真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第六話 遭遇

 宴は盛大であればあるほどその終わりは物悲しさを増す。

 出立の朝、寂寥を誤魔化すように張燕は笑顔を見せた。

「次はあんまり間空けんじゃないよ」

 岳はまだ覚めきってない目をこすりながら答えた。

「はぁ……」

「ばかちん! そこは嘘でも『ああ、すぐに会いに来るぜ』くらい言っとくもんだわさ」

 バンバンと岳の背中を叩き上げながら張燕は照れ隠しのように笑った。

 日が出て一刻は経つ、馬群も揃わせ秣と水も与えた。張燕の背後には五十人の男たちが整列している。張燕がどうしても連れて行けという精鋭五十人――つまり護衛である。必要ないという岳に、張燕は目をいからせ凄んだ。

「足りないオツムにひらひらの黄色い布きれ垂らした馬鹿どもが仁義も情もなくのさばってやがる。アイツらにヤラれたりすることはないとわかっちゃいるが、心配したくなるのが乙女心ってもんさね」

「乙女心……」

「歳の話をしたら殺す」

 腰の双剣に手を当てた張燕を、岳は押しとどめるのに苦労した。そして護衛と言われた五十人を見やった。皆屈強な猛者に見える。一人ひとりが相当の遣い手だろうと思えたが、何より先頭に立っているのは昨日岳を迎え入れた、背の高い黒装束の男だった。

 岳は今朝になって聞いた話なのだが、三国志の世界ではほとんど最後まで登場するあの廖化である。まさかこんな所で出会うとは思ってもみなかったので岳は心底たまげた。

(史実だっけ演技だっけ、確か盗賊上がりで関羽にこらしめられたとかそんなんだったよな……黒山にいたのか。しかしこれで『登場人物』と直接会うのは張燕、呂布、そしてクソッタレの於夫羅を合わせて四人目だ)

 岳は昨夜の自分の考えていたことをもう一度反芻して内心ため息を吐いた。三国志の世界に関わるべきではないという思いは依然強く持っているが、こうして出会ってしまうのだから思うままにならない。

(ま、仕方ないか。どうせすぐ別れることになる)

 割り切って心強い護衛がついたことを喜ぶほうがいいだろうと頭を切り替えた。

 岳にも拭い切れない不安があった。常山から向こう、冀州から幽州に至るまでの情勢がよく把握できていないということだった。これまでに数度に渡って公孫賛軍に『試供品』としての馬を届けている。道のりや停泊地などは頭に入っており問題はない。ただ黄巾賊を含めた動乱のうねりは刻一刻と変化をしており予断を許さない。冀州、幽州では官軍や黒山賊の睨みが利いているのでそれほどの無法はないとの話だが、慎重を期して足らぬことはない。

「特に烏桓(ウガン)には気をつけな」

 張燕の意外な台詞に岳は首をかしげた。烏桓とは幽州に根拠地を置く異民族の名だった。馬を駆り矢に長け、山に住み勇猛果敢。漢人と隣合わせで生きながら異なる生活様式で暮らしていると聞く。

「烏桓、ですか」

「ああ、特に向かう先は公孫賛の元だろ? もし烏桓と出会うことがあったら、いいね、絶対にそのことは言っちゃいけない」

「どういうことです」

「どうもこうもないさ、公孫賛はこの頃ひどく烏桓を締め付けているのさ。ありゃまんま弾圧だ。軍勢でもって押しこむこともままある」

「……おかしな話だ」

 公孫賛は武断の人だと知られている。だがそれは北方から侵入を試みる鮮卑などに対してであって、もともと領内に住む者を締めつけていいことなどない。いや、と岳は内心保留を置いた。

(いや、正史なら確かに異民族とは徹底抗戦していたはずだ……だけど、だったら匈奴に馬なんか頼むか? それにこれまで何度か受け渡しに向かったが、差別や偏見なんかは受けることはなかった)

 考えこむ岳に張燕は念を押した。

「実はアタシもおかしな話だと思う。ただ烏桓にとっちゃあ事の真偽なんざどうでもいい。公孫賛憎しで凝り固まっちまってるよ。気をつけるこった」

「肝に銘じます」

「じゃ、またな」

 張燕は笑顔で見送った。

 別れを惜しみながらも岳と香留靼は出立した。馬群は朝の冷気の中、気持ちよさそうに走っている。黒狐も朝もやの中で泳ぐように走るのが心地よいとばかりに楽しげに鼻息を荒らげている。黒山の男たちはそれぞれ思い思いの馬に乗っているが難なくついてきている。選りすぐりの者を選んできたのだろう。宿営するのも手馴れたもので、食料も皆思い思いに携えていたから面倒は少なかった。夜中は順番に歩哨に立ちながらも、焚き火を囲んで多くの話を交わした。どうして賊になったのか、なぜ張燕に付き従うのか。不毛な時代、という言葉だけでは表せない苦労や波乱を皆それぞれが抱えていた。

