真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

7 / 184
第七話 真偽

 乾いた北風がつむじを巻いて、肌を切り裂くように一陣吹いた。公孫賛は口元を覆って咳をこらえた。

 幽州の冬は冷たい。あるいは雪は少ないかもしれないが、大地は凍てつき春までがことさら遠く感じる。并州、冀州で花が咲いたといっても、幽州ではまだもう一息堪えなくてはならない。だがそのような過酷な大地でも草木は生え、獣は育ち、人は営みを紡ぐ。守るべき人民がいる限りここにいる意味はあるはずだと、公孫賛は自分に言い聞かせるように思った。

 斥候に出した兵卒が帰参した。報告ではもうそろそろ見えるということだ。并州から数百頭の馬を運ぶ。口に出せば簡単だが昨今の世情を考えれば難事だといえよう。公孫賛は晋陽から州境を踏破し、この北の地に至るまでの道程を描いてみようとしたがさっぱり思い浮かびすらしなかった。天下は広い。だから力を付けなければ。やはり言い聞かせるように、公孫賛は頭の中で繰り返した。

「来ました!」

 ハッとして前を向いた。地平線から浮き出たような一群が目の端に映った。今朝にちらついた僅かな雪を蹴立てて、馬群がこちらへ向かっている。憎いことに、おそらく横一線に走らせているのだろう。実際は五百頭だというのに、その二倍や三倍にも思えた。此方彼方が嘆声、歓声でざわついた。

 約束の日取りは旅程が定かならぬので五日の幅をもたせた。一日の余りをもって到着したのは上出来といえるだろう。

 およそ半里手前で馬群は停止し、その中から一頭の大きな馬が歩を進めてきた。見事な黒毛だ。大きな馬体、引き締まった筋肉が遠目にも見える。だが馬上でまたがっている人物は不釣り合いなほど華奢で、馬に乗せてもらっているという表現のほうがピタリと合うような気がした。

「姓名を名乗られよ」

 側近の誰何に、男は馬上から降りるとその場で平伏し、晋陽の商人、永家の手下で姓を李、名を岳と申し出た。差し出した竹簡を公孫賛も直々に目を通した。どうやら間違いないようだ、太守の印まで入っている。公孫賛は平伏したままの男に近寄り、面を上げさせた。

「立たれよ」

「恐縮でございます」

 男が立ち上がる。公孫賛は目線が大して変わらないことにまたもや驚いた。自分が思い描くことすら出来なかった旅をこの華奢な男がこなしたというのか、屈強な男を予想していただけに意外な思いを隠しきれなかった。

(女の子でも通じそうだな……)

 少々無礼にすぎる公孫賛の内心、それを少しばかりでも読み取ったのだろう、男は苦笑して答えた。

「馬丁に匈奴のものがおります。道にも明るく馬の扱いも達者で、その者と共に参りました。わたくし一人の旅ではございませんでした」

 公孫賛は慌てて打ち消すように言った。

「ああいや、他意はないんです。すまない。誰か椅子をもて」

「恐れ入ります」

 李岳と名乗った男の身のこなしは、まるで司隷で育ったかのように立派なものだった。身に纏っている袍も美しい刺繍が施されている、馬上の旅なため下は胡服を着ているが、取り合わせは悪くない。けれどどうにも着せられていると言った風情で可愛げがあった。

「私が公孫賛です」

「これは」

 李岳と名乗った男は一瞬目を丸くした後、何か面白がってるような表情を浮かべた。

「どうされたかな?」

「いえ、将軍直々のご足労恐れ入ります。お約束通り并州生まれの馬、五百頭をお渡しいたします」

 男はやはり面白がっている風な表情で見てくる。あるいは礼を失する行いだが、公孫賛は嫌な感じはしなかった。幕僚が咎めるように咳払いすると、李岳は慌てて顔を伏せた。もう少しこの者の顔を見たかったのに、と公孫賛は内心勿体ながった。

