『祀水関の戦い』
この時代の戦いを評価する際、李岳と曹操が中原の覇権をかけて激突した最大規模の大会戦――『頴川の戦い』に次いで、後世の史家が最も頭を悩ませる一戦とされている。
李岳軍の動向を時系列に沿って記す。
夏至の二十日前、反董卓連合結成の知らせと檄文が洛陽は皇帝の元に来着。即日召集された御前会議にて連合を反乱軍と認定し、帝は軍権を董卓に委託した。皇甫嵩、及び朱儁両将軍がそれぞれ河南と長安に兵を移し、李岳はその四日後に洛陽を出でる。供回り三十騎に満たぬ寡兵であったとされているので、陳寿は寝耳に水の出陣であったとした。李岳率いる董卓軍の動きは連合軍結成の動きに比べひどく緩慢であり、およそ臨戦態勢というものからは程遠いものであったと。
陳寿の記述では李岳は作戦行動を夏至の吉日に合わせて行なっていたとなっているが、後世ではその見解を否定的に捉える向きが強い。裴松之などは陳寿の見解をおよそ取り上げる必要のないものだと辛辣に叩いたが、その根拠は大別して三つあった。
一つ目。白波谷に駐屯していた軍兵七万の動きがあまりに滑らかであったこと。七万の董卓軍は白波谷に篭城していた二十万人を速やかに河南に移し、食料と住居を与えたのち、李岳の招集に応じて黄河沿いに陣地を定めた。
二つ目。祀水関の戦いにおいて李岳軍が用いた物資が、容易く用意できない程に膨大であったということ。一説では三十万の軍勢が一年でも篭城できる程の兵糧が備蓄されていたとされる。また使用された矢に油、木材なども要塞が常備する量としては異常なほどに莫大であった。
三つ目。李岳の用いた策略が、何の予測も準備もなしに発動させることは不可能だということ。
――裴松之は断言する。李信達は反董卓連合軍の発足を予見し、その準備を着々と進めていた。李信達は全く準備をしていないことを偽装していたに過ぎない、と。連合軍は李岳の欺瞞と擬態をついぞ見抜けなかったのだ。
だが、それでもなお裴松之は李岳さえも批判する。政治的決着を諦め戦闘を誘起したことにより、この後の混乱を招くことになり自らさえも苦境に追い込むことになったのだ、と。
閑話休題。事実として確かなのは、軍は直前まで白波谷を攻め立てており、その後反董卓連合の結成宣言を受けてようやく賊を鎮圧、矢継ぎ早に繰り出された援軍を都度吸収し祀水関に向かったということである。その数七万。対する連合軍は二十万であり、およそ三分の一にしか満たなかった。
夏至の日、白波谷から急遽移動した軍勢は黄河沿いに展開し、李岳によって守備軍として編成された。そして逐次祀水関に入城していくことになる。
――祀水関にて。
廖化と待ち合わせて李岳は祀水関に入った。
「気楽ですなあ、どうにも肝が太いこって。総大将が一番遅くやってくる、というのもね」
「言うなよ廖化。忙しいんだよこう見えても」
李岳の多忙ぶりを最もよく知る男がまたぞろ茶化したが、よく知る間柄だからこそほとんどの軽口が許された。この男がいなければ李岳の戦いはにっちもさっちも行かない。廖化と張燕が作り上げ、鍛え上げた諜報集団『永家の者』はその規模を爆発的に増加させ影響力を及ぼし、李岳の判断に無くてはならないものとなっている。
元は黒山賊が主体の組織であったが、今や彼らは特殊作戦に従事する暗部にのみ限定されており、実際に情報をやり取りしているのはほとんどただの商人として『永家』に仕える人々だ。彼らは訳もわからず仕事のついでとして手紙や情報を届け、そして持ち帰る。ただの人であるがゆえに敵の警戒網に引っかかることもなく、引っかかったとしても何もやましいことはないので問題にはならない。重要な書類は全て暗号が用いられているからであった。
「で、陣容はどんな感じ?」
「ま、上々でしょう」
