真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第七十六話 貴様は負けることが出来るか

 李岳軍の攻撃は、誤解を恐れず言えば最初は緩慢であった。

 一定の距離をつかず離れず、撤退していく連合の後ろを付いていく。しかしそれは逃げ惑う羊の群れを、狼が虎視眈々と隙を伺っているのと全く同じであった。

 やがてその本性は、隘路にさしかかったところで剥き出しになる。

 飢え、牙を輝かせ、よだれを垂らして、首輪で繋がれているのにそれでも前に進もうと爪で土をかき続けていた獣――李岳は、彼の意を最も激しく体現する最精鋭の騎馬隊を解放したのである。先頭に張遼と李確、郭祀、そして呂布。

 前人未到の兵力差を覆し、防衛し、別働隊を討ち、そしてとうとう援軍を呼び込み逆転を果たした李岳。麾下軍勢、一兵卒に至るまで心で涙を流していた。私利私欲ではなく、この国を守るため、そして仲間の命を守るために全てを賭けた李岳という男、そのために戦える事があまりに誇らしかった。

「行け、霞!」

 李岳の叫びを聞き取ったかのように、張遼は連合の最右翼に喰らいついた。

 騎馬隊は移動する連合軍の最後尾を舐め回すように半周し、思い思いに突き殺した。外壁をなぞるようなものだったが、逃げることしか出来ない連合には為す術がない。荒れ狂う猛将の前では最早逃げながらの抵抗など蟷螂の斧にさえ劣った。

「今まで散々なぶりものにしてくれよって、覚悟せえ!」

 叫ぶと、張遼は最も連携が脆いと認めた箇所に突っ込んだ。狙い定めたのは徐州からやってきた陶謙軍であった。

 呂布が先頭を買って出た。振り回した戟がなけなしの防備を粉砕した。張遼がその隙間に侵入すると、果肉を薄く抉り取るように陣営を剥いだ。剥ぎ取られた敵兵は無残である。群れから外れた羊は、遅れてやってくる歩兵によって完全に蹂躙される運命であった。華雄の絶叫が轟く先で敵兵は四分五裂の憂き目に遭い続けた。

 

 ――やがて待ち続けた暴風が吹いた。

 

 北から襲い来る突風。濛々と土煙を舞い上げ、木立を破って逆落しをかけてきた荒野の覇者。全てをなぎ払い、かき消してしまう風は、砂塵の代わりに血風を巻き上げ、雨の代わりに矢を降らせた。風は意志を持ち、武器を携え(アギト)まで持っていた。

 唸りを上げて、轟きの雄叫びを上げて風は疾駆する。やがて足元の小石がカタカタと音を立て始め、人は皆それが地響きだと気づいた。大地さえ鳴動させる風。

 

 ――その風の名は匈奴。たった一人の同胞のためにやってきた、大嵐であった。

 

 雄叫びを上げて突っ込んできた匈奴兵五万は全兵が仇討ちの覚悟で臨んでおり、逆落しから遮二無二押し寄せた。土石流のような騎馬隊は悲鳴で迎えられ、断末魔の絶叫を残して全てを押し流していく。

 全く無傷な五万人の匈奴兵。躍り出た彼らの暴力を阻止する術はどこにも見当たらなかった。

 射られるままに射られ、斬られるままに斬られた。あるいは馬に蹴られ、逃げ惑う味方に突き飛ばされた。

 横っ腹を食い破られた徐州軍は簡単に統率を失った。踏み潰された、としか言いようのない無残さで連合本体とも連携を取れないまま潰走した。もはや指揮官や将軍を守るほどの統率さえなく、拍子抜けするような安易さで総大将である陶謙もまた側近と共に陣から剥ぎ取られた。

「私の名前は、徐公明です! お命頂戴……突貫します!」

 徐州を制覇した『陶』の牙門旗に、徐晃率いる長槍隊が突っ込んだ。駆け抜けた時には既に大将首が宙に舞っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『匈奴来ました! 既に乱戦です』

『陶謙軍壊滅! 総大将、陶謙討ち取りました!』

『張遼隊、引き続き追撃。匈奴兵驀進中』

『連合軍先頭十里先』

『日暮れまで一刻』

 

 ――李岳自身も追走しているものの、指揮統率に忙殺されて前線からは離れていた。

 

