵のきっかけとなったのも李岳である。

 いま、劉岱は破れ、滅びようとしていた。先程からさして悪い気がしないのは、それがまた恍惚を伴う経験でもあるからかもしれない。頽廃(たいはい)は甘美な香味を纏うものだ。

「袁紹と組むのか」

 田疇は袁紹と劉備、そして劉虞と袁紹の連携を取れるよう政治工作に勤しんでいた。劉備には見どころがある、というのが田疇の判断らしい。劉岱は邪魔立てするようなら即座に粛清するべきだという考えしか持てなかったが、その三つ巴が田疇が次に考案した布陣なのだろう。

「李岳どのはこの連合戦で勝利したあと、一度軍を再編したのちに兗州制圧に動こうとするでしょう。ま、容易くはさせませんが……袁紹どのと劉虞さまを組み合わせ、時間をかけずに南下を目指します」

「黄巾を全面的に動かすんだね?」

「全面決起となるでしょう。しかし、即座にそこまで読まれるとは。やはり、劉岱さま……」

 惜しゅうございます、と田疇が頭を下げながら呟いた。劉岱は一度笑った後に、大きく下品に舌打ちをした。

「助ける気ないくせに、適当言いやがって」

「はっ……」

「でも、ま、楽しかったよ」

 田疇はいつからかその顔から薄気味悪い謀略家の笑顔を消し去っていた。本当に別れを惜しんでいるような――もちろんそれも策略かも知れないが――そんな表情をしていた。劉岱にとって人生を変えるきっかけを持ち込んだこの男は、きっと戦友だったのだ、と今だから認めることが出来る。

「これよりどうされますか」

「紗紅が持つ揚州軍を頼って落ち延びることになるだろう。劉協は連れて行っても構わないんだろ?」

「あのお方は少し手に余りますので」

「わかった」

 再び恭しく礼を捧げた田疇に、劉岱はフンと鼻を鳴らした。

「じゃあね、田疇。僕は揚州で兵力を蓄え、荊州を併呑した後に北伐に出る。次に会う時は一族郎党(くび)り殺してやるから。泣いたって許さないんだからな」

「はっ……」

 劉岱は田疇から背を向けると、一人陣の中を歩き始め、やがて駆け出した。いつ殺されてもおかしくないという恐怖がにわかに襲いかかって来たので、劉岱は身を震わせたが、しかし無様さをさらけ出す汚辱の方を嫌い、堂々と胸を張って進んだ。

 いくつもの陣営を抜け、未だ最も厳しい警護が敷かれている中央本陣の陣幕をくぐった。その先には寝台に腰を下ろしている劉協と、横に立つ太史慈がいた。

「太史慈! 脱出するぞ。支度を急げ。立て、劉協! 今から揚州へ逃れる」

 寝台に迫り、劉協を立たせようとその腕を引いた劉岱だが、劉協の体は微動だにしなかった。劉協に伸ばした手が、さらに太く分厚い手で握りしめられたからである。

 ゆっくりと首を回すと、太史慈と目が合った。その瞳は以前の生気のない死んだ色を湛えているのではなく、深く激しい彩りに染まっていた。悲しみと、業火のような怒りがないまぜになった色である。

 太史慈は何も言わず――恐らく彼女の力量から言えば他愛のない力しか見せなかったのだろうが――力を込めた。劉岱の腕は枯れ木を踏みつぶしたような音を立ててベキリと折れてしまった。

 予期せぬ痛みは額に脂汗を浮かばせ、歯の根が噛み合わぬ程に劉岱の神経を責め立てたが、口元の笑みが消えることはなかった。ふらりと体を揺らすと、劉岱は哄笑を響かせ始めた。

「ハハハ! 天涯孤独か、この僕が! 王者として生まれ育ったこの僕が! 飼い犬に手を噛まれるか!」

 笑いがこみ上げて仕方がなく、しかし悔し紛れのそれではなく心底愉快であるのも事実。蓋を開けてみれば自らも道化の一人でしかなかったということである。やはり真の宗室ではなく、所詮は傍流亜流の家柄か、と。

