真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第五十九話 武人の本懐

 体が、呼吸に合わせて上下する。風を切り、突き進みながらも心の中は真っ白だった。

 周りでは、人が生きたり死んだりしている。

 うるさい、と思った。自分には関係のないことだと思った。

 体が上下する。心もまた上下していた。ただ熱だけは上がり続けていた。

 手のひらが熱い。口の中もカラカラだった。

 どうしてこんなに天気がいいのだろう。空は真っ青で、鳥は天高く飛び風をつかまえて泳いでいる。

 けれどもう飛ぶ必要はない。

 ただ走ればいい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 袁紹の背中が見える。張遼は戦機に高揚し、叫んだ。打倒した敵の数は最早定かならず、全身は返り血にまみれており顔面まで真っ赤である。張遼は血に酔いしれた。戦場の狂気は彼女の能力の全てを解放させた。張遼が来た、張遼が来た――そう叫んで逃げ惑う兵を見る度に全身に力が漲った。

 武人など、所詮人殺しだ。故に普段は酒を飲んで酔いを誤魔化す――しかし今感じているこの酩酊こそが本来なのだ。この怒り、この悲しみが我が喜び!

「うらぁ、かかって来んかい! この張文遠を止めてみぃ! どうせ死ぬんや、正面から死んでみぃ!」

 張遼が偃月刀を振り回す度に首が舞い、人体が吹き飛んだ。彼女が率いる騎馬隊こそ紛うことなき李岳軍最強である。追い討ちに追い討った。張遼隊の通った道には草木も生えぬ、ただただ血の池が広がるのみである。

 懸命に追走してくる味方の兵は左右に展開して個別に袁紹の背中を追いかけていた。その全てが蒼天に不安げに揺れ動く一本の旗――袁旗しか見ていない。

「袁紹……袁紹! 袁紹ぉ!」

 連合軍盟主の袁本初、最大兵力保持の名家の頭領の背中がもう見える。未だ分厚い中軍が邪魔をしているが逃げ惑う敗残など物の数ではない……蹴散らせ! 張遼は躊躇いなく突き殺していく。

 あの背中に追いつきその首を刎ねたのなら、きっとこの戦争も最短距離で勝利の結末を迎えられるはずだ。二十にもならぬ少年が目元に隈を色濃く残して毎日毎日思い悩む必要はなく、たった一人この漢の命運を背負って無機的な笑顔を無理やり浮かべる必要もなくなる。

 一番初めの生贄が袁紹貴様だ――張遼はとうとう大刀をもって血路を開こうとしていた。傷口に拳を突っ込み力任せに皮膚を押し広げるような荒々しさで張遼は迫る。最初で最後、乾坤一擲の好機。敵の総大将の首を挙げ、この戦を勝利で終わらせるのだと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これ以上ないくらい最悪の状態になっていた。劉備は口元を抑えて懸命に駆けていた。前線の兵士たちが何の統率も逃げ惑ってくる。だが最後尾には情報が行き渡っておらず、祀水関前の道は関羽、張飛、趙雲が最低限の麾下だけ率いて先行している。諸葛亮に授けられた作戦通りに動くだろう。彼女の言葉が蘇る。

 

 ――李岳さんはきっと埋伏の兵法を用いるはずです。先制攻撃をするにしても一万程度の騎馬隊はいかにも少ない。きっと、残りの全兵がどこかで伏せて追撃部隊を狙うはずです。袁紹さんの兵はあれほどの大軍だから、現場は混乱するでしょう。いざ伏兵に遭った時、大軍で追いかけても道が狭く届きません。劉備軍が寡兵だからこそ、少数だからこそ危機一髪の瞬間に間に合うはずです。

 

 ――さっきの会議でわかりました。この連合は全く連携が取れていません。大義も目的もはっきりしていません。袁家を中心とした名家名族と、劉姓の宗室が権力争いをしている……ここで仮に袁紹さんが殺されてしまえば二龍の二人が主導権を握るでしょう。皇帝を挿げ替え権力を思うままにするはずです。それは李岳さんが行っていることと同じ……いえ、比べようもないくらいもっとひどいことです。

 

 ――なんとしても袁紹さんを助けなければいけません。そのための策を今から授けます。劉備軍が到着する頃には、ひょっとしたら最悪の状態になっているかもしれませんけど……袁紹軍は壊滅状態で敗走中、そしてそれを追撃する精強な李岳軍の騎馬隊。条件は最悪といってもいい程です。この作戦がうまくいくかどうかは、皆さんの個人の武勇に頼らざるを得ないのが実情です……けれど、上手く行けば袁紹さんを助け、劉備軍もほとんど無傷で撤退できるはずです。

 

(本当だよね……信じていいんだよね、朱里ちゃん!)