 同士討ちを厳に慎むこと、進撃経路の修正、敵連合軍の反攻への備え、そして今日の野営の場所も決めなくてはならず、同時に祀水関への輜重隊へ連絡すること、洛陽への早馬を手配することなど、周囲に何十人も付き従えながら指示を繰り返した。

 味方でさえ半信半疑であった匈奴の加勢は、ものの見事に連合軍の最後尾を粉砕した。耐えに耐えた防衛戦の鬱憤を晴らすように騎馬隊は突き進み続けている。深追いに注意せよと伝令は飛ばしているが、連合にまとまった動きは見えない、少なくとも今日のうちは何も出来ないだろう。

 徐州軍を壊滅させた。ここで死ぬはずがなかった陶謙も殺した。これでまた歴史がひとつ変わったわけだが、これに留めるつもりはなかった。報告によれば今、張遼は袁紹軍に喰らいついているという。顔良、文醜、さらには劉備軍が相当に奮闘して手強いという話だが、雲霞の如く突き進む匈奴兵はさらにその先、青州軍に飛びかかったという報告も来た。あれほど精強な軍勢だったが、匈奴兵の突撃に青州軍戦線は一度為す術もなく瓦解しかけたという。ただやはり侮れないもので、すぐさま立て直し痛烈な反撃に望んだとのこと。曹操が飛び込み急場で指揮を執ったという未確認情報も飛び込んできた。

 概ね李岳の想定通り戦況は推移していた。永家の者たちはいま懸命に劉協の居場所を確認中だが、およそ当たりは付けている。あとは袁術と太史慈が指示通り動くかどうかだったが、もうそこは疑わないと信じてぶち込んだ賭けだ、迷うことはやめた。

「匈奴兵より一団が離脱、こちらへ向かってきます」

 追撃を敢行する匈奴の先頭部隊が一旦引き返し、合流を目論んでいるという。懐かしい顔はすぐに現れた。先頭の男を、李岳は腕を上げて迎え入れた。

「へぇい、随分立派になっちまってまぁ!」

 先頭の男の軽口に、ふ、と李岳は笑った。

「そっちも口が減らないようだね」

「何をぅ?」

「顔見せなよ」

 男は鼻まで覆っていた外套をずり下げると、あの懐かしい、いたずら小僧の時のままに笑った。

 香留靼(カルタン)

 二人は近付き、馬を並行させ馬上のまま握手をした。両手を交互に重ねあわせ、最上級の親愛の情を示したのだが、香留靼が先に気持ちに押し流されてしまった。

「岳! お前っ!」

 むせび泣く香留靼の涙が馬の背を濡らした。

「お前、李岳! お前、わかってるのか……お前わかってんのかよ!」

「香留靼」

「お前、何もわかってないんだよ!」

 こんなにみっともなく泣くはずじゃなかったと、香留靼は首を振りながらも言葉を続けた。

「遅いんだ、何もかもがだ! いつもだ! なぜ、もっと早くに……俺はお前のためならいつだって駆けつけたんだぞ!」

 香留靼の声に、追撃中だというのに李岳の周囲はやがて人だかりとなっていった。皆おしなべて李岳と香留靼の二人に温かい眼差しを送っていた。漢人も匈奴もなかった。

 ひと目も(はばか)らず泣き続けた香留靼がようやく離れた時、群衆から一人の偉丈夫が現れた。忘れもしない、卒羅宇(ソラウ)である。

「岳……いや、李信達どの、と呼んだ方がよいか」

「お気遣いなどいりませんよ、叔父上」

「大きくなったな、背丈はさして変わらんが」

「泣き虫は治りました、こいつと違って」

 うるさいよ! と照れて背を向けた香留靼を皆が笑う。李岳と卒羅宇もまた、固く握手をして抱きしめ合った。

「元気そうで何よりだ。喜ばしい」

「叔父上も、お元気で何よりです」

「まるで夢よな」

 卒羅宇が遠い目をして言った。

「お前は俺の夢になったのだ。いや、あの雁門関の戦いの後、匈奴の戦士全ての夢になったと言っていい」

 二龍の策謀により、右賢王於夫羅を先頭に漢への侵攻を企てた匈奴兵二十万。その野望を打ち砕いたのが李岳である。数万にも上る戦士を切り捨てた李岳を、匈奴は夢だという。

「叔父上、私は」

「誇らしい。貴様らもそうだろう!」

 卒羅宇の声に、匈奴が絶叫で答えた。大地が轟く声であった。

「巨躯の黒馬に跨った小男が、二十万にもなる匈奴の大軍を向こうに回して先頭に立ち、ぐうの音も出ない程に打ち負かして総大将を自ら討ち取った! 貴様はもう匈奴の伝説なのだ。そして誇りでもある。だから誰もが夢見たのだ、貴様が先頭で縦横無尽に匈奴の騎馬隊を率いるその勇姿を、匈奴の戦士は誰もが夢見た。我々が追い出し、だというのに我々を破り、我々を救った小坊主の夢をな」