廖化が先を行く。特に申し合わせがない限りいつもそうしていた。傍から見れば岳は廖化の付き人にしか見えず、余計な茶々を入れられることもなく視察できる。
七万人の兵、全員が関に詰めている。人でごった返していたが芋洗いにはならず整然としている。元白波賊の一万だけが落ち着きなくそわそわしているようであったが、楊奉が上手くまとめるだろう。
不意に岳は、自らの高揚を自覚した。
「少し興奮してるよ、廖化」
「大きな戦を指揮する。悪いことではないでしょう」
「そうかな?」
こんなに多くの人を殺し合いの只中に放り込むというのに、まるで無邪気に、大きな仕事にとりかかるのだとばかりに気持ちを盛り上げている。愚かだな、と岳は笑ってしまいたくなった――これで敗れでもしたら、愚かさは地に堕ちたところでまだ足りまい。
各将の報告を聞く前に、李岳は物資の集積や歩哨の立ち方など見て回った。兵たちはみないい緊張感の中にいるようだ。
見るところを見て回ると、李岳は廖化に言った。
「廖化、草を入れたい。情報もそうだが、陳留王殿下への道筋をなんとか掴んで欲しい」
「承知」
敵軍に諜報部員を送る。言葉にすれば一言だが、その難しさは普通のことではない。だというのに廖化は返答に間を置かなかった。
陳留王の奪還が、敵を全滅させるよりもなお優先するべき軍事目標だと、廖化もよく理解している。
「部隊は絞れますかね?」
「袁紹、袁術、劉岱……そして曹操」
「最低でも四人ずつですな。十人ずつ放ちましょう」
「……ああ」
半分も帰ってこないだろう。全滅するかも知れない。そうなればおかわりとばかりに再び別の人員を送り込むことになる。最も損耗率が高いのは最前線ではない、情報戦従事者だった。
すまない、という言葉は飲み込んだ。決して言ってはならない言葉だった。自分だけが免罪されてしまう言葉だと、岳は唇を噛んで耐えた。
「しかし曹操ですか。あのこまっしゃくれた小娘がそんなに気になるんで?」
「廖化。これより曹孟徳を侮辱する言葉を禁じる」
曹操――その名前だけで鳥肌が立つ思いだ。ましてや彼女と干戈を交えるなどと、悪夢だろう。
李岳は自らの畏れに嘘を吐けなかった。
「彼女は覇王だ。彼女を尊敬し、恐れろ。決して侮ってはならない。連合軍で最も警戒すべきは袁紹でも袁術でもない。曹孟徳だ」
「それほどの人物だと?」
「これより千年経っても、彼女より優れた人間はこの大陸には現れないよ」
本心だった。それに勝とうとしている自分の無謀さには目をつむった。優秀さ以外で勝つ。夢物語かもしれない。夢を見よう、と思っている。その覚悟はもはや容易くは揺るがない。
ひと通り見て回った後に李岳は楼台へ向かったが、議場へ上る入り口には見知った顔があった。張遼と赫昭である。李岳の到着に初めに気付いたのは張遼だった。真っ先に走ってくると李岳の肩を乱暴に抱いた。
「冬至!」
「霞」
張遼の声には熱がこもっていた。戦場の風を忘れかけていた、窒息しそうだった――そういわんばかりの瞳の輝きである。
「何しとったんや。遅刻やで遅刻!」
「ちょっとね」
「なんやなんやぁ? どっかで女とでも会ってたんか?」
「……」
「……当たりかい」
赫昭がズイッと張遼をらしからぬ豪腕で押しのけて前に出た。張遼の肩を握ったその手はまるで万力。
「戦も間近だというのにお忍びで女性と会っていたなどと許されるとお思いですか、ちょっと詳しくお聞かせ願いますか冬至様」
「沙羅怖い」
「怖いとかそういうのどうでもいいですちょっと聞かせてください」
「怖い!」
気圧された李岳は額の汗を拭いながら悪いことなど一つもしてないというのにしどろもどろ……だが、どこかちょっと面白かった。兵法書を盗み読んでたのを咎められて泣きだしていたあの子が、随分と迫力が出てきたものだと。
「……やましいことはしてないのですか?」