 冀州に入っても問題は少なかった。人口が多く豊かとは言っても并州から程ない地域は過疎なのだ。むしろ漢人ではなく匈奴や烏桓の方が多い。岳がこのまま幽州まで無事ついてくれればと思ったその頃――もう一山越えれば(タク)郡※に入るというちょうどそのとき、喚声が聞こえてきた。一行に緊張が走り、廖化の一声で五十人が一塊になった。馬群も興奮し、何頭か一斉に棹立ちになったが、香留靼が二度三度往復しながら独特の奇声を上げると落ち着いた。

「戦かな?」

「なんとも。黄巾賊やもしれません」

 廖化が応えた。

「……無視して突っ切るのも危険だな。直接見に行くか。廖化殿、半数を連れてついてきてください。香留靼は面倒を見といてくれ。何かあったら来た道を真っ直ぐ戻ること」

「お待ちくだされ、我らが手の者だけで向かいますので」

 廖化の言葉を岳は掌で遮った。

「行くか戻るかの判断は私がくだします。二度手間になるでしょう。それにいざとなれば一目散に逃げますよ。なぁ?」

 黒狐が岳の言葉に答えるように首を振った。廖化はやむを得ないと頷き、半数を選り抜いて整列させた。香留靼は「面白い事になってきた」と不謹慎にもひどく楽しそうだ。

 岳は指揮権は自分にあること。勝手な真似はしないこと。気づいたことは全て報告すること。その三つを廖化に言い含ませたが、意外にもすんなりと了承されて気が抜けた。年下の子供に指図される謂れなどない云々と抵抗されると思ったのだ。廖化の内心としては昨晩香留靼から話を聞いていたので、よほどのことがなければ大丈夫だろうと考えていた。

 なだらかな斜面に従って駆け降りていき琢郡の境を越えた。黒狐は興奮しているように首を振り回した。やや遅れ気味だが廖化たちもよくついてきている。戦場へは間もなく着いた――否、戦場ではなかった。それは一方的な攻撃であり、傍目にはとっくに決着がついているように見えた。

 どうも移動中の一団が奇襲を受けたようだ。射殺された馬と横転した馬車が見える。岳は茂みに伏せてその様子に目を凝らした。今現在行われているのは戦後のただの略奪に過ぎない。予想を裏切ったのは、略奪を行なっているのが黄巾賊や野盗などではないということだった――見間違い得なければ、確かに『官』の旗がたなびいている。

「官軍が襲撃を……?」

「公孫家の旗も立ってますな」

 廖化が指さす先には確かに公孫賛を示す『公』の旗がはためいていた。勝ち名乗りを上げている官軍と思しき連中は、皆口々に

『白馬将軍に逆らうか!』

『我々は公孫賛将軍の命令でやってきた!』

『我ら白馬義従』

 と声を上げてさえいる。岳は草むらに伏せたまましばらくその様子を見守っていたが、やがて襲われている人々が漢人ではなく烏桓族であるということがわかった。倒れ伏している人々の姿格好が胡服であり、兵卒も口々に『蛮族が』『夷狄が』と罵っている。

「張燕はこのことを言ってたのか……だけど変だ」

 確かに公孫賛といえば北方の異民族の侵入に対抗して勲を得た将軍だ。だがそれは主に烏桓ではなく鮮卑であるし、このような小規模な一団まで迫害する必要などどこにもない。なによりここは公孫賛の勢力範囲すれすれである。そこにあんな少ない手勢でやってくるなどあり得るのだろうか。そして何より――

「白馬、見える?」

「見えませんな」

 白馬義従と名乗ってはいるが誰一人白馬にまたがってはいないしほとんどが徒だ。確かに装備は官軍のように見えるし公孫賛の旗も振ってはいるが、あんなものいくらでも作ることが出来るだろう。岳は勝ち鬨を挙げる男たちが正規軍ではないだろうと思った。