 劉備にはこの作戦の勝算が正確にはわからなかった。ただ軍師が提言し、最も信頼する関羽が任せろと言って飛び出した。自分がどうこう悩む段階は過ぎたのだ。

「劉備!」

「わわっ!」

 肩を強引に掴まれ劉備は驚き落馬しかけた。敵、と思わず死を覚悟する。だが振り返った先には敵ではなく予想外の人物がいた。

「あ、貴女は」

「曹孟徳。先ほどの会議にいたわ」

 確かに先ほどの会議の場にいた、見覚えがある。劉備は気圧され、息を呑んだ。小柄な少女だ。諸葛亮と似たような金の髪をしているが、より鮮明で濃い色をしている。だがそれ以上に力強い眼力が印象強かった。その瞳に劉備は憧れと畏れを同時に抱いた。山に住まう、尊い、孤高の獣を見た時のような厳かな気持ちになった。

「りゅ、劉玄徳です」

「先程は見事」

「あ、はい」

「……どこへ向かっている」

「せ、先頭です」

「理由は?」

 信用できるのか、話していいのか、敵ではないのか、勝手に決めていいのか、けれど誰に聞けばいい――劉備はもう一度曹操の目を見た。劉備はその目に宿った意志の力がやはり恐ろしかったが、果てしのない地平のように真っ直ぐである、とも思った。

「……袁紹さんを助けるためです」

「麗羽を……袁紹をまだ助けられると思っているの?」

「は、はい」

「どうする?」

 会話の間がない。劉備は目の前の少女が自分の数倍も知と理に富むことを痛烈に思い悟った。情報と意図を取捨する精度が尋常のそれではないのだ。いつも諸葛亮は理解の遅い自分を慮って丁寧に説明をしてくれるが、曹操にはその様子が一切ない。だが逼迫している状況では当然曹操が正しいのもわかった。劉備は懸命に考え、そして答えた。

「……嘘を吐くんです」

 それで全てを理解したとばかりに、フッ、と曹操が笑った――この笑顔を劉備は戦慄と共に生涯の記憶として残すことになる。

 

 

 

 

 

 

 

 顔良は唇を噛んだ。

 他愛もない敵だと思っていた。大兵力に屈するものと思っていた。だが敵は挑み、謀り、横から背中から剣を閃かせた――死屍累々。黄金鎧を誇らしく飾り立て威容を誇った袁紹軍は、主の号令一下死地へと突入し、見るも無残に屍を曝露していた。濛々たる血煙が祀水関を曇らせている――

「後方! 敵騎馬隊追ってきます! ……敵将、張遼!」

「殿軍は何してる!」

「とっくに崩壊しました! 友軍は既に指揮統率が取れていません!」

 まともな知らせなど何一つ入ってこない。袁紹は最早馬の首にしがみつくことしかできていない。それを見ながら顔良は既に罪の念に冒されていた。落ち着いて考えれば罠だとすぐに分かったはずだ、子供の悪戯のような最低最悪の罠にかかってしまった。

「……張遼隊、さらに接近! もう間近です! このままでは追いつかれる!」

 その報告に顔良は決断した。自らの得物である金光鉄槌を固く握りしめる。ここが自分の死に場所だと思い定めた。勝てないまでも時間稼ぎをする。袁紹を逃がすのだ――

「斗詩、順番間違えちゃダメだぜ」

 飛び出そうとした顔良を掴んだのは文醜だった。

「文ちゃん?」

「このまま逃げたってダメだ、兵を立てなおさなきゃな。じゃあ当然斗詩は残らなきゃいけないだろ……あたいよりしっかり者なんだからさ」

 顔良は正気を疑った。そんな真っ青な顔をしてこの人は一体何を言っている?

