真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第七十五話 亜号作戦

 田疇は朝に弱い。

 寝起きが非常に悪いのだ。陽光を直視すると頭痛を覚えることもある。清々しい朝、さわやかな朝など田疇には無縁であった。だから用がなければ昼前まで寝ているのが休みの日の過ごし方だったが、この数年心やすまる日は一度もない。

 身なりを整え幕舎を出ると、張梁がやってきた。

「おはよう。いい朝ね」

 声音は低い。言葉とは裏腹に張梁の顔に笑顔はなく、ああこの娘も朝が苦手なのだな、と田疇は気づいてわずかにおもしろがった。

「なに」

「いえ、失礼しました」

「そう」

 幽州を中心に、極秘裏に勢力を拡大させている黄巾の民。その頂点に君臨する張三姉妹の末妹にあたるのがこの張梁である。

 

 ――黄巾の民は、河北で貧民として扱われ、世に救いを求めて寄り集まった人々の集合である。

 

 野盗、匪賊になる者も少なくなかったが、大半は絶望を何とか糊塗しようと、欠片の願いを胸に集まった人々である。田疇は自らの思想と、張角、張宝、張梁三姉妹の歌声と慈愛を元に黄巾の者達の統制を取り、そして組織化を成した。無秩序に集まった人々数十万を三十六の『方』に分割し、それぞれ指揮統率を担う者を選定し、生活させ、訓練させ、そして思想教養を充実させたのである。

 目の前の少女がその頂点の一角を占めている『人公将軍』であるということは、この陣内では田疇しか知らない。

「青州黄巾軍、相当な充実ですね」

 田疇の囁きに張梁は眼鏡の位置を直しながら答えた。

「……そんなに強いの?」

「相当な打撃になっています。李岳どのもかなり苦慮してるでしょう」

「黄巾とは名ばかりで、劉岱の指揮下じゃない」

「劉虞様のご意向もありまして」

 青州の黄巾軍を呼び寄せることは劉虞と劉岱の決断であった。要塞を包囲し既に季節が変わろうとしているこの時期に、増援があるということは李岳に絶望を叩きつけるには十分な効果があると二人は考えた。

 それ自体を田疇は否定しない。

 黄巾軍の増援をきっかけにして政治的な蠢きが活発化している。勝利が見えてきたという余裕からなるものだろう。眼前の要塞を突破すれば次は洛陽の攻略である。そうなれば劉弁を廃し、劉協を即位させるということになるが、その際の権力闘争が既に内部では始まりつつあった。

 子飼いの兵たちを失った曹操を劉岱が囲い込みにかかっている。劉岱の権限で呼び寄せた青州黄巾軍の指揮の一部を曹操に任せてもいるようで、曹操自身懸命に働いているようだった。劉遙は袁術と一時軋轢を抱えていたが、孫策亡き後の実働部隊を取り込みたいようで、関係改善に前向きになっているようだった。

 田疇自身は袁紹と劉備、そして劉虞と袁紹の連携を取れるよう政治工作に勤しんでいた。

 劉備には見どころがある、というのが田疇の判断だった。

 というより半ば魅了されていた。劉虞ほどの質量で圧倒されるような人徳というよりは、柔らかく包み込むような魅力があった。その麾下の将軍も粒ぞろいである。特に諸葛亮、鳳統という人物は目を見張るほどの知謀の持ち主で――司馬徽門下の臥龍と鳳雛であると知った時は唖然とした――未だ腹の探り合いという段階だが、感触は悪くないようだった。需要と供給の関係で考えれば齟齬は少ないのだ。

「これだけ有利に見えるのに……」

「ん?」

「この攻略戦は失敗する、と?」

 一層声を潜めて張梁は言う。田疇はええ、と青い顔で頷いた。数ヶ月滞陣することなど経験がなかったので全身にありえないほど疲労が溜まっていた。

「……そろそろ離脱の用意をした方がいいでしょう」

「けど、おかしいでしょう? 問題になる」

「問題、といいますと?」

「それは……無駄な出兵であったということであるし、李岳の影響力も……大きくなるわよね?」

 田疇はふぅ、と溜息を吐いて砦の方を見た。李岳の影響力。それは確かに補い難い苦慮となるかもしれない。軍権において絶対的な信頼を得たあの青年は、精兵を揃え天下の混乱を鎮めようとするだろう。