「劉公山、我が母が既に身罷られたというのは真実だな」

 太史慈が得物である鉄棍・絞龍棍の先端を劉岱につきつけながら問うた。腕を抱えて息を荒げながらも、劉岱は笑顔を浮かべて答えた。

「うん。三年前かな」

「泰山郡の寒村で寂しく亡くなられたというのはまことか」

「自ら食を断ったらしいね。死んでからは知らないな。ま、お前が聞かないから黙ってただけさ」

 劉岱は武術の心得もなく、闘気や戦意といったものにはとんと疎いままで生きてきたのだが、それが実在し、熱く灼けつくようなものであるということを知った。無表情のまま溢れ出る太史慈の闘気は劉岱の体を、怯えや恐怖を覚えてもいないというのに震えさせた。

 原始より受け継がれた人の肉、そこに宿る連綿と受け継がれた直接的な死への恐怖が、劉岱の体を覆い尽くした。

 しかしそれでも、宗室の誇りが肉体を凌駕し、劉岱の口元の笑みまでも消すことは出来なかった。

「太史慈、僕を殺すか? この劉公山が憎いだろう? 踏み潰すか、粉々に砕くか?」

「貴様の卑劣さが、奪ってきたものはあまりに多い。お前は、生きていてはいけない人間だ……」

 生きてはいけない人間! これほどの褒め言葉があるだろうか!

「なんだ、お前、結構よく喋るじゃあないか、しかも中々いいことを言う! よし、いいだろう、さあ殺せ。いつものようにその棒を振るってな! やり方はよく知ってるだろう? お前は本当にようく働いてくれたからな。さあやれ! お前とお前の母の人生を滅茶苦茶にしたこの僕を捻り殺すんだ!」

 太史慈の眼光が輝きを増し、ぐっと重心を落とした。下半身から体幹を通じて全身の力が脈動するのが劉岱の目にもはっきりと見えた。唸りを上げて棍棒が振り上げられ、まさに劉岱の頭に叩き込まれようとした。

 劉岱がただの肉塊になるのを止めたのは赤子のように優しい劉協の声であった。

「太史慈、やめよ」

 劉協と目が合った。興を削がれたという気がして劉岱は猛烈な不愉快な思いに駆られた。皇帝の娘として生まれ、しかし次女であるがために玉座に座れず、政争の具として運命を弄ばれているというのに達観した余裕さえ持つこの少女が、劉岱はずっと鼻持ちならなかった。それは皇帝位を気分一つで拒める余裕があるからだった。

 劉岱に吹きつけていた太史慈の闘気も収まっていき、棍棒もダラリと戦意を失った。

「殿下……それがしは」

「帰ろう、太史慈」

「しかし! 私はっ……!」

 分厚く、巨躯を誇る太史慈が赤子のように声を乱した。幼い劉協がそれを慰める姿はひと目に滑稽だったが、その何倍も神聖なものに見え、劉岱さえ何も言えなくなってしまった。

 陳留王・劉協。寝台に腰を下ろしたまま、少女は静かに劉岱に告げた。

「劉公山どの。太史慈はもう貴方の道具ではないのだ。この者はもう、二度と貴方の命令を聞きませぬ」

 人生で積み上げたものがガラガラと崩れ落ちていく……劉岱は折れた腕を抱えたまま、後退りし、そして幕舎を転がり出た。

 訝しげに駆け寄ってくる衛兵を押しのけ、劉岱は夜を進んだ。痛みが思考を、覚醒と曖昧の間を揺るがし続け、時にこれは何かの間違いなのではないかと錯覚させたが、やはり腕の鈍痛が正気を失うことを許さなかった。