 うつ伏せになって馬の首にしがみついているばかりだった袁紹までもがハッと顔を上げた。

「お、お待ちなさい! 一体何を」

「もうこれしかないんだ、姫」

「……何言ってるの、文ちゃん。ダメだよ」

「麗羽様を頼んだぜ」

 袁紹と顔良の反論は待たなかった。

「いっけえ!」

 文醜は自身の武器である大剣「斬山刀」の腹で袁紹と顔良の馬の尻を叩いた。一瞬棹立ちになり馬は死に物狂いで走り始める。顔良は後ろを見て手を伸ばしたが、文醜の手首は遠かった。文醜は笑っていた。笑って手を振っていた。

「……が、柄にもないことをするなぁあ!」

 顔良も袁紹も暴れ馬のように走りだした愛馬から振り落とされないよう、手綱と首に必死にしがみついた。あとは泣き叫び、祈ることしかもう出来ることは残っていなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「へっへっへぇ、やっちまった……」

 ポリポリ、と文醜は自分の頭をかいた。こんな貧乏くじを引くようなやつじゃなかったんだけどなぁ、と。

 大声を上げながら周りの兵を集めた。逃げ遅れた兵が精々千人、おざなりの陣列を組んだ。怪我して逃げきれなかった者が大半だった。ただで死ぬより一矢報いてやるというくたばり損ないばかりであった――上等だぜ、と文醜は思った。

 前方に砂塵が見える。それは見る見る近づき文醜の前で停止した。怪我だらけとはいえ千人の陣は中々のものだ。李岳軍も急ぐだけ急いでいるので陣形なんてない、数としては同数だろう。

 先頭の女……張遼が前に一歩出てきて言った。

「時間が惜しいねん。お前、そこどけや。命だけは助けたるさかいな」

 顔についた血を拳の甲で拭い、それをぺろりと舐めながら張遼は冷たい瞳で文醜に宣告した。まるで格下の雑兵を見るような視線である。

「へっ、へへへ。笑っちまうぜ……」

 だがそれだけで文醜は飲まれてしまった。確かにあの女に比べれば自分は雑兵扱いだ。力量に歴然たる差があることが一瞬でわかった。もちろんただの兵よりは強いが、くぐってきた修羅場が違う。あいつに比べれば雑兵との差は、蟻とカマキリくらいしかないだろう。

「……う」

「はよせえよ。三つだけ数えたるからな……三」

 

 ――あ、ダメだ。死んだ。なんだよこの化け物。鬼じゃん。絶対同じ人間なんかじゃないって。見ろよあの口元、牙生えてるじゃん。フゥフゥ言ってるけど湯気出てるじゃん。おかしいって。頭のてっぺんから爪先まで真っ赤じゃん。やっべ、アレ返り血じゃん。何人殺したらああなるんだよ信じらんねえ。待て待て、無理無理。勝てるわけねえって。時間稼ぎにすらなんないよ。そもそも、あたい姫に対してこんな絵に描いたような忠誠心あったっけ。このまま戦ったらあれだぜ、忠臣文醜、祀水関に散るってやつ。かっけぇ。歴史に残るなこりゃ。つか柄じゃねぇ。謝ろう謝ろう、今なら遅くないって。ほら、三でしょまだ? 二のうちにいっとこ。ね、いっとこ。ごめんっていっとこ。つか、死んだらもう腹いっぱい食べれないわけで、そんなのないない、全然ないっしょ。死んだら元も子もないよ命惜しいよ痛い思いなんて絶対したくないっつーの……

 

 ――猪々子さん、何してるんですの? ほら、仕事なんて後回しでいいじゃないですの、お風呂入りましょ? そして美味しいご飯を食べるのですわ。楽しみね。

 

「うるっせえ」

「……あ?」

 文醜は叫んだ。

「うるっせえんだよ、このアホがぁ! 道を開けろとか調子こいてお願いしてんじゃねえボケナス! バッカじゃねぇの!? 見下す相手間違えてんじゃねえぞ、テメエはここで死ぬんだよ! あたいが袁紹軍最強の将、文醜だ! かかってこいやコラぁ!」

 忠誠心ではない、あんな人、君主としてはこれっぽっちも尊敬なんかしていないのだから。

 友達だからだ。君主と臣下だが友達だから、袁紹を守るし、当然顔良も守る。

 鬼? 化け物? かかってこい……文醜は人生で初めて覚悟を決めた。生き延びるという覚悟だ。絶対に死なない、生きて戻りもう一度袁紹と顔良と馬鹿騒ぎをする! 