「ま、喜ばしいことではないです。ですが何事も得失というものがあります。こちらも得るものは多いのですよ」

「本当に?」

「ええ、用意はしてます」

「得失のことじゃない」

 ん? と張梁は田疇の言葉を再び問い質した。

「喜ばしくない、って本当? 貴方、李岳が栄達することを喜んでいる風に話すけど」

「あの人、嫌いになれないんですよね」

 困ったものです、と田疇は頭をかいた。さてもさても、中々手痛い指摘だなと思ったところで、一人の男がするりとやってきた。彼は黄耳と呼ばれる諜報の男である。祀水関開門、と小さく囁いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 雨上がりの晴天の朝。靄の向こうに整列した軍勢が居並んでいた。

 祀水関開門。李岳軍全軍約四万。魚鱗と鶴翼を組み合わせた堂々たる陣形を組んでいた。

 あれほどこじ開けたかった祀水関の門が嘘のように全開し、そこに現れたのはどうにか叩こうとしていた李岳軍――巨大な、鉄壁とも思えた要塞から現れた宿敵を前にして、連合の動きは遅々とした。

「また罠か?」

 袁紹軍の参謀である田豊が会議を主導していたが、歯切れは悪かった。正面決戦を仕掛けてくるのなら伏兵だろう。しかし防衛側に兵の余力があればとっくに投入しているはずなのだ。

「罠がなんだ、踏み潰せばいいじゃないか!」

「李岳には、最悪、あの関所を放棄して虎牢関に逃げ込むという手がある。それを選ばないのはなぜか? 策があるからと考えるのが普通だろう」

 張超はじめ、血気盛んな武将が声を荒らげ始めるが、曹操も劉備も張勲も押し黙ったままである。

「洛陽で反乱があったようだが、それも難なく鎮圧している。後方が原因ではないだろう」

「なら、勝ちに来たとでも?」

「それこそ、馬鹿な」

 各将が思い思いに意見を述べるが的中とはどれも言いがたい。

 それにしても――曹操はその美しい金の髪を弄びながら他人事のように思った。この期に及んでもまだ主導権は李岳が握っているという、そのことが曹操は笑い出したくなるほどおかしかった。いつものように何も考えずに要塞攻略を指示することは出来るが、一つ変化を入れられるとここまで立ちすくむ。右から左、全て李岳の思うがままなのだろう。

 陽人の戦いを経て後、連合内部では政治的力学の変化があった。

 公孫賛が離脱したために宙に浮いた形であった劉備軍は、袁紹が半ば取り込む形になっている。

 袁術軍は孫策軍残党を南陽へと送還したため戦力としては純減しており、一時期険悪になりかけた劉遙との関係改善に前向きのように振舞っている。

 そして曹操もまた、己の影響力の低下と、それに伴う劉岱の圧力に抗すことにかなりの力を割かねばならなかった。

 離脱、撤退、戦死に負傷……総じて散々なものである。当初二十万を号した連合軍は見るも無残に半数までうち減らされたが、しかし青州黄巾軍五万の増員により攻城戦では李岳を圧倒し始めていた。つまり李岳の出陣は陥落の兆しがようやく見え始めた、という機でのことなのである。

「とにかく、当たってみなくては始まらないのではありますまいか」

 声を発したのは劉備の方であったが、彼女ではない。隣に並ぶ長く美しい黒髪を誇る関雲長であった。戦場での活躍は未だ十分とはいえないが、その堂々たる立ち姿はただいるだけで陣内で噂になり『美髪公』という異名さえ付く始末である。

「関雲長どの、それはあまりに無策に過ぎるのではないか」

 田豊の反論はわずかに形式的過ぎており、既に飲まれているように見えた。

「では、見逃すと」

「そう言っているのではない。初戦を忘れたのか? 奴の術中に引きずり込まれればどのような策略に陥るかわかったものではない。もう少し検討を重ねてみても遅くはないだろう」