 見れば、卒羅宇の背後に馬首を並べる匈奴の戦士たちは、皆キラキラした瞳で李岳を見ていた。頬が濡れている者も少なくない。その瞳には確かに憧れと、畏怖と、親愛があるように思えた。

「いま、仮初めであれ夢が叶った! 岳よ、貴様、感謝してもし足りぬ」

 あれだけ殺したのに、あれだけ騙したのに――体中に眠っていた匈奴の血が暴れたような気がした。同胞の尊敬と愛が、あの時から李岳を苛み続けていた孤独から救った。もう彼は罪と罰から解き放たれ、決して一人ではないのであった。

「貴様の父も健勝だ」

 う、と李岳は声につまった。思い出すまいとしていたあの面影が一瞬にして浮かんでしまったからだった。

「報元から伝言を預かっている――よく教えを守っているようだ、心配はしていない、と」

 

 ――あの夜、父・李弁から授けられた言葉が李岳の支えだった。片時も忘れなかった。しかしこの手は血にまみれ、人を死に追いやりあるいは悪鬼羅刹の道を歩いているのかもしれないと思うこともしばしばだった。

 

 しかし父は子の生き様をしっかりと見ており、そして何も道を違えてはいないと背中を押してくれている。母のことも知っているに違いなく、されど我が子を気高いと!

「……危ない、もう。泣かされるところでしたよ」

「フン! それは敵を血祭りに上げたあとの楽しみにしておこうか、馬乳酒はしこたま持ってきたから心配するな……さあ将軍、指示を下せ。と言っても、もうとっくに戦場の狂気を堪能しているがな。しかしそれでも命じよ、これは貴様の戦だからだ! この場に揃った匈奴の騎馬隊、皆、貴様を友と呼び兄弟と思い、そして恩人であり、そして血を分けた同胞と思うている! ただの一人も躊躇うことなく、皆が貴様の手足のように動き喜んで戦い、生き、死ぬだろう! いざ号令を下すのだ、李信達!」

 頷き、天狼剣を抜いた。

 李岳が夢見た、漢と匈奴が融和――諦めたはずの光景が、極限の状態の中で李岳の目の前に広がっていた。

「打ち砕け、完膚なきまでに――!」

 呼応は地鳴りとなって天を突いた。李岳が命じた、総大将が行けという――その声は人を伝って伝播し、とうとう最前線の張遼にまで届いたという。

 作戦の目的も、段階も、戦況も、全てが李岳の欲望を肯定していた。兵も願っていた。お膳立ては整っていた。誰も李岳を止めることはないだろう、その背中を押すだけだろう。

 李岳は命令した、徹底的な殲滅を。情け容赦のない蹂躙を。誰も李岳を止めることは出来なかった。

 追撃は日没まで徹底して行われた。半日の間に、降伏した兵と死者は合わせて四万を超えた。完全無欠な勝利。李岳は漢の軍神として謳われることになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 日暮れに李岳は追撃を切り上げさせたようだ。

 休憩や睡眠もなしに攻撃など出来ない、無理な追撃がたたって大敗した例も歴史には無数にある。だがまだ余裕のあるうちの追撃終了のように思えたが、曹操にはこれで終わりとは到底思えなかった。明日以降も徹底的に追い込まれるだろう。兵糧、その他物資が祀水関から運び込まれているという斥候の情報もある。

 ただ、休憩も睡眠もなく逃げることができないのもまた同じであった。連合もまた野営をしなくてはならなかった。

 李岳軍の攻撃は猛烈だったが、決して無理のないものだった。狼は手負いの獲物を追う時、決して一か八かで飛びかかったりはしないという。獲物がゆっくりと衰弱していくのを焦らず待つ――その話を曹操は思い出した。李岳は未だ十万あまりの軍勢を前にして、もはや獲物としか見ていない。