「当たり前だろ! こんなクソ忙しい時に……はぁ。別に、いかがわしいことじゃないよ。有望な、とても有力な人材がいて、ちょっと勧誘をね」
「この土壇場で今さら? 下手な新入りやったらいらんで」
「物凄い逸材なんだってば。この人がいれば俺なんかいらない程だよ、願わくばこの場に一緒に来て欲しかった。ま、袖にされたけど……でも望みはある。感触は悪くなかった」
「お忙しいこって」
「ああ、忙しくなる。戦の後は特にね。色々動かすつもりだから、人が居て居過ぎることはない。勧誘相手も、この戦に勝てば来てくれるかもね」
「……ふぅん」
張遼が口元を歪めて不敵に笑う。李岳が、この劣勢と苦境の中でも勝利を疑っておらず、戦後のことを考えて動いていることが愉快だった。
が、全てが得心行くわけではない。後ろの営舎の陰でこちらを覗き込んでいる不貞腐れた少女……李儒をちらりと見てから、張遼は李岳の隣に並んで耳打ちするように言った。
「……なんで雲母にしたんや。詠かねねのどっちかやと思ったんやけど」
――誰を参謀として連れてくるか。今回の人事、それが一番の悩みであった。
参謀は必要である。重要な役割だからこそ、実力と気心の知れるものがよかった、と張遼は不満なのである。その気持ちもわかる、と前置きしてから李岳は応えた。
「詠は洛陽にいてくれないと困る。俺か詠、どっちかは洛陽にいないと政権はすぐ転覆する。一番守らなきゃいけないのは帝、そして月と洛陽だからね。ねねは兵糧担当だけど、仕事山積み。白波谷の残党の面倒も見てもらわなきゃならないし、彼女を中心に行政府をほとんど一からたたき上げることになる。戦場に引っ張りだす余裕はない。いざという時の物資も彼女頼りさ……人がいないんだよ」
軍師が欲しい、というのは李岳の切実な思いでもあった。出陣の直前に、袖にされ続けてきた司馬家を最後の頼みとばかりに訪ねたのもそのような現実があるからだった。
「で、雲母にしたんか」
「疑ってるようだね。別に、無能なら連れてきてない。この戦いに彼女の力がきっと必要になる、と思ってる」
「ほんまか?」
李岳は肩を竦めて歩き出した。
「ま、おいおい分かるさ。俺が言うのもなんだけど時間が惜しい。軍議を始めようか。上に行こう」
李岳の声に従って赫昭が前を案内した。来い来い、と李儒を手招きして長大な階段を登り始める。内心李岳は祀水関の巨大さに舌を巻いた。高さ三丈四尺にまで積み上げられた石の壁が、屹立した岸壁の間を完全に封鎖している。荒野にそびえる巨大な建築は全てを拒む不落の要塞に相違ない。
「……とんでもないな。立派なもんだ」
「ええ。どんな敵でも跳ね返せます。虎牢関も見事ですが、この祀水関とて盤石です」
「そうだね。二十万の敵でも何とかなりそうだ。頼むよ『盾』」
「はっ!」
期待に昂揚し、背筋を伸ばしてしゃちほこ張った赫昭の肩を、李岳は宥めすかすようにポンポンと叩いた。
楼台に上ると、そこには卓があり主だった者が全員揃っていた。華雄に楊奉、徐晃、李確に郭祀。そこに李儒、張遼と赫昭、廖化と李岳を合わせた十人が主な将として対連合戦を戦い抜くことになる。
「やあ、みんな」
片手を挙げ、にこやかに挨拶を放った李岳だが――
「遅い!」
「遅すぎだべ」
「何のんびりしてたんだ大将」
「ご、ごめんなさい遅いですごめんなさい」
「いい加減にしろっス」
「……いやいや、責められすぎだろ俺」
全員に一言ずつ説教を受け、とほほと李岳は天を仰いだ。風通しの良さは組織の美徳にしても、こんなに蔑ろにされる総大将はどこにいるというのだろう? まさか曹操や劉備もこんな感じなのだろうか――河南尹にして対連合軍総指揮官の現着は、このような有様であった。
やれやれ、と上座に席を下ろして李岳はガシガシと頭をかいた。