「数は確かかな?」

「それが」

 言うと李岳は困ったように頭をかいた。冠が右に左に揺れる。寸法が合ってないのかもしれないが、どちらにしろ似合ってない、とんちんかんな印象を与える。公孫賛はその仕草への可愛さあまって笑いを堪えるのに大層頑張らねばならなかった。

 主の葛藤をよそに、隣に控えていた文官が見て口を挟んだ。

「足りないのですか? まぁ長旅です。そういうこともあるでしょう。ですがこちらとしても代金は前払いでお渡ししてるはず。頭数での値段しか支払うことはできません……返金のご用意はおありか?」

 してやったりと笑ったのは文官ではなく、商人の方だった。ニコリと花のような笑顔を浮かべて言った。

「いえ、それが逆なのでございます。実は何頭か失うものだろうと多めに連れてきたのですが、幸い脱落することなく全頭連れて参ることが叶いまして、若干余りがあるのでございます。そうですか、頭数分ということは代金も多めにいただけるのですね、いや安心しました」

 予想だにせぬ返答に文官は息を詰まらせ引っ込んだ。

(……なにやりこめやられてんの)

 だが公孫賛はその文官を責めるより、目の前の商人を褒めるほうが正しいだろうとわかっていた。

(飄々と……怖くないのか。私の背後には三千の軍が控えているというのに)

 もちろん約束を反故にするつもりもなければ、余った馬を買い取ることだって嬉しい誤算だ。日々黄巾の乱は拡大している。いまだ琢郡一つの長に過ぎないが出撃は機動性を求められる。幽州は横に広く、賊の侵入に対応するためにはどうしても馬が必要だ。それに間もなく西涼への出兵が企画される。軍備は急務だ。

 結局余りの馬も全て買い取ることにして代金と馬の受け渡しを行った。確かに河北でもあまり見ることがない駿馬がゴロゴロといる。気性は荒そうだが、それはこれから軍馬として調練すればよいだけの話だ。全頭のうち百ほどが白馬であった。これほどの数を揃えるのは大変だったろうと問うと

「『白馬義従』のためならば」

 と返された。白馬は求めたが部隊の名称までは伝えていなかったので驚いた。

 北方で地味に戦う日々ばかり過ごし、有名を馳せるというほどではないと思っていたが、他州の一商人に『白馬義従』の名前を知られていたなんて、と公孫賛は心から嬉しくなった。

「今宵は宴席を設けるから、くつろいでいって頂戴」

 折しも夕暮れが迫ってきている。琢県の町まで半里もないので一駆けするとすぐに到着した。道中、並走する李岳の馬があまりに見事なのでいくら出せば譲ってもらえるかと聞いてみたが、自分の持ち物ではなく借りているだけなので交渉の権利がないと言われた。

「じゃあ仮にあなたの持ち物だったらいくらになるだろうか?」

「同じ事です。『私の持ち物ではない』と嘘を言ってお断りしたでしょうね」

 愉快な返答だった。

 町につくと庁舎の一室に席は整っており、幕僚を引き連れて着座した。一商人に対しては遇しすぎと言えたが、これから長い付き合いとしたい公孫賛にとっては当然の接待だった。李岳の懇願により公孫賛は連れの一人までの宴席へ臨むことを許した。背の高い男であった。

 幕僚を含めて話は大いに盛り上がった。天下の趨勢如何か。

 

『蒼天已に死す』

 

 檄文は燎原の火の如く河北を走り、世は黄巾の賊に荒れ、北方は鮮卑の侵入が頻繁となっている。誰もが群雄割拠の時代の到来を予見し、天下に名だたる将軍の名を競うように並べ立てはじめた。幕僚の将軍たちは并州、あるいは司隷の情勢を知りたがり李岳にいくつもの問いを投げかけたが、彼はその全てに鮮やかに応えた。

