真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第七十一話 綻び

 疲労はまず声に表れる。

 赫昭は修羅場の中で、目を細めながらそんなことを思った。祀水関の防壁上、敵襲に対し励まし合う声がグッと小さくなっていることが赫昭を不安にさせた。李岳率いる別働隊がこの関を発ってより、防衛戦力は三万にまで落ち込んだ。味方が少ない、ということがここまで心細くさせるのか。一人ずつが上げる声もそれに比して小さくなっていくように思えた。

 しかし、それを鼓舞するのが将の仕事である。

「一列目、合図の音を聞き漏らすなよ! 射た後はすぐに二列目と交代だ……放て!」

 赫昭の声に続き、太鼓が短い拍で二度叩かれた。途端に無数の矢が一斉に放たれ、押し寄せてくる敵兵の頭上に注がれた。続いて太鼓が鳴ると、二列目の兵が現れ矢を構える。またも押し寄せてくる敵兵に対して、合図に従い矢を降らせる。

 だが、どれほど矢を浴びせかけようとも敵兵が減っているようにも思えない。前面に盾を持ち、着実に距離を縮めて来るあたりは流石に手堅い。

「最右翼、苛烈!」

「中央から二千を回せ、次の矢は右に一斉射」

 劉岱軍の攻勢は苛烈であった。兵の損耗など気にする様子などない。赫昭が目を凝らすと、押し寄せてくる大兵の背後に、前線で戦う自軍の兵に向けて矢をつがえる兵たちを見つけた。

「……督戦隊」

 ギリリと歯を食いしばった。前線の兵はまさに命がけの突撃である、一歩でも後退すれば味方の矢で撃ち殺されてしまうのだから。兵の損耗を一切省みない無情な攻めであり、唾棄に値する最低の戦術であるが、だからこそ李岳軍の守備隊も思わずたじろぐ程の気勢であった。

「城壁、取りつかれます!」

「慌てるな! 油の用意はできているな……」

 赫昭の指示を待ち、誰かがゴクリと唾を飲むのが聞こえた。

 しばらく堪えた。おびき寄せる、という工夫を凝らすまでもなく、味方の兵は押されている。死ぬ気でよじ登ろうとする敵兵に、赫昭は今からさらなる無情を叩きつけなければならない。

 その業を背負うことに、何ら躊躇いはない。

「今だ!」

 赫昭の指示で旗が振られると、城壁の上に設置されていた台車を固定するための縄が切られた。台車は板で作られた簡易な坂道にくくりつけられており、縄が切られた途端に自走を始める。中央を丸くくり抜かれた台車には大きな鍋が据え付けられていて、台の真下で燃やされていた火によりグツグツに煮えたぎった油がこぼれんばかりに入っていた。

 城壁に向けて走った鍋は、突っ張り棒と固定の縄に引っかかり、その中身だけを城壁の上に流し込んだ。

 悲鳴がこだました。矢の雨をかいくぐってとうとう辿り着いた城壁である。敵兵たちは決して離すまいと取りついていたが、熱された油はそのような人の意志など簡単に打ち砕いてしまう。さらに……

「火矢、放てい!」

 赫昭の指示に従い、無数の火矢が射こまれた。油に飛び火するや否や城壁はただちに炎上し、火の壁となって連合軍を飲み込んだ。火だるまになって転げ回る僚友を助けることさえ出来ずに、劉岱の軍勢は後退する他ないが、督戦隊の威嚇により無為な犠牲を増やし続けている。

 だがとうとう戦列の一部が崩れると、あとは容易く崩壊した。逃げ惑う背中には李岳軍から射込まれた矢が散々に突き刺さる。見る間に関の前は死体で埋め尽くされ、人体の燃える異様な臭気が立ち込めた。

「赫昭将軍、ご指示を」

「負傷兵の手当を最優先にせよ」

 退けたが、またいつ再侵攻があるかわからない。続いて赫昭は資材の残量を確認させた。

 ここまで来て、矢も油もかなりの量を消費している。特に袁紹軍を相手にした時などは、ありったけの力を振り絞らねば、あわや突破されるほどに苦戦を強いられた。

 備蓄のほとんどはとうに消耗し、枯渇したと思わせて押し寄せてきたところになけなしの量をぶつける、というやりくりで敵に悟らせないようにしていた。連合側も苦しんでいるだろうが、守備側も当然耐え忍んでいた。命をかけた我慢比べが、攻城戦の真髄である。