「ま、遅れたのはごめん。ちょっと色々あったのと、ま、ちゃちな小細工ってのもあってね。さて、状況を報告してもらおうか」
自分が注目され、監視対象になっていることを李岳は十分理解していた。だからこそ滞陣、籠城の準備に一切関わらなかった。指示は出したが、その進捗も全く知らない。
『李岳は連合結成を全く予期できず、なし崩しに防衛の任に就いた』
それを強く印象付けるための工作だったが、李岳麾下の将達を信頼してなければ出来なかったろう。
まずは張遼がハイハーイ、と手を上げて言い始めた。
「兵糧は万端積み込んだで。ねねの手腕のお蔭やな。二年でもいけるで」
「水は?」
「出た! 流石要塞、見事に水源の上にあるねんなあ。ちょっくら失礼して水浴びさせてもろたで。ウヒヒ」
「……見つかったら処罰もんなんだけど」
「見たかったやろ?」
立ち上がると、着流しの胸元を強調しながら報告書を李岳に手渡した。受け取りペシン、とその手の平を打ってみる。
「あちゃ」
「こんな状況で鼻の下伸ばしてどうすんだっての」
今度は一緒に入ろうなー、と締めくくって張遼は着座。続いて赫昭が立ち上がった。軍全体の掌握は彼女に委任していた。
「損耗なし、部隊編成も済んでおります」
「矢は?」
「問題ありません。石、油、木材ともに随時補充してます」
「よろしい。例の堀は?」
「完成しております。時間があまりましたのでもう一列掘りましたが……」
おっ、と李岳は拳を握った。
「お見事! さすがの機転だ、素晴らしいよ。あとで見せて」
「お褒めに預かり恐縮です。ですが献策は徐晃が申し出たものです。ちなみに、彼女は木材の用意においても大活躍でした。華雄殿と二人で裏山を一つハゲさせてしまったのですから。大斧使いの本領発揮といったところで、見ものでしたよ」
「……へぇ」
報告書を渡すと以上、と言って赫昭は腰を下ろした。全員の目が続いて紹介された徐晃に向いた。元白波賊で、現李岳軍赫昭部隊副将である。濃紺の頭巾を頭に被り、背中には華雄以上の巨大な大斧を背負っている。
「あ、あうあぅ! ごめんなさいすみませんごめんなさい!」
「何も申し訳ないことなんてないよ、
「は、はははは、はい! みなさんお優しいです! お頭も……じゃなくて元お頭も優しいです! ごめんなさい! ごめんなさい!」
背中に斧を背負ったまま、ブンブンと頭を上げたり下げたり忙しい。彼方此方から笑いが起こって、それがなおさら徐晃は顔を真っ赤にさせたが李岳は決して笑わなかった。
――姓は徐、名は晃。字は公明。河東郡楊県の人。史実においては曹操を支えた猛将として知られ、その曹操からは孫武、司馬穰苴、周亜夫など史上の伝説的な名将に何度も例えられるほど信用、信頼された人物である。事実生涯においてほとんど負け知らず、華美は気取らず朴訥な人柄でありながら果敢で猛烈な攻撃力を発揮する魏を支えた宿将である。
楊奉の部下として、彼と同じく白波賊より官軍に降ったが、李岳は彼女の名をみるや否や即座に抜擢した。赫昭の下につけ用兵を学ばせているが、いずれ彼女をも凌ぐかもしれない。戦場では片手で大斧を振り回す怪力ぶりを如何なく発揮するが、どこからそんな力が出るんだと頭を傾げるような小柄な少女でもある。馬上でペコペコ謝りながら十人二十人を容易く吹き飛ばすのだからやられる方はやるせないだろう。真名は藍苺。実戦を見てからの決定になるが、李岳は既に彼女を副将ではなく堂々一軍の指揮を任せようと内定していた。
その徐晃がペコペコ、と謝り倒して着座すると、続いて李岳は李確と郭祀を指名した。
「二人はどうだい?」
「問題ねえっス」
「だべ」
李確と郭祀には地理の把握と索敵を命じていた。李確が淡々と報告書を読み上げる。
――この二人が、李岳にとって最も拾いものであった。
