真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第五十八話 血肉を満たせ、我らは餓狼の李岳軍

「河南尹である――」

 名乗りは大地に響いた。

 李岳、という声が陣のあちこちから聞こえた。敵の総大将が、寡兵で、本陣に奇襲をかけているのだ。夢でも見ているのかという者さえいるだろう。偽物だという声もあったが、目の前の人間が李岳本人だという事実を曹操が自身に欺瞞できるはずもなかった。

「陳留王殿下! 陳留王殿下はいずこか!」

 

 ――陳留王殿下はいずこ! と敵軍の全員が唱和した。まるで何かの儀式のように三度までも繰り返した。陳留王殿下はいずこ、陳留王殿下はいずこ!

 

 曹操は馬腹を蹴って飛び出した。くだらない戯言で連合を混乱させるつもりか、その手は食わないと。慌てて追随してくる夏侯惇と夏侯淵だったが、曹操はギリギリの距離を保ちながらも真正面に立つ。李岳がおお、と手を上げた。

「おお、これは曹孟徳殿! 久しいですね!」

「李岳、洛陽以来ね」

「ご健勝で何より。しかしまぁ邪魔してくれましたね、よくよく出しゃばりな方だ。兵糧は十分に焼かせて頂きましたが」

 ニコリと笑う。この男の笑顔が、曹操はいけ好かなかった。

「貴方こそ、のこのことこんな所に出張ってきて、洛陽に引きこもっていればいいものを……血迷ったのかしら?」

「血迷う? 陳留王殿下をお救いするためならどこだろうと出向きますよ。貴方こそ恥ずかしくはないのですか」

 黒剣を真っ直ぐ曹操に突き出しながら李岳は再び笑った。夏侯惇が切れている、飛び出そうとしたのを曹操は片手で制した。

「劉岱に劉遙、そして袁紹の小間使いとして行く道を掃き清めるのが貴方の誇りなのですか? 洛陽は平穏ですよ、貴方たちさえ来なければね。余計なことは考えず領地の安寧を考えてはどうです? 同じく小間使いをするのなら民のために畑の一つでも耕すほうが天下のためというものです」

「この曹孟徳を愚弄するか!」

「王殿下を傀儡として担ぎだした逆賊風情が何を言う!」

 李岳は自らの得物を高々と掲げ、そして再び全軍に向かって叫んだ。

「陳留王殿下をかどわかし、高貴な血を侵さんとする逆賊ども! 貴様らがいくら連合などと群れたところで逆賊は逆賊、盗人に毛が生えた程度のものでしかないぞ!」

 その声に、陣のあちこちから怒号が返された。舐めるな、盗人は貴様だ、天を私した不届き者……だがその言葉のなんと空虚なこと。李岳はこんなに愉快な戯言はないとばかり、ハハハ、と高笑いを響かせて身を翻した。

「それだけの徒党を組んで陣に引きこもる他ない者が何を言ってもただの笑い話だ! 今この私にかかっても来れない分際で洛陽に剣を向けるとは笑止千万! 天下を乱し帝に歯向かう愚か者どもめ! 逆賊の末路は死しかないぞ、それを忘れるな!」

 そして一顧だにせずに走り去ろうと馬腹を蹴った。コーン、といななきを上げて馬が走りだす。初戦はこれで仕舞いだ、とばかり。

「ちょ、挑発です!」

 荀彧(ジュンイク)が駆け寄ってきて叫んだ。

「あれは挑発です! みすみす乗ってはなりません!」

「わかっているわ、落ち着きなさい」

 だが曹操の内心は怒りで煮えくり返っていた。挑発だろう、間違いなく。だがその指摘はあまりに正鵠を射ていたがために、なおさら曹操の怒りに火が付いた。罠? よろしい。ならばそれごと踏み潰してくれようか――そう思った時、曹操の背後から巨大な気配が身じろぎした。