「いつまで重ねられるのだ」

「そう、申すな」

 小言を嫌がるように田豊は手を振ったが、その時伝令が大きな声で李岳軍が前進してくることを告げた。正面からの決戦を挑んできている、という。

 ざわめきを封殺するように張貘が立ち上がり、流麗な声で宣言した。

「先鋒は我らがつとめますわ。初戦の醜態を今こそ雪がねばなりません」

「伏兵がありえるわね」

 立ち上がり、曹操は言った。

「八方に偵察隊を組織しましょう。李岳は自らを囮にしたのち、騎馬隊による機動力をもって本陣を急襲する戦法を好む。陳留王殿下の周囲の防備もさらに固めましょう。頼めるわね麗羽?」

「い、いわれるまでもありませんわ!」

「張貘軍だけでは心もとない。我が曹操軍と袁術軍が側面支援、袁紹軍が本陣を固め、青州軍が予備戦力として控える、というのはどうかしら。そのまま決戦となった時の打撃戦力は置いておかねばならないし」

 反論がないのを確かめると、曹操はそれじゃ、と席を立った。外では既に夏侯惇が馬を引いて待っていた。夏侯淵以下、李典、楽進、于禁は兵の掌握にもう駈けずり回っているだろう。典韋、許緒、そして荀彧(ジュンイク)がすかさず周囲を固めている。

「張貘軍が李岳軍に当たっている。頃合いを見て側面支援に出る」

「華琳さまー! 李岳軍は自棄(やけ)のやんぱちになっちゃったんですか?」

「それはない」

 許緒の無邪気極まる感想は、会議に参集した諸将と同じく半ば願望を伴ってもいるだろう。李岳が捨て身の決戦に臨んだということは、こちらが押し切ったということになるのだから。

 しかし、そうでなかった場合李岳には勝算があるということになる。それを考えたくないという防衛反応が、李岳の戦略が尽きたという希望的観測を抱かせている。負け犬の考え方だ。

「桂花」

「四方に斥候を飛ばしました。門から軍を出すということは伏兵がないということを印象づけるための偽装かも知れません。注意を自らに仕向け、機動力のある伏兵で側面を突くということは李岳の常套手段です」

 さすがに荀彧(ジュンイク)はわかっていた。しかし曹操の見立てでは、急襲を可能にするほどの伏兵が付近に隠れているという気配はなかった。

 整列した兵たちを連れて前方を目指した。劉岱が連れてきた兗州兵たちの組織化は相当に済んでいる。滞陣中、規律に厳しく当たり訓練も強いた、処罰も相応に出たがその度に軍の質は上がっていった。従来の曹操軍に比してまだ遜色あるとしても、他軍の練度に決して引けは取らない。

「春蘭、歩兵は任せた。季衣! 付いてきなさい」

 愛馬を駆り、曹操は自軍の混乱を縫うようにして張貘軍本陣に向かった。長い黒髪を白銀の鎧に流して、懸命に指揮を執る指揮官・張貘の姿があった。

「華琳!」

「敵は赫昭?」

「苦手だわ、あの人」

 張貘が苦々しく額の汗を拭った。赫昭は李岳軍の中でも守将として名を馳せ、今回の攻防戦でも最も連合軍を苦しめた女である。冷静沈着な指示と果敢さを持ち合わせた将である、無論攻め手としての才覚が劣るなどと曹操は微塵も思っていない。

「じわりと寄せてくるのよ。隙がないし、無理に押せば騎馬隊が出てきて側面を突かれかねない」

「二軍にわける」

 小首をかしげた張貘に曹操は続けた。

「曹、張の二軍を真横に並べる。方陣を二つで良いわ」

「中央が弱まるわよ」

「突破される心配はない。真ん中を無理に押してくれば挟撃する。突破されたところで後ろには本体もいる。そのまま殲滅できる」

「なるほど……」

「私が右、貴女が左。合図はないわ、適当に合わせなさい」

 言い切ると曹操は馬蹄を返し自軍に戻った。皆まで言わずとも張貘なら曹操が言わんとする所を理解するだろう。陣に戻った頃には張貘軍はじわじわとまとまり左翼をなし始めた。曹軍は荀彧(ジュンイク)が赫昭の側面を突く構えを見せるよう指示していた。