「黄巾の乱は終息が見えませぬが中央ではどうお考えかな」

「多くの将軍、都督が人心を安寧に導かんと奔走されております。鎮定はいずれなされるでしょう」

「その中で特に有力な方といえば誰でしょうかねえ」

「皇甫嵩、朱儁両将軍が多大な勲功を競い合っていると耳にしました。あとは名門袁家の袁本初様、涼州の董卓様、揚州の孫堅様に曹操様といった方々の勇名が特に人々の口の端に上ります」

 公孫賛は李岳の言葉にいちいち頷いては感心した。朝廷にて三公のうち太尉を任ぜられた張温より、此度涼州で巻き起こった韓遂を首魁とする大規模な反乱の鎮圧に幕僚として従軍せよとの達しがあった。太尉より直々に命が下るなど抜擢といってもよかったが、公孫賛は嬉しさ半面不甲斐なさも感じていた。縁故を頼っての参陣だという周囲の声が聞こえてくるからだった。

 公孫賛は盧植門下で学びを得ていた時分、当時尚書郎であった張温に偶然面通りがかなったのであるが、張温は字を伯慎といい、伯圭である公孫賛と一字を同じくする。その誼でもって親しくやり取りを交わすようになったのだから、完全な実力とは言いがたいだろう。

 参軍はもはや内定といってよかったが、達しでは出撃まで間もない。それで慌てて馬の購入を急がせた。

 涼州征伐の遠征において董卓、孫堅とは轡を並べることになる。公孫賛は序列はあれど同輩となる将軍たちの話を幕僚として席を並べる前に耳にすることができ大いに喜んだ。公孫賛だけではない。彼女の麾下も李岳の話に興味津々の様子であった。李岳が挙げた名前をめぐりその中で誰が最も優れているか、昇進はどうなるか、三公は、と喧々諤々の議論が飛び交ったが、不意に場違いとも言える質問が飛んだ。

「并州からどうやってこの地へ?」

 末席から一人の女性が立ち上がると、口の端に愉快気な笑みを浮かべながらこの地までの道順を聞いた。 

 先月より公孫賛の元で客将として幕に参じている趙雲という容姿端麗な武芸者で、その槍捌きを以って比類なきこと甚だしいとして常山に趙雲ありと謳われている。

 李岳は彼女の問いに訝しげに首をかしげ「当たり前のことですが」と前置きをして答えた。

「……道に沿って来たまでです」

「では常山郡を通られたということでよろしいですかな」

「ええ」

「何か変わったところはございませんでしたか?」

 場がしんと静まり返り、どこぞで小さく「それがどうした」という声が漏れた。だがその声にも彼女は悪びれもせず、快活に笑ってから続けた。

「あいや失礼。それがし常山の生まれにて、近々における故郷の様子をぜひともお伺いしたいと思いましてな」

「……ご芳名を伺いしても?」

「姓は趙、名は雲。字は子龍。常山郡の生まれで今は公孫賛殿の食客に甘んじております」

 途端、李岳は顔をハッとさせた。公孫賛はおや、と思った。常山の趙子龍といえば確かに近年類稀な武芸者として名を馳せてはいるが、いくら何でも他州にまで知られている程ではない。李岳はすぐに平静な表情へと戻ったが、公孫賛――そして趙雲本人にだけは、その動揺を覚えられてしまった。

「――趙子龍殿、わたくし共は并州の雁門群より真っ直ぐ冀州を越え、幽州にまでやってきました。常山郡は避けては通れぬ道です」

「それでよく無事だったものですな。あの一帯は黒山賊の巣窟のはずです。それがしが故郷を後にして数年になるが、風に聞く便りではより一層勢力を増しているとのこと。五百を超える駿馬はどこの誰にとっても垂涎ものでしょう、無傷でよく辿りつけたものだ」

「……これは参りました。趙子龍殿はわたくしをお疑いのようだ」

「いや、是非その理をお伺いしたいと思うたまで」

 視線が李岳に集中する。趙雲は一献飲み干して、さてお手並拝見と面白がった。

(初め見た時からおかしいと思ったのよな。あんな大層な馬を持つ使い走りなどと聞いたことがない。本当にただの商人か、な?)