「袁紹軍、動きます!」

 本陣の中央から、まるで巨像が眠りから醒めたように大軍が蠢き始めた。黄金の煌めきも眩しき袁紹軍の鎧。中央には『袁』の旗が堂々と翻っている。ようやくというような初動の遅さだが、一度動き始めたらもはや止まることなど不可能だ、というほどの重厚さでもある。

「おーっほっほっほ! のこのこ巣穴から這い出てきたあのお馬鹿さんを、ここで仕留めない手はありませんわ! 全軍、出撃です! 連合の盟主であるこの袁! 本! 初! が、直々に叩き潰して差し上げますわ!」

 巨像は雄叫びを挙げて走りはじめた。前にいる連合の他軍を邪魔だとばかりに押しのけながら李岳の後を追い始める。

「ここで李岳さんを仕留めた方は最大の戦功を約束しますわ! 群雄の皆さんも精々頑張ってくださいまし!」

 袁紹の言葉に何本もの旗が追随するように動き始めた。出陣、李岳を追え――合言葉を連呼しながら追う者は皆一目散だった。

「桂花、罠の可能性はどれほどかしら」

「十中八九」

 曹操は同意した。何も考えずに突出してくるとは思えなかった。だが袁紹を止める術はないだろう。むざむざ罠に飲まれに行ったようなものだ。問題は李岳が用意した罠がどれほどのものか、だ。十万以上の軍勢を手玉に取るか、あるいは優勢を演出するためだけの虚仮威しか、それとも乾坤一擲の大博打か――

「行かないのですか!? 私は、我慢なりません」

 夏侯惇がこめかみに青筋を立てていきり立った。武人としての気が充溢しているのか、曹操個人を侮辱されたことが許しがたいのか……後者だろう。控えている夏侯淵もまた目が血走っていた。だが曹操はそれには答えずにしばらく辺りを見回した。耐え切れなくなったように飛び出した軍勢もいくつかいた。袁紹一人に手柄をさらわれてはたまらない、という様子だ。鮑信、王匡が走り出していた。袁術や劉岱などその場にとどまる軍もある。対応はまちまちだった。

 駈け出していく軍旗の中に、見慣れた『張』の旗もある。その先頭にいる張貘が、こちらに気づいて一度馬を寄せてきた。

「京香。行くのね」

「麗羽を見捨てるわけにはいかないでしょう?」

 クスリと笑って張貘はハッ、と馬に気をくれた。白の甲冑が眩しい。そのすぐ後ろを張超が従った。曹操には目もくれなかった。どうにも嫌われているようである。

 束の間考え、曹操は指示を下した。

「出陣する」

「華琳様」

「桂花、罠だというのは理解しているわ。けれどここで手をこまねいているのも得策ではない」

「……御意。ご武運を」

 荀彧(ジュンイク)の体力では速攻の追撃戦にはついてくることができない。必然的に居留守部隊を指揮することになる、曹操は于禁もつけた。

「最速の軽騎兵のみで出る! あるいは敵の伏兵が空になった本陣を狙ってるかもしれないわ、重装歩兵は敵の急襲に備えよ! 指揮は桂花に」

 袁紹は腐っても盟主だ、生き残れそうなら助けてやっても良いだろう。それに李岳の策も見てみたい。

「進軍」

 五千騎が動き出す。夏侯姉妹の号令が轟いた。曹操は先頭に立った。おっとり刀で駆けつけてきた典韋と許褚(キョチョ)が両隣に、夏侯姉妹のすぐ後ろに李典、楽進が続く。

 前方の砂塵を目掛け、曹操は走りだした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 混乱の中、公孫賛と劉備の部隊は集合に束の間手間取った。時を追うごとに混乱に拍車がかかっているのだ、勢いに任せて飛び出した袁紹軍の騒々しさもそれを助長した。だが先ほど到着したばかりでまだ荷解きもしていない幽州勢はまだ落ち着いている方で、他軍に比べればまだまだ身軽であった。