「どこから来る?」

 曹操は誰にともなく聞いた。青い『李』の旗は前方で悠然とたなびいている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「敵の先鋒は張貘か」

 連合軍は毎日順繰りに寄せ手を変えながら要塞を攻撃してきた。今日は張貘軍の順番だったというわけだが、今日は攻城戦になることはない。そのまま先鋒を務めることになったようだが、期待したほどの動揺は見受けられなかった。

「思った以上に動きが早いな」

「寄せ手としても手強い奴らでした」

 廖化が言う。岳の目にも、少数だがまとまりがあり、無理攻めもしない良い軍勢に映っていた。

「無茶は禁物だ、と沙羅に伝令を」

「承知」

 赫昭が手勢を率いて前進し始めた。約一万。徐晃と楊奉を付けている、土壇場でも冷静さを失わない二人だ。

 張遼が四千の騎馬隊を二つに分けて赫昭隊の後ろに付いており、李確と郭祀が副将として従っていた。西方の生まれだけあって、この二人も騎馬隊の運用に適正を見せていた。

 遠目から見れば一進一退であるが、連合全体で見れば慌てふためいていると言っても良かった。さあ今日もいつものように……と思っていた所で急に敵は全軍出撃し、野戦となっているのだ。無理からぬ。しかし李岳の想定も全てが的中するわけではなかった。

 大所帯であり指揮系統もバラバラの軍勢ではまず初撃は受け身になるほかない。意図が読めないのも不安だろう。一度は痛烈に押し込めるだろう、と思っていたのだが――張貘の動きは悪くなく、曹操軍がすぐに前線に出張ってきたのも相まって戦況はすぐに膠着した。

「やるなあ」

「あれ、殺したいですね」

 軽口のように言うが、廖化の勘も曹操という人物を相当に警戒を示しているということだ。

「大将、もう少し突っ込んでみても良いのでは。こっちの余裕が勘ぐられかねないでしょう」

「そうかな。じゃあやっちゃおうか」

 銅鑼を鳴らさせた。歩兵の背後に控えていた張遼率いる騎馬隊が赫昭を追い抜き、速度を上げて肉薄した。そこから雨のような騎射を注ぎ、赫昭隊の突撃を支援する。

 激突はここから見ていても相当な迫力であった。無理をするな、といい含めたというのに赫昭の気合は天を突くばかりだった。守戦に長けていると言っても、日に多くの部下が倒れていくのを見守り数ヶ月。溜まりに溜まった鬱憤を発散させているのだろう――後退の銅鑼を李岳はもう少し我慢することにした。

 興奮の波に感化された黒狐が、待ちあぐんだように首を上げ下げしたが、李岳はたてがみを撫でて落ち着かせた。

 出番はまだ先だ、今日は長い一日になる。まだここには主力さえ到着していないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 やにわに、慌ただしさがさざ波のように伝播してきた。諸葛亮は会議へ出席せず、それら全てを鳳統に任せ陳留王に薬湯を煎じ飲ませていたのだが、劉協自身も異変を察したようだ。薬湯を飲む手が止まっている。

「……激突したようですね」

「うん」

 混乱の気配は、押しては引くように聞こえてくる。薬湯を飲み干した陳留王は、器を諸葛亮に戻して静かに言った。

「連合の先鋒は誰が?」

「張貘さんの軍勢が、まず当たられているはずです。多分曹操さんもです」

「この戦も」

「そう、もう終わりに近づいております」

 どういう形の終わりになるか、諸葛亮はあえて言わなかった。

 連合が起こり決着するまでおよそ八十通り。諸葛亮と鳳統が予見した展開と結末は、その多くを破棄しつつ今や残すところ七通りまでに減っていた。その全てに対応すべく準備を整えてはいるものの、博打も兼ねるために事実気が気ではない。諸葛亮は気もそぞろに合戦の気配に耳を澄ませようとしたが、それを許さなかったのは陳留王・劉協である。