「僕の負け、か……いや、まだ紗紅がいる。揚州で力をつければいいんだ。劉表に話をつけてもいい。とにかく兵力を確保すれば」

 一から全てを始めるのだ――その思考が劉岱によぎった時、初めて爽快さ、という感覚がこういうものかということを自覚した。人は何でも自分の決意一つで始めることが出来る。今からもう一度やろう、そしてきっと見返してやるのだ、と。

 そううそぶいた時である。闇夜で視界も不確かな中であるというのに、風切音が聞こえたかと思うと矢は真っ直ぐ劉岱の体に突き立った。

「あ」

 その一本目を手応え確かとでも言うように、二本、三本と矢は射こまれ、劉岱の体には五本の矢が突き立った。

「これは……え、あっ」

 呼吸が荒くなり、劉岱は膝をつき傷口に触れた。腹の肉を突き破った矢は背中まで貫通している。自らのはらわたが引き千切れている感覚が嘘のような鮮明さで感じ取れた。

「はっ、はっ、はっ……なんだこれ……嘘だ……」

 体内で行き場を失った出血が喉を駆け抜けた口から吹きでた。耐え難くなり前方に倒れ込むと、ベキベキと矢がへし折れさらに体に食い込んだ。痛みがはっきりし過ぎていて死ぬというのも中々難しいものなのだな、と劉岱は突拍子もない感想を抱いた。

「まだ息があるなんて、意外と生き汚いわね」

 聞き覚えのある声である。懸命に顔を上げてみれば、そこには猫の耳のような頭巾を立てた女がいた。曹操の参謀、荀彧である。

「秋蘭、これ、ちゃんと死ぬの?」

「まず助からんな」

「フン」

 荀彧はまるで汚物でも見るかのような蔑みの目で劉岱を見下ろしていた。

「曹操の、指図か……」

「何言ってるかわかんないわよ、気持ち悪いわね……まさか華琳さまのお名前を口にしたの? 身の程知りなさいよクズ。ゲス。ほんっと気持ち悪い。散々華琳さまを冒涜して何様のつもりだったのかしら、ああくたばってくれて本当にスッキリする」

「ぼ、僕を……」

「は?」

「なぜ……」

 フン、と荀彧はその顔に強烈な悪意の笑みを張り付かせて言った。 

「最後だから教えて上げる。貴方が変に生き延びて影響力持ったままだとこの先困るの。きっちり死んでもらわないと、華琳さまが兗州を奪い取る時困るでしょ? まぁ実際はどうとでもなるけど、状況は綺麗な方がいいし、何より貴方は華琳さまの名誉に泥を塗りすぎた、万死に値する塵屑。一度しか死ねないだなんて本当に運がいいわね。九千九百九十九回はおまけよ」

 劉岱はもう一度盛大に吐血した。全身に怖気にも似た寒さが走ったが、とにかく痛くて痛くて仕方がなく、涙が出た。その有り様を、下らない見世物を遠慮無く馬鹿にするよう見下ろす荀彧。

「貴方はここで死んで、私たちが兗州を制覇する捨て石になってもらうわ。光栄でしょ? 命惜しさに李岳に投降しようとした脱走兵が土産の代わりに殺した、ってことにしておくから心配せず死んで。その脱走兵だって結局たどり着けずに匈奴に殺されたことにすればいいものね」

「しゃ、紗紅、逃げろ……」

 

 ――じゃあ、さくっと首斬って適当に山に捨てましょ。野犬が片付けてくれるわよ。

 

 それが、劉岱が生涯最後に耳にした声であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――同刻。

 

 劉遙は袁術軍陣営に乗り込んでいた。一度揉めたことは揉めたが、それを奇貨としたかのように張勲が連携を図ろうとここしばらく接近してきていたのである。

 袁術軍の本拠地は荊州南陽であり、劉遙と同じく南方へ離脱する必要があった。劉遙の指揮下にある揚州軍は無理攻めが祟ってその数を既に一万程度まで擦り減らしていたが、それでもこの状況では貴重な戦力のはずだ。やぶさかではないだろうというのが劉岱と劉遙の読みであった。