 文醜の放った啖呵は逃げ惑う袁紹軍の残兵の耳朶を強かに叩いた。我先に逃げ惑っていた兵たちの足が止まる。死を覚悟して、半ばやけくそで残っていた者達の目に光が戻る。

 張遼は文醜の声が何度も反響し、木霊し尽くすのを待ってから答えた。

「すまん。うち、アンタを舐めとった。ええ覚悟や。うちは張遼、アンタを侮辱したことを詫びるわ」

 ギシリ、と大刀を掲げる。

「文醜やな、名前は覚えとくで」

 歩を進める。

「散れ」

 偃月刀は、紅い閃光をまとって文醜に迫った。文醜は反応できなかった。力量の差は彼女が想像していた以上だった。一合さえ防げない。へへ、と文醜は口の端を歪めて謝った。時間稼ぎにもなんなかったよ斗詩、ごめん。あばよ――

 ギィン、という音が祀水関前の崖に響いた。兵たちは文醜の首が舞ったと思った。目をそらし唇を噛み、見たくもない現実から逃れようとした。

 静かな時が流れた。悲鳴はない。文醜には傷ひとつなかった。

 張遼の一撃は阻まれていた。

 文醜ではない。彼女は微動だにできずに歯を食いしばったまま失神していた。

 鏡写しのような偃月刀がそこにはあった。

 張遼の渾身の斬撃を完全に受け止めきってびくともせず。風が吹き、その遣い手の髪がサラサラと揺れる。張遼隊の動きが止まった。無傷の敵兵が突如湧き出るように現れ、天下無双と信じる隊長の刃が受け止められている。

 張遼は全身から熱気を溢れさせたまま問いただした。

「……何者や」

「関雲長、推参――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――張遼の右翼側より突撃を敢行していた華雄もまた、その大斧を受け止められていた。

 

「貴様……」

 信じられない思いに華雄は目眩さえした。舐めてかかったわけではない。確かな覇気を嗅ぎとったが故に渾身の一撃を打ち込んだのだ。それが異様な手応えを食い、斧は一寸さえ進まない。

「お前の相手は鈴々なのだ!」

 武神豪撃――立ちはだかった瞬間全力の一撃を放ったが、立ちはだかった小柄な障壁は何のこともないように受け止めてしまった。八尺に至らんとする長柄の武器が震えさえしない。

「こっから先は通さないのだ!」

「なんだと小僧……」

「小僧じゃないのだ、鈴々は張飛でれっきとした女の子なのだ! どっちかというと小娘なのだ……って、子供扱いするなー!」

 キャイキャイ、と幼い怒りを示しながら少女は武器を振り回す。あれほどの長尺であれば重量もかなりのはずがまるで童子の玩具か小枝のよう。

 じっとりと湿った手のひらを華雄は見咎められないように拭った。

「ふざけたやつめ……この華雄を止められるとでも思っているのか?」

「あっははは」

 少女は腹を抱えて笑った。笑いが続く程に少女から圧力が増す。頭髪の毛先が気合で逆立っているように見えた。

「もちろん止めるのだ……姓は張、名は飛! 字は翼徳! 人呼んで燕人張飛、ここにあり! 八尺蛇矛の輝き、刮目して見よ! なのだ!」

 洛陽で激突した魔人・太史慈を彷彿とさせる圧力を感じ取り、華雄は歯を食いしばった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 関羽、張飛、趙雲を先行させた。間に合ったかどうかはわからないし状況も読めない。だが袁の旗は確かにはためいてこちらに向かっている。袁紹は生きている。

 劉備は手勢を率いて逃走中の本陣に向かった。無残な有様に言葉もない。あれほどの威容を誇った袁紹軍が既に原型を留めない程に八つ裂きにされていた。

「道を開けてください! 援軍です! 劉玄徳です! 本陣より追って来ました!」

 友軍の証を示し殿軍にもぐりこんだ。信じられない程少ない兵にしか袁紹は守られていなかった。顔が青ざめていくのを堪えて劉備は中央に駆け寄った。

「袁紹さん! 大丈夫ですか!?」

 袁紹は首にしがみつき、涙にまみれていた。よほど恐ろしい目に遭ったとしか思えない無残な姿であった。

「あ、貴女は」

「状況を教えて下さい!」

「うっ、うっ……その、その」

「……伏兵ですね」

 全ては諸葛亮の予想通りだった。やはり先制攻撃をしてきた李岳軍は囮だったのだ。追撃に出た部隊を伏兵で騙し討つための餌。しかし防衛軍の総大将が囮になるだなんて誰が考えるだろう。いや、囮だとわかっても彼を倒せば勝利なのだと思えば追わずにはいられない。劉備は自分の背中にびっしりと鳥肌が立つのを感じた。