白波谷に滞陣中、ある日いきなりやってきた。陳宮の紹介状を携えて仕官させてくれと頼み込んできたのである。『三国志』では悪名高き敗残の将として李岳は覚えていた。董卓配下であり、董卓死後はその遺産を食い散らかすハイエナとして印象深い。
その偏見にとらわれなくてよかった、と地理を説明しだす李確を眺めながら李岳は胸をなでおろした。そもそもこの世界では『董卓』でさえ心優しい少女なのだから、決めつけなどもっての他だった。
李確は張遼相手の演舞でかなりの武芸を発揮した。そして情報の大事さを何度となく指摘しては提案もしてくる。しっかり学べば軍師としての素質もあるのかもしれない、意外な戦略眼の持ち主だった。
郭祀については謎の一言であった。包帯でグルグルに顔を隠して決して素顔は見せないが、その武技は張遼が顔を青ざめさせ本気になるほどのもの――本物なのである。廖化曰く、適性で言うのなら『永家』の指揮官に回して欲しいと断言するほどで、特異な才能の持ち主と言えた。
――史実では董卓麾下として頭角を現し、董卓死後は一時ではあれ天下を手中に収めた人物たち。歴史に名を残す人は善悪さておき何かしら才能の持ち主だ。綺羅星のような英雄が大挙して押し寄せる大戦が間近であるが、人がいないわけではない。完全に運を失ったわけではないのだ、という意味でも李岳には心強かった。
続いて楊奉が報告をした。白波賊出身の兵達は今回防塞戦の肝となる重要な戦力である。その編成について廖化を補佐として元頭領の楊奉に一任している。下手に組み込むより独立した一軍の方が連携は取りやすいだろう、と読んだ。
白波賊を立ち上げた楊奉は黒山賊をかなり尊敬しているようで、楊奉は自分を副将にしてくれと言いはったがそれは却下した。だがいずれは『黒白隊』として特殊部隊としてまとめるのも面白そうだと思う。
楊奉が報告を終えると、李岳は不意に立ち上がり隅っこで気配を押し殺していた李儒を指名した。
「雲母。今回の戦について何か一言頼むよ」
「ふえっ」
「大変な戦になる。その前に、君の考えをみんな知っとくべきだ。君は今回参謀としてこの戦に関わることになる、大事な仲間だからね」
「……やだ」
「だめ」
「うぅ……」
もじもじ、と自分の腕より長い袖をこすり合わせながら、李儒はおずおずと立ち上がると、何度か背後の出口と李岳をチラチラ見比べた……逃げ切れない、と諦めるまでおよそ百を数えた。
「闇からの呼び声に耳を澄ますべき……」
「話があるから聞いて欲しい、って」
李儒語を最も解すのは李岳である。参謀の言葉を総大将が訳す、という摩訶不思議な光景が当たり前のように展開されている。
「我が揺籃とも呼ぶべき約束の地より引き離され、我が魂は風に慟哭している……」
「寂しいからお家に帰りたい……って」
「……し、しかし……ほ、本意ではないが……我が揺籃の平穏を乱すことは許されざること。依り代とは言え、この器を生み出した肉親も……いる」
目元が全く見えない程、李儒の前髪は伸びている。その瞳を誰かに晒したこともない。が、この時李儒はおもむろに袖から紐を取り出すと自らの前髪を横分けにしてそれぞれに結んでしまった。
意外な程に大きな、はっきりとした輝きを放つ黒い瞳が潤んでいた。
「じゃ、邪龍様より預かりし全霊を以って……我は連合軍を防ぐ……つもり。あ、あくまで! 依り代の恩義のためだけど! 魂の真言は帰還を望んで喘いでいるけれど!」
李儒の宣言は、またも聞きなれない言葉ばかりを使われていたが、彼女を不信に思っていた人々の胸にすっと入り込んだ。李岳が信用している理由も一瞬で理解できた。この少女は、この少女なりに戦う理由を持っていたのである。
李儒を最も不信に思っていた張遼は、にんまり笑うと少女のあどけない素顔を覗きこんだ。
「……いや、つーか。雲母……あんた、素顔そんなんやってんな……肌も真っ白や、お人形さんみたいやで」