「諸葛亮、すまないと思ってる」

 不意に頭を下げた劉協――あるまじきことである――に、諸葛亮は慌てて手と首をブンブンと振った。

「わ! は! はわわ! 殿下! そんな……薬湯を作ることも別にそれほどのことじゃないのです。具合が悪くなられた時にお気を使われるのは」

「そのことじゃない」

 劉協の、限りなく冷静な視線が諸葛亮に注がれた。

 

 ――陳留王は知っている。自ら服毒したことに諸葛亮が気づいていることを、知っているのだ。

 

 ふ、と一度笑みを浮かべると、その目を直視せず諸葛亮は劉協が飲み干した器を片付けて羽扇で口元を隠した。

「何のことでしょうか」

「素知らぬふりをしてくれた」

「……はわわ?」

 具体的な名前は何も出ていない。だから誰に聞かれても問いただされることはない。しかし劉協と諸葛亮の間には完全なる意思疎通が成っていた。そして諸葛亮は頷きも首を振りもしなかった。

「そなたは優しい」

 しずかに、いつも余裕たっぷりに動いていた羽扇が初めてピタリと止まった。穏やかな笑みを含んでいたその表情もわずかに固まった。

「臣は、何もしてません」

「そなたは劉備の手柄を立てることと、余の望みを叶えることを両天秤に載せた。劉備に漏らせば万一のこともありうる……事前に話が漏れれば余はどのような扱いを受けていたかもわからないし、知ってて黙っているということも、皇淑には出来なかったろう。余の所作を監視し告発することも出来たはずだ」

「殿下、何のお話か……お戯れが過ぎますね」

「諸葛亮、そなたにも多分、たくさんの考えがあるのだろうと思う。けれど余の行いを尊重してくれた。そのことは忘れない」

 答えなかった。最後までとぼけた諸葛亮に、フフフ、と劉協は年相応の笑顔を見せた。この少女が洛陽を出奔してのちに初めて見せる笑顔であった。その姿に胸を締め付けられる程の痛みを覚えて、諸葛亮はまた羽扇の奥に顔を押し隠したが、もう時間も差し迫り始めていた。

「それでは、戻ります」

「お元気で。劉皇淑にもお伝え願う」

「かしこまりました。殿下もご健勝であられますように」

 退出する時、門番を務める太史慈という名の武人にも諸葛亮は頭を下げたが、初めてお辞儀を返された。準備は万端か、という気になり情報戦での敗北を察する。厳重な警備を抜けて自陣近くに戻ると、鳳統が居心地の悪そうに右往左往しており、諸葛亮の顔を見るやすぐにホッとしたようにコクコクと何度も頷いた。

「雛里ちゃん、やっぱり今日だね」

「う、うん……李岳さんの軍勢も、捨て身の突撃って感じとは……違うの……」

「先鋒は?」

「……赫昭さん」

 赫昭の指揮で敵陣を深くまで破る打撃力には期待できない、それは率いる兵科が主に歩兵だからということもある。李岳軍は主力である騎馬隊を温存しているのだ。

 しかし、だからといって連合軍に後退の二文字はないだろう、徹底的な壊滅的打撃を被るまで。ここに至るまで流した血と支払ったものを惜しむ余り、勝利を信仰して進むしかない。

「桃香さまに相談してこっそり陣を下げなきゃ」

「物資も、捨てた方がいいね……協力してもらえるよう、いくつか村落にも渡りをつけてるし……袁紹さんもいるし……」

「袁紹さんに打診はまだ早いかな」

「多分……けど、あの、殿下は……」

 こういう時の鳳統の問いは解釈が極めて難しい。諸葛亮は羽扇を何度か動かしてから、あまり自信のない答えを返した。

「殿下は、自分で決めたから」

 鳳統はううう、と帽子で目元を隠したが、大抵の場合それは回答が不満だった時の仕草である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 荀彧は誰よりも李岳のことを考えていた。李岳の戦いのことを研究していた。その四肢をもぎ、首を晒すことが荀彧の願望であった。曹操の心の少なくない部分を男が占めているということが耐えがたかった。