 武徳県まで辿り着きたかったが、匈奴兵のあまりの猛烈さに完全に足止めされた。徐州軍は完全に壊滅。陶謙は討ち取られ、袁紹軍、青州軍、その他諸侯の軍勢にも甚大な被害が出た。曹操軍の被害はかなり軽微と言えたが、張貘軍がその分割を食った形で半数にまで討ち減らされている。

 野営の準備にとりかかったが、陣内に覇気は欠片も見当たらなかった。軍議の招集が呼びかけられたが果たしてまとまりを得ることが出来るか不透明極まった。撤退するにも未だ十万近くにもなる人間がいるのだ。それが一斉に動き出せば大混乱に陥る。

 今この時点で散開して各個に撤退すべきか、あるいは地点を定めて連携しながら後退し、そこから散るべきか――前者は速にして拙であり、後者は巧なれど遅である。

 理知有る者には迷いなど一毛たりともなかった。当然取るべきは集団での撤退である。が、連合には既に恐怖が伝播しており、一刻も早く自らの領地に帰りたいという怯懦が場を支配していた。一斉に散り散りになれば自分だけは助かる、という安易な保身が連合軍に最低限必要ななけなしの連携を、粉微塵に壊してしまっていたのである。

 それに逃走する方角もてんで揃ってはいない、南は揚州から北は幽州までの人間が集まっているのだ。その中で誰が殿軍を務めるというのか? あの并州兵、匈奴兵の騎馬隊を相手に。

 各陣営の参謀が声を揃えて連携を訴えたために、今のところまだ抜け駆けで離脱を図る者は出ていないが時間の問題にしか思えない。

 攻める武器として揃えた大軍が、今や自らの身を庇護する守りの道具に成り下がっていた。身を寄せ合い震えるだけの羊。それがこの反董卓連合軍のありのままの姿だった。しかもまだ李岳は余力を残している。

 匈奴兵の別働隊である、曹操が指揮をするならば、叩きつけるなら兗州の境を越えたところだろう。

 皆、それがわかっているが故に口に出せないのだ。恐怖が限界に近づくにつれ、まるで雨が河川を溢れさせるように各陣営は離脱への願望を高めるだろう。決壊の時は近い、もう既にその読み合いが連合内部では始まっている。

「華琳さま、これより軍議を持つとのことです」

 夏侯淵が報告に現れたが、生返事だけを返して曹操はしばらく立てなかった。

 二度目の催促を待って、曹操はようやく腰を上げた。自分が羊か狼か――幕舎を出る頃には答えを決めてしまっていた。

 着替えをどうかという荀彧や夏侯淵を押しのけて――夏侯惇がなぜだか満面の笑みである――曹操は泥と血に塗れた軍装のまま陣幕に入った。皆の視線が一挙に曹操に注がれた。半ば死んだ目である。敗残の目であった。

「このままでは全滅する」

 率直すぎる意見に、たまらず立ち上がったのは袁紹だった。

「全滅ですって! 華琳さん、滅多なことは言いっこなしでお願いしますわ!」

 袁紹の必死な声ももはや虚しい、戦意を失っていないだけまだ諸将の中ではましだといえる。

「全滅する。何の策もなく撤退を続ければそうなる。李岳軍は匈奴を編入したでしょう。明日の追撃はさらに連携の取れた苛烈なものになる。さらに匈奴の別働隊が迂回路を進んでいるのだから、おそらく兗州の手前で捕捉されるわね。あの威力の騎馬隊に挟撃されるのよ」

 明確な死が形となり始めた。

 議場には再び言いようのない沈黙が重くのしかかったが、いきなり何を言っている、と呆れている者もいた。まだ死や敗北を現実として受け入れられていない者である。血統さえ持ち得ず生まれてきた路傍の石が、なぜ突如として命を惜しむのか――とでも言いそうな態度でふてぶてしく座る、劉岱と劉遙の兄弟であった。

「ま、終わりだな」

 皆が劉岱の方を見た。青い頭巾を翻し、弟である劉遙の手を取って劉岱は肩をすくめて言う。

「反董卓連合の負け。戦は終わり。連合軍はここで解散。あーあ、お前らがさっさと祀水関を落とさないからだぞ? しかしま、十分楽しめたってところか……これが負けの味か。気分が悪いにも程がある。なあ紗紅」