「……騙りか」

「……さて、何のためでしょう」

 廖化の言うとおり『では誰が』『一体何のために』という疑問が沸き起こる。

 偽官軍の中でただ一人馬上の男がいた。尊大に睥睨しながら口汚く喘ぐように大声を出している。男は矢継ぎ早に指示を出しているが、怒鳴りちらしては辺りを何度も見回していた。

「……遠いな、聞こえない」

 と岳が悔しそうに呟いた時、隣の廖化がささやいた。

「娘、探せ。はやく見つけろ」

 岳は耳を疑ったが、それも無理はなく、ここからあちらまでは木々や茂みで隔てられている上に相当離れている。未だ兵卒の喧騒も醒めやらぬ中で、ただ一人の男の声だけをより分けて聞き取ることなど不可能に思えた。

「聞こえるんですか?」

「唇を読んだまででさ。そんなに大した技術じゃあない」

 平然と言い放つ廖化だったが、岳は自分も耳や目に自信があるからこそその技が大したものだと察した。

「しかし、娘か……誰のことだ? ただの略奪じゃないってわけだ」

 そのとき黒狐が何かを見つけたかのように鼻を鳴らした。岳は黒狐が望むがままに馬首を巡らせた。迷いなく駆け始める黒狐の後に遅れて廖化たちが続く。束の間駆けるととうとうその先に黒狐の察したものが見えた。

 人影が一つ、背後から迫る男から懸命に逃げているが、まさに振りかぶった凶刃がその背中を裂くのが岳の目に見えた。岳は腰に結わえていた弓矢を取り出すと馬上から射た。矢はとどめを刺さんとする男の左肩に命中した。もんどりうって転げまわる男を無視して、岳は切られた人影に駆け寄った。

(浅手なら……!)

 だが岳の願いも虚しくその傷はもはや直視がかなわぬ程の凄惨さだった。胡服を身に纏った女は死に瀕した蒼白な顔で、最後の力を振り絞るかのように岳に言った。

「こ……この……」

「話すな!」

 岳は彼女の死を確信しながらもそう言わずにはおれなかった。だが女もまた同じ確信を抱いていた。残された生の最後の刹那に岳へ遺言を託そうとしているのだった。

「ま、まも……て……こ、この……こ……を……」

 女の目から一筋の涙が頬をたどった。その雫が地に落ちることさえ待たず、彼女の命は去った。死は無情にも遺言の返答さえ聞く間を与えなかったのだ。

 

 ――岳は上空を見上げた。この怒りが収まることはあるのだろうか。憤怒は真逆、氷のように岳の心を冷やし、神経は普段では考えられないほどその鋭敏さを増した。樹上から舞い落ちる木の葉の節々まで全て見通せた。

 

 ――だから当然、背後から迫った一撃も手に取るようにわかっていた。

 

 言葉はもう必要なかった。岳は腰に佩いていた剣を抜き撃った。母の桂から伝えられた撃剣の奥義は小手への攻めにある。抜刀からまっすぐ敵の握り手の指を切り落とし、返しの二の太刀で敵を屠る必殺剣である。閃光が交差する。父、弁によって鍛えられた血乾剣。岳の剣速も合わさって返り血すらその刃には纏わりつかぬ。断末魔の声を挙げることもなく男は両断された姿で永遠にこの世を去った。

 岳は刀を納め、凶刃によって虚しくこの世を去った遺体に近づいた。不自然に膨れ上がったその体――岳は女の着物を解いた。腰帯を何重にも巻いて、一人の子供を抱いていた。齢は十二か十三か。血の気の失せた頬の色をしているが確かに息はしている。この子を守るために、我が身を呈して背で刀を受けたのだ。岳は帯をほどいて少女を解放した。意識はなく、浅い呼吸を何度も繰り返してはぐったりとしている。

 廖化たちがようやく追いついてきて、彼らは全員岳が切り捨てた死体を見て戦慄した。生半な太刀筋でないことが明らかだった。

「……李岳殿」

「間に合いませんでした。この子を託されましたよ」

「……少女ですか」

「息はあるようです」

 辺りは静かだった。官軍のふりをした一団もこことは離れた所で捜索している。おそらく岳が斬り捨てた男は手柄を独り占めするために同僚を出し抜こうと手勢を呼ばなかったのだろう。その浅ましさが僥倖を呼んだ。