 袁紹の隣に控えていた黒い短髪の将が言葉を続けた。

「ご、五回襲って来ました……左右からです。砦の二里半手前でした」

「貴女は」

「申し遅れました、顔良と申します……」

「劉備です。ご無事で良かった」

「あ、あの! 文ちゃんが! ぶ、文醜将軍が私たちを逃がすために、一人残ったんです! 助けて、助けて下さい!」

 顔良の声に、ハッと我に帰った袁紹が劉備の腕を掴んでしがみつきながら叫んだ。

「猪々子さんを、猪々子さんを助けてくださいまし! 猪々子さんは、私を助けるために一人残って……! お願いよ!」

「必ず。だって、友達なんですよね、私たち」

 友達になってさしあげてもよろしくてよ――先ほどの会議で袁紹が放った言葉だった。深く考えたわけではない。だがそのような戯言めいた一言のために、ここまで助けに来てくれたというのだろうか――袁紹は再び目に涙が浮かぶのをこらえきれなかった。

「……あ、貴女」

「桃の香りと書いて、桃香です」

「れ、麗羽です、わ……」

「綺麗な真名……大丈夫、また飛べるから。生きて帰りましょうね」

 劉備は袁紹の頬をそっと撫でると、手を上げて離れた。手勢の五千を連れて最前線へ。間に合え、間に合え、と劉備は心の中で祈り続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「信じらんねぇ、張遼も華雄も人じゃないってくらいの猛者ですぜ?」

 廖化の言葉にふぅ、と溜息を吐いたのは趙雲である。

「全く、羨ましい勝負をする」

「何者ですかい」

「長髪の方が関羽、小柄な方が張飛。共に英雄と言える程の実力者だ」

 関羽と張遼が幾度も閃光を帯びて、激突と交差を繰り返す動の戦いなら、張飛と華雄はただの一歩も動かず渾身の一撃をぶつけあう静の戦いと言えた。廖化は呆れて薄ら笑いを浮かべた、全く人外ってのはいるものだ、と。

「あんたがそんなに褒めるってんだから、そうなんだろうね。『常山の趙子龍』とどちらが強いんで?」

「さぁな。どちらかが死なねばならないだろう」

 冗談の響きではなかった。

「いるもんなんですなぁ、化け物ってやつぁ」

「可憐な乙女に失礼なことをいう。傷つくではないか」

「よくいうぜ」

 二人は旧知であり、双方敵陣営にわかれているとはいえ出会った瞬間に刃を向け合うというのもそぐわなかった。だがそれでもお互い譲れないものがる。戦況はどちらに天秤が傾くかまだわからない。追いつけると踏んだ袁紹の背中は再び離れ目に見えない。だがここを突破すれば最速の張遼隊なら届くはずだとも思える。

 その追撃を阻止しているのがわずか数百の援軍だった。それも恐ろしい技倆を誇る紛うことなき英雄と呼べる猛者達――

「で、どうするんで」

「さあ、それはそちら次第だな」

「公孫賛は本気で李岳の旦那とやるつもりなんですかい?」

「それも、そちら次第となる」

「……困ったもんだ」

 廖化とて趙雲と矛を交えようとは思わなかった。勝てる相手ではないと見切っている。死地に飛び込むにはあまりに分の悪い賭けだ。

「話せぬか?」

 李岳と、ということだろう。廖化は趙雲の目を見たが、その目には素朴な願いしか読み取れなかった。心底敵対しているわけではない、ということがわかる。李岳本人から公孫賛への対応はまだ廖化自身聞けてはいない。話し合う場を設けるというのは必要なことなのかもしれない。

「難しいかな?」

「いや」

「そうか……今しかないのだがな。切羽つまってもいる」

 うーん、と趙雲は天を見上げて何かを推し量った。日の傾き、と廖化は見抜いた。趙雲はニヤリと笑みを浮かべて廖化に告げた。

「そちらもそろそろ決めた方がよいぞ?」

 廖化もまた傾きを測っていた。

「いや、決めるのは俺じゃない」

 そう言って後ろを見た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――張遼はふと涙を流したくなった。

 

 目の前、関雲長と名乗った女の武者振りの見事なこと――張遼は芸術を解さない。詩も絵もわからない。だがあの女は絵であり歌だった。詩であり踊りであった――才能、努力、誇り、夢、苦難と希望、それらを全て合わせたものを生き様と呼ぶのなら、張遼は未だかつてこれほどに純粋な人を見たことがなかった。

 既に五合打ち合っている。並の五合ではない、いずれも張遼が発揮しうる最大の技をぶつけていた。しかし関羽はその全てを受けきり平然とこちらを睨みつけている。丁原以外には見切られることのなかった技である。いや、今や全盛期の丁原さえ超えたという自負を張遼は持っていた。つまり目の前の女は、今まで出会った誰よりも強いということになる。