 事情を説明して曰く。

「といわけなのさ、張勲。南方で再起を図りたい。袁術には十分見返りをくれてやるから、僕と瑠晴兄様を揚州に連れて帰れ」

「なるほどですね!」

 張勲はキョロキョロと周囲を見回し――恐らく他に伴がいないかどうかを確かめた――しつこいくらいの笑顔を浮かべた。

「お一人だけなのですか?」

「兄様は兗州、青州の軍団を取りまとめに行ってる。大軍で移動することになるから李岳の追撃にはもう持ち堪えられないだろうが、連合がどうなろうともう知ったこっちゃないし」

「なるほど〜。うんうん、大変素晴らしゅうございます」

 うんうん、ともう一度つぶやくと、張勲はキュッ、と手袋をはめ直した。パン、パン、と二度それぞれの拳を掌に軽く打ち付けたが、一体何の仕草なのか、劉遙にはとんと見当がつかなかった。

「揚州には一緒に向かってくれるんだろ? 褒美はやる、二郡もくれてやる」

「ええ、はい。それよりすみません、先に少しあちらをお向きになっていただけますでしょうか?」

「なんだよ、すぐに出るんだからな、お前……準備を急いでもらわなくっちゃさ」

「ああ、その位置……いいですね、さすが、よくわかってらっしゃる。その位置がすごくいいです……すごくいい」

 

 ――直後、劉遙は為す術なく絶息した。張勲の拳が、劉遙のみぞおちにめり込んでいた。

 

「げ、うぇ……!」

「んん〜、いい響きです」

 突き上げた張勲の右拳は、劉遙の肋骨までもへし折っていた。わずかに宙を浮くほどの衝撃は、劉遙から完全に呼吸と平衡感覚を奪っていた。膝を折り、ひざまずいた劉遙の顎を渾身の力で蹴りあげると、張勲はウフフフ、と笑顔を浮かべた。

 そのまま劉遙を引きずり上げ、平手を打ち前を向かせる。張勲は恍惚とした表情を隠しもしない。しかしその瞳には暗く熱い憤怒の炎が燃えたぎっていた。

「今のは美羽様の分です……それは美羽様の心の痛みと知りなさい……」

「お、お前、な、何の話を」

「以前、美羽さまに失礼を働いたでしょう」

 袁術に失礼……と思い至った所で、劉遙は首を振って声を荒げた。

「あ、あれは! つ、突き飛ばしただけ……」

「だけぇ?」

 左拳は今度は完全に劉遙の顔面を捉えた。カラカラと折れた歯が散らばる。吹き出した鼻血の飛沫が張勲の頬に飛び散る。

「てめえ舐めてんのか、美羽さまはとても心を痛めたっつってるだろうが――んん、失礼」

「い、いたい……!」

「痛いですか? ……よい心がけです。やりがいが湧いてきますわ」

 生まれて初めての痛みに、劉遙は息を荒げ、後ずさり、涙を浮かべて弁解を始めた。

「ぼ、僕は! 突き飛ばしただけだろう! こんな、こんな、僕は」

「そ、そんな? なに? なんです? どうぞ続きを。はい?」

 もしもし? と笑顔で張勲は手を耳にかざした。聞こえないという仕草だが、その手袋は劉遙の血で真っ赤に染まり、返り血もひどく鬼気もかくや。

「そんな……なんですって?」

「――ひどすぎる! な、なんでここまで」

 ホホホ! と張勲は笑い、答えもせずに劉遙の顔面を蹴り飛ばした。

「今まで散々人をだまくらかして世渡りしてきたのでしょう? この程度の痛みでそれを贖えるとは到底思えませんが。ま、私も人のこと言える立場じゃあありませんけど? 悪いことってするものじゃないですねぇ、でもするなら負けちゃダメですよねぇ」