「どうされますか」

 廖化は顔色の悪い少女の顔を見つめながら岳の答えを待った。旅に連れていくのもどこかの村に預けるのも適当ではないように思える。育てるとも簡単には言えぬ。あるいは頭目の信頼厚きこの男なら妙案を持っているのかも知れぬと期待を込めたが――しばらく顎に手をやって考え込んでいた岳が意を決したように口にした言葉を聞いて、廖化は愕然とした。

「やつらに引き渡しましょう」

 岳の瞳に迷いはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 姓は張、名は純。それが男の姓名であった。代々地をよく治めた能吏の家系で、彼の父もまた令を任じられていた。張純ははじめ能く町を治め余った税は返しもした。その評判はよく人の口に上り彼が孝廉に推挙されたのは二十三の歳であった。司空張温の覚えも目出度く、帝直々の手による軍制改革にも推薦され、中山国の相から一気に栄達への道が拓けるかに思えた。

 ところが一昨年のある日、張純は朝廷からの使者の面前で突然癲癇に襲われた。白目を剥き口から泡を吹きながら昏倒して頭を強く打った。半日で意識は回復したのだが使者の前ではあまりに折が悪く、張純はその場で使者に多額の賄賂を送ったが、結局彼の口を戸で塞ぐことは叶わなかった。

 癲癇を理由に中央への推薦は白紙とされ、彼の官吏、あるいは一軍の将としての試金石となるはずだった西涼への反乱鎮圧への出征も取り上げられ、あまつさえ――これが最も腹立たしかった――後任に卑しい出自の公孫賛が充てられた。張純は予てより公孫賛の生まれ、その武断な性格が気に入らず女であることも含めて軽蔑していた。健康であり、若く、巷で『白馬将軍』などと謳われては人々の注目を集める――その全てが気に入らなかった。一県の令から自らと同じ地位である相を飛び越えて郎にまで出世するのではないかというまことしやかな噂が流れた時、張純はいても立ってもいられず自らの剣で庭の木を散々に切り刻む程だった。

 そのような境遇であった彼に、ある日囁かれた秘密の誘いはあまりに甘く抗い難かった。

 

 ――あのような卑人の出世を指をくわえて見ているのか?

 

 手引きを聞くに間違いのない計画に思えた。それから張純は全ての情熱を傾けて幽州、冀州を走りまわった。あるいは走狗のようであったが、張純の胸には希望と充実で満ちていた。不満もある――なぜ夷人、蛮族と関わり合わねばならないかといったものだが、それも今だけの辛抱に違いないと思えば何ほどのこともなかった。公孫賛さえ亡き者にすることさえ出来れば全ては解決する、きっとまた中央への道が拓けるだろう。刺史、牧、三公!

(だというのに……!)

 張純はもどかしく唇を噛んだ。計画の最後の総仕上げであるこの襲撃、そこでなぜ手間取らねばならないのか。標的が今日移動することは情報通りだ。だが選んだ道が違うではないか、と張純は思い出しても歯軋りした。そのために攻撃は機会を損ね、威力もちぐはぐとなり、目的の女が道中逃げ延びていることに気づかなかった。

「早く探せ! このあたりにいるに違いない! 見つけた者には金二十をくれてやる! 急げ!」

 そうして声を荒らげてもう一刻は過ぎた。この襲撃がいつものように公孫賛の仕業であるという証拠は十分に残している。あとは目当ての女だけ捕まえれば撤退できる――張純の待ち望んだ声がそのときようやく届いた。

「娘を捕らえました!」

「遅いではないか!」

 張純が呼び寄せるとひどく返り血を浴びた兵卒が少女を抱えていた。間違いない、と張純は人相を改めて確認した。

(間違いない、この女で間違いない、これで公孫賛は滅びる、間違いない!)

 その喜びのあまり、張純は兵卒が見も知らぬ男も一人連れ立って来たことにようやく気づいた。卑屈な笑みを浮かべた小柄な男であった。

「なんだ、貴様何者だ」

「はい、わたくしは李岳と申します。しがない商人の使い走りで偶然この辺りを通った次第です。名高き公孫賛将軍の麾下の方とお見受けいたします」

 小男は美辞麗句を並べ立てながら平伏した。よくも騙されるものだと張純は内心鼻を鳴らした。旗だとて夜っぴて針子を急かせて拵えた急場の拵えだが、そうと言われなければわからないものかもしれない。