 ここで無様をさらせば程度が知れるが、その時は自分の勘が鈍かったのだと反省するだけだ。

 李岳は自分を見つめる周囲をゆっくりと見回して、まるで観念したように一つ嘆息をこぼすと、立ち上がって弁舌を振るい始めた。

「……皆様ご不審のようなのでご説明いたします。商人というのは人の伝手を頼って進みゆくものです。それはさながら薄く張り巡らされた蜘蛛の巣の上を歩くようなもので、いくつもの人と人を結び目にして網目のように道を作るのです。その道をどんどんと広げていけば、天下に名だたる張燕様に行き着くことも自然なこと。ご明察、将軍にはお見知りおきを頂いております」

 李岳の対面に座っていた武将が立ち上がり「盗賊の手引きを受けたか!」と真っ赤な顔で大喝した。その威に気圧されることもなく、李岳は肩を竦めた。

「以前に何度か商いをさせていただいた、それだけの関係です。誓って言いますが世に憚られる類のものはやり取りしておりませんよ……ま、その縁を伝って通行許可の竹簡に書いてある通りのことを履行していただきたいとお願いはしましたが。張燕様は帝の印可によって任ぜられた中郎将の位階を持つお方、特に大過なく通していただけました、おかしなことはありますまい」

 立ち上がって大声まで出した武将だが、李岳の説明にそれ以上突っ込むことは出来ず、盗賊ごとき云々、憮然と呟きながら席に戻った。趙雲も礼を言って腰を下ろした。だが内心では疑惑がさらに募った。

(なるほど、理は通っている……が、実物を知っている身からすればあの『飛燕』が易々と通すなどという説明、失笑モノだ。寝言にも程がある。そのような甘い相手ではない。よほど懇意にしているか、あるいは特別な荷物を下ろしたか……かな)

 あれ以上突っ込めば『帝の印』にケチを付けることにもなるので諦めざるを得なかったが、趙雲の中では李岳という男への興味がふつふつと湧いてきた。弁は立ち胆もある。あるいは武術の心得さえあるかもしれない。願わくば一度槍を交えてみたいものだと思った。

 だが趙雲の手にした収穫とは裏腹に、場の空気は白けてしまっていた。李岳も困ったように小首を傾げている。最も上座にいるはずの公孫賛が、場をとりなすように慌てて話を変えた。

「面白い話だったわ、うん、そういえばさっきこの中華で多くの将軍が活躍していると言ってたわね。どうかしら、この公孫賛がより一層有名……じゃなくて、飛躍するためにはどうしたらいいかしら、李岳殿?」 

 李岳は束の間思案したあと、道中の短い見聞でしたが、と前置きをしてから話した。

「涼州の乱を征伐に参られるとか」

「これは耳が早い」

 公孫賛の配下の一人が感嘆の声を上げたが、李岳は大したことはないと首を振った。

「戦乱の世です、耳聡くもなりましょう。さて、従軍はよいとしても、失礼ながら位階において公孫賛将軍はいささか低きにあられる」

「無礼な!」

「お許しください……しかし此度のご指名、位階にこだわらぬ司空様の御英断によりあるいは卑人の妬みを買うこともありましょう」

 思うところがあるのだろう、公孫賛は頷いて続きを促した。

「ここへ参る道すがら、公孫賛将軍の旗を掲げた軍勢が、無抵抗な烏桓族の旅の一行を襲撃しておりました。軍勢は少数とはいえ十分に武装し、一行を蹴散らし収奪を働いたのです」