ここにいる誰よりもはっきりと大きな瞳。怯えと意志を両方抱えたその瞳で、おどおどと周りを見回す様子も愛らしい。徐晃がコクコクコク、と凄い勢いで頭を上下させている。
「うん。かわいいよね。ずっと出しとけばいいのに」
「な、なななん……!?」
「と、とっても可愛いです……」
李岳と徐晃の言葉に顔を真っ赤にさせながら李儒は慌てて二結にしていた髪をほどいてまたも瞳を隠してしまった。あーもったいない、と全員がため息を吐く。
「うううう! とはいえ主! わ、我が運命を勝手に弄んだことは許されん……連合軍もそうだが、とりわけ貴様に対する怒りは有頂天に達した! こうなれば邪竜様より施された封印を解呪し、私の本当の力を見せる他ない……」
「なんや、雲母。お前腕に覚えがあったんか。よっしゃ、ほな冬至より先にうちにかかってきてみ。まずは張文遠が相手や」
「ぬ、抜かしたな……!」
ガタガタと全員が机を移動させ即席の決戦場を仕立てあげた。向かい合い、李儒が呼吸を整え始める。そして左右の手をそれぞれ違った動きで、ゆらゆらと円を描かせ気を溜めこみ始めた。面白い、と張遼は仁王立ちで犬歯を覗かせる。
「後悔してももう遅い……我が秘法に対峙したものは塵一つ残らない……七転八倒!
円の軌道を一点収束。腰を落として両手を合わせて脇腹で溜め込み、そして李儒は絶叫と共に前面に突き出した。
「暗黒邪竜大激怒大爆発波ァ!」
その叫びは轟音と共に巨大な白い力の本流を生み出さなかったし、会議場を粉微塵に吹き飛ばしもしなかった。空がかき曇りもしなかったし、張遼の体を吹き飛ばし全身から血を吹き出させ、まさに宣言通り塵一つ残さない程の残虐さで解体することすら当然なかった。
完全無欠に何もおきなかった。しん、と静まり返った議場で李儒は言い放った。
「ふむ? 精神力が足りなかった、か。命拾いしたな?」
――張遼の動きは早かった。
素早く李儒を簀巻きにすると足を縛り、そのまま城外の欄干に放り出して宙吊りにしてしまった。
うえーん、やだよ高いよひどいよ怖いよぉ――絶叫が聞こえてきたが全員揃って無視した。邪竜様に助けてもらうが良かろうとばかり……と言ったあたりですすり泣く声が聞こえ始めたので、呆れた赫昭が戻してやった。なぜだかいたたまれなくなった李岳が、遠慮がちに華雄を指名した。最後の報告である。
李岳の着任以前は名目上彼女がこの祀水関の守備を任されていることになっている。華雄は黙念と瞳を閉じ腕を組んでいたが、やおら立ち上がると自らの卓を力強く叩いた。
「先に言っておくことがある!」
「何でしょう、華雄殿」
不満だらけだ、と口に出さなくてもはっきりと全員に伝わっていた。流石の猛将、怒ればそれだけで空気が震える。先ほどまでのハチャメチャな雰囲気が一気に引き締まった。
「貴様らは守ればこの戦に勝てると思ってるだろうが、大間違いだからな!」
「華雄殿」
「敵は来たんだ、奴らを倒さねばまた何度でも来るに決まってる、出陣しなくちゃいけないのは道理だ! 私は攻め寄せられたら必ず出陣するからな!」
「華雄殿」
「こんなところで守ってれば勝てるなどという腰抜けは今すぐ帰れ! 将としても失格だ! 私は奴らを絶対に叩き潰す!」
「華雄殿」
「さっきから何だぁ!」
「おっしゃる通りです」
「貴様はいつもそうだ! どうせ私の言うことなど聞くつもりはないのだろう! もういいっ! 私は一人でも貴様らみたいな腰抜けを放ってこの砦から出陣……ん?」
「ですから、おっしゃる通り、と申し上げました」
李岳の言葉に華雄はピタリと動きを止めて、なぜか自分の言葉に賛同してもらったというのに助けを求めるように周りを見渡した。出陣を望み、指揮官がそれを認めた。悪い話ではない。悪い話ではないが……