「お探しの娘はこの者で間違いございませんでしょうか。この李岳が召し捕らえましてございます」

 張純は訝しげに血まみれの男に目を向けた。兵卒は曖昧な表情で頷いた。どうやらこの李岳と名乗った男が見つけ、兵に引き渡したということらしい。無能め! と内心張純は罵ったが、こうなってはやむを得ない。適当に言い含めて追い返すのが得策だろうと思った。

「名は覚えておく。将軍へも確かに伝えておこう」

「ははあっ! ありがたく存じます」

 手揉みをするので懐から銭を一握り放り投げた。商人は浅ましくも鼻息を鳴らしてそれを拾い集めて平伏した。

「ひとまずはこれで許せ。追って沙汰があるだろう、待つがよい」

「はは、約定確かに承りましてございます。何卒よろしくお伝え下さいますようお願い申し上げます」

(残念ながらお前のような男の手柄などどこにも伝わらぬ。そもそも公孫賛など、あのような小娘の元にどうして馳せ参じることができようか)

 張純はこみ上げる笑みを抑えることが出来ず、愉快だ愉快だととうとう笑い出しながら馬上へ戻った。号令をかけて進軍を始めた。だらだらと後に付き従う兵卒が疎ましかったが、この後綺麗さっぱり始末してしまうのだから辛抱ももう少しだ。証拠は残さぬ、と張純はやはりにたにたと笑いながら思った。馬鹿どもめ、貴様らは元の黄巾賊のまま死にゆくのだ、この小娘さえおれば残りは用済み――

 そう思って隣を歩く兵卒を見た。両腕の中で優しく抱きしめられた女だが、はて、と張純は首をかしげた。この返り血にまみれた兵士、手柄をねだらぬ。また巨躯とは言わんが背も高く精悍で、まるでいっぱしの武人のようだ。このような男が一団にいたであろうか。

 張純は疑問の答えを自ら見つけ出すことが出来ず、とうとう口に出して聞いた。

「お前、名前はなんだ?」

「お忘れですか?」

 一人ひとりの兵卒の名前など毛頭覚える気はない。だがこのとき張純は目の前の男からただならぬ気配を感じていた――どうしても名前を知らねばならぬ気がする。そう、きっとこの俺はこの男の名前を知って置かなければならぬのだ、と――

「姓は廖、名は化……」

「廖化か」

「黒山賊頭目、張燕が第一の部下なり」

 廖化が左手一本で少女を抱え直し、反対の右手を空に掲げたのを張純はボケッと見ていた。一体この男は何を言っているのだ、黒山賊? 張燕? 一体どこの誰のことを――間もなく山間に響き渡った悲鳴が、彼の正気を引き戻した。廖化の周りにつき従っていた男が二人三人と悲鳴を上げて倒れ伏していった。胸に喉、頭蓋にそれぞれ矢が突き立っている。張純は不思議と平静であった。夢の中の出来事を俯瞰しているかとでも言うように……

「て、敵襲!」

「敵? 敵とは誰だ? 誰のことだ!?」

 張純が何一つ判断を下せぬうちに、右手の斜面から数十人の男たちが逆落としをかけてきた。全員が騎乗しており、その最初の突撃だけで十人以上が蹴散らされた。狙いを違わぬ矢が一切の間を空けずに一人、また一人と射倒していく。廖化の剣が二人同時に倒したが、もはや混乱の極みに堕した張純は彼が一体誰を切り捨てているのかさえ見落としてしまっていた。

「一体どこの誰だ! う、討ち取れ! 廖化、全て討ち取れ!」

「全て討ち取りましたよ、あなた以外」

「なっ」

 所詮付け焼刃の装備を身に纏っただけの、お世辞にも軍勢とは言えない集だった。斥候も出さずに堂々と隘路を進み見事にはめ殺しを食らったのも致命的であり、倍する兵力を持っていたにも関わらず半刻を待たずして張純の手下は全滅していた。

 廖化は容赦なく張純を馬上から蹴り落とした。地面に背中をしたたかに打った張純は絶息し苦しげにもんどり打ったが、誰も意に介すことはなく素早く後ろ手に縛り猿轡をはめた。

 縛について初めて張純は状況を察して、縊り殺してやらんとばかりに前方を睨みつけたが、目の前に現れた男の顔を認めると殺意も怒りも全て疑念と驚きに塗りかえられてしまっていた。

 先ほど目の前でこれ以上ないほどへりくだっていた商人が、氷のような目で自分を見下ろしていた。

 

 ――張純。彼が三公として参内を叶える日はもう来ない。




※琢は当て字です。本来はさんずいへんです。

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