 心細くないと言えば嘘だった。国家の運命を占う天下の大決戦の正念場を自分ごときが指揮官として担うべきなのかと。廖化、楊奉、徐晃に李儒の助けがあるから何とかなっていると思う。しかし同時に、そろそろ自らの限界を赫昭は見極めつつもあった。

 

 ――このような厳しい重責を、李岳はあの大きくもない肩に一人載せていたのか……

 

 李岳が南方目指して発ってのち、赫昭には眠れぬ夜が続いており、隈が目の周りにこびりついて取れない。しかしそのような泣き言が生きるか死ぬかの戦いを繰り広げている兵士の前で許されるはずもない。

「冬至さま、貴方のお気持ちに少しは近づいたやも知れません」

 呆れ顔で、そう嘯いた時である。

「後方より砂塵!」

 徐晃の絶叫が赫昭の耳朶をしたたかに打った。赫昭は弾かれたように飛び出すと、後方に向き直った。

「旗は何色か!」

 叫んだが、固唾を飲むような沈黙がもどかしかった。可能性は二つに一つだ。別働隊を撃退した李岳の帰還か、李岳を打ち破った敵か。生か死か。

やがて赫昭の目にも砂塵がかすかに映り始めた。息をすることさえもどかしい、祈りさえするような緊張が極限に達した時だった。

「真紅の呂旗と紺碧の李旗…繰り返します、真紅の呂旗と紺碧の李旗!」

 

 ――それまでが嘘のような、凄まじい音量の歓声が爆発した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 特に用がなくても袁紹のところに顔をだすことが劉備の日課の一つになった。一緒に朝食を取り、陣中を回り、他愛もない話をする――それが劉備の務めのようになっていた。

 袁紹と懇意になったのは奇襲を受けた際に命を救ってからである。懇意というより、はっきり言って懐かれていた。

『この御恩は忘れませんわ! 報いねば名折れですわ! ぜひ冀州に遊びに来てくださいまし! 私たちはもう親友なのですわ! おーっほっほっほ!』

 真名も交換してしまい、劉備ももう彼女を友人だと思っている。濃い性格をしているが、それは弱気の裏返しであり追い詰められると脆い、というのは諸葛亮の推察である。多分そう思う、と劉備も同意した。

 袁紹軍が祀水関に攻め寄せる際は劉備も指揮官として加わるのも常態化した。諸葛亮の立案に基づく井闌と穴攻の複合攻撃は、あわや関を陥落せしめるかと思ったが、砦を守る赫昭の機転により打撃を受け頓挫した。しかし甲乙つけがたい攻守の応酬に、連合内部ではまたも劉備陣営の評価は上昇した。

「朱里ちゃん、なんだか私、みんなが噂する私が本当の私じゃないように思えて、居心地が悪いんだけど……」

 諸葛亮はそうですね、と前置きしてから答えた。

「どうしても噂話というのは回りますから……真実の姿より悪い噂が回るより、いい噂が回った方が、いいと思います」

 

 ――董卓のことを言ってるのかな、と劉備は束の間考えた。

 

 釈然としないものを感じつつも、劉備は諸葛亮と鳳統の助言に全面的に従っていた。兵糧の手配も兵の掌握も全て完璧にこなしてしまうのだ、結果的に犠牲も減っている。感謝してし足りないことはない。

 いま、劉備と諸葛亮は陣の中央に向かって歩いていた。袁紹、袁術の両軍に囲まれ、その内でさらに二龍の軍に囲まれたその奥に、陳留王の仮初めの王座が据えられていた。

 劉協への参拝もまた劉備の日課となっていた。

 劉皇淑、と呼ばれるようになって以来劉備の陣内における立ち位置は微妙である。劉岱と劉遙からは警戒され、妙に一目置く人もおり、ジロジロ見られるなあ、と劉備は気もそぞろ。