「ああもう、なんちゅうこっちゃ」

 武に全てを捧げた揺るぎなき結晶が目の前にいた。張遼はゴクリと唾を飲み込んだ。構えただけで全てがわかるものもある。張遼の心が打ち震え、あわや本当に涙がこぼれんばかりに目頭が熱くなった。

 お前に会うために生きてきた――そう断言できる程の衝撃。武芸者としての魂が、かつてないほどに熱く滾った。

「うちは張遼……張文遠……」

「今日でその勇名も仕舞いだな」

「これ以上……嬉しがらせんなや!」

 すまん冬至、と張遼は内心少年に謝罪した。袁紹討つべしの気持ちも気遣う心も変わらない。ただ、それを慮っていては目の前の女には勝てない。今だけは全てを忘れさせてくれ、と。

 張遼は構え、息を整えた。貴様に全身全霊を捧げよう――

 張遼は馬腹を蹴り猛然と突っ込んだ。大刀を右に下げている、それを振り上げた。最速の一撃だった。放っておけば馬ごと関羽を股裂きにしてしまう一撃。

 それを関羽は受け止める。そしてすかさず返す刀で張遼の首を狙ってきた。剛力にて瞬速。受け止めたが風圧だけで張遼の後ろ髪が螺旋の旋毛を描いて巻き上がる。髪留めが弾け飛び張遼はざんばらの髪を振り乱し、笑った。

 膂力では敵わない。拮抗を嫌い柄をはすに添えて力を流す。張遼は馬上より飛び上がり半回転した。体に巻き付けるようにして偃月刀を関羽の首に放った。虚を突いた一撃――

 手応えはなかった。関羽は馬首ごとしゃがみこみ全くの死角から飛び込んできた攻撃をあっさりとかわし切っている。

 既に二人とも馬上ではない。張遼は腰を下げて堪えがたい笑いを漏らし続けた。関羽もまた笑っている。彼女もまた余裕綽々ではなく、張遼との限界を競い合う武技の衝突に愉悦を覚えているのがよく理解できた。

「真名、どや」

「よかろう」

「霞や」

「愛紗だ」

「綺麗やな」

「貴様もな、霞」

 刹那、交差した。張遼の雄叫びと関羽の気合が調和し音律となる。それを幾十の戟音が不協させる。速さでは張遼、力で関羽、技では伯仲。全てを出せ、と張遼は念じた。目の前が真っ赤になり、続いて白く霞んでいった。世界には既に関羽一人。その黒い流星のような姿だけが張遼の全てになった。

 切っ先が触れ合う度に火花が舞い散り、チリチリと肌を焦がす。関羽が宙を舞い、偃月刀を真っ直ぐ張遼の喉元に向けて突っ込んできた。そんな技も持っているのか、と張遼は感謝した。張遼もまた刃を上向け突き上げる。下半身の筋肉が音を立てて引きちぎれてしまうのが聞こえたが、勝負の代償としては限りなく安い。

 激突が今度こそ張遼の視界を真っ赤に曇らせた。流血は己のものだった。もんどり打ち、地を転がりまわって立ち上がる。肩が裂けていた。左肩が上がらない。だが右腕だけで脇に柄を差し込めばまだ武器を支持出来る。

「まだ、いけるで」

「ああ、私もだ」

 関羽もまた左腕がだらりと垂れていた。二の腕が真っ赤に染まり指先から垂れ落ちている。全てにおいて五分。

 これより先は死闘だ。それを関羽も張遼も理解した。どっちが先にくたばるか、五体満足で勝てる相手ではない。首だけになっても生き残ったほうが勝つのだ。相手の首を噛みちぎればそれでよい。

 気合が充実し、沸々と体温が上がっていくのを感じる。関羽も呼吸で自らの気を整えている。

 次の一撃で全てが決まる。無傷の勝利とはならない、それほどの差はない。だが勝てばいい。勝てば、武人としての最高の名誉が手に入るのだ――天下の英雄、生涯の宿敵に勝ったという最高の誉れが。

 じりじりと距離を狭めようと足に力を入れた。何もないはずの両者の狭間に密度の高い圧力を覚える。窒息しそうなほどに濃密な死合の間に張遼と関羽が最後の一歩を踏み入れようとした時だった。

「そこまで」

「そこまでです!」

 

 ――その声、双方の旗がたなびくのと同時であった。劉と李。戦場にて相まみえる。


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