「ほ、本気で言ってるのか?」
「はい。至極本気です」
「わ、わざわざ砦を出るんだぞ?」
「華雄殿が言ったことですよ?」
「え、あ、うん……」
華雄さんかわいいー、と思わず呟いてしまったのはやはり徐晃だった。幸い華雄には聞こえなかったが、耳に届いていれば照れ隠しにどれほどの大暴れが敢行されたか知れたものではない。
在所なく席に戻った華雄に笑みを浮かべて、李岳は立ち上がった。
「華雄殿は当然気づかれた様子だ。流石です。他に気付いた者は? 今回の戦いの動員兵力、その全兵をここに集めた。この意味がわかる者は?」
「後ろはない、ということです」
答えた赫昭に李岳はそう、と相槌を打った。う、うむ……と華雄が隣で追従している。
「俺達に後詰はない。洛陽への道は祀水関と虎牢関の二段構えで普通なら戦力を分散させるのが一般的だ。けど今回、虎牢関のことは考えない」
「こ、ここ、ここで勝つ……ってことですか?」
すみませんごめんなさい、と続けた徐晃に李岳はやはり頷く。
「ここで勝つ。戦力の逐次投入はしない。全軍でここを防ぎ、勝つ」
李岳は卓の上に近辺の地図を広げ、一点を指さした。酸棗という字が書かれている。
「情報ではあと数日後、この酸棗に敵軍が集結するらしい」
「どこでそんな情報手に入れたんスか?」
「……ん? うん、ま、蛇の道は蛇さ、李確」
歴史、などとは当然言えない。
酸棗から真っ直ぐ祀水関に至る街道を李岳はなぞった。
「敵はきっと油断している。油断すまい油断すまい、と思ってる時点で既に油断しているというのが人の性だ。三倍の人数を揃えている。不意打ちでもある。必ず勝てると踏んでいるだろう。そこを挫く。虎牢関に一兵もいないとあいつらは知らないからね、祀水関で手間取れば手間取るほど焦り、疲れていくはずだ……この後もう一個あるのかよ、と思えばうんざりするだろう」
「騙すのか?」
「ひっかけ、謀り、陥れ、完膚なきまでに叩き潰す――燃えませんか、華雄殿」
「悪どいな、お前……」
「褒め言葉ですよ。そして相手を焦らすためにはまず出鼻を叩く必要がある……先制攻撃です」
「また空城の計ですか?」
聞くが、赫昭はそれはないと断じているようだった。
「いや。敵もこちらの戦い方は分析してるはずだ。雁門関でやったのと同じ手は食わないさ。新手を使う。そして主導権を握る。華雄殿、当然貴女には大活躍してもらいますよ。ただし条件があります」
華雄は訝しげに李岳を見た。こういう語り方をする時、この男に口喧嘩で勝てる気が一切しない。どうせ理詰めで言いくるめられるに違いない――
「……なんだ」
「敵がこちらを侮っているからといって、こちらも敵を侮っていい道理はありませんよね」
「……まあな」
「先制攻撃を成功させたら、次は籠城です。あくまで敵はこちらの三倍。この祀水関の防備を最大限有効活用しなければ一瞬でもみ潰されかねません」
「……うむ」
「敵を討ち滅ぼすために、籠城も使う。そのことはご了解ください」
「……ええい! そんな何度も言うな! わかった、わかった!」
「皆にも言っておく。どんなに優勢でも撤退命令は必ず守ること。私的理由で撤退命令に反せば厳罰に処す。これは絶対だ。いいね? ……さて、それでは作戦を申し伝える」
地図を広げ、李岳は自ら宮廷で上梓した『亜号作戦』第一段階の概要を説明し始めた。八方から覗き込んでいた全員が、見る間に青ざめていく。説明が終わっても、呻き声さえしばらく出なかった……まんず楽しみだべ、と舌なめずりした郭祀の声を待つまで。
――この夜、守備兵に楊奉指揮下の一万を残し、夜陰に紛れて全軍が城塞を出る。『祀水関の戦い』の幕は上がった。後世多くの人に語り継がれ、愛され、手に汗握らせる戦絵巻の幕が……
※タイトルを「祀水関の戦い その一」から「祀水関」に変更しました。