「李岳……あいつが直で来たって? 星、それ本当か」

「ああ。見事に奇襲を受けたようだよ白蓮殿。散々だ、あまりにも脆い」

 公孫賛は『信じられない』と『あいつならやりかねない』という二つの心情を混ぜあわせたような表情を見せた。趙雲もまた似たような心境であろう。

 関羽は追撃に飛び出していく軍勢を眺めながら聞いた。

「連合ではそんなに甚大な被害が出たのか?」

「人死にはそれほどじゃないな。けど物資が滅茶苦茶に焼かれている。開戦前に離脱しなきゃいけない勢力もあるだろう」

 李岳の先制攻撃は強烈な一撃となって連合を震わせた、ということだ。曖昧模糊とした高揚に一瞬にして冷水をかけられた。なし崩しにやってきた者達など、今すぐ帰りたくなっているだろう。

 公孫賛はこめかみを揉みあげながら事態の推移に思いを馳せている。確かに難しい決断になる、その時だった。

「やっ。貴女たちはどうするの?」

 いきなり隣に現れた見慣れぬ女武将が公孫賛の肩を抱いていた。ぎょっとする面々に女は肩をすくめる。

「ちょっとちょっと、さっき名乗ったじゃない。江東の孫策よ」

「ああ、これは失礼。幽州の公孫賛だ……って、びっくりするじゃないか」

「白馬長史が何をおっしゃる……会えて光栄だわ」

「こちらこそ、江東の小覇王に会えるとは思わなかったよ」

「……で、貴方が劉備ね」

「あ、は、はい」

 おどおどと頭を下げた劉備に向かって孫策は虚を突くように聞いた。

「戦争は初めて?」

 ギョッとする劉備を見て、孫策はごめんごめんと肩を叩く。

 鋭い勘をしている、と関羽は孫策という女に警戒心を抱いた。確かに劉備もそれに従う軍勢も、盗賊との小競り合いは経験すれども大規模な戦は初めてだ。己もだ。それを一目で見抜いたというのだろうか。

 このような逼迫した状況でフフフ、と楽しそうに笑っていることをとっても並大抵の胆力ではない。『江東の小覇王』の名は伊達ではないだろう。

「ま、緊張し過ぎないようにね」

「あの、孫策さんは追撃に移るんですか?」

「行きたいけどね――残念ながらそうはいかないのよ」

 策! と声が上がり孫策はあちゃ、と舌をぺろりと出した。褐色の肌も眩しい長髪の女性が孫策を手招きしている。

「古女房が呼んでるから行くわ……ま、お互い精々生き延びましょ」

 それじゃ、と手を上げて孫策は飄々とした様子で慌てふためく人々の間をスルリスルリと軽やかな足取りで消えていった。

 孫策は動かない、江東の小覇王を押しとどめることが出来る人間と言えば荊州南陽の袁術だが、その袁術が動かないということなのか。連合軍は真っ二つだ、姉の袁紹は追い妹は留まる――それぞれを支持する勢力もまた彼女たちの動向に(なら)うだろう。

「わ、私たちはどうすればいいの?」

 不安げな劉備の声に、関羽はしっかりとした声で答えた。

「これは罠に違いないと愚考します」

「わ、罠なのかー?」

 今にも飛び出そうとしていた張飛が、ギギギ、と急に制動をかけられて倒れんばかりになった。

「ああ、鈴々。あの李岳の様子、備えがあると見た。我ら数千とはいえ寡兵。無理は禁物だろう」

「う、うん。私もそう思うよ。さすが愛紗ちゃん」

 劉備が何度も頷いた。公孫賛も異存はない、と頷く。

 異論はないだろう軍師、と関羽は先程から黙っている諸葛亮と鳳統を見た。同意を得られると思った。だが諸葛亮は口元を羽扇で隠したまま、目元を伏せて静かに首を振った。

「罠。ゆえに参りましょう」

「なにっ!?」

「死中に活あり……劉備軍、今ここが飛躍の時に相違なく」

 直後、自らの意図を説明する諸葛亮の策略に、関羽は怖気を催した。しかし同時に興奮している己もいる。武人としての最大の力を発揮できる作戦だった。しかし危険でもある……その危険さが、関羽や張飛の武人魂に火をつけることさえもこの少女にとっては計算ずくなのだろう。