 とはいえ会いたいと思えば劉備は構わず会いに行くし、諸葛亮も特に問題がない限り慰めに行くべきだと言った。関羽も意味のあることだと肯定する。

 しかし本当のことを言えば、劉備は張飛の述べた意見に最も同意であった。

『自由にあっちいったりこっちいったり出来ないなんて可哀想なのだ! 間違ってるのだ! 桃香が会いに行って一緒に遊ぶのは当然なのだ! けど、そこから連れだして鈴々や愛紗とも一緒に遊ぶのはもっともっと当然なのだ!』

 まったくだと劉備は思った。

 幼い少女を軟禁しなければ戦う理由を見いだせない連合軍……

 蟻の這い出る隙もない程に厳重な監視と護衛の中、劉備は徐々に劉協の天幕に近づいていったが、いち早く陳留王の姿を認めたのは諸葛亮であった。

「桃香さま、どうやら殿下は御散策の途中のようです」

 見れば陳留王劉協は路傍の花に目をやっていた。劉備は遠目に、その小さな体にはあまりにも不釣り合いな重責と運命を背負わされた少女の心を慮った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 外出が許されるようになった。

 といっても天幕の周囲をグルグルと歩き回ることが出来る程度である。しかし天幕の中でただ座り続けていることは出来ぬ、という訴えは滞陣も二か月を過ぎると流石に真摯な響きをまとい、二龍には直接届かずとも袁紹を通して寛容を求める声が沸き起こることとなった。

 隣には常に太史慈がいたが、劉協はそれを不快に感じたことはない。

 劉協は極めて聞き分けのよい王であろうとした。質素極まる食事にも、粗末な暮らしぶりにも、公然と軟禁されている現状にも大きな不満を示すことはなかった。うん、そうか、と静謐さを伴う諦念の中で首肯し続けるのみである。

 

 ――劉協が、脱出の機を窺い続けていることを察している者は、ただの一人もいないだろう。

 

 劉協にとってこの反董卓連合軍は脱出のための賭けだった。愛しい姉の元へ戻る。そのためにはこの連合の存在が必須であった。軍を解散し、二龍の虜となってどこかの城にでも幽閉されてしまえば終わりである。

 御輿として担がれている間は居場所がはっきりしている。姉なら――劉弁なら、万難を排してでもこの妹を助けに来るだろう、と劉協は考えていた。姉は必ず来る。必ず自分を助ける方策を考えている。そのための最善の手段が李岳の起用だと、劉協は欠片も疑っていなかった。

 どうやって姉がよこすであろう救いの手をつかみとるか――自分が人質の救出を目論むならどう動くか。その時人質にどう振る舞ってもらえれば利になるか。人質に出来る最も良い動きとは。

 李岳が、本当に劉弁が見込んだ者であれば、きっと自分を救い出しにくるはずだ。既に陣中には間者がいるだろう、どうにかしてその者達と接触する術を持たなくては――劉協は一日のほとんどをその方策を考えるために使っていた。

「良い天気だね、太史慈」

「はっ」

 太史慈を籠絡することもその方策の一つである。太史慈は確実に二龍に弱みを握られている、それを探るか、あるいは解きほぐして己に与するよう仕向けるのが人質である己の仕事だ、と劉協は己の悪辣さを割り切っていた。

 劉弁が救出のために選び抜いた人材が有能ならば、おそらくその点を突くに違いない。いざという時に自分に何が出来るか……劉協のうちには百を超える想定が横たわっている。

 しばらく黙って散策を続けた。良い案が降って湧くことなどない。降って湧いたとしても、それを非現実的だと打ち消す不毛な日々である。が、劉協はふと立ち止まると地面を指さした。