「最悪すぎるね」

 劉岱、劉遙の振る舞いに、居合わせた諸将が皆かける言葉が見当たらず、あんぐりと口を開いたままの者さえいた。

「明日は今日みたいな見苦しい撤退はしないからな、曹操」

「……どうするおつもりか」

「どうする? どうするもこうするもあるか。曹操、僕らは帰るぞ。城まで届けろ。委細任せる、何とかしろ」

 劉岱の言葉を劉遙が継いだ。

「陳留王を確保し、連れて帰るって言ってんの。太史慈にくくりつければなんとかなるだろう。袁術! 僕も揚州に帰るからそこんとこよろしく」

「曹操、兗州兵も返してもらう。青州兵の指揮は誰だ? あれも元は僕のだからな」

 耐えかねたように立ち上がり言ったのは張勲であった。笑顔を貼り付けてはいるものの、こめかみにははっきりと青筋が立っていた。

「お待ちくださいませ? 李岳軍から来た書には劉岱、劉遙のお二人の匈奴誘引の計略が述べられてましたけども、その説明もいただけないのでしょうか〜?」

「敵の調略にまんまと乗ってどうする。あんなもの李岳の浅はかな策に決まってるだろう? それにもし僕が匈奴を誘引したというのなら、明確な証拠を持って後日訴えればいい。こんな言い争いをしている内に死んでしまっては李岳の思う壺だ。それこそが奴の手さ」

「李岳の狙いは陳留王なんだから、それを守るのは当然だろう?」

「全員で撤退する。とにかく兗州に入るまでは固まって動いた方がいい。異論がある者はすぐさま離脱して逃げ帰ればいいが、そうなれば敵の騎馬隊に囲まれて終わりだろうからあまりおすすめはしない。しかし最優先は陳留王の身柄だ。そしてその預かり先は僕。道理としてはそうなるね」

 

 ――これが劉の血だ、と曹操は思った。やはり漢の血は数百年かけて腐ったのだ。

 

 喧騒を尻目に、曹操は荀彧に囁いた。

「桂花」

「はっ」

「これからどうなる?」

 荀彧の答えは明瞭だった。

「……このまま結束を失えば各個撃破されます。匈奴の軍勢は二手に分かれていますが、まず先手が撤退を始めた連合の横っ腹を突いてきました。李岳軍は今夜にも再編を行い、匈奴を取り込んで明日はさらに組織的な追撃を行ってくるでしょう。さらに退路を断っている匈奴の後手が機を見て止めを刺しにくる、というところでしょうか」

「ならば、答えは一つね」

 ふぅ、と曹操は大きく息を吐いた。負けた。それを認めることはやぶさかではなかった。だからなおさら、自分が大事にしているものがはっきりと見えた。

 曹操はその場から立ち上がると真っ直ぐ議場を突っ切って正面に立った。

「私は反撃に出る」

 劉岱の呆れたような溜め息が続いた。

「お前、話聞いてたのか? 撤退するって言ってるんだ。お前がやるべきは僕達を守るために活路を開くことだろう。出過ぎた真似をするな」

「出過ぎた真似をしているのは貴様だ、劉岱」

 今度こそ場が静まり返った。陳留郡太守にしか過ぎない曹操が、宗室であり、(エン)州刺史である劉岱を睨めつけながら呼び捨てにした。さらに弟である劉遙にも目を向け、曹操は続けた。

「体も張らず、口先だけで人を思うがままに操れると思うような貴方たちが、本当の土壇場で人を動かせると思っていたの? 劉公山、劉正礼。もう貴様ら二人には誰も従わないでしょう」

「おい、その汚い口を閉じろ、宦官が」

「私は宦官ではない」

「宦官の家系は皆同じだ! 自ら辱めを賜るような愚者の血が、高貴なこの劉にどういう理屈で楯突く!」

 今この時、曹操は自らが目指す国のあり方がはっきりとわかった。目の前で喚き立てる小男が正しく、血と泥に塗れ戦う者が間違っている今のこの漢など、やはり破棄すべきなのだ。完全に打破し、刷新されなくてはならない。そうでなければ死んでいった勇者たちが誰一人報われない。

「なぜ楯突くですって? 私が正しく、貴方が間違っているからよ。物事の正誤に血など関係がない。戦場では血統よりも才と力ある者が正しい。戦場だけではなく、人生の多くの場面でさえもそう」

「ふざけているのか、貴様? 血など関係ない? 宦官の家柄では毎朝そういう風に唱えて自尊心を慰めるのか? この世は血と家柄で全てが決まるんだ! その当然の道理を貴様は」