「これが軍師か……」

「ご不満でしょうか」

「いや、楽しい。そこまで読み切りお膳立てされ、奮い立たぬ武人はいないさ」

「白蓮さんはここにとどまって下さい。寡兵であるからこそ可能な作戦なのですし、それに李岳さんの別働隊がやってくるかもしれません。自分を囮にしてもう一度本陣を急襲する、なんてこと、しそうな方ですよね」

「ああ、そういうの大好きなやつだよ……よしわかった、公孫軍はここで陣形を整えて待機しておくさ。ところで一つ嫌な予感があるんだ、質問していいかな?」

「なんでしょう」

「――恋のやつ、どこいった?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 予想を上回る損害に李岳は舌打ちした。一万騎の最速部隊を率いてきた。うち七百程が討ち取られたようだ、負傷者も置き去りにしなければならないのが心苦しい。あれほどの短時間、切迫した状況で兵を立て直し反撃をしかけてくるとは――やはり手強い、と思う。曹操の怒りに満ちたあの表情を思い出し、李岳は背筋を震わせた。

「後方、袁紹軍迫ってきています!」

 伝令が大声を張り上げた。見事に釣れた。袁紹軍他数種類の牙門旗が見て取れる。少なくとも連合の内の半数は追撃に向かってきているだろう。

 まだ速力に余裕はあるのでそれほど追い詰められてはいないが、流石に十万を超える軍勢が追いかけているのだと思うと心中穏やかというわけにもいかない。つかず離れず、追いつけそうで追いつけないという距離を維持するのもまた心臓に悪かった。

「全く、楽はさせてくれないよな……予定通りだけどね。弓騎兵!」

 応、と李岳の右隣の三千が答えた。

「お前たちは何者だ!」

「命知らずのクソ野郎でさ!」

 先頭の男が下卑た冗談を叫び、逃走中だというのに大きな笑いが起こった。野趣あふれる辺境の男たち、女たちである。并州、匈奴に由来を持つ兵達で騎射を行える李岳軍の虎の子である。

「よろしい。それじゃあの丘を越えたあたりで一斉射だ、なるべく必死な様子で行こう」

「泣きべそもかいときますか」

「でも、的は当てろよ」

「それだきゃ得意ですぜ」

 とりあえず逃げているだけでは見え透いている。こちらも損害覚悟で抵抗しなければ真実味は出ないだろう。なるべく、逃げ惑う小動物がなけなしの勇気で歯向かっている様相を演出しよう――李岳は再び自らが先頭となって反転した。事実、最も優れた弓騎兵の一人とは自分自身だからである。

 さあ、象狩りだ――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 袁紹は既に勝勢を確信していた。中軍に居座ったままだが、先鋒に対して加速せよ、加速せよと何度も檄を飛ばす。高笑いさえ我慢しなかった。

「おーっほっほっほっほ! 李岳さん、やはり貴方みたいな脳みそまで筋肉でできてるような人に、洛陽はもったいないのがこれではっきりしましたわ! 我ら皆精兵を従えての連合、それに対してあのような寡兵でのみ当たってくるとは! 全軍、全速前進! このまま一気に祀水関を攻略しますわよ!」

 後詰の二万を残し、袁紹軍六万は猛然と驀進していた。李岳の旗が目印だ。距離二里にも満たない。遮蔽物のない平野である。意気軒昂。時折反転し騎射を行なっているようだが決定打には程遠い、兵力に圧倒的な差があるからだ。

「李岳さんを討ち取った者は勲功第一間違いありませんわ! さあ、みなさん奮起してください!」

 さすがに速力は並ではないが、ここに至るまで、索敵網をかいくぐるために恐らく全速力で駆けたのだろう。そして大軍に向かって突撃を敢行し、火を放ち、曹操軍と張貘軍を向こうに回して戦った。人も馬も疲労が濃いのは間違いない。追いつける、と踏んだ。それも砦の手前二里。絶好の位置だ。李岳を討ち倒し、そのまま要塞を占拠することが出来る。洛陽までの道筋が見えている!