 李岳を殺すのは己だ、といつからか心に決めていた。あの男を倒した時、曹操を迎え入れる王の道が完全なるものとして開ける。

 だからこそ、李岳が無謀な攻めをしてくるとは思えなかった。李岳は恐ろしいまでの精度でこちらの考えを見抜いてくる。だからきっと、今回の攻勢も、奴がこしらえた勝利への布石なのだ。

 攻防は一進一退であり、双方に決定打が見出だせないまま長引いている。李岳軍も二度ほど騎馬隊を繰り出してきたが、機を見出だせなかったようで無理せずに後退していった。気づけばもう昼にさしかかろうとしている。

「荀彧さま」

 戦況に夢中になっていた荀彧を引き戻した声は、自らが束ねる諜報部隊の者のものだった。索敵に放った部隊の長である。

「北です。二十里先。城塔から狼煙が上がっているのを確認しました」

 女は言葉少なに言った。やはり伏兵だった。李岳は側面を突く構えだ。荀彧は歯噛みした。前方に布陣する李岳軍は動員可能な人数の全てのように思える。ということは今、北から迫ってくる伏兵は完全なる新手、ということになる。

「数は」

 荀彧は返ってきた答えを一度聞き逃し、再び問い返したが、耳を疑った。曹操に報告しなければならないが、膝の震えが収まるまでしばし待たなければならなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 張勲は軍議の席で静かに腕を組んでいた。曹軍が招集した軍議だ、報告は参謀の荀彧が行っている。

「李岳の伏兵が判明しました。北からです」

 田豊に沮授といった袁紹軍の参謀たちが慌ただしく言葉を交わし始めた。 

「……伏兵、やはりか。しかしどこにそのような余力が」

「李岳が動員できる正規兵はもう底をついています。洛陽にはもちろん雁門関の并州兵、皇甫嵩に至るまで監視の手配は済んでおります。兵など導けるはずはないのですが……」

「あるとしたら黒山賊か? 彼奴は影響力を及ぼしているのであろう」

「……その可能性はありますが、あれもまた正規兵ではないのです。山に潜み罠を張り、奇襲を繰り返すことには長けている連中ですが、とても原野でも正面決戦に向いてるとは思えません。私利を譲らぬ盗賊が、命をかけて戦うことを今この場で選ぶとも思えません」

「公孫賛が裏切ったという……」

 しびれを切らしたように答えたのは劉岱である。

「馬鹿どもが! 彼奴など当然監視の網の中だ! ついでに言うなら烏桓の連中もな。指一本黙って動かせる状態ではない――誤報じゃないのか? もう一度確認しろよ!」

「間違いなく李岳の増援です。二十里先。第三隊まで放った上での確認です。お疑いなら直参をお放ちになられれば良い」

 やはり李岳は伏兵していた。これほど切迫しているというのにまだ手を残していたとは、とあちらこちらから声が上がった。しかし劉岱はじめ諸将が述べたように伏兵を用意する余力などなかったはずだ。

 袁紹がフン、とふんぞり返って宣言した。

「李岳さんが伏兵を用意していた、それを発見した……何をしんみりすることがありますの? 華琳さんお手柄! はい、じゃあその伏兵を潰すのは誰? そういう話じゃありませんの?」

 袁紹の言葉もまこと正論である、面々を盛り上げるにも利した。消沈しかけた諸将がそうだそうだと気勢を上げ始めた。

「確かに、奴としては直前まで露見しないことが絶対の条件だった」

「曹孟徳殿の手柄は大よな。よく警戒しておられた」

「幸運がいつも李岳に転がるということではないようだ」

 劉岱が一度鼻で笑い、李岳の懸命の努力を皮肉った後に荀彧を促した。

「涙ぐましい努力痛みいるよ。で、どれほどの兵力なのさ? そのまま答えていい。むしろ早期発見だったんだ、褒めてもいいくらいだよ。 一万? 二万か? そいつら叩き潰して李岳を殺す。段取りが一つ増えただけさ」