「ならなぜ貴方は負けたというの?」

「負けたのは貴様らで、僕ではない! お前たちがとっとと祀水関を落とさなかったからこうなったんだ、無能が!」

 この人は負けることも出来ないのね、と曹操は内心哀れんだ。

「貴方は何もしなかった」

「貴様は陽人で無様に負けたろうが」

「負けた。そして今も負けようとしている。劉岱、お前は負けることさえ出来ないのよ」

 とうとう立ち上がった劉公山。その小さな体に驚くほどの力を滲ませて、曹操の首を掴むと激しく投げ飛ばした。駆け寄ってこようとする荀彧を曹操は手で制した。劉岱の絶叫が響く。

「僕は帝王だ! 天より授かりしこの血と肉の前で、貴様ら下郎が正面に立つのは蛮勇よ! ひれ伏せ! 媚びよ! 天の情けに許しを乞い、全てを捧げてのちに心臓を自らえぐり出せ!」

 曹操は立ち上がると、叫んだ劉岱の目を見据えた。途端に見た目だけ少年であるこの男の目に、権威と血統と虚勢の奥に、初めて怯えの光が走ったのを曹操は見た。

「何だその目は! 天に歯向かう覚悟が貴様にあるのか! 下劣な生まれの、羽虫にも劣る宦官の子が! 東嶽大帝の化身、泰山府君の権現たるこの劉公山の前で!」

「ある」

 その宣言をすることに曹操はもういささかの迷いもなかった。金色の髪も誇らしく、小さな体を真っ直ぐ伸ばして曹操は言った。

「姓は曹、名は操。字は孟徳……宦官の子!」

 宦官の家系であることを蔑まれ、侮辱され続けてきた曹操が、いま宗室の血統を圧倒していた。宦官の家系であることを恥じる必要などない。自分の生まれを蔑む必要などない。どう生まれたかではなく、どう生き、どう死ぬかが問題なのだ。

「私は父母を、祖父母を、私にまつわる全てを受け止める。この体とこの心に宿った才が、私の全てを肯定する! 誇りとは血に宿るのではない、魂魄にこそ宿るのだ! 私の生まれを見下したければ見下しなさい、宗室の端くれ如きが威張るな。己では何一つ選び取り勝ち得ることの出来なかった弱者の最後の拠り所が出自による差別? 滑稽ね!」

「下衆が何を歌う!」

「天があり、地があり、その間にあるのが人よ! 天なき地はないといえど、同じく地なき天はない! 驕った空はかき曇るのよ、地を照らせぬ天に何の意味がある!」

 たじろぎ、後退りした劉岱から見限るように視線を切ると、曹操は参集した諸侯に言い放った。

「曹孟徳は卑劣な逃走ではなく、王者としての敗北を選ぶ――輝かしい死の道を往く! この中に同じ道を往く者はいるか!」

 即座に声が上がった。黒髪も美しい銀色甲冑の乙女であった。手を組み合わせ、曹操の前で膝を着いた。張貘であった。視線が熱く絡み合った。

「東平寿張の張孟卓。この髪の一本までも曹孟徳様に捧げまする」

「私と共に死ねるか、京香」

「この上ない喜び」

 声は次々に上がった。皆曹操の声に酔ったかのようであった。ただ宗室を逃がすために捨て石になるのではなく、全身全霊で負けるために戦う。武に生きる者たちの心を熱くするのにこれほどの言葉はなかった。

 袁紹までもが立ち上がり、興奮に頬を真っ赤にしてから叫んでいた。

「貴女に従うつもりなど毛頭ありませんわ、華琳さん! それに貴方が何と言おうと私は四世三公の汝南袁氏の大統領! もちろん才能だって負けませんわ、使い捨てられるのもまっぴら御免ですの!」

「好きにしなさい、麗羽」

 もう無残な敗北を半ば受け入れていた列席した諸侯たち。だがその気勢は曹操の檄に呼応し再び熱く滾り始めた。堂々たる負け戦として負ける。ただ狩られるだけの羊ではなく、武に生きるものとして戦うのだと。

 各陣営の参謀が飛び出すように地図を広げ、翌日の撤退戦の軍議を交わし始めた頃、すでにそこに二龍の姿はなかった。




アラホラサッサー。
次回は二龍、最後の見せ場。

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