「勝利は近いですわ! 皆さん、攻城戦をせずとも勝てるこの好機、逸することはなくってよ!」

 気勢を上げるために初戦を奇襲で臨んだのだろうが、欲をかきすぎだ。確かに兵糧を燃やされたのは痛いが、総大将を討ち取れば何ほどのことでもない。李岳はすぐに引き返せばよかったのだ。そうすれば追いつくことが出来ずに砦に籠り、気炎を上げて防塞に臨めたろう。

 李岳の背中が見える。道は隘路にさしかかり、森が増えてきた。祀水関近傍の地理である。もう間もなくあの軍勢を追い詰めることができる。開門したと同時に殺到してくれる。そのまま陥落させ、洛陽までひた駆けるのだ。

「もうすぐですわ……」

「麗羽様、ちょっと突出しすぎじゃないかな。他軍が付いてきてないぜ」

 文醜の言葉に袁紹は首を振った。

「みんな、怯えているのですわ。このまま行きますわよ。軍功も全てこの袁本初のものですわ!」

 憮然とした様子で引き下がった文醜を尻目に、袁紹はさらに加速を命じた。李岳の背中は、心なしか近づいているように見える。

 あの男さえいなければ、と袁紹は考えた。あの男さえいなければ、宦官誅滅と皇帝の確保は自分が断行していた。そうなればこれほどまでに天下は乱れず、戦にすらならなかった。名家が行うからこそ支持されるのである。人びとはその血筋に感服し、頭を垂れ、何も言わずとも説得される。辺境から出てきたばかりの武人が自らの身の丈も知らずに跳梁した報いだ。

 いま、その歪みを(ただ)す時が来たのだ――そう、袁紹が考えた時だった。

 

 ――大地が揺れた。

 

 

 

 

 

 

 

 はやるな、と抑えた声で赫昭が言った。周囲に言い聞かせているのでない、今にも飛び出してしまいそうな自分に対してだった。

 馬蹄の音だけが聞こえる。それは徐々に近づき、土煙を上げてとうとう姿を見せた――李岳! 無事だ、と赫昭は拳を握った。だがそのすぐ後ろに金色に輝く軍勢が怒涛のように追撃している。

 はやるな、と赫昭はもう一度言った。手にした短戟を握る手がギリギリと音を立てた。

 目の前を李岳が先頭で駆け抜けた。こっちを向いて欲しかった。そう心で呟いた時、彼はこちらを向いた。李岳と目があった。彼は、コクリとはっきり頷いた。

 赫昭は立ち上がり、全身全霊の絶叫で吠えた。

吶喊(とっかん)――!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 歓声と共に伏兵が飛び出してきた。要塞まで残り二里と半、李岳の背中に手が届くかもしれぬというあたりであった。

「待ち伏せですって!?」

 伏兵は二方向からである。林に忍んでいたか、小癪にも挟み撃ちの格好だ。伝令からの報告が飛ぶ――左右からおよそ五千ずつ。勢い強し。袁紹軍の前衛が嘘のように蹴散らされるのが袁紹の目からもはっきり見えた。完全に不意打ちを決められた格好である。『赫』の旗がたなびいている。『并州の盾』として名を挙げた赫伯道に相違ない。

「敵は李岳将軍の策にはまったぞ! 手心は加えるな! ことごとく討ち取れい!」

 赫昭の短戟が先頭の部隊長を天高く突き上げる瞬間が袁紹の目にもはっきり見えた。

「麗羽様、ここは一度引くべきです!」

 顔良が袁紹の袖を掴み、戦場の音量にかき消されないような耳元で叫んだ。

「けど、もう関は目の前ですのよ! あのような少戦力で」

「敵は備えているのです! これ以上の罠があると見るべきです!」

「……ちっ、引きますわよ!」

 舌打ちして全軍撤退の指示を出す。袁紹軍の旗が翻る。確かに焦る必要はない、落ち着いて対峙すれば結局こちらが勝つのだ、小癪な伏兵からまず血祭りに上げてくれる。一旦引いて落ち着けば大軍の利が生きる。