「およそ十万でございます」

 聞き間違えたのかと思ったものが大半だった。

 場が凍りついた。誰も、一言さえも発言できず、時が止まったのかと思える程の静けさが抗い難くのしかかった。

 

 ――十万の騎馬隊。

 

 真っ先に沈黙に耐え切れなかったのは劉岱であった。

「何かの間違いだろ?」

「間違いなく十万よ」

 荀彧が答える間もなく、割って入ったのは曹操である。

「ふざけるな、お前馬鹿か? 十万?」

「ええ」

「十万とか」

 劉岱はそれきり言葉を続けることが出来なかったようで、曹操は続けて詳細を述べた――十万にも上る軍勢は二手に分かれこちらを目指しているという。半数は最短距離でこちらへ。もう半数はこちらの退路を断つように迂回路を進んでいると。

 諸将の脳裏に微かに浮かんだ「敵ではなく、連合への援軍」という夢想も粉微塵に砕かれた。二手に分かれての機動は、連合を包囲殲滅するという軍事的目標を持っている動きだということは火を見るよりも明らかだった。

 曹操の報告が途切れるのを待っていたようにさらに伝令が駆け込んできた。手には一枚の竹簡が握られている。

「り、李岳軍より書が届きました!」

 ざわつく諸将を押しのけて、劉岱が竹簡を奪うと目を通した――が、宗室の申し子とさえ言われた劉公山。憤怒に震えたその手は力任せに竹簡を床に(なげう)ち、がためにカラ、カラ、と虚しく陣中に乾いた音が響いた。

 床に打ち付けられ、弾け飛んだ無数の木片……冒頭の一枚は、出来過ぎた劇のように綺麗に円卓の中央に表を向いて転がった。無表情に近付いたのは曹操。さっさと集めると、はっきりと声に出して読みだした。

 

『反董卓連合軍の皆様へ。私の名前は李岳と申します。私は畏れ多くも皇帝陛下より勅命を賜り、皆様の反乱を打ち砕けと仰せつかりました。私は皆様が徒党を組んで洛陽に攻め込もうとすることを宣戦布告の前から知っておりましたので、祀水関を強化し、兵糧を搬入して備えました。果たして皆様はやってきたので、これを防衛しました。陽人への攻撃も騎馬隊により阻止しました。

 私は皆様がいずれ攻城戦に飽き、撤退するものと思っておりましたが、その様子が見えないので、やはり皆様を滅ぼすことといたします。既にお聞き及びかも知れませんが、現在北方より十万になんなんとする援軍がこの関所に向かっておりますが、彼らは匈奴です。数ヶ月の間に密かに山を伝いこの地に参集させました。

 先年、今は亡き先帝陛下の勅命により匈奴に対して援軍の依頼が発されましたが、それは彼らを騙し討ちするための不届き者による罠でした。その不届き者とは劉岱さま、劉遙さまのお二人と存じます。私は中華の安寧と匈奴の不幸を防ぐために、雁門関にてこれを防ぎました。ですが匈奴は仁義にもとる詐欺を忘れておりませんし、陛下は匈奴と無益な争いではなく価値ある融和を望んでおられます。私はその理想の先兵となるべく、また私自身が匈奴の血を引いていることもあり、橋渡しを行いました。

 皆様が考案された匈奴誘引の策略を私はそのまま用いることにしました。その恐怖と威力と罪深さを、その身で以って贖われればと思います。匈奴の軍勢は真っ直ぐこの祀水関を目指して駆けておりますのでお覚悟召されよ。河南尹』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「敵軍、動きます」

 報告を無視してしまったが、李岳に悪気はなかった。晴れた空を見ていた。ひどく透明感のある空で、遠く地平の山々の峰さえ曇らず見通せる。

 だからきっと、この戦の結末は全ての人々に伝わるだろう。

 数ヶ月もこの要塞で耐え忍んだのは、ひとえに匈奴の軍勢がこの地にやってくるまでの時間稼ぎだった。

 匈奴内部での政治闘争。出兵の用意。そして移動。連合軍に気づかれぬよう細心の注意を払い、漢の地に移動させた。人一人が動くのにやっとの隘路を伝って……李岳が黒山から公孫賛の元へ馬を運んだ道を通って! 人生を変えるきっかけとなったあの旅をもう一度繰り返して!