「太史慈」

「はっ」

「見よ、綺麗な花が咲いている」

「……はっ」

「名前、知っている?」

「いえ」

「金鳳花。可憐で美しいね」

 美しさが太史慈にはわからないようであった。美醜の区別が既に思考の埒外であるのか、太史慈は漫然と頷きを返すだけ。

 しかし、劉協はその可憐さに心を奪われていた。

「洛陽では四季に折々の花が献上されていた。余はそれらを美しいと思ったけれど、それだけだった。今、この花を見ると美しさ以上のものを感じる」

「左様ですか」

 劉協はその花の匂いを嗅ぐように腰をかがめて顔を近づけた。はしたない仕草だがもはや劉協を咎める存在はない。皇帝の玉座に最も親しい宮に起居していた頃にはままならなかった自由が、その地位を弄ばれ荒野で軟禁されている今になって初めて手に入るとは、奇縁である。

 劉協はしばらくその黄色い花びらを見ていたが、ふと妙な考えが浮かんだ。それを吟味にする前に、劉協は太史慈を振り返り言った。

「摘んで帰ってもいい?」

「二龍様に聞かねばなりませぬ」

 太史慈の回答は予想通りであったが、劉協は重ねていった。

「摘んで帰った後に、劉岱に聞いて、だめなら戻してもらえば良いと思う」

 劉協はそっと太史慈の手を握って言った。

「さびしいのだ」

 太史慈は束の間迷ったが、彼女の中の命令系統に齟齬は起きなかった。

「では、そのように」

「ありがとう」

 金鳳花を殺さぬよう、水受けの皿に土ごと移し替えて劉協は金鳳花を持ち帰った。太史慈が手伝うかどうか逡巡したような気配を見せたが、劉協は自らの手を土で汚すことに喜びを覚えていたので無用であった。

 天幕に戻り、金鳳花を日当たりのよい位置に移すと、見計らったように劉備がやって来た。劉協を見るとニコリと笑顔を見せた。劉協は劉備に毎日来るよう求めていた。二龍はいい顔をしなかったが、祀水関攻略戦における活躍で劉備の声望は馬鹿にできないものになっていたので、明確に拒絶することが出来ないでいるようだった。命を救われた袁紹が彼女の素晴らしさをそこかしこで吹聴して回っているからである。

 劉備の使い道はまだ模索中である。

「殿下、いい天気ですね」

 劉協は、儀礼としては粗末だが心のこもった挨拶を述べた劉備に微笑みを返した。

「皇淑。ご苦労はないですか」

「私ですか? えへへ、みんながいるからへっちゃらです」

「良い臣を持ってるようで何より」

 む、と劉備は口元を曲げた。劉協に対してそのような態度に出るものは彼女以外には古今(まれ)であった。

「臣じゃないです、仲間です! 友達ですよ」

「臣ではなく、友達?」

「そうです!」

 劉協はチラリと太史慈を見やった。太史慈は努めて目を合わそうとはしなかった。

「あ、紹介します。こちらは私たちの軍師をしてくれてる諸葛亮です」

「はわわ! お、お、お、おはちゅにおめにきゃきゃりましゅ!」

 諸葛で亮、字は孔明です、と劉備が付け足した。脱帽した金色の髪の少女は緊張した様子で、はうー、はうー、と呻いている。いかな皇室たる劉協とてここまで緊張した者と出会うのは初めてであった。

「し、失礼をば……」

「よい」

 かわいい娘だ、と劉協は思った。自分とさして年が変わらないように思えるが、軍師を務めるということは知略に富む智者勇者なのだろうと思う。

 劉協は面白がってはわわ、はわわとうろたえる諸葛亮の様子を見ていたが、ふと突如、金色の髪の少女はピタリと一点を見据えて動かなくなった。

 冷たい風が流れた気がした。研ぎ澄まされた知の怜悧が吹かす乾いた空気――諸葛亮は今まさに劉協が摘んできて器に植え替えた花を見た。

「金鳳花、ですね」

 劉協が束の間沈黙し、諸葛亮を見た。諸葛亮は直接目を合わせる資格を持たないのだが、劉協は視線がぶつかり合った時に生じるせめぎあいのようなものを感じた。

「うん、金鳳花」

「綺麗ですね、かわいい。けど……」

 諸葛亮がくすりと笑った気がした。

 はっきりと、劉協は諸葛亮に恐怖を抱いた。劉備も太史慈も理解していはいないだろう、この恐ろしさを。今この空間で、諸葛亮という人の恐ろしさを理解しているのは自分と彼女自身だけだ、と劉協は心の中で断言した。

 諸葛亮はやはり、慎ましく笑って言った。

「金鳳花だけだと、黄色が強いです。桃香さま?」

「うにゅ?」

「近くに百合や桔梗も咲いてましたよね。摘んで持ってきたら、殿下のお心も休まるかもしれません」

 劉協はかろうじて感謝を述べた。

「……うん。ありがとう、諸葛亮」

「光栄の至りでございます」

「よくわかんないけど、とりあえず綺麗な花でここを埋め尽くしちゃえばいいんだね!」

 それからしばらく、太史慈の迫力ある視線に耐えながら束の間の歓談を楽しんだ。他愛もない話であった。劉備は決して戦の趨勢を話したりはしない。諸葛亮は、もう二度と花の話を持ち出したりはしなかった。

 劉備はあまり武勲の話をしない。他の将たちは競って自らの功績を誇って述べるものだったが、劉備は決してそのようなことはしなかった。それよりも今朝の朝食の話をする方が多いくらいである。他のものに聞けば誇って恥ずかしくない戦働きをしているというのに――劉協は劉備に侮りがたい魅力がある、ということを知りつつあった。

 四半刻ほど話を楽しんだあとである。力強くも凛とした声が陣幕に響いた。

「ご無礼仕ります」

「愛紗ちゃん!」

 あっ、と劉備が居住まいを正して劉協に紹介をした。関羽という。黒髪の美しい武人である。凛々しさに劉協は一瞬自分の心が澄み渡るのかという気さえした。太史慈がにわかに横に並んだということは、相当の武人であることに間違いはないだろう。

「余が劉協である」

「ご拝謁賜り光栄の極みでございます」

「火急の用と見受ける」

 はっ、と関羽の声はどこまでも正直。

「陽人より戦況報告が届きましてございます。それを以って緊急の軍議がただいまより諮られます」

「主催は?」

「劉兗州殿です」

 率直な者だな、と劉協は思った。劉岱を呼ぶ際、はっきりと嫌悪の響きが関羽の口にはこもっていた。

「どうやら陽人に赴いた別働隊の戦況はかんばしくないとのことです。またこの陣の近くに援軍もやってきているという話もあり、錯綜した情報を整理するようです」

「援軍?」

「青州からという噂が立ってますが」

 劉備が諸葛亮の顔を見たが、諸葛亮は聞いていないと首を振った。当然劉協も初耳である。

「青州……今の刺史は焦和(ショウワ)さんという人で、目立たないけれどこの連合にも参加してらっしゃいます」

「その人が援軍を連れてきたのかな?」

「そこまでは……ですけど、世では専ら焦和さんは劉岱さんの指示を仰ぐばかり、とも」

 諸葛亮の説明に劉協は何ら付け足すところを見いだせなかった。

 そのまま、劉備と諸葛亮、そして関羽は辞去の言葉を述べ天幕から下がっていった。

 ここに来て劉岱が援軍を連れてきた。それも青州から。本気になった、ということなのだろうか。劉協は胸を焼くような焦燥に襲われ、胃が熱くなるのを感じた。しかし逆に考えれば彼らは追い詰められているとも言える。ここまで関一つに手間取るとは予想もしなかったのだろう。

 二龍は元々青州の生まれである。とうとう彼らの本拠地から兵を動かすことになった、それも軍権をまたいで。今日まで出し渋っていたということは、青州兵は彼らの虎の子のはずだと思えた。戦況は正念場を迎えていると言える。

 おそらく連合軍は陽人で敗れたのだろう、とまで劉協は読んだ。でなければここで動く理由がないからだ。

 追い詰められつつある二龍が最後の力を振り絞ろうとしている。李岳はとうとう、彼らを覆い尽くしていた薄布を剥ぎ取ったのだ。

「どう思う、太史慈」

 太史慈は意外なことを言った。

「風を感じます」

「なに?」

「変化が訪れるやも知れませぬ」

 そうか、と劉協は頷きを返して、もう一度金鳳花を見た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 急遽催された軍議の内容は驚愕に値するものだった。張勲は袁術の隣に座したまま、脳天をしびれさせていた。

 孫策が死んだ! その事実は張勲のみならず居並ぶ者たち全てに少なくない衝撃を与えた。

 あの江東の覇者気取りで、親が夭折したために地位も兵糧も金も失った、だというのに人望を勝ち取り大口を叩く女。

 その女が死んだ。撤退戦で奇襲を企み、それが露見し背中より投げつけられた槍で刺し貫かれたという。討った者の名は『雁門の槍』と名高い張遼。これで彼女の武名は雁門に限られることなく、より大きなものとなるだろう。

 張勲は中々動揺から立ち直れずにいたが、表向きは至極平穏を装ったままでいた。報告を述べるは劉遙である。彼の口調は嘲りに満ちていた。

「あれだけ自信満々で出撃したというのに、全くみっともないったらないね。今は新城で態勢を整えているらしいけど、再侵攻する余力はないだろう。まぁこっちに帰還してくるだろうな」

「どうするつもりですの! このままでは埒があきませんわ!」

「青州から援軍が来る」

 袁紹の異議に劉岱が珍しく険しい表情で答えた。

「約五万かな。精兵だ」

「……青州ですの? 青州の兵力の指揮権がなぜ貴方に」

「細かいことはどうでもいい。これだけの戦力を持ってきて負けるわけにはもういかない。諸侯諸君、否やはなかろう」

 二龍の常ならぬ面持ちに、戦況が混沌としてきたことを張勲は否応なく思い知った。張勲は困りましたねぇ、とわざとらしく零しながらも思考に最大の活力を振り分けていた。

 別働隊を派遣した頃より、張勲は連合の勝利をほとんど確信していた。それほど戦力の開きがあったからである。曹操、孫策、馬超の混合部隊はどう贔屓目に見ても強力無比であり、その進行速度の早さも相まり李岳の後背を突いて余りあるように思えた。

 陽人城攻略に手間取るようなことがあっても、寡兵をさらに二分した祀水関の防御はガクンと減少する。それを打ち破るのにさしたる時間は必要ないように思えた。

 しかし別働隊は負けた。居残った守備兵も赫昭を指揮官に戴き猛攻をしのいだ。

 青州の援軍がどれほどのものか? それでこの苦境を脱することができるのか? 誰が盟主として主導権を握っているのか明確ではなく、いたずらに長引いているために既に撤退さえ難しい状況。二龍が援軍を呼んだのも焦りが元だろう。

 連合軍の思惑は、完全に噛み合わなくなってきている。

 

 ――軍議は神妙さと騒然さを交互に織り交ぜながら進行したが、やがて劉岱と劉遙が交互に別働隊の指揮官を侮辱するだけになった。

 

「そもそも、曹操に任せたのが悪かったのかな」

「兄様が委任したんじゃんか」

「僕の目が節穴とでも言うのかい、紗紅」

「そうじゃないと言うんなら、曹操が悪いということになるね」

「無論そうさ。あれだけ大口を叩いて出て行ったのにこの無様な有り様……僕なら舌を噛み切って死ぬよ」

 非難を通り越し既に誹謗中傷の域に達していたが、その矛先はやがて孫策にも向いた。

「しかし紗紅、それを言うのならお前の買ってた孫策なんてもっとひどい」

「返す言葉もないよ、兄様……死ぬとか! ないよねぇ」

「控え目に言っても役立たずだな。けどどうやら李岳に付け入る隙を与えたのはあの女らしいじゃないか」

「疫病神のたぐいだったわけか」

 二龍の焦燥を鋭敏に感じ取ったのは何人いるだろう。

 この段に至り、さすがに言い過ぎであると何人かの諸侯が目の色を変えて立ち上がろうとした時である。張勲は我が目を疑った。

 

 ――真っ先に立ち上がったのは、袁術だったのである。

 