 

 ――その考えをあざ笑うように、再び喚声が轟いた。反転しようと背を向けた袁紹軍の中腹に、再び地から湧きでたように左右から兵が飛び出したのだった。

 

 鮮やかな『華』の旗が、まさに散華を強要する。

「に、二段目の伏兵ですって!?」

「麗羽様、まずいよ!」

 袁紹軍の動揺が大きくなる。祀水関の前は切り立った崖と林に包まれており、隘路とは言えないまでも狭い。大軍が生きない。そこを急襲されている。再び五千ずつの新手が左右から攻め立てているのだ。各部隊の伝令が悲鳴とともに指示を仰ごうと殺到してきたが処理できる量ではない。

 先頭の華雄は豪の者として名高い。雄叫びを上げて遮二無二突撃してくる様はまるで修羅か鬼神か――袁紹! という華雄の叫び声が本陣まで届いた。華雄は袁紹の首を狙っている!

「袁紹ぉ! そこを動くな! そこを動くなよ、この華雄が真っ二つにしてくれる!」

 袁紹、袁紹――袁紹は自分の命が狙われているという自覚を人生で初めて思い知った。足が震えた。指示を出さねばならないのに喉が震える。このままでは来る、このままでは華雄が来る――

 しかしその華雄に立ちはだかる一本の旗があった。配置が悪いのもあったが総大将を討たせまいと果敢にも立ちはだかった連合の盟友、鮑信である。

 華雄の一撃が鮑信を襲った。キィンという風切り音が届くほどの剛撃である。一撃目を、懸命に後退しながら矛でなんとか受けたが、鮑信の膂力では堪え切れない力量の差が明確にあり、ただの一撃で鮑信の体勢を致命的に崩されてしまった。

「鮑信さん!」

「だめです!」

「放しなさい、斗詩さん!」

 袁紹と共に李岳軍を追走した群雄の一人、鮑信。

 洛陽で出会い気心の知れた仲でもあった。此度も兵をかき集めて袁紹が立つならと参陣してくれたが――刹那、耳をつんざくような悲鳴と、何かが空に舞ったのを袁紹は見た気がした。

「まさか……」

「見るな! いいから撤退だ!」

「え、ええ」

 文醜の声に我に帰った袁紹が反転、撤退を声高に叫ぶ。だが動揺は最早彼女から冷静さえ根こそぎ奪っていた。どうしてこうなった……どうして……

 袁紹軍という『巨像』は遅々として身動きが鈍い。撤退という声が響いたが、次から次へと押し寄せてくる後続にまで指示が行き届かず中々後退することが出来ない。しかし李岳軍という『餓狼』はここぞとばかりに攻め立ててくる。そして次第に、情報は遮断されたままだというのに恐怖だけが明瞭に伝染し始めた。

「お、応戦ですわ! このままではいいようにやられてばかりです!」

「……総員撤退です! 殿(しんがり)は適宜応戦して下さい!」

 袁紹の下知を上手に解釈した顔良が指示を出す。急襲だが、まだ戦列が崩壊したわけではない。時間の猶予はある、と考えた。盾を全面に押し出させた。堅陣を敷き人数をかければ猛攻にも耐えられる。奇襲だが、寡兵には相違ないのだ。焦りこそが死を招く。

 

 ――だが無情にも、そのような顔良の推察をあざ笑うように三度目の銅鑼は鳴った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 胸を貫いた鉄爪を引き抜きながら、李確はにんまりと笑った。眼光がその細い瞳より流れて異様な色彩を帯びる。