 十万の騎馬隊は黒山賊の元で英気を養い、そして陳留王奪取の目処がついた李岳から連絡を受け、一挙に南下した。連合軍の警戒網が伝わるより疾く、風のように肉薄した。

 それが亜流の亜を戴いた亜号作戦である。李岳の人生を翻弄し、狂わせ、そしていま皇帝に牙を剥いた二龍が企てた匈奴誘引を、そのままそっくりやり返してやる、私怨にまみれた計略であった。

 この最後の作戦に出撃できたのは四万あまり。厳しい戦いを経て、初戦からこちらのべ三万もの人間がこの場に立てなかったことになる。後ろを振り向けば破壊しつくされた祀水関の城壁の上に、こちらを見守る負傷兵たちの顔が覗いていた。

 前方では連合軍が慌ただしく陣形を変え、後退の様相を呈している。とりあえず陣を下げようという動きだろう。曖昧な態度に様々な情動が垣間見えるようであった。せっかく手に入れかけた勝利が掌からこぼれ落ちた悔しさか、責任のなすりつけ合いか、それともすぐにでも逃げ出したいのに見栄が邪魔するか。

「ところで旦那、一つお聞きしてもいいですかい」

「なんだい廖化」

「匈奴の援軍が来るのはわかってた。なら元より出撃しない方がよかったのでは?」

 ふ、と李岳はかすかに笑みを浮かべた。廖化の表情が凍りついたのが目に見え、それほど怖い顔をしているわけでもあるまいに、と再び李岳は笑いそうになった。

「匈奴との間を走り回ったのはお前じゃないか」

「……そんな怖い顔せんでください」

「にこやかに笑ってるだろ」

「ご冗談……ええ、私が匈奴との繋ぎになりましたよ。ですからより一層砦で待ってりゃいいんじゃないかと」

「正面衝突になるじゃないか」

 黙りこんでしまった廖化に、仕方ないなと李岳は回答をくれた。

「黙っていればもう少し匈奴はこちらに来れたかも知れない。けどこちらが出撃すれば、連合は『また李岳がよからぬことを企んでいる』と察する。すると、まぁ馬鹿じゃなければ偵察くらいは飛ばすだろうさ、伏兵がいるんじゃないかと。そうすると匈奴を早めに発見してくれることになる」

「……伏兵が見つかっちまっていいんですかい」

「逃げ出す敵を後ろから突き殺す方が楽だろう?」

 おかしなことを言うな、と李岳は首をかしげた。廖化の表情がいよいよ固まってしまったのを見て、李岳はそれ以上の解説をやめた。

 簡単な話だ。強力な援軍――勝敗が決しかねない程の援軍が突如発生したら連合は死に物狂いで抵抗するだろう。しかしそれを発見したら連合はその時点で瓦解し撤退する可能性もある。そうなればこの関所の前で総力戦になることなく、逃げ惑う敵への追撃戦という形になるのだから、たくさん殺せるだろうというだけだ。

 李岳は一人たりとも生きて返すつもりはなかった。

 怒りがにじみ出て仕方ない。

 お前たちのせいだ――心の中の叫びは、あまり明瞭な言葉にはならない――お前たちのせいで全て失われた、お前たちのせいで俺はしなくてもいい苦労をした、お前たちのせいで――李岳の叫びをかき消すように、黒狐が聞いたこともないような絶叫を上げた。赤兎馬がすぐ隣に並んだ。前進を命じた。地響きのように騎馬隊が李岳の隣を駆ける。

 いま、失われたもの全てを取り戻す。無様に利用され、侮られた、我が半身に流れる匈奴の血を慰めるのだ。そして貴様らの悲鳴を、ありえたはずの我が安穏とした人生の補償とする。


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