 右、左、右、左。話しながらも張勲の拳は決して動きをやめなかった。

「二郡とかさっき言ってましたけど、全然ダメですね。もともと揚州は力ずくで奪うつもりだったのですよ……揚州侵攻計画と言いましてね、準備をしていたんですけど。まさかこんないい機会に恵まれるなんて、普段の行いのおかげですかねぇ? ……さて、続けましょうか」

 顔面を蹴飛ばし、さらに馬乗りになり拳を叩きつける。どれだけ殴っても、張勲はまだまだ足りないと拳を握り直す――これも、これも美羽様の分、これも美羽様の分、これも、これも! ――凄まじいまでの殴打が、雨あられとばかりに劉遙の体、顔面に叩きこまれた。

 

 ――怒りの絶叫と共に繰り出された張勲の拳は百を超えた。全身の骨をくまなくへし折られた劉遙の有り様は、もはや直視叶わぬ無残な姿へと成り果てていた。

 

 最後の一撃を叩き込んだ後、張勲は血まみれになった手袋を放り投げ――ゴトリ、と音がしたのは中に鉄板が入っていたため――そして上着から取り出した真っ白な手ぬぐいで自身への返り血を片付け、新しい手袋をキュッとはめ直してから言い残した。

「貴方は美羽さまを傷つけ、そして私を怒らせました。決して踏み込んではいけない領域に足を踏み入れたのです」

 もちろん、劉遙には聞こえていなかった。聞いていたのはただ一人である。

 その女がいることを張勲もわかっていたので、台詞もまたその女に向けたものであった。

「また派手にやったわね」

 声の方に振り向いた。そこには荀彧が呆れたような顔をして立っていた。

「あら、荀彧さん。どうも」

「殺してないの?」

 ブラリ、と身動きできない劉遙をぶら下げたまま張勲は答えた。

「ええ、まだ利用価値があるかなって。そちらは?」

「犬の餌」

 荀彧の答えに、さしもの張勲も背筋を震わせた。今は同盟関係があると言ってもこの女の智謀は侮れない――いや、曹操陣営の誰一人として侮りを許される者はいない、というのが張勲の直感だった。

「ま、それにしてもこれで約束通りというわけね」

「そですね。美羽さまへの無礼を粛清できましたし」

「華琳さまへの罪も罰で(あがな)わせた」

 荀彧と張勲……二人は共に二龍への不信と制裁の意志を募らせていた。明朝より撤退戦を演じるにしても連携を阻害する要因しかならないこの二人を排除することに異論はなかったのである。

 曹操は兗州、袁術は揚州。それぞれを制覇することを邪魔しないという最低限の口約束を元に、二龍それぞれが連携して動けぬ内に始末する。汚れ仕事も参謀の職務だ、と割り切れる二人の独断であった。

 じゃあ、と荀彧は背を向けて去っていった。張勲は信頼できる部下を呼び、劉遙の服を雑兵のものに改めさせた後に拘束を命じた。

 

 ――どちらか一人は生かしてよこせ、というもう一つの約束を守るために。

 

 荀彧が立ち去っていった陣幕の出口を見やりながら、張勲はペロリと舌を出した。




大体、連続投稿になる時は一話でおさまりつかなかった時。
二龍の最後は前回で放り込む予定だったのですが、きっちり話にしてあげようと思いました。弟まだ生きてるけど。
クソゲス野郎のクソ最悪な最後でしたけど、とりあえず女性に対して傲慢に振る舞うのはあかんということです。
憎まれ、死ね死ね言われてきた悪役がとうとう消えましたが(長かった)色んな人を結びつけて、物語を加速させる役割を担ってくれた二人でした。もうちょっと出番欲しかったか、すまん。
とにかくおつかれさま、と言ってあげたいです。休め。

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