「帰りてえのかい?」

 李確の問いかけに袁紹配下の兵は答えない。答えようがなかった。槍を構えて一歩二歩と後退りする。生きて帰りたいに決まっていた。

「テメェでやってきて、怖くなったら帰らせろ……虫がいいぜ。お前ら、董卓様狙ったんだろ?」

 李確の脳裏に董卓の姿が思い浮かぶ。菫色をした少女の可憐な姿が――董卓を殺すだと? その事実が李確の怒りを容易く沸点に到達させた。

「董卓様ぁ、狙うやつぁ、生かしておけねぇなぁ?」

 李確は背を低く構えると、袁紹の黄金兵に突撃した。率いるは歩兵隊と弓兵である。李確が手を上げると露払いの矢数千本が一気に飛来した。その矢が巻き起こした殺傷を李確は見逃さない。両手に構えた鉄爪で狙いすましたように鎧の隙間を貫き通していく。一人、二人……十人二十人! 乱戦は李確の最も得意とするところである。死体を蹴飛ばし怯んだところを背後に回り首をかききる。指揮官を認めるや否や地を這い首を刎ね飛ばした。さらに馬上から馬上へと跳ねまわりながら猿の如く部隊を崩壊へと導いていく。李確のいる所で必ず血の雨が降った。

「俺が李確だ! 董卓様を狙うやつぁ、一等惨たらしく殺してやる!」

 袁紹兵は最早反撃さえ覚束なくなり、武器を放り投げて背を向ける者さえ出始めたが、その醜態が李確の怒りの炎にさらなる油を注ぐことになる。

 

 ――その李確の様子を眺めながら、同時に飛び出した左翼側の郭祀は小さく頷いた。

 

 郭祀は李確との別行動を嫌がったが見るに心配はないようだ。ああなった李確は郭祀でさえ手こずる程で、余程の豪傑が出てこない限りやられることはないだろう。

「お、お前何者だ! 李岳の手下か!」

「あぁん? ああ、わりぃわりぃ。すっかり忘れちまってただ」

 敵兵の声に郭祀は我に帰るとゆらりと構えた。味方の兵が背後でため息を吐くのが聞こえる。

「おめら、笑うなって」

「隊長、真面目にやってください」

「んだなぁ」

「くっ、この卑怯者め、待ち伏せなど」

 袁紹軍の言葉に不真面目極まりなかった郭祀とその部下たちは、ヘラヘラと笑いを浮かべた。卑怯者――郭祀は着流しのまま、呪詛の包帯をまとったまま戦場にいる。その彼女が笑いをこぼすと、まるで死神が顕現したかのような不穏さを感じさせる。

「くっくっく……おめでてぇ奴らだな。笑えらぁな。おめさ、何しにここへ来ただね? 殺し合いだべさ? 首取ったもんが偉いんでねぇか?」

「だったら、テメェをまず殺してやる」

「まんず、無理なこたぁ言わねぇ方がええど」

 やれ、と男が叫んだ。一挙に二十人の兵隊が郭祀一人を目掛けて飛びかかってきた。それをぼんやり眺める郭祀は、呪詛まみれの包帯の奥でくつくつと笑うだけ。

「まんず、みんなとっくに死んどるでな」

 郭祀はくるりと腕を回して姿勢を変えた。彼女が反撃に用いた行動はただその舞のような一動作だけだった。

 

 ――ズッ、という音。直後首が舞う。綺麗に二十。吹き出した血が郭祀の周囲を血の池にする。袁紹軍の悲鳴が崖を叩いて木霊した。

 

 血道を郭祀は進んだ。一歩進むごとに敵兵の悲鳴がうるさく心地よかった。

「そらぁ、お次は誰だ? 石椿が頑張っとるで、おらが怠けるとまんず具合がよくねぇからな――百は首を並べようかい?」

 ヒャヒャヒャヒャ、と郭祀は血に酔い恍惚としながら踊り続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 飛来した矢は何本あったろう。千や二千できくだろうか? 黄金の鎧が容易く貫かれバタバタと倒れていく。『廖』の旗――三度目の銅鑼が鳴った途端、袁紹率いる本陣が丸裸にされていた。