「役立たずじゃないのじゃ! 疫病神なんかじゃないのじゃ!」

 張勲の認識はまるで現実味を欠いた。袁術が立ち上がっている。そしてはっきりと劉岱と劉遙を指弾しているのだ。

「孫策は気に食わん奴じゃったが、妾の軍勢を率いていたのじゃ。侮辱は許さんのじゃ!」

 二龍の眼前に立ちはだかり、はっきりと否定の言葉を投げかける袁術を見て張勲は泡を食った。諸侯もまた驚きにざわめいている。異母妹にあたる袁紹も目をしばたたかせていた。

「……何のつもりさ」

「それは妾の台詞なのじゃ! 七乃、なんとか言ってやるがよい!」

「み、美羽様……」

 

 ――この戦い、袁術軍にとっては単なる戦の勝敗以外にもいくつかの条件があった。

 

 袁家の棟梁が袁紹と袁術のどちらが相応しいかという世の風評、戦後処理において二龍と付かず離れずの距離を取ること、揚州を切り取る大義名分を備えること、さらには万一負けた時のために李岳に同時に渡りをつけることなど、張勲は我ながら至難の業をこなしていると自らの仕事ぶりを内心自負していた。

 戦の趨勢もそうだが、誰が権力を握るのか、廃位は、即位は、盟主は……あらゆる状況を想定し、計算している張勲。彼女が描いている脚本はゆうに四十を超える。

 張勲は自らの謀略に何一つ瑕疵はないと思っている。見事に口約束ばかり、思わせぶりな態度ばかりを見せてまるでいつでも与するかのように図ってきた。

 

 ――今、袁術はその緊張した糸を完全に断ち切ろうとしている。

 

「孫策も、別働隊で頑張ったのじゃ! 死んだものを悪くいうのはよくないと母様も言ってたのじゃ! のう、七乃!」

「は、はい……ですが」

「……違うのかや?」

 袁術の悲しそうな瞳。主の御母堂様への思いを否定できる胆力も、冷たさも、張勲の中にはなかった。ただ愛おしいと思う情と主の大きな言葉に感動を覚えるばかり。と同時に、自身の内の『参謀』が抵抗を見せ、束の間の葛藤が彼女を襲った。

 そのために、つかつかと歩み寄り見舞った劉遙の一撃を、張勲はぼけっと見ていることしか出来なかった。

「……あ」

 

 ――乾いた音が陣幕を反響していた。劉遙の平手が袁術の頬を打っていたのだ。たたらを踏んだ袁術の頬が、じわりと赤に染まる。

 

「宗室に連なる御子に対し無礼であろう」

「美羽様!」

 駆け寄り抱きしめた袁術の体は、慣れない痛みに小さく震えるばかり。

 劉遙は吐き捨てるように呟いた。

「名門名門とおだてられ勘違いしたか? それなりの家門だろうが所詮は三公どまりの臣の血統。分をわきまえるんだね」

「わ、妾は……」

「美羽様、ああ、おいたわしや美羽様……!」

「七乃……う、うう!」

 間もなく、陣幕に袁術の押し殺すような泣き声が途切れるまで響いた。わずらわしそうに片耳を抑える劉遙、肩をすくめる劉岱。この時ばかりはと怒り心頭に発する袁紹と張貘、劉備。様子見を続ける諸侯。

 喧騒の中、ただ泣き叫ぶ袁術を介抱しながら、張勲の中でビリビリという音だけが響き続けた。

 ビリビリ、ビリビリと、脚本を破り捨てる音が。

 張勲は袁術を力一杯抱きしめたまま、誰にも見られないように伏した顔に、ひどく残忍な笑いを浮かべた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 知らせを受けた田疇は会議が始まる前に劉虞の幕舎へ向かった。劉虞は田疇が来ることを待ち受けていたようで、ニコニコと笑みを浮かべていた。

「あら、田疇。どうしたのかしら血相を変えて」

 高貴な茶を口にしながら劉虞は笑った。別働隊敗退の詳細は先ほど『黄耳』が届けてきた。孫策死す、の情報も確かなようだ。砦には李岳も帰還を果たしたらしく、敵軍からは凄まじい歓声が轟きここまで届いている。

 だが問題はそこではない。

「青州の者どもを呼び寄せたというのはまことですか」

「耳が早いわね」

 何がおかしい? と劉虞は小首をかしげた。田疇は胃のあたりがもつれるのを感じながらしかし、と続けようとした。

「黄巾を使うのはここしかない、と瑠晴と紗紅は言ってたわ」

「真に受けられたのですか」

「だめなの?」

 小指をくわえながら、いささかも欠落を垣間見せない慎ましき美の極致を匂わせ、劉虞は田疇を見上げた。うう、と喉の奥に詰め物でもされたかのような圧迫を覚えたが、それでも田疇は何とか声を絞りだした。

「されども、青州はじめ、あの軍は極秘として扱うとはじめの約定では」

「あるものは使わないと」

 劉虞の返答はにべもない。

 

 ――秘匿を重ね、秘匿を重ね、暴発しかけた教徒たちを何とかなだめすかし、軍としての調練をしっかりと積ませた秘中の秘。それが田疇にとっての黄巾である。

 

 二龍はここに来て焦りを覚えたのだ。先手を取られ、別働隊は負けた。攻囲はすでに数ヶ月に及ぶも祀水関が陥落する気配は未だ希薄。劉岱と劉遙は余力の全てを投じようとしている。

 田疇の狼狽がなんとも楽しい、とばかりに劉虞は二の矢を放った。

「洛陽も動かしてくれる?」

「それは」

 田疇は絶句した。

 艶やかな紫の唇。チロチロと覗く赤い舌がまるで蛇。顔を覆う美しき白粉(おしろい)は死者の髑髏を削りだした粉末か、頬にさした紅は血のあぶくを凝り固めたものか――田疇は劉虞の笑顔に怖気を我慢できなかった。

 

 ――洛陽には未だ李岳に露見してない勢力があった。段珪に連ならぬ者共で、いよいよとなれば十常侍暗殺を担わせるはずであった者たち……重責を担わせるには頼りない者たちだったが、田疇が宮廷内に持ちうる最後の連絡網でもある。

 

「田疇? 私は貴方のことを蔑ろにするつもりはないのよ。考えていることはよくわかってるつもり」

「……はっ。ですが」

「でもそうね、あの二人はちょっと元気過ぎたみたいね」

 二龍。あの二人を切ろうというのか。まるで手向けの言葉である。先ほどの軍議での騒動を耳にしたのだろうか。

 苛立ちのあまり、幼い袁術に手を上げた劉遙に諸侯からは非難が続いた。袁術が手が滑ったということで収めたが、それでも軋轢は深刻である。

 企みが頓挫した謀略家の脆さを教訓とすべしと、田疇は二龍の姿を脳裏に刻み込んでいた。

「瑠晴も紗紅も可愛い甥っ子だけれど、あまり甲斐甲斐しいのも二人のためにならないと思ったの」

「洛陽を動かすのを最後に二龍殿をご重用されることをお止めにする、というお心づもりでしょうか」

「最後だなんて、やだわ」

 ホホホ。

 劉虞の笑顔はひどく平常である。

「ただ、区切りというものは必要でしょうね……そう考えただけ」

 劉虞はあの二人を見切った、と田疇は知った。空恐ろしい気がしてきた。胃が痛い、しつこいくらいの痛みがさらに田疇を苛んだ。

「おわかりよね、田疇?」

 そっと握られた手から毒が注入され、すかさず全身を這い回る気がした。田疇は這いつくばって劉虞の言葉をさも大事そうに戴いた。

 北方の聖人・劉虞。

 極まった『人徳』とは既に呪詛の範疇である。田疇が何とか正気を保っていられるのは、腹でじくじくと鼓動する鈍い痛みがためである。

 

 ――追記された『太平要術の書』が一毫の狂いもなく記述した通りであるが故。巨大な先読みの力が田疇の肉体と精神に過大な負荷を与えていた。

 

 全てが思いのまま、読み通りに動くというのもまた、恐怖である。

 握った拳にじわりと汗が滲んだことで、田疇は夏の訪れを知った。

 

 




からの袁術ルート微レ存

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