 一瞬の間を置いて席がざわめいた。公孫賛は耳を疑ったが、李岳は間違いないとばかりに真っ直ぐ視線を譲らない。

「……なんですって、私はそのような命令を出した覚えは……誰ぞ指示したものはいるか」

 戸惑った公孫賛が辺りを見回しながら問うたが、幕僚を含めてその場の全員が沈黙した。お互いを責めるように目配せしあう武官、文官。だが誰も名乗り出るものはいない。思い当たる節などないと誰もが首を振っては訝しげに隣席の者の顔色を疑い――やがて公孫賛が拳を震わせながら立ち上がった。

「……ちょっと待って、誰も指示していない? だというのに私の軍勢が? それどういうこと?」

 公孫賛はまっすぐ李岳を見つめ、李岳もまた公孫賛を見た。二人の視線が鋭く交差する。身に覚えがない略奪を指弾されまさに侮辱であると、その顔は言葉よりなお雄弁に物語っていた。

「その烏桓のものたちは何か悪事を働いたのだろうか」

「いいえ、無辜の民と思われます。大半が……女子供でした」

「……たばかっているのではないでしょうね」

「お疑いはごもっとも。わたくしも公孫賛将軍がそのような愚挙に出るとは全く思っておりません。ですが間違いなく、公孫賛軍の旗を立てて烏桓を襲う軍勢をこの目にしたのです」

「意味が分からない。一から説明してくれ」

「騙ったのです――公孫賛様の名を汚そうと、不逞の輩が」

 席に列する一同が驚愕に騒然とした。面白いことになってきた、と興を得たのは趙雲ただ一人。色めき立って気勢を吐く武将に、眉根を寄せる文官。公孫賛は思わず立ち上がると剣の握りを手にしていた。後頭から流れる美しき赤髪、その色を凌ぐほどに顔は怒りの紅に染まっている。激怒の余り声にもならず、公孫賛は喘ぐように言葉をこぼした。

「そんな……まさか」

「しかもその行いは一度ならず複数回に渡ります。廖化殿、あれを」

 頷くと廖化と呼ばれた男は懐から一枚の織物を取り出した。それをヒラリと広げると、場を占めていたざわめきはとうとう怒号へと変わった。ひどい出来で正規のものには見劣りするが、間違いなく公孫賛軍の旗なのであった。

「粗末な贋作ですが襲われた者に真贋の判別は難しいでしょう……」

(私の名前を騙った? それで何の罪もない烏桓の人を襲ったですって……)

 しかも誇り高き軍旗まで偽造し、濡れ衣をかぶせるとは。

 一息置いて李岳は言った。その次の言葉こそ破壊的な衝撃で居並ぶ人々の心胆を震え上がらせた。

「ましてや『白馬義従』を騙った者は、烏桓の長であらせられる丘力居大人の一人娘、楼班(ロウハン)殿の身柄を狙ったのです」

「……領内の叛乱を煽ったというのか!」

 このときにしてようやく公孫賛は合点がいった。

 公孫賛軍の旗を掲げ烏桓の村を襲う。略奪に始まる暴虐を働き公孫賛の名を貶める。さらに烏桓の叛心を煽るために族長である大人の娘を害する。そこまで至れば叛乱、内乱は決定的となる。しかもお互いに了見を得ない言い分を押し付けあう形になるので決着はいつまでも付かない。泥沼の消耗合戦に突入することは火を見るより明らかだ。

 烏桓族の大人、丘力居。烏桓山を本拠とし、その傘下の部落は五千を軽く超えるという。彼が一声上げれば配下全てが直ちに決起し、瞬く間に幽州全域を席巻するだろう。元々、食い詰めた農民などが主体であった黄巾賊とは違い、烏桓は民草総じて武芸に秀ですぐさま精強な軍勢を整える――昨今の乱とは比較にもならないほどに悲惨なことになるだろう。

「楼班殿は、無事なのか!」

「……不運でした」

「そんな」

 公孫賛を含む、一座全てが沈黙した。これから巻き起こる戦乱を想像し目の前が暗澹とした。西涼に出陣するどころではない、領内が全て焼き払われ荒廃するかもしれぬ危機なのだ。しかも非は明らかに漢人にある。地獄の足音が聞こえてくるかのようだった。

「異民族といえど領内に住むものたちに差を作っては人民の安寧を損ねることになりましょう。ましてや収奪などもっての外。挙句の果てには大人のたった一人の姫を……反乱の種を蒔いて水をくれてやるようなものです。誇り高き烏桓が黙っているはずがありません……」

「一体どこの誰が――!」

 事ここに至って公孫賛の怒りは頂点に達した。ただ飢えた挙句の略奪ではない、これは政治的意図を持った明確な犯行計画だ。彼女の大喝は部屋を揺るがすほどだったが、李岳は神妙な表情を崩さなかった。

「お怒りは当然のことです。首魁を連行してきております……彼をここに」

 男は手に掲げていた軍旗を床に置くと黙って戸口より出ていき、それほど待たせることもなく縛についた一人の男を曳いてきた。列席したうちの何人かが驚愕の声を上げる。

「幸いわたくしが護衛に雇ったものが義憤に駆られ、馬上で指揮しておりました主犯格の者を捕らえることが出来ました」

 経緯を述べた李岳の言葉は公孫賛の耳には全く届いていなかった。怒りのあまり頭がどうにかなってしまいそうであった。その瞳は両手を後ろ手に縛られグッタリとしている男に向いていた。

「貴様、張純――!」

 その顔を見忘れるはずがない。公孫賛の脳裏に今まで散々なめてきた苦渋の味が染みた。

 

 ――中山相、張純。

 

 代々官吏を務めてきた家系であることを鼻にかけ、出自の軽重を以って人の価値を計る癖がこの男にはあった。位階が優っていることをいいことに、公孫賛の生母が庶子であることをこれまで幾度と無く侮辱混じりに吹聴し、さらには執務の妨害を度々働き、あらぬ風聞を振りまこうとしてきた男がこの張純だ。それに屈するものかと人馬を鍛え励んできた。だが今まで受けた屈辱が全て無かったことになったわけではない。

 そして今また騒乱の元凶として眼前に現れた。

(この男が……っ!)

 我慢にも限界がある、と公孫賛は剣を引き抜いた。配下は誰も止めはしなかった。猿轡にもがく男だけが必死に拒むように首を振っている。

 李岳が間に入らなければ無様に振られていた首はそのまま勢い良く宙を舞っていたことだろう。

「お待ちください」

「止めるな!」

 李岳は残念そうに首を振った。

「お待ちください、この者を裁くのは失礼ながら公孫賛将軍、貴方ではありません」

「何を言っている」

「……猿轡を」

 李岳の命に従って廖化は猿轡を解いた。よほどきつく縛られ苦しんだと見える、その口からはよだれがひどく垂れ何度もえづいていた。

「さあ、約定を果たしてもらいましょうか……」

「……くっ、くそ! ええい、この手も解け! 我を誰だと心得る! 中山郡太守張純よ! 公孫賛将軍よ、この俺に指一本でも触れてみよ、ただではおかん」

 後ろ手は解放されていないので、垂れたよだれを拭うことも叶わぬまま男は声を裏返して叫んだ。

 その言葉に呆れてものも言えぬと李岳は肩をすくめた。

「公孫賛殿の名を騙ったばかりか、今度は中山相張純様の名を騙る始末。まことに許しがたき次第でございますね」

「騙ってなどいるものか! 私は本物の張純だ!」

「貴方が真実中山相であらせられるのであれば、なぜあんなところにいらしたのです?」

「馬鹿者、領内の不逞の輩を取り締まっていたに過ぎん! 中山郡とこの琢郡は隣り合わせの地よ、逃走した者共を追ってやむなく踏み入ってしまったまでだ」

 張純はここに引きずられてくる間、息苦しさに耐えながら何とか弁解の余地がないかと頭を巡らせていた。よろしい、確かに烏桓を討った。公孫賛軍にも扮した。大人の娘も狙った。だがそれが一体何の咎になる? そもそも領内の不穏分子を放置している公孫賛の方にこそ怠慢が指摘できるだろう。

 一郡の太守をそう易々と斬って良いはずがないのだ、助かる道が潰えたわけではない――忌々しき眼前の小僧を言い負かすことさえ出来れば勝ちなのだと、張純は乾坤一擲の心持ちでこの場に臨んでいた。

「……わたくしの記憶が確かならば、張純様といえば、近年烏桓族はじめ異民族とは宥和政策を取っておられたと存じますが」

 張純が治める中山郡は人口が少なく、賄える兵卒も少ない。よって烏桓と対峙するだけの地力がないので友好を結ぶために年に何度か進物をしていたが、それが問題視されたことはない。他の地の太守も同じような政策をとっており、実際干戈を交えるより遥かに安全で安上がりなのだ。

 だが張純は首を振った――自らの弁護のためには首を振る他なかった。

「……フン! 兵法の何たるかを知らぬ商人風情が、戦や治安維持の常道を説かれたいか! 笑裏蔵刀という金言を知らぬものに何がわかる! 烏桓の者共に擦り寄ったのは油断をさせて一網打尽にすることが目的よ!」

 李岳は目を閉じ、天を仰いだ。一語一句を噛み締めるかのような厳かな姿であった――あるいは誰かの死を悼むかのような。張純にはしかし、論理で破れて悔しがっているように見えたのだろう、しつこく侮蔑の言葉を吐いては喚いた。

 張純の奇声が止むのを平然と待ち、気を取り直して李岳が尋問を再開した。

「よろしい。ではなぜ張純殿が公孫賛軍に扮する必要があるのです? あなたには官公として配下に従える軍勢をお持ちでしょう。黄巾賊に身をやつしていたような、およそ官軍とは程遠い者どもをなぜ引き連れていたのです?」

「大規模な軍勢を動員して取り逃がしてどうする、また手勢が元黄巾賊の者だとて何が悪い、功をもって罪を雪がんと改心した我が兵を侮辱するか!」

「軍旗はなぜ?」

「一貫した軍事行動を取るため念のため用意した。郡境を侵犯したと見咎められては敵を取り逃がすことになる」

「つまり、あの烏桓を襲った手勢は貴方の指揮下で動いていた、公孫賛軍を名乗ったのは任務上仕方なくだった、と」

「そうだ! 烏桓を根絶やしにするためにはやむを得ん措置だった!」

「……それが本当であるのなら、貴方は功績を以って称えられるかもしれませんね」

「そうだ……その通りだ! 烏桓は根絶やしにせねばならぬ。公孫賛、貴様があまりに手ぬるいので手伝ってやったまでよ。やつら烏桓はまさに羽虫よ、ひとつずつ虱潰しにしておくしかあるまい……ええい、わかったらさっさとこの縄を解け!」

 しばしの沈黙が場を包んだ。誰もが彼を――李岳を見ていた。張純の演説など誰も聞いてはいない、目の前で飄々と佇む男の掌の上で踊っているのは明らかだったからだ。なにか目的があって張純にさえずらせている、だがその真意とは一体?

 李岳は皆の注目を知ってか知らずか、クスクスと声を漏らしたあと、乙女のようににっこりと笑った。笑顔は不敵であった。張純だけではなくその場の全員が戦慄した。目の奥に暗い怒りの炎を宿らせたまま、人はこのように笑うことが出来るのだろうか。

 趙雲は内心呟いていた。

 

 ――天が鬼神を遣わしたか、と。

 

 本当なら裁可を下すべきは主人たる公孫賛なのだが、彼女はどうすればよいのかと李岳に目で問うばかりだった。だがそれを無責任だとなじることはできないだろう。この場は完全に李岳と名乗った小柄な男の独壇場だった。彼が支配し、彼が決める。

「これは参りました。中々上手に話すものですね」

 まるでここまで上手に踊ってくれるとは思ってもみなかった、と傀儡の出来栄えを喜ぶかのような物言いであった。その場にいる者全てがその異様さに飲まれていた。この男が本当に一介の商人かと信じているものはもはや誰もいなかった。

 怒りに猛っていた公孫賛でさえ、彼の異様さに圧倒されて冷水をかけられたかのように静まっていた。

「公孫賛殿、どう思われますか?」

「……何をだろう」

「貴方様もやはり彼のように烏桓の人々を殺し尽くすべきだとお考えですか?」

 公孫賛はしばらく考えたあと、縛った髪が激しく揺れ動くほどに首を横に振った。

「馬鹿な。この琢郡に住む限り彼らは領民だ。人は罪によって罰せられる、出自がどうというのは関係がない。確かに異民族とは軋轢がある、戦乱もある。だが皆殺しにしてよいとは思わない」

「……お見事でございます」

 公孫賛にはわけがわからなかったが、突如李岳は袖で顔を隠して敬意を込めて礼を取った。その真意を告白しないまま、続いて張純の前に立つ。

「ええい、縄だ! さっさと解放しろ、この馬鹿どもが! 私が張純だ!」

「ええ、そうでしょうね。最初からわかってましたよ」

「な、なに?」

「知りたいことは全部吐いてくれました、無駄な拷問もすることなくね、手間が省けました……ですので御託はもう結構です」

「な、なんだと!」

 水を打ったように静かな声――李岳はもう笑ってはいなかった。眼差しは酷薄といってもよいほど冷たく、喚き散らしていた張純に対する軽蔑の念を隠そうとするのをやめた。

「どっちでもいいんですよ私にとっては。貴方が本物の張純様であろうと、偽物であろうと。どちらにしても末路は変わりません。まぁ偽物ではなく本物の張純様として死ねる方が気分も落ち着くというものですか……私が聞きたかったのは一つだけ。烏桓襲撃を指揮したのが公孫賛将軍ではなく貴方だ、ということ。それだけなのです。誤解を解きたかっただけ。貴方が間違いなく張純という名前の人物であるかどうかはどうでもいい、仇が誰であるか、それだけをお聞かせしたかった」

「……何を言っている?」

 不安に目を泳がせる張純を無視し、岳は背後の戸口へ向かっていった。

「お入りください」

 戸が引かれるとそこには一人の少女が立っていた。幼く背もまだ伸びきっていはいないが闊達そうで、長い足は胡服に包まれているので異民族だと一目でわかる。いやそれ以上にはっきりとその姿は漢人とは異なっていた。天鵞絨がごとき滑らかな青い髪に、わずかに尖っている耳、瞳はそれに対照をなすかのような漆黒――だがその黒を塗り替えんばかりに燃え盛る、怒りに滾る赤い炎は誰の目にも明らかであった。

「皆様、ご紹介申し上げます。烏桓族の大人、丘力居様がご息女……楼班様でございます」

 李岳が厳かに頭を垂れると同時に、楼班と呼ばれた少女が刺突剣を引き抜いた。

 風の祝福を受けたとされる不可思議な霊剣『大精霊』は、烏桓の王族にのみ引き継がれるものとして漢人にも知れ渡った勇名だった。秀麗な装飾が施された持ち手、細く透明な刃剣には摩訶不思議な霊力が宿り、主の意に従いて風を呼ぶ――その伝説はいまや確たるものとしてこの場に顕現し、居並ぶ全てを圧した。少女を中心に激情の暴風が渦巻き、憤怒の電荷を帯びた冷気がほとばしる。

 

 ――いざ、嵐の刻。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。