「なんということ」

 思わず曹操は呻いた。十万に及んだ連合軍の追撃部隊が無残にも崩壊している。祀水関に至る道中の、岩肌に囲まれた街道は既に阿鼻叫喚の惨状をこれでもかと晒していた。

 曹操が読んだ通り伏兵が敷かれていた。しかしその規模たるや絶句に値する。

「ひどい……です」

 隣に佇む典韋と許褚が口元を抑えた。小柄であるが百人力の腕力を誇る豪傑であるが、酸鼻を極める地獄絵図に直視耐えられぬと目をそらした。それほど戦場は一方的な様相を呈している――だが、これでまだ終わりではないだろう。

「……来るわね」

 そう呟いた瞬間、四度目の銅鑼が鳴った。『楊』と『徐』の旗が再び左右から飛び出すと、とうとう袁紹軍の中核を吹き飛ばした。ぐぅ、と夏侯惇が呻く。とんでもない惨事になった。曹操軍も手柄欲しさに先頭を駆けていればあの奇襲の中で揉み潰されていたということになる。

 袁紹軍は完全に分断され、千々に乱れて統率も取れない。そして各個に分断され、包囲されながらなぶり殺しにされている。袁紹軍が誇り高き巨像なら、李岳軍は狡猾な餓狼の群れである。もだえ苦しむ巨像の足、尻、腹に四方八方から牙と爪を突き立てて散々な出血を強いている。もはや趨勢は決していると言える。袁紹軍は右も左も失っててんでバラバラに潰走を始めていた。金色の鎧が血煙と恐怖に曇り輝きはどこにもない。そしてそれさえも幕引かんと、五度目の銅鑼が鳴った。

 真打ちとばかりに現れたのは、電光石火もかくやの『張』の旗。『并州の槍』または『神速』と名高い張遼率いる騎馬隊が、逃げ惑う袁紹軍の殿を左右からの挟撃で完全に吹き飛ばした。悲鳴満ちる阿鼻叫喚の坩堝となった汜水関前の原野――張遼軍は殿を蹴散らすと、これで終わりではないとばかりに驀進を開始していた。

「十面埋伏……」

 曹操は血を吐くような厳しい声で呟いた。

 

 ――十面埋伏の計。

 

 それが、李岳本人が囮になることによりおびき出した大軍を始末する料理方法だった。

 二軍を左右に都合五度。計十陣の埋伏策である。しかも精強な并州兵が勢いも強かに飛び出すのだ。まるで狩りをするかのように逃走する袁紹軍を追い回し、背後から槍を突き立て殺しまくっていた。さらに華雄、赫昭、李確に郭祀の軍が合流する――囮として逃げていた李岳軍本隊も反転して合流している。

 本隊合わせて六万の軍が勝勢に乗って猛追しているのだ。袁紹軍は立ち直ることすら出来ない。下手をすれば袁紹本人が首を挙げられかねない。曹操は自身の背中に冷や汗が流れるのを抑えきれなかった。大胆すぎる。李岳は初戦に全てをかけてきた。圧倒的な戦力差を一撃で決しようとしている。自らの死、祀水関の陥落、洛陽と帝――その全てを天秤にかけてこの策を取った。結果、反董卓連合軍が初戦により崩壊しようとしている。

 

 ――名声を得よう。それしか考えていない諸侯に比して、李岳のこの決死の覚悟。

 

 李岳の覚悟の策略を前にして、天下に名だたる名家・汝南袁氏の嫡子、押しも押されもせぬ名士の筆頭である袁本初――その進退が窮まろうとしていた。巨像は既にもがき苦しむことさえできず、解体されて狼の牙で食されるばかりになるのか。

 死ぬか? 麗羽――そう思った時、曹操の右脇を嘘のように鮮やかな緑色の光が駆け抜けた。寡兵である。『劉』の印を先頭に駆け抜ける緑色の